由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その2(至尊は無為にあり)

2012年10月28日 | 近現代史
メインテキスト:古川隆久『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』(中公新書平成23年4月、24年6月6版)

サブテキスト:『昭和天皇独白録』(文春文庫平成6年)

 『昭和天皇独白録』(以下『独白録』と略記する)では、昭和天皇は戦前から終始一貫して立憲君主としてふるまってきた、と強調されている。自分の決断で何かを決めたのは二・二六事件の時と終戦の時だけだ、と。
 この二つとも明確な理由がある。前者では閣僚の多くが殺され、岡田啓介首相の安否も当初は不明であったので、内閣が機能せず、天皇が一存で善後策を決めねばならなかった。後者では戦争の終結か継続かをめぐって閣議が紛糾し、まとまらなかったので、公式には鈴木貫太郎首相の発議で、天皇自らの決断が要請された。それ以外には天皇が単独でこの国に関する何かを決めたことはない、と。
 そう決心したきっかけも『独白録』の、冒頭で取り上げられている。昭和三年の張作霖爆殺事件のとき、陸軍出身の田中義一首相は、当初責任者(河本大作大佐)を処罰する、と天皇にも西園寺公望や牧野伸顕など要路にも明言していたのに、後には「うやむやの中に葬りたい」と言い出した。そこで天皇は「それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」と直言した。これは「若気の至りである」と今では思っているし、「宮廷の陰謀」によって田中がやめさせられた、などと久原房之介などに言われたのも面白くなかった。それでこの後は、「内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した」と。さらに重ねて次のように言って、この件は終わっている。

田中に対しては、辞表を出さぬかといつたのは、「ベトー」(引用者註、君主の拒否権)を行つたのではなく、忠告をしたのであるけれ共、この時以来、閣議決定に対して、意見は云ふが、「ベトー」は云はぬ事にした。

 一応はその通りである。昭和天皇は戦後に至るまで、時の為政者に様々な「意見」を言ったことは今では明らかになっているが、議会や内閣の決定を拒否したことはない。しかしどうにも不思議なのは、昭和天皇ほど賢明な人が気づかなかったのか、ということである。天皇の政治に関する意思表明が、単なる「忠告」とか「意見」ですむのかどうかを。
 張作霖爆殺事件にもどると、このとき天皇は田中に対して「辞表」云々までは言わなかったことを古川隆久が考証している。当時内大臣だった牧野伸顕の『日記』によると、昭和天皇が牧野に語った昭和四年六月二十七日の田中との会見は次のようなものだった。

(前略)昭和天皇が「夫(そ)れは前とは変はつて居る」と言ったのに対して田中が「誠に恐懼致します」と二度ほど繰り返して「云ひ分けせんとした」ので、昭和天皇が「其必要なし」と述べて話を打ち切ったという。(『昭和天皇』P.112)

 こちらのほうが正しいとする根拠の一つに、田中が翌二十八日、鈴木貫太郎侍従長を訪れ、「昨日陛下の御真意を拝察せり」として退陣の意を示したことが挙げられている(侍従次長河合弥八の『日記』による)。もし天皇が「辞表を出してはどうか」とはっきり告げたのなら、真意を察するまでもないだろう、というわけだ。
 『独白録』における昭和天皇の回想の錯誤がどこから生じたか、それとも、思い違いではなく、故意に枉げて言ったのか、も興味深い問題ではあるが、なんであれ、天皇の意に応じて総理大臣が退陣したことの方が重要である。こうしたことが誰の目にも明らかに起こったのは、日本の憲政史上空前絶後だった。重臣たちにしても、様々な思いはあったが、できれば避けたい事態だった。だからこそ天皇も、「(言い訳の)必要はなし」で止めたのだった。
 それでも結果は同じ。天皇から不信任の意向ほのめかされただけで、戦前の大臣はやっていられない。まして「辞表を出してはどうか」などと言われたら、「忠告」だ、などとは取れない。現在の我々も自然にそう思うだろう。

 そこで改めて、大日本帝国憲法(以下「帝国憲法」と略記する)下の天皇とは何なのか。国家元首である、とは第四条で明文化されている。では主権者か、というと、これがちょっと難しい。
 主権には二種類の意味がある。国家主権の及ぶところ、とは、日本なら日本が統治する権限のある場所、という意味で、そこでは当然日本の法律が適用される。一方国家の主権者とはsovereign power(至高の力)の持ち主ということであって、その決定は絶対に正しい。まちがっているとしても、まちがいだと言う権力乃至権威が国内には存在しない。
 まあふつうは君主、それも王権神授説などに基づく絶対王権の君主の力である。それがやがて「国民主権」ということになり、日本国憲法(以下「現憲法」と略記する)では第一条で「主権の存する日本国民」ということになっているわけだが、これはぎりぎり具体的には、そんなすごい力を持っている個人はもういない、という表現だと思ってよい。少なくとも、庶民レベルで国家解体の危機に直面したことなどない我々日本人には、実感としてそれ以上には理解できない。
 それとはまた別に、君主とは神聖な存在であり、人であって人ではない。帝国憲法第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのはよく知られているが、どうもこの条文は誤解されている場合が多いように思える。吉本隆明でさえ、「(大意)帝国憲法の一条と三条がある限り、天皇は立憲君主だというのは見せかけであって、実際にはアジア的な神聖君主だった」(三上治・中上健次との鼎談『解体される場所』)などと言っていたほどだから。天皇には祭祀王(Priest King)の性格があることはよく指摘されるし、私もそれは否定しないが、その事実が条文に反映されているわけではない。また、吉本のように戦争中青春だった者の多くが、自分たちは天皇のためにすぐに死ぬのだ、と思い込んでいた、いや、思い込まされていたのもまた事実であろう。しかし、それも旧憲法とは直接関係ないのである。特に注記する必要を感じる。
 まず言葉の意味だが、「べからず」は漢字で書けば「不可」であって、「できない」ということ。つまり、「天皇の権威は侵してはならない」ではなくて、「侵すことはできない」という意味なのだ。【因みに、論語の「民は依らしむべくして知らしむべからず」の「べく(←べし)」「べからず」も同じで、この意味は「民衆は頼らせることはできるが、(真実、あるいは非常に重大な何かを)知らせることはできない」である。】
 以上は呉智英『インテリ大戦争』に書かれているが、その呉にしても、「侵そうと思えば侵せるが、侵してはならない、ではなくて、侵すことができない」「天皇性のほんとうのおそろしさ」はこの「おそるべき完結性」にある、と言っている。いや、それほどのことではないんです。
 帝国憲法の正式な注釈書としては、伊藤博文著の名目で明治二十二年に公刊された『大日本帝国憲法義解』がある。そこでこの第三条についての後半部分の現代語訳を試みる。

君主はもちろん法律を尊重しなければならないが、一方法律には君主を問責する力はなく、不敬にもその身体に干渉したり冒瀆したりはできないのみならず、名指しで非難したり議論の俎上にのせたりすることもできないものとする。

 お分かりですか? 要点は二つ。(1)天皇は憲法と皇室典範以外の法律の適用を受けない。(2)天皇については、公の場で議論したり非難したりすることはできない。
 後のほうから説明すると、これは「天皇の悪口を言うことはできない」ではない。もちろん不敬罪はあったから、「言ってはならない」のは確かだが、事実として可能か不可能かということになれば、昭和天皇もずいぶん蔭口を叩かれていたことは古川も記している。あくまで、公に、が問題なのだ。例えば議会が天皇への問責決議をしたところで、それ以前の議論自体が無効であって、当然決議も無効になるということだ。
 で、(1)は、簡単に言ってしまえば、天皇が人を殺しても殺人罪にはならない、ということである。びっくりしましたか? そういう人をもっとびっくりさせることがある。現在でも、やっぱり、そうなのだ。ただし根拠法は必ずしも明確ではない(現憲法第一条か第三条か、皇室典範の第二十一条か)が、民事責任については学者間に論争があるものの、刑事責任は問えないことについては通説と言ってよい。秘密でも何でもない、普通の憲法の入門書にそう記されている。
【ところで、では、天皇を殺せば何罪になるのか、は、入門書には書いていないので、どなたか御存知の方に御教示願いたい。戦前なら不敬罪と大逆罪があったわけだが、戦後は?
 例えば昭和四十四年一般参賀の際に昭和天皇に向かってパチンコを撃った奥崎健三は暴行罪になったのだから、普通に殺人罪になりそうである。それ以前の昭和三十四年今上天皇の御成婚時のパレードで、当時の皇太子夫妻に石を投げた少年がいたが、これは精神病とされ、刑罰は受けていない。一方、皇室に対する名誉棄損罪やら侮辱罪はどうやら成り立たないことは、昭和三十五年、深沢七郎『風流夢譚』に端を発する嶋中事件で明らかになったようである】
 以上は「君主の無答責」ということであって、世界的に見てそんなに珍しくもない。当時の、アジアではなくヨーロッパの、立憲君主国の憲法にはたいていこういった君主の不可侵、あるいは無答責の原則は記されており、要するに立憲君主とはそういうものだ、ということ以上ではない。因みに、共和制にも似たようなことはあって、会期中の国会議員と同様大統領にも任期中には不逮捕特権がある。大統領もまた、人を殺しても、大統領を辞めないうちは捕まらないのである。ただ、たいてい弾劾という手段で責任は追及でき、例えば1974年米大統領リチャード・ニクソンは、ウォーターゲート事件で弾劾裁判にかけられそうになったので辞任している。この点、公的な責任追及の手段がいっさいない君主のほうが強力なように一応見える。
 とは言え、では天皇には一切の政治責任はないのか、となると、まだ議論の余地はある。だいたい、国内ではそうであったしても、国際社会では通用しない。昭和天皇は、極東軍事裁判(以下、「東京裁判」と記す)で訴追される危険を感じたので、あらかじめ弁明書を作ることにした、それがつまり『独白録』なのであった。
 昭和三年に起きたことはもちろんそれよりずっと以前のことである。ここで明らかになったと思えることを私の言葉で記しておく。
 主権者は間違えることはできない。これを前述した。しかし、人間が決して間違えない方法なんてあるのか、というと、たった一つだけある。それは、何もせず、何も言わないことだ。いや、健康な普通の人間にはそんなことこそ不可能だろうと言われるだろう。それなら、言行が一般に知れ渡らないように匿せばいいのだ。それだって100パーセントは不可能だが、80パーセントぐらいなら、なんとか。
 昭和天皇が生きている間には、なんとかなったのではないかと思う。『独白録』にしても、崩御の一年後(平成二年)に公開されたのには、発見者のマリコ・テラサキ・ミラーが記している寺崎家の事情以外の思惑が働いたのではないかとどうしても思えるし、富田メモも卜部日記も、やはり昭和天皇在世中の公刊は難しかったと思う。
 天皇もその側近も、みんな問わず語らずの内に弁えているのである。間違えたときに責任を取れないような者が、国に関する何かを、例えば総理大臣の交代などを決めてはいけない。これが「君主の無答責」の本当の意味である。もし、どう見てもおかしい、と思えるようなことを君主が決めたということになったら、不合理な存在である君主が現に害悪をもたらしたことになり、もう君主制は保たれなくなるだろう。さらにできれば、ただ「意見を表明」しただけでも、それはまちがった意見だった、とされる場合はあり得るのだから、できるだけ控えてもらったほうがいい。
 要するに、君主はただ在るだけ、にしておかねばならない。「君臨すれど統治せず」は英王室について言われた言葉だが、「何もしない、言わない実践」にかけては、世界の王朝の中で天皇家に勝るものはないようだ。だからこそ天皇家は、千年以上続いているのである。
 それでも、立憲君主制になってからはまだ一世紀半もたっておらず、日本が未曾有の国難に見舞われた時期に、けっこう賢い人物が君主となった場合、上のようなこともかなり難しく、危うくなる場合がある。その揺れは、日本の近代化の歩みの困難とかなり重なっているのではないだろうか。「立憲君主の座について」シリーズではこれを考えたい。
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