由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

半世紀前、大学で

2024年05月27日 | 近現代史


メインワークス:樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋社令和3年、文春文庫令和6年)
代島治彦監督「ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ」(令和6年)

 ポット出版社長沢辺均氏が標記の映画をプロデュースなさり、ご案内をいただいたので、まず基になった樋田氏の本を読んだ。
 これは昭和47(1972)年11月9日、早大文学部で起きた革マル派(正式名称は「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」)という新左翼のセクト(党派)による川口大三郎君リンチ殺人事件について書かれたものだ。私はその後にこの大学に入ったが、直接には何も知らない。「へえ、そんなことがあったんだ」と思うばかりで。
 だから、何があってその結果どうなったかについては、本書に直接あたってもらうに如くはない。私は思想の部分に最も興味を惹かれたので、それについて書き付けておく。
 樋田氏が依拠したのは、渡邊一夫「寛容は自らを守るために不寛容になるべきか」(現在岩波文庫『狂気について』平成5年に収録)に基づく非暴力主義というべきものだ。私も若い時分にこのエッセイを一読し、少しだけイラッとした覚えがある。
 革マル派に対抗するのに「寛容」の精神で、具体的には非暴力でやる。これはたいへん理にかなってはいる。当時の革マル派は、自分たちに反対の立場の者たちには容赦なく暴力を揮う、非寛容の固まりのようだったから。
 しかしこの理念を実行に移すとなると、渡邊の文章では触れていない困難に直面することになる。
 当時の早大のほとんどの学部には、学生自治会というものは、形式上あったが、革マル派によって占められていた。そして革マル派にとっては、学生の自治なんてものより、自分たちが進めている革命運動のほうが大事だった。
 一番のうまみは、大学当局が徴収して渡してくれる自治会費やら、早稲田祭時のテラ銭(大学からの援助に、入場券代わりにパンフレットを売っていて、それがなければ学生でさえ、構内に入ることはできなかった。おかげで私は、八年ほどここに籍があったのに、一度もこの学園祭を見たことはない)などの、要するに金だったろう。
 それでも、私腹を肥やすのではなく、革命運動の資金に使うのだから、彼らの正義感が傷つくこともなく、この支配に抵抗する者への暴力が控えられることもなかった。

 川口君は、新左翼のいわゆる革命運動については、数回集会に参加して、幻滅を感じただけの、その頃珍しくなかった一般学生だった。それが、革マル派との流血の闘争関係に入っていた中核派(元々は革マル派と同じ日本革命的共産主義者同盟に属していた)のスパイの嫌疑をかけられて、大学構内の自治会室で、八時間に及ぶリンチの末に、死んだのだ。これは要するに、セクトが一般学生に明白に牙を剥いた事象だと捉えられた。
 反革マルの動きは、学生自治会を正常化すること、つまり、普通の選挙で、学生によって、学生の代表として選ばれた者たちによる組織にする方向で目指された。革マル派はこれに当然、暴力で対抗した。自治会正常化運動の中心にいた樋田氏も襲われて、大人数に鉄パイプで殴られ、一ヶ月の入院を経験している。
 たぶんそれより精神的にきつかったろうと思えるのは、先述した「寛容」の信念に直接由来する。革マルの暴力に対して非暴力で戦うという。ために樋田氏は、同じ運動内でも、革マルから身を守るために、ヘルメットと角材で最低限の武装はすべきだ、とするメンバーから批判され、孤立感を味わうようになった。
 この問題は、日本の専守防衛、平和主義を考える場合の補助にもなるだろう。

 人間には、すべてに寛容になる、つまり寛い心ですべて容認する、なんてことは、すべてを否認するのと同様、できるものではない。だいたい、「すべて」なら、暴力も容認するのか、ということになって、文字通り話にならなくなってしまう。
 いわゆる、「罪を憎んで人を憎まず」、暴力そのものは容認しないが、それを揮う人間は、存在は否定しないでおこう、ということなら、原理的にはできないではない。その者が、全く反省せず、これからも暴力を揮うことはほぼ確実な場合でもか? と思うと、非常に難しいが、まあ理屈の上では。

 このときのことに話を戻すと、樋田氏は、次のような現実的な理由も言っている。多少の武器を持ったとしても、日頃から訓練を受けていて、戦闘に慣れている革マル派に勝てるものではない。大学当局や警察を含めた外部からは、革マルと同類だとみなされ、また、革マルのこちらへの暴力に、正当化の口実を与えてしまうばかりだろう。つまり、戦略的に全くメリットはないのだ。
 その通りだ。しかしそれなら、「向こうにただ殴られるだけで黙っていろということか」という反応はすぐに出てくる。また、闘いに勝つことも難しい。
 樋田氏たちは、一時は革マル派を圧倒することができた。身体的な打撃は加えなくても、多くの学生が憤激し、一致団結して立ち向かってこられたら、少数派にまわったほうは引くしかない。「数の暴力」という言葉がある。いや、そこまで厳密になったら、やはり話にならなくなるので、問わないとしても、数もまた、実際的な力になるのは明らかだ。
 ところが「寛容」だと、団結して行動しようがしまいが自由、ということになる。いつでもどこでも、若者は熱しやすくさめやすい。樋田氏たちの周りには次第に人が集まらなくなり、一年も経つ頃には、その活動は全く目立たなくなっていた。革マル派は相変わらず自治会を牛耳り、その正常化の試みは実を結ぶことはなかった。
 それでも、その後革マル派の校内での勢いは、次第に衰えていったことは私も肌で感じた。それは日本全体の、学生運動の退潮による。新左翼を含めた皆が、「革命ごっこ」に飽きてしまった、ということだ。
 では、あれは一過性のお祭り騒ぎだったということか? 現に、少なからぬ人間が命を落としたというのに?
 そうなのだ、としか言い様がない。それにしても?

 本書の最後に、大岩圭之助氏とのインタビュー記事が掲載されている。ここが内容的には本書中一番興味深い、と言える。
 大岩氏は、川口君の事件とは直接関係ないが、革マル派自治会の副委員長で、当時は委員長代行を名乗っていた。体格がよく、威圧的で、彼に殴られた学生も何人かいる。その後早大を退学して米国とカナダを放浪、やがて米国コーネル大学で文化人類学の博士号を取得、帰国後明治学院大学で教えるとともに、「スローライフ」を提唱する思想家・運動家として活動している。辻信一の筆名で、高橋源一郎との対談本もある。
 樋田氏は大岩氏から暴力を受けたことはないが、革マルによる管理支配体制打倒のビラを各クラスに配布しているときに出くわし、「そんな浅はかな理論が通用するか」と言われ、国家権力を含めた管理支配体制を打倒する闘いをしているのは革マル派だけだと、蕩々と説教された。
 しかしそれから約半世紀後に会ってみると、大岩氏はそんなことは覚えていない、と言うのだった。彼は理論的な本はほとんど読まず、マルクス主義がどういうものかもわかっていなかった。ただ、時代状況に乗って高校時代からけっこう学校批判の活動で知られており、ためにオルグされた格好で革マル派に入った。
 その行動原理は、人間関係のある側にどこまでも味方するという、任侠映画のものだった、と自ら言っている。自分たちがまちがっているとみなす人々はたくさんいるのは当然知っており、また自分自身の確信も揺らぐことへの恐怖もあって、暴力に走ったのだ、とも。
 当時、革マル派をはじめとする新左翼の活動家がみんなこうだったとは思わない。中には、黒田寛一(革マル派の理論的指導者)らの理論に心から心酔し、その路線での革命運動に邁進した人だっていたに違いない。
 そういう人もまた、自分や自分たちの組織を何が何でも守りたいという動機から無縁だったはずはなく、それが過激な行動に走るバイアスの一つにはなったろう。人間の弱さの一部であり、そのことを認めるのは、寛容の現われと言えるだろう。

 しかし、大岩氏はここからさらに、当時の責任なんて感じられない、と言う。ある危機的な状況の中で無我夢中で動いていたものを、後で理屈をつけて説明しようとしても、それは必ず嘘になるから、と。彼は、暴力を揮った人たちには「申し訳ない」と言うものの、これでは何に対して謝っているのかもわからない。
 その大岩氏が最後の頃には「でも、僕に責任がないということにはならない。まず、なかったことにはしない。そして、何らかの形で応答していくことを諦めてはいけないと思います」などと言う。「人間が生きていくというのはそういうことだと思っています」と。
 これでは支離滅裂だと感じたが、きっと大岩氏は言葉以外のやり方で責任をとっていこうとしているのだろう。実際、この頃のことを含めて、公にはずっと沈黙を貫いた元活動家も多く、樋田氏はそのうちの一人(革マル派自治会委員長田中敏夫、故人)を紹介するところから本書を始めている。
 それで責任を取ったことになるのかどうか、疑問ではあるけれど、そういう見方もあることはわかる。ただし、言論人でもある大岩氏の場合はどういうことになるのか、私には見当もつかない。

 人間は完全ではない、ということを大岩氏はカナダの大学で鶴見俊輔から学んだと言う。そのことは、自己についても他者についても、認めざるを得ない。
 そのうえで、言葉を諦めてはならないと思う。全部嘘だ、というのは厳密には正しいが、そんなに厳格にはならないところにこそ、寛容さは発揮されるべきだと思う。
 すべては嘘、別言すればフィクションでも、そこに筋を通そうとする努力ならできる。それこそがつまり、人間が生きていくということなのではないだろうか。

 次に映画に関連して。
 5月5日に早稲田奉仕園の、先行上映会+シンポジウムに出席した。
 シンポジウムは代島監督・原作者の樋田毅氏・映画中劇パートの演出を担当した鴻上尚史氏、の三人の話、それから会場にいた関係者四、五人からの発言があった後、インタビュー(因みに前述の大岩氏にもインタビューを依頼したが、「自分の証言は自由に使ってもらってかまわないが、映画に顔出しするのは勘弁してくれ」と断られたそうだ)+映画中劇+当時の資料紹介、で構成された映画が始まった。
 すべてを通して、昭和47(1972)年11月8日、どうして早大文学部構内で川口大三郎君が殺されたのか、いくつかの背景はわかったような気がしたので、それを書き付けておく。

(1)劇パートから
 無理矢理連れ去られた川口君の友人三人が心配して自治会室前へ行った。ドアの前には見張りの、革マル派の男二人。「友だちが連れ込まれたという話があるんだけど、出してくれないかな」と頼んでも「ダメだ」と言われる。「お前ら、関係ないから帰れ」とも。「関係ないわけないじゃん。だって川口は友だちなんだ」。
 押し問答をしている最中に、他の学生からの通報を受けた教員が二人やってきたが、ドア前の革マル派学生とちょっと言葉を交わしただけで、帰ってしまった。
 次に女性活動家が部屋から出てきて、血走った目で「私たちは革命をやってるんだ。お前たちは、その邪魔をするのか」とこちらを詰り始めた。「そんな話じゃないだろ。友だちの川口を返してほしいと言っているだけなんだから」と言い返すと、「私たちはこれから革命をやる。お前らはそれに刃向かうのか」と一方的にまくしたてて、部屋へ戻ってしまった。
 以上の科白は樋田毅氏の原作本から引用していて、映画では少し違っていたような気がするが、それは大きな問題ではないだろう。ここで注目すべきなのは、川口君の友人たちと、革マル派学生たちのチグハグさだ。
 このときの革マル派の論理とはこうだ。自分たちは革命運動に従事している。これは何よりも最優先されるべきものである。友情がどうたらは、それに比べたらものの数ではない。そんなものをあくまで押し立てて、自分たちの崇高な運動を邪魔するなら、粉砕してもかまわない、否むしろそうすべきだ……、とまでは言っていないし、思ってもいなかったかも知れないが、彼らの論理を押し詰めればそうなる。現に、そういうことをやっていたし、この時もそういう結果になった。
 ここで、第一、カクメイなんてものになんでそんな価値があるんだ、自分たちが入れあげるのは勝手だが、「そんなの知らねえ」と言っている者にまで押しつけてもいいと、どうして思えるんだ、と、不思議に感じる人も、今の若者の中にはいるかも知れない。
 これにちゃんと答えるのは難しいので、他日を期すことにして、ここでは関連したことに以下で軽く触れるだけにする。

(2)シンポジウム最後の、川口君の同級性の発言から
 この人はシンポジウムの出席者まですべて含めたこの日の発言者全員の中で、一番通る声で口跡もよく、二階席にいた我々にも最初から最後まで聞き取れた。
川口は早稲田で死んだんじゃない、早稲田に殺されたんだ」と言うと、「そうだ!」という合いの手と拍手が起こり、かつての学生の集会みたいな雰囲気だ、と感じた。
 なんで「殺された」のかと言うと、そもそも、学内の革マル派支配に対して何もしなかった大学当局の責任があるではないか、ということ。
 この両者は裏取引をしていた、少なくとも紳士協定は結んでいて、学生に対する革マル派の専横はほぼ見過ごされていた。彼らが仕切っている限り、他の新左翼の、もっと剣呑かもしれないセクトは入って来れないから。
 しかし、事件の大前提であるこのような状況についても、事件そのものについても、土台となる当時の「常識」があった。
 前述のように、教職員が二人来ているが、「なんでもありません」と言われたら大人しく引き上げている。
 さらにキャンパスは夜中の9時にはロックアウトされるので、彼らは8時ぐらいと9時ぐらいに見回りに来て、見張りの革マル派学生に下校するように促している。
 この頃川口君は死線を彷徨っていたろうが、「僕らもすぐに帰りますから」と言われ、またしても、部屋の中をあらためることなく、去ってしまった。
 後の糾弾集会で、このうちの一人の、学生担当副主任(そういう役職があることを、今回初めて知った)が吊し上げられる記録映像が本映画中に採用されている。
 彼は学生たちの非難に対して、「様子を見に行って特に何もなかったら帰るしかないじゃないか」と言った。「機動隊の導入には教授会の承認が必要なんだよ」とも。
 単なる言い逃れだと断ずることはできない。革マル派学生十数人、それも鉄パイプや角材や金属バットを持っている中へ、二入で乗り込んでいったとしても、被害者が増えただけの話ではないだろうか。
 先生だろうが教授だろうが、革命運動に携わっていない者は軽侮の対象、邪魔をするなら嫌悪の、そして「粉砕」の対象になるしかない。
 じゃあせめて、警察を呼べば?
 件の川口君の元同級生氏は、その点非常に率直に、「川口のために警察を呼ぶことは、その当時の常識に囚われてできなかったんです」と認めた。
 川口君の場合のように死亡にまで至れば、さすがに犯人は指名手配され、何人かは逮捕もされたが、その後反革マル運動をして学内で革マル派に襲われ、殺されるまではいかなくても半殺しの目に合った人たちは、樋田氏を初めとして、誰も被害届を出していない。
 なんの常識か? 革マル派の推進している革命運動は疑わしいとしても、革命そのものは正しい。革命とまではいかなくても、若者(本当は、大学生)なら「反権力」「反体制」が当り前なのだ。
 デモなどで機動隊とぶつかった経験のあるセクト内の者はもちろん、ノンポリ(ノンポリティカル。政治には無関心な、意識が低い者、というニュアンスの軽蔑語)で、「革命(運動)には関係ない」学生にしても、学校へ警察がずかずか入ってくるのは好ましくない。それでは、「学の独立」が失われる、少なくとも汚されるから。
 このような考え、否むしろ気分は、今でもすっかり消えたわけではないだろう。
 川口君は連行される時、「助けてくれ」と、また「警察に連絡してくれ」とも叫んだ、と『毎日新聞』には書かれていたそうだ(樋田氏の本による)。
 この段階で、教師でなくても学生が、警察に通報しようとすればできた。暴行罪や監禁罪にはなりそうだから。でも、しなかった。そういうことは頭に浮かびもしなかったろう(もっとも、通報しても、大学内での学生同士の殴り合いなら珍しくなかったこの時代、警察がまともに取り合わなかった可能性はあるが、それはまた別の話)。
 これが即ち、当時の「常識」であった。
 加害者である革マルの学生たちも当然、この「常識」の上で行動していた。「お前はブクロ(中核派)のスパイだろう」「他のスパイの名を言え」と、散々殴っておいてから、拘束を解いて、「川口、もう帰っていいぞ」と軽く声をかけている。川口君が床に倒れてからは、人工呼吸までしている。
 彼が生きて帰っても、警察にタレこんだりはしないと確信していたからだ。
 そうなると学校とは、警察力など社会の権力関係がストレートに及ばない子どもの世界、ネバーランドみたいなものだし、そこで、大人になれない、いや、大人になることを拒絶したい者たちが活動していた、ということになりそうだ(私も、左翼ではないが、この気分には浸っていたから、決して馬鹿にしているわけではない)。
 悪い点ばかりではないけれど、そこに、本来あり得べからざるはずの暴力が出てくると、とめどがなくなってしまう場合があることは、昨今のいじめ事件を見るにつけても、心得ておいたほうがよい。

(3)インタビューパートから。
  あくまで非暴力で革マル派に対抗した樋田氏たちと違い、強硬手段で革マル追い出しを目指した人々もいる。そちらのリーダーだった人の言葉(記憶で引用)。
「女子学生の中には、鉄パイプを振れないのを泣いて悔しがる人もいました(ちょっと註記、いや、別に、振れるだろと思う人もいるだろうが、当時は女性はそんなことをするべき存在じゃない、というこれまた「常識」があった、ということだろう)。彼女らは、自分の排泄物をスロープの上から革マルに投げつけて戦いました。私も(武器を?)提供したことがあります」
 楠正成の故事に倣った、わけはない、ベトコンの戦い方を参考にしたかな。
 いや別に、スカトロの話をしたいわけではなく、こういうことを言うときの、70歳を過ぎているであろう人の、なんとも生き生きした表情が印象的だった。
 政治的にどうたら以前に、人間は暴力が好きなのだ。もちろん、自分が犠牲にならない暴力は、だが。それだけに、樋田氏たちの考えは貴重だと言えるが、このことは、今後とも社会運動を展開しようとしたら常に問題になるだろう。これも覚えておくべきだ
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LGBT理解増進法 誰のため? 何のため?

2023年11月29日 | 近現代史

「理解増進ではなく差別禁止法を」LGBTQ当事者団体が声明(『毎日新聞』令和5年2月14日)

 本年の6月に成立・公布されたいわゆるLGBT法、正式名称は「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」については、私は、昨年までほとんど知識・関心がなく、今年になって法案が大きく取り上げられるようになってから、「これはなんだ?」「なんで今頃こんなのが出てくるんだ?」と、疑問を持つようになった。こういう人は決して少なくないと思う。
 だいたい、なぜ私がLGBTなどの性的嗜好、じゃなくて指向か、を理解せねばならんのか、いやそれより、理解せよと上から(直接には法律を作った国会から)命令されねばならんのか、なんとも不審で、なにか不快だった。
 最近、旧知のLGBT当事者(G)にこの問題を訊く機会があった。彼は大企業勤務で、もう公私ともにカミングアウト済みのうえ、長年のパートナーである男性ときわめて幸せに暮らしているそうで、個人的には法律の必要性など感じない。しかし、この法律制定には外部から協力した、その理由は以下の二つ。

(1)欧米を初めとする自由主義諸国は、たいてい同性婚まで認める段階に至っており、そことの外交・貿易のためには、LGBT問題に対して日本が国として無関心ではないことを示したほうが有利。
(2)「人権擁護法案」(平成14年)や、これに近い理念を掲げる野党や人権派諸団体が推進しようとする法制度は、人権侵害=差別に関する定義が曖昧なままに、規制だけを強める非常に危険なものである。今回の理念法は、その先手をうって彼らを黙らせるカウンターとしての効果を持つ。

 別に彼のせいではないが、なんだかさらに萎える気分になった。これが本当に立法者たちの動機なのだとしたら、LGBTそのものは二の次の、口実のようなものだということになりはしないか。
 特に(1)は、いつまで後進国意識を持ち続ける気なのか、と言いたくなる。
 関連して、5月にラーマ・エマニュエル駐日米国大使が、EU、欧州10ヵ国、オーストラリア、アルゼンチンなど合わせて15の在外公館の大使らを語らって、X(旧ツイッター)を通じてビデオメッセージを発表し、差別の根絶を訴えた。もちろん法の制定を促すためのものだが、ここには日本における差別の実態についての言及は、従ってそれへの対策としての法律の実際的な必要性を指摘した言葉は全くない。
 たぶんエマニュエルにとっても、他の大使たちも、日本のことなどよく知りもしないし、そもそもどうでもよかっただろう。彼らは「差別反対」のリベラルの代表として、自国内でも決して少なくないアンチLGBT派に対するカウンター活動の一環としてやっただけなのではないか。
 そうでないとしても、diversity(多様性)の尊重を言いながら、各国・各地域の歴史や文化の相違に対する配慮がないのは明らかである。宗教(キリスト教)によって長年同性愛が明確に禁じられた西欧諸国と、明治5年に「鶏姦律条例」が発令され、明治15年から施行された旧刑法からは消去された10年を除いて、同性愛が公に禁じられたことのない日本が、この問題に対してなぜ同じように振る舞わなければならぬのか。

 やはり付け加えておくべきだろうが、私はこの国にLGBT関連問題が全くない、と言うのではない。この性的指向のために苦しんでいる人はいるだろう。その人たちの自殺率は、彼らからはノンケと呼ばれるいわゆる普通の異性愛指向の人々の倍に及ぶそうで(どこにどのような統計があるのかは知らない)、だからこれは命に関わる問題だ、と言った人もいる。
 そうだとして、ではこの法律が、どのようにこの問題の解決あるいは改善の役に立つのか。
 この問題は、直接(2)にかかわる。少し細かく見ていこう。

 小泉内閣によって提出された前出「人権擁護法案」以後も、平成17年には民主党による「人権救済法案」が出され、平成24年には野田内閣が「人権委員会設置法案」を閣議決定している(いずれも審議未了のため廃案)。ここまでの中心課題は、一貫して人権委員会の設置だった。
 上のうち最後の「人権委員会設置法案」は「人権擁護委員法の一部を改正する法律案」とセットになっている。周知、と言えるかどうかはわからないが、人権擁護委員会は既にある。昭和23年,人権擁護委員令に基づき発足し、翌昭和24年には人権擁護委員法が成立し,全国の市町村に置くことになった。それを「一部改正する」とは、大きく改廃するというわけではなく、委員は「法務大臣が委嘱する」から「人権委員会が委嘱する」としたのが最大の眼目。
 つまり、人権擁護委員会の上に、国家の機関である人権委員会を置く、ということ。その組織の行政機関上の位置づけや構成については、「人権擁護法案」から「人権委員会設置法案」まで変わらず、法務省の外局扱い、委員長と四人の委員から成り、委員のうち三人は非常勤、ただ、「人権委員会設置法案」では「委員長及び委員のうち、男女のいずれか一方の数が二名未満とならないよう努める」(第九条の2)ことになった。男女の構成比を3:2か2:3と決めて、「多様性」に配慮したわけだが、ここにLGBTの人が入ったらどうなるのか、などとつい不謹慎に考えてしまう。
 委員の要件は「人格が高潔で人権に関して高い識見を有する者であって、法律又は社会に関する学識経験のあるもののうちから、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する」(「人権擁護法案」「人権委員会設置法案」ともに第九条)
 ここまでで、差別撤廃制度を推進する側(以下「人権派」と呼ぶ)の不満が出てくる。「人権委員会設置法案」では男女の比率こそ偏らないようにしたものの、相変わらず全部で五人の構成では、社会階層や出身地、人種その他の多様性を繰り込むことが出来ない、というのもあるが、最大なのは、委員長・委員は総理大臣の任命により、委員会は法務省の外局とされるなら、結局は行政の一部であり、行政機関によって行われた差別的な人権侵害行為には手心が加わるのではないか、というものだ。「人権擁護法案」以来ずっと「人権委員会の委員長及び委員は、独立してその職権を行う」(第七条)とあるが、それだけでは不満は消えない。人権派は元来反権力・反政府の立場の人が多いので、そうなりがちなのだ。
 そうでない立場はマスコミでは「保守派」などと呼ばれることがあるが、実際は行き過ぎた差別糾弾によって阻害される怖れのある側の人権を配慮しようというのだから、これは適当ではない。ここでは仮に「逆人権派」と呼んでおくが、そこからの反対意見もある。
 既に民主党政権下の平成21年の参議院に、「人権擁護法の成立に反対することに関する請願」が出ている。

 包括的な人権擁護を目的としたいわゆる人権擁護法が成立すると、正当な言動まで差別的言動として規制され、憲法第二一条で保障された表現の自由が侵されるおそれがある。また、特別救済措置の下に申告だけで令状なしに捜査が行われるという人権侵害が起こる危険性がある。

 現行の人権擁護委員は無給のボランティアで、人権侵犯事件の調査や救済を実行するための権限はほとんど与えられていないとされる。やるのはせいぜい報告であって、あとは法務局の人権擁護部か人権擁護課(地方法務局に置かれている)の仕事になる。
 そこで人権擁護法案以下で新設が提唱されている人権委員は、どれだけのことができるようになるのか。実際にはまだないものだし、法文を読んだだけではよくわからないが、だいたいの仕事はこんなふうになるようだ。
 ある人から不当な差別による人権侵害を受けた、という申し出があったら、調査を開始する。犯罪捜査ではないのだから、これはあくまで任意である。とはいえ、警察の任意同行を断れる人はそんなにいないだろうと思うので、実際の威力は計り知れない。
 そして、この調査によってわかった事実に基づき、要請や指導、関係調整を行って、双方合意の元に事案を解決に導くのが理想。それですまなければ、人権侵害を行った側に勧告し、関係行政機関に通告もし、犯罪に当たると思料された場合には被害者に代って告発もできる。
 また、人権侵害者が公務員の場合には、本人のみならず、その者が所属する機関等に対し、被害の救済又は予防に必要な措置をとるべきだと勧告をすることにもなっている。公立学校の教員に生徒や父母に対して差別的なふるまいがあったとされたら、教育委員会に処分を勧告されるわけだ。
 あるとき何気なく口にした一言のために、突然捜査されたり捕まったりということまではなさそうである。もっとも、「人権擁護法案」の第三条「何人も、他人に対し、次に掲げる行為その他の人権侵害をしてはならない」二のイに「特定の者に対し、その者の有する人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動」というのも入っているから、そんなに軽く見てばかりもいられない。
 最大の問題は、何が「不当な差別的言動」に当たるのか、なんとなく常識ではわかるような気になっているが、ギリギリの線引きは時と場所と人によって変わってくるものである。それを人権委員会が一方的に決定してよいものだろうか。そのうえで、「勧告」ではあったとしても、個人の社会的評価を下げるような処置が公に認められるべきなのだろうか。
 危険性の一部は、前出の請願にあったように、これらの法案が擁護しようとする人権が包括的であって、やたらに範囲が広いために、深刻に扱うべき差別とそうでもないものの区別がつけづらくなるところから来ているだろう。
 何しろ、「人権委員会設置法」第二条で、差別的な取り扱いそのものはもちろんのこと、それを助長・誘発することも禁じられるべき社会的な属性は、「人種、民族、信条、性別、社会的身分(出生により決定される社会的な地位をいう。)、門地、障害(身体障害、知的障害、精神障害その他の心身の機能の障害をいう。)、疾病又は性的指向」までが挙げられていて、これでもまだ足りないという意見もある。それでは、いろんなところに「差別者」のレッテルを貼られかねない地雷が、仕掛けられているような気になってしまいかねない。
 それかあらぬか、平成24年に行われた衆議院議員選挙において、安倍晋三が総裁となった自民党は、「人権委員会設置法案」には反対した上で「個別法によるきめ細かな人権救済を推進」することを公約にしている。この言葉はその後、政府側の機関によって何度か繰り返された。そして、具体的な個別法の最初が、先のリストの末尾にある「性的指向」を対象としたLGBT理解増進法であった、ようにも見える。
 もっとも安倍は、LGBT関連の立法には反対だったようだが……。そして、人権委員会設置のほうは、見事に消え去った。
 してみると、やっぱり、LGBTそのものははなから問題ではなく、本丸は別のところにあったように思えてこないだろうか。
 もっとある。LGBT理解増進法には元来逆人権派や保守派からの反対が根強い。そのうち一番大きな理由は、この指向を「権利」として認めるなら、「体は男だが心は女」を自称する者が、実際は猥褻目的で、女子トイレ・女子更衣室・女風呂、などのいわゆる女性スペースに侵入するのを防ぎづらくなる、即ち結果として、女性の権利が侵される、というもので、実際にそのケースはもう発生した。
 これだと、同種の人権擁護法にも疑惑の目が向けられるようになるので、もはやその方針も消えるかも知れない。そこまで見越して……というのは、我ながら穿ち過ぎだと思うが、何しろ、さまざまな思いが交錯するこのような事態を一挙に解決しようとすると、およそ正反対の結果を招くことになりかねない。もっと慎重な配慮が必要であることは明らかであろう。

 この機会に、あと二つ、自分の主張を言っておきたい。
 第一に、前述のようなことがあっても、差別撤廃を目指す人権派は今後も陰にも陽にも運動をやめないだろう。それ自体は思想信条の自由に属することなので、文句をつける筋合いはないが、ただ、同じ観点からして、次のことは心得ておいていただきたい。
 それは、法や制度は人間の内面に直接立ち入ってはならない、という近代の大原則である。だから、差別感情そのものを外からどうこうしようとしてはならない。
 ある人が他の人に殺意を抱いたからという理由で、殺人予備罪にも問うことはできない。問うためには、実際の計画に着手するなどの行為が必要となる。差別による人権侵害も同じこと。新たな罰則規定は、前述のような属性を理由にして、ある人の意欲・能力・適性などを無視して、その人がある社会的な地位に就くことを妨害した、などのケースに限るべきだ。
 その他、その人を面と向かって罵倒するのは、理由にかかわらず侮辱罪だし、悪い評判を余所に流すのは名誉毀損罪になる。このような既存の法の適正な運用で解決を図るべきところに、新たな法律を作るのは往々にして害のほうが大きくなる。
 第二に、LGBT理解増進法そのものについて、元教師として最も気になるのは、やはり学校教育に関する第六条の2と第十条の3の条文である。「学校は、当該学校の児童等に対し、性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する理解を深めるため、(中略)教育又は啓発、教育環境に関する相談体制の整備その他の必要な措置を講ずるよう努めるものとする」(第十条の3)という。
 事実LGBTである教師、についてはどうだかわからないが、生徒については、制服や更衣室について配慮した、という学校の例は最近聴いた。それを基にした差別的な言動への対処まで含めたら、たいへんだろうな、とは同情されるが、原則として公的な機関が配慮すべき事案であろうとは思う。
 しかし、「教育又は啓発」はどうか。これまで触れなかったが、LGBTは現在ではLGBTQとかLGBTQ+などと言われるのが普通で、従来言われている範囲より多様性ははるかに広がっている。さらにはBDSM、ペドフィリア、ネクロフィリアなどまで含めて、教えることができるか、教えるべきか。単に知識の問題ではない、まだ性に関するものを含めてアイデンティティが固まっていない青少年を相手にしての話なのである。
 実際は、「世の中にはいろんな人がいる」ぐらいに止めるしかないだろうし、また、それ以上を期待すべきではない。それが昔からある大人の健全な常識というものであり、現代日本のLGBT問題にはそれを覆さねばならないほどの重要性は見出せないのである。
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近代という隘路Ⅱ その6(「夜明け前」における革命の夢と挫折)

2022年08月27日 | 近現代史


メインテキスト:島崎藤村「夜明け前」(初出は『中央公論』、第一部昭和4年4月~昭和6年10月、第二部昭和7年4月~昭和10年10月。初版は第一部昭和7年、第二部昭和10年、新潮社刊) 

 FB上の読書会の課題図書になったので、久しぶりにこの大作を読み返し、かつて心に浮かんだある疑問、というにしては漠然としている、ある思いを思い出しました。
 革命の夢と挫折。と言うと、ありふれているような感じですが、では、それを正面から扱った文芸作品はとなると、私には、日本の小説中では「夜明け前」しか思い浮かびません。その意味で稀有な作品です。
 どの国でも、革命と言えるほど大きなレジーム・チェンジ(体制転換)を経ているなら、そこにはまず理想社会を実現しようとする、主に若者たちの、熱い思想と行動があって、たいていは志半ばにして斃れるんですが、いざ革命が実現してみると、そこに、どうも昔のほうがまだましだったんじゃないか、と思えるような現実が現出してくる。ほぼいつもそうなら、「理想」なるものにはなんの意味があるのか。
 この疑問に十分に答えるなんてことはとうていできませんが、せっかく日本の近代史に興味を惹かれているところなので、作品に即して言えそうなことだけ言っておきます。

 のっけに私自身も現に使っている「革命」という言葉について。作中に数回出て来くる。「革命は近い」(第一部第十二章)とか。
 しかし、この言葉がrevolutionの訳語として使われ出したのは明治以降のこと。江戸時代だと、専ら支那の王朝交代である「易姓革命」を指したので、特に国学者がいい意味で使うはずはない。ここは、新潮文庫の註で滝藤満義氏が言うように、執筆当時盛んだった左翼運動に、著者が煽られた結果があるのかも知れない。

 それで、国学。そのいわゆる四大人(しうし)のうちでも後の二人、本居宣長と平田篤胤が、庶民の若者たちに革命、がいけなかったら、やっぱり維新、かな、の理想を与えたのだった。
 その前に、徳川光圀(水戸黄門様ですね)が創始した水戸学というのがあって、実際の維新のイデオロギーとしてより有効だったのはこちらだった。これは作中にも短い説明があるが(第一部第七章)、国学とは似て非なるものだ。
 どこが違うのかと言うと、水戸学は儒教という、徳川幕府の支配構造の正当化に使われたイデオロギーを重んじている。ただ、その名分論からして、幕府は天皇から委託されて統治を行っているのだから、当然天皇のほうが上、それを蔑ろにするような幕府ならけしからん、ということで、倒幕の思潮も導いた。
 だから、水戸学は基本的に武士のものだ。明治維新の担い手は、下級ではあっても、やっぱり武士だった。
 それに対して本居・平田の国学は、仏教も儒教も日本に後から入って来た外来思想だ、と言う。それ以前の日本人は仮に古道と呼ぶべきものに拠って生きていた。道とは言っても道徳律でも観念でもなく、人間世界の自然(おのずから)に即したまことの道で、そこからみたら、仰々しい「人の道」=道徳、総じて漢(から)から入って来たので「漢心(からごころ)」と呼ぶべきもの、はむしろ小賢しい小理屈に過ぎない、ということになる。
 作中(第一部第十二章)短く取り上げられている「直毘霊」については以前も紹介したが、「自然に帰れ」が宣長の主張だとされている。え? ルソーか? 宣長は直接はそう言っていないし、だいたい「おのずから」とnatureは違うんでは? なんてやっぱり疑問が湧いてくる。もっともルソーにしたって、「自然に帰れ」という言葉は著作の中には出てこないようで、これはこれで面白いテーマになりそうだが、ここでは措いて、改めてごく簡単に主要な部分をまとめると。
 異国(あだしくに。支那のこと)は天照大御神の国ではないので、古来からずっと定まった主(きみ)もなく、世は乱れ、人心(ひとごころ)も悪くなる。だから易姓革命などということも起こるし、世を治めるための欺瞞的な徳目なんてものも必要になるのだ。
 どこそこへ帰れ、なんて短いスローガンはなくても、これで立派に日本主義のマニュフェストになる。日本の文明・文化の大元は支那からもたらされたもので、あちらの文物を学ぶことがつまり長い間知識人の仕事だった。明治以後はこれがヨーロッパに変り、英語の読み書きの能力が知識層には必須になったように、江戸時代までは漢文がそうだったのだ。現に青山半蔵も、漢文で「所感」を書いている。宣長自身ももちろん。だいたい、漢文が読めなかったら「古事記」の原文も読めない。
 それでもともかく、古の日本こそすばらしい、よそからきたなんとか教はいらんのだ、と高らかに宣言されるのは、コンプレックスが拭わるから、確かに爽快感がある。日本のナショナリズムはここで初めて出現したと言ってよい。
 ここにはまた、ただ幕府を倒すだけではない、それから先の見通しもあるように感じられる。建武の中興のように、朝廷を押し立てて武家支配の鎌倉幕府を倒したら、やっぱり武家支配である室町幕府の成立で終わった、ではダメなんで、神武の創業にまで遡らなければならない。そこでは一君万民の四民平等であるはず。このへんが富裕な農民・商人層にウケて、平田篤胤の門人(本人の死後の門人。篤胤自身が宣長の死後の門人で、国学ではこういうのはわりあいと普通らしい)は最盛期には全国で四千人を越えたと言われる。
 念の為に申し添えると、このような古代観は、マルクス主義の原始共産制と同じく、実際とはあまり関係のない思想家の観念であり、幻想である。だからこそ、現状に不満な若者の心を惹きつけるロマンチックな理想としての魅力を備えている。
 そのまま現実に適応しようとするのは……と言うと、今回の主題である、「革命の理想と現実」にもう半分答えが出てしまったような気になってしまう。が、短見は禁物。も少し詳細に、作品に即して見ていこう。

 その前にちょっと道草。たいていの宗教・道徳が、色恋沙汰を警戒するのに、国学はそうでないところはたいへんよい。宣長は「よい人は恋を許すが、さうでない人は恋をとがめる」と言っているそうで(第二部第十一章)。だいたい、この大人は、「源氏物語」から、日本人の心性としての「もののあはれ」を抽出してみせた(「紫文要領」など)のだから、当然なんではある。

 それにしても、島崎藤村が活写した木曽谷あたりの国学者は、政治的にはあまりにナイーブだったように見える。
 慶応3年10月14日(新暦だと1867年11月10日)、徳川慶喜は二条城で、朝廷に大政奉還を願う、と発表した。これによって幕臣のみならず、時勢に関心のある人々がたいへんな衝撃を与えられたのは当然だが、しかし、この一事をもって維新は既に成った、と思った人は何人いたか。

「(前略)ひどい血を流さずに復古を迎へられたといふ話さ。そこがわれわれの国柄をあらわしてゐやしませんか。なかなか外国ぢゃ、かうは行くまいと思ふ。」
「まあ、わたしは一晩寝て、目がさめて見たら、もうこんな王政復古が来てゐましたよ」

(第一部第十二章)

 そうはいかなかった。これはほんの序幕に過ぎない。このしばらく前から、西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視らは、武力による倒幕を期して策動を続けていた。徳川家から政権がなくなったからと言って、それで矛を収めるなんてつもりには到底なれない。
 このへんの詳しい経緯も以前に書いたので、ここではもう一つだけ、上とは別の動きを指摘するに留める。
 勤王方でも大名クラスの松平春嶽や山内容堂らは、幕府がなくなった後は、諸侯会議によって国政を運営する、その議長は慶喜、といった構想を持っていた。一種の議会と考えると、ここから大きな騒擾はなく、日本は穏やかに民主化に向って進んでいける可能性はあったろうか?
 ……どうも、無理だろうなあ、と思える。何より、徳川を初めとする封建諸侯がそのまま存続していて、それで新時代だと、西郷隆盛たちも、青山半蔵たちも、納得できるものではない。もっと徹底した破壊がいる。結果、王政復古は、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へと、三千五百人以上の「ひどい血を流」すことになった。
 そしてその結果、復古の理想は叶えられたのか?

「しかし君、復古が復古であるといふのは、それの達成せられないところにあるのさ。さう無造作にできるものが、復古ぢやない。ところが世間の人はさうは思ひませんね。あの明治三年あたりまでの勢いと来たら、本居平田の学説も知らないものは人間ぢやないやうなことまで言ひ出した。それこそ、猫も、杓子もですよ。篤胤先生の著述なぞはずいぶん広く行はれましたね。ところが君、その結果は、といふと、何が『古事記伝』や『古史伝』を著した人たちの真意かもよくわからないうちに、みんな素通りだ。いくら、昨日の新は今日の旧だといふやうな、こんな潮流の急な時勢でも、これぢや――まつたく、ひどい」(第二部第九章)

 これは暮田正香の言葉。モデルは角田忠行。まず水戸学を学んでから平田銕胤の門人となった、文久3年(1863)の足利三代木像梟首事件の首謀者の一人で、この事件の関係者は多く捕まって処刑されたが、馬籠の島崎正樹(=青山半蔵)らに匿われて辛くも逃れ、維新後は皇学所監察、学制取調御用掛、大学出仕を歴任して、最後は熱田神宮大宮司となった。その前に賀茂神社の少宮司に任じられたところからして、中央から遠ざけられた、つまり左遷であったので、西へ下る途次、同門の青山の許を訪れた明治5年の慷慨が上。
 これに対して青山半蔵は「われわれはまだ、踏み出したばかりぢやありませんかね」と言う。本当の維新はこれからだ、と。そうはいかなかった。そこからくる痛ましい挫折を描くのが大作「夜明け前」の眼目なのだが、実際にその筋が動き出すのは、全体の四分の三を過ぎた当たり、新潮文庫では「第二部下」になってからになる。

 明治3年1月、大教宣布が出て、日本の国教は神道、国の根本方針は祭政一致と定められた。この時が国学の絶頂期だったろう。
 制度的には、慶応4年1月に古代律令制の神祇官が復活、明治2年には太政官より上の最高官庁とされた。実際の仕事は広い意味の教育で、後に皇国史観と呼ばれることになる歴史観・国家観を国民に浸透させることだった。
 これがうまくいかなかったことには、さまざまな理由が挙げられるが、今日の目から見ると、思想自体に無理が含まれていたのではないか、と思える。
 国学の国家観には独善的なところがある。日本は素晴らしい国だ、まではいいとして、他国はすべて劣っているとか、日本こそ世界の中心だ、までいったら行き過ぎだ。世界のナショナリズムの多くにこの弊害は見られ、是正するのはたいへん困難だった。江戸時代でも本居宣長より四歳年少の上田秋成が日本中心主義を冷静に批判したのはよく知られている。
 幕末にヨーロッパ諸国が具体的に姿を現すと、これがさらに過激化してショービズム(排外主義)となり、日本は神国であって、異国は穢れた夷狄だという信念、いわゆる攘夷思想を生んだ。
 これがそのまま、前述の名分論と相俟って、ヨーロッパと通商条約を結んだ幕府を倒すべきだという倒幕のイデオロギーになったのだが、諸外国を完全に排斥することなど到底できないことは、少なくとも薩英戦争(1862年)や馬関戦争(1863年)を経た後の薩長の指導者たちには、よく理解されていただろう。それでも表向き攘夷の看板を外すことはなかった、ということは、それは倒幕のための単なる口実になった。純粋な国学者たちと現実政治のくいちがいが、まずここから出てくる。

 維新後の具体例は、これまた以前に述べた新政府の軍隊に一番よく現われている。
 明治5年の徴兵令先立って出た「徴兵告諭」には大略こうある。これからは、武士などという厚かましいただめしぐらいはなくなり、太古の昔のように、平時には生業に従事し、一朝ことあれば大君(天皇)の下にはせ参じて兵士となって戦うことになるのだ、と。
 このように国学由来の思想を表看板にして、国民皆兵の制度が敷かれたのだが、兵士としての訓練は最初はフランス式、後にはドイツ式となった。そうせざるを得ない。銃も大砲も軍艦も、すべて洋式のものが使われたし、何より、武家支配以前の日本のやりかたなど誰にもわからなくなっていた時代で、民による歩兵というもの自体があちらに倣ったものにするしかなかった。
 なのにこの点で日本は、驚異的なスピードで進歩を遂げた。
 日本という国の特質は、日本精神とはいったい何か、などという抽象的で面倒な議論はあまりせず、実際の必要に応じてさっさと改革を進める現実主義にあると言えそうだ。結果、皇国史観も理屈として否定されたわけではなく、日本的愛国心の中核として大東亜戦争敗戦前までは残っていた。
 その一方、次のような現実もあった。神祇官が神祇省となる頃までは、半蔵の直接の師である平田銕胤が中心的な役割を占めていたと言ってもいいが、高齢のために引退し、直弟子の角田たちも中央から逐われてみると、神祇省は文部省といっしょになってさらに教部省と名が変り、抽象的で面倒な議論が好きな国学者などは頑迷固陋の代名詞として嘲弄されるようにさえなった。
 ここに明治五年頃臨時雇いとして出仕した半蔵は、その不遇感から、ますます思想が先鋭化されるようになる。その前に故郷の馬籠で、住民たちの生活のために、山林の自由な伐採を求める請願を筑摩県にしたが、かえって藩の時代より厳しく規制される羽目になり、自身は戸長、昔の庄屋の地位を失う経験をしていた。封建制より中央集権国家の方が、地域の必要より上からの要請が重んじられる結果、庶民にとってはより苛政になることも、世界的によくある現象だ。
 これを改善する方法としての、西洋由来の、民主主義的な発想は、自由民権運動としてそろそろ始まる頃だったが、半蔵の頭に浮かばないのはしかたない。すべては、復古の精神が不徹底だからとしか思いようがない。憂悶の情に駆られた半蔵は、ついに以下の自作の歌を書いた扇を、天皇の行列に投げ入れる挙に出る。

 蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや

 「蟻の一穴」の成句を蟹に変えているが、蟹は堤防にはそんなに穴は掘らないんでは? なんて疑問はともかく、穴から染み込んできてやがて決壊を起こしそうなのはとりあえず「西洋(的なもの)」ということになりそうだ。「どうしてもこれは一方に西洋を受けいれながら、一方には西洋と戦はねばならぬ」(第二部第十二章)。半蔵と雖も欧化を完全に否定できるものではないことぐらいは弁えていた。そうであればこそ、日本は日本としても理想を保つ努力が必要となるはずだ、と。
 思っても、ではどうすればいいのか? 熊本にでもいれば、神風連の乱に参加して、せめて、悲惨ではあっても思想に殉じた首尾一貫した生涯を遂げられたかも知れないが、彼の周囲にはそこまでの過激に走る人はなく、思いは徒に空転していくばかり。これが彼の悲劇であり、名もなく勢力もない一般人はだいたいそんなもんだ、という身も蓋もないリアリティが本作にはある。
 先の献扇事件は憂国の情から出たものだからと贖罪金(罰金)ですみ、その後飛騨水無神社の宮司として四年勤めてから帰国すると、彼はもはや厄介者扱いで、実質的に隠居所に押し込められるような境遇になる。明治13年、明治天皇の六大巡幸の一つとして東山道にお越しの時には、青山家は行在所(休憩所)を命じられる名誉に浴するが、半蔵にはいかなる役割も与えられず、庭先ですすり泣きをこらえるばかり。
 やがて彼は、得体の知れないものにつけ狙われる幻想に脅えるようになり、最後に地元の寺に火をつけてしまう。「あんな寺なぞは無用の物だ」(第二部第十四章)と言って。国学の原理から言えば、確かに仏教は無用なものだろうし、明治初期は廃仏毀釈という名の仏教弾圧が日本史上一番激しかった頃ではある。だとしても、長い間日本人の生活に溶け込んできたお寺をすべてなくすなんて、できない相談だった。それに第一、馬籠の万福時の松雲和尚は田舎にはもったいないほどの人物で、半蔵と個人的な交わりも深かったのにもかかわらず。
 これが彼の純粋性が最後にたどりついた一種の原理主義の帰結であると思うと、痛ましい、としか言葉はない。

 最後に我が国の宗教事情について、改めて少し愚見を述べます。
 作中聖徳太子の言葉として「神道はわが国の根本である、儒仏はその枝葉である」というのが何度か出てくるが、この出典は「先代旧事本紀」で、元は「神道は根本なり、儒道は枝葉なり、仏法は花果なり」。太子が幼い頃、用明天皇の質問に答えた言葉とされる太子伝説の一つで、「旧事本紀」自体が偽書の疑いがあることを除いても、そのまま事実とすることはもちろんできない。
 それにしても、聖徳太子が我が国に仏教を広めた第一人者であることは明かだし、「十七条の憲法」には「篤く三宝を敬へ。三宝は仏法僧なり」とあって、仏法こそ「万国の極宗」と言われる一方、神道については全く触れられていない。
 思うに、太子は神道を等閑にした、というより、当時は神道なんて言葉自体がなくて、自覚的な宗教(だからそれを信じないこともあり得る)とは感じていなかったのではないだろうか。作中一度だけ名前が出てくる歴史家・久米邦武が、「神道ハ祭天ノ古俗」(明治25年)であって、宗教ではない、としたのはその意味では当っている。おかげで我が国は、仏教でも儒教でも、排斥することは例外的にしかおこらず、アジア・ヨーロッパ諸国を長年苦しめた宗教戦争ともほぼ無縁だった。
 平安時代以降に出て来たいわゆる神仏習合思想、日本の神々は仏の仮の姿だという本地垂迹説やら両部神道なんていうのも、一部の知識人が考えたことで、一般庶民にすれば、村にはお寺もあれば神社もあるのが当り前。他方、宣長以下の国学者にとっては、ここでの、仏を主、神を従とする宗教観は決して認められないだろう。
 それに宣長の描く古代像は、前述のように、道徳のいらない世界なので、すると制度もいらないし、政治もいらないことになる。つまり、一種のアナーキズムであり、統治のためのイデオロギーとしては元来使えない、ということ。あるいは聖徳太子もそれを理解していて、天皇中心の国家を運営するために、仏教を取り入れる必要を感じたのかも知れない。
 この種のユートピア思想は、危機の時代には先鋭化して排他的になりがちになる。いや、宣長が大和心に対立する概念として漢心を言挙げしたときに、それは既に始まっていたと言えるでしょう。
 「復古が復古であるといふのは、それの達成せられないところにある」という上の暮田正香の言葉は、本人が思っている以上に痛烈な意味があるように思う。達成不可能なほど煌びやかな理想だからこそ人を強く動かして革命を推進するが、結果明らかになるのがまた理想の達成不可能性。規模の大小はあっても、こういうことを繰り返しながら人間の歴史は進んできた。この種の悲劇は絶えることはないが、それでも人間社会は少しづつよくなっているのだろう。それだけは信じていきたい。
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立憲君主の座について その19(皇統の維持のために)

2022年06月29日 | 近現代史
メインテキスト:坂本太郎/井上光貞/家永三郎/大野晋校注『日本書紀 全五巻』(岩波文庫平成6~7年)
        宇治谷孟『続日本紀 全現代語訳 全三巻』(講談社学術文庫平成2~7年)


衣笠貞之助監督「妖僧」(昭和38年)

 先日少人数のweb会議で天皇家について話す機会があった。流れによっては、しばらく前から話題になっている(公的な動きとしては平成16年に小泉純一郎総理の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」から)、天皇家の将来について話題にしたかったのだが、その方向へは行かなかった。
 だから改めてここで、というほどの定見があるわけではないのだが、この問題の淵源は、もちろん天皇家の特質にある。これを整理して、多少の考察を加えて見せるのも、皆様の参考にならないとも限らないと思い、あの折開陳しようかと思っていたこと書きつけます。

 天皇家の特質というと、「万世一系」とよくいわれますね。大日本帝國憲法(明治22年公布、翌年施行)に「第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるやつですね。次には「第二條 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所󠄁ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス」というのがその中身。同時にできた皇室典範は「第一條 大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス」、ここで初めて公式に「男系」が登場し、これは戦後の新皇室典範にまで引き継がれています。
 男系、とは、父親の系統で繋がる、ということで、父が天皇なら女性が天皇になった例も、江戸時代以前には八人十代あったわけですが、その女帝がよそから婿をもらったら、その間にできた子供は女系、ということになります。
 それは一人も天皇にならなかった。というより、そういう子供はいなかったのです。八人の内訳は元皇后三人、元皇太子妃一人(四十三代元明帝。夫の草壁皇子は天皇になる直前に亡くなった)で、夫だった天皇(か皇太子)の間に生まれた子が次の天皇になっている。いずれも在位中は独身。あとの四人は生涯独身で、次の天皇は親族から出ています。
 それから、天皇の男系子孫の男性でも、一度皇籍から降りたら原則として皇位に着く資格を失います。例外は二人。五十九代宇多帝は、元慶8年(884年)源氏となり(賜姓降下)、三年後に、時の権力者・関白藤原基経の思惑で皇籍復帰し、即日、父・光孝帝が崩御したので、即位しました。その子六十代醍醐帝は、父が源氏となった翌年の生まれですが、父とともに皇室に戻りました。
【因みに、五十代桓武帝以後江戸期まで、皇族が臣籍に降りた場合の姓は、源氏と平氏の二つに限られた。
 源氏と平氏と言えば、公家もあるが、もちろん武家になったほうが有名。そして、征夷大将軍や執権として、事実上国の最高権力者となったのは、豐臣を特例として、すべてこの二氏で占められている。北條家は平氏、足利家は源氏の系統。
 ややこしいのだが、氏姓制度で、天武朝の「八色の姓(やくさのかばね)」で整備された「姓(かばね)」とは、「真人、朝臣、宿禰……」など、公侯伯子男の、貴族の称号のようなもの。「源」「平」「藤原」「橘」などが氏。さらにその氏が増えてきて、中で区別する必要が出て来たときに使われたのが、地名などからつけられた、藤原氏だと「近衛、九条、一条……」などの名字。北條や足利も同じことで、これが今では普通に「姓(せい)」と呼ばれている。
 足利幕府末期の争乱を経て、下剋上により武家の名流名家はほとんど没落したが、代わって勢力を得た者も、天下人かそれに近くなると、家の源流を飾りたくなるものらしい。織田信長は平氏を、德川家康は源氏だということにして、朝廷に出す公式文書の署名は「源朝臣家康」などとしている。
 これが事実に基づいてはいないことは、名乗っている本人が一番よく知っていたろうが、最低限の形式であっても、天皇を頂点とした秩序は維持しようとする意識はずっと続いていたことを、ここに見ることができるだろう。】

 以上二つの原則からして、現在皇位継承権があるのは三人。年齢的に次代を担うと言えるのは秋篠宮悠仁様お一人で、さら次々代となると、悠仁様に男子がお生まれになるとは限らないので、危ういことになります。前述の「皇室典範に関する有識者会議」は、悠仁様ご生誕前の、次代に関してすら危機感が持たれた時期に開かれたのです。
 皇統存続についての不安を払拭するために皇室典範を変える、としたら、方策は二つしかありません。上に述べたところから自然に分かるでしょう。①女系を認める。②昭和22年、GHQの指令で臣籍降下した宮家が十一あるので、それを皇族に復帰させる。
 いずれも、実在がほぼ確定している天皇(十五代應神帝あたり)から数えても1500年以上続いてきた皇統の伝統を変えることになります。特に①は、一度女系の天皇が即位したら、その後は男系で続けたとしても、皇統は一度断絶した、という思いは残ってしまいそうです。
 これはどれほどの重大事であるのか。ひるがえって、なぜこのような伝統が生まれたのか、をできるだけ遡って考えてみましょう。

 隋の史書「随書東夷傳俀國傳」に、607年のこととして、東夷の倭国から国書が来たという、次の記述があるのは有名ですね。

其の國書に曰く、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」と。帝(煬帝)、之を覧て悦ばず。鴻臚卿(外務担当)に謂ひて曰く、「蠻夷の書無禮なる者有り。復た以つて聞するなかれ」と。

 この時、もうこんな無礼な奴からの書は取り次ぐな、とまで怒った煬帝ですが、その後何があったのか、翌年には向こうから使者を送って来ています。その時携えてきた国書の書き出しは「皇帝問俀皇」。こちらからの返礼の書き出しは「東天皇敬白西皇帝」。
 ここで、公式な文書としては初めて「天皇」の文字が見えるのですが、これは「日本書紀」の記述で、隋側の記録はなく、事実この通りの文言が取り交わされたかは疑問の余地があります。ただ、7世紀初めの帝だった推古帝(日本最初の女帝)ではないとしても、「日本書紀」(完成は720年)の編纂を命じた天武帝からは、天皇の称号は存在していたのでしょう。
 その意味は以下でしょう。支那の中原(当時の感覚では世界の中心)の周辺は、北狄・東夷・南蛮・西戎などと呼ばれる劣った国として、支那の皇帝に(定期的に貢物をして、もっと価値の高いものを下賜される「朝貢」以外は、かなり形式的にだが)臣従するのが当然だとする、いわゆる華夷秩序が当時の東アジアの常識でした。そこから離脱・独立までは無理としても、できるだけ距離を置きたい、という意欲の現れがひとつ。
 もう一つ、天皇には、天の皇帝・北極星の意味もあるので、「確固不動の存在」のアピールでもあったでしょう。時の権力者が自分たちをそう思いたい・思わせたいのは至極当然と言えますが、この後の成り行きが、この時点で暗示されていたような感じにもなります。
 それというのも、例えば、孟子に由来する「湯武放伐(とうぶほうばつ)」という言葉があります。
 支那の伝説上の三皇五帝は、血統に拠らず、人物と業績から次の皇帝が選ばれたことになっています。その最後の禹(う)が、姓を夏または夏后とし、子の啓から世襲による王朝が始まります。夏王朝は十四代目の桀(けつ)に至って暴虐にして人心が離れ、商国の湯王によって滅ぼされ、湯が創始した王朝・殷はまた、三十代目の紂(ちゅう)が悪逆の王だったので、周の武王によって打倒されました。
 天命を受けて天下を治める者が「天子」なのであり、周辺諸国の「王」は何人いてもかまわないが、天子は絶対に一人でなくてはならない。これが、先の文書で煬帝が怒った理由です。
 この天命は子孫に受け継がれて、王朝となる。しかし、天命≒徳を失えば天子たる資格も失うので、潔く他に位を譲るか、そうでなければ武力で打倒されてもしかたがない。前者を「禅譲」、後者を「放伐」と言います。
 孟子はそれを当然、としたわけです。そう言わないわけにはいかないでしょう。殷を滅ぼして新王朝を開いた周の初期の政治こそ、儒教の祖・孔子が理想としたものだったのですから。
 禅譲・放伐いずれかで王朝が替わることは「易姓革命」と言います。姓が変(=易)わって天命が改(=革)まること、明治期以後の日本でrevolutionの訳語にされる前には、革命とはそういう意味だったのです。
 日本にはこれは起きなかった。皇帝である天皇家は、家臣に氏姓を与えますが、自分たちには氏も姓もない。だから、易姓革命は起こりようがない。だから、起こらない。そういう願いで、この制度は作られたのでしょうが、それから1500年以上、一応はその通りになったというのは、驚嘆すべきことです。
 もっとも、放伐は絶対にいけない、とまで言うのは少し具合が悪く感じられたかも知れません。天武帝は兄の遺児である大友皇子(明治になってから、一度は即位したことが公式に認められて、三十九代弘文天皇と諡号された)を壬申の乱で倒して、帝になったのですから。血統こそは変わらないけれど、その血統内部での相当血腥い闘争はあったわけです。支那にもありますが、儒者も、それもいいんだ、とは言いません。
 とはいえ、こういうこともあまりあからさまには言挙げされませんでした。朝廷が安泰の時なら、それをも含めて、わざわざ言う必要も感じられないのは当然でしょう。危機の時代に、皇統の大原則が、改めてある人々に発見される感じになります。
 「この日本国は初より王胤はほかへ移ることなし」と言っている「愚管抄」が九條家出身の天台座主・慈圓によって書かれたのは、武家によってそれまでの朝廷政権の存続が危ぶまれた承久の変(1221年)前後のこと。
 それから百年ほど経ち、鎌倉幕府滅亡後の南北朝の争乱期に、南朝の重臣・北畠親房が書いた「神皇正統記」(1339年頃完成)は、「大日本(ヤマト)は神国(かみのくに)なり」で始まります。なぜなら「天祖(あまつみおや)初めて基(もとい)を開き、日神(ヒノカミ)長く統を伝へ給ふ」、つまり、創造神の系統が途絶えることなく現在まで伝わっているからだ、と言うのです。
 ただし、以前にも書いたことですが、親房は次のようにも言っています。

君は尊くましませど、一人(いちにん)をたのしましめ万民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬいはれなれば、政(まつりこと)の可否にしたがひて御運の通塞(とうそく、運の善し悪し)あるべしとぞおぼえ侍る。

 二つの皇室が存在するという未曾有の混乱の時代には、改めて皇帝の「徳」が持ち出されたわけです。しかしそれだと、どちらの側により徳があるかという、決して完全な決着はつかない論議を呼び込みます。何が本当の「徳」であるのかにしてから、いつでも誰でも納得できるような原則はまず見つからないでしょうから。
 実際にはその議論が盛り上がることはなく、この争いを収めたのは武力と政治力でした。それで、南朝正閏論なんてものがその後現在まであることはあるようなんですが、私もよく知りませんし、知らなくて困ることはまずなないです。
 明徳の和約(1392年)によって最終的に皇統が再統一されると、君主には徳がなくてはならない、という論理は、君主がいてしかもその地位が世々同一家系に受け継がれている事実から、家系ぐるみでその君主(たち)には徳があるんだ、という論理、否むしろ心情に、わりあいとすんなり入れ替わります。価値があるから長持ちするのではなく、長持ちしていから価値があるのだ、と
 だいたい日本人には本来、それ以上の道徳も、何が道徳的に正しいなんて賢しらな議論もいらないんだ、と江戸時代の国学者・本居宣長が「直毘霊(なおびのたま)」(1771年成稿)で言っています。「古の大御世(オホミヨ)には、道といふ言擧もさらになかりき」「故古語(フルコト)に、あしはらの水穗の國は、神ながら言擧せぬ國といへり
 ならば、そういうこともわざわざ言挙げしなくてもよさそうなのですが、ここには他国との優劣比較が意識されているのです。文中ではそれは、異國(アダシクニ)と呼ばれ、端的に、支那のことです。

異國は、天照大御神の御國にあらざるが故に、定まれる主(キミ)なくして、狹蠅(サバヘ)なす神ところを得て、あらぶるによりて、人心あしく、ならはしみだりがはしくして、國をし取つれば、賤しき奴(ヤツコ)も、たちまちに君ともなれば、上(カミ)とある人は、下なる人に奪はれじとかまへ、下なるは、上(カミ)のひまをうかゞひて、うばゝむとはかりて、かたみに仇(アタ)みつゝ、古より國治まりがたくなも有ける。其が中に、威力(イキホヒ)あり智(サト)り深くて、人をなつけ、人の國を奪ひ取て、又人にうばはるまじき事量(コトバカリ)をよくして、しばし國をよく治めて、後の法ともなしたる人を、もろこしには聖人とぞ云なる。

 時を超えて定まった皇帝がいないので、湯武放伐なんてことも起き、人心も乱れるし、国が治まらない。中で国を奪い、奪われないためのうまい方策も考え出した人を、彼の国では聖人というのだ、と。日本がそうならないのは、天照大御神以来連綿として続く天皇家があればこそだ、というわけです。
 このような見解の正否を問うのは、それこそ無駄な言挙げというものでしょう。信念・信仰に属する話だからです。
 とはいえ、世々の帝もそれに仕えた人々も、生きた人間である以上、いろいろなことが置きます。古代日本でも、上の信念を揺るがすような出来事がありました。それを先人はどう乗り越えたのか。二例ほど見て、「万世一系」の内実に少し踏込んでおきましょう。

 系図1は、記録上最も遠い血筋に皇位が譲られた例です。
 十六代仁徳帝は、人家から立ち上る竃の煙の乏しさから、民の窮乏を察し、最初は三年間、されに二年間加えて、宮殿がぼろぼろになるのも構わず調(税)を停止したとされるいにしえの聖王です。その後この系統からは、雄略・武烈という、悪行で知られる帝が出ます、そして、二十五代武烈帝には子がなく、その後は、仁徳帝の父・應神帝まで遡って、その五世孫の繼體帝に受け継がれます(507年)。
 五代前の祖先が同じ、と言えば、おじいさんのおじいさんのそのまたお父さんが、ということですから、一般庶民なら「他人」というのでしょう。しかし、そういうことより、次のような二つの特徴が、個人的には興味を惹きます。
 第一に、偉大な聖王が開いた王朝が、後に悪逆な王を出し、天命を失って、次の王朝に取って代わられるという、前記「易姓革命」と同じ型の物語がここには見られます。実際はここで王朝の交代があったのではないかと考える人もいますが、しかし表だってそうは言われません。
 第二に、繼體帝は、武烈帝の姉妹である手白香皇女(たしからのひめみこ)を后とし、この人が二十四代欽明帝の母なのだから、女系なら仁徳帝の系統は現在まで続いていると言えます。名家に女子しか生まれなかった場合、遠縁から婿をもらって家を継がせる、という話は昔はよくありましたが、天皇家については、表だってあまりそうとは言われません。
 因みに、明治以降の皇室典範では、天皇家は、養子が禁じられています。

 系図2は、女帝の中でも際立った存在感を放つ四十六代孝謙帝(後に重祚して四十八代稱德帝)を中心にしたものです。日本史上全部で十代八人の女帝のうち、七代五人がこの時期に集中して登場しているところからみても、皇統の危機が感じられます(三十六代孝德帝は、皇極・斉明帝の弟で、早期に系統が途絶えたので、この系図からは省かれている)。
 この中で孝謙帝は、皇太子となった、つまり前代の聖武帝の在位中から次代の天皇として指名されたただ一人の女性です。聖武帝には生後一年を待たずに亡くなった基王(もといおう)の他に、安積親王(あさかしんのう)という男子がいたにもかかわらず、この空前で、今のところ絶後の措置がとられました(738年)。たぶん実母の藤原光明子(藤原不比等の娘で、臣下から初めて正式な皇后となった。安積親王の生母ではない)を中心とした、藤原氏の策動が最大の要因だったのでしょう。
 聖武帝は生前に孝謙帝に譲位し、太上天皇となった(749年)初めての男性ですが、是非娘の血統に天皇位を継がせようというまでの気持ちは最終的にはなかったらしく、遺詔(遺言である詔)で、天武帝の孫の道祖王(ふなどおう)を次の皇太子にするように命じています(756年)。因みに天武帝は孝謙帝の高祖父になりますので、この時点で次の帝は血統を四代遡ることになりました。
 父・上皇の没後、孝謙帝は強引なことをやり出します。
 まず、立太子後一年も経たないうちに、道祖王の行状が悪いことなどを理由に、廃嫡します。代りには、彼の従兄弟の大炊王(おういおう)を立て、四十二代淳仁帝とし、自らは退位しました(758年)。
 しかし、四年後に出家すると同時に、「政事は、常の祀と小事は今の帝が行ひ給へ。国家の大事と賞罰は朕が行ふ」と詔(みことのり)を出し、淳仁帝から行政・司法権を取りあげています。実際にその通りになったとすれば、事実上の院政の最初です。当時院宣という言葉自体がなかったのでしょうが、それにしても、上皇であっても天皇ではない人がおおっぴらにこんな詔を出せただけでも驚きです。
 その後、淳仁帝は太政大臣藤原仲麻呂と組んで乱を起こした、わけではないのですが、ごく親しい仲だった、という理由で、皇位を取り上げられ、淡路島に流されて、やがて亡くなります(764年。殺された疑いあり。当時の皇室には、安積親王を初め、不審死した人が多い)。
 もう一つ、弓削の道鏡との逸話は、戦前の人ならみんな知っていたでしょうが、今はどうでしょうか。
 上皇時代に病気になった孝謙→稱德帝を。献身的に看護した僧・道鏡を寵愛し(淳仁帝がそれを諫めたのが、この義理の母子の不和の原因だという話もあります)、重祚してから、彼と結婚して皇位も譲りたい、と言い出したのです。「續日本紀」には、露骨に書いてあるわけではないですが、その後の成り行きから、そうとしか思えません。
 記録されていることの概要はこうです。宇佐八幡宮から、道鏡を天皇にすれば世は治まるという神託があった、と報告された。確認のために、官人・和氣清麻呂が派遣され、聴いた神のお告げは、

我が国家は開闢より以来、君臣定まりぬ。臣を以て君と為すことは未だこれ有らざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし

 「君」には必ず皇緒、つまり天皇家の血縁を立てよ、という、万世一系に近い概念が公式の史書に登場するのは、これが最初ではないでしょうか。都(平城京)に戻ってこれを奏上した清麻呂は、名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に変えろ、と言われ、流罪にされました(769年)。彼はこの一事をもって、日本史上の英雄の一人に数えられています。一身を賭して皇統を守った、ということで。
 これに対する反論、とでも言えそうなことは、女帝のそれ以前の詔にあります。
 まず、淳仁帝を追放するとき、「王(おおきみ)を奴と成すとも奴を王と云ふとも、汝の為(せ)んままに」せよと、父・聖武天皇から言われていたのだ、と。次に稱德帝になってから、同じく父帝から言われたこととして、次のように述べています(769年)。

此の帝の位と云ふ物は天の授け給はぬ人に授けては保つことも得ず、亦(また)変へりて身も滅びぬる物ぞ。朕が立てて在る人と云ふとも、汝が心に能(よ)からずと知り、目に見てむ人をば、改めて立ててむ事は、心にまかせよ。

 天意に適わぬ人が帝となっても、位を保つことはできず、自分の身を滅ぼしてしまうばかりだ。だから、あなたから見てよくないと思えたら、たとえ自分(聖武帝)が選んだ者であっても、自由に変えてよい、ということです。
 本当に聖武帝がそう言ったのかどうかは、何しろ女帝の言葉しか残っていないので、わかりません。それでもここには、支那伝来の「天命」思想がはっきりと出ているのは注目されます。血統より、天命が、それに適うほどの徳のほうが大事だ、というわけですから。
 しかし結局、稱德帝の思い通りにはなりませんでした。道鏡を帝にすることはできず、上の詔を発した翌年に、独身のまま崩御しています。五年後には姉の井上内親王も子(一時は皇太子になった)とともに横死し、ここに天武帝の血統は完全に絶たれて、皇位は天智帝の系統に受け継がれて今日に到ります。

 以上から、皇位が原則として男系男子に受け継がれてきた意味を考えると、次のようなことではないでしょうか。
 神武天皇以来のY染色体の保持、なんてことを昔の人が思っていたわけはありませんから、これは、「家」の存続が重要視された結果なのでしょう。
 そうは言っても、前述のように、相当な名家であっても、子供がいなかったら養子をもらうのは、どこでも当り前です。特に娘に婿を貰った場合には、男系女系にこだわらなければ、血統はちゃんと繋がっているのだから、特に問題にされません。
 問題になるのは、これに天皇位が絡んでくるからです。家はそこに生まれた男のものであって、女は嫁に来たらそこの家の者になる、という観念は、「家」だけの話なら目を瞑ることもできます。
 その家が、代々天皇という日本における至高の存在を出すのだとなると。他家から来た男がそれを受け継いだ場合、天皇位も以後その男の家、弓削の道鏡なら弓削家へ移ってしまう。これは「(易姓)革命」である。その感覚は、男系が続けば続くほど、どんどん大きくなって、捨て難くなるのです。
 現在は、家観念自体がずいぶん小さなものになりましたので、そんなものにこだわる理由はないように思えます。しかし、日本の伝統の中核を担う天皇家だけは別かも知れない。すると?
 どうなるか、どうするのがいいのか、皆さんもお考えになってみて下さい。
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近代という隘路Ⅱ 番外編:ウクライナ戦争を語ってみる(下)

2022年05月23日 | 近現代史

ザザ・ブアヅェ監督「バンデラス ウクライナの英雄」(2018年)

メインテキスト:「【演説全文】ウクライナ侵攻直前 プーチン大統領は何を語った?」(NHK NEWS WEB 令和4年3月4日)
サブテキスト:黒川祐次『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』(中公新書平成14年)

 前回述べた二つの「約束」のうちの後の方は、ウクライナのNATO加盟問題です。
 1989年、ベルリンの壁が崩壊した翌年、ロシアは、ドイツがまるごと西側陣営に加わることは認め、軍を引き上げる代わりに、NATOのこれ以上の東方拡大、つまり中東部ヨーロッパの国々を新たに加えるようなことはしない、と英米と約束したのだそうです。
アメリカは“うその帝国”/NATOが1インチも東に拡大しないと我が国に約束したこともそうだ」と、プーチンが演説中で言っているのがそれです。
 1990年2月9日、当時のゴルバチョフソ連共産党書記長とベーカー米国務長官との会談で、米国側がこう言ったのだ、とされます(藤田直央)。いや、そんなものはなかったんだ、と言う人もいます(袴田茂樹)。これはいわゆる「言った・言わない」の話ですが、つまり、拘束力のある条約などの正式な外交文書はないことは確実なのです。
 改めてNATO・北大西洋条約機構とは何か。最も端的に言って、ソ連に対抗するために1949年に結成された軍事同盟です。加盟国のうちどこか一カ国でも攻撃されたら、それを全加盟国への攻撃とみなして集団的自衛権が発動されると謳った強力なものですので、ソ連側、いわゆる東側はさらにこれに対抗するために、1955年にワルシャワ条約機構が結成されました。
 後者は1991年のソ連崩壊によって解散したので、NATOもなくなってもいいはずだ、と言う人もいますが、元来を考えたら、条約機構加盟国全体ではなく、ソ連一国に備えたものだったのですから、ソ連がロシアになっても、その脅威が感じられるなら、存在理由は失われないわけです。
 それだけではなく、99年にはポーランド、ハンガリー、チェコが(第一次拡大)、2004年にはバルト三国を初めとする七カ国が参加した(第二次拡大)のは、ロシア側(東側)からすれば西側による勢力の切り崩しであり、ロシアに圧迫を加える所為だと見えることはわかります。しかしこれら、旧来東側に属した国々が、アメリカなどの働きかけはあったにもせよ、強制的にNATOに加入させられたことを示す証拠はないようです。
 そうであるならば、主権国家はどんな条約を結ぼうと、本来自由なのです。問題は軍事だけ、というより、経済的にも、西側に属したほうがメリットが大きいという計算も働いているのは当然でしょう。もちろんそれは、ロシアの孤立感を深める要因にもなるわけですが。
 NATOの加盟規約には「締約国は,全会一致の合意により,本条約の諸原則を促進し北大西洋地域の安全保障に貢献することができる他のいかなる欧州の国を本条約に加入するよう招請することができる」(第十条)とあって、全会一致、即ち全参加国の合意が加盟の条件ですから、例えばアメリカ一国でも「ウクライナは将来にわたって加盟させない」と約束すれば、できることではあります。
 ただそうなれば、東ヨーロッパの国々は、希望しても参加できないとあらかじめ決められることになって、この条文全体から感じられる、「問題がなければ参加自由」の精神とは背馳しているのも否めないでしょう。

 ウクライナでは、2002年から、政権が反ソ寄りであるときにはNATO加盟に意欲を示していました。しかし、国民の意思はこれをあまり歓迎せず、いくつかの調査だと、加盟賛成は20%前後であるのに対して、反対は60%を越えることもありました。
 この間の一つの節目は2006年で、当時のユーシチェンコ政権からは加盟に向けて本格的な協議に入りました。しかし2008年のブカレト NATO 首脳会議では、これは結局見送られることになりました。主に独仏が、加盟にはウクライナ国民の支持が低いこと、ウクライナの民主化が未成熟であること、NATO とロシアの関係が悪化する可能性が高いことを理由に反対したからです(合六強)。
 もしもこの時ウクライナのNATO加盟が実現していたら、今回の軍事侵攻はなかったでしょうか。それとも、もっと早い段階で、ロシア対NATOの全面戦争、ということはつまり、第三次世界大戦となっていたでしょうか。あるいは、私などにはわからないもっと巧妙で悪辣な手段で、ロシアはウクライナを含めたNATO(≒西側)に報復したでしょうか。
 いずれにしろ、ロシアのような軍事大国・資源大国を無用に刺激して怒らせて、ゴタゴタの種になるようなことは、なるべく蒔きたくない、と思う人が西側に多いことは確かです。アメリカでも、ヘンリー・キッシンジャー(岡崎久彦監訳『外交・下』日本経済新聞出版平成8年)やジョージ・ケナン(『毎日新聞』3月19日)のような戦後米外交の大立者が、ウクライナやベラルーシをソ連から引き離すことになる試みや、NATOを旧ワルシャワ条約機構参加国にまで広げることには警鐘を鳴らしていました。
 一方で、ロシアを敵視し、むしろ追い詰めることをよしとして、ウクライナの政局に関わった人たちもいます。前回述べた、ネオコンがその代表でしょう。彼らは自由と民主主義原理主義者で、それを力で押しつける(端的に矛盾してますね)ことも厭わず、ロシアを全体主義国家として、少なくともプーチン体制の打倒を目指しているようです。
 彼らの働きかけがどれほどの効果があったものか、わかりませんが、ウクライナでは、マイダン革命を経た2015年には、NATO加盟賛成約40%反対約30%という、初めて逆転した結果が出ました。そこで、マイダン革命によって成立したポロシェンコ政権は、2019年2月に憲法を修正し、EUとNATO加盟を目指すことを書き込みます。
 この年の4月、次の大統領となったゼレンスキーは、NATOとの軍事協力を進めました。今ウクライナ軍が強大なロシア軍を相手に善戦しているのは、このときの訓練の賜だと言われます。
 これらに対してロシアは2021年からウクライナ国境近くに兵力を結集して圧力をかける一方、米国及びNATOとの間で、NATOの東方不拡大と、NATOとしての武力配置は、ベルリンの壁崩壊以前の加盟国に限定する条約を締結しようと提案しました。これに対して本年1月26日、米国は拒否したことを発表しました。それでもウクライナについては、まだ話し合いの余地があると米国側は伝えたそうですが、ロシアにしてみれば、前回述べた国連安保理への訴えが却下されたことともども、交渉決裂だと感じたのでしょう。(山添博史
 だからといってロシアが直接的な武力侵攻に踏み切るとは、西側ではほとんど誰も思っていなかった。何より、ゼレンスキーは3月15日に、ウクライナはNATOに加盟できない、と公に発表したのです。実はもう昨年の段階で、米国務省高官に、今後10年はNATO加盟は無理だと伝えられていたそうなので(AP通信2011年12月10日)、プーチンとしては、それほど急ぐ必要はないはずなのです。それなのに……? 西側にはプーチンの心事は量り難かったし、今もそのようです。

 もう一段遡って、どうしてロシアにとって、NATOの拡大、なかんずくウクライナの加盟はそれほど嫌なのか。
 よく、「緩衝地帯」という言葉が聞かれますね。国境を接する国が敵方陣営に属するのはそれだけでも脅威なのだ、と。ロシアは1812年にナポレオンに、1941年のソ連時代にはヒトラーに攻め込まれ、多大な被害を出した。特に後者は、ロシア側だけでも二千万人以上の犠牲者を出した史上最大規模の激戦であった。
 これが今もロシアのトラウマとして残っている。私も今回改めて思い知らされたのですが、戦闘機やミサイルが発達した今日でも、地上部隊が国内に侵攻してきて、占領しない限り、戦争の勝ち負けは決まらないのは昔のままなんですね。のだとしたら、国境付近の敵の存在はやっぱり気に掛けないわけにはいかない。
 そのための緩衝地帯なわけですが、そう言われた方ではありがたいかどうか。A・B・C三国が並んでいて、A国がC国を侵略しようとした場合、どうしてもB国を通らなければならない、そして、B国はC国と友好関係があるか、少なくとも中立である場合には、A国はまずB国と戦争を、少なくとも交渉をしなければならないわけです。その間に、C国はゆっくり戦争準備ができるので、20世紀の独ソ戦のような、不意打ちは食わなくてもすむ。ありがたい話ですね、C国にしてみれば。B国はどうですか? なんだか、囮の餌に使われているような気がするのではないでしょうか。
【これを書いている時期で一番の話題は、永年中立国を続けてきたフィンランドとスウェーデンがNATO加盟の希望を表明したこと。これでまた欧州の緊張は高まる、という人がいるが、特にフィンランドは、第二次世界大戦中に二度に渡ってソ連に攻撃され、善戦して独立は保ったものの、領土の一部は奪われている。今のロシアも、2008年に、南オセチア紛争でジョージアに軍事侵攻している(どちらが先に軍事力を行使したかについては、例によって主張の対立がある)。その攻撃的な性格を目の当たりにしたら、とても中立なんておっとり構えてはいられない、ロシアに与える緊張云々も、こっちの立場を考えていない無責任な言い分に過ぎない、というのもよくわかる。】
 それに、この考えにはどうも危険なところがある、と思えます。趣味で日本近代の戦争史をボツボツ勉強して、ここで発表しているので、つい重ねてしまいがちになるのでしょうが。
 明治23年(1890)に山縣有朋が「主権線」と「利益線」ということを言ったことは以前に紹介しました。この利益線がつまり緩衝地帯のことです。
 この時代の日本にとって、それは朝鮮半島でした。そして、最大の脅威と感じられていたのは帝政ロシア。シベリア鉄道の開通によって、東側に簡単に兵を送れるようになったロシアが、半島を支配するようになれば、「主権線(日本国内)の対馬は頭上に刃を振り上げられたような状態に陥る」から、日清戦争の結果清との間に結んだ天津条約に従って朝鮮を独立を待つか、「それとも一歩を進めて朝鮮と連合し保護して、国際法上恒久的な独立国の地位を与えるべきか」こそが今日日本最大の問題である、と。
 結果として日本は、朝鮮をまず「保護国」にして、親ロ派の王妃を暗殺、ではなくて白昼堂々宮廷に押しかけて殺すなんて荒っぽいことをして、とうとう併合してしまったのです。それはまあ、中立なんてやっぱり中途半端ですから。今は敵方ではないというだけで、いつ向こうに転ぶかわかりはしない。「保護」したってその可能性は残る。完全に自分のものにしてしまうのが一番なわけです。
 ところが、それで終わりかというと、そうではなく、また新たな不安の元ができます。これによって日本は、古代の任那の状態はよくわかりませんが、それを除くと初めて地面の上の国境ができてしまったわけです。当然これにも利益線=緩衝地帯がほしい。それで、満州に傀儡政権を作りました。そうするとそのまた緩衝地帯のために、内モンゴルを、いや、北支を、いやいや支那全体を……ということになって、こうなるとそれは防衛のためなのか、侵略なのか、やっている当人もわからなくなるでしょう。
 これをそのまま今のロシアに当て嵌めるわけにはいきませんが、多少は共通する要素があるでしょう。ウクライナが、傀儡政権などの形で、完全にロシアの手中に落ちたとすれば、その隣にはポーランドがあります。
 かつての強国で、何度かウクライナを支配したこともあるが、第一次大戦前にはいくつかの帝国に分割統治されて、やっと独立したと思ったら独ソの駆け引きの道具になって、またまた東西に引き裂かれた。第二次大戦後に復活し、1991年にウクライナを独立国として世界で初めて認めたのも、ポーランドだった。それが今やNATO加盟国になっていることは、ロシアにとって脅威ではないでしょうか?
 それより、支那事変の時の日本と今のロシアが共通しているのは、相手をナメてかかって、こんな紛争はすぐに片がつく、と思っていたところでしょう。因みに、ソ連を攻めたときのヒトラーもそうでした。
 2月26日に、国営の『ロシア通信』が、「反ロシアとしてのウクライナはもはや存在しない」という文言を含む記事「ロシアの前進と新世界」(英訳はこちら)を配信して、すぐに削除したことが知られています。これはロシアの首脳部が、早期の勝利を、始める前に確信していたので、それを祝うために用意されていたものが誤って出てしまったのでしょう。
 それというのも、すぐ前に成功体験があったからでしょう。2014年にクリミアの「独立」を短時間で達成したという。日本の満州事変、ドイツのフランスに対する勝利、などにも共通する、赫々たる戦果からきた自信が、高慢に変じる。一番危険な落とし穴は、こんなところにあるのです。
 もう一つ、「新世界」をロシアが築くのだ、とは、「東亜新秩序」の建設を唱えた日本と、これまたそっくりですね。日本人として、こういう考えに正当性が全くない、とは言いませんが、むしろそれだからこそ、容易には否定できない、彼ら自身にとってだけではなく、世界全体に波及する危険の芽がここにはあると感じざるを得ません。

 緩衝地帯の要素とは別に、いわゆる東側の国々の中でも、ウクライナはロシアにとって特別な国だ、という話もあります。プーチンの「問題なのは、私たちと隣接する土地に、言っておくが、それは私たちの歴史的領土だ、そこに、私たちに敵対的な「反ロシア」が作られようとしていることだ」という言葉にあるように、彼を初め、ウクライナは元来ロシアの土地だ、と思っているロシア人は多いようです。
 「兄弟の国」ともよく言われますね。10~12世紀に栄えたキエフ・ルーシ大公国が両者の源流で、キエフ、今はキーウ、は言わずと知れたウクライナの首都で、大公国の元来の根拠地、ルーシはロシアの語源で、東のモスクワ大公国はその後継をもって任じたのですから、歴史的にはウクライナのほうが兄貴分だと言えそうです。
 ロシア人とウクライナ人は元は同一民族(スラブ人)だったと簡単に言えるかどうかは、しばらくおきます。13~15世紀のモンゴル帝国による支配、いわゆる「タタールの軛」(ロシアではモンゴル人とタタール人はほぼ同義)の時代の後から、東方の山岳地帯コーカサス地方から西方の平原ウクライナ地方に、主にポーランドやリトアニアから多くの人が移住し、彼らの中からモンゴルの騎馬軍団に倣って武装した、コサックと呼ばれる戦闘集団が出て来ます。【またどうしても、日本の中世の、荒戎とも呼ばれた初期の武士集団が想起される】。
 最初彼らはポーランド王国に属していたのですが、16世紀末からその力は非常に強大になります。コーカサス地方はともかく、ウクライナ地方は肥沃な土地で、穀物がよく実り、やがて「ヨーロッパのパン籠」と呼ばれるようになりました。そこへポーランドの貴族の手先(多くはユダヤ人がその任にあたったようです)がやってきて、税を取り立てる。土地の開発にも管理にも一指も動かしたわけでもないのに。
 この不満が溜まったところで、ウクライナ史上最高の英雄ボフダン・フメルニッキーが登場します。1648年、彼が個人的ないざこざからポーランドに対する反抗を呼びかけると、たちまち多数の賛同者が集まり、さらに長年の敵だったタタール人とも合同して、軍を組織すると、ポーランド軍を打ち破り、ワルシャワまで迫った。そしてコサックの多くの権利をポーランド王に認めさせた。その後の戦いにも勝ち、ヘトマン国という名前の国家成立寸前まで行きました。
 しかし、タタールには裏切られ、当時イギリスの独裁者だったクロムウェルなどを含め、各国の保護を求めたものの、他はどこもはかばかしくはいかず、キエフ・ルーシの正統な後継者をもって任じていたモスクワ大公国改めロシア帝国と緊密な関係を結ぶに至りました。これで、どこかで見たような、「保護」から支配へと進む道をつけたわけで、そこからフメルニッキーの評価は分かれます。
 どうして独立国家形成の道を歩まなかったのか? コサックは独立不羈の性格が強く、合議制でものごとを決め、頭目も選挙で選んだりしていたので、強い権力の集中を要する当時の帝国は性に合わないと考えられたのかも知れません。
 もう一つ、それとも関連しますが、国家の正統性の根拠が乏しい。神の使命を受けているとか、偉大なる祖先の意志を受け継いでいる、とか、非合理なんですが、こういう神話的な共通了解事項(共同幻想、と言ってもいいです)がないと、当時は、ひょっとすると今も、国家は成り立ち難いと感じられたのもかも知れません。
 さらに加えて、ロシア側からすると、上とは別に、ウクライナを是非押さえておきたい事情があります。この国、ではなく向こうから見ると地域は、南側で黒海に面しています。ここはボスポラス海峡を通って地中海につながっている地政学上の要衝で、不凍港の乏しい内陸の国としては、貿易のためにも軍事のためにも是非我が物にしておきたい場所なのです。独立なんぞさせられるものではない。
 かくて、ポーランドやオーストリア・ハンガリー帝国に分割統治されたこともありますが、基本的にはロシアに支配されて現代に至るウクライナの苦難の歴史は、黑田祐次著に直接あたっていただければと思います。
 その中で一番悲惨なことだけ言うと、ロシア革命後、ウクライナ共和国としてソヴィエト連邦に加えられたときのホロドモールでしょう。
 1935~36年、世界が大恐慌で不況に喘いでいたとき、ソ連だけが好況だった。それは、スターリンがこの地方から小麦を供出させ、輸出に回したからで、現地人の食い扶持まで取り上げたので、餓死者が出た。これと、ソ連が採用したコルホーズ、即ち農業集団化を受け入れなかった農民の粛正によって、五~六百万人の死者が出た、と言われます。20世紀にいくつかあった、近代の蛮行の代表例です。
 そして1991年に旧ソ連圏から離脱して独立したウクライナは、フメルニッキー以来350年ぶりの悲願を達成したとも言われています。それでも、現在に至るまで、平安は訪れていないわけです。
 プーチンが、ウクライナは自分たちの「歴史的領土」だと言うのは、理由のないことではありません。民族も言語も宗教(キリスト教東方正教会派)も非常に近いのはそうです。
 が、その歴史には上のような悲惨も含まれているのです。
 こういう「兄弟の国」には、親しみより、「近親憎悪」の感情のほうが強くなるのは当然です。今のウクライナ政府がどれほど腐敗にまみれていても、ロシアに支配されるよりはましだ、と思う人が相当数いるでしょう。そうでなかったら、いくら西側の支援があったところで、こんなに長くウクライナの抵抗が続くはずはないのです。

 映画「バンデラス」は、国境近くの村を親ロ派が襲い、それを反ロ派のせいにみせかけようとする策謀を、反ロ側が暴くという内容の映画です。ウクライナによる宣伝映画の側面もあることは否定できません。これとは反対に、反ロ派による蛮行を訴えたドキュメンタリー、アンヌ=ロール・ボネル監督の「ドンバス2016」は今でもYoutubeで日本語字幕付きで見ることができます。バランスをとる意味で紹介しておきます。
 「バンデラス」とは、「バンデラ派」と映画中では自ら名乗り、「ファシストめ」と、親ロ派の村人に罵られたりする武装集団です。第二次世界大戦中に活躍した独立運動の英雄ステパン・バンデラの名に由来する、そういう部隊が実際にあるのかどうかは知りませんが、ほぼアゾフ連隊と同じこと、とみていいのでしょう。
 バンデラその人は、まずナチス・ドイツを、ポーランドからの解放者と考えて、協力しました。現ロシア政権や親ロ派が現ウ政権を「ネオナチ」と呼ぶのは、この事実に拠るところが大きいようです。
 しかし独ソ戦直前になって、ドイツに占領されたウクライナの地域の独立宣言を出そうとすると、ドイツはそれを認めず、彼は終戦まで軟禁されていました。戦後は反ソ運動の象徴として活動、1952年に、ミュンヘン郊外で、ソ連のスパイによって射殺されています。この数奇な運命はまさにウクライナそのものを象徴しているようです。
 映画には、バンデラ派である主人公の妻が、敵方(親ロ派)に捕まり、「お前は何人だ?」と問われる場面があります。「ウクライナ人」と答えると、「ウクライナなんて存在しない」と言われます。「ベラルーシ人もバルト人もいない。みんな同じ民族だ。ロシア人、つまりスラブ人さ。アメリカとNATOが俺たちを引き裂いている。やつらこそ真の敵だ
 これが端的にロシア側の言い分で、繰り返しますが、当っている面もあるでしょう。しかし今は、ウクライナ人は確実に存在します。ロシアとのこの全面戦争は敵愾心を生みますから、その裏面に強い民族意識が生じるのです。ナショナリズムとはそうしたものです。
 今後現在の紛争がどう決着しようと、このことは当分は動かないでしょう。もっともそれはずっと前からあって、今度初めて我々遠く離れた場所の一般人の目にも映じた、ということかも知れません。いずれにしろ、人類は、平和で安定した世界を築くために、またもう一つ取り組まねばならない大きな課題を抱えてしまったわけです。
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近代という隘路Ⅱ 番外編:ウクライナ戦争を語ってみる(上)

2022年04月30日 | 近現代史

BBC News 2014/5/3

メインテキスト:「【演説全文】ウクライナ侵攻直前 プーチン大統領は何を語った?」(NHK NEWS WEB 令和4年3月4日)

 映画監督の河瀬直美さんが4月12日に東京大学の入学式で祝辞を述べ、そこで言われたことがけっこう話題になりました。その部分を引用しますと、

 例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか? 誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?

 これにはいろいろ批判が出たようですが、一応妥当な意見と言っていいようです。そこを敢えてつっこむ、というか、いささか絡むような言い方になるのですが、「~は簡単だ」というのは、ある見方をクサすときによく使われるんですけど、それだけに、とても「簡単」な言い方ですね。簡単だからまちがい、複雑だから正しい、ということはありませんので、実際は、その見方は表面的な、安易なものである、と言いたいわけでしょう。でも、どこがそうなのかを言わないんだったら、これは一方的な、安易、というよりは、単なるイヤミに過ぎないものになる。
 「『悪』を存在させることで」云々は重要で、世の中、善悪はそう簡単にわかるものではないのに、いやむしろ、だからこそ、そう決めつけて、とりあえず自分の精神を安定させる。対立するどちらにも言い分はあるんだから、云々というようなのは、何か曖昧で、不得要領で、まちがいを恐れて判断を留保する、狡さのように感じられることもある。
 そこに罠がある。そうですね。でも、そう言って、「ロシアは悪である」という言い方にケチをつけるだけなら、こちらのほうがはるかに狡い、と言ってもいい。どこまで行っても、人間の言葉って、こういう回路のどうどう巡りを繰り返すしかない宿命にあるようです。
 河瀬さんは結局、「自分の頭で考えろ」という、こう言ってしまうとまた、かなりよくある、安易にも聞こえることを勧めていますんで、ウクライナ情勢という、世界史的な大事件について、素人はこんなふうにも考えるんだ、の一例を述べてみましょう。

 地上波TVや大新聞をざっと見ると、「これはロシアによる侵略だ」「悪いのはプーチン大統領だ」一色のようですが、必ずしもそうではない。
 例えばロシア軍が民間人も殺害している、これは「人道に対する罪」にあたる、れっきとした犯罪である、という欧米発の見解は確かに大きく報じられますが、いや、あれはウクライナが作ったフェイクだ、画像や動画も、劇映画のように、演出されたうえで撮られたものか、あるいは、ウクライナ人をウクライナ軍自身が殺したものを、ロシア軍の犯行だと主張しているんだ、というものもある。後者を信じ込み、ウクライナを悪と決めつけて、「安心」しているような人も、フェイスブックやユーチューブなどの、SNS上ではよく見かけます。
 高度情報化社会とは、偽の情報を作って流す技術も進歩する社会で、情報が増えれば増えるほど、情報ゼロと同じになる、わけではありませんが、とんでもない錯誤に導かれる恐れは大きくなります。今起こっていることの真相は、私などにわかるはずがない、という曖昧で卑怯にも見えるかも知れない態度に留まるしかない、と感じます。
 ある程度は確かではないか、と思える始まりの部分をここでは振り返ります。

 指標にすべきものとして、二つの「約束」があります。
 まず時期的に近いほうから。ドンバス戦争とも呼ばれるウクライナでの紛争を収めるために、2014四年と15年の二回にわたって、ベラルーシのミンスクで結ばれた、通称「ミンスク合意」という停戦協定。
 ロシアとウクライナの因縁は、それこそ千年を越える歴史があるわけですが、今回のことに直結しているのは、マイダン(正確にはユーロ・マイダン、「ヨーロッパ広場」の意味で、ロシアからの独立運動の本拠地)革命と呼ばれるものから、でいいのでしょう。プーチンに言わせるとそれは「2014年にウクライナでクーデターを起こした勢力が権力を乗っ取り、お飾りの選挙手続きによってそれを(訳注:権力を)維持し、紛争の平和的解決を完全に拒否した(下略)」こと。
 大略は、親ロシア派のヤヌコーヴィチ大統領が、暴動にまで(銃の乱射事件もあった)発展した反対運動で逐われると、これに反発した親ロ派はロシアの軍事的な援助でクリミアの分離独立を果たした。その後に続いて、ドネツク州とルガンスク州、一般にドンバスと総称される地域の一部でウ政府に抗する勢力が蜂起した。ウクライナの民族主義者側では、今は日本の地上波TVでも名が呼ばれるアゾフ大隊という民間武装組織が結成され、ロシア系の住民に対して圧迫を加え、時には虐殺も敢行した。
 プーチン大統領がネオナチと呼んでいるのは彼らであって、ウ政府は現大統領も首相もユダヤ系なのにな、と日本では皆戸惑ったのですが、つまり反ロシアということです。今回の戦争の第一の目的は、こういう人たちからロシア系及び親ロ派を救援することだ、とプーチンは言いました。
 元々、マイダン革命には、アメリカの、特にネオコン(neoconservatism、新保守派、反ロシア派)と呼ばれる勢力の関与があった、というよりは黒幕であった、ということはよく言われています。
 一方、ドンバスの親ロ派・分離独立派の後盾には、ロシアがあった。武器供与の他、ロシア軍もいくらか、非公式に派遣されていた。それがなければ、ドンバス戦争はとうに終わっていたろう、とも。すると、今の戦争はロシアとアメリカ(ネオコン)との代理戦争だ、とも言われますが、代理戦争はもう8年前に始まっていたことになります。
 そこでミンスク合意ですが、要点は、①二つの州の「特別な地域」で戦闘に従事している違法な武装集団や傭兵は逮捕するか、国内から撤退させる。そのうえで、②この二州は、分離独立させる必要はないが、「特別の地位」を認め、ウクライナは連邦制にする。こうすることで、国内での新ロ派の発言権が強くなるから、ウクライナがEUやNATOに加盟することは恒久的に阻止できる、これがロシアの本当の狙いであったのでしょう。
 これによってウクライナ側が得ることは、「紛争地域全体での国境の管理を回復すること」のみです。「回復」(restore)ですからもとにもどるだけのこと。一方、ロシアは紛争当事国であることも否定していましたから、新たな義務は一切負わない。そこからしても、ロシア側に有利な取り決めであったことは明白です。
 ウクライナにはこれを遵守する気はなく、ドンバスでの戦闘は続きましたし、アゾフ大隊はアゾフ連隊として正式な国軍に編入されました。プーチンはこれらの状況を受けて、本年2月21日に、ミンクス合意はもはや存在しないとし、ドネツク共和国とルバンスク共和国を国家承認して、24日の侵攻に踏み切ったのです。
 大国の軍事力を背景にした一方的な取り決めであったにしても、約束は約束、ウクライナがミンスク合意を守れば、今回の事態には立ち至っていなかった、という人もいます。そうかも知れません。しかし翻って、だからと言って今回のロシアの本格的な軍事侵攻が多少は正当化されるかというと、どうでしょうか。

 プーチンが正当性の根拠として挙げているのは国連憲章第7章51条(あとはロシア国内の規約と、ロシアが新たに承認した前記二つの「共和国」間の条約)です。その前の部分を引用します。

この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。

 つまり、武力を伴う国際紛争が生じた場合、その当事国は国連安保理に訴えて処理を委ねなければならない、しかし現に戦力が行使されているのに、安保理で協議され、なんらかの処置がとられるまでの間、何もしないというわけにはいかないので、個別であれ集団であれ、自衛手段をとることができる、というものです。
 それで、ウ政府から攻撃されているドンバス地方の(ロシアだけが認めている)二国からの援助要請に応じて、「集団的自衛権」による「防衛戦争」をするのだ、というのがプーチンの主張であるわけです。
 ならば何より、安保理への提起が必要とされるわけで、それはあったのかというと、ありました。
 『ウォール・ストリート・ジャーナル』2月17によると、ウ政府はロシア系住民の大量虐殺を企てている、という報告は出ています。英米は、これはウクライナを侵略しようとする口実をでってあげたものだ、として一蹴しました。ロシア側からすれば、門算払いを食わされたかっこうで、ウクライナ東部で起きているすべての騒乱の責任をこちらに押しつけようとしている何よりの証しだ、ということになります。

 それでは、2014年から足かけ8年にわたる紛争で、責任はどちらの側が重いのか。これについても、最近の、キーウやブチャ、それにマリウポリで起きていることと同様に、いろいろな情報が錯綜していて難しいのです。一例だけ述べますと。
 ウクライナの民族主義者たちがロシア系住民に対して行った非道として最も有名なのは、2014年5月、ミンスク合意前に起きた「オデッサ(オデーサ)の惨劇」です。南西の街オデーサ(19世紀に、ポグロムと呼ばれる、ロシア人によるユダヤ人の大規模な迫害が最初に起きた場所としても名高い)で、ヤヌコーヴィチを追放した後のウ新政権に抗議する親ロシア派が立て籠もった労働組合の建物が、極右民族派に放火され、四十六人が死亡、二百人以上が負傷した事件です。
 もちろんこれ自体が悲惨ですが、さらに問題なのはその後の処理です。放火と殺人の実行犯たちは、いまだに捕まって刑事罰を受けていないのです。この事件はそもそもウ政府の差し金であった、とまで言われると、どうだかわかりませんが、疑われても仕方がない状況はあるのです。
 私は最近、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の「ウクライナ人権報告書2016 年版」を見つけました(日本の法務省入荷国管理局の「仮訳」を通して)。これには以下のように書かれています(拙訳)。

 (訳注:ウクライナの)政府は一般に、虐待を犯したほとんどの役人を訴追し処罰するための適切な処置を講じず、結果として不処罰の風潮を生んだ。人権団体と国連は、政府治安部隊が行った人権侵害に関する調査、特にウクライナ治安局(SBU)が実行したとされる拷問、拉致、恣意的な拘束、その他の虐待の申し立ての調査には、著しい欠陥があることを指摘した。2014年のキーウでのユーロマイダンの銃乱射事件や、オデーサでの暴動の実行犯は、未だに責任を問われていない。

 この状態が続いたのだとすれば、ロシアの侵攻の是非はともかく、怒りはもっともだ、とも思えます。しかし、この報告にはまた次のようにも書かれているのです。

 ドンバスではロシアに支援された分離派が誘拐、拷問、 違法な勾留などを行い、児童兵を採用し、反対意見を押さえ込み、人道的援助を阻害した。これより程度は低いが、政府軍によるこのような行為のいくつかも報告されている。

 少なくともドンバス戦争では、親ロ側のほうがより悪い、と。ロシアに言わせれば、国連もまた英米の走狗にすぎないからだ、ということになるのでしょうが。
 離れた立場から見たら、個々の事例の真偽や程度はともあれ、双方に憎しみが溜まっていく過程ばかりは、強く印象に残り、胸が苦しくなります。それでも、大国ロシアの軍事侵攻が許されるわけではないですが、どちらかに、あるいは双方に、ただ「引け」、と言っても栓のない話ではあるでしょう。
 というところで、時間切れ、エネルギー切れです。次回はもう一つの大きな軸であるウクライナとNATOとの関係を、もう少し詳しく見ることにします。
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近代という隘路Ⅱ その5(軍について改めて考えよう)

2022年03月31日 | 近現代史

野村芳太郎監督「拝啓天皇陛下様」(昭和38年)

メインテキスト:戸部良一『日本の近代9 逆説の軍隊』(中央公論社平成10年)
サブテキスト:ロジェ・カイヨワ、秋枝茂夫訳『戦争論 われわれのうちにひそむ女神ベローナ』(原著の出版年は1963年、法政大学出版局昭和49年)

 チャイナでの戦いから対米戦争に至る日本の歩みをいろいろな角度から見る前に、軍隊というものについてあらためておさらいしておこう。軍隊とは、近代の鬼っ子などではない。近代そのものなのだ。もちろん、近代的な軍隊は、だが。
 ロジェ・カイヨワは、「国家の起源に戦争がある」という、多くの歴史家が容認している説は「早計」としながらも、そうなりがちな事情には理解を示している。暴力は権力を実際的にも理念的にも基礎づけるのは明らかだから。
 私的な暴力の横行は人間社会を破壊する。そこで、ある強力な者・集団に暴力の管理を委ねる。つまり、彼が秩序を守るために揮う暴力を正当とし、それ以外はすべて不当として、禁ずる。有効に禁ずるためには、より強い暴力が必要になる。あらゆる労働がそうであるように、破壊のための労働力であっても、組織化されているほうがより効率的で強力になる。そして、言うまでもなく、暴力のために組織された集団、それこそが軍隊である。
 マックス・ウェーバーの有名な定義「国家とは、ある一定の領域内部で、正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」(「職業としての政治」)が思い出されるだろうし、カイヨワも明らかにこれを意識している。逆に言えば、ある者が「正当な物理的実力行使の独占」に成功したとき、その「領域」は国家と呼ばれ得るものになるのだし、失敗したら、それは国家とは別のアナーキー(無秩序)な状態となる。
 現在でも南米などには、ギャングが私的に強力な戦力を備え、公的な正規の軍隊とガチンコでぶつかった場合、どちらが勝つかわからない、という状態の場合があるようだが、それでは少なくとも安定した国家とは呼べない。因みに、20世紀初頭の、初期の国民党政府下のチャイナでも、軍閥と呼ばれる私的武装集団が多数跋扈し、チャイナが近代的統一国家になることを妨げていた。
 しかし上は必要条件ではあっても十分条件ではない。暴力の独占・正当化はできても、それだけでは国家ができるわけではない。何より、「宗教的信仰」は顧慮されなくてはならない、とカイヨワは言う。
 この「信仰」は必ずしも超越的な絶対者についてのものではない。国民間の紐帯を、軍事的・経済的な必要性以上のものにする、たいていはある種の共通了解事項、「共通の過去」「共通の文化・文明(その中心は言葉)」を信頼する、これがなければ国家という巨大組織は保たれない。
 「信仰」というのは、この了解事項が多くの場合中心に科学的には証明不可能な要素(「ゲルマン民族は偉大だ」など)を含んでいるし、従って他所からその価値が認められるとは限らないからだ。時代が経つにつれてこの信仰が薄れることはあるが、逆にそれへの反発から、積極的に保ち守らねばならないという姿勢も生じる。
 先回りして結論的なことを言ってしまうと、後者もまた軍隊によって担われている・担われるべきだ、とされるようになるとき、往々にして非常にやっかいなことになる。

 ヨーロッパに限定すると、5c~15c頃の中世期は比較的平和な時代だった、と言える。農耕が文明の中心で、人口増加がゆるやかな時期にあっては、さほど広い土地は必要ないので、領土拡張欲といういわゆる帝国主義時代の戦争の、実際的な最大の動機は弱かった(遊牧民によるモンゴル帝国は残虐行為を行いつつ領土を拡張していった)。軍事力の正当化に成功した王侯貴族は、むしろ名誉のために戦った。それはいわゆる決闘の拡大版であり、高い身分に必須とされる儀礼の下に、厳かに行われた。
 一般庶民はといえば、支配されているから無理矢理駆り出されたか、金で雇われた傭兵が大部分で、命がけで戦う義理など感じていなかった。戦局が剣呑になれば、すぐに逃げ出した。マキャベリ「君主論」に記されている、合計二万の軍勢が四時間戦いながら、戦死者は一人だけ、それも落馬した時の怪我がもと、という例は有名である。
 ヨーロッパに近代が到来するとともに戦争の性格が変わった。いわゆる下部構造としては、工業化が進み産業も進展して、生産のためにも消費のためにも多くの土地と人間が必要と考えられた。兵器も進歩し、銃火器が一般的になると、軍は騎馬兵から歩兵が主力となり、戦争のためにさほど特殊な技能は必要とされなくなった。最後に上部構造の精神面で、ナショナリズムが前面に出て来て、戦争は膨大な犠牲を出す過酷なものになっていく。
 徴兵制がフランス革命の産物であることはよく知られている。革命が自国に飛び火することを恐れたヨーロッパの諸王国は連合してフランスを攻撃した。フランスの国民公会は、これに対抗するために、様々な曲折の後、1793年に「国民総動員令(または、「国民総徴兵法」)」を成立させ、18歳から25歳までの国内青年男子全員を動員し、百万人規模の軍隊を作った。
 この年には国王ルイ十四世と王妃マリー・アントワネットが処刑され、貴族階級は完全に無力になっていた。国を守る者は民衆しかいない。ここに、自国を防衛する権利と義務を背負った「国民」が誕生したのである。
 しかし一方で、徴兵を訓練したり実戦時に指揮したりする、専門職としての軍人の必要も改めて感じられた。フランスを包囲した各国を、民兵を中心とした軍で打ち破り、革命を最終的に収束して、ついにはフランスの新たな皇帝にまでのぼりつめたのが軍人出身(家系は一応貴族)のナポレオン・ポナバルトである。そこで、徴兵を前提とした上での職業軍人による常備軍もできて、それは民主制の進展とともにヨーロッパ中に広がり、近代国家の中枢の一つと考えられるようになった。

 日本は明治維新による開国時(明治元年、1868年)で、武士は士族と名前が変わったが、約百万人、全人口の三パーセント強を占めていたといわれる。戊辰戦争の時点で武器は皇軍・幕府軍とも、旧式の火縄銃から連発が可能で射程距離もずっと長いライフル銃になっており(もちろん欧米からの輸入品)、アームストロング砲などの大砲も威力を発揮していて、歩兵中心のものだった。
 近代戦争と言ってもおかしくないのだが、兵士の精神が決定的に違っていた。彼らの脳裏には国家はなく、幕府や各藩主に仕える、言わば私兵であった。明治新政府は、まずここをなんとかしなければならなかった。
 明治5年の徴兵令とそれに先立つ「徴兵告諭」については本ブログで以前に触れた。ここでは武士階級そのものが否定され、国民全体が等しく「皇国の民」として、一朝ことあらば等しく国のために尽くすべきことが謳われている。
 この宣言が実のあるものになるためにはもちろん長い道のりを要した。とは言え、他のアジア・アフリカ諸国に比べたら驚異的なスピードで実現したと言える。兵器や輸送・通信手段の発達など、ハード面以外のことを述べると。
 明治初めに激発した軍事事件・佐賀の乱に萩の乱、台湾出兵に各地の農民暴動などでは、まだ士族と名を変えた旧武士に頼るところが多く、最大の騒乱である西南戦争(明治10年)時で、徴兵による鎮台兵(各地方の軍事拠点である鎮台にいる兵士)と近衛兵(首都東京の兵士)だけでは足りず、五万数千の政府軍のうち半分近くが巡査として募集された者を含む士族兵だった。とは言えこの時の徴兵、ことに近衛砲兵の活躍は目覚ましく、民兵の力を広く知らしめる機会にはなった。
 西南戦争鎮圧後の副産物とも言えそうなのが翌年の竹橋事件。近衛砲兵竹橋大隊を中心とした叛乱兵二百名余りが蜂起、途中で他の部隊に属する兵士の合流があり、東京市内の各所で小競り合いを繰り返し、最終的には三百人余りが当時仮御所のあった赤坂離宮で天皇に強訴しようとしたが、翌日には鎮圧された。動機は、西南戦争の論功行賞に関する不満だった。前述のように砲兵は最大の戦功を挙げたのに、行賞は将校クラスから順次なされていたので遅れたし、戦乱による財政難で兵士の給与は減額されていた(ただし最下級の歩兵は除外)。
 これには逆の見方もできる。江戸時代の武士は、扶持米という給与をもらって生活しているという意味で、一種のサラリーマンではあったが、藩の財政逼迫によってそれが減らされたからという理由で叛乱を起こす、ということはまず考えられなかった。彼らはエリートだという意識が自他にあったからである。「武士は食わねど高楊枝」というわけで。
 近衛兵は、鎮台兵に比べれば、「強壮にして行状正しき者」が選ばれる、という意味ではエリートだが、身分秩序そのものがなくなった社会では、特殊な公務員に過ぎない。それに、強訴というやり方そのものが、江戸時代からこの頃までずっと続いていた農民のものだった。新政府樹立から十年ほどで、日本の正規の戦闘集団に、このような意識変容が生じていたのである。
 そんな彼らを制御するにはどうしたらいいか。これが即ち軍の綱紀粛正、略して軍紀の問題であり、大東亜戦争の敗北に至るまで、日本の政治的・軍事的指導者たちを悩まし続けることになる。

 ここで少し抽象的に、軍隊が日本の近代化に果たした効果をまとめておこう。それがざっと二つ考えられる。
(1)上に述べたところから具体的に窺える身分制度の撤廃。四民平等は明治の初めからのスローガンであったが、それを事実として確立し、世に知らしめるためには、国民皆兵が一番だったことは、フランス革命時と変わらない。
 社会内での階級・階層に関わらず、戦場では、従ってそのための訓練の場でも、指揮官の命令一下、兵は兵として動くのでなければ、近代戦争はできない。このような実際上の必要は、常に、「平等が大切」だというような高尚な言説より、はるかに強力に社会を動かす。
(2)軍隊は、近代に必要な時間感覚を与えた。
 農耕は明るいうちに働いて暗くなってから休むのが基本だから、その間の時を刻む必要はあまりない。もっとも、日の出・日の入りを基本にした不定時法は室町時代からあったらしい。これは昼と夜をそれぞれ六分割したもので、今風に言うと約二時間を一刻(いっこく・いっとき)と呼び、当然季節によってその長さは違ってくる。
 時計は江戸時代半ば過ぎからごく少数の特権階級の持ち物になっただけで、それ以外の人が時刻を知るのは寺から聞こえてくる鐘の数だった。それも寺僧たちの感覚に応じて鳴らしていたのである。分刻みのスケジュールなどというものは、全くなかった。
 それをもたらしたのが軍隊の、訓練なのである。何時に起床して何時に就寝、食事は何時何分から、射撃訓練は……という具合に一日の時間が人工的に配分され、訓練期間中はこれに従って生活せねばならない。
 このようにして、「決められた時間に決められた場所で決められたことをやる」という産業社会の勤め人のエートスがそれこそ身体感覚として刻み込まれ、徴兵制を通じて、学校教育(時間の使い方の点では、軍隊によく似ている)以前に国民間に浸透していった。これこそ近代社会成立のための必須な要件であることは言うまでもない。

 元にもどろう。上記は軍隊が近代化に果たした大きな貢献ではあるが、あまり意識されることはない。それは言わば副産物であって、軍隊の正面の役割はあくまでも暴力の管理であった。繰り返すと、国内の安寧秩序を保つためには、最強の暴力集団がいる。それができたとき、次に重くのしかかってくる課題は、この暴力集団をいかに管理していくか、である。
 精神的な訓戒として、明治5年、軍人の日常の心得を示した陸軍読法、海軍読法が出、さらに竹橋事件直後に当時の陸軍卿山縣有朋から達せられた軍人訓誡(ぐんじんくんかい)があるが、決定版は明治15年の「軍人勅諭」(正式名称は「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」)であった。
 その長い前文中にはこうある。

夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらすデータベース「世界と日本」から引用)

 つまり、軍はあくまで天皇に直属し、その命にだけ従うべきもので、その大枠の中にある限り、臣下(政治家や軍の司令官)の命令も有効になる、ということ。こういう文書にはありがちのように、卒読すれば、天皇が主権者である限り、当り前のことを言っているに過ぎないようであるが、改めてこれが出てくる背景があった。
 明治十年代から盛んになった自由民権運動の高まりは、やがて、日本が憲法制定、国会開設、政党政治へと至ることを予想させた。いや、とっくに、明治維新のスローガンの一つとして「四民平等」を掲げたときからそうなることはわかっていたろうとは言えるが、それが具体的になってきたのである。
 そうであっても、山縣たちの目から見れば政党とはあくまで私党であり、それが政権を担っても、司々(つかさつかさ。各省庁)の一つに過ぎない、いや、そうあるべきだった。であれば、そんな者が国内最強の暴力集団を自由に使ってよいわけはない。
 これは政府の高官だけの心配ではなかった。「軍人勅諭」と同じ明治15年に出た「帝室論」で、福澤諭吉は以下のように論じている。

爰(ここ)に恐る可きは、政黨の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり。國會の政黨に兵力を貸すときは其危害實に言ふ可らず。假令(たと)ひ全國人心の多數を得たる政黨にても、其議員が議場に在るときに一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し。(中略)斯る事の次第なれば、今この軍人の心を收攬して其運動を制せんとするには、必ずしも帝室に依頼せざるを得ざるなり。帝室は遙に政治社會の外に在り。軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ。帝室は偏なく黨なく、政黨の孰(いず)れを捨てず又孰れをも援(たす)けず。軍人も亦これに同じ。固(もと)より今の軍人なれば陸海軍卿の命に從て進退す可きは無論なれども、卿は唯其形體を支配して其外面の進退を司るのみ。内部の精神を制して其心を收攬するの引力は、獨り帝室の中心に在て存するものと知る可し。青空文庫より引用。( )内の読み仮名は引用者)

 これは即ち、期せずして、だと思うが、軍人勅諭の精神を敷衍したものと見られるだろう。軍事力は個々の政事政略から切り離されたより高い段階で行使されねばならない、ということだが、それはつまり、軍は時の政府を超えた存在なのだから、常に必ずしもその命令に服さなくてもよい、という論理を呼び込む。「統帥権(軍を指揮する権限)の独立」というやつで、現実に、昭和期になってから大きな問題になっていったことはよく知られている。
 これをさらに徹底し、またそこからくる弊害を防止するために、軍人の政治不関与が考えられた。制度としては、普通選挙実施後も、軍人には、応集で 兵役についいる場合も含めて、選挙権も被選挙権も与えられていないところに現れている。
 また、これは現在悪名のほうが高いが、大日本帝國憲法(明治23年施行)の第十一条から十三条まで、軍事に関しては「陸海軍ノ編制及常備兵額」(第十二条)から「戦ヲ宣シ和ヲ講」(第十三条)ずる、つまり戦争を始めるのも終えるのも、すべて天皇がやることになっていて、他の公的機関との関係が記されておらず、したがって軍は政府から独立した機関だと読めてしまうのも、もともとはこの配慮からだったのである。
 心得としては、「軍人勅諭」には、五箇条にわたって述べられている徳目の第一「忠節(軍人は忠節を盡すを本分とすへし)の中に、ごく簡単に、軍人は「世論に惑はす政治に拘らす」とあるだけである。
 これについては明治11年の「軍人訓誡」のほうがやや詳しい。そこには「朝政を是非し、憲法を私議し、官省等の布告諸規を譏刺(きし。批判すること)する等の挙動は軍人の本文と相背馳する事」(戸部著から孫引き)だと言われている。ただこれも、「喋喋論弁を逞うし、動(やや)もすれば時事に慷慨し、民権などと唱え」ることはいけない、とも言われているところからすると、直接警戒していたのは自由民権運動であることがわかる。
 だとしても、軍が政治に容喙することは禁じられていたには違いないではないか、と思われる。しかしこの禁則はしばしば、簡単に破られた。その時の論理は上に述べた通り、時々の政策(ただし、軍縮については、政府がそれを決めるのは憲法十二条違反だと言われた)はともかく、大日本帝国の根幹に関するところは、「訓誡」や「勅諭」が言う「政治」とは違い、天皇と直接繋がっている軍が積極的に関与してもよいことだ、ということ。
 そんなふうに思って実際に過激な行動に走るのはやはり若者たちではあった。竹橋事件以来だと、五・一五事件はやや近いが、完全に軍の叛乱と言っていいのは二・二六事件(昭和11年)で、その実行者の青年将校たちは、自分たちこそ天皇の真意に即したことをしているのだから、正しい、と思い込んでいた。
 これを直ちに討伐すべし、とした昭和天皇は正しい。動機はなんであれ、軍は統制違反こそ最も恐れなければならない。なんの規範も枷もなく、自分勝手に動き回る暴力装置ほど怖い物はこの世にない。帝國陸海軍の大元帥として、綱紀の粛正こそ第一、と考えるのは当然のことであった。
 さらにこの後の、日本軍の暴走と呼ばれるものは、また少し様相が違ってくる。今後このシリーズで、この検証も一つの大きな柱として、個々の歴史を振り返ってみよう。
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立憲君主の座について その18(昭和天皇の戦争指導)

2022年01月30日 | 近現代史
天長節観兵式 昭和16年4月21日

メインテキスト:山田朗『昭和天皇の戦争 「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(岩波書店平成29年)

 当ブログで記述したように、いわゆる神風特攻隊は昭和19年10月、レイテ沖海戦時に行われたのが最初である。同月26日、昭和天皇は海軍軍令部総長及川古志郎からこの件に関して奏上を受けた。その時の御言葉は、「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」だったと伝えられている。この出所はわからない(『昭和天皇実録』には御発言の記載なし)が、直ちに前線各地の日本軍に伝聞で伝えられた。
 フィリピンのセブ島で第一次神風特攻隊に属する「大和隊」を指揮する中島正中佐が総員にこの御言葉を読み上げた後、たまたま作戦指導に来ていた第一航空艦隊参謀猪口力平大佐(神風特別攻撃隊の命名者)がポツリと呟いたのを聞いている。

「この陛下の御言葉を伝えた軍令部総長の電報は、マニラの司令部で大西(瀧治郎)長官も拝読された。オレはそばにいた。長官は全くおそれいっておられたようだ。それは指導官として、作戦指導に対し、陛下から、激しいおしかりをうけたも同然の伝聞だからだ」(読売新聞社編『昭和史の天皇1 空襲と特攻隊』中公文庫平成23年)

 一方昭和41年に発表された三島由起夫「英霊の声」では、「飛行長」にこう言わせている。

『この御言葉を拝して、拝察するのは、畏れながら、我々はまだまだ宸襟をなやまし奉つてゐるといふことである。我々はここに益々奮励して、大御心を安んじ奉らねばならぬ』

 これらを見て、改めて、天皇とは奇妙な立場なのだな、と思われてくる。どこの国の君主でもこんなものなのだろうか。
 大日本帝国憲法の規定上、天皇は帝国陸海軍の最高位・大元帥である。それでも、軍事上の作戦個々の立案・実行にいちいち関わったわけではない。飛行機による体当たり攻撃という史上例のない「作戦」もそうで、実行後に報告を聞いた。そして驚き呆れながら、「しかしよくやった」と、犒(ねぎらい)の言葉を出す。もう死んでしまった、だけではなく、計画の達成に必定の死が組み込まれていた者たちに。
 そうするしかない。皆、天皇の名の下に、死んだのだ。実際には自分が決定に与らなかった死であったとしても。だからまるで他人事のように聞こえたとしても。
 この孤独。まず他の立場では味わえないものだ。そんな感情に天皇を追い込んだのは自分たちだ、と作戦の実行者たちは思わずにはいられなかった。それでも、始めてしまった以上、やめることはできなかったのだが。

 昭和天皇と戦争との関わりということになると、何より、日米開戦の決定に至る過程を考えねばならない。それは次回以降の課題とする。今回は天皇の具体的な「作戦指導」と呼ばれるに相応しいものをいくつかを拾い出しておこう。そのために表記の山田朗(以下「著者」)の著作は最適だと思えた。
 一応断っておこう。著者のイデオロギー的な立場は知っている人も多いだろうし、私のとはほぼ正反対に思える、という人も少しはいるだろう。実際私も多少の先入観を持って読んだのだが、それはいい意味で裏切られた。これまでの傾向の延長で、天皇の「戦争責任」を直接追求していると思しき部分は少ないし、サブタイトルとは裏腹に、「昭和天皇実録」の批判的な検討をしている部分も、さほど多くはない。大部分は、戦前戦中の昭和天皇の言動を淡々と記述している。
 決して昭和天皇をほめてはいないが、貶すために書いた本とも思えない。私自身に限って言えば、これまでは昭和天皇個人の人柄には特に興味はなかった。好きでも嫌いでもなかったのだが、本書を読んで、その立場に少し同情(か?)がわいた。上に書いたのはその「同情」の中身である。
 奇妙な立場、についてもう少し具体的に述べる。本シリーズその二「至尊は無為にあり」に書いたように、昭和天皇の御諚、即ち明確な意志によって政治的な重大決定がなされたのは、全部で二例知られている。二・二六事件を叛乱としたこと、ポツダム宣言を受諾して大東亜戦争を終わらせたことである。
 それ以外に、政府や軍部の上層部が天皇に情勢を報告し、天皇からの質問(ご下問)に対して答えることがあり、それは「上奏」もしくは「奏上」と呼ばれた。他により自由な形式の「内奏」もあり、天皇が主権者ではなくなった戦後はこの言葉が使われるが、中身はほぼ同じである。原則非公開。このうち、軍事に関するものが「帷幄上奏」。より公的な場としては、陸海軍を統合した大本営会議や、そこに政府(文官)を加えた大本営政府連絡会議には天皇は臨席するので、そこで「ご下問」する機会はあった。
 つまり、天皇は、希望や感想を述べることはあっても、それは例外であって、質問をする者なのだ。それでも、例えば「それで大丈夫か」というような形なら、御意志が現れているのは明白である。
 昭和天皇のご下問は、特に戦争に関しては、非常に厳しい時があり、陸軍ではそのために想定問答集まで作って対策を練ることがあった。
 それにしても、その時に現れた天皇の御意志はあくまで「個人的」なものである。誰もそれを無視するわけにはいかないが、正式な国家の意思、とは言えない。聴いた方がお気持ちを「忖度して」何かをしても、大御心を体して、ということになるのか、それとも、そうではないのか。微妙、というより、決して闡明されることはない。これは、絶対者を一人の個人とする制度の特質なのであろうか。

 大東亜戦争中、天皇が個々の作戦に容喙した例は、さほど記録に残ってないが、かなり適切なものが多いことに驚かされる。ずいぶん勉強はしたにしても、もちろん軍事の専門家ではないにもかかわらず。理由はすぐにわかる。実際に戦争をしている軍人たちのような、組織内人間関係上のしがらみやら、面子などには関係なく、いわゆる大所高所から戦局を見ることができたからだ。
 以下、いくつかの局面ごとに特徴的に見えるところを例示する。

(1)フィリピン・バターン半島の攻略戦。昭和16年12月より。
 大東亜戦争の緒戦時には、日本は快進撃を続けた。大日本帝国陸軍の南方軍は、17年1月2日のマニラ占領をもってフィリピン戦線は残敵掃討の最終段階に入ったとみなし、攻略に当っていた本間雅晴中将司令官の第十四軍から、多くの戦力、特に航空部隊を引き抜き、蘭領東インド(インドネシア)とビルマ戦線に転用することを決定した。
 こうして弱体化した第十四軍による、米比軍の立て籠もるバターン要塞攻略戦は困難を極めた。1月13日の大本営会議で陸軍部参謀・竹田宮恒徳王から報告を聞いた天皇は、杉山元参謀総長に対して「バタアン攻撃の兵力ハ過小デハナイカ」と下問した。
 しかしここで兵力増派を決めたら、それは即ち陸軍首脳部の判断ミスを認めることになる。代わりに現地軍をひたすら叱咤激励して、力攻めさせた結果、こちらの被害はいたずらに拡大した。
 1月21日、天皇は再び「バタアン半島ノ攻略ノタメ現兵力デ十分ナノカ、兵力増加ヲ必要トシナイカ」と下問した。参謀総長は具体的に応えることはできず、ただ、天皇の「御軫念(憂慮)」だけを南方軍や第十四軍に打電した。冒頭の特攻隊に対する「御褒賞の御言葉」もそうだが、天皇の考えは、この後も、叱咤激励の言葉に変えられて、物理的な兵力の代わりによく使われた。これによって現地の司令官クラスは奮起したこともあったろうが、現実の戦局まで動くとは限らない。
 フィリピンを攻めあぐねた日本軍内部では、戦闘を継続するか、それともこの地域を封鎖して食糧不足による立ち枯れを待つかで議論が分かれたが、後者の意見が天皇の上聞に達することはなかった。天皇は、「日本恐るるに足らず」の輿論がアメリカで醸成される一助になることを恐れ、攻略を急がせたが、それはなくても、支那大陸で広範な戦線を展開中で、ソ連の侵攻にも備えなくてはならない日本軍には、長期の持久戦を維持することは困難だったろう。
 3月24日以降、中支や香港からの増援部隊を加えた日本軍は連日要塞に爆撃を加え、4月9日、ついにバターン半島攻略は成った。この時の捕虜は米比合わせて七万人超、これは日本の予想をはるかに上回るもので、他の不手際と相俟って、日本の大東亜戦中三大戦争犯罪の一つとして名高い「バターン死の行進」(疲弊した捕虜を、炎天下100キロ以上、捕虜収容所まで歩かせ、多くの死病者を出した)を惹き起こした。

(2)ガダルカナル(ガ島)攻防戦。昭和17年8月より。
 この戦いはミッドウェー海戦(同年6月5~7日)に次いで、日米戦争の帰趨を決めたものとしてよく知られ、日本軍の作戦ミスが目立つ。それに対して昭和天皇は、かなり踏み込んだ注意を与えている。
 ざっくり言うと、日本軍はガ島を初めとするソロモン諸島攻略に関する米軍の意欲と能力をかなり後まで甘くみていたところがあり、天皇を歯がゆがらせたのである
 8月7日に米軍を主力とした連合軍がガ島に上陸したのに対して、日本はグアムにいた一木支隊を応戦させた。しかし敵情報も装備も不足していて、同月21日には壊滅状態に陥った。24日に杉山から戦況奏上を受けた天皇は「一木支隊はガ島に拠点を確保できるか、(中略)ひどい作戦になったではないか」と下問している。
 9月7日、増援の川口部隊が上陸したが、ガ島の米軍を撃破することはできず、逆に次第に追い詰められていった。さらに困難は敵軍以外にもあった。輸送手段に乏しいこの島では食糧不足が深刻化し、ガ島は「飢島」だ、と呼ばれるまでになった。
 この事例に典型的に見られる日本軍の弱点はよく指摘される。物量の点で米に及ばないのは当初からわかりきっている。その上で、戦局全体を見通した構想力に乏しく、場当たり的に、小出しに兵力を投入する傾向が強い。結果、各個撃破されやすくなり、また戦闘が終わった後のことまで十分に考えていないので、敗北時にはより悲惨な状況を招来し勝ちになる。
 その後、次のようなこともあった。海軍は10月13~15日、高速戦艦二隻によるガ島の艦砲射撃を行ったが、11月にもう一度同じ事をやる計画を立てた。11月10日頃永野修身軍令部総長からこれに関する上奏を受けた天皇は、「日露戦争に於ても旅順の攻撃に際し初瀬八島の例あり、注意を要す」と、これはご下問ではなく、明白な警告を行った。
 初瀬八島の例とは、旅順港閉塞戦の時、二隻の戦艦が触雷沈没したことを指す。戦艦が陸上を反復攻撃する場合、同じ航路をとりがちになるので、機雷を仕掛けられたり、待ち伏せされやすくなる、そこを注意したのである。
 軍令部はこの御言葉を電報で伝えず、ちょうど上京していた一人の参謀に伝言を頼んだ。この参謀が連合艦隊司令部に報告したのは11月12日、既に作戦は発動されていた。正にこの12日、比叡・霧島の二艦はガ島砲撃に向い、米軍のレーダーに捕捉されて待ち伏せに遭い、比叡は撃沈された。
 これで終わりではなかった。大日本帝国海軍は、この失敗に懲りて方針を転換するのではなく、半ば意地づくで従来の路線に固執した、と見える。14日にまた同じことをして、霧島も失ってしまった。
 この「第三次ソロモン海戦」は、日本軍のもう一面の弱点である硬直ぶりを示している。近代科学兵器であるレーダーを取り入れず、従ってその威力をよく知らなかったことが最大の敗因である。なまじ伝統的な高い目視能力を誇っていたことが裏目に出た。その上、かつての失敗から謙虚に学ぶ柔軟性を欠いており、それは軍人ではない天皇のほうが上だったのである。

(3)沖縄戦。昭和20年3月より。
 大東亜戦争の最終局面で、もう勝利の見込みはなくなっていた。ただ、前年10月12~16日の、台湾沖を航行中の米機動部隊に対する日本の航空攻撃は、空母・戦艦を十隻以上沈める大戦果が挙った、と報告された。しかし、米側報告書ではこの時多少の被害はあったが、沈没など一例もなかった。後者のほうが正しいことは、このすぐ後に特攻攻撃が始まり、多くの日本機が米艦に体当たりせねばならなかったことでも明らかだ。
 これはいわゆる「大本営発表」によるサバ読みではなく、飛行機からの「目視」による錯誤がもとだったが、大本営はろくに調査もせず新聞発表し、天皇にも奏上している。天皇は大いに慶び、21日に「朕ガ陸海軍部隊ハ緊密ナル共同ノ下敵艦隊ヲ邀撃シ奮戦大イニ之ヲ撃破セリ/朕深ク之ヲ嘉尚ス」という勅語を出した。
 もしも最初の報告の通りだったとしたら、日本本土に迫る米軍を撃退することも可能だったろう。それはまちがいであることはすぐにわかったはずだが、夢は残った。もはや敗北は必至であるとしても、せめて一矢報いて、つまり部分的にでも戦果を挙げてから、できるだけ有利な休戦協定に持ち込むという「一撃講和論」がこの少し前から浮上しており、天皇もこの方針に賛成だった。
 米軍に対しては、沖縄戦がそのための最後の機会だった。特攻は、もはや非常の手段ではなく、作戦の中心になった。そのような中で、「航空部隊だけの総攻撃か」というご下問があり、戦艦大和中心の、いわゆる海上特攻に繋がった、という。
 ただ、これに関しては、天皇の片言が利用された可能性が高い、と著者は言う。海上特攻隊の出撃は連合艦隊の一部の参謀たちが進言したものだが、その一人神重徳大佐は、「総長が米軍攻略部隊に対して航空総攻撃を行う件について奏上した際、陛下から航空部隊だけの総攻撃かとの御下問があったことであるし」と連合艦隊首脳部を説得した。しかし、当の軍令部総長及川古志郎や天皇本人に即した記録はない。また、4月30日、天皇が米内光政海相に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と下問している記録はあり、仮に天皇が「航空部隊だけ~」のようなことを事実言ったとしても、それは直ちに大和以下の総攻撃を示唆したものとは思われない。
 つまり、天皇のお言葉は、ある立場の人間の都合がいいように使われる場合もあったということだ。これは上意下達の際、今でも、比較的小さな組織でも起こりがちなことである。トップが、権威を疑うことすら公的には許されない絶対者である場合には、この危険は増す。それだけでも、このような存在は、特に戦争のような非常時には、なるべく何も言わないほうがいいということになろう。

 これらを踏まえて、以前に触れた昭和天皇の戦争責任を再考する。
 著者が言うように、昭和天皇は、戦争に反対だったのに、軍部に押し切られてやむを得ず認めた、とは言えない。そんなロボットではない。ただ、少なくとも対英米戦には、乗り気ではなかったことは明らかだ。それでも、一度始まったからには、自国の勝利を願う。それはごく自然な感情であり、また、自軍がもたついているように見えれば、つい叱咤したくもなるだろう。軍から見ると、小うるさい小姑じみた存在だというのが正直なところだったのではないかと思う。とても適確な、よい指摘をすることもあるが、それだけに。
 そんな存在でも、大日本帝国憲法上の主権者であり、帝国陸海軍の大元帥なのだから、形式上の責任があるということなら、その憲法で、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」と、無答責の存在であることが規定されている。国内法上の問題はそれで終わり。
 それ以外は? 昭和50年10月31日、米国訪問からの帰国後の、生まれて初めての記者会見で尋ねられ、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」と応えた時には、多くの憤激を呼んだ。天皇の名の下に戦って死んだ者たち(もちろん国内での空襲の被害者なども含めて)に対して、あんまりだ、というわけだ。
 国家を挙げての戦争における国民の生と死の意味に対して、責任はあるはずだ、と言われるのは、一応もっともなようであるが、この「責任」は、君主以外、つまりこの場合は昭和天皇以外は実感できない性格のものではないか。それを他の立場の人々に伝える言葉も、まず見つからない。私は、昭和天皇のとぼけたような言葉の真意はそういうことで、それを外から裁こうとしても、「意趣晴らし」にしかならないから、やめたほうがいいと感じるのだが、如何?
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近代という隘路Ⅱ その4(ワシントン体制v.s.東亜新秩序)

2021年10月19日 | 近現代史
『写真週報』昭和13年2月13日創刊号より

メインテキスト:近衞文麿『最後の御前会議 戦後欧米見聞録 - 近衛文麿手記集成』(中公文庫平成27年)

 1921年11月から、翌2月まで続いたワシントン会議は、パリ講和会議(その結果作成され批准されたのがヴェルサイユ条約、1919)、国際連盟の創設(1920)、に次いで、主に東アジア方面に関する世界秩序を構築しようとする試みだった。主導したのは第一次世界大戦で強力な存在感を示した新大国米国、秩序に入れるべき対象として強く意識されていたのは、明治43年(1910)の韓国併合以来大陸への足掛かりを築いていた新たな帝国日本だった。
 ここで決まった条約は三つ。
①海軍軍縮条約。建造中の主力艦(戦艦など)全部と現有艦の一部を廃棄し、米英日の海軍軍事力比率を5:5:3に定める。これを基準にして各国の保有量を決める。
②四カ国条約。英米仏日の四国で、太平洋東岸の諸島の権益保全を定めた協約。この本当の狙いは、この年に期限を迎えた日英同盟の解消だったのではないかとも考えられる。それに代わるものとしては、この条約は、締結国に脅威が迫った場合にはお互いに意見の交換を行うなどだけ定めた「協議条約」であり、軍事同盟の色彩は払拭されていた。
③九ヵ国条約。正式名称は「支那ニ関スル九カ国条約」。すべての会議参加国(英米仏伊にオランダ、ポルトガル、ベルギー、それに中華民国、日本)が締結した、チャイナに関する初めての包括的な国際条約である。
 このうち、いわば総論に当る第一条の四項目全文を以下に掲げる。

(1) 支那の主権、独立並びにその領土的及び行政的保全を尊重すること
(2) 支那が自ら有力かつ安固なる政府を確立維持する為、最も完全にしてかつ最も障碍なき機会をこれに供与すること
(3) 支那の領土を通じて一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持する為、各々尽力すること
(4) 友好国の臣民又は人民の権利を滅殺すべき特別の権利又は特権を求むる為、支那における情勢を利用することを、及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控ふること

 (1)と(2)は、チャイナの主権を尊重し、かつ主権が実のあるものになるための安定した政府ができるように援助する、としたもの。(3)は本シリーズの前回述べた門戸開放・機会均等政策で、締約国国民がチャイナの領土でどんな商売をしようと自由、(4)はその邪魔をしない、ということだが、「支那の情勢」を利用せず、「友好国の安寧を害する行動は是認しない」と謳っている。これは、日本では、死活的な権益があると感じられていた満州の地をめぐって、チャイナ内部で激しい抗日運動があったが、それに乗じたり、まして味方はしない、ということだと受け取られていた。
 その反面で、日本が大陸でこれ以上勢力を伸ばすことは、中華民国を含めた各国の意思によって、かなり明確に禁じられた。日本はそれを承認したのである。
 二つを合わせると、チャイナに権益を持つ欧米列強は、日本に向かって、「ここまでにしろよ。そしたら、これまでのことは認めてやるよ」と言ったことになる。よくある、双方が他方の条件となり合う妥協案だから、一方が守られなかったらもう一方を守る要もなくなる。この後のチャイナをめぐる角逐は、言論としては、どちらの側が条件を守らなかったのか、をめぐって展開された。
 一方、現実の取引の生々しさを和らげるのが①と②で、チャイナを助けようという人道主義の看板になった。これらを総合して、「ワシントン体制」と呼ぶ。大日本帝国は、これに反した、ということで国際社会で孤立し、大東亜戦争の破局を迎えた、と言われている。
 
 上とは別の歴史観を建てようとする動きもかなり昔からあって、日本の「歴史修正主義」だと呼ばれることがある。私はそちらに近い立場ではあるが、今まで何度か述べたが、なんでもかんでも日本が正しい、というのは、どうも……と感じる。
 そもそも、各国の利害と面子がぶつかり合ったあれだけの大戦争について、「よい・悪い」が簡単に割り切れるはずはない。すべてを曇りなく見る、ということは神でない限り不可能ではあるけれど、複数の利害と面子のぶつかり合う様相を一連のドラマとして眺めることはできそうな気がするし、そのほうが面白いのではないだろうか。本シリーズはそのような、ささやかな試みです。

 ワシントン体制には一見して問題がある。当事国にとっては、あまりにも自明なので、敢えて言挙げする気にもなれなかったのではないかと思える問題が。
 第一に、チャイナの国家主権を尊重し、機会を与える、と言っても、そのために積極的に援助しようとは言っていない。九ヵ国のうちのどれかが、それをやろうとすれば「抜け駆け」になる。かの地に恩を売ることで、余分な権益を得ようとしているのだとみなされ、叩かれるだろう。それが「機会均等」の裏の意味なのである。
 しかし、清に代ってチャイナの政権を担うはずの国民党は、あまりに弱体であった。初代大統領袁世凱が亡くなると(1916年)、各地の武装集団、いわゆる軍閥が乱立して、一種の戦国時代となる。名実ともに正統と言える政府が存在しないのだから、正常な外交もない。そんな中で日本は、北方の段祺瑞や張作霖など、いわゆる北洋軍閥の後ろ盾となり、彼らの勢力を伸長することで、利権を確保・拡大しようとした。他の国も、似たような方策はやっていた。
 第二。チャイナに隣接する大国ロシアは、会議には全く参加していないし、条約上言及もされていない。当時の情勢では当り前のことであった。
 1917年にロマノフ王朝が崩壊、旧体制支援のため派遣されたチェコ軍がロシア国内に取り残された。これを救援するという名目で英米仏伊日にカナダと中華民国を加えた七カ国が共同出兵。本当の目的は、できればボルシェヴィキ政権を倒し、共産主義革命が飛び火するのを防ぐことにあった。この目論見は失敗したが、その後も日本は単独で、ワシントン会議の間も兵を留め、撤兵は翌年のことになった。ソビエト社会主義共和国連邦がナバロ条約によってドイツに承認され、正式に発足したのは1922年12月のことになる。
 それよりより先、世界の共産化を目指す第三インターナショナルことコミンテルンは、ボルシェヴィキがソビエトの権力を掌握した1919年3月に結成されている。その支部として、チャイナ共産党が結成されたのは1921年、日本共産党は22年。以後、共産主義は、マルクス/エンゲルスのいわゆる妖怪(「共産党宣言」)として、ヨーロッパのみならずアジアをも徘徊し、歴史の原動力の一つとして働いた。これもまたワシントン体制の埒外にあったものだ。

 より根本的な問題があった。ワシントン体制は所詮は欧米のアジア支配を追認するものではないか、という拭い難い疑問である。いや、疑問というのもマヌケな話であろう。英米にしろ、他のどの国にしろ、自分の不利益になることをわざわざ決めるなんてことを、期待できるはずはないのだから。
 近衛文麿は大正7年(1918年)、第一次世界大戦終結直前に、エッセイ「英米本位の平和主義を排す」を雑誌『日本及日本人』に発表している。
 既に国際連盟設立の話は出ていたし、戦後の世界がどのようになるかは、この段階ではしかるべき地位の人々には容易に予見できることだったのだろう。世界の中心は英米、中心原理はウィルソン大統領やロイド・ジョージ英首相が唱えていた国際協力=平和主義になる、と。
 西のヴェルサイユ条約と、東のワシントン三条約で、その具現化が図られた、というわけだが、そもそも原理の部分に大きな欺瞞がある、と近衛は指摘する。「英米の平和主義は現状維持を便利とするものの唱うることなかれ主義にして、何ら正義人道主義と関係なきもの」だと。

吾人は黄金をもってする侵略、富力を以てする征服あるを知らざるべからず。すなわち巨大なる資本と豊富なる天然資源を独占し、刃に血塗らずして他国々民の自由なる発展を抑圧し、以て自ら利せんとする経済的帝国主義は武力的帝国主義否認と同一の精神よりして当然否認せらるるべきものなり。

 他国を武力で支配しようとする帝国主義とは別に、経済で支配するやり方もあり、同じぐらい悪しきものだ、と言う。これは現在の世界でも普通に見られるやり口である。このとき、時代の覇者であった英米は、後者の方向に舵を切ろうとしたのだが、舵取りにいったんは失敗する。
 だいたい、に述べたように、英米仏にオランダなど、第一次世界大戦の勝者である国は、旧来の植民地を手放そうとはしなかった。そこには、門戸解放も機会均等も、それ以前にウィルソンが唱えてヴェルサイユ条約に入った民族自決も、全然適用されなかった。
 近衛も起草に関わった国際連盟人種差別撤廃条項も葬り去られた。有色人種は劣等民族で、国を治めるなんてできない。白人種が指導してやらねば、という優越意識は、公に口に出されはしなくても、半ば常識であり続けた。この時代の、平和、即ち安定とは、このような状態を続けること他ならない。
 近衛は、「(英米が)国際連盟軍備制限と言うごとき自己に好都合なる現状維持の旗織を立てて世界に君臨」すれば、「我国もまた自己生存の必要上戦前のドイツのごとくに現状打破の挙に出でざるを得ざるに至らん」と物騒なことも言っているが、やがて同じように感じ、実行する国が他にも出てきたのである。
 これを書いた時の近衛は若干二十七歳。天皇家に最も近い家柄に生まれ、元老の西園寺公望からはどうやら後継者として嘱望されていた。そのような恵まれた立場を差し引いてもなお、時局を見る目に関しては、慧眼であったと言える。あくまで、観察者・評論家としては。
 翌年その西園寺からパリ講和会議代表団への随行が許された。「戦後欧米見聞録」はその時の記録で、実際に目にする西洋文明の偉容に感動する若い素直な心はよく伝わってくるが、白人優位主義への疑惑はこの機会により深まったようである。「(パリ講話会議の)所感第一。講和会議地としてのパリにおいてまず第一に感ずることは力の支配という鉄則の今もなお儼然としてその存在を保ちつつあることこれなり」。力による支配から金による支配への、形式上の進化(?)も、まだなかったのである。

 当時の東南アジアの西洋支配状況を具体的に記す。19世紀以来、タイを除いてすべて欧米列強の植民地または保護国(外交権など国家主権の一部を他国に奪われている)になっていた。大東亜戦争以前の状況を宗主国(支配した側)別にまとめると。
 イギリス……インド、ビルマ(現ミャンマー。インド帝国の一部とされた)、マレーシア(シンガポールと北ボルネオを含む)。
 オランダ……インドネシア、ボルネオ南東部。略して、蘭印。
 フランス……ベトナム、ラオス、カンボジア、この三国を合わせて仏領インドシナ、略して、仏印。
 アメリカ……フィリピン。
 日本は直接の侵略はずっと免れてきたわけだが、大正13年(1924)に排日移民法がアメリカで成立するなどすると、あらためて、白人支配の埒外にいるわけではない、と実感されるようになった。アジアの独立は、アジア人の手によって成し遂げられなくてはならない。西洋人の手の内にある間は、国際協調も民族自決も自分たちとは全く関係ないものであり続けるだろう。

 ここで登場するのが、アジア主義、あるいは大アジア主義。これを標榜する団体は我が国では明治13年(1880)設立の興亜会にまで遡る。それはまずチャイナ・朝鮮・日本の産業と文化交流を推進するものとしてあった。
 明治31年(1898)、この興亜会に同文会、東亜会などが合併して、東亜同文会が発足、文麿の父で貴族院議長を務めたこともある近衛篤麿が会長に就任すると、彼は「亜細亜のモンロー主義」を唱えた。
 アメリカのモンロー主義と言えば、自給自足で、他国への不干渉の理念を思い浮かべるのが普通で、このため米国は自分が設立を提唱した国際連盟に参加しなかったほどだが、むしろキモは、自国及び自国の勢力圏への干渉を排除するところにある。具体的には、南北アメリカにはヨーロッパは決してちょっかいを出すな、そのような動きがあれば絶対に許さない、と宣言したものだった。
 これをアジアに応用するとなれば、この地から今現にある西欧各国の勢力を駆逐することが先決、という、より攻撃的な話になるのが必然であった。ただし、近衛父子共々、そこまでちゃんと考えたかは疑問ではある。
 一方、東亜同文会の活動としては、元東亜会の宮崎滔天や内田良平たちが、日本に逃れてきた孫文などチャイナの革命家を支援し、自らも大陸へ行って革命運動に携わったことが最もよく知られている。革命の直接の対手は清朝政府でも、理想として、自国の完全独立はあった。1840年の阿片戦争からずっと、西洋に蹂躙されてきたチャイナ人としては、当然すぎる話である。

 孫文は大正13年(1924)11月、最後の日本訪問を行い、神戸で講演した。その「大アジア主義」は、『大阪毎日新聞』に筆記録が掲載されている。ここで主張されていることは大別して二つ。
 第一に、日本が不平等条約改正に成功し、さらに日露戦争に勝利したことは、全アジアの人民に大きな勇気と、民族としての自覚をを与えたこと。この言葉には日本へのヨイショもあるだろうが、この頃は実際多くのアジア人が共通して抱いていた感情ではあったろう。黄色人種が白人種と互角以上に戦うなんぞということは、誰の記憶にもなかったのだから。
 第二に、西洋は力が優先する文化・文明であるのに対して、東洋は道義を重んじる、などと言われている。その後大東亜戦争終了まではたびたび、今でも時々は、この種の「西洋の覇道対東洋の王道」とかいう見取り図は目にする。
 歴史を遡れば、これは納得し難くなる。モンゴル帝国もオスマン帝国も東洋だろう(孫文はこの講演で、日本とトルコは、アジア東西の、「最も信頼すべき番兵である」と言っている)し、その他、主に漢民族によるチャイナの歴代王朝も、侵略や残虐行為の点で西洋におさおさひけをとるとは思えない。19世紀以後は向こうにやられっぱなしではあっても、それは要するに弱かったからで、こっちが道徳的に優れていた証拠にはならない。
 と言うなら、逆にこちらが武力をもって西洋の勢力を駆逐しようと、何も悪くはないことになる。言うまでもなく、できればの話だけれど。
 ところで、『孫文革命文集』(岩波文庫)でこの講演録を読むと、最後に、『大阪毎日新聞』にはない末尾が加わっていることに気づく。これは、記事から欠落しているのではなく、講演中にはなくて、孫文が帰国してから後に書き加えたものらしい。それだけに、非常に重要な内容になっている。

 あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れているのと同時に、アジアの王道文化の本質ももっています。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城(かんじょう)となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです。

 この後の日本は、王道を歩むつもりで覇道に陥ってしまったのか、それとも最初から覇道しか念頭になかったのか。さらにまた、「東洋の王道」なるものが、実際にはこの世に出現したことのない、「絵に描いた餅」だったらどうだろうか。軽々に言うことはできない、各様相を、慎重に見極めていくべきだろう。

 近衛文麿は昭和11年(1936)、父の跡を襲って東亜同文会の五代目会長になったが、もちろんそんなことよりずっと重大なのは、翌12年に、政府・軍部を含めたほぼ全国民の輿望を担って総理大臣となり、満州事変(昭和6年)から盧溝橋事件(12年)を経て日支事変の泥沼に陥ったチャイナ問題の処理に当ったことのほうである。
 昭和14年まで足かけ3年続いた(実際は1年と2ヶ月にも満たない)いわゆる第一次近衛内閣で、彼は三度声明を出している。このうち最初の、13年1月11日付け「支那事変処理根本方針」が、「帝國政府は爾後國民政府を對手とせず」の宣言で有名だが、むしろ同年11月3日に出た「東亜新秩序建設に関する声明」のほうがより重要ではないかと思える。第一次では「元より帝國が支那の領土及主權竝に在支列國の権益を尊重するの方針には毫もかはる所なし」と、一応ワシントン体制の枠内に留まる姿勢はみせていたのに、第二次では「東亞永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」を唱え、即ち、旧秩序=ワシントン体制からは離脱する、と明言しているからだ。

この新秩序の建設は日滿支三國相携へ、政治、經濟、文化等各般に亘り互助連環の關係を樹立するを以て根幹とし、東亞に於ける國際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、經濟結合の實現を期するにあり。是れ實に東亞を安定し、世界の進運に寄與する所以なり。

 この時蒋介石を主席とする国民党は首都南京を捨てて重慶に移動していた(この後南京に入って占領した日本軍がやったと言われているのが、現在まで歴史論争が続くいわゆる南京大虐殺)。その国民党については、「旣に地方の一政權に過ぎ」ないが、「抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまで、帝國は斷じて矛を收むることなし」、しかし、「國民政府と雖も從來の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の實を擧げ、新秩序の建設に來り參ずるに於ては敢て之を拒否するものにあらず」と言う。
 そっちがあくまで対抗するなら殲滅するが、協力するなら受け入れてやろう、と言う。「対手とせず」の一部修正と言うにしては、あまりに上から目線で、こんな国に、誰が協力などするものか、と、私が蒋介石でも感じたと思う。
 その後、親日派の汪兆銘を首班とする新たな国民党政府を樹立しようとする企図もあったが、その求心力は弱く、日本にしてもどれほど本気で後押ししているものか、曖昧なところがあった。第一次近衛声明とは裏腹に、この後大東亜戦争終了時まで、ずっと蒋介石を対手とせざるを得なかったのである。

 全体的に見て、「東亜新秩序」、後の「大東亜共栄圏構想」は、あまりにも茫漠としていて、今も昔も、その具体的な姿がつかめないところが一番の問題であろう。白人支配から脱する、というところが最深部に横たわる感情で、それは当時のアジア全体の悲願と言ってもよかったろう。そのためにこの地の国々が連帯する、というところまでは同意できても、そこから一歩踏み出すために、何に基づき、どのような形で、連帯を形成するか、となると皆目わからなくなる。
 かつての横山大観の「大アジア主義→Asia is one」は、インド以東を仏教文化圏としてまとめた最も壮大なものだった。東亜同文会の「同文」は、近衛篤麿の好んだスローガン「同文同種」からきている。これは同一文化同一種類の意味。つまり、「漢字文化圏」であるチャイナ・朝鮮・日本の共同性がアピールされている。この後の日本の文書に日支満(日本・支那・満州。朝鮮は日本の一部になっていて、満州は日本がチャイナから独立させていた)の連携と言われるようになったのも即ちこれだ。
 なるほど、漢字に基づいた文字を使っている、という共通点はある。が、我々日本人は、どれくらい、これらの国々と、さらに は東南アジア諸国と、「同一のもの」を感じているのだろうか? むしろ、福沢諭吉「脱亜論」(明治18年)の、「一切萬事西洋近時の文明を採り獨り日本の舊套を脫したるのみならず亞細亞全洲の中に在て新に一機軸を出し主義とする所は唯脫亞の二字に在るのみ」などの言葉のほうが、気持にはしっくり合うのではないか?
 大東亜共栄圏構想は単なる侵略の口実だったとは思わない。アジアの新時代を拓く壮大な試みだという思いは、確かにあったろう。それが今日明瞭な形としては容易に見えてこないのは、「東京裁判史観」のせいだけではない。こちらが元々抱えていた問題も大きい。それは何か、次からはこれを中心に考えてみたい。
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近代という隘路Ⅱ その3(大陸へ)

2021年07月31日 | 近現代史

The Boxer Rebellion by Cecil Doughty

メインテキスト:波多野澄雄編著『日本外交の150年【幕末・維新から平成まで】』(日本外交協会令和元年)

 20世紀初頭、日本ガ進出した「世界」は、どのような秩序の、正確に言うとどのような秩序が構築されようとしている場所だったのか、もう少し確認しておきたい。

 国際平和秩序模索の動きは19世紀から始まっていた。それはヨーロッパが、ナポレオン戦争(1792~1805)、クリミア戦争(1853~56)、普墺戦争(1866)、普仏戦争(1870~71)、露土戦争(1877~76)と、特に後半、ヨーロッパの大国同士の戦争が相次いだからだ。その戦後処理のための国際会議も、ウィーン会議(1815)、パリ会議(1856)、ベルリン会議(1885)などがあって、国際法が整備されていった。
 しかしそれにもまして、兵器も進歩し、被害の数も度合いも増え、それは第一次世界大戦の全体戦争で極点を迎えた、と思ったら、第二次世界大戦から振り返ると、それもほんの序曲みたいなものだったことがわかってしまった。このような悲惨な歴史の流れを背景にして、個々別の紛争解決を超えた、「恒久平和」への希求も具体化してきた。

 のっけに、素人の、庶民の強みを発揮して簡単に言ってしまうと、ウェストファリア条約(1648年)以来国際法の基底となった主権国家(国内で何をするかの決定権はその国にある)がある限り、「武力を伴う国際紛争」=戦争の可能性は決してなくならない。マックス・ウェーバーの国家の定義「ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」(「職業としての政治」)を思い出していただいてもよい。国家とは、暴力の管理のために正当化された暴力を行使できる唯一の機関なのである。そして誰もが知るように、何が「正当な暴力」か、知ることはいつも難しい。
 平和を保つためには、人々の不断の努力が必要だ、ということである。何かの国際的な条約が結ばれたらそれがゴールなのではなく、むしろ出発点と考えるべきなのであろう。意地悪く見れば、多くの場合、決め事の裏をかいて相手を出し抜くつもりで、条約などを作る、ようにも見える。それをも含めて、我々は平和へのlong and winding roadの途上にある。絶望に陥らないためには、そう思うしかない。

 希求の具体化の最初は、1864年のジュネーブ条約で、正式には「傷病者の状態改善に関する第一回赤十字条約」。その名の示す通り赤十字社の創設者アンリ・デュナンらの呼びかけで十六ヵ国が参加して審議・採択された、戦場での傷病者救護を目的としている。日本は1886年加入。その後第二次世界大戦を経た1949年に大改訂されてジュネーブ四協定となり、さらに1977年に追加議定書ができて、現在に至るまで最も重要な戦争に関する国際法規になっている。

 次に、二度にわたってオランダのハーグで開かれた平和会議がある。第一回は1899年、ロシア皇帝ニコライ二世の呼びかけでヨーロッパ以外だと日本、清、メキシコ、イラン、タイなど二十六ヵ国が参加した。二回目は1907年に、米大統領セオドア・ルーズベルトの提唱で四十四ヵ国が参加。
 8年の間隔があるのは、この間に日清戦争があったからで。その間に主催者が皇帝から共和国大統領に代わったのも、時の流れをよく示しているといえるだろう。周知のように1917年にはロマノフ王朝自体が消滅してしまっていた。
 また、第一回から第二回間の、参加国の一・七倍増は、各国の民族・国家意識の急激な高まりを示している。それがまた、7年後の、第一次世界大戦の遠因になったのだが。
 会議そのものの成果としては、ハーグ陸戦条約と呼ばれているものが最も有名。開戦と休戦の規定、捕虜を含めた非戦闘員の保護、非人道的な兵器の使用禁止、などなど、戦争に関する全般的なルール作りである。言い換えれば、「戦争だからと言って何をしてもいいってもんじゃないよ」を、傷病者以外にまで広げた試みだった。
 その後前記ジュネーブ条約などとの摺り合わせによって何度か改定されたが、ここで引かれた基本線は今も失われていない。まして20世紀前半では、戦争に関する最高の権威だった。

 最後に、1928年のパリ不戦条約に触れないわけにはいかないだろう。正式には「戦争抛棄に関する条約」で、成立の中心になって働いた米国務長官ケロッグと、仏外相ブリアン名を取って「ケロッグ=ブリアン条約」とも呼ばれ、米仏独に日本など、最終的には七十八カ国が参加した。その第一条に曰く、

締約国は国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし且其の相互関係に於て国家の政策の手段としての戦争を抛棄することを其の各自の人民の名に於て厳粛に宣言す(カタカナをひらがなに改めた)

 どこかで見たような気がするだろう。そう、この文言は日本国憲法第九条第一項に取り入れられている。「国際紛争解決」の手段としての戦争を放棄したのは日本だけではなく、他に少なくとも七十七カ国ある、ということだ。
 しかし、誰でも知っているように、これで国際社会の現実がどうにかなったわけではない。条約上の問題に限っても、これは自衛のための戦争まで禁じているわけではない、と理解されている。何よりの証拠には、条約原文を作成した米国が、以下のような公開公文を関係各国に送っている。

 不戦条約の米国案は、いかなる形においても自衛権を制限しまたは棄損する何ものも含むものではない。この権利は各主権国家に固有のものであり、すべての条約に暗黙に含まれている。各国は、いかなる場合にも、また条約の規定に関係なく、自国の領土を攻撃または侵入から守る自由をもち、また事態が自衛のための戦争に訴えることを必要とするか否かを独自に決定する権限をもつ。(有斐閣刊『国際条約集』から引用)

 主権国家は、自国防衛のために戦争に訴える権利があり、またどういう事態が防衛戦争を必要とするかも、独自に判断できる。と、すれば、結局なんでもできる、ということではないか? と思えるだろう。実際、この11年後には第二次世界大戦が起きている。この「主権」が多少とも制限されるようになったのは、さらにその後のことになる。

 繰り返すことになるが、私は、どうにもならなかったし、なりそうにもなかった現実があるからと言って、これら平和を求める努力を無駄だと言っているのでない。
 理想を忘れない、というだけではなく、実際問題としても。マズローの「欲望の三段階」などを持ち出すまでもなく、人間は、まず自己の安全を、次には利益を、最後には名誉を求める者だ。国家を統べる立場にある者は、これに従わざるを得ない。自国の利益を犠牲にしてまで、まして安全を犠牲にしてまで、エエカッコしいをすることは国民が許さないが、その国民もまた、前者二つがまずまずなら、「自分たちは正しい」と思いたがる者だ。
 その正しさの基準となる条文があり(そう認めたから署名したんでしょ?)、国際連盟(これは前回述べた米国大統領ウィルソンの理念を土台としている。1919年設立)という国の行動の正否を話し合う場もできた。裏を返せば、他国を非難する基準と場ができた、ということであり、それがまた新たな対立抗争を招くのも事実ではあるのだが、それを差し引いても、あったほうがいい。

 第一回ハーグ平和会議の少し前から、日本は国際社会で大国として遇されていた。日清戦争(1894~95)に勝利したことで、実力が認められたのだ。
 明治35年(1902)には日英同盟が締結された。「名誉ある孤立」を保ち、前記三条約を初めどんな国際条約も結ばずに来た大英帝国が、よりにもよって極東の島国と同盟を組んだのだ。
 理由ははっきりしていて、ロシアの脅威だ。クリミア戦争でやっとのことで西側への進出を抑えたと思ったら、この北の帝国は、今度はアジア方面への野心をむき出しにし始めた。チャイナ(当時は清)には英国の利権はあるが、そこまではとても手が回らない。そこで日本に牽制を求めた。
 もっと意地悪く、英国は最初から、ロシアと日本を戦わせるつもりだったのだという見方は、当時からある。同盟のキモは、①チャイナと朝鮮における日英双方の権益は尊重する②一方の国が交戦する時は他方は中立を守る、そこへ第三国が参戦した場合には、援助のために参戦する、だった。②からすると、日露戦争で、例えばロシアと同盟関係にあるフランスが向こうの味方をした場合には、我々が引き受けよう、だから安心して、やって、と言っているように見えないこともない。
 この同盟は日露戦争講和会議中の1905年に第二回が締結され、そこではイギリスは、韓国での日本の大きな権益や、保護・指導の権利を認め、5年後の日韓併合の後押しをしているようなのは、いってみればご褒美だったろうか。しかしその結果、大陸での日本の存在感が大きくなることには、英国としては警戒心を抱かずにはいられなかった。このような微妙な、潜在的なものを含めた勢力争いは、この時代の国際関係では、いわば基調であった。

 そしてアメリカ。この新たな大国がアジアに本格的に姿を現すのは、1898年に米西戦争に勝ってフィリピンを領有し、同年ハワイを併合してからだった。
 1899年、チャイナ(当時は清)に対する門戸開放通牒を英独露仏伊日の六ヵ国に送り付け、1900年に義和団事件が起きると、今度は十一か国に向けて、「第二次門戸開放通牒」を出した。後者では、①清の領土的、行政的一体性の保全②条約および國際法によって友好的諸外国に保証されたすべての権利の保護③清のすべての地方との平等かつ公平な貿易原則の擁護、が要求されている。
 ①は領土保全、②は門戸開放、③は機会均等の原則、と呼ばれ、ほぼそのままワシントン会議の九ヵ国条約(1922年)にまで引き継がれた。しかし、チャイナ(清は1912年に滅んで、この時は中華民国)に関するこれらの原則は、例えば前記第二回日英同盟にも見え、米国が急に言い出したことではない。しかし、言葉は同じでも、状況によって具体的な意味が変わってくるのが外交文書というものだ。
 文字通り、清に対する人道的配慮から、なんてことがあるわけはない。広大なチャイナがマーケットとして魅力的であることは今と変わらないし、当時は、生産に関する技術革新も未熟で、大規模生産のために多くの労働力と広い土地の必要となる度合いは、現在よりはるかに高かった。ここまでは、レーニンの「帝国主義論」の分析がほぼそのまま当て嵌まる。
 しかし、その結果発展した「帝国」同士の植民地争奪戦になるかというと、もう明らさまに軍隊を出して、ということはやりづらくなっていた。チャイナは地球上で最後に残った、誰のものとも完全には定まっていない、魅力的な土地だった。現に各国がそれぞれ租借地や租界の形で多くの権益を得ており、そこを独占しようなんぞとすれば、よってたかって袋叩きにされるだろう。この後日本はそうなったように。
 それに第一、西欧諸国は、長年の経験から、植民地経営は軍事的なコストとリスクが高くつき過ぎて、そんなに得策ではないことも自覚し始めていた。と言って、戦争に負けたわけでもないのに、「自分のもの」である植民地をただ手放すなんてことできなかったのだが、チャイナに関しては、支那人の主権は一応認めた上で、経済的に支配したほうがいい、という現在中華人民共和国を含めた先進国が地球のあちこちでやっているやり口に代わりつつあった。ただ、20世紀初頭ではまだ、チャイナ限定の、新たな試みだった。
 例えば前出の米西戦争で、米国は、割合に古くからあるこんなやり口をしている。スペイン帝国黄金期のフィリペ二世から名付けられたフィリピンを奪う際に、現地の義勇軍に独立を約束してスペイン軍を背後から襲わせておいて、スペインを追い出すことに成功した後では、約束を反故にして、代りの支配者となった。その後の米比戦争は長く続き、民間人だけでも百万人からの犠牲者が出たと言われる。米国からすれば、アジア進出への橋頭堡として、フィリピン諸島は是非とも必要、と感じられたのだ。

 義和団事件の時には、米比戦争は継続中だった。その米国が清の領土保全を各国に呼び掛けている。
 この時は、チャイナの歴史上よくある宗教団体の反乱を、清当局が利用して、チャイナから列強の勢力を追い出そうと画策した。清は現に宣戦布告しているのだから、立派な戦争である。列強側は、八カ国連合軍を出してこれを鎮圧。そうなればチャイナの分割統治にまで至るのは、当時としてはむしろ自然な流れだったが、米国としてはそれはあまり面白くなかった。
 当時フィリピンには大規模な米軍が駐留していて、だから対支八カ国連合軍にも迅速に参加できたのだが、日本やロシアに比較して大兵力を裂くまでの余裕はなかった。それにまた、この地の権益をめぐる権力ゲームに新たに参加した米国には、既得権益もあまりなかった。チャイナを分割しても、それほど大きな取り分は期待できなかったのである。
 そこで、清の主権は一応保存、と言っても、多額の賠償金を請求され、各地に外国軍隊の駐留まで認めさせられたのだから、半植民地状態ではあったが、特定の宗主国はない。そのうえで、貿易や租借地(一定地域を好きなように使い、そこからの儲けはほとんど自分のものにできる)、などの経済侵略は、あまり過去には囚われず、各国平等にやっていこう。平たく言うと、「美味しいところは独り占めしないで、みんなで分け合っていただきましょうよ」と、提案ではなく、一方的に通告したのだった。
 八カ国中どの国も、表だってこれに反対することはなかった。しかしロシア軍は、しばらく満州でぐずぐずしていて、あまつさえ清と独自条約を結ぼうとした。ロシアに満州を実質的に支配されたら、次は朝鮮が狙われると恐れた日本ガ必死で抗議したが、埒が明かず、英米がハーグ陸戦条約から見て問題であると非難して、翌年ようやく引き上げた。
 こういうところから英国もロシアに警戒感を強め、前述したように日英同盟の締結に至る。この時期には日本はまだ、「帝国主義クラブ」に入りたての初々しい新人で、英国の要請に応じて義和団平定のために最大の軍を出して尽力し、それでいて賠償金では少ない取り分で満足していた。しかし、どのような高邁な理想が掲げられようと、国際社会とは所詮は力が最終決定を下す場だということは学ばざるを得なかったろう。ただ、それでもなお理想には無視できない力があることまで十分に学んだかどうか、後からの上目線で恐縮ですが、些か疑問ではあります。
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近代という隘路Ⅱ その2(「平和」への長く曲がりくねった道の端で)

2021年06月30日 | 近現代史
Wilson's Fourteen Points as the only way to peace for German government, American political cartoon, 1918.

メインテキスト:篠原初枝『国際連盟 世界平和への夢と挫折』(中公新書平成22年)
サブテキスト:臼井勝美『満州事変 戦争と外交と』(昭和49年初版、講談社学術文庫令和2年)/山室信一『複合戦争と総力戦の断層 日本にとっての第一次世界大戦』(人文書院平成23年)

 今さらではあるけれど、20世紀とは戦争の時代だった。第一次(1914―1918)と第二次(1939―1945)の両大戦を初め、地球上のどこにも戦争がない時期はなかった。その過程で戦争の様相が変わり、それにつれて社会のありかたも変わった。その結果が我々を取り巻き、誰の目にも見えてきた時代を「現代」と呼ぶ。
 前のほうの大戦中に、飛行機や潜水艦や戦車が本格的に武器として使われるようになった。【毒ガスも多く使われた。この「非人道的な兵器」は、1889年の第一回ハーグ平和会議で既に私用が禁じられており、第一次世界大戦後1925年のジュネーヴ議定書によって改めて禁止された。もちろんそれで地球上から消えたわけではなく、時々禍々しい姿の片鱗を現す。】それ以上に、一般庶民が「国民」となり、戦闘の前面に出てきたのが大きい。
 壮年男性が原則としてすべて兵士となる国民皆兵、そのための制度である徴兵制は、部分的には中世からあったが、本格化したのはフランス革命(1789―)からだ。「武器を取れ 市民よ/隊列を組め/進もう 進もう!/不浄な血が/我らの耕地を満たすまで!」(「不浄な血」とは、革命時にフランスに侵入したプロイセン軍を指す)という、この頃出来たフランス国歌がこの間の事情をよく示している。
 このような事実は意外に感じられるかも知れない。戦後日本では、一般庶民は戦争の犠牲者とのみ捉えられる。それは、兵器の進歩に伴って戦争の悲惨が増し、また映像など記録手段の進歩でそれが生々しく伝えられるようになったからだが、さらにそれ以前に、戦争の大規模化があった。
 国民との関わりから見ると、以下のようにまとめられだろう。

 第一に、兵士の補充が続くので、戦争がなかなか終わらなくなる。第一次世界大戦は正にそうだった。この時代を描いたマルゼル・プルーストの小説「見出された時」(1927年刊。「失われた時を求めて」最終巻)中のフランスのサロンでは、最初のうち、多くの人が「こんな戦争、すぐに終わる」と言っている。4年以上も続くとは思われていなかったのだ。それというのも、社交界を形成する上流の貴顕紳士には、一般民衆の姿は具体的に映じてはいなかったからだ。

 第二に、上の反面、一般庶民が戦闘員となり、命がけで国を守る責務を負うようになると、それに伴う権利を当然のこととして要求するようになる。普通選挙(これも最初はフランス革命時)前から、民衆は直接行動でこれを示すことがあった。日本では、明治38年(1905)の日比谷焼討事件が目に見える最初の例であろう。
 十年前の、日清戦争の結果得た遼東半島の権益を、三国干渉の結果手放さねばならなかった時には、政府の「臥薪嘗胆」の呼びかけが功を奏したものかどうか、目立った反対運動はなかった。しかし、こんな呼びかけがなされたこと自体が、政府が一般民衆の心事に気を配らねばならなくなった、少なくともそのポーズはつけねばならぬと感じられるようになっていた証左であろう。幕末の諸外国との不平等条約締結時にも、反対はあったが、それは志士と呼ばれる武家階級からに限られていた。農工商の身分の者が、自分たちの生活、いな生存が直接脅かされることに対する、いわゆる一揆(大正年間の米騒動はそれに近い)とは違う、政府の国外政策に抗議する、なんぞということは、封建時代には考えられないことだった(幕府老中阿部正弘が、来航したペリーを如何に扱うか、広い範囲に意見を徴したのに対して、武家以外の者の回答まであったのは、言わば例外だが、この頃までにけっこう高い見識を持つ者が下の階級にも現れていたことを示している)。
 政府によって愛国心を煽られ、家族が兵士として戦地に引っ張り出された庶民は、戦争の成果にも黙っていなくなる。ロシアとの戦争には勝ったはずだ。それなのに、なぜ賠償金を取れないか。理由ははっきりしていて、日本にはもうこれ以上戦う力が残っていなかったからだが、それは説明しづらい。大東亜戦争時の「大本営発表」はこういう場合の公式発表の代名詞になったくらいで、民衆、に限らず人間一般は、自分にとって都合の悪い情報は聞きたがらないものだし、聞いてしまったらすぐに「ではその責任者は誰だ」とくる。そのうえ、おおっぴらに自分の弱みを認めたりしたら、敵国との停戦交渉の際にもそれは相手にとって有利な、即ちこちらにとって不利なカードとして働く可能性大である。
 かくて、戦果に不満を抱く民衆を宥める手段は日露戦時の日本政府にはなく、ポーツマス条約に反対する国民集会はすぐに暴動となり、全権大使の小村寿太郎は条約締結後約1カ月米国で病気療養した後、ひっそりと横浜から帰国した。
 似たようなことはこの前後各国の常態になった。国の指導者が自分の都合と感情だけで戦争をやめるわけにはいかなくなった、ということであり、これも戦争の長期化を招く。total war(全体/総合戦争)とはそういうことである。

 戦争がこのように、万人にとってのっぴきならないものになるにつれて、平和への模索も真剣になった。そのうち最も目立つ里程標としては、第一次大戦後の国際連盟(1920-1946)とパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約とも。1928)がある。戦争の非合法化への取り組みであり、決してまやかしとも、無駄な努力とも思わない。が、人類は結局第二次世界大戦を防ぐことができなかったのは厳然たる事実である。
 なぜか? これはもとより難問中の難問である。このシリーズを通じて省察したい。今回は、20世紀初頭に現れてきたところを瞥見しておこう。

 1918年1月、第28代米合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは第一次世界大戦を恒久平和に向けて有意義に終わらせるべく、議会での演説でfourteen points(十四箇条の平和原則)と呼ばれるものを示した。今後の拙論の展開にも密接に関わるので、以下にやや詳しく内容を紹介する。

第一条 国際条約公開の原則。国家間の取り決め(条約)は、秘密の協定によるものではなく、自国民にも他国にも明らかにすること。いわゆる裏取引は禁じられる。
第二条 公海航行自由の原則。
第三条 国家間の経済障壁はできる限りなくし、また貿易の条件は平等であるべきこと。
第四条 軍備は、防衛の必要上最低限のレベルまで縮減すること。それには国家間相互の保証が伴わなければならない。

第五条 いわゆる民族自決原則。ただし現在イメージされるもとは大きく違うところがあるので、全文を拙訳で掲げる、
 「すべての植民地の要求は、あらゆる主権問題の決定において、関係する住民の利益が、その権利が認められている公正な政府と等しく重視すべきだという厳密な原則に基づき、自由で寛大で絶対に中立な立場で調整する
 わかりずらいですか? これは要するに、植民地の住民の利益(the interests of the populations concerned)は、権利が認められている公正な政府(the equitable government whose title is to be determined)、即ちその地を支配しているいわゆる宗主国と同等のものとして扱われなければならない、ということ。植民地を放棄する、という意味ではないけれど、宗主国に植民地住民の人権を蹂躙するのは明確に禁じている分は、進歩と言える。当時の人権意識は、理想家と言われたウィルソンにして、ここまでだった。これについては後述。

第六条。ロシア駐留中の各国軍の完全撤退。ロシア国内の政治決定権(国家主権)の承認。また、ロシアへの援助の約束。
 ロシアでは1917年のボリシェヴィキによるいわゆる十月革命の結果、世界初の社会主義国家となっていた。ウィルソンは公的なスピーチで最も早くソビエト政権を認めた西側指導者だった。
 もっとも、それは欺瞞的としか言いようのない結末になる。レーニンの指導するボルシェヴィキ政権は同年12月に、「平和に関する布告」として無併合・無賠償・民族自決を骨子とする第一次世界大戦終結のための講和案を発表したが、連合国(英仏中心)側で応じる国はなかった。結果ロシアは単独でドイツと講話を結び、戦線を離脱する。しかし、ウィルソンの十四箇条には「布告」と明らかな共通点があり、これを意識したのは確かだった。
 一方で社会主義・共産主義革命運動の高まりが自国に波及する(実際、レーニンとトロッキーの思想の中には世界革命論があった)ことを恐れた西欧諸国は、密かに革命政権の弱体化を企てたが、英仏は、背後のロシアの脅威が無くなったドイツの、全力の猛攻を防ぐのに精一杯で、遙か東方まで兵力を裂く余裕はなかった。その役割を引き受けたのが日本と、17年4月に新たに英仏側で参戦した米国だった。こうして、ロシア内に取り残されていたチェコスロバキア義勇軍(独からの独立を目指して組織されていた)救援を表向きの理由として、世に言うシベリア出兵が始まる。
 山室信一(pp.126~139)によると、日本軍にとってロシア革命の成功は危機であると同時に好機と捉えられていた。体制変革の混乱に乗じて、満州をも飛び越えて、はるか北方の地の権益を得ようという思惑が生じたのだ。一方英仏側は、最低でもソ連がドイツと組んだりしないように牽制はしてもらいたいが、そのためにアジア東北部で日本の勢力が大きくなり過ぎるのも警戒していた。
 後の懸念は、この地の利権に関心を持ち始めた米国にもあり、日本を監視するためにも、あまり気乗りしない派兵に応じたのだった。このへんの強国同士の虚々実々の駆け引きこそ、大東亜戦争終結時までの日本の歴史=物語の動因となったものだ。次回からじっくり眺めよう。

第七条 ベルギーの完全な復興。
第八条 フランスの領土回復。大戦前の状態への復帰はもとより、1871年のプロイセンによるアルザス・ロレーヌ地方の編入(アルフォンス・ドーデ「最後の授業」に描かれている)は「不正」であったとして、この地は再びフランス領とする。
第九条 曖昧だったイタリア国境の再調整。
第十条 オーストリア=ハンガリー帝国治下の諸国民に、自由な機会を保証する。具体的には、オーストリアとハンガリーの分離を初め、帝国内の諸民族を独立させ、ハプスブルグ王家最後の帝国を解体させること。
第十一条 ルーマニア、セルビア、モンテネグロなど、バルカン半島諸国の完全な独立。
第十二条 オスマン帝国のトルコ人の主権は認めるが、帝国治下の諸民族は独立させる。ダーダネルス海峡は各国の自由な通路として開放する。
第十三条 1814年のウィーン会議(ナポレオン戦争の後始末)以後オーストリア・プロイセン・ロシアによって分割統治されていたポーランドの再統一・独立。
第十四条 「国の大小に関わらず、政治的独立と領土保全を相互に保証する目的で、特定の規約に基づいた国家の一般的な連合体を形成しなければならない」。これが即ち国際連盟設立の最初の理念である。

 改めて全体を眺めると、第七~十三条によって、バルカン半島を含むヨーロッパの支配―被支配関係は否定され、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルグ家)、ドイツ帝国(ホーエンツォルレン家)、トルコのオスマン朝は瓦解することになる。第一次世界大戦の後始末であるパリ講和会議(1919)はほぼこの方向に進み、2年前に既に革命によって命脈が絶たれていたロシアのロマノフ家を含めると、中世期からずっとヨーロッパ・中近東・北アフリカで覇を競った帝国群のうち四つは消滅した。
 しかし、大英帝国はまだ残っていて、この時点で地球の約四分の一を領有していた。その他、アジア・アフリカのほとんどが、ヨーロッパの七つほどの国によって支配されていた。その西欧諸国が王制だろうと共和制だろうと関係ない、植民地とは、自国のものなのである。それが当り前なのであって、戦争に負けてもいないのに、どうして手放さなくてはならないのか、当時はほとんど誰にも答えられなかったろう。従って、民衆もそんなことは許さなかったろう。日露戦争後の日本人について見たように、戦争に勝ったのにご褒美が足りないだけでも怒るのだから。それにまた、アジア・アフリカは未開の地であって、そこの民衆に国を治めるなんてことはできない、と思われていた。
 第五条は、前述のように、そんな状況下でせめてもの一歩を進めたとは言えるだろう。ただ、パリ講和会議で、日本は人種差別撤廃条項を国際連盟規約に入れようと提案したが、この時ウィルソンは、かかる重要な事案は参加国全体の賛成を得なければならない、として、事実上葬り去っている(全員が賛成するわけはない。それはウィルソンも百も承知だったろう)。人種差別問題は今日でも残っていることは周知だが、植民地だけでも、世界が一応の解消に向けて動き出すのは、第二次世界大戦後まで待たねばならなかったのである。

 その日本からして、領土的野心とは無縁だったとはとうてい言えない。日清・日露戦争後の有様やシベリア出兵時のことは略述したが、第一次大戦開始時にも、元老井上馨が、「大正新時代の天佑」と言い, 政友会の代議士(後に原敬内閣の内務大臣)床次竹二郎の「日本ガ東洋ニ於テ優越権ヲ確保スベキ千載一遇ノ好機」など、類似の発言は数多い。
 大陸進出を狙う日本にとって、最大の難敵は支那人より、同じくこの地から利権を貪ろうとする欧米列強だった。それが自分たちのところで喧嘩を始めてくれて、遠隔地である支那大陸までは容易に手が回らなくなったのが、つまり天佑の好機で、正に確保すべきと感じられたのだ。
 日英同盟を口実にして大正3年(1914)にドイツに宣戦布告し、同国の租借地だった山東省膠州湾(青島)を占領した。この地は中華民国に還付すべきである、と表向きは唱えていたが、初手からそんなつもりはなかったろう。翌年には、その山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐことも含む「対支二十一箇条の要求」を中華民国政府に突きつけた。
 日本の要求はその後諸外国から抗議を受けて縮小したが、山東省や満州での特殊権益、旅順・大連の租借権期限延長などを中華民国大総統袁世凱に認めさせた。その代わり袁は、地位を守るために日本の横暴を内外に宣伝し、諸外国からは我が国への疑惑と非難を招き、支那国内では要求を受諾した日(5月9日)を「国恥記念日」と名付け、抗日運動が盛んになった。
 当時の大国のやり口からして、日本はさほど非道なことをしたとは言えないかも知れない。だいたい「やらねば、やられる」時代だった。例えば満州の利権や、さらには支配権など、日本が握らなければロシアのものになった可能性は大きい。ただ、同じようなことをやるにしても、日本のやり方は露骨で、今日まで続く「アジアの侵略者」の汚名の元になったことは否めない。

 これに関連して、次のエピソードが思い出される。ずっと後のことになるが、昭和7年(1932)、柳条湖事件(満州事変の最初)調査のために組織されたリットン調査団が来日して、芳澤謙吉外相などと会談した中で、3月5日、三井の團琢磨が血盟団員によって暗殺されたちょうどその日に、荒木貞夫陸相の話も聞いている。
 荒木は、「日本の貧弱な国土が増大する人口を養い得ず、また世界の門戸が閉鎖されているため、日本はアジア大陸に資源を求めなければならないという現実」を説いた。そしてまた「中国には真の政府が存在しているかどうか疑問である。中国を統一された文明国とみなすことはできないと私には思われる」(臼井p.212)とも。
 政情不安だからと言って「文明国」ではないかどうかはさておき、支那は統一された国家とは言えないというのは、荒木一人の考えではなかった。同年1月に開かれた国際連盟通常理事会の席上、佐藤尚武代表は、十年以上にわたるかの国の無秩序状態こそ事変(直接には上海事変)の根本的な原因だ、と主張した。これに対して国民党の顔恵慶代表が、「日本の陸海軍は政府のコントロールに服さず、日本の外交官が理事会の席上で真面目に約束することが、次の日、軍によって破壊されるという事態は、よく組織された国家の行為といえようか」(臼井p.185)と反論しているのも面白い。
 百歩譲って「文明国」ではないとしても、荒木は、自国ではない場所へ、自国の発展のために軍事的に進出するのだ、と公言している。言っている相手は、その場所での自国軍の謀略を調査に来ている公人である。これまた、現在の感覚とはかけ離れているだろう。逆に見れば、20世紀初頭の世界とは、そんな場所だった。日本は時代のルール、と感じられるものに則って大陸へと赴き、そこで本格的に「世界」と対峙した。この大前提をまず確認したかった。
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近代という隘路Ⅱ その1(帝国主義の末期にひと踊り)

2021年03月31日 | 近現代史

列強クラブの仲間入り ジョルジュ・ビゴー画 明治30年

メインテキスト:原田敬一『シリーズ日本近現代史③ 日清・日露戦争』(岩波新書平成19年)
サブテキスト:山室信一『日露戦争の世紀―連鎖視点から見る日本と世界―』(岩波新書平成17年)

 天皇中心とはちょっと別に、ずっと昔やっていた、戦争中心の日本近現代史について大雑把に述べるシリーズを再開します。以前は加藤陽子が高校生にした特別授業に基づいた本をメインテキスト使い、年代順に、日露戦争時まで辿りましたが、よりノンシャランに、思いついたことを書いていきます。こんなこと、誰も気にしてはいないと思いますが、一応のお断り。

 のっけに文句を言うことになるが、原田敬一の著書は読みづらかった。長い期間を駆け足で説明しているのだから舌足らずになるのはしかたない、とは言えるが、それ以上に誤記が多いし、文章が練れていない。
 それは棚上げにしても、この人の歴史観は、「なるほど、これが岩波文化人だな」と納得されるていのものだ。以下に、特にひっかかったところを挙げて、なぜひっかかったを説明する形で、愚考を述べる。【  】内は引用者による付け加え。

(1)こうした過程からすると、日本が積極的進出を計らないかぎりは、日清開戦の可能性は低かったのである。(P.53~54。これは高橋秀直『日清戦争への道』に拠ると注記されている)。
 「こうした過程」とは、主に、明治18年(1885)の天津条約によって、朝鮮における壬午事変(明15)以降の日清両軍の軍事的緊張が解かれ、さらに両国とも、将来再び出兵するときには必ず相手国に通知(行文知照)し、また所期の目的を達した場合は駐留したりせずに直ちに撤兵する、と定められたことを指す。
 現在の目からは、複数の他国の軍隊が、自由に領土に入ってきて、一触即発の状態になる、なんぞというだけで充分に異常に見えるだろう。帝国主義の最盛期の、第二次英仏百年戦争(1689―1815年)を初めとする植民地争奪戦では、特に珍しいことではなかった。因みに日露戦争では、陸地の戦場は朝鮮と清国のみになったが、これはこの戦いが、帝国同士が直接ぶつかる、最後の(広義の)植民地争奪戦争であったことを示すものだ。
 話を戻すと、当時の朝鮮には軍民の叛乱(これが壬午事変)を押さえることはできず、従って国内の、他国から来ていた居留民を保護することも出来ず、従ってまた、それを保護するという名目でその他国の軍隊が入ってくるのを阻止することも出来なかった。
 こういう国が二つの強国に挟まれた場合、どちらかの言いなりにはならず、最低限の独立を保つためには、片方が手を出しそうになったら、もう一方が絶対に黙っていない、という状態にしておくことは確かに有効ではあるだろう。それでも、戦争よりはましだろうか? だいたい、この「平和」は、あからさまに、軍事力の抑止効果の上に成り立っているのだ。それこそ、「冷たい戦争」と言うに相応しい。
 そのうえ、睨み合っている国々にしてみれば、中にあるのが自国内の動乱も鎮められないような国なのでは、風向き次第でどう転ぶかわかったものではない、という不安定は決して拭えない。自国の利益保全のためには、この弱体な国の外交と軍事のヘゲモニーを握るに如くはない。その切迫感は日本が最も強く、だから「積極的」に出たのである。これについては後述。

(2)その【清仏戦争】後日清戦争までの一○年間アジアはほとんど平和であった。一八五○年前後、清が混乱した状況を利用した列強の弾圧はいったん収まり、列強の新たな攻撃によるアジア分割という危機はまだ始まっていなかった。/だが、日清戦争は、清の軍事力が弱体だと世界に暴露し、列強諸国に対抗する軍事力がアジアに存在しないことを伝えてしまった。以後、列強はアジアへの侵略を再始動する。植民地台湾を確保し、「大日本帝国」としてアジアに登場した日本も、連動して帝国主義のアジア侵略を拡大していく。一九世紀末以降のアジアの危機は、日清戦争によって生み出されたのである。(P.87)
 「眠れる獅子」と呼ばれていた国が、実は「眠れる××(自主規制)」だった。それを暴いたのが日本だったというわけだが、西洋列強とは、相手に「列強諸国に対抗する軍事力」がない、つまり弱い、とみたら、かさにかかって襲いかかってくる、そういうハイエナみたいな(ハイエナに失礼かな?)連中だということは初手から明らかだったろう。
 具体名を出せば、英仏独及び露に加えて、1898年にスペインとの戦争に勝って大西洋方面の安定を得た結果、改めて太平洋からアジアまで目を向けるようになった米が、おのおの合従連衡を繰り返しつつ、清国からの略奪レースに参加する。
 しかし、いきなり兵を出して占領、ということはなかった。租借地という名で土地を借り(と言っても施政権は借りた側に属する)、鉄道敷設や鉱山採掘の権利をもらって金を吸い上げる方法を用いた。帝国主義的収奪を4世紀以上も繰り返して、スマートなやり方をするようになった、と言えないこともないが、それより、あんまり露骨に強引なやり方をして、他の強国の反発を買うのはできれば避けたい気持のほうが大きいであろう。言わば、上記天津条約における日清のにらみ合い(相互監視状態)を、ずっと国土の広い清に舞台を移して、多数の国家間でやるようになったのだ。それでも、ドンパチは少ないだけ、全面戦争よりはましであろうか?

 ここは本シリーズの要とも言うべき部分なので、少々の脱線は看過していただくことにして、敷衍して述べておきたい。
 日本はいかにも、新たな侵略のきっかけを作り、また自身も侵略プレイヤーの一員として振る舞った。それについて、単純に日本を批判するような口吻はどうなのか、と思う。上のような状況では、国際社会では力がすべて、とまでは言わなくても、力がすべてに優先する、と考えるのは当然ではないだろうか。弱肉強食のサバンナのような世界に遅れて参加した日本は、この論理を、いささか過激に進めたきらいはあるにしても、だ。
 だいたい、英仏独米などは、本国から遠いところで利権漁りをしていたのだし、近隣国の清と露は元来大国であった。両国とも、日本との戦争を遠因の一つとして、革命によって体制がひっくり返るのだが、その危機が目前に迫るまでは、比較的鷹揚なものだった。新参者の日本が一番、文字通り国の命運を賭けて、必死にやらざるを得なかったのである。
 他方、支那の属国と位置づけられていた朝鮮は、宗主国の国是である事大主義を、過大に、言わば純粋形で取り入れ、具体的には厳しい身分秩序と(最広義の)生産業蔑視を堅持し、近代化は長い間頑なに拒否していた。ここをなんとかしない限り、朝鮮の独立は難しい。それは当時、一進会の政客など、朝鮮人の一部の認識でもあった。
 断っておかねばならないだろうが、だからと言って私は、逆に、一部の保守派が主張しているような、日本の朝鮮統治が正しくもあれば良いことでもあった、とする者ではない。インフラ整備をしようと賎民(両班と呼ばれる特権階級以外の、一般庶民)のための小学校を作ろうと、すべて日本自身のためにしたことである。かの国人への差別も圧迫も相当にあったに違いない。朝鮮半島の人々が日本に恨みを抱くのも、ある程度は仕方がないと思う。
 しかし、もっと遡ると、支那の冊封体制からしたら、中原(支那の中心)から離れるに従って野蛮な国となるので、その意味では日本は朝鮮より下位の国である。その手によってしか近代化が成し遂げられなかったこと自体、屈辱ではあるだろう。そんな華夷秩序を引きずった感情が、反日の根底にあるとしたら、つける薬はない。ならば、解消に向けた努力をするなんて、無駄ではないか、と個人的には考える。ただ、何故かはよくわからないが、日本を押さえつける手段としてこれを使おうとする勢力が世界各国にあるので、対抗上、ずっと反論を発信し続ける必要はある。
 韓国自体にについては、日本への恨みそのものが民族アイデンティティの核になっているのだとしたら、誰よりも、韓国人自身にとって不幸ではないかと、いらぬ斟酌をしてしまいがちになる。

 ここまで言ったからには、「日本のため」の内実についても、もう少し詳しく述べておくべきだろう。
 この時期の日本が採った対外戦略の基本は、よく、主権線と利益線という言葉で説明される。山縣有朋が、明治21(1888)―22年に欧州を視察したとき、かつて(明治15年)伊藤博文に憲法学の講義をしたローレンツ・フォン・シュタインから聴いた概念を、翻案したものである。
 国家主権の存する領土(領空・領海の概念はこの頃はまだ曖昧)を他国の侵略から防衛するには、国境線(これを主権線と言い換える)を守るだけでは不足で、その外側に、自国に味方してくれる国か、こちらが軍を遅滞なく進めて戦場にすることができるような地域を確保しておくべき。その境界が利益線で、ここを敵に突破されても、まだ主権線が残っているという二段構えにしておいたほうが、なるほど、国防にはより有効であるな、と納得される。もちろん、現実にある諸条件を度外視すればだが。
 山縣は明治23(1890)年国会開設時の内閣総理大臣で、同年12月6日に日本初の施政方針演説をしている。その中にこの言葉が出ていて、軍事予算の増加を求めているが、それより早く3月の演説「外交政略論」(後に『山縣有朋意見書』中に入った)でもこれに基づき、相当突っ込んだ提言をしている。一部の現代語訳を拙訳で以下に掲げる。

 利益線の観点から我が国にとって最も緊要なのは朝鮮の独立である。(中略)しかし朝鮮の独立はシベリア鉄道開通【モスクワーウラジオストクをつなぐ世界一長いこの鉄道が一応の完成を見たのは日露戦争中の1904年だが、計画段階から、これによってロシアは首都からアジア東北部まで短期間で兵力を送れる、ということで、日清両国に恐れられていた。】の暁には薄氷の危うさに迫るだろう。朝鮮が独立を保てず、東南アジア諸国と同じ轍を踏むならば、東洋の北部は他国【ロシア】の占有するところとなり、直接の危険が日清両国に及び、主権線の対馬は頭上に刃を振り上げられたような状態に陥る。(中略)将来のための良策は天津条約を維持するところにあるのか、それとも一歩を進めて朝鮮と連合し保護して、国際法上恒久的な独立国の地位を与えるべきか、これが今日の問題である。

 朝鮮を本当の意味で独立させたい、という言葉が、本気だったのか、それとも陸奥宗光外相のように、方便であることは百も承知しながら言うだけは言ったものか、はわからない。いずれにしても、後の経緯からしたら、インチキと言われてもしかたない。戦前の日本でも、安部磯雄などは明治37年に次のように言っているそうだ。(山室、P.134より孫引き)

 日清戦争といい、日露戦争といい、その裏面にはいかなる野心の包蔵せられあるにせよ、その表面の主張は韓国の独立扶植【援助】であったではないか。しからば戦勝の余威を借りて韓国を属国化し、その農民を小作人化せんとするが如きは、ただに中外に信を失うのみならず、また我が日本の利益という点より見るも大いなる失策である。

 その通りだろう。だいたい、日本一国で、韓国を他国の干渉から守り切り、近代化に導く、なんてことはできるはずがなかったのだ。それをやるためには、野心の有無は別として、現実の何倍もの国力が要ったろう。
 それより、利益線の危険性は、夙に指摘されている。利益線としての韓国を日本に編入したら、主権線が延びる。新たな主権線を守る新たな利益線として、具体的には支那東北部、即ち満州が必要になる。その満州を守るためには、内モンゴルを、さらにできれば支那全体を手中にしたい……、云々と、どこまでも版図を拡大しなければならないように感じられてくる。その果てに、大東亜戦争の破局にまで行き着いたのである。
 この道筋は、他国から見たら侵略でも、日本にしてみれば防衛だった、という感覚の齟齬は今でも深いところに残っていて、時々現実の問題になる。心得ておいたほうがいい。

(3)日清戦争は、一八八〇年代にはアフリカ分割を終えた欧米諸列強の目を再びアジアに向けさせることになった。(P.186)
 結局私は、今回は一つのことにこだわっていたのだな、と改めて気づかされた一文である。
 原田敬一らの歴史観は、つまるところ、アジア・アフリカで、欧米列強の支配が一応完成して、「平和」であったのに、日本が跳ね上がって余計なことをしたために戦乱を招いた、というものだ。現にはっきりそう言った人もいる。これには呆れた。
 この言い方は、非西欧諸国にとって、欧米に支配されているのと、血を流しても独立するのと、どちらがいいのか、なんぞという不埒な問いを呼び起こす、それには無自覚なようなので。
 不埒な問いにはやや斜めから応えよう。他国間であれ自国内であれ、不当な支配があると感じられたら、体制変革(レジーム・チェンジ)を求めることになり、要求が大きくなれば抵抗運動の形を採って国際社会あるいは国内に動乱をもたらす。どういうことを不当と感じ、どうやって、またどの程度に抵抗するかは当事国の人々次第だが、一般に、抵抗が大きければ圧迫もそれだけ大きくなり、それがさらに大きな抵抗を呼ぶ、という循環で、しばしば流血を伴う戦闘にまで至る。
 戦闘が一国内ならクーデターあるいは革命と呼ばれ、二国以上の場合は戦争と呼ばれる。各個別の正義不正義の判断とは別に、体制が広い範囲に及べば及ぶほど、そして歴史が古くなればなるほど、有形力(暴力の上品な言い方)なしで変えるのは難しくなる。
 1688-1689年の名誉革命は、例外的に流血がなかったところが稀な「名誉」なのだが、それはイングランドの話で、スコットランドと北アイルランドでは、新王ウィリアム三世に反対するカトリック教徒たちが蜂起し、1年余り戦闘が続いたのだった。
 今後もそんなものだろうか。現在のミャンマー(旧ビルマ)で起きていることを見れば、少なくともそう簡単には改まりそうにない。逆から言えば、あくまで平和を求めるとしたら、ほとんどの場合、現在の体制が、どんなものであれ、維持されるのを認めなくてはならないようなのである。こちらはもっとやっかいな、人類の永遠の課題かも知れないが、それだけに、忘れてはならないことだろう。
 
 そこで改めてこの頃の日本のしたことを考える。山室信一は、大略次のように指摘している。まず清国や朝鮮の旧弊がアジアにとって危険だからという名目で戦い、次に一番近いところにある白人の大国とアジアを防衛するのだと言って戦い、しまいには欧米からの「アジアの解放」をスローガンとした、と。日本は、恐らく史上最も大規模なレジーム・チェンジを企て、やり方はインチキと呼ばれ得るものだったにもせよ、果敢に戦い、結果として東洋での帝国主義を終わらせるのに貢献した。良し悪しを言う前に、この巨大な悲劇と裏返しの喜劇の相貌を、もう少し虚心にたどったほうが、面白くないですか?
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立憲君主の座について その17(祀られると共に祀る神)

2021年02月28日 | 近現代史
大日本名将鑑神功皇后武内宿弥 月岡芳年画 明治10年頃

メインテキスト:和辻哲郎『日本倫理思想史 上巻』(岩波書店昭和27年、28年第3刷)

 このシリーズもだいぶ間が開いてしまったので、天皇の特質について改めて考えます。
 天皇とは神を祀ることを主な役割とする祭祀王(priest king)である。これが(ある意味で)国家の中枢というのも現代では珍しいが、そもそもどうして神聖不可侵な存在と感じられるのか、よくわからないところがある。
 例えば福田恆存は昭和32年にこう書いている。

 私自身はもちろん「天皇制」には反対です。が、その理由は、天皇のために人民が戦場で死んだからといふことではありません。私と同じ人間を絶対なるものとして認めることができないからです。だからといつて、天皇を絶対視する「愚衆」を、私は単純に軽蔑しきれません。少なくとも、絶対主義を否定し、相対の世界だけで事足れりとしてゐる唯物的な知識階級よりは、たとへ相対の世界にでも絶対的なものを求めようとしてゐる「愚衆」のはうが信頼できます。(「西欧精神について」、『福田恆存全集 四巻』P.221)

 福田にとって、天皇とは絶対者の代用なのだった。ただ、「非合理なものは認めない」なんぞというインテリの浅薄な現世主義(福田の言葉からは相対主義とか唯物論とかに近いようだが、私にはそんな立派なもんじゃないと思える)よりは、どんな形であれ、日常生活の次元を越えたものを求め、それに仮にもせよ形を与えずにはいられない一般民衆の方が信頼に値する、と。
 こういう福田の「絶対者」観は当ブログで既に述べたが、簡単におさらいすると、「個人」が立ち上がるためにこそそれを超えた存在が必要とされるのである。だから、ある絶対の者に完全に帰依する、ということを求めるのではない。どちらかと言うとむしろ反逆者のほうがいい。「神への反逆者」は、強烈な自意識を内に抱かざるを得ないだろうから。
 そこまではいかずとも、「完全なもの」に比べて一個の人間とはいかに不完全か、それを思い知ることが「個人」の、明確な「個人意識」が生じる第一歩なのである。不完全であるところは誰もが同じでも、なぜ、そしてどのように不完全であるのかは、各人によって違うからだ。そしてまた、国家を初めとする組織や共同体もまた、もちろん物理的には個人よりはるかに強力だが、価値からしたらいずれも相対的でしかないので、従わなくても良心の問題にはならない。
 言い換えると、国家・社会・家庭などの共同体に埋没しない個人が見出される契機が絶対者なのであり、それは文字通り不変不動、永遠に何も足せず、何も引けないものでなくてはならない。また、人間の目に触れるようなものであってはならない。天皇は、人間の姿をしていて、代替わりという目に見える変化もする。政治的にも、時代によって、権力があったりなかったり、近代だと帝王になったり象徴になったり。さまざまな形態をとり、しかも、どうも、それがそんなに大きい問題だとは、一般に思われていないようだ。そういうところこそ日本人の特質と言えそうだが、福田が求めるような絶対者とはまるで違う。
 これ以上は、主にこちらこちらをご参照ください。

 もちろん、絶対者の観念がちゃんとしていないから、日本人はダメだ、なんぞという話ではない。だいたい、そうだとしても、例えば今後日本人全員がキリスト教信者になる、なんて、あるわけがない。つまり、どうにもならないのだから、言っても仕方ないのだ。
 見方を変えて、天皇とは摩訶不思議な存在であり、2,000年以上にわたってそのような存在を戴いて国家を運営してきた日本人もまた、不思議な民族である、ならば、その不思議の中枢部はどうなっているか、神代史から深く考究した文章に基づいて、いつものように勝手な考えを述べよう。

 和辻哲郎は、天皇の独特の神聖性を示す例として、記紀にある神功皇后のエピソードを取り上げている。
 皇后は、熊襲征伐のため、夫である第十四代仲哀天皇とともに九州に赴いた時、神懸かりする。それをきちんと聴くための儀式は、天皇が琴を弾き、重臣・武内宿禰が審神者(さには。神の言葉を解釈する者)となって行われた。神託は、「西方にたくさんの宝物がある國がある。それを与えよう」というもので、天皇はそれを信じず、琴を弾くことやめた。するとやがて死んでしまった。そこで皆大いに恐れかしこみ、大がかりな祓い清めを実行した後、皇后が神主となって再び神の御言葉をうかがうと、やはり海の向こうの国に赴け、と、また「この国は皇后のお腹の中にいる子(應神天皇)が治めるべきだ」ともご託宣があった。そこでその神の御名を尋ねると、「天照大神の御心であり、また住吉三神である」とのお答えであった。そして、かの国を求めるなら、我が御霊を御船の上に祭り、のみならず天神地紙、山神及び河海の諸神に幣帛を奉れ、云々とも命じられた。
 和辻が注目するのは、ここで、神降ろしの儀式はちゃんと形式が整っているのに、降りてくる神のほうが曖昧に描かれている点だ。問われない限り名も告げない。だから仲哀天皇も信じない。それで神罰で命を落とすのだから気の毒だ。【そう言えばこの帝の父である日本武尊も、伊吹山の神の化身(「古事記」では猪、「日本書紀」では大蛇)を単なる使いだとみなして軽んじ、ために怒りを買って失神し、このとき得た病によって命を落とすのである。】
 因みに、上の叙述は「古事記」に基づくが、「日本書紀」では、この神はまず撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)、というのは天照大神の荒魂(暗黒面?)らしいが、そう名乗り、審神者(このときはイカツノオミ)に「まだこの他に神は有りや」と問われて二柱の神の名が挙り、「また有りや」→「有るとも無しとも知らず」→「今は答へず、後に言はれることありや」→住吉三神の名が挙る→「また有りや」→「有るとも無しとも知らず」、という具合に進行する。神が複数いて、しかもその御名が顕れるまでに、ずいぶん手数がかかる。訝しいので、印象的である。

 一般に、宗教心は、まず台風や雷、地震など大きな厄災をひきおこす自然力への畏怖が、その背後にある大いなる力を想像させ、また変転極まりない人間の運命を思うとき、それを司る力の存在を考えるところから生じるものだろう。このとき既に、かなり明確な人間の自己意識あり、一方で超自然力が「神」として擬人化される契機があるはずだ。
 次の段階では、この「神」に関わるための儀式が整備され、これに応じて、あるいはこれと共に、その他の日常生活上の倫理も整えられていく。儀式を司る者が倫理を教導する者でもあり、これを中心として、神についても人のありかたについても多くのことが語られる。
 一定の語りが広い範囲に浸透し共有されると、それが民族の内実を形成する。ユダヤ教やヒンズー教(インド教)がそうである。やがてその中からナザレのイエスとかゴータマ・シッダールタというような優れた人が出て、説得力豊かで論理的にも整った言葉を語ると、抽象性も高まるから、民族・国家をも超えた世界宗教になっていく。
 この最終段階にまで至る例は稀だが、どの段階でどのように留まったかは、外部から見たその宗教の特徴となる。日本の場合、前述のように、神と交流するための方法はあっても、その神の言葉≒神を語る言葉は、さほど詳細にならないところがそれである。

究極者は一切の有るところの神々の根源でありつゝ、それ自身いかなる神でもない。云ひかへれば神々の根源は決して有るものにはならないところのもの、即ち神聖なる「無」である。それは根源的な一者を対象的に把捉しなかつたといふことを意味する。それは宗教的な発展段階としては未だ原始的であることを免れないが、しかし絶対者に対する態度としてはまことに正しいのである。絶対者を一定の神として対象化することは、実は絶対者を限定することに他ならない。それに反して絶対者をあくまでも無限定に留めたところに、原始人の素直な、私のない、天真の大きさがある。(P.76-77、下線部は原文傍点、以下同じ)

 日本に限らず東洋について語る文脈で、「無」とか「空」とか言われると、なんだかいかがわしくなるような気が、私にはする。和辻哲郎のような碩学の文でも、例外ではない。ただ、要は、神は「有るとも無しとも知らず」、それについて直接語ろうとするのは抑制的であるべきだ、ということであろう。人間の身の丈をはるかに超えたはずの者を、対象化して、人間の言葉であれこれ語る、というのは、人間の認識の中に入れて、限定する、ということだからだ。
 無限のものを限定する、とは、端的に矛盾ではないだろうか。これは私も、(すすんだ?)宗教に接する度に、なんとなく感じてきた疑問である。因みに、それだからだろうか、福田恆存も、絶対者という観念の重要性は説いたが、その絶対者の内実は何か、については決して語ろうとしなかった。

 さて、そういうわけで、超自然的な神々は、存在が疑われはしないものの、正体が明らかになることはなかった。そもそも、「正体」なんぞないのかも知れない。人は、そういうものには畏怖は感じても、敬愛はしない。愛されもするのは、この神を祀ることで人の世に恵みをもたらそうと能動的に活動する者である。

神代史において最も活躍してゐる人格的な神々は、後に一定の神社において祀られる神であるに拘はらず、不定の神に対する媒介者、即ち神命の通路、としての性格を持つてゐる。それらは祀られると共にまた自ら祀る神なのである。(P.66)

 人智・人力をはるかに超えた存在に対して人間にできることは、怒らせないように(神罰がくだらないように)、正しい態度とやり方で臨むことぐらい。その正しい態度・やり方を祭儀として示し、執行する者こそ、普通人から見て最も有り難い。「祭り事の統一者としての天皇が、超人間的超自然的な能力を全然持たないにかゝはらず、現神として理解せられてゐた所以」である。そしてまた、その祭儀が正当で正統なものと認められたところに、日本の国家と民族の内実が自覚されたとしてよいのであろう。「天皇の権威は、日本の民族的統一が祭祀的団体といふ形で成立したときに既に承認せられてゐるのであつて、政治的統一の形成よりも遙かに古いのである」(以上P.84)

 改めて考えると、現存する西洋世界の祭祀王であるローマ法王と比べても、天皇はずっと人間的である。共通するのは、超越的なものへの通路、ということぐらい。天皇は、ローマ法王がそうあるような、「神の代理人」とも言えない。何しろ代理すべき主が不定にして不明なのだから。
 また、天皇は神の声を直接伝えるシャーマンでもない。身近な女性がシャーマンになった例が記紀には二つあり、一人は上記神功皇后、もう一人は第十代崇神天皇の叔母である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)で、災害が多く国が治まらないわけを八百万の神々に尋ねた時、「自分をちゃんと敬い祀れ」とのご託宣を伝える。ここでも、天皇に「そのように教えて下さるのはなんという神様ですか」と問われてから、「大物主神(大国主神の別名ともいわれる)である」と名乗る。
 もっとも、このときは、言われるままにしたのに霊験がなかったので、天皇が改めて祈り、夢で祭祀の詳細を聞いて、やっと無事に解決を得たことになっている。神は、一時でも人間の肉体に宿るより、人の祈りに応じて夢かうつつか定かならぬうちに意向を伝えるほうが、日本では正統的なのである。
 このように、祈るのが主な仕事である天皇が、天照大神の血統を継ぐものだというのは、後から付け加えられた話ではないだろうか。これは、和辻は書いていない、私一個の想像である。それというのも、これも神功皇后の逸話にある通り、先祖であるはずの大神に祟られて死んでしまうことさえあるのだから。
 逆に考えると、そのような頼りない存在だからこそ、神聖性を付与するために血統神話が必要とされたのかも知れない。ローマ法王は、独身でなくてはならないのだから、このような権威付けは使えず、みんな元はタダの人でも、何しろ後ろ盾が唯一絶対神という最強者なんで、誰も文句は言えないのだろう。

 そして、こちらは和辻も書いているが、天皇のような存在がもたらす最大の徳目は、「清く赤き心」とか「清明心」とか呼ばれる、素直でまっすぐな心であろう。実際、神に相対するときには、そうでなければならぬはずである。ただし、神が必ずそれに応えてくれるかどうかはわからない。だいたい、そんなことを期待して祈るとしたら、取引のようになり、汚れた心だとみなされるのではないだろうか。
 では結局、天皇の祈りはなんにもならぬのか? そう言ったもんでもない。例えば、最近ではほとんどなくなってしまったろうが、日本には「お百度参り」という宗教行為がある。同じ寺社に百日間欠かさずお参りする、というもので、それによって心願が適うとは限らないのだが、神ではなく人間のほうとしては、その願い祈る心の強さにうたれずにはいられない。
 そんなふうに、毎日くにたみの安寧を願っておられる者が、この日本にはずっとおわします、と思うと、いささか心が洗われるような気がする。そういう存在として、天皇は尊貴なのであり、また、そのような存在をずっと保ってきたところに、我々日本人の、かけがえのない美質がある、と考えられる。
 しかし、こういう存在を俗世の「中心」ともするのは、やむを得ぬこととはいえ、問題が多いのは当然である。次回からまた、それを見ていこう。
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立憲君主の座について その16(公議輿論の変遷)

2019年01月31日 | 近現代史
「五箇条御誓文之圖」乾南陽画 大正6年

メインテキスト:榎本浩章「「公議輿論」と幕末維新の政治変革

 本シリーズその11で述べた小御所会議の、前の状況をおさらいしたくなった。御誓文の最初の、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」はどのように幕末の政治上に浮上し、どのような変遷をたどったのか。

 最初のきっかけはペリーが浦賀へやってきた嘉永6年(1853)、老中筆頭阿部正弘が、米大統領からの国書を翻訳文つきで公開し、幕府の役人や全国の諸大名に開国問題をいかにすべきか諮問したことであろう。これは徳川幕府二百年の歴史中、きわめて異例のことであった。
 ここに至るまでにはもちろんいろいろあったが、ただ一つだけ挙げる。四年前の嘉永2年(1849)、度重なる外国船の来航に悩んだ阿部は、改めて異国人の扱いについて注意を促す布告を全国の大名に出したが、そこに次のような内容の口達(こうだつ、または、くたつ。口頭命令の意味だが、略式で出された文書もこう呼ばれた)も付されていた。
 曰く、最近異人どもの不逞な振る舞いはますます目に余るようになった。異賊とは西洋諸国の意味だから、こちらも挙国一致で当たらなければ危うい。隣領とも力を合わせ、「貴賤上下となく」武士はもとより、「百姓は百姓だけ、町人は町人だけ」各々の持ち分で、国運に報じようとする心掛けこそ大事である。
 当たり前のことを言っているようだが、これは、身分の別なく日本で暮らす者全員を「国民」として、「国難」に当たるよう呼び掛けた、即ちナショナリズムの自覚を促した、おそらく日本最初の文書である。これが多くの国で、平等、即ち身分制度撤廃の原動力ともなるものだった。
 そこへ、アメリカの意志として、国交を強く要求する国書を持ってペリーがやってきた。向こう側の事情としては、主に、北太平洋で活動する捕鯨船のための、薪炭や食料の補給所として、理由もなく(としか思えなかった)他国との交流を極端に制限していた極東の島国の存在価値が、改めて注目されたのであった。
 そのことは約一年前には、オランダからの情報で、幕閣は知っていた。だからといってどういう手段も思いつかず、まあ古今未曽有の事態なのだから当然なのかも知れないが、「貴賤上下となく」広い範囲の意見を徴したのである。

 当然ながらその影響は大きかった。
 まず思想的に。いくら上下の別はない、と言っても、訊いたほうは武家しか予定していなかっただろうに、七百を越える回答者の中には、懇意の武家から伝え聞いたのであろう町人、遊郭の主人やら材木商もいた。それを含めて、相手の要求を容れて開国すべし、というものはほとんどなかった。国交は断固拒絶すべし、やむを得なければ戦争も辞さず、と勇ましい意見が大半を占めていた。これが当時の「輿論」であった。
 ナショナリズムの勃興期はえてしてこんなものだろう。それに相応しい高圧的なふるまいも、アメリカはしてくれた。米艦隊は引き上げる前に江戸湾に入って水深の測量までしている。日本側はそれを黙って見ているしかなかった。さらにペリーは国書と一緒に、来年再訪したときには(降伏のしるしとして)これを使えと白旗を渡したと言われ、これは伝説か曲解である可能性が高いのだが、そんな話が速やかに伝わるほど、当時の日本人のほとんどが初めて見る異国人(この場合は西欧人)に対する恐れと反発は強かったのである。
 意見書の中で、当時三十歳で小普請組に属していた勝麟太郎のものが出色であり、出世の糸口になった、と当人は言っている。6月に簡単なものを提出し、それについて諮問されたので、7月に改めて詳しく書いたものが、現在「海防意見書」として残っている。
 全部で五箇条から成るうちの第二は、軍艦がなければ国防は不可能であることを訴えている。それに積む武器弾薬も含めて、用意するには当然費用がかかる。その金は、交易をもって稼ぐのがよい。ただし、向こうから来るのは止め、こちらから清・露西亜・朝鮮など近隣諸国へ出かけて行って雑穀・雑貨を有益な品と交換するようにすれば、国益を損じないですむ、と、これは誠にムシのいい考えと言うべきであろう。それでも、これはこれで、開国に違いない。実際、そうしなければ日本を防衛しようがないことは、この後次第に多くの知識人の共通認識になっていった。
 次に、二百年以上続いた幕府の、行政組織上の慣例が変化した。
 幕府のトップと言えばもちろん将軍だが、これが実際に何かを決めることは例外的にしかなかった。その後の天皇制にまで引き継がれる、日本型、あるいは支那まで含めた東洋型大組織の特徴をここに見ることができるも知れない。
 幕府最高の行政官は老中で(その上に、臨時の役職として大老が置かれることもあった)、これには、阿部もそうであるような譜代大名(関ヶ原以前から徳川家に臣従していた家)が就くのが通例だった。しかし、彼らの家柄も禄(収入)も必ずしも高くなかった。血筋からして将軍家に最も近い徳川姓の御三家・御三卿は、将軍の直系が絶えた時のいわばスペアであって、高き所へ祭り上げられていた。その次の、松平姓の親藩(家康の男系男子の家柄)も、伊豆守信綱や白川侯定信のような例外はあっても、ほぼ同様。
 関ヶ原以降に幕藩体制に加わった外様大名は、禄は高い場合があった。徳川将軍家を除く大藩を石高順に記すと、加賀藩前田百万石、薩摩藩島津七十万石、仙台藩伊達六十万石、と、トップ3を外様が占めている。それでも、むしろ取り締まられる対象であって、多少とも国政に参与することなどあり得なかった。【このように、名誉と権力と収入をできる限りバランスよく配分して、不満を抑えたのは、なかなかの知恵だと言えるだろう。】
 これが実質的に変化した。阿部との人間関係もあって、御三家の徳川斉昭、親藩の松平慶永(春嶽。御三卿の一つ田安家の生まれ)、外様の島津斉彬らが発言力を持ち、政治に関与するようになってくる。
 このうち斉昭は、この時は既に家督を嫡子の慶篤に譲っていたが(直接には実弾を使った大規模な軍事訓練を無断で行ったことが幕府の忌避に触れて、強制的に隠居させられた)、水戸学を代表する人物として声望を集めていた。その主張は、うんと単純化すれば「日本は神聖な天皇陛下がおわす神国だ」で、だから「穢れた異人が入ってくるのを許してはならない」と結びつく。少なくとも、ナショナリズムに燃える、後に志士などと呼ばれる人たちからはそうみなされ、時代の有力なイデオロギーになったのである。ここから出た「攘夷」という言葉はすぐに広まり、一般化した。
 この思想、というか流行は、二重の意味で幕府に不利に働いた。まず、強硬に外人を追い払うなどできない幕府の「弱腰」が批判された。次に、偉大なのは天皇陛下なのであって、幕府はただ政権をお預かりしているだけだ、なる形式論が思い出され、幕府の権威は低下した。いわゆる尊王攘夷。
 阿部は政権担当者として、単純な攘夷思想にはまっているはずはなかったが、おそらく前述した「挙国一致」のためには影響力の強い人物を取り込んだほうがよいと考えたからであろう、斉昭をまず海防参与とし、安政2年(1855年)には軍制改革参与とした。現実に責任のある立場になれば、すぐに異人を追い払え、なんぞとは言っていられなくなるはずだ、という目論見もあったかも知れない。
 実際斉昭は、大砲七十四門を鋳造して幕府に献上したり、幕府の命を受けて最初期の洋式軍艦「旭日丸」を建造したりしている。前述の鉄砲の一斉射撃訓練などと合わせて、島津斉彬と並んで、勝の意見書にもあった軍政改革に、最も早く実際に取り組んだ一人であって、その意味では頑迷固陋な日本主義者などではなかった。しかし、こと「尊王」に関しては絶対に譲らなかった。何しろ水戸藩は、二代藩主で水戸学の祖である光圀の「いざというときは(幕府より)朝廷にお味方せよ」という遺訓があった、とされる(たぶん伝説だが)ぐらいだ。これは日本と言うより水戸藩にとって悲劇のもとになった。
 阿部正弘が死に、後任の老中筆頭堀田正睦が失脚した後、大老となった井伊直弼が強力に開国を推し進めたのは、一面幕府の権威失地回復政策であり、明治維新を革命とすれば反革命運動だった。安政5年(1858)、先に堀田が勅許を求めて拒否された日米修好通商条約を、井伊は独断で調印した。井伊も最初から朝廷を無視するつもりはなかったようだが、結果からするとそうなった。と言うか、土台、しばらく前ならこんなことは問題にもならなかったろう。しかしこれは幕府の専横であり、許すべからざる暴挙だとする見解は、斉昭などの考えだけでなく、輿論、と言ってもいいものなっていた。
 言い換えると、「公議」の内容が変わった。「公儀隠密」の公儀とは字も意味も違うけれど、それまでは幕府の決めたことは即ち「公」、でよかった。その「公」の出所がいつのまにか他所に移り、幕府が幕府だけで判断して実行することは「私議」である、とされるようになったのである。
 斉昭は松平慶永、尾張藩主徳川慶勝、実子の一橋慶喜らと江戸城に不意に登城し、幕閣を問責した。この時は老中たちに軽くあしらわれた感じであったが、後日、禁じられていた予定外の登城を強行した廉で、謹慎に追い込まれる。名高い安政の大獄の始まりである。
 その二年後、水戸藩士(薩摩藩士も一名加わっている)によって井伊直弼が斃されると、幕府の権威が旧に復することはなかった。同年、奇しくも斉昭も亡くなっている。

 安政7年は桜田門外の変や江戸城火災など変事の続いたため万延と改元された。その万延は1年も続かず、文久となった頃から、島津久光が政治の表舞台で活躍するようになる。
 私も時々まちがえそうになるのだが、久光が薩摩藩主になったことは一度もない。異母兄の斉彬の死後に、実子の忠義が藩主となったために、藩内では「国父」と呼ばれ、実権を掌握した。しかし藩の外では無位無官のただの人だった。
 それが文久2年(1862年)、挙兵上洛した。これには次の背景がある。幕末きっての賢侯とされる島津斉彬は、井伊の専横を怒り、抗議のために軍勢を率いて京から江戸にまで赴く計画を立て、その実行の直前に急死した(安政5年)。亡兄の遺志を引き継ぐ、ということだったが、情勢は変わっていた。時の孝明天皇は、大の外国嫌いではあったが、幕府をつぶす気はなく、討幕に傾いていた攘夷派にはむしろ嫌悪感を抱いていた。要は幕府が朝廷の意に服するようになればいいので、ここから出た路線は公武合体と呼ばれた。久光はその推進のために働くのだ、と標榜した。
 具体的には幕政改革を促す勅使として大原重富が下向するのに護衛として同行、実質的に幕閣と交渉し、一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永の政事総裁職就任を実現させた。この帰途、現在は横浜に編入されている生麦で英国人と遭遇、行列を乱したので藩士二人が彼らを殺傷する事件が起きたのは、暗に開国を含む公武合体には、かなりの困難があったことを如実に示している。
 それとは別に、幕閣としては強い不快感が残った。公武合体といい、その徴として将軍家茂(いえもち)は皇女和宮を御台所にしていたが(文久元年)、朝廷との結びつきが強くなったからといって、その分幕府の権威が回復したというより、そうでもしなければ権威を保てない幕府の弱体化のほうが強く印象付けられる。
 それに、幕府に代わって朝廷が日本の中心になったと言っても、全公家を含めた朝廷になんらの軍事力も政治力もないことは、一定以上の身分の者なら誰でも知っている。その朝廷の意向とは、畢竟うまくとりいった誰かの意志に他ならない。今回の改革案にしても、元来久光が発案したか、少なくとも取りまとめて、提示してきたものであろう。その久光とは、外様の一大名、ですらないのだ。久光がたとえ心底から幕府のためを思って改革案を出したのだとしても、幕府側から見たら、下克上とも言いたくなる無秩序であり、屈辱であった。
 久光に対する反感はその後長く尾を引く。
 幕府が単独で国政を行ってはならない、としたら、幕府も含む有力諸侯の合議に依るものにしようという案が出てくる。これが「公議政体論」である。一応実現したのは文久3年(1863)の参預会議。薩摩と京都守護職になった会津によって、京から長州藩を筆頭とした攘夷派を一掃された後に発足した。この時も久光の働きが最も大きかった。メンバーは久光(この時初めて官位をもらった)の他、一橋慶喜、松平慶永、前土佐藩主山内豊信(容堂)、前宇和島藩主伊達宗城(むねなり)、会津藩主で京都守護職松平容保(かたもり)の六名。主な議題は、この年の5月、下関で外国商船に砲撃していた長州の処分問題と、横浜鎖港問題だった。
 ここにも奇妙なねじれがあった。この年、やはり久光の改革案に従って、将軍家茂が三代将軍家光以来実に229年ぶりに上洛した。その家茂に、孝明天皇は20日後の攘夷の実行を約束させている。上述の長州による外国船攻撃は、この約定に依るものだ、と長州は主張している。一方幕府は、できぬことは承知の上で、江戸に近い横浜の閉港とこの地に住む外国人の立ち退きを約束し、12月、参預会議発足の直前にその談判のためにフランスへ使節を派遣している(向こうには全く相手にされなかった)。これは天皇を誑かそうとしたものであるとして、後に薩摩に攻撃される理由の一つになった。
 参預会議の時点では、参加者はすべて攘夷など不可能であることを認識しており、横浜鎖港を取りやめる方向で話し合いをまとめようとした。幕府にとって好都合のはずなのに、久光に対する反発と猜疑のほうが勝った。慶喜は本心とは裏腹に、あくまで大御心通り横浜港を閉ざすと言って譲らず、話し合いは膠着した。そのうえ、酒席で、酔った勢いで、あるいは酔ったふりをして、久光・慶永・宗城を「この三人は天下の大愚物、大奸物」であるなどと暴言を吐き、参預会議を崩壊に導いた。この制度は全部で3ヶ月しかもたなかった。
 その焼き直しが慶応3年(1867)の四侯会議で、十五代将軍となった慶喜と、上記から松平容保を除いた四人で、第二次長州征伐以後の長州藩の処遇と兵庫開港問題(朝廷は慶応元年に、兵庫沖に艦船を率いてきた英仏蘭三カ国の脅しに屈する形で通商条約を認める勅許は出していたが、京に近い兵庫の開港だけは認めていなかった)が話し合われた。このときもまた、慶喜は久光の反対にまわり、具体的には久光が兵庫港問題をまず話し合おうというのに長州問題が先だと言って譲らず、またも会議は破綻してしまった。この後慶喜は単独で粘り強く朝廷と交渉し、前年に急死した孝明天皇に代わって即位したばかりの明治天皇から兵庫開港の勅許を得ている。
 ここに至って久光も幕府を見限り、敵対していた長州と組んで、討幕へと路線変更した。
 さてそこで、歴史のif。もし慶喜がもっと柔軟で謙虚になって、合議に依る政治を実のあるものにしていたら、戊辰戦争もなく、日本はゆるやかに平和の裡に近代国家へと移行していたろうか。可能性はなくはないが、私はそれは難しかろうと考える。上で登場した諸侯とは、当然みな大名かそれに準ずるものであって、所領と家臣団を抱え、そこからくる利害関係から自由ではあり得ない。日本の、だけではなく朝鮮・支那まで含めた東洋の有力者とは、だいたいそんなものだ。彼らだけの話し合いで、廃藩置県のような大改革が実現できたとは思えない。
 それに、会議参加者の人選は、結局、恣意的だった、と言われても仕方がないであろう。幕末の四賢侯(松平慶永、山内豊信、 島津斉彬、伊達宗城)などと称されるが、彼らは元来慶永のお友達集団の傾向があり、この時代彼らより賢明な者がいなかったかどうかはわからない。彼らの決めたことが本当に日本の「公議」と言えるのか、たった四、五人の「私議」と呼ぶのが相応しいのではないか、と言われたら、ちゃんと反論するのは難しいだろう。慶喜もまた、つまりはこの論理で彼らに対抗したのであって、正当性の問題からすれば、一理あると言わねばならない。
 慶永の人柄のよさは抜群であったろう。慶喜に何度も煮え湯を飲まされていながら、徳川氏の領地返納まで決まった小御所会議の後でさえ、慶喜を盟主とした諸侯(大名)連合を唱え、ひたすら討幕の道を突き進む薩長を敵視した。実際、身分制度を撤廃するのでない限り、国内最大勢力である徳川氏を除いて政治を行うのは、非現実的だし、また誰をも納得させる理由は見当たらない。もし鳥羽伏見の戦いが起こらなかったとしたら、西郷・大久保・岩倉たちのほうこそ、政局の中心から逐われていたかも知れないのである。

 国民全体の信託を問う形式を踏まえたうえでの国政会議といえば、即ち議会ということになる。ここまで踏み込んだ幕末から明治初めの言説を瞥見しておく。
 知識としては、清末に魏源が著した世界各国の紹介書『海国図志』の抄本などから、西欧諸国には議会というものがあることは早くから少数者には知られていた。日本人では福澤諭吉が慶応2年(1866)『西洋事情』第一篇三巻を出版して、より広い範囲の啓蒙を果たした。
 慶永のブレーンだった横井小楠は、公議政体論の代表的な論客として知られているが、大政奉還の知らせ聞いて、慶永に宛てた書簡に「一大変革の御時節なれば議事院被建候筋尤至当也。上院は公武御一席、下院は広く天下の人才御挙用」と記した。上院と下院の構想である。ただ、小楠は儒者で、「堯舜三代の道」を理想とする。「公共」の語も言われているが、それは厳然としてある/あらねばならぬ「天理」に適うことを言う。だから、上院下院と言っても、有為にして有徳の人材をできるだけ広い範囲から集める、ということ以上の意味はない。
 この時代ではたいていそうであった。「御誓文」の筆者の一人である由利公正は小楠に師事していたのだから、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」にも小楠の考えが反映していると考えられる。短文なので解釈の紛れは出てくると思うが、前半が「できるだけ広い範囲の参加者から成る会議」の意味だとして、そこから出てきたものをただちに「公論」とは呼べないと思う。
 他に、坂本竜馬は小楠と親しく、「船中八策」はその影響を受けて書かれた可能性が高いと言う。その「船中八策」に基づいて後藤象二郎らが書いた「大政奉還建白書」から引くと、「議政所は上下に分け、議員は、上は公卿から下は官吏、庶民まで、正明純良の士を選ぶ」。この場合「選ぶ」主体は誰なのか、がつまり肝心な点である。朝廷、という答えは予想されるけれど、それでは形式論にしかならないことは前述の通り。
 これらより僅かに早い慶応3年5月、赤松小三郎は「御改正之一二端奉申上候口上書」を慶永、島津久光、幕府に建白している。注目すべきなのは、「議事局」に関するところで、
(1)上下二局に分ける。下局は国の大小に応じて諸国より数人ずつを自国及隣国の入札によって、上局は、公家・大名・旗本よりこれまた入札で選ぶ。
(2)国事はすべてこの両局で決議の上、天朝へ建白し、許可を得たら、天朝より国中に布告する。もし許可が得られなかったら、議政局にて改めて議論し、再び決議されたら、もはや天朝も覆すことはできない決議となる。
 つまり、国の重要事を評議し決定するのは選挙によって選ばれた者たちであること、そしてその決議には、最終的には天皇も従わざるを得ないという意味で、議事局は「国権の最高機関」になることが唱えられている。これでも現在から見ればいろいろ足りないところがある。選挙権はどの範囲に与えるのか、上局と下局はどちらが優先されるのか、局内での議決の方法は、たぶん多数決だろうと予想されるが、それは明記されていないこと、など。
 それでもこれがいかに破天荒な議論であったかは、最近まで赤松がほとんど忘れられた存在であった事実に現れている。当時としてはおよそ非現実的で、むしろ空想に近い、と慶永や久光を初めとして、誰しもが思ったからだろう。
 一方、旧幕府でも、大政奉還後に西周らが中心になって、徳川家主導の「公議所」を作る構想があったが、もちろん実現する暇はなかった。
 新政府は明治2年から4年にかけて、御誓文の精神を生かすとして、「公議所」後に「集議院」を開設しており、会議が持たれた。これは、まだ「藩」が存続していたこともあって、旧幕時代の各藩江戸留守居役による藩同士及び幕府との連絡調整機関の役割も引き継いでおり、決議には公的な威力はなかった。
 本格的な議会の開設は、それからさらに二十年を待たなければならなかった。ただ、議会制民主主義は、日本では現在に至るまでいまいち正当に機能していないような気もする。それについては、天皇とのかかわりを通じて、また何度も考えてみたい。
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立憲君主の座について その15(幕間狂言、西と東のフーガ 下)

2018年03月18日 | 近現代史
メインテキスト:慈圓・大隅和雄訳「愚管抄」/北畠親房・永原慶二 笠松宏至訳「神皇正統記」(永原慶二責任編集『日本の名著9 慈円 北畠親房』中央公論社昭和46年)

サブテキスト:日本史史料研究会監修、呉座勇一編『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(洋泉社歴史新書y 平成28年)



(12)源義時の長男である頼朝を、殺さなかったまではよいとしても、河内源氏一統に信服していた武者の多い東国の、伊豆へ流したことは清盛の一代の失敗だったようだ。
 西の支配に大なり小なり不満を持っていた東国人にとって、軍事力はほとんど問題ではなかった。この頃までに坂東武者の精強さは半ば伝説となっていた。それは逆に、都に住んで、戦闘に慣れていない武家たちは、半ば以上公家化していたことを示す。
 平家方についた武将齋藤實盛が、叛乱追討軍の総大将平維盛(清盛の孫)に、「汝ほどの射手【関東】八箇國にいかほどあるぞ」と問われて、「實盛ほど射候ふ者は八箇國に幾らも居候ふ」云々と、誇大に伝えて覚悟のほどを促した。これが裏目に出て、恐怖心にかられた維盛が、富士川の合戦(1180)で、水鳥の羽音を夜襲と聞き違えて、戦わずして敗走した逸話にそのへんの事情はよく出ている。
 それほどの武力を誇る東の者たちでも、王城の地である都へ攻め上る心理的な圧力は相当のものだった。①正当性には疑いがあるが、ともかく朝廷側から出た令旨(本来は皇太子が出すもの)のおかげで、敵は朝廷ではなく平家だというお墨付きを得た。②将門に比べると天皇との血脈はずいぶん遠いが、名門の貴種ではある頼朝という中心を得た。この二つがあってもなお払拭できないぐらいに。
 富士川合戦の後、敗走する平家を追って上洛を果たそうとする頼朝を、上総介廣常(桓武平氏の支脈)たちが反対して止めている。このときは、常陸の佐竹氏がまだこちらについておらず、足元が万全ではない、という理由があった。しかしこの問題は、単なる情勢論ではなかった。頼朝が初めて上洛したのは(もっとも、少年期は父とともに都で過ごしたのだが)、これから10年後、平家滅亡からでも5年後のことになる。
 廣常は寿永二年(1183)に謀殺されている。これを頼朝は都で後白河法皇に次のように説明している。石橋山の戦いで敗走してから、安房で再び挙兵したとき、廣常が大軍を率いて味方に馳せ参じたので、平家方に勝つことができた。大功ある者ではあるが、「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。タダ坂東ニカクテアランニ。誰カハ引ハタラカサン」などと言っていた。謀反の心があるのは明らかなので、殺したのだ、と。
 この廣常の言葉中、「身グルシク」がどうも気になる。今日の「見苦しく」と同じだとすると、かつては北面の武士の一人として、保元・平治の乱を義時と伴に戦ったとされる者が、朝廷への慮りに、反対はしても、そのようにまで評するものだろうか。
 これは、京に上って平家に取って代わろうとする野心を、頼朝に認めたからではないだろうか。それでは朝家の争いを中心とした、古来の権門・寺社勢力の軋轢にまで否応なく巻き込まれ、結局平家と同じ末路をたどるだけではないか。それよりは、あくまで武家として関東に留まり、この地を守っていれば、誰にも手出し出来ないだろう、と言いたかったのではないだろうか。
 佐藤進一の言う「東国独立国家」構想(『日本の中世国家』岩波現代文庫)は、平将門から受継がれたものだろう。しかし、そこを一歩進めて、もう朝廷は無視して、関東は自分たちで勝手に統治しよう、とまで言えば、それこそ将門と同じ、謀反になってしまう。そうなったら、求心力を欠いた「独立国家」は分裂してしまうかも知れない。
 言わば間接的に、独立せねばならぬのだ。廣常たちにそこまでの深い考えがあったとは思えない。対平氏の挙兵を成功に導きながら、騙し討ちで殺された【梶原景時と双六をやっているときに、突然首を落とされた】のは気の毒だが、大化の改新や明治維新に比肩し得る我が国の大改革である鎌倉幕府の創設には、頼朝と大江廣元たち幕僚の、慎重の上に慎重な熟慮と、粘り強い交渉が必要だったのである。

(13)最近鎌倉幕府の成立時について、従来の1192(いい国。頼朝が征夷大将軍に任じられた)から1185(いい箱? うまい語呂合わせにならないなあ)のほうが有力視されている、という歴史学会中の話が、大学入試ではどうなるのかな? という絡みでニュースになっている。実際はこれには決定的な答えはない。だいたい、「幕府」という呼称自体、ずいぶん後、江戸時代後期になって一般的に用いられたものらしいので、「鎌倉幕府の成立はいつか」に対しては、「鎌倉幕府という政庁なり政府組織は存在しないので、答えはない」が正解、ということになるかも知れない。
 それでもとりあえず、なぜ文治元年(1185)とも考えられるのか。この年平家一門が壇ノ浦で滅んだ、からではなく、頼朝に、全国に守護・地頭を置く権限が認められたからである。地頭とは各荘園で警察や徴税の権限を持つ者、守護とは国単位で地頭を監督する者。旧来の国司も廃止されたわけではないので、当然ぶつかる。守護・地頭には頼朝の御家人(家人に丁寧語の御をつけたものだから、要するに家来)が選ばれた。これによる全国の統率が、鎌倉幕府と後に呼ばれたものの、支配の根幹だった。
 公式に律令制、即ち朝廷の支配が無視されたわけではない。このへんもまあ日本的、と呼ばれてもいいかもしれない。
 もっと細かく言うと、この年、現場の軍司令官として平家を滅ぼし、その後も都に留まって頼朝と対立するようになった源義経に、後白河法皇が頼朝追討の院宣を出してしまっていたために、それはすぐに取り消されたとは言え、頼朝に対して負い目があった。義経を捕らえるためには、各地の警察組織を手中にしなければならない、と言われると、断り切れなかったのである。だから当初は守護、あるいはその前身である惣追捕使というのも臨時職だという意識が、朝廷側にはあったようだ。また西国まではまだまだ頼朝の威勢が及んでいなかったので、文字通り全国に御家人による国司・地頭が派遣されたわけではない。
 これが一応全国制度として完成するのは、頼朝の死後、承久の乱(1221年)で、朝廷権威の失墜・幕府権威の確立がなされてからであり、さらに九州まで含めたすべての武士に動員をかけられるようになったのは元寇以降だと言う。
 以上をまとめると、①朝廷は公の位と職を与える。②幕府は武家を統率する。この二元体制が鎌倉時代に確立した。では、ほとんど唯一の収入源だった土地の、実質的な所有権は誰にあるのか。このアポリアについては、目立たぬように、ゆっくり武家への委譲が進んだ。
 変革は緩やかなほうが、犠牲は少なくてすむ、でなくても、目立たなくてすむ。もっとも鎌倉幕府の場合、頼朝の息子で第二・三代目の将軍がいずれも横死するなど、内部の紛争が激しいから、外向きの大規模な権力の拡張はやりづらかった事情もあるだろう。三代将軍実朝の死から7年間、実質的な将軍として御家人をまとめた北條政子と、親房が絶賛している三代目執権・北條泰時がいなければ、鎌倉幕府の機構そのものが早くに分裂・分解していた可能性は高い。
 しかし朝廷と幕府、西と東の関係がこれだけで収まったわけではない。頼朝は上記の上洛の際、権大納言と右近衛大将(武官の最高位)に任官され、すぐに辞任はしているが、この後もけっこう「前右大将」の肩書きは使ったようだ。それでも、令外官だから、より自由な征夷大将軍の地位を当初から望んでいたが、これは後白河院が許さず、その死後、いいくに、の年にやっと与えられた。後白河院とその側近たちは、頼朝を宮中の位階秩序の中に組み込むことを望んでいたらしい。
 頼朝の側ではこういうことに無関心あるいは警戒していたかというと、そうとも言い切れない。政子との間の長女・大姫を第八十二代後鳥羽天皇の妃として入内させようとする話があり、頼朝もこれには乗り気だった。建久6年(1195)の二度目の上洛は、東大寺供養を名目にしていたが、宮中でのかけがえのない協力者であり、将軍宣下のために尽力してくれた九条兼実(慈圓の兄。娘を後鳥羽帝の中宮として入内させていた)の失脚を黙認してまで、これを実現しようとした。しかし肝心の大姫が病気がちであり、2年後に亡くなると、今度は次女の乙姫を入内させ、女御にはしたが、こちらもまた、頼朝の死後に、十四歳で亡くなった。
 つまり頼朝も、藤原摂関家や平清盛と同じく、天皇家の姻戚になることによって、自らの権威を強固なものにしようとしたのである。清盛の例からすると、権力の強化という面で、それにどの程度の効果があったかは疑問なのだが、ともかく、高貴なものへの憧れは熾烈であったのだ。【清盛の孫である安徳帝は八歳で平家一門と共に壇ノ浦に入水している。頼朝は天皇を殺したことになるこのような結果を喜ばず、義経との不和の一因になった。】

(14)鎌倉幕府の執権統治を本格的に始めた泰時は、高位高官を望まなかった(死んだ時点で正四位下左京権太夫)。桓武平氏の流れではあっても、家挌が低いことにより、遠慮して将軍にもならなかった。もっともこれは、簒奪者の汚名を着るのを嫌ったからかも知れない。實朝はともかく、二代将軍頼家を謀殺したのは北條だったことは、天下周知であったのだから。
 頼朝の血統が途絶えた後の将軍として、親王を依頼したのは泰時ではなく、父・義時と伯母の政子であったが、後鳥羽帝が許さず、やむなく源家と縁つづきだった九條家から、藤原(九條)頼経(兼実の曾孫に当たる)、次いでその子の頼嗣を迎えた。鎌倉幕府が親王を将軍とすることができたのは、泰時の死後、五代目執権時頼の代である。この措置によって北條家は、幕府の権威付けと朝廷との和親を図った、と言われるが、ことによると西からの人質の意味もあったのかも知れない。
 武力や血統以外の統治原理を建てようとしたためか、泰時は御成敗式目(貞永式目)を制定する(1232)。史上初の武家用法令であり、これから日本が法治国家になった、とは言えないが、泰時はわりあいと近代的な考え方をする人だったとは言えそうだ。
 これについて、六波羅探題(京都の治安維持及び朝廷の監視が役目)をしていた弟の重時に宛てた「消息文」は有名。そこに謂う(大意)、「この式目はただ道理のしからしむるところにより、公平な裁きができるようにしたものだ。法令としては律令があるけれど、漢字も知らない武士や庶民の中に、これを理解できる者は百人千人に一人もいない。この式目は律令をいささかも変更しようというわけではないけれど、仮名しか知らない者にも世の中の決まり事をきちんと知らせて、役人の裁きが恣意的にならないようにするものである。京の人に難詰されたら、そう答えておいてくれ」。
 これを読むと、なるほど、泰時の優れた人柄が偲ばれる。それにつけても、五百年も前にできた、それも、たぶん言われているとおり、人口の1パーセントも知らないし理解していない法令に、ずいぶん気を使うものだな、と誰もが感心するだろう。しかしなんであれ、あずまえびすがそれを変えようなんぞとしてはならない。それは烏滸の沙汰というべきものだ。この時代に至ってもなお、そのような意識は強固に残っていた。
 そういう泰時も、皇位継承に介入している。幕府は、承久の乱の首謀者である後鳥羽院の近親者が帝位につくことは許さなかった。その孫である第八十五代仲恭天皇を廃すると、第八十代高倉天皇まで遡り、安徳帝の弟の子を後堀川天皇として立てた。しかしこの系統が次の四條天皇で絶えると、第八十三代土御門天皇の子・後嵯峨天皇が即位する。土御門院は後鳥羽院の子だが、倒幕の企てには参加していなかった。しかし、父が隠岐へ流されたのに、自分だけ安閑としてはいられないと、自ら申し出てまず土佐に、次に阿波に流された。そういう人の子ならよかろう、と泰時が決めたのである。
 親房は、これこそ天道・正理に適うもの、と言うのだが、たとえそうだとしても、この後、幕府が皇位継承に当然のように口を出す事態は、長い目で見れば危険なものであった。幕府に都合のいい天皇を選べるという利点はあるものの、選ばれなかった側から深刻な恨みを買うからである。実際、後醍醐帝が倒幕を決意した動機の一つは、自分の息子を次期天皇にすることにあった。

(15)北畠親房によると、建武の新政は承久の変のやり直しなのだった。日本は天皇が統治するのが当然ではあるけれど、また天皇には徳がなくてはならない。「君は尊くましませど、一人(いちにん)をたのしましめ万民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬいはれなれば、政(まつりこと)の可否にしたがひて御運の通塞(とうそく、運の善し悪し)あるべしとぞおぼえ侍る」。その言や良し、だが、実際の歴史にあてはめると、どうなるか。
 後鳥羽院や順徳院には徳が欠けており、この時は幕府の側にそれがあった。今は後醍醐帝と言う有徳でもあれば英邁でもある君主がいる以上、清和源氏の流れを名乗っているが、鎌倉幕府の御家人の一人に過ぎなかった足利尊氏などがしゃしゃり出て来る余地は本来ない、と。【親房はずっと「高氏」と表記している。「尊氏」は御醍醐帝の名「尊治」から一字もらったいわゆる偏諱(へんき/かたいみな)だからである。】
 果たしてどうか。始まりは後嵯峨院からだった。この院は皇子の一人・宗尊親王を将軍として関東へ送り、宮将軍の初めとした他、第二皇子を次の第八十九代後深草天皇、次いで第三皇子を亀山天皇とした。後嵯峨院が崩御された時点で、後深草院・亀山帝ともに健在で、皇子もいたが、それより先に後嵯峨院の意思で、亀山帝の皇子を皇太子(後の後宇多天皇)としていたのだから、前述の崇徳・後白河院の時と同様、後深草院側の不満は当然あり、もしここに藤原仲麻呂やら藤原頼長のような権勢のある公家やら武家やらが同心するようなことがあったら、乱が起きていたかも知れない。
 それはなかった代わりに、この後皇統は二つに分かれ、後深草帝側の持明院統と亀山帝側の大覚寺統は長く角逐を続けた。権威だけの問題ではない。前述した守護・地頭職の武家から荘園の権利を守るためには、幕府とうまくやれる天皇を擁して、その側近になるのが近道であったのだから、公家たちにとっても「誰が天皇となるか」は熾烈な経済戦でもあったのである。
 後嵯峨院は自分が幕府の力で皇位に就くことができたからでもあろう、治天の君(宮中の政治のトップ、つまり形式的には日本のトップ。天皇自身より、その父か祖父がそうなることが多かったことは既述の通り)の選定には幕府の意向を聴くようにとも言っていた。その幕府は、後深草・亀山両帝の母である西園寺姞子(さいおんじきっし。出家後大宮院と称された)に後嵯峨院の遺志を確かめ、亀山帝を治天の君とした。
 建武の新政までにはもう一波瀾あった。後醍醐帝は後宇多帝の子だが、すんなりと譲位が行われたわけではなかったのである。亀山院は、幕府との関係を良好に保つことはできなかった。後宇多帝の後は後深草帝の子・伏見帝が継ぎ、後深草院は治天の君として復活する。その後は後伏見天皇(伏見帝の子)→後二條天皇(後宇多帝の子)→花園天皇(伏見帝の子)→後醍醐天皇と、交互に、いわゆる両統迭立によって皇位は受け継がれていく。それができたのも、幕府が監視していたうえに、長くても十年ほどの期間で、兄弟間で譲位が行われたからもある。
 そのための問題もあった。後二條帝は二十三歳で早世したが、皇子として邦良親王がいた。まだ幼いので、叔父にあたる後醍醐帝が大覚寺統の天皇となったのだが、父後宇多院は、後二條帝の血統に大覚寺統の将来の望みをかけていた。しかし邦良親王は父帝同様健康面で不安があったため、その跡が途絶えた場合には後醍醐帝の血統で皇位継承がされるように、と書き残している。これでは後醍醐帝は予備のスペアみたいな扱いである。
 「正統記」には、上の事情もさらりと記載されている上で、和漢の学に造詣が深い後醍醐帝の才に、祖父・亀山院も父・後宇多院も期待していたと言うのだが、現に邦良親王を皇太子とするように強要されたのであれば、後醍醐帝の立場は崇徳院や後深草院と同じようなものとしか見えない。
 このため、だろう、後宇多院の崩御後も後醍醐帝は譲位せず、天皇親政を続けた。それが我が国の本来あるべき姿であるとして、親房は称揚する。しかし、これでは邦良親王側は穏やかではいられず、譲位を急がせるようしきりに幕府に働きかけるし、鎌倉にもこれに呼応する動きがあったから、明確に敵は幕府、ということになったのである。
 後醍醐帝側は、まず土岐頼貞・頼兼親子を味方にして、幕府の京お目付機関である六波羅探題を襲う計画を立てたが、事前に発覚した(正中の変、1324年)。その後ほどなく邦良親王は亡くなるが、今度は後伏見院の第一皇子が皇太子となった。つまり、大覚寺統・持明院統の交代制度は続いていた。幕府がそれを認めていたからだ。かくして、後醍醐帝の討幕の志もまた、続いた。

(16)後醍醐帝は従来言われてきたほど公家に手厚く武家を軽んじたわけではないし、また網野善彦の言うほど異形の王でもなかったと、『南北朝研究の最前線』に論考を寄せた最近の研究者たちは説いている。院政中は停止されていた行政と訴訟を司る記録所を再建し、帝自ら毎日、一日中精勤していたことは「正統記」にも記されている。
 それなのになぜ、建武の新政は三年しか保たなかったのか。
 一番大雑把に言うと、結局のところ、武士たちは天皇による直接統治を現実面では認めることができなかったからであろう。古代の阿倍比羅夫や坂上田村麻呂は武官であって、朝廷に仕える者たちであった。平安期以降の武家は、所領を先祖と自分が勝ち取り、また守ってきた者達だ。後醍醐帝が出す綸旨などは、内容の適否に関わらず、自分たちと直接関わりのないところから降ってきたよくわからぬ御宣託である。このような意識が、鎌倉時代150年の間に芽生えていたのであろう。だいたいその朝廷には、所領を不当に脅かされたとしても、それを守る兵力はなく、それは他の武士に依頼するのである。中央集権政治を行うにしても、実のないものに見えても不思議はない。
 因みに、明治維新では、天皇の権威の元に、武士そのものの廃絶まで突き進むことができたのは、その前段階で、260年にわたる徳川幕府による強力な支配で、大規模な土地争いは根絶されたことも大きい。江戸時代の政体である幕藩体制とは、形式上あくまで幕府をトップとした武家の連合体ではあるが、この幕府は前の二つと比べてもずば抜けて強力で、おかげで中央集権のための地ならしはできていた。
 14世紀ではまだ、いかにも時期尚早であった。しかも、朝廷のくださる正当性とは関わりなく、鎌倉が、武士にとっての中心地、いわば武家の「都」とみなされていたらしいことは、中先代の乱(「太平記」の表記では「中前代」。1335年)で明らかになっている。先代あるいは前代とは北條家、次に武家の棟梁となったのが足利家、その間に、北條家最後の得宗高時の子時行が、幕府再興の兵を挙げて鎌倉を占拠した。それも20日ほどしか続かなかったのだが、足利家の当代に比して時行を中先代/中前代と呼ぶ。この呼称は「正統記」などにはなく、武士たちの間で、古くから言われていたものらしい。武家の治世は続いていたのだし、続けなくてはいけないという意識があったからに違いない。
 むしろ不思議なのは、「当代」であるはずの足利尊氏が、「身ぐるし」いまでに朝廷にこだわったことだ。征夷大将軍の職を望んだのに後醍醐帝から許されず、勅許も得ずに勝手に鎌倉へ攻め入り、時行を逐って鎌倉を占拠した後は、これまた勝手に武士たちへ恩賞を与えた。幕府を開くつもりだな、と当然誰もが思うのに、足利討伐の勅許を受けて新田義貞が攻めて来ると、朝敵になるつもりはなかったと寺へ引き籠もってしまう。天下人としてこのへんの首尾一貫性の欠如はとても不思議で、よく話題になる。その心事は測り難いが、結果からすれば、尊氏は、古来の権威と新たな武家階層からの要請を一身に受け、引き裂かれた人物ではあった。
 まちがいなく、名将ではあったのだろう。代って指揮を執った弟の直義が敗北しそうになると、「直義が死んだのでは自分が生きている甲斐もない」と参戦し、たちまち新田の軍を蹴散らしてしまう。その後、楠木正成や奥州から駆け付けた北畠顕家(親房の子)に敗北し、九州まで逃れるが、捲土重来を果たし、京を占拠する。
 天皇位は、鎌倉幕府によって後醍醐帝が壱岐に流されていたときに即位し、建武の新政中は上皇となっていた持明院統の光厳院(後伏見帝の子)から、弟の光明帝にと受け継がれた。【尊氏は京都攻めの際、光厳院から院宣を得ていたので、決定的な朝敵の汚名は回避できた。】後醍醐帝は息子の成良親王(尊氏の前に、短期間だが征夷大将軍になったことがある)を皇太子とすることを条件に三種の神器を光明帝に渡し、つまり正式な皇位であることを認めた。が、翌年、京都を脱出して吉野に行宮を建て、先の神器は偽物である、と宣言した。そして改めて、第一皇子の尊良親王を皇太子としたため、ここにいわゆる南北朝時代が始まった。
【現皇室は北朝の子孫であるにも関わらず、明治以降南朝が正閨とされたのは、幕末維新の志士たちに多大な影響を与えた水戸学に依る。】
 このへんの御醍醐帝の粘り強さには確かに異例である。おかげで室町幕府は不安定な二元体制を採ることになった。正当性の根源である皇室が二つある上に、その片方の、南朝=吉野朝への警戒の必要があって、幕府は京都を離れることができず、ために武士の都である鎌倉には鎌倉府が置かれ、関東十か国を統治する強い権限が与えられた。その長は「鎌倉公方」と称し、最初尊氏の四男基氏が就き、以後この家系で継承されていった。つまり、武家社会の中でも二つの中心ができたわけで、「東国の独立」の名に相応しい事態は、室町時代に一番はっきり現出したと言える。
 もちろんこれでは社会は不安定にならざるを得ない。室町幕府は三代将軍義満の時代に体制固めをすることができた。義満は、南朝を飲み込む形で、半ば強引に両朝の統一を成し遂げたが、自身が朝廷での高い官位を望む人でもあり、武家としては平清盛に次ぐ二人目の、太政大臣にまでなっている。また、鹿苑寺金閣に象徴される北山文化を築いた文化人でもあった。関東にはあまり興味はなく、西の大内氏は討伐したものの、鎌倉公方の存在はそのままにした。
 四代将軍義持の時に鎌倉公方・持氏との角逐が顕在化し、東の享徳の乱(1455年発端)から西の応仁の乱(1467年発端)を経て、日本はいわゆる戦国時代を迎える。実際は、室町時代の全体が、義満時代の後半を小休止とした日本社会の地殻変動期だったという見方もできると思う。なにせ、ほとんど絶えることなくどこかで戦乱が起き、いわゆる下剋上によって、武家では鎌倉以来の名家のほとんどが衰亡したのだ。

(17)最近研究会で読んだ小林正信『明智光秀の乱~天正十年六月政変・織田政権の成立と崩壊』(里文出版)によると、明智光秀の前身は室町幕府の武家官僚たる奉公衆であり、彼のおかげで田舎大名の織田信長でも近畿地方の統治ができたのだと言う。
 つまり、織田政権は室町幕府の機構をそのまま継承したのであり、信長が十五代将軍義昭を奉じている以上、足利将軍家も滅びていない。実際義昭が征夷大将軍の職を解かれたのは天正16年(1588年)で、豊臣秀吉が太政大臣となったさらに後のことになる。信長が甲斐の名族にして強豪の武田氏を滅ぼした後、幕府を倒す意思が露わになったので、光秀は誅殺を決意したのだ、と。
 そうかも知れない。しかし、信長の政権構想として、享徳の乱の結果既に名目だけのものになっていた鎌倉公方(末期には古河公方になった)の職に徳川家康を就け、お目付け役の関東管領職には家臣の瀧川一益を当てようと考えていた、と言うのはどうだろうか。室町政権の弱体を招いた東西二元構造まで受け継ぐ、どころか再構築する必要はあったのか。
 いずれにしろこれは可能性に止まる。信長の死後、臣下だった秀吉は、まず関白近衛前久の養子として藤原姓となった。次いで第百六代正親町天皇から豊臣の姓が与えられ、征夷大将軍ではなく、関白太政大臣として天下人になった。つまり、名流ではないが、武力と経済力によって権力を得、天皇と直接結びつくことによって権威を得た。それができる時代になっていた、ということである。
【因みに、信長は平維盛の子孫、家康は新田義貞の子孫を称していたが、本人を初めとして誰も信じていなかったのではないかと思う。ただ、天皇を頂点とした古来からの位階秩序は一応尊重しようとする姿勢を、ここには見るべきではないだろうか。】
 そして検地・刀狩によって、土地所有と身分秩序の整理を進め、日本を中央集権に近づけた。しかし、秀吉の死の時点で、徳川家康は二百五十五万石の東国の大大名として存在していた。これは秀吉一代の失敗だったろうか。いずれにしろ結果として、東国武士によるほぼ完全な日本支配にも道を拓いたことになった。
 その約260年後、主に西国の毛利・島津、というよりはその家臣たちによるクーデターが成功し、その結果天皇が東国に遷った。江戸→東京がここに名実ともに日本の中心となったのである。ここには象徴的以上の意味がありそうに思う。
 ただ、私の関心は、その後の、このような存在である天皇を、立憲君主に仕立て上げようとする、現在まで続く努力にある。もっと勉強してから、ここにもどります。

【「将門記」「平家物語」「愚管抄」「神皇正統記」「東鑑」「太平記」などの原文や書き下し文をネット上にアップしてくださった方々には、感嘆おく能わず、またたいへんお世話になりました。深く御礼申し上げます。】
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