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頭隠して

2016-10-27 22:05:16 | 日記
家人がまた私のための帽子を買って来た。あの形を何というのか知らないが、要するにツバのない丸鍋型である。毛糸編みだから伸縮自在であり、すなわちフリーサイズである。色は濃いグレーで赤い文字が浮かんでいて、それがアクセサリーになっている。老人帽である。


トシをとると男も女も帽子をかぶるようになる。特に男の方がそうなる。女性は毛の量によっては自然のままの場合がある。少し染料を使えば大丈夫ということもあるようだ。さらに女性にはヘアウィッグという味方がある。男性用のそれもあるようで、有名人などでも、「彼はカツラよ。バレバレ」なんて言われたりすることがある。女性の方はバレバレでもOKだ。少し口紅の色を変えるとか、セーターの柄の派手なものを着るのと同じで、要するに、オシャレの範囲内である。

私の場合は、この前、東京都知事の席を追われた舛添要一氏型の禿げ方なので、帽子で隠したくなる。この世にはカッコいい禿げもあるが、私は不格好である。家の中でリハビリを教わるときにも帽子がほしくなる。先生が若い女性であることもある。家人は「何をいまさら」と言いたそうな顔になる。

おととい、近所に住むOさん夫妻が我が家に来てくださって、ご主人と将棋を指した。O氏は私より毛髪がある。ゴルフ場で言えば、グリーン上にも芝生が少々生えている。私の方はバットの球がいかにも早足で転がりそうな具合になっている。家人からもらった帽子で対局した。O氏は完全な攻め将棋なので、中盤を我慢していればよかった。私が2連勝した。2局で2時間というのは、ソコソコ疲れる。「いやぁ、ダメですねぇ」、O氏がチョロチョロの毛髪を掻き上げながら言った。O氏は帽子をかぶって来なかった。

贅沢

2016-10-27 09:24:21 | 日記
「本当の贅沢って、お金では買えないからねぇ」と70過ぎの老人が言い、「そうです、そうです」と、2、3人の老女が頷いた。私はまだ皆さんより若かったから、黙っていた。「でも金でしか買えない贅沢も素晴らしいのがありますよね」とは言えなかった。戦時中に道路脇の電柱に「ぜいたくは敵だ」という貼り紙があって、それの「敵」の文字の上に「素」の文字を書き込んで歩いたという、作家 芹沢光治良さんのことも言わなかった。或る同人会でのことだった。みなさんの「ぜいたくに関する話」は、花鳥風月の方に向かうだろうと思っていた。

Aは腕時計に凝っていた。私は月に千円を12回払う腕時計だった。それで充分だった。この値段のことでも、かなり昔の話だとわかってもらえると思う。Aの宝物は私の5倍なのか10倍なのか知らなかったが、たしかに、見た目は豪華だった。美しかった。むろん、スイス製だろう。彼は背広とワイシャツの袖口を少し持ち上げて、宝物に視線を送るとき、実に満足したような、安心するような表情になった。ウチの会社の人間ではなかったから、Aのことはよく知らなかったが、大金持ちの息子には見えなかった。背広も上等な仕立てとは見えなかった。つまり、彼にとっての腕時計は自分の贅沢の省庁だったのだと思う。 それだけが~だったのだと思う。こういうことはAに限らない。マイカー命の男も知っている。マイハウス(自分で建てた家)オンリーの奴もいる。

贅沢とは何か、については各人各様の答えがあるはずだ。私はなんともいえない時のことを思い浮かべる。風呂からあがって、食卓に着き、ウィスキーの水割りを用意する。もし、それが夏の盛りならば、窓から涼しい風が吹いて来る。なんともいえない快さである。なんともいえない満足感がある。なんともいえない贅沢である。

これも古い話である。鎌倉芸術館で絵画展を観た。1枚の絵の前で立ち止まった。パリの街角を描いたもので、作者は佐伯祐三である。私はそこで20分ほど茫然としていた。家人たちも同行していて、義妹が私を探しに来て、背を叩くまで立ちつくしていた。あの、なんともいえないときも、ひとつの大きな贅沢だったのだろう。

以前に、今の日本での最高の贅沢は子だくさんだと書いたのを思い出した。これもまた、その通りだが、よほどの収入がないと不可能な贅沢だろう。私は、夏風と水割りあたりまでか。いや、もう秋になった。秋にも冬にも酒はある。水割りもある。熱燗もある。なんともいえないとき、はある。

贅沢

2016-10-27 09:24:21 | 日記
「本当の贅沢って、お金では買えないからねぇ」と70過ぎの老人が言い、「そうです、そうです」と、2、3人の老女が頷いた。私はまだ皆さんより若かったから、黙っていた。「でも金でしか買えない贅沢も素晴らしいのがありますよね」とは言えなかった。戦時中に道路脇の電柱に「ぜいたくは敵だ」という貼り紙があって、それの「敵」の文字の上に「素」の文字を書き込んで歩いたという、作家 芹沢光治良さんのことも言わなかった。或る同人会でのことだった。みなさんの「ぜいたくに関する話」は、花鳥風月の方に向かうだろうと思っていた。

Aは腕時計に凝っていた。私は月に千円を12回払う腕時計だった。それで充分だった。この値段のことでも、かなり昔の話だとわかってもらえると思う。Aの宝物は私の5倍なのか10倍なのか知らなかったが、たしかに、見た目は豪華だった。美しかった。むろん、スイス製だろう。彼は背広とワイシャツの袖口を少し持ち上げて、宝物に視線を送るとき、実に満足したような、安心するような表情になった。ウチの会社の人間ではなかったから、Aのことはよく知らなかったが、大金持ちの息子には見えなかった。背広も上等な仕立てとは見えなかった。つまり、彼にとっての腕時計は自分の贅沢の省庁だったのだと思う。 それだけが~だったのだと思う。こういうことはAに限らない。マイカー命の男も知っている。マイハウス(自分で建てた家)オンリーの奴もいる。

贅沢とは何か、については各人各様の答えがあるはずだ。私はなんともいえない時のことを思い浮かべる。風呂からあがって、食卓に着き、ウィスキーの水割りを用意する。もし、それが夏の盛りならば、窓から涼しい風が吹いて来る。なんともいえない快さである。なんともいえない満足感がある。なんともいえない贅沢である。

これも古い話である。鎌倉芸術館で絵画展を観た。1枚の絵の前で立ち止まった。パリの街角を描いたもので、作者は佐伯祐三である。私はそこで20分ほど茫然としていた。家人たちも同行していて、義妹が私を探しに来て、背を叩くまで立ちつくしていた。あの、なんともいえないときも、ひとつの大きな贅沢だったのだろう。

以前に、今の日本での最高の贅沢は子だくさんだと書いたのを思い出した。これもまた、その通りだが、よほどの収入がないと不可能な贅沢だろう。私は、夏風と水割りあたりまでか。いや、もう秋になった。秋にも冬にも酒はある。水割りもある。熱燗もある。なんともいえないとき、はある。