花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

控の一味

2014-12-15 | アート・文化
生け花には、花形の骨格を決める役枝というものがある。流派によって異なるが、所属する華道、大和未生流では、天・地・人の枝である。これを漢方薬の方剤組成に例えれば、「天」の枝は、主となる作用を発揮する薬「君薬」に相当する。天・地・人の基本骨格に、「添」や「控」に当たる枝や花を配伍して花形を膨らませてゆき、ひとつの作品が完成する。「添」が基本的に補足であるのに対し、中心となる天集団が導く方向と勢いを、反対の極みにおいて一身に受けて立つのが「控」の枝である。入れ方は強く短く、その占める位置は一点しかない。この「控」をゆるがせにすると画龍点睛を欠いた花形になる。

太宰治の「富嶽百景」において、「三七七八米の富士の山と立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草はよかった。富士には、月見草がよく似合う」と描かれた月見草は、雄々しい富士に文字通り花を添えるだけの添花なのだろうか。大和未生流に入門して以来、この月見草は富士の存在理由を対極において裏書する「控」の一本ではないかと考える様になった。薬の性格や効能が君薬と相反しているが、これを少量加えることにより君薬の働きを補佐して薬効の発現を助ける薬を「反佐」と呼ぶ。「控」はこの反佐の一味であるとも言える。イチローはかつて、オンリーワンを甘えであると剛毅に喝破した。「控」には、天に背を向けた嘯きがなく、そして天を越えず、天を殺さず、天を受け止めて己が果たすべき職分を守りぬく気骨がある。



時なくぞ雪は降りける

2014-12-15 | 詩歌とともに
み吉野の 耳我の嶺に
時なくぞ 雪は降りける 間なくぞ 雨は降りける
その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如
隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を
     (万葉集 巻1・25)

壬申の乱に勝利した天武天皇が、乱直前の吉野入りを回想なさった御歌である。後世の者がなんと評しようと、その時、この道に踏み入らねばならぬという一つの決断があったのである。踏み込んだからには駆け抜けるしかない。来し方に残し置いた思い、行く末までたずさえてゆく思いは、そのどちらが重いのだろう。絶え間なく、修羅道に降りやまぬ雪。降る雪の中で問われる覚悟は、今も昔も変わりはしない。

市井の草木は夢破れ踏みしだかれようとも、一本の命に止めを刺されることはない。それに比して権力の周辺に生を受けた者はどうだろう。おのれに組する者と組せぬ者が錯綜する、むんむんと湧き上る情念の只中で、乱されることなく歩を測る者だけが生き残る。燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや、天を仰ぐ覇者には覇者の、地を這う我等草木には知るべくもない規範がある。射抜かねばならぬと定めた標的に向かってきりきりと絞られてゆく、贅肉のひとかけらもない行動様式は、時代を越えて非情で美しい。