花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

某所にて

2018-10-30 | 日記・エッセイ


大変意義深い内容の御講演が終わった後で、演者の先生が御自ら室外で著書を販売なさる機会に遭遇した時の事である。大勢の購入希望者の中に並び、ようやく待ち望む自分の番が廻って来た。お手間を掛けぬ為に取り出していた御札を、一礼して向こう様から御覧になる向きで揃えてお納めした。すると一呼吸置いた後に、置いたお札の上にお釣りの小銭がぽんと放り投げられた。拝聴した御講演の印象とは異なる有様を前に固まって立ち尽くしていたら、お札はするりと引き抜かれ回収された。御講演と御本の御礼を申し上げて早々にその場を離れた。先様は終始無言であった。礼儀を失することがなき様に心がけたつもりであったが、当方の至らぬ点の不手際で御不興を買ったのだろう。別に今更ぶりっ子をするつもりでないことを申し添えた上で言うが、この歳になるまで後にも先にも眼の前にお金を抛られたのはこれが唯一の経験である。

悠然として南山を見る

2018-10-27 | 詩歌とともに
  飲酒二十首 其五  陶淵明

結盧在人境  盧を結んで人境に在り
而無車馬喧  而も車馬の喧(かまびす)しき無し
問君何能爾  君に問う 何ぞ能く爾(しか)ると
心遠地自偏  心遠ければ地自から偏なり
采菊東籬下  菊を采る東籬の下
悠然見南山  悠然として南山を見る
山氣日夕佳  山気 日夕に佳く
飛鳥相與還  飛鳥 相与(とも)に還る
此中有真意  此の中に真意あり 
欲辨已忘言  弁ぜんと欲して已に言を忘る

人里に庵を結んでいるが車馬の音に乱されることはない。何故ゆえにとお尋ねか。心が俗世にあらねば自ずと此処が遠地になる。東の垣で菊を手折り、悠然と南山(廬山)を眺めて一体となる。山容は夕方が素晴らしく、連れ飛ぶ鳥は巣に還りゆく。この中にこそ大自然の意趣がある。意を得て言を忘る。語ろうとするも言葉などは忘れたよ。



参考資料:
松枝茂夫, 和田武司:「陶淵明全集 上」, 岩波書店, 1990
川合康三編訳:「中国名詩選 上」, 岩波書店, 2015
陶潜著, 龔斌校箋:中国古典文学叢書「陶淵明集校箋」, 上海古籍出版, 2013
金谷治訳注:「荘子」第四冊, 岩波書店, 2012


南山寿色多(なんざんじゅしょくおおし)

2018-10-25 | アート・文化


中国の「南山」は唐代以降、長安(西安)の南東にある終南山の異称である。不老長寿、長生久視の象徴とされ、南山を用いた成語として「南山寿色多」、「南山寿」や「福如東海、寿比南山」、「福如東海長流水、寿比南山不老松」などがある。後者の対聯の意は、福は東海の如く深甚に(東海に流れる水のように永遠に長く)、寿は南山の如く崇高に(南山に生える常盤の松のように変わらず)である。唐代以前、陶淵明の《飲酒二十首》其五に謳われた「採菊東籬下、悠然見南山」の南山は、蒼潤高逸、秀出東南と形容される廬山である。『枕草子』で清少納言が白氏文集の詩中の「香爐峯雪撥簾看」の典故を踏まえた香炉峰は廬山の名峰である。
 本年の「重陽の節句」(旧暦9月9日、新暦10月17日)、別名「菊の節句」から早1週間が経った。本日は頂戴した香り高い菊花を用いて大和未生流の番外稽古に努めてみた。
謹んで皆々様の健康長寿をお祈り申し上げる。

如月之恆  月の恆(ゆみはり)するが如く
如日之升  日の升るが如く
如南山之壽 南山の壽の如く
不騫不崩  騫(か)けず崩れず
如松柏之茂 松柏の茂るが如く
無不爾或承 爾を承くる或らざる無し

月の弓張る如く、日の立ちのぼる如く 南山のゆたけ如く 騫けず崩れず 常盤木(ときはぎ)の常ある如く 君を慕はぬ者とてなし
(小雅・鹿鳴之什 天保│「詩経雅頌」, p62)



参考資料:
白川静訳注:「詩経雅頌」, 平凡社, 1998
萩谷朴校注:新潮日本古典集成「枕草子 下」, 新潮社, 1977
松枝茂夫, 和田武司:「陶淵明全集 上」, 岩波書店, 1990
川合康三編訳:「中国名詩選 上」, 岩波書店, 2015
岡村繁著:新釈漢文大系「白氏文集 三」, 明治書院, 1988




今週も花野巡り

2018-10-20 | 日記・エッセイ


一段と秋めいてきた本日の昼下がり、京都駅から琵琶湖線に乗り込み草津駅に降り立った。伺う先は草津近鉄百貨店で開催中の大和未生流、滋賀支部いけばな展である。流派は同じくとも異なった会場で開かれる華展はいけばなの佇まいがまた違う。ホームグラウンドにおいでの滋賀支部の諸先生方は、華展に携わっておいでの張りつめた雰囲気の中にあるとも、他所でお目にかかる時に比べて和らいだ御顔である。御出瓶の作品は盛花、飾花、投入ともに一筋の緩みもない静かな気迫のあるいけばなであった。
 夕方からはまた耳鼻咽喉科医に戻り、京滋めまいカンファレンス(メルパルク京都)に参加した。末梢性および中枢性めまいに関する一般口演に続いて、白熱する質疑応答、そして今宵も新井基洋先生節が炸裂の特別講演を拝聴して帰宅の途についた。明日は京都府耳鼻咽喉科専門医会秋期研修会に出席予定である。


鑑真大和上と医薬の道

2018-10-18 | 漢方の世界

鑑真大和上東渡│「大和名所圖會三 添下郡、平群郡、廣瀬郡、葛下郡、忍海郡」

下記は医薬に御造詣が深かった鑑真大和上に関する『続日本記』の記述である。留学僧・栄叡の死去を嘆き悲しまれ御眼から光が失われても、経典をそらんじ諸本の誤字を校正なさったことに加えて、薬物の真偽を嗅いで検証するにあたり一つの誤りもなく、光明皇太后が御病気の際に治療にあたられたことなどが記されている。

<書き下し文> 天平宝字七年(七六三年)「五月戊申、大和上鑒真物化す。和上は楊州龍興寺の大徳なり。博く経論に渉り、尤も戒律に精し。江淮の間に独り化主と為り。天宝二載、留学僧栄叡、業行等、和上に白して曰く、「仏法東流して、本国に至れり。その教有りと雖も、人の伝授する無し。幸み願はくは、和上東遊して化を興されむことを。」辞旨懇に至りて諮請息まず。乃ち楊州に船を買ひて海に入る。而るに中途にして風に漂ひて、船打ち破られぬ。和上一心に念仏す。人皆これに頼みて死ぬることを免る。七載に至りて更に復、渡海す。亦、風浪に遭ひて日南に漂着しき。時に栄叡物故す。和上悲しみ泣きて明を失ふ。勝宝四年、本国使適唐に聘えしとき、業行乃ち説くに宿心を以てせり。遂に弟子廿四人と、。副使大伴宿禰古麻呂が船に寄り乗りて帰朝せり。東大寺安置き供養る。時に勅有りて、一切の経論を校正さしめたまふ。往往に誤れる字あり、諸の本皆同じくして、能く正すこと莫し。和上諳に誦して、多く雌黄を下す。又、以諸の薬物を以て真偽を名かしむ。和上一一鼻を以て別つ。一つも錯失ることなし。聖武皇帝、之を師として戒を受けたまふ。皇太后の不悆に及びて、進れる医薬、験有り。位大僧正を授く。俄に綱務煩雑なるを以て、改めて大和上の号を授け、施すに備前国の水田一百町を以てす。又、新田部親王の旧宅を施して戒院とせしむ。今の招提寺是なり。和上、預め終る日を記し、期に至りて端坐して、怡然として遷化す。時に年七十有七。」
(続日本紀 巻第二十四│新日本古典文学大系 続日本紀三)

藤三娘、光明皇太后は聖武天皇崩御の四十九日にあたり、東大寺大仏に聖武天皇御遺愛の品と「訶梨勒」を含む六十種類の薬物を奉納された。鑑真大和上はこれら薬物の献納目録書『種々薬帳』の成立にも多大な貢献をなさっている。本邦には『鑑上人秘方』という書一巻が存在したらしいが、惜しむらくは散逸し後世の我等医家が拝読する術はない。『唐招提寺論叢』の北川智泉長老著<鑑真大和上の醫道并に製薬に関する文献>の序には、本邦の医薬二法の道は鑑真大和上が開祖であり、医道及び製薬にたずさわる者は初祖の御恩徳に報いて感謝し努めるべしとの意の御言葉が綴られている。

(前文略)我朝の醫道及び製藥の二法は吾宗祖大師に依て開けし事に關しいさゝか諸書の文獻等を採録し研究者の參考に供すると共に現代醫道及び製藥業者は舊の如く大和上の尊像を奉祀し以て其の初祖に對する報恩謝徳の意思表現あらんことを乞ふ之が採録の序となすのみ」(鑑真大和上の醫道并に製薬に関する文献│「唐招提寺論叢」)

鑑真大和上に対する讃仰の念から発した本記事を締めるにあたり、偉大なる御遺徳を偲び医薬の道への御貢献に改めて思いを致すとともに、感銘を受けた大和上の御言葉を記し置きたい。第一回目の渡航計画は誣告の為に水泡に帰して、一時は獄に投ぜられた留学僧・栄叡と普照は再び願い奉るべく鑑真大和上のもとに参上する。大和上の御心は、「是為法事也。何惜身命。諸人不去我即去。」(是れ法事の為なり。何ぞ身命を惜(おしま)ん。諸人去ら不(ず)んば我即ち去んのみ。)と御決意された時のままに揺るがない。これは傍らの思い悩む両人を諭された時の御言葉である。

「不須愁。宜求方便。必遂本願。」
愁(うれふ)ことを須(もち)ひ不(ざ)れ、宜く方便を求て、必ず本願を遂ぐ。


大和尚曰不須愁宜求方便必遂本願│『宝暦十二年原本 唐大和上東征伝』

参考資料:
蔵中進編:和泉書院影印叢刊12「宝暦十二年版本 唐大和上東征伝」, 和泉書院, 1979
唐招提寺戒学院鑑真大和上頌徳会編:「唐招提寺論叢」, 桑名文星堂, 1944
青木和夫, 笹山晴生, 稲岡耕二編著:新日本古典文学大系「続日本紀 三」, 岩波書店, 1992


訶梨勒・訶黎勒(かりろく)/ 訶子(かし)

2018-10-13 | 漢方の世界

訶梨勒 足利義政好写 宗徳作 書院柱飾り

「訶梨勒・訶黎勒」(かりろく)、「訶子」(かし)は、モモタマナ属、シクンシ科の落葉大高木、ミロバランノキ、学名Terminalia chebula Retz.のの成熟果実である。収渋薬に分類され、性は苦、酸、澁、平、帰経は肺経、大腸経、胃経である。効能は澁腸止瀉(大腸よりの便の遺漏を防いで下痢を止める)、斂肺利咽(肺気を収斂して降気し止咳する、咽頭の調子を整え嗄声を改善する)であり、用いる疾患、病態は久瀉久痢、脱肛、喘咳痰嗽、久咳失音である。訶梨勒(訶子)を含む方剤にはその名を冠した訶黎(梨)勒丸、訶黎(梨)勒散がある。これらは『太平恵民和剤局方』、『太平聖恵方』、『金匱要略』、『脾胃論』、『聖済総録』、『普済方』、『医心方』等に広く収載され枚挙に暇がない。訶梨勒単味あるいは主薬の訶梨勒以外の生薬の種類が異なるものなど、同じ方剤名であっても配合にはかなりの部分で差異がある。


訶子│「中草薬彩色図譜」, 376-377

鑑真大和上とともに来日した唐僧の弟子、思託(したく)は、大和上示寂後に『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』三巻を記した。この大著を元に大和上十七回忌にあたり一巻にまとめられた伝記が、淡海真人三船撰述の『唐大和上東征伝』である。大和上は渡日にあたり仏教典籍を含む多数の文物や薬物を持参されている。惜しむらく不首尾に帰した第二回渡航の際の品目として、『唐大和上東征伝』には「訶梨勒」を含む以下の薬物が挙げられている。
「麝香廿剤、沈香、甲香、甘松香、龍腦香、膽唐香、安息香、棧香、零陵香、青木香、薫陸香。都有六百餘斤。又有畢鉢、訶棃勒、胡椒、阿魏、石蜜、蔗糖等五百餘斤、蜂蜜十斛、甘蔗八十束。」(「宝暦十二年版本 唐大和上東征伝」, p25)


呵梨勒丸(訶梨勒丸)│影印版「国宝 半井家本医心方」第一巻, p330-331

参考資料:
蔵中進編:和泉書院影印叢刊12「宝暦十二年版本 唐大和上東征伝」, 和泉書院, 1979
唐招提寺戒学院鑑真大和上頌徳会編:「唐招提寺論叢」, 桑名文星堂, 1944
徐国鈞, 王強編著:中草薬彩色図譜, 福建科学技術出版社, 2006
鳥越泰義著:平凡社新書「正倉院薬物の世界 日本の薬の源流を探る」, 平凡社, 2005
安藤更生著:人物叢書「鑑真」, 日本歴史学会, 1989
影印版「国宝 半井家本医心方」全九冊, オリエント出版社, 1991
中医臨床必読叢書「太平恵民和剤局方」, 人民衛生出版, 2007
「聖済総録」上下冊, 人民衛生出版, 2013



奉請(ぶじょう)の花

2018-10-11 | 日記・エッセイ


興福寺中金堂落慶法要(2018年10月7日~10月11日)、4日目の10月10日、比叡山延暦寺厳修が営まれ、華道大和未生流、須山法香斎御家元が献花の御出仕で大任をお勤めになられた。後日の流派の研究会では、法要でのこの度の御奉仕について一門に次第を御教示下さることであろう。諸佛を請待し奉る花は普段の花とどのように異なるのか、献供なさる時の御心や心構えについても我等一同に御訓示下さるのであろう日が待たれる。

『瓶史』は明代の文人、袁宏道が著した瓶花の書であり、華道去風流七世、西川一草亭が1930年に創刊なさった機関紙でもある。以前に後者の『瓶史』をまとめて入手したが、生け花に限らず日本の伝統文化を広く論じた各論者の文が掲載されている。佛教大学名誉教授、井川定慶博士が『瓶史 陽春特別號』(昭和8年刊)にお寄せになった寄稿文<蔓陀羅華>は、一・奉請の花、二・佛徳顯現の花、三・發心成佛の花の三章から成る。一章の「香煙縷々と立ちのぼり芳香を放つ佛事には又花を立て燈明を點じ供物を献ずるものである。」から始まり、二章で「佛前に献ずる花は参拜に来る信者の眼を樂しましめる為であらうと考へられもする。殊に立花の場合に佛の方へは裏を見せて表て正面を拜禮者の方に見せてゐるからである。」と語られ、最終章は「佛に献ずる花はやがて佛より我等へ發心を促し更に信仰を増進せしむる蔓陀羅花となるのである。」で締められている。

<蔓陀羅華>の文中で、詳細な解説及び「諸佛無量の功徳の中から十種を選び表示せんが為に佛前に花を献じて荘厳し、花の有する十義を以て佛の十徳を顯現せんといふのがそれである」という言葉を添えて提示されるのが、以下の『華厳経探玄記』第一巻中の「花の十義」(華の有する十義)である。今更ながらこの頃、自らが属してきた流派や宗派、業界や組織を越えて学ぶべきもの、識らねばならぬことは無限であると痛感する。

一、微妙義
一切の華の形は自然に成り、其色は實に口説を以て説く事を得ず、意を以て思惟する事も得ざる微妙不可思議なるが如く、諸佛は因位より果上に至り給ふまで一々の行徳微妙にして更に麄相なしといふのである。
 二、開敷義
一切の華は時に應じて満開する。これは内に抱く徳を外相に表知せしめて衆目を喚び覺さんとするのであって、佛の行々次で榮え遂に佛果滿特に至り開悟せしめ給ふ事を表はさんといふのである。
 三、端正義
華の蘂、葩、色一々美にして具足せずといふ事なきが如く、佛の修し給ふところ圓滿にして徳相具足し給ふといふのである。
 四、芬馥義
華果の香氣が普く薫ずることを以て佛の自利々他を益せしむるにたとふ。
 五、適悦義
勝徳の樂ともいふ。花は一々殊妙で一々他に勝れたところがある。而かもこの花を見る人は歡喜するものである。諸佛も亦かくの如くである。
 六、巧成義
一々の華は厚く薄く大に小に巧みに其花の相を成してゐるが、佛も亦所修の徳相、善にして巧みに成立してゐる。
 七、光淨義
華は淨らかにして光澤のあるものである。佛は一切の汚れたる惑障永く盡きて至極淸淨であらせらる。
 八、裝飾義
一切の華は其色其象能く了別して其種子を裝り飾る如く佛も了因を以て本性を裝巖し給ふといふ。
 九、引果義
菊は菊、牡丹は牡丹、其の種の生因は必ず其華を生ずるが如く、三因佛性は必ず佛果を成すといふ。
 十、不染義
蓮華の淤泥より出てゝ淤泥に染まざる如く佛は世間に住し給ふとも浮世の六塵に染汚せられざるといふのである。」
(蔓陀羅華│西川一草亭編 創刊三周年記念「瓶史 陽春特別號」, 去風堂, 1933)

名古屋ボストン美術館

2018-10-08 | 日記・エッセイ


名古屋ボストン美術館が本日10月8日をもって有終の美を飾り、1999年、米国ボストン美術館の姉妹館として開館してから20年の歴史に幕を閉じた。2006年には、名古屋市立大学耳鼻咽喉科名誉教授、馬場駿吉博士が館長に御就任になっている。第117回日本耳鼻咽喉科学会通常総会・学術講演会が名古屋国際会議場で開催された時、第55回「ルノワールの時代 近世ヨーロッパの光と影」(2016年3月19日~8月21日)に伺う機会を得た。その時に求めた展覧会図録「ルノワールの時代 近世ヨーロッパの光と影 CITY LIFE / COUNTRY LIFE: Light and Shadow in the Age of Renoir」の巻頭「ごあいさつ」文中で、馬場先生は「美術は純粋な美の追求とともに、つねに社会、世相の証言者としての役割を果たすものであることがご覧いただけると信じています。」と綴っておられる。


東山魁夷著「白い馬の見える風景」

2018-10-06 | アート・文化

緑響く│「白い馬の見える風景」

東山魁夷画伯の画集『白い馬の見える風景』は十代に自ら購入した最初の画集である。おこずかいを貯めてようやく入手出来た日、ひねもす眺めていたことを思いだす。駅前再開発に伴う自宅や医院の移転に伴い、数多くの書籍を処分した中で現在まで携えてきた中の一冊である。この秋に開催された「生誕110年 東山魁夷展」に伺い、東山画伯がお描きになる風景に「白い馬」が出現した時期が、唐招提寺、森本孝順長老からの御影堂障壁画と御厨子内部装飾の御依頼を正式にお受けになった1971年(昭和46年)の翌年であったことを知った。展覧会からの帰宅後に本棚から取り出して本書を改めて紐解けば、これまで読み飛ばしていた前書きの中に風景に点じられた白馬についての記述があった。この「白い馬」の出現は『東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画』の<障壁画制作のノート>においても記されている。

「ある時、一頭の白い馬が、私の風景の中に、ためらいながら、小さく姿をみせた。するとその年(1972年)に描いた十八点の風景(その中には習作もあるが)の全てに、小さな白い馬が現れたのである。」
(「白い馬の見える風景」)

「ここで不思議なことが起こった。この一年間は二つの仕事を繋ぐ中間の、いわば、制作上の上では空白と言うべき期間である筈であったのだが、これらの画廊展へ、どのような構図の作品を描こうかと漠然と考えている時に、突然、思いがけなく白い馬が小さく姿を現す風景が浮かんだ。すると次から次へ、どの作品にも白い馬が姿を見せるようになった。元来、私の風景がには点景を描き入れないのであるが、この年に描いた全部の制作や習作だけに。一頭の小さな馬が、ある時は佇み、歩み、走っているのが見える。しかも、これらの小さな白馬は、遠慮がちに風景の中に添えられているが、白馬が主題であって、風景は背景の役目なのである。白馬は切実な私の心の祈りであるが、それが何を象徴するかは、見る人の自由にまかせた。これらの作品は、翌年「白い馬の見える風景」として画集が出版され、一堂に纏めて展覧会も開かれた。」
(第5章・揮毫の決意│「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画」)


綿雲│「白い馬の見える風景」

「白い馬」は点景ではなく主題であり、「白い馬」を描く事自体が祈りであると東山画伯は明言なさっている。祈りとは人智を越えたものに対する嘆願や帰依であり、崇敬、畏敬、感謝の念を含んでいる。御発心の御心に思いを巡らせて風景に現れた白馬の意味を窺うことは、私風情に到底叶うまじきことではないと知りつつ、この度「この画集を見る人の心にまかせたほうが良い」との御言葉に甘えてみた。「白い馬」は東山画伯の御心に偶発的に浮かび上がった情趣的な心象ではなく、微塵の懈怠なく精進を重ねてこられた画業の嶮しい道程において必然的に立ち現れた確かな形象である。画中の白馬を拝すれば、常歩(なみあし)あるいは速歩(はやあし)の姿で、決して風景の中をあらわに疾駆する奔馬ではない。あるいは静かに佇んで草や水の匂いを嗅いでいる。白は染まらず汚れずの不染汚(ふぜんな)の色である。ひとつの色もない無色であるとも言える。「白い馬」は馬の形を取りながらも外的世界の事物としての白馬ではない。内に限りないダイナミズムを孕み、寸時も塑性変形に堕することのない、生々躍動、自由無礙の一切の事物を包蔵している。そして画かれた風景から白馬の形象が消える時、群青と緑青で荘厳に彩られた障壁画の山水が顕現する。<障壁画制作のノート>終章は以下の御言葉で締められている。

「南大門の基盤の上で、いつものように振り返り、金堂を眺めた。四年前の開山忌の日を想い出した。私の唐招提寺への道は、現在、ここまで辿り着いても、なお、遥かな感じがする。それは、結局、どこまで行っても終わりのない道であろう。金堂は巨大な屋根の両端に力強い鴟尾を載せて、遠く遠方に、厳然と聳え立っている。」
(17章・唐招提寺---終章---│「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画」)

参考資料:
東山魁夷著:「白い馬の見える風景」, 新潮社, 1973
東山魁夷, 森本孝順, 谷川徹三著:「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画」, 日本経済新聞社, 1975