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イヤな奴

2020-06-06 18:45:06 | 日記
イヤな奴がいた。男にも女にもいた。自己中心的である。基本的に暗い。中身は空っぽなのに、威張った口をきく。ずるい。失敗は他人のせいにする。強者に弱く、弱者に強い。他人のミスをみつけると鬼の首を獲ったかの如く喜ぶ…。イヤな奴がいた。学校にもいた。会社にもいた。

中学時代、教室の後ろの方に投書箱のようなものが設けられていたことがある。クラスをよくするための意見を求むといったような主旨で、学級担任が作ったものだった。私は授業が下手で、そのくせ生徒の欠点をみつけると暴力をふるう教師のことを書いて投書しようかと思ったことがあった。イヤな奴である。ラムネ(ビー玉のこと)の遊び(実際は賭け)をみつけるとラムネ玉を没収して返さない教師がいた。その教師の実家は玩具店であって、ラムネも売っていたから、その中に紛れこませたのかもしれない。つまりは泥棒である。授業下手だから、税金泥棒でもありダブル盗人なのだ。だが、その投書はムダだろうと思ってやめた。投書を最初に読むのはクラス担任である。彼はそれを泥棒に見せることなく、握りつぶすであろうことは子供の頭でもわかった。

社会人になってからもイヤな奴はいた。彼には友達がいない。酒友も雀友もいない。女性にはモテない。仕事に協調性がない。自信とウヌボレの差異がわかっていない。個人プレーに走る。他人の小さなミスを発見するのがうまい。みつけると騒ぐ。上司に告げ口をする。頭が悪い。そのことに気づかない。つまらない人生だろうと思うが、本人はそうは思っていない。

イヤな奴がいた。先輩にも同輩にも後輩にもいた。しかし、そのほとんどは、年齢から考えて、もうこの世にはいないだろう。ケチケチ生きていた奴でも、もう心臓の動力を使い果たしただろう。齢をとると嫌いな人間がいなくなると、何かの本で読んだ言葉を思い出す。もちろん私は誰かにはイヤな奴だと思われていただろうし、その誰かは、私のことを、「アイツも死んだだろう」と思っているだろう。

ウソ

2020-06-06 18:38:46 | 日記
「ウソをついてはいけません」、幼い頃の私の教育係だった祖母の口癖だった。ということは、私は子供の時からウソつきだったのだろうかと考えてみて、それほど思い当たることがない。祖母に隠れてやることで、いちばん楽しかったのは、女中部屋に忍び込むことだったが、これはバレたらウソのつきようがない。

このブログにはウソは書けない。たとえばプロ野球のことで言えば、私は巨人ファンではない。だから「私は巨人を応援している」とウソを書けば、それはブログでなくなってしまう。ウソは書けないが、ミスはある。娘にも、「誤った部分があってもなおさないでくれ」と頼んである。たとえば何年か前、私は、慶應の前の年号は元治と書き、それをガンジと誤読したことがある。つまり、元治をゲンジと読むことを知ら鳴ったのである。これすなわち、単なる無知であってウソとは異なる。

「私達夫婦の間には一切の秘密はありません」と宣言する男女がいる。ホンマかいなと思ってしまう。仮にその夫婦が30代とすると、ま、結婚したのは26,7歳の頃だろう。その年齢の男女がお互いに何のヒミツももたずに結ばれたとすれば、それはよほど異性にモテなかったか、あるいは興味を持たなかったかのいずれかだろう。夫は妻にウソをつく生物だと私は思うし、もちろん、その反対も同様である。そのウソを配偶者の面前で言うかどうかは、時と場合によるだろう。ウソをボストンバッグに入れて墓場へ持って行くこともある。バッグに収納する前にバレることもある。とにかく歌の一節にあるように、<折れた煙草の吸殻で あなたのウソがわかる>らしいのだから怖いことだ。

嘘も方便という言葉も本当だ。もしこの世にウソが無かったら、世の中、ケンカばかり、戦争がいっぱいになるだろう。あるとき、ウソは貴重品になる。

命の恩人

2020-06-06 18:30:43 | 日記
胸部大動脈瘤破裂から万死に一生を得て、この8月で10年が経つ。その時は多くの方々の御助力を頂いたが、お一人を挙げるとすれば、手術のメスを執ってくださった星野丈二先生ということになる。星野先生は物静かというか無口な方で、オペの最中、あるいはその前後のことなどはほとんどお話しされることはなく、おおかたの事情は他のドクター(オペでは6人の医師が参加されたそうだ)から説明を受けた。その説明の始まりは、「あれは死んでいた」ということだった。また、ウチの娘によれば、手術の前に、「手術の途中で、一度心臓を止めます」と言われていたそうだから、一時的に死んでいたことになる。だから、前記のように、私は九死に一生を得たのではなく、万死に一生を得たのだ。その命の恩人である星野先生には、その後ずっと年賀状を差し上げていた。先生からはご自分で撮影された風景写真で作られた賀状を頂戴した。それが2年前から宛先不在になった。転居先の届出を為さらなかったのか、あるいは海外にいらっしゃったのかはわからない。毎年の写真年賀状が懐かしい。

もう一人の命の恩人はS叔父ではないかと思っている。恩人と言っても、そのときはすでに霊になっていた。昭和20年の7月下旬か8月上旬かの或る日、私は家の中の廊下を、いつものようにいつもの部屋に向かって歩いていた。そして見慣れた庭の風景に足を止めた。そのまま歩いていたら、私は9歳で死んでいた。このことは何度も書いたことがあるので詳細は省くが、そのときの私の足を止めたのは、霊の力であるとしか考えようがないのだ。我が家系で、すでに霊界にいたのは私の父とその弟が2人、妹が1人である。2人の弟のうちの1人がS叔父である。私がいちばん好きだった兄貴であり、私の中のヒーローだった。命の恩霊という言葉を聞いたことは無いが、私はそのことを信じている。