花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

おごりの春│時分の花

2015-03-26 | アート・文化


風姿花伝第一、年来稽古条々の中では、能役者の一生を七歳から五十有余までの七期に身体年齢で分けて、各々の時期に取るべき心構えが論述されている。このうちの「二十四・五」の段について、華道、大和未生流の須山御家元が年頭の言葉でお話しになった年があった。「二十四・五」の段は元来、欣々向栄の盛りに向かう年頃についての叙述である。御家元はここで述べられている心得が年齢や芸道の種類を超えて通じるものであり、生け花にかかわる我々も心に留めるべき事柄であることを語られた。位より上の上手と思い上がっては、其処でそのまま芸は止まるのである。

この段に書かれた「時分の花」は一瞬の輝きにも似て実にデリケートな花であり、本人にとっても周りからも扱い損じれば危険な花でもある。だがこの当座の花がついぞ咲かなかった寂しき野に、時経てまことの花だけが美しく花開くことはない。移ろいゆくものなど知ったことかと、嘯き肩をそびやかす風姿がいなせに小気味好くはまる時期があり、それは早すぎても遅すぎてもはずれの徒花になる。人生の上り坂におけるクライマーズハイに過ぎぬとも、危うい全能感の足元に底の浅さが透けて見えるとも、年盛りに向かって駆け上る奔馬は下手に矯められてはならず、導く者も伯楽たり得るかとその資質が問われる。

この世に尽きることのない見上げるべきものを見上げて、慎ましい畏敬の念を持つことは言うまでもなく大切ではあるが、それで足が竦んで小さく萎むくらいなら、主も上手と思ひしむるくらいの傲岸さの方が清々しく、驕りの春には一層相応しい。まさに「その子二十櫛に流るる黒髪のおごりの春の美しきかな」である。

《原文》このころ、一期の芸能の定まるはじめなり。さるほどに稽古の堺なり。声もすでに直り、体も定まる時分なり。さればこの道に二つの果報あり。声と身なりけり。これ二つは、この時分に定まるなり。年盛りに向かふ芸能の生じるところなり。
 さるほどによそ目にも、すは、上手出きたりとて、人も目に立つるなり。もと、名人などなれども、当座の花に珍しくして、立合勝負にも一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、主も上手と思ひしむるなり。これ、かえすがえすも主のため仇なり。これもまことの花にはあらず。年の盛りと、見る人の一旦の心の、珍しき花なり。まことの目利きは見分くべし。
 このころの花こそ初心と申すころなるを、窮めたるやうに主の思ひて、はや申楽に側みたる輪説とし、至りたる風体をすること、あさましきことなり。たとひ人も褒め、名人などに勝つとも、これは一旦、珍しき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねを直ぐに為定め、なほ得たらん人に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。されば時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、このころのことなり。
 一、公案して思ふべし。わが位のほどをよくよく心得ぬれば、そのほどの花は、一期失せず。位より上の上手と思へば、もとありつる位の花も失するなり。よくよく心得べし。
  (『新潮日本古典集成 世阿弥芸術論集』、新潮社)

この頃は一生の芸能が決まる最初の時期であり、稽古にあたり心せねばならぬ大事な分かれ目である。声変わりが治まり、身体も落ち着く時期であり、能の道においてこの声と姿が定まることが有利に働く時期である。
 盛りに向かい花開く時期であるから、観客もこれこそ天才降臨やと注目する。名人の域にある人が相手であっても、一時の花がもてはやされて競演で一勝を挙げることがあれば、周りも自らも向かうところ敵なしと鼻息が荒くなる。このような仕儀は当人にとってむしろ害になる。これは真実の花ではなく、単に若盛りを面白がられただけの一時の花であるからだ。観る眼がある人を決して欺くことはできない。
 そしてこの頃の花こそ学び始めの初心と言うべきであるのに、もはや道を窮めたと思い違いをして、わざと外した酔狂や名人気取りの振る舞いをするのは笑止千万である。たとえやんやの喝采を博し名人を凌ぐことがあっても、これは若盛りを迎えるが故の時分の花であると気を引き締めて、従来の型を丁寧に学び、道を会得した人に逐次教えを乞い、これまで以上に稽古に励むべきである。このような訳で、時分の花を取り違える心が、まことの花からその身を一層遠ざけることになる。時分の花はすぐに消えてしまうことを誰も彼もが弁えていない。今一度申すが、初心とはこの頃であるのだ。くれぐれもこの事に留意すべきである。身の程をよくわきまえているならば、身に着けた程度の花は生涯消えることはない。しかし、身の程知らずに思い上るならば、その花さえも早晩失うだろう。しかと心に命じねばならない。(拙訳)






春分の養生

2015-03-21 | 二十四節気の養生


春分(3月21日)は、二十四節気の第四番目の節気である。昼夜の長さが等しくなる頃であり、この後は昼の時間が長くなり、夜が短くなって行く。気候も寒さと暑さの境目にあたり、春の暖かさをより実感できる時節になってくるが、まだまだ寒暖が入り混じり気候が不安定であるから油断は禁物である。人間は自然界の中で生活しており、春夏秋冬の四季の移り変わりは身体に深く影響を与える。冬至には陰が極まって陽が生まれ、春には陽が長じて陰が消えてゆき、夏至には陽が極まり陰が生まれ、秋には陰が長じて陽が消えてゆく。先の「春の養生」で辿った様に、一日もまた四季に喩えると朝は春、日中は夏、日の入りは秋、夜中は冬にあたり、一日の内でも昼は陽、夜は陰として陰陽は変化している。一般に、陽に属するのは動的、外向的、上昇性あるいは温熱性を示すものであり、陰に属するのは静的、内向的、下降性あるいは寒冷なものが挙げられる。体で言えば、上部は陽で下部は陰、背中は陽で腹は陰、体表は陽で体内は陰となる。五臓六腑では、五臓は陰で六腑は陽に分けられる。また機能的側面は陽で、物質的側面は陰であり、興奮は陽で抑制は陰とみなされる。このように身体は、上下左右、内外、表裏や臓器同士で陰陽が分かれていて、これら対立する陰陽の性格を帯びたものが、お互いに影響し合って調和を保ち、生理機能を維持している。自然および人体の生命活動において、陰陽は釣りあったまま動かず固定した状態ではなくて、絶えず流動的な動的平衡を保っているのである。昼夜寒暑を等分に分ける春分の時期における養生の原則は、この陰陽のバランスを保つことにある。陰陽平衡の崩れが生じ、陰陽が偏ったまま消長を遂げなくなると、確実に病気の発症につながってゆく。

散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき     伊勢物語 第八十二段

いのちの芽生たち│春の詩

2015-03-17 | 二十四節気の養生


野原に寝る      萩原朔太郎

この感情の伸びてゆくありさま
まつすぐに伸びてゆく喬木のやうに
いのちの芽生のぐんぐんとのびる。
そこの青空へもせいのびすればとどくやうに
せいも高くなり胸はばもひろくなった。
たいさううららかな春の空気をすひこんで
小鳥たちが喰べものをたべるやうに
愉快で口をひらいてかはゆらしく
どんなにいのちの芽生たちが伸びてゆくことか。
草木は草木でいっせいに
ああ どんなにぐんぐん伸びてゆくことか。
ひろびろとした野原にねころんで
まことに愉快な夢をみつづけた。


春の養生の要諦は、たわむことなく、はじけましょう、はっちゃけましょう、ということに尽きるのではないかと思う。『梁塵秘抄』の一節の「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせむとや生まれけん、遊ぶ子供の聲聞けば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」の心のままにである。詩人は深奥に隠された泉から本質を掬い上げて、言葉というメタファーで季節のイメージを鮮やかに紡ぎだしてみせる。この春に続く夏、秋、冬の季節においても、そのような詩に出会えたらと願っている。

春の養生│春のように生きる

2015-03-08 | 二十四節気の養生


春は立春から雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨までの六節気である。明代、洪自誠の『菜根譚』には次の一節がある。
「学者有段兢業的心思, 又要有段瀟洒的趣味, 若一味斂束清苦, 是有秋殺無春生, 何以発育萬物」
学ぶ者は段の兢業の心思あり。また段の瀟洒の趣味あるを要す。若し一味に斂束清苦ならば、これ秋殺ありて春生なきなり。何を以てか萬物を発育せん。

ここでは、道を学ぶに際しては、己を慎み律してひたすら刻苦勉励だけでは駄目で、ものごとにとらわれない瀟洒超脱、軽妙洒脱な精神が大切であることを述べている。本邦『閑吟集』で歌うところの「何せうぞ、くすんで。」である。落葉凋落の秋殺に終わり、その先の陽光に溢れた春生がなければ、どうして萬物を発生させることが出来ようかと教えている。

まさに春は萬物が生まれ出づる「春生」である。さらに遡る漢代に成立した医学書『黄帝内経』では「春生, 夏長, 秋収, 冬蔵, 是氣之常也, 人亦應之。」(霊枢・順気一日分為四時)と、春は発生、夏は成長、秋は収穫、冬は貯蔵と称され、これが自然のリズムであり、人もこの一年のリズムに順応することが説かれている。「生」、「長」、「収」、「蔵」の四文字で表される四季の属性の中で、春のキーワードは「生」であり、「岩走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」(『万葉集』巻八、春雑歌、志貴皇子)の萌生である。ようやく啓蟄を迎えたこのあたりで、『黄帝内経』を改めて紐解いて春の養生を考えてみたい。

「春三月, 此謂發陳。天地倶生, 萬物以榮, 夜臥早起, 廣歩於庭, 被髪緩形, 以使志生;生而勿殺, 予而勿奪, 賞而勿罰, 此春氣之應, 養生之道也。逆之則傷肝, 夏爲寒變, 奉長者少。」(素問・四気調神大論篇第二) 
春、三月、此れを発陳(はっちん)と謂う。天地、倶に生じ、万物、以て栄ゆ。夜に臥せ、早に起き 広く庭を歩き、被髪して、形を緩るくし、以て志を生ぜしむ。生のうて殺すること勿れ。予えて奪すること勿れ。賞して罰すること勿れ。此れ、春気の応にして、生を養うの道なり。之に逆うときは則ち肝を傷め、夏に寒変を為す、長を奉ける者少なし。

春の三か月は「発陳」と名付けられ、発は展発、陳は陳列の意味である。萬物は新たな命を得て、天地には欣欣向栄の気運が満ち満ちるときである。この時節は何時に寝起きするのがよいだろうか。一日を四季に例えると「以一日分為四時, 朝則為春, 日中為夏, 日入為秋, 夜半為冬。」(霊枢・順気一日分為四時第四十四)と、朝は春、日中は夏、夕方は秋、夜半は冬にあたるとされる。時刻で言えば、子時(23-1時)から卯時(5-7時)が春となり、陽気が生まれ体表の外側に向かう時刻である。午時(11-13時)には陽気が最盛となり、同時に衰える方向に転換する。酉時(17-19時)に至ると陽気が衰微し内側に収斂する時刻となり、陽気は次第に裏陰に内蔵されてゆく。四季の起床と臥床に関しては、春および夏は「夜臥早起」、秋は「早臥早起」、冬が「早臥晩起」と記載されていて、微妙に変化がみてとれる。春においては、陽を養う春・夏に相当する覚醒している時間を長くして、陽気が内に収束する睡眠の時間帯は少なめとするのである。これは決して深夜遅くまで頑張ろうぜという夜更かしのすすめではない。日の出とともに起床、日没とともに休息するという様な電気がなかった頃の生活は、もはや多くの現代人には望むべくもない。しかしながら黄帝内経が成立した漢代から現在までの僅か二千年の間に、その激変した生活環境に問題なく順応できる様に人体が大いなる進化を遂げたとは考えられない。この時期、就寝は遅くとも23時、起床は6時くらいを守りたいものである。

さて、起床の後はどう過ごせば良いのだろうか。春生に相当する朝に庭の散策で身体を動かせば、よりよく陽気を生みだすことになる。春眠暁を覚えずと称して、だらだらと朝寝をむさぼっていては春の養生にならない。さらに心がけるべきは、束ねた髪を解き放ち、ゆったりとした衣を纏うこと。そして生まれ育つものを養い、力を与え、褒め称えるのであり、それを損なったり、奪ったり、貶めたりしてはならぬという教えが続く。おのれに対しても人に対しても、のびやかな心を失ってはいけないのである。これらが春の天地の動態に呼応し萬物発生の力を養う道であり、これに反すれば春に旺盛となる肝の疏泄作用(気の運動・流通、脾胃の消化吸収、および精神、情動機能などの調節を含む)を障害して、夏に寒の病変がおこり成長すべき力が妨げられると戒めの言葉が最後に続く。

この「夏に寒変を為す」で注意喚起されているのは季節病の発症である。『黄帝内経』の別章には以下の記載がある。
「冬傷於寒, 春必温病; 春傷於風, 夏生飧泄; 夏傷於暑, 秋必痎瘧; 秋傷於濕, 冬生咳嗽。」(素問・陰陽応象大論篇第五)
冬、寒に傷られると、春必ず温病となる。春、風に傷られると、夏必ず飧泄を生ず。夏、暑に傷られると、秋痎瘧となる。秋、湿に傷られると、冬咳嗽を生ず。
春の季節に限って文意を辿ってみると、冬に寒邪を受けて春に至って伏寒化熱により生じる、急性熱病である伏気温病の「春温」とともに、上述の様に、春に風邪を受け肝の疏泄が正常でなくなり、脾の昇清機能(消化吸収した栄養物質を昇らせ全身に行き渡らせること)が頓挫した結果の夏の「飧泄」(消化不良による下痢)が述べられている。一般に疾病の発症は内外の環境と密接な関係があり、気象や生活環境を含む外的要因の外に、正気(生命活動を維持し抗病能力を主る基本物質)の充実度や、種々の病的外邪に対する感受性の違いをもたらす体質の違いなどの内的要因があげられる。さらに季節病を考えてゆく上では、病因としてその季節で暴露される因子のみならず、前の季節の内外環境をも考えてゆかねばならない。体内に蓄積、持ち越された熱、寒、水毒や痰飲、瘀血などは、続く季節の疾病発症の内在要因となってゆく。一年の計は春にあり、春の過ごし方がこの一年の健康を保つうえで大変重要なのである。



啓蟄の養生

2015-03-06 | 二十四節気の養生


啓蟄(3月6日)は、二十四節気の第三番目の節気である。春の温暖の気候を感受して、泥土の中で冬ごもりをしていた虫が地上に姿を現す頃である。元来は驚蟄、蟄は蔵の意味で、初雷が轟き、土中の地虫を揺り動かして目覚めさせるのである。野山に各種の有形の虫が蠢き始める頃は、無形の邪毒や病原性微生物も活動を始める時節となる。また内外で陽気が次第に高まってくると、陰陽のバランスのくずれから相対的な陰血不足になりやすい時節でもある。余った陽気が熱を帯びると火と呼ばれ、陽の特性である動が行過ぎた興奮状態となって体内で燃え上がり、不眠、めまい、のぼせ、イライラ感などを引き起こす。また先の冬季に往々にして肉類、辛いもの、酒など熱性の食材をとりすぎると、体内で様々な内火が生まれ易くなる。この際の養生は保陰潜陽、体内の陰血を補い保ち、陽気を偏らせず巡らせて、陰陽の失調を防ぐことにある。23時から3時の時間帯は肝胆の臓腑の機能が最も旺盛になる時期であり、この時間帯に横臥することにより、肝への血液の戻りを高め、肝の解毒作用を経て、また新たに全身に新しい血液を送り出すことができる。遅くまでの読書、TVやPCのモニター、スマホ、タブレットなどを見続けて眼を酷使することは、さらに肝を痛めることになる。これらを早めにシャットダウンして、遅くとも23時になる前には寝床に着かれます様に。

東山はればれとあり地虫出づ      日野草城 青芝