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授業が上手い

2020-02-08 12:21:17 | 日記
イグノーベル賞というものがあるそうだ。まず人を笑わせ、それから考えさせる研究に贈られる賞でだという。2013年にそれを受賞した新見正則(オックスフォード大学医学博士)と塩野七生さんの対談が文藝春秋1月号に載っていておもしろかった。私が思ったのが、このイグノーベルの方だ。まず人を笑わせるというのが好い。人は笑えば頭が柔らかくなる。考えが広がる。興味が湧く。

この世にはいろいろな教室がある。小学校にも大学にもある。個人の家にだってピアノ教室があり、生け花教室があるい。そこには必ず、教える人と教わる人がいる。教える側の人はたいてい、先生と呼ばれる。世の中は先生だらけだ。その先生もいろいろだ。俗にダメ教師と呼ばれる輩もゴロゴロいる。誰だって昔の小中学校時代から思い出せば、ダメ教師は簡単に何人も数えられるはずだ。

あの人は授業が上手かったなぁと思い浮かぶ師も少しはいる。私にもいる。残念ながら、たくさんはいない。その数少ない師に共通するのが、授業への引き込み方に長じていたということだ。それが第一時限の授業であれば、まず「おはよう」から入る。次がちょっとした雑談だ。その日の朝のテレビのニュースの一つから選んでもいい。その雑談が上手い。生徒から笑いが起きる。イグノーベルの精神だ。そうやって教室の雰囲気を作っておいて、「さて、今日は25ページを開いて」と教科書に戻る。私語を交わす生徒はいない。教室は完全に、教える側のペースである。教員資格取得テストに、小雑談という1項を入れたらどうだろう。

2月

2020-02-08 12:13:31 | 日記
長女も次女も2月生まれである。しかも次女は29日生まれで、うるう年にしかカレンダー上の誕生日はない。産院のドクターが、「3月1日にしておきましょうか?」と言ってくれたが、断った。仮に大晦日に生まれたとして、元日にすることを提案されても、私は「そのままで」と言うだろう。普通の人の誕生日の確率は365分の1だが、うるうなら、1460分の1になる。なんとなくクジ運が強い感じがするではないか。2人とも、名前に夏の字をつけたから、多くの人と「夏の生まれですか?」「いいえ、真冬の2月です」という問答を交わしているだろう。それでいい。相手の人はきっとおぼえてくれるはずだ。人に名前をおぼえてもらうのは、長い人生で得をすることが少なくない。

高校、大学の受験の月である。我が家の周囲では、ボクちゃんの兄のタイちゃんが高校に進む。両親が慶應義塾大(理工学部と心理学部)の出身なので、塾高を目指すのかと思っていたが、家人からの情報によると公立に行くらしい。いずれにせよ、受験時代はシンドいけれど、好い季節だ。もう、好きな女性はいるだろうし。

今日は2月1日で、リャンピンの日である。我が家のリャンピン(本名はルーク)はますます元気だ。快走する。4階建てのキャットタワーの3階部分に2秒で駆け上がる。4階に姉のヴィヴィアンが居るときは、左手で軽いフックを打つ。ヴィヴィアンは女だが先輩だ。フックではなく、猫パンチを繰り出す。競馬の白富士ステークスで、リャンピン(2-1)の馬単を買ったがハズレだ。

2月4日は私達の結婚記念日だが、もう何回目かは数えない。数えても仕方がない。長女が先月末から2泊で京都に行っている。土産は赤福だろうから、お祝いはそれでいい。

空腹、満腹

2020-02-08 12:06:43 | 日記
「もう二度と子供達を飢えさせてはならない」と書いたのは、野坂昭如さんだった。何か食べるものはないか、1本のサツマイモでもいい、1個のジャガイモでもいいという経験をされた方は、現在80歳を過ぎているか80歳に近いかのいずれかだろう。飢えの苦しさを知っている、それも子供の頃だったという人の数はもう多くはないが、私はその一人だ。終戦を挟んだ数年間、食べ物に飢えていた。腹いっぱいたべられることが憧れだった。

胸部大動脈瘤破裂の手術のあと、5日間絶食した。割り箸の先に小さな氷片のついたものを1日に3,4回くれた。絶食でも空腹は感じなかった。だが、喉がかわいた。1杯の氷水をガブ飲みできるなが、1万円払ってもいいと思った。腹が減らなかったのは、なぜだったのかはわからない。

満腹恐怖症になってから何年経つか。私は高所も怖いが、満腹も怖い。家人が餃子を作る。それを皿に盛ってテーブルに置く。餃子が出来る前に私は水割りを呑み始めていて、すてに、ベビーチーズ、柿ピー、冷奴、かぼちゃサラダなどを食べている。餃子は2個もらえば充分である。目の前に取り皿があって、そこに家人が、タレに浸した餃子を1個2個のせてくれる。2個目のときに手を上げる。もう充分という合図だ。それでも3分ほど経つと、家人が3個目を持って来る。私のグラスにはまだ5分の1ほどのウィスキーが残っているが、私はそれをチョコレートの小片で呑みたいのだ。たった1個の餃子ぐらいと思われる方も多いと思うが、私にはそれが怖い。その1個で満腹になってしまう。満杯になった胃袋に、晩酌の最後のヒトクチを送り込むのは恐怖だ。できない。

恥ずかしい

2020-02-08 11:58:47 | 日記
小学校1年の1学期の最初の図画(お絵描き)の時間に、桜の絵が題になった。私は絵が下手だった。周りのみんなが茶色の幹を描き、枝を加え、その上にピンクの桜の花の群衆をのせているのに、私にはそれができなかった。仕方なく私は、桜花の一輪を描いた。形としては、どこかの幼稚園のマークみたいなものだった。そのときは別に恥ずかしさは感じなかった。「描けへんのやから、しゃあない」と思った。何日か経って父母参観日があった。私は急に恥ずかしくなった。先日の桜の絵がすべて教室の壁に貼りだされているのである。その私の絵を祖母に見られるのが恥ずかしかった。イヤだった。他のお母さんたちに見られるのは平気だったが、祖母にだけは見られたくなかったのを今でも憶えている。

『Happy Birthday』の歌が恥ずかしい。テーブルの上にケーキがあり、ロウソクが立っている。その日が誕生日の子供がロウソクの日を吹き消す。周りのみんなが唄う。幼子を祝うのなら、まだいい。オトナにも唄う。もう40を過ぎた主婦に向かって、「ハッピーバースデー ディア ノブコ」なんていうのは耳を塞ぎたくなる。あれを恥ずかしがらずに唄えるのは、大変な強心臓だと思ってしまう。

文部省唱歌『からたちの花』の3章目に「からたちも秋は実るよ 丸い丸い金の玉だよ」というクダリがある。その部分にさしかかると、急に声を細め、頬を朱くしたりしたのが戦前の女学生だが、現代の女子高生はそんなことはないかもしれないと、或る随筆同人誌に投稿したら、先輩の女性メンバーが賛同してくれた。「本当にそうだったのよ。あそこのところを唄うのが恥ずかしくてね」と言った。ついでに書くと、最近は、高校で合唱部にでも入っていないと、『からちの花』は唄わないそうだ。丸い丸い金の玉、は唄わないそうだ。