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パチンコ

2018-11-03 20:21:26 | 日記
高校生のとき、渋谷の井の頭線のガード下にあったパチンコ店「タイガー」で大勝ちしたことがあった。その頃は景品交換所(獲った玉を現金化するとおころ)は存在しなかったので、すべて煙草のピースに替え、顔なじみの三軒茶屋の酒場へ持って行って、1箱35円で買ってもらった。ピースの正価は45円であって、酒場では酔客に「おい、煙草ないか?」と言われたときに10円儲けることになる。煙草を売ったついでにビールを1杯頼むと、「呑めるのか?」と訊かれた。「これも食べてみろよ」とウナギの頭を3つ串に刺した蒲焼をくれた。これをカシラと言い、通人に人気があると、あとで聞いたことがある。それ以後、カシラを食べた記憶はないから、そのときが生涯でただ一度の味ということになる。

重田名人が、「最近はパチンコもスロットもやらなくなった」と言う。「入らなくなった。だから客も減っている。そのうち潰れるんじゃないかな」などと言う。1年ほど前までは、鎌倉のパチンコ屋はダメだから藤沢まで行き、親は逗子まで行っていると話していたから、藤沢・逗子も玉が入りが悪くなったのだろう。ふと思うのが、ギャンブル依存症のことだ。依存症人間を減らすために厚労省あたりが、出玉制限のおフレでも出したのか。パチプロという言葉があるようだが、実際にパチンコを職業とするなんていうことが可能なのだろうか。

昔、パチンコ店には老人客はいなかった。最近はどうなのだろうか。老人だらけの日本国である。パチンコに凝る老若男女がいても不思議ではないけれど。

渋谷

2018-11-03 20:15:15 | 日記
『東京の屋根の下』という歌があった。昭和30年代の中ごろである。歌詞には、<日比谷は恋のプロムナード 上野は花のアベック 銀座は宵のセレナーデ 新宿は夜のタンゴ 浅草は夢のパラダイス」とあった。この語を真似て言うと、渋谷は何だろうか。一般的には大人の街と称されていた。ま、オトナっぽくて静かな・・・といった意味だろうか。高校2年になるときに田舎から出て来た私にとっては、渋谷は女学生の街の感じだった。女学生のスカートが風に翻るというような印象だった。

我が家は世田谷の若林にあって、通学にはまず玉電を利用する。2つ目の停留所が三宿であって、そこには昭和女子大と、その付属の中学高校があるから、車内には必ず何人かの昭和女子大系の女の子が何人も乗っている。渋谷に着くと女学生が多く目につくのは、玉電、東横線、地下鉄、井の頭線と4本の鉄路のターミナルであり、出発点でもあり、更にはJRも走っているからだ、もちろん男子学生もいるし、サラリーマンもいるのだが、17歳の私の視線はどうしても同年代の女性のスカートに注がれた。その他、道玄坂や恋文横丁のことは以前に書いた。

その渋谷は現在、若者の街なのだろうか。昨日のハロウィーン騒動のテレビを観ると本当にその通りだと思う。大人の街ではない。オトナっぽい空気はない。私がふと思ったのが、ここに集っている若い人達は全部が東京人ではないだろう、中には2時間3時間とかかる地方からやって来た若い男女もいるのではないかということだった。大変だろうなぁと思った。

スター気取り

2018-11-03 18:22:07 | 日記
昭和20年の12月に兵庫県芦屋市から茨木の田舎(現在の稲敷市)に転居した。そこが私の家系の本家だった。祖父の兄が家長で、戦争の中頃までは村長を務めていた。子供ができなかったので、叔父(私の父の末の弟)が本家を守るべく婿になって嫁を娶っていた。

引越し荷物が田舎へ届くまでに数日かかった。とにかく終戦直後である。あの8月15日から4カ月しか経っていなかったのである。私は引越しのときに着てきたままの姿で登校した。茶色のダブルのハーフコート、半ズボンに編み上げ靴の坊ちゃんスタイルである。家から学校までは約10分の道程である。道の両側にそれぞれ5,6軒の家がある。そのすべてではないが、何軒かの家の門前あたりに、おばちゃん、おばあちゃんが立っていて、見ないふりをしながら私を見ていた。ヒソヒソ話を交わしているような感じもあった。恥ずかしさもあったが、9歳の子供である。もうどうでもええわ、という思いもあった。学校でも私は珍獣として見られた。隣の教室からも観客が来た。教室は土間である。生徒の半分は綿入れの半纏を防寒用に着用し、むこうも私が珍しかっただろうが、私もびっくりしていた。言葉も異国語に等しい。

家に帰ってそのことを話すと、叔母が「ええやんか、俳優になったつもりでおったらええねん」と言った。翌日から私は少し気取って道を歩くようになったかもしれない。姿勢を正して歩くようになったかもしれない。普段着の入った荷物が届くまでの数日間、いまの言葉にすれば、スター気取りでいたようだ。

上衣と下衣

2018-11-03 18:15:18 | 日記
替え上衣、替えズボンという言い方があった。前者は現在で言うジャケットだが、後者の現代呼びが何であるのかはわからない。詰襟の学生服にグレーのフラノのズボンを穿く。これが替えズボンである。

学生時代は替えズボンは3本しか持っていなかった。ギャバジン地のベージュとグレーがあった。登校に使うことは少なく、デート用のリザーブだった。ベージュのズボンにからし色のジャンパー姿になると、何かオトナになったような気がした。

最初に手に入れた(叔母に買ってもらった)替え上衣は黒と緑と白の細かいチェック柄だった。中衣はポロシャツだった。以前にも書いたが、私はポロシャツが大好きだ。80歳になっても、病院の健診やデイケアサロン行きに重宝している。前述の替え上衣に白無地のポロ、グレーのギャバのズボンぐらいで粋がっていたのだから、かわいいものだ。

話は変わるが、姓と名は上衣とズボンのつながりと似ている気がする。だから、女性が結婚して姓が変わるときは、新しい替え上衣を着たような気分になるのではないかと思っている。ウチの孫娘は柳澤姓の男性と結婚して、今年の9月に男の子が産まれた。柳澤は重みのある姓であって、背広で言えばダブルの上衣である。となると、ズボンも恰好をつけねばならぬ。細いストライプなんていうのはダメだ。孫娘の子供は私達の曾孫である。ダブルの上衣に会う名前が欲しいねぇ。

要介護

2018-11-03 18:09:26 | 日記
私は要介護Ⅱの人間である。ケアマネジャーのOさんが月に一度様子を見に来る。健康状態に関して訊かれることはない。居間に置かれた歩行器を見れば凡そのことはわかるのだろう。1時間近く、家人も含め3人で雑談をする。雑談で私の認知度というかボケ具合はわかるだろう。Oさんは、約30人のケアを担当しているそうで、中には急にボケが進行する人がいると言う。そのことは、私も理解できる。家族など、毎日介護に携わっている人にはわからないが、月に一度となると、その人の変化に驚くことも充分に考えられる。

昨年までの約5年間、私のリハビリを担当してくれていたC子さんも将来はケアマネジャーをやってみたいと話していて、私はすぐそれに賛成した。C子さんはケアマネに向く性格だった。ケアマネの第一条件は、明るい性格である。第二は、その人にはどんな介護が必要かを見抜く力である。

私は昨年の12月からデイケアサロンに通って、麻雀を打っている。その時間は、もともとはC子さんのリハビリの時間であった。それ以前にもC子さんはリハビリの1時間をマッサージに変更するようにとすすめてくれた。それが重田名人との出会いにつながった。つまりC子さんは自分の2時間の仕事をマッサージとデイケアサロン通いに振り向けてくれたことになる。私はC子さんに感謝している。これが介護というものの本質だと思う。なんといっても、自分の仕事を譲ってでも患者のためになることを、というのが立派である。ありがたいことだ。