由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

F氏との対話 大人になることについて その1

2019年02月21日 | 倫理

The Peter Pan Statue in Kensington Gardens

 以下のやり取りは、「しょ~と・ぴ~すの会」(日曜会内)でのF氏の発表「良心の発達と反省するということ - 秋葉原無差別殺傷事件を事例として」(日曜会HPから、しょ~と・ぴ~すの会→現在までの記録まで行き、このページの下部から、当日の案内文、それから当日発表資料が閲覧できます)をきっかけにして、より正確には、参加者の一人だった小浜逸郎氏の関連するブログ記事へのコメントから始まったものです。二人のやり取りを小浜氏のブログで延々と続けるのも不躾かと思えましたので、場所を拙ブログに移し、コメントではなく、まとめて、記事として出します。対話はまだ継続中ですが、最初の段階の報告です。
 尚、小浜ブログのコメント欄に掲載したものからは、一部抜粋になっており、また多少の変更を加えてあることをお断りしておきます。

【F氏→由紀】第1信
 私の発表が加害者より被害者を優先していると受け取られたとしたら、発表の仕方がまずかったと思います。被害者の問題については重視し大学の講義でもとりあげていますが、「しょ~と・ぴ~すの会」では取り上げる時間がありませんでした。
 私は、被害者や遺族のためにも、冷静に犯罪の原因を探り、対策を講ずること、加害者に取るべき責任はきちんととってもらうことが必要だと思っています。
 また、由紀さんは、想像力や精神医学の知識を駆使して迫ることは一種の「文学」で、それと現実の社会は別物だという前提でおられるようですが、発表でも述べたように、私は想像力と現実は切り離せず一体だという考えです。従って、想像力や言葉の問題を解くことは現実の問題を解くことにつながると考えています。そのため、秋葉原無差別殺傷事件も、加藤自身が内省しているように、加藤の言葉の未成熟による認知や思考の歪みとして読み解きました。
 以上、由紀さんご意見については誤解している点もあるかも知れません。
 しかし、発表が、被害者の問題を軽視し悲惨な事件を虚構としてもて遊んでいるように受け取られたら、全く心外なので、コメントさせていただきました。

【由紀→F氏】第1信
 Fさんが「加害者より被害者を優先している」とは思いません。ただ、あのように、大量殺人者の人間性を深く掘り下げようとする試みの場合には、亡くなった被害者側への視線は限定せざるを得ません。それは誰がやっても、この私がやっても、そうなります。因みに、「罪と罰」でも「異邦人」でも、殺された側の事情や心理についてはほとんどなんの描写も説明もありませんでしょう。
 もちろんこれは、広い意味の文学的な試みだから許される話。実際の社会で、犯罪をどう扱うという次元なら、被害者側に立って方策を考えるしかありません。それはFさんももちろん御存知のことだ、と存じております。
 ただ、ああいういろんな立場の人がいる会で、Fさんやら会全体が、被害者を無視している、無視してよいのだと思っている、そういう流れになっているという印象を与えてはいけませんので、老婆心かも知れませんけど、被害者を忘れてはならない、と強調したくなったのです。
 上記で、私の「文学」と「現実」は別だ、という考えの基も伝わりましたかね。
 ただし私は、「想像力と現実は切り離せず一体」だから、「想像力や言葉の問題を解くことは現実の問題を解くことにつながる」というお考えを、あるいは誤解しているかも知れません。もしそうならご指摘ください。
 御文の後のほうから推察すると、これは、秋葉原事件の犯人のような言葉や認知の歪みを理解すれば、それを矯正することもでき、だから将来類似の事件の発生を防止することに繋がる、ということですか? そうだとして。
 そうかも知れない、全否定はしませんけど、私とはちょっと目の付け所が違うと言いますか。いや、ちょっとではなく、Fさんと私の根本的な違いがここにあって、それはどうしても相容れないものかも知れません。それでもなお、対話は貴重ですから、存念を述べます。
 外国のより、日本の、それもわりあいと最近の、未成年犯罪者を扱った小説を例にしましょう。大江健三郎「セブンティーン」「政治少年死す」の連作には、驚嘆しました。進学校で落ちこぼれたひ弱な少年が、右翼テロリストになる過程を、この上なく精密に描き出している。著者は政治上の思想信条からすれば主人公とは正反対の立場なのに、一種の「共感」を抱かなければ、とてもこうはいかない。
 「共感」。会の時にもちょっと出ましたね。もちろん、現実の問題として、殺人を犯すのも無理はないと感じる、なんて意味ではありません。またしても、念のために。
 また、現実と言えば、小説のモデルになった実在の青年の心理はこの通りだったかどうかなんて、保証の限りではないです。しかし、こういう人間はこの世の中にたぶんいる、いて不思議はない。つまり、絵空事ではない。そう思わせるだけの説得力はあります。おかげで私は次のことも説得されました。
 この主人公の論理や感性は、歪んでいる。しかしそれはそれとして完成している。そこに誰かが、密接に関わる、ことがそもそもむつかしいのですが、できたとして、その歪みを「矯正」して、犯罪を未然に防ぐ、なんてできるものか。
 無理じゃないかなあ。私のような凡庸な者にはできない、というだけではなく、原理的に、つまり誰にも、できないのではないか。こういうところでは人間は、どうしようもなく「個」なんだから。
 これは絶望的に思えますか? でも、この世の中から犯罪を完全になくすなんて、たぶんできないのだから、そんなんで絶望することはないだろう、と思います。それはまあ了解されるとして、それなら、文学的な想像力なんて、実際の役にはまるで立たんのじゃないか、という疑問が次に出ますでしょうか。
 そんなことはありません。人間の途方もない多様さ、奥深さを知るためには、かけがえのない効果があります。私は、特に教師や児童福祉司や警察官や裁判官など、人間を直接扱う立場の人には、これは弁えていてほしいと願う者です。「教育」とか「更生」とかの美名の下で、個々のかけがえのない人間性を破壊することがないように、です。

【F氏→由紀】第2信
 現時点で由紀さんのコメントにご返答可能な部分について、ごく簡単に要点を述べたいと思います。
 ダニエル・デネットの「自由と責任のプライオリテイをひっくり返し、他にやりようがあったから責任があるのではなく、責任があるとみなしてよい理由があるときに、人々は他にもやれたんだ、自由があったんだと判断する」という考えについてですが、刑法もこれに似た考え方をとっており、刑法第三十八条3項には「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その罪を減軽することができる」(法の不知はこれを許さず)との規定があります。
 しかし、私が紹介しようと思った重点は、引用された文言に続く「完全に自分がコントロールできなかった行為について責任を引き受けることで、われわれは『自分自身を大きくしよう』としている。つまり、それによって未来において同種の行為のコントロールを増やし、自分の自由を増やそうとしている」にあり、非行を犯して罪に問われた少年に対し、いきなり〈常識的な見識-行動〉のセットを対置するのではなく、少年を本当に反省させ責任を感じさせる(少年の人格を大きくする)には、どのような方法があるかというところにありました。
 その目的で、発表で「責任を担うために自由を拡大する」方法について自分の考えを述べ、また、その応用例として「秋葉原無差別殺傷事件」をとりあげたものです。
 ただし、「責任を担うために自由を拡大させる」ことには、由紀さんがご指摘されているように、公権力が人間の内面のモラルなどに直接かかわることにまつわる大きな問題があります。本人も更生することができたと納得できればよいのですが、強制や「洗脳」になり相手の人格を破壊してしまうのであれば、刑法のように、人格改造などには手を触れず、結果責任を取らせることの方がより人間的な扱いだと思います。
 由紀さんが「由紀→F氏」第1信で指摘されている問題は、人間とは何か、人間にとって文学とは何かという大きな問題がその背景にあると思います。
 由紀さんに私の考えをまとめてお伝えし、由紀さんからいろいろ教えてもらう機会がくることを願っています。

【由紀→F氏】第2信
 Fさんの力点が
完全に自分がコントロールできなかった行為について責任を引き受けることで、われわれは『自分自身を大きくしよう』としている
云々にあったというのは、なかなか感動しました。が、思い返せば、「そうも言えるな」ぐらいのもんじゃないかな、とも。
 世の中には「理由」があって「約束」が生まれる、と言うよりは、「約束」ができてから「理由」が考え出されるんでしょうが、どちらにしても、それは青少年にとっては、大人が勝手に決めたものです。わけのわからない部分があり、インチキだと感じられることさえある。しかしどうやら、従わなくては生きていけないのは確からしい。そこでこの約束を規範として内面化する、と。そうすることで一回り大きくなった自分=大人を実感するのか、あるいは正体不明の「世間」(太宰治「人間失格」参照)に隷属して生きるしかない哀れな者=大人、になったのだと感じるのか。いま敢えて単純に二分化して申しましたが、ここでの複合感情は非常に強く、後々まで人間の心の奥底に残っていくものでしょう。
 それはしばらく措くとして、「少年を本当に反省させ責任を感じさせる(=少年の人格を大きくする)には、どのような方法があるか」。この問題意識で秋葉原無差別殺傷事件の犯人をとりあげられたのだ、と。ああ、そうだったんですね。すみません、今まで気づかなかったのは、生来の理解力不足の他に、ここでどんな「応用例」があるものか。私には見当もつかないことが主因です。それでFさんには御不満をいだかせてしまいました。
 言われていたことは、こうだと思います。
(1)この犯人(以下、「当人」と表記します)は幼児期から少年期にかけて健全な(通常の)母子関係を体験しなかった。そこで成人後も常にそれを求めずにはいられなかった。即ち、ありのままの自分を受け止め、受け入れてくれる存在を。必要なのは「関係性」であって「母親そのもの」ではないから、この存在は女性には限らない。
 しかしながら、誰もここまでの「無償の愛」を当人に対して捧げてはくれなかった。ある程度親しくはなっても、結局は彼をもてあまし、捨てるか、少なくとも距離を置くようになる。誰にしても、それが当たり前ですね。
(2)一度犯行予告をネット上に出してしまった以上、やらざるを得ないと考えるような奇妙な「真面目さ」「几帳面さ」があった(予告は上書きすれば消える)。
 お話の中にもあったかと思いますが、これは幼児的な融通のなさでしょう。約束の変更は直ちに約束破りとなって、許されざる行為ではないか、と。だとすればこれもまた、母子関係の欠如に由来するのでしょう。
 さて、私がFさんかの御発表から得たと思っている上記の情報が、見当外れではないとしたら、再びですが、一度「反社会」の方向に大きく踏み込んでしまった人に対して、どういうケアが考えられるのか。教師とか、カウンセラーとか、職業的に関わろうとする人に。
 原則として、無理ではないですか。
 私は教師としては、できることは、英語などの知識以外だと、社会の約束事とその「理由」ですね、これをできるだけ噛み砕いて、矛盾はあっても偽善はないように心がけて、伝えることぐらいだと思っています。いや、人と人とが相対している以上は、決してこれだけではすみませんよ。でもそれは、本当に個人対個人の領域で、制度的にどうこうできるようなもんではないことは確かじゃないですか。
 まあ実際はいい加減なもんなんですけど。私などより、一人の少年と対面するのがお仕事のYさんたちには、ここでもよりキツい思いをせねばならんのだろうな、と、想像はしています。実際はどうか、できればお聞きしたいと思います。

【F氏→由紀】第3信
「いま敢えて単純に二分化して申しましたが、ここでの複合感情は非常に強く、後々まで人間の心の奥底に残っていくものでしょう」
 由紀さんのお考えに賛成です。
 少年法や家庭裁判所の目的は再犯を防ぐことにあり、少年が損得勘定ができるようになり、損得勘定によって自分をコントロールできるようになればそれで十二分に達せられます。
われわれは『自分自身を大きくしよう』としている
とあるので、人間に対する見方が甘く、道徳好き、説教好きなニュアンスを抱かれたかも知れませんが、私が発表の中で、方法として具体的に挙げているのは、少年の視点に立って打開策を検討するということであり、しかも、それも容易ではないということを強調しました。方法の応用例として取り上げた加藤も、母が代表する正体不明の「世間」に、未成立な自己が隷属した結果が悲惨な事件につながったともいえるので、由紀さんの「複合感情は非常に 強く、後々まで人間の心の奥底に残っていく」という認識ともそんなに違わないと思います。
「一度『反社会』の方向に大きく踏み込んでしまった人に対して、どういうケアが考えられるのか。教師とか、カウンセラーとか、職業的に関わろうとする人に。/原則として、無理ではないですか」
 私も、非行少年に対する働きかけとしては、可能な限り少年に通ずる言葉で面接し、その結果を調査票にまとめることぐらいしかできないので、「社会の約束事とその『理由』をできるだけ噛み砕いて、矛盾はあっても偽善はないように伝えること」に賛成です。
 しかし、その基本的なことが容易ではないのです。容易ではないということは「9歳の壁」を論じたところでも触れましたし、また、加藤を論じたところでも、自己が確立していない者に対しては、確立している者に対する理解や対応をそのままあてはめてもうまくいかないことを、フロイトとウィニコットの対照表(スライド79)なども挙げて説明したつもりです。
 以上のような次第で由紀さんの問題意識に異論はないのですが、なぜ、私の主張について由紀さんが違和感を持ってしまうのかを考えると、その理由は沢山あるかも知れませんが、一つは、私の、「少年法の対象者を引き下げ、18、19歳の犯罪を犯した少年に、今日から君は成人だなどと言っても、殆ど有効ではない。従って少年法改正には反対である」という問題提起を、由紀さんが、「人間は変わるか、変わらないか」という問題提起と受け取っているからだと思います。
 しかし、私は「人間は変わるか、変わらないか」ではなく、「人間に対し、画一的、観念的に関わるか、それとも個人に対して柔軟に実際的にかかわるか」を問題提起しているつもりです。現行少年法は、後者が可能なように設計されていますが、刑法は前者です。
 私の面接の実際ですが、調査票をいくつか見てもらえれば一番手っ取り早いと思いますが、法律で禁じられています。
 その代わり、回答にはならないと思いますが、「少年友の会」(調停委員が中心の非行少年を援助するボランティア団体)の会報に私が寄稿したコラムを添付しました。参考にされてください。

【F氏のコラム「正論と本音」】
 審判で、「鑑別所の中で何を考えたか」と裁判官が少年に尋ねる。すると、少年は、「親に迷惑をかけたと思った」と答える。そして、裁判官から、被害者のことを忘れているのではないかと注意を受ける。これは希な光景ではない。札幌の鑑別所の研究でも、「迷惑をかけた人リスト」を少年に書かせたところ、約8割の少年は被害者よりも父母や友人を上位に挙げたということである。
 このような状況を見て、少年を自己中心的で反省が足りないと見る人も少なくないと思われる。しかし、一番被害者に迷惑をかけたと答えることができる少年の中には、裁判官の期待にうまく応えることのできる能力は持っているが、親を真っ先に挙げる少年よりも反省が進んでいるわけではない少年もいるように思われる。
 幼児は親の目がないと自分のコントロールが難しいものである。しかし、親との心の絆が深まるにつれて、こんなことをしたら親が悲しむという気持が生まれ、親の目がないところでも、内なる親の目で自分をコントロールできるようになると言われている。
 従って、親に迷惑をかけたという気持は、自己中心的というよりも反省の原点であり、そのような気持がうまく社会化されて行けば被害者の気持にも共感できるようになって行くと思われる。
子どもが本音を話しているときに正論は絶対言ってはいけない。正論は間違っていないからこそ、子どもは何も言い返せなくなる。子どもは本音を話したことを後悔し、表面的な反省の言葉を引き出してしまう」と書いてある本を読んだことがあるが、家庭裁判所は、正論を教え、本音と正論をつなぐ道を探る場でもある。
 限られた時間の中では容易なことではないが、本音から真摯な反省が生まれるような面接を少しでも心がけたいと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする