由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

W.H.氏との対話 その3(保守的な態度とは何か)

2016年12月25日 | 倫理
W.H.様

 ご丁寧にありがとうございます。
 いろいろと疑問を提出していただきましたので、できるだけちゃんとしたお答えしたいと思いますが、第一に、私の頭では理解できないところも多く、そこは失礼させていただくしかないでしょう。

 第二に、前にも申しましたように、言葉の意味・ニュアンス・それに込めた思い、の段階で大きなすれ違いがある、と言うより、W.H.さんと私とでは、何を一番大事と思い、こだわっているのか、肝心なところが重ならないようでもあります。とうてい議論にならないはずなんですが、何度か御論を拝読しているうちに、共感できるところもあるらしく感じました。それは何か、炙り出せればいい、と淡い期待を抱きつつ、以下に勝手な文を綴ります。

由紀さんは文学を「個人的なことをできるだけ掘り下げて、そこに一定のフォルムを与えて、他人とも共有可能にしたもの」とされました。歴史も同じだという趣旨だと思います。】
 いえ、そんな趣旨ではありません。
 文学とは通常、言葉によって表現されたもののことを言います。それと対比した場合の「歴史」とは、歴史叙述のことでしょう。両者には、大きな違いがあります。
 歴史叙述は、記憶を含めた記録を整理して、そこに筋を通そうとするものです。文学は、とりわけ近代文学は、同じく最広義の記録に依拠しますが、あくまで個人の段階に止まり、それを伝えるために「語り」のフォルムを使うのです。
 フランス語のhistoireが「歴史」と「物語」の両方の意味がある(英語のhistoryとstory)ことによく示されているように、語りのフォルムの大本・原型は神話・伝説まで含めた歴史から来ている、と言ってよいのでしょう。それでも、「何を語り・伝えようとするか」の動機の部分が大きく違っているのです。
 別言すると、「公」の側から「私」を問うのが歴史、「私」の側から「公」を問い直そうとする試みが文学である、と(「私」のほうが「公」より価値があるという意味ではありません。為念)。私にとって、このベクトルの相違は、決定的です。
 例としては、支那の古典が典型的ですし、W.H.さんもお詳しいので、挙げましょう。
 江戸時代に我が国でも漢文のお手本とされた左國史漢、「春秋左氏傳」「國語」「史記」「漢書」はすべて歴史書です。個々人の日常茶飯事など、省かれるのが当たり前。士大夫として理想的な生き方を示した者が讃えられ、もって後生を教導する、明確な目標の下に書かれています。例えばそういうことが上で言った「公」です。
 でも、「史記」で普通に読まれている「列伝」なんて(私ももちろん、本紀のほうは読んでいません)、歴史物語じゃないか、と言われるかも知れない、というようなことは脇におきまして、これらに基づいた二次創作として「三国志演義」などの講談、紙に書かれたら稗史小説、があり、「水滸伝」のような、裏歴史というのか、反逆者たちの物語があり(どれだけ史実か、なんて研究者以外は問題にしない)、「西遊記」のような、純然たる空想(にしてもその基は事実・経験がある)の産物である怪異譚があり、最後に「金瓶梅」のような、正史から見たらまことにどうでもいい、庶民の色恋沙汰その他の日常的トリビアルな描写に満ちた読み物があります。
 これ以外に、士大夫でもそうでなくても、個人の述懐に相応しい詩があり随筆がある。前者のためには韻律がなくてはならない。もとは実際に口演されるいわゆる口承文芸からきているのでしょうが、それが、それこそフォルム(型)として確立されると、紙に書いて目で読んだだけでも感知されるようになり、おかげで内容的にはおっさんの愚痴みたいな杜甫の詩が、不朽の生命を得ます。
 ここにはまぎれもなく個人がある。時代の道徳・理想では捉えきれない個人が。そして、個人の思いには意味がある、即ち、個人には意味がある、それを示して伝えるのが文学の効用だ、と私は信じておるのです。そしてそこを一番に重視しておりますので、世の中全体のことは二義的以下と感じられる。そこがW.H.さんとの最大の違いなのでしょう。

 次に、ここもちょっと。
少し訂正させていただけば、未来もまた「ある」のだと思います。それは過去が「ある」ようにです。未来からあらゆる意味は生じます。
 私は過去が「ある」ように未来も「ある」とは思えませんので、この訂正を受け入れることはできません。
 普通に言って、過去は変更不可能な「事実」としてある(もっとも、その「事実」は、人間の数だけバリエーションがあるかも知れませんが)のに、未来は「可能性」としてあるわけですね。可能性の幅が広がれば、つまり選択肢が多くなるということであり、それだけ人間の自由の度合いは高まるように感じられるでしょう。
 ヨーロッパからの移入者にとって、アメリカの広大な土地は、まさしく手つかずの「処女地」であり(ネイティヴ・アメリカンが住んだり狩りをしていた場所であることには目をつぶって)、無限の可能性と、無限の自由を約束していたように見えたのに不思議はありません。もっともこの自由の中には、野垂れ死にする可能性も、そうでなくても開拓のための非常な労苦は含まれているわけで、誰にとってもいつもありがたいというわけにはいかない。
 自由って、現実的にはそういうもんでしょう。いやなことから免れる自由以外は。「理念としての自由」だと、そこのところが捨象されて、誰にとっても都合のいいように感じられてくる。そこに欺瞞があり、危険もあるわけでしょう。 

 それにしても、
戦後、自由と民主主義の進展のみが客観的かつ真正な歴史の展開と見られ、それに見合わない過去がノスタルジーという名を負わされたのではなかったでしょうか。
 こういう歴史観には同意できません。というか、理解できません。
 ノスタルジーって、悪名になりますか? 昔から文学作品の題材としては最もポピュラーなものの一つなのに。「頭(こうべ)を挙げて山月を望み 頭を低(た)れて故郷を思ふ」(李白)とか、「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」(紀貫之)とか。それくらいですから、表現のフォルムなんて、いくらでも見つかります。現代でも、ポピュラーソングの題材としては、恋愛の次ぐらいの頻度で使われているんじゃないですか。“Country road, take me home.”(ジョン・デンバー)とか。ちょっと古いか。
 それから、自由と民主主義以前に、日本では明治以来の近代化が、地方の荒廃をもたらす場合があった。「門辺の小川の ささやきも なれにし昔に 変らねど あれたる我家に 住む人絶えてなく」(犬童球渓による詞「故郷の廃家」)は、例に挙げていらっしゃる「ふるさと」と同時期にできた歌です。その「ふるさと」にしてからが、故郷は、そこで暮らして発展を期すべき場所ではなく、「(他所で)志を果たして いつの日にか帰」るべきところとしてある。「ふさとは 遠きにありて思ふもの」(室生犀星)になると、土地は荒廃していなくても、そこに住む人の心は変わってしまい、もう帰るべき場所はない、という喪失感が前面に出ます。
 などとクドクド言うまでもなく、郷愁は懐旧と結びつき、その根底には「昔を今になすよしもがな」(静御前)という哀惜の念がある。それは古今東西、変わらない。一方それは個人的なものだからこそ、純粋で、美しい。また個人的なものだから、「自分は誰かを熱烈に愛している」などと同様、他人にやたらに、生の言葉で、吹聴すべきものでもない。広い意味の文学だけが掬い取って表現することができるのです。

しかしそれ(ノスタルジー?)は年老いていく世代の弱い意志がそうさせたのであって、新しい世代によっては再生の目標ともなりうる記憶であるかもしれません。
 過去にあったものの記憶を再生することが、将来の目標になるかも知れない、ということですか? それはあるでしょうね。孔子も周代を理想としたのだし、明治維新は王政復古(≒天皇親政)をスローガンの一つとしていたわけですし。これらparadise lost(失楽園)の念は、前述の哀惜の感情が強調されたもののようですが、往々にして政治的に使われる。すると、純粋な郷愁にあった美しさは失われる、ことには目をつぶるとしても、そこで言われる「失われた楽園としての過去」は、常に、今人の想像から出た、理念としての理想郷でした。
 なるほどそれは、「再生」(renaissance)や「変革」(revolution)の目標として、時代を変えるエネルギーになりました。が、実現するのはいつも、夢見られていたものとは違う何かになってしまう。その点、フランス革命のスローガン「自由」や「平等」と変わらない。だって、どちらも理念なんですから。
 それに私は、「時は元にもどらない」の断念を含まない過去賛美は、「大人になんかなりたくない」と同様の、どちらかと言えば後向きの、不健康な感情だなあ、と感じてきました。もちろん、世の中の進歩によって、失われるものは確かにあります。だから、今が昔より必ずいいなどと主張するわけではありません。
 それでも、発見可能なことはすべて発見するし、実現可能なことならすべて実現するのがどうやら人間の本性だと観じてはおります。そこは変えようがない。それなら、今までに発見され実現されたことは、いいも悪いもすべて所与のものとして飲み込んで、目前の「やるべきこと」に取り組むのが、大人というものではないかと思っております。

 実は、「近代化の流れは不可逆だ」というのも、私にとっては上とほぼ同じ意味です。一応言っておきますと、  
由紀さんは悪筆であり、ワープロによって今の文筆活動が可能になっていると言われています。(中略)(手書きは)それはそれで手先の運動神経を開発するといった、何かしら別な価値をも与えた
 これ、冗談ですか?
 私が流行作家だったら、出版社に「由紀草一係」が置かれ、その人だけが由紀草一の原稿を読めるんで、重宝される、ということがあるかも。ですけど、そりゃやっぱり、我儘でしかないでしょう。
 手先の運動神経が開発されても、役に立つのは私だけ。文章は読まれるために書くもんですから、読者の役に立たないなら、無益、というしかない。
 だいたい、他に例えば、「新幹線のおかげで東京から大阪まですぐに行けるようになったが、その分途中の景色を楽しむ時間は失われた」とか言う人もいますが、本当にそう思うんだったら、東海道を鈍行か、あるいは歩いて行けばいいだけの話なんです。現在でもその「自由」はある。文筆家であってもワープロを使わない自由はあり、またそういう人は現にいるように。そうしないで、口先だけで進歩や近代への懐疑を口にして見せても、進歩や近代化に伴う悪へのブレーキにはとうていならない。いや、もともとそんなつもりはないんでしょう。こういうのは聞き流すしかないですよ。

 私がリベラル・デモクラシーを支持すると言うのは、これが、「人間の内面には直接立ち入らない」節度を一番きちんと弁えているらしい制度だからです。「今日の立憲政体の主義に従へば、君主は臣民の良心の自由に干渉せず」と既に明治時代に井上毅が言っています。私にとって、政治制度に関する一番重要なポイントです。
 ここのところは非常に微妙で、うまく言えるかどうか自信がないままに、言ってみます。私は、個人主義者と呼ばれてもいいと思っていますが、「個人の自由は絶対」とも、「一人の人間の命は地球よりも重い」と主張する者でもありません。公はあり、例えば国家の危機に際しては、個人の権利が制限されねばならない場合は確かにあります。公、とは、この場合、国家や社会などの制度から、具体的な人間関係まで含めた「個人の外部」すべてと重なりますので、それがなかったら個人はもともと成立しませんし、また一日も存立し難い。
 だから、公のために私が犠牲にされる場合があるのは当然である。にもかかわらず、ではなく、だからこそ、「私」はどこかに保存されねばならず、保存すべく努力されねばならない。
 少し急ぎ過ぎましたかね。戦後「私」のなしくずしの拡張の結果、「公」の領域はだいぶ犯されているのではないか、戦中の「滅私奉公」に対して「滅公奉私」だ、このままでは「公」は滅んでしまう、なるいわゆる保守派に多い心配を、W.H.さんも共有しているらしいので、ちょっとみておきましょう。
 例えば、国家の危機の際、国を守るのではなく、逃げ出してしまう若者のほうが多いんじゃないか、とかね。そうでもないんじゃないかなあ。福島原発事故の時、「また爆発するかも知れない、大量の放射能を浴びるかもしれない」と言われながら、復旧作業のために事故現場へ赴いた自衛隊員や消防隊員の人がいたことですし、とは前にも言いました。
 もう少し軽い例だと、少子化問題がありますね。戦前、に限らず戦後も少し以前までは、男も女も一定年齢が来たら結婚して子供を作るのが当然である、という、法律はないけれど、世間の常識はあり、いい年をして子供のない人は肩身が狭い思いをしなければならなかった。今でも消えたわけではないですよ。不妊治療には、かなりの需要があります。が、その圧力はだいぶ軽くなり、少子高齢化社会を出来する淵源にはなっています。
 でも、国家は、そんなに強いことは言えんでしょう。「女性は子供を産む機械」とか、馬鹿なことを言った大臣はいましたけど。親は子供を産めばすべてよし、とは、この人も、他の誰も言わんのです。一人前になるまで、ちゃんと育てる義務は親にある。それを果たせないような親は、「じゃあ子供を作るなよ」なんて言われたりします。
 子供の養育の最終責任は親にある、と昔から、それこそ自然に考えられてきたわけでして。イスラエルのキブツみたいな例外はありますが、それがいいとは、ほとんどの人が思っていないでしょう? ならば、子供をいつ、何人作るか、親に任せるしかないのが、理の当然というものです。
 逆に、「保育所落ちた、日本死ね」なんて言うんだったら、安心して子供を産めるような国に近づけるよう努める義務が、主権者である国民にはある。「国」を自分とは違うところにあるもののように捉えて、ただ文句だけ言えばいいというが如き態度はお門違いだ、という原理(でしょう?)も、同じ国民の権利・義務関係から出てきます。「権利の上に眠る者は救われない」、それが当然なんです。 
 同じメカニズムが抑止力になりますので、「自由が暴走する」なんて心配も無用ではないでしょうか。自由が現実のものになったら、誰にとってもありがたい、なんてことにはならない。子供を作らない自由、それ以前に結婚しない自由が実現したら、結婚したくてもできない人、子供が欲しくてもできない人、が増えます。現に今の日本はそうなっています。誰かの自由が拡大したら、必ず他の誰かの自由を制限する結果になる。「自由のジレンマ」として有名らしいですね。
 だから、自由と制限のバランスがうまくとれるかどうかはわからなくても、社会全体で自由が行き過ぎる、なんてことはそれこそ原理的にあり得ないんです。これについては、たぶんそちらにまだ言いたいことがおありでしょうから、後ほどうかがわせてください。

 最後に、先ほど棚上げにした個人主義にまつわることを含めた「保守的な態度」について略述します。
 「保守的な態度といふものはあつても、保守主義などといふものはあり得ない」というのは福田恆存先生の言葉として有名です。この意味を今、私なりに敷衍しますと、保守とは、「~主義」として尖鋭化される理念に「待った」をかける、そういうものとして有効である。自由主義、民主主義も例外ではないので、いかにもそれはリベラル・デモクラシーを相対化し、制限しようとするものにもなるでしょう。ここへ来て初めてW.H.さんに同意したようですが、一番肝心なところですからね。
 例えば、「進歩はいいが、進歩主義はよくない。平和もそうだ。平和主義というと、平和が最高価値になってしまうから、まずいんだ」と、福田先生がおっしゃるのを直に聞いたことがあります。後でよく考えて、得心できました。
 例えば、ある国との戦争をほぼ完全に避ける方法はあります。その国の言うことに逆らわず、なんでも言いなりになることです。魚釣島が欲しい? あげましょう。沖縄も? どうぞご随意に。九州も? 別にいいですよ……。そんな国にわざわざミサイルを撃ち込んだり、軍隊を送ろうなんて国、ないですわなあ。でも、そんなこと、できるもんですか?
 そこまで極端なことをしなくても、外交でなんとかなるんじゃないか、いや、すべきなんじゃないか、ですって? それはまあ、戦争とは外交の失敗を意味する、と言ってよいでしょう。でも、人間は失敗するもんです。現に21世紀に入ってからも戦争は起きてますんで、その備えはしなくちゃいけないんじゃないか? と言うと、備えが必要だ、ということは戦争の可能性は認めているんで、それはやがて戦争そのものを認めることにつながる、と返される。
 理念的には完璧に近いところまで行っているのが戦後日本の平和主義です。人間の生の現実を積極的に無視するからこそ、そうなっているのです。しまいには、現実に犠牲を強いるところにまで至るでしょう。それはまずい、という感覚が保守的なものです。
 同じく、進歩も平等も自由も伝統も、「~主義」になって、それらの理念を最高価値にすると、きっと同じような弊害に陥るでしょう。保守主義は、どうやら、進歩主義者が自分たちと敵対する勢力をこう呼んだのが定着したもののようですので、元々人々に犠牲を要求するほどの輝かしい理念はないはずですが、「なんでもかんでも、昔のほうが良い」と言いたげな人はいますから、できればこの言葉も避けたほうがいいですね。
 それからもちろん、個人主義、というのもまずいでしょうね。個人以外に一切の価値を認めない、と言ったら、無政府主義と同じになってしまう。本当の意味で個人を立てるためには……これは以前に申しましたことで、後でできるだけに肉付けしたいと思っておりまして、今はご容赦ください。
 それで、保守的な態度のほうなんですが、これは人間が生きる現実の感覚に基づき、「足りない」「行き過ぎ」を判定しようとするものです。それこそ言挙げしなくても、誰しも、やっていることなんです。自由平等進歩伝統のような理念の輝かしさはなく、現実を変えるだけの力もなく、「そこまでやる必要があるのか」というような、微温的な現れ方をしますんで、恰好良くもない。しかしこれこそ、人の世の「正気」を保つ土台です。
 だからまた制度のほうでは、民主主義や社会主義などの理念で運営されるのは当然であるとしても、それとは別に、「私」が息づく場所はつぶさないように心がけるべきです(いや、放っておけばいいんですがね)。それが失われるなら、結局人間性と呼ばれるもののすべてが目に見えなくなるでしょうから。実はその危険は、案外たくさんありそうに思います。

 お答えになりましたかどうか。私としては、懸命にない頭を絞って、自分の一番根底の信念、と思えるところを開陳いたしました。それに免じて、足りないところや失礼なところはご容赦ください。
 また何かありましたら、きっとあるでしょうが、どうぞご意見をお寄せください。
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W.H.氏との対話 その2(自由からの自由―ブレーキ装置)

2016年12月16日 | 倫理
 以下の記事は、「過去・現在・未来 W.H.氏との対話」の続きとして、W.H.氏から送っていただいたものです。正直言って、この思考と感性は現在かなり独特なものだと思いますが、それだけに貴重ですし、個人的に、私の言論にきちんと向き合ってくれる、ありがたい存在でもあります。これに触発された愚考は、なるべく早く公表したいと念願しています。それとは別に、W.H.氏に直接意見を言っていただけますなら、彼にも大きな励みになると思いますので、できたら宜しくお願いします。

由紀草一様

 私のコメントをブログの記事にしていただき、有り難く思っております。たいへん納得の行く回答をいただき有り難く思いました。大方において私も同感です。さて、前回、私が述べたことは「近代主義」への疑義でした。また、それを下支えしている「近代の展開の不可逆性」という歴史観への違和の思いでした。しかし、まだ由紀さんとの小さな差異は残っているように思うので、質問を続けたいと思います。その差異というのは「リベラル・デモクラシーを条件づきで支持する」という「言挙げ」についでです。私はもう、この「言挙げ」は不要なのではないかと考えています。新たな「言挙げ」をもって「リベラル・デモクラシー」は相対化されるべきであると提案したいと思います。その前提として、由紀さんの技術の進展への肯定的な思いについても述べたいと思います。ともあれ、前回の由紀さんのコメントに対する返答から……

 <過去> 由紀さんは文学を「個人的なことをできるだけ掘り下げて、そこに一定のフォルムを与えて、他人とも共有可能にしたもの」とされました。歴史も同じだという趣旨だと思います。歴史は事実としての真理を、文学は普遍としての真理を求めます。とはいえ、歴史も畢竟個人的な記憶・感情の集積であり、客観は目標とする理念です。個人的なものと普遍的なものとの間に明確な区別は立てられないでしょう。強く主張される過去は普遍的なものとなり、力の弱い過去は消滅していきます。戦後、自由と民主主義の進展のみが客観的かつ真正な歴史の展開と見られ、それに見合わない過去がノスタルジーという名を負わされたのではなかったでしょうか。「こぶな釣りしかの川」と唄われた世界は、日本列島改造を是とし、生命尊重を至上の価値とする世論の流れのなかで、ノスタルジーへと貶められた一例であったようです。しかしそれは年老いていく世代の弱い意志がそうさせたのであって、新しい世代によっては再生の目標ともなりうる記憶であるかもしれません。そう考えれば、由紀さんの言われるとおり、自らの固有の過去、感じ取ったものを「今あるもの」と自覚することが重要なのだと思います。共有できる既成のフォルムが見あたらないからといって、弁明しながら述べるものではないということです。

 <未来> 歴史に方向などはないし、人間性の本質部分は進歩しない。極端に言えば、未来は存在しないと考えたほうがいい。あるべき未来を考えることは、往々にして現在を手段とする思考につながる。現在あることが未来を生み出す、と考えるべきだ、という由紀さんの捉え方に同意します。少し訂正させていただけば、未来もまた「ある」のだと思います。それは過去が「ある」ようにです。未来からあらゆる意味は生じます。由紀さんが「現に今も、W.H.さんにも、他の人にも、読んでもらうという「将来」のために、営々として文章を綴っている」と言われたようにです。但だ未来は、各人の過去を反映したものになるのだと思います。

 さて、「言葉に対してもっているイメージの違い」に関しては、由紀さんのおかげで大分視界が良好になりました。ここで私がどうして、由紀さんが諦念の意味で用いた「近代化の不可逆性」という言葉遣いにこだわったのかということを述べたいと思います。先にも述べたように「近代化の流れは不可逆だ」という表現は、竹田(青嗣)・西(研)両氏が絶えず用いていたものです。私は、かつて、両氏の社会思想における所説に対して、どうしてもよく理解できないところがあると感じていました。しかし、いったいその違和感の原因がどこにあるのか、長いあいだよくわからなかったのです。いろいろと考えていた折、もしかしたら、これではないかと見当をつけたものが、この「近代化の不可逆性」という見方でした。多くの場合、懐疑主義とも思われるくらいに”物語”に対して拒否の姿勢をとる竹田・西氏の思想にあって、この部分は頑固なほどに一貫したものでした。むろん、近代化は、現実に世界大で進んでおり、両氏の主張がまったくの見当外れだということは有り得ません。しかしそのことを強調し前提とする、そのモチーフが両氏にはあると感じられたのです。こうした経緯があって、その後、由紀さんや小浜さんの周辺で、その言葉に接したとき、私は過敏すぎるくらいに耳をそばだてました。前回も述べたとおり、私は、このテーゼは重要な意味を包摂すると考えます。先にも述べたように、この表現を用いることによって、古い進歩主義の亡霊がまたぞろ復活するだろうと思っているからです。その進歩主義は根強い感情的モチーフを根底に含んでいると考えます。そしてそれは由紀さんのいうように、「現在」を二の次にし、「未来」という夢に賭けようとする、一種の救済の思想につながるものであると思うのです。

 この救済の思想の内実を縷説するのも野暮かもしれませんが、一応述べてみましょう。それはキリスト教的歴史観が典型的ですが、何かうまくいかない、気に入らないという人が、歴史の進歩に希望を託すものです。今はダメなんだ、何かを変えれば良くなる、現在生きている人が不幸なのは社会が悪いからだ、間違った人間がいるからだ、と考えていくものでしょう。もちろん、こうしたものの見方の全部が全部、まちがいとは言えないと思います。しかし、また同時に、それらすべてが正しいわけでもないわけです。われわれが不完全な存在であるかぎり、退歩の可能性だってあるかもしれないのに、また実際、近代の経験した不幸は、前代に比較してそれほど小さいものでもないはずなのに、人は際限のない満足を外に求め、未来に希望を託そうとするわけです。もちろん、それは我々の罪のない性癖であり、人性の然らしむるものとは思うけれど、それが往々にして理論にまでなっていくところに、問題の生ずる余地があるわけです。つまり、”抽象化され”、”無限が入り込んでくる”。そして何かしらの感情のはけ口となり、否定の手段となっていく。ついには、ある種の社会変革の思想、正義の思想が誕生するわけです。

 竹田青嗣氏の場合、「近代化の不可逆性」という言葉は、ヘーゲル思想の本質を肯定するところから生まれるものです。氏が「人間の本質が自由であるということ。もう、これは原理として不変であるだろう」というようなことを言われていたのを覚えています。もっとも、竹田氏の原理とは究極的な真理を指すのではなく、今現在もっとも妥当で理にかなった考え方を言うわけですが、おそらくは自然科学を範に取った経験的な真理に類したものでしょう。何をもって反証とするのかは難しいところです。また、思想その他においてモチーフをつかむことの重要さを教えてくれたのも竹田氏ですが、私は氏自身のモチーフを一種の救済思想につながるものと見ました。またそれは、”自由・平等の理念化”に手を貸すものであると考えます。

 「近代化の流れは不可逆である」という断定が、どうして必要になるのか。かつてのマルクス主義と同様に、本当に行き先が定まっているなら、このようなことは言及しなくともいいわけです。竹田・西氏をことさら指すわけではありませんが、近代主義にとって大切なことは前へ前へと進むことだと思います。とすれば、以下のように語ろうとするのでしょうか。「安心していいよ。どっちにしたって行き先は決まっているんだ。保守的な人間は、自由と平等、人権の擁護に待ったをかけるけれど、結局は無駄な抵抗だし、時間つぶしに過ぎない。何をあがいたって、結局われわれは人類の理想に向かっていくだろう。また進んでいかなければならないんだ」と。その未来のイメージは、おそらく「双六の上がり」のようなものだと思いますが、具体的にどれくらいその未来像の内実が詰められているかと言えば、たいへん怪しく思われるということは前回も書いたとおりです。また由紀さんのように、諦念として「近代化の流れは不可逆である」と詠嘆する場合もあるでしょう。しかし、そうした表現は社会に再帰し、近代化の流れを速めることを利するだけなのだと思います。

 さて、私は、こうした理想への熱意が、科学・技術の進歩の念と手を携え、そこにメタファーを採っていると考えています。たしかに、技術の進化とともに近代社会は発展してきました。工業化によって可能になった物質的な豊かさは、それ自体としては素晴らしいもので、その豊かさが現代人の幸福の基礎を形作っているのは確かなことです。しかし、月並みを言いますが、そうした物質的な豊かさが精神的な高さ、生命の強さ、人格の豊かさを保証するものであるかといえば、やはりそうは言えないわけです。つまり、科学技術が発達し、われわれは物質的に豊かになり、自由で平等な社会をも誕生させた。しかし、その過程で支払った額も、そう小さなものではないでしょう。差し引き残額が大幅に黒字であると考えているならば、案外それは幻想なのではないか、と考えるのです。もちろん、私がこの年齢で昔と今とどちらを採りたいのかと問われるならば、すぐさま「今」と答えます。しかし、こうしたことは習慣が大きな意味を占めているものです。その時代に生きていれば、多くを求めることもないでしょう。

 ここまできてお分かりだと思いますが、私は由紀さんとは少し感じ方が異なっているかもしれません。由紀さんは技術の進歩について有り難いと書かれていました。私も常々、今向かっているワープロを含め、いろいろな技術に助けられ有り難く感じています。ことに表計算ソフトは、あたかも自分のために作られたもののように思われ、「ロータス123」の前にあった「カルク」といったソフトの頃から使い続けています。しかし少し考えてみれば、本当にそれほど感謝すべきことなのか、とすぐに疑念は生じます。由紀さんの提出された例に沿って考えてみましょう。由紀さんは悪筆であり、ワープロによって今の文筆活動が可能になっていると言われています。しかし、ワープロがなければないで、活字印刷ではだめだったでしょうか。金を出して他人に頼むというのはどうだったでしょう。また名文家は必ずしも美しい文字を書いていたわけでもないだろうし、悪筆も必要と反復練習によっては、それなりに読めるようにもなるでしょう。さらに月並みを言いますが、キーボードのタッチタイピングではない、アナログな手の動作、それはより応用の広がりを可能とする動作ですが、それはそれで手先の運動神経を開発するといった、何かしら別な価値をも与えたでしょう。また、いつでも書き直せるという思いが招くマイナスの側面がないでしょうか。筋ジストロフィーのような病におかされたホーキンスのような例もありますが、結局は同じことだと思います。

 私の予想では、ツイッター、ブログにみられるような一億総執筆家化、総表現者化、読むものより書く人間の方が多い状況は、もっと進むと思います。それから先は分かりませんが、しばらくは書くことが一部の特権でなくなることでしょう。ソフトは、言語同士の変換を容易にするでしょうし、日本語変換ソフト、例えば「一太郎」「ATOK」ですが、アシスト機能をどんどん高めていくことでしょう。また、タッチタイピングが必ずしも要求されなくなるかも知れません。音声で入力すればいいわけです。推敲も指先と音声などを使って簡単にできるようになるでしょう。また、文法違反に関する修正もより高度化することだと思います。次に文体のアシストも行われるでしょう。漢文体、和文体、そんなものではない。夏目漱石文体、司馬遼太郎文体、需要があれば由紀草一文体などといったものも、ソフトが出ることでしょう。これは十分可能だと思います。清水義範がいくつかの作品でパスティーシュ(文体模倣作品)を試みていますが、そうしたものを見ても、技術的には十分可能でしょう。きっといつか、「私のような無学無筆の、作文なんて書いたこともない人間が、こんな大作を一週間でものすることが出来ました」という時代が来るかも知れません。ともかく、知の寡占状態がなくなることは良いことかも知れませんが、真贋の判定が難しくなる事態でもあるでしょう。こうした状況は由紀さんにとって良きものなのでしょうか。収支は黒字でしょうか。ある技術史家は「必要は発明の母である」ではなく、「発明は必要の母である」と言ったそうですが、私はその通りだと思います。

 「自然に帰れ」などというと誤解を呼びます。しかし、進まなければ、それは戻ることだ、というわけでもありません。科学技術の進歩は有り難いことだ、素直に認めよとは、由紀さんの周辺でよく聞かれた言葉です。が、たとえ素直になれたとしても極めて怪しいことではないか、と思われてなりません。少なくとも科学・技術を素朴に肯定するそのあとに、「進歩」への信仰がこっそりついて廻ってはいないかと危惧するものです。

 以上、由紀さんと左程の意見の相違はないのかも知れません。しかし、由紀さんの記事では技術の進展に関し、但し書きもなく肯定されているので、念のために述べています。さて、そうはいっても技術の進歩に関し、簡単でない問題が隠れていることは認識しているつもりです。技術の進歩をまづ不可避にしたものは由紀さんのいう生活面ではなく、軍事面においてだと思うからです。由紀さんもイスラム原理主義者たちが武器だけは近代兵器を使っていることを言われていますが、私はここに本質的なものを見ます。「防衛的近代化」。あらゆる近代化を引っ張ってきたものは、これではないかと考えています。明治維新にしても富国強兵が国権派の意識の中核にあったものでしょう。インディアンにしたって、ライフル銃だけは手に入れなければならなかった。イスラムも北朝鮮も然り、映画『アバター』においても必要だったのは防衛における機械化だったと思います。そうしなければ、次作では敗北は必至でしょう。西欧近代の中心にあるのは武器だと私は信じます。そして、この武器を作るためにも最終的にソフト、すなわちリベラル・デモクラシーを輸入しなければならなかったように、竹山道雄が述べていたと記憶します。軍事技術の優位のために、経済的優位が、そのためには精神的近代化が必要ということです。しかし、この問題は措いておきましょう。

 ここで今回の主題に入りたいと思います。私にとっては少し難しい問題なのですが、長い間の懸案でもあり、この機会に語ってみるのもよかろうと思ったのです。それはもっとも広く用いられている言表、おそらくほとんどの良識ある人が用いていると思われる言葉、すなわち由紀さんが言われた「私はリベラル・デモクラシーを支持する」という表明です。この支持の表明に対して言いがかりをつけるというのは無謀であるかもしれませんが、敢えて言いたいと思うのです。私はこの表現は、今やもう役割を果たし終えたのではないかと考えるのです。むろん、由紀さんの支持は条件つきのものでした。そして、大方どんな支持者も条件はつけるでしょう。伝統的な左翼は「経済における自由」には待ったをかけるでしょうし、環境左翼も無制限の技術革新にストップをかけるでしょう。また最左翼に当たるだろうフェミニズムもまた、多く言論の自由に圧力をかけるのを事としています。また保守は言うまでもなく、「自由」という理念自体に大きな疑問を抱くものです。つまり、みな条件付きの自由を語っている。純粋かつ無制限の「自由」を叫ぶ者は、今では高校生か、自分で自分の言っていることが分からない者くらいかも知れません。デモクラシーという言葉に関しても、ある程度、同様のことがいえるのでしょう。

 とはいえ、限定を与えながらも、自由、民主主義を多くの人が支持しているというのも歴史的に必然的なことです。現在までに得られた自由、民主主義はそう簡単に手に入ったものではありませんでした。口先だけの権利の主張などといったものは、後世に特有なものであり、実際には多くの人の血を流して得られたものですし、また多くの人々の願望の帰趨するところのものでした。また現在においても、リベラル・デモクラシーへの信仰は言うまでもなく大きなもので、その自由と民主主義という言葉が光り輝くように見える国々もあると思います。しかし、ある程度、リベラル・デモクラシーの進行した国では、その意味内実をもう少し冷めた目で見ることができている。この自由は有り難いものであるけれど、そうは言っても、絶対的な理念として拝跪することはできないと。それはどうしてか。この力をもった言葉も、やはり理念とされると副作用が生まれてくるからです。

 本来は、「具体的な」「有限な」自由であり、民主主義であったものが、「理念化」され、抽象的な理念になる。そうして、それが奇妙な副作用を我々の生活に及ぼしていく。このことを省察するのが現在のわれわれの課題ではないかと思うのです。この機序機構を見抜くべき時ではないのかと思うのです。こうしたことは佐伯啓思氏が説いていると思いますが、私はこのことをフッサールやハイデッガーからも学んだ気がします。有限な「自由」、有限な「民主主義」というのは、アメリカや西欧などで行われている、また行われていたものです。日本にも日本なりの「自由」や「平等」がありました。それに対し、抽象的な自由や、無限の平等に近いものが日本では猖獗を極めているように思われます。もちろん、近代というもの自体が、抽象化・普遍化へ進んでいく傾向を持つとも言えるでしょうが、そうした「理念化」の純粋な形態をめざし、新たな実験国家もしくは社会たらんとしているかのように見えます。

 「理念化」について例を出しましょう。たとえばイスラームのコーランは、マホメットが生きていたころ、そしてその後継者の時代にあっては、きわめて具体的なものだったでしょう。それはコーランを読めば明らかです。その時代、その地域においては、具体的すぎるほど具体的であったと思います。神は日常生活のずいぶん細かなことにまで指示を出している。たとえば、マホメットの家庭問題といったプライベートなことにまで口を出しています。人々が対等であることに関しても、具体的に、どの地域の、どの人たちと対等・平等であるかを明示しています。しかし、それらの言葉が、後継の法律家たちによって解釈される段になってくると、無限の応用を効かせるために、場所・時間を超えたものとなってくる。食物の禁忌なども、当時はそれなりに意味のあったことが、抽象的で神秘的な戒律になってしまった。こうしたものが「理念化」です。

 アメリカにおける「リベラル・デモクラシー」はきわめて具体的なものであり、アメリカ的なものでした。その源流は英仏の共和主義的な思想にあるでしょうが、それが広大な国土を移民である開拓民によって拓かれていったという歴史的な経緯、またアメリカの地政学位置と相俟ってできあがったものだと思われます。そして、それは常にプロテスタント的なものに限定された自由と平等であったでしょう。すなわち、アメリカはアメリカ的な特殊性のもとで自らの「リベラリズム」と「デモクラティズム」を作り上げていった、醸成していった、と言えるでしょう。

 ビリントンという人が以下のように語ったそうです。「16世紀のはじめ以来、西欧の人間は新しい地域を開発し、処女資源を使用して生活した。コロンブス及び彼に続いた人びとは、ヨーロッパ人によって、南北両アメリカ、アフリカ、オーストラリア、太平洋諸島において使用されるのを待つすべての地下資源から採り出した富を明らかにした。この偉大なフロンティアの発見は、一夜にして土地対人間の比率を西欧世界で、一平方マイルにつき、26.7人から4.8人に変えた。人が肩を突き合わせて生活する時に必要であった厳重な統制は、もはや必要でなかった。すなわち、絶対君主、権威を持った教会、カースト制による社会秩序、経済活動の厳格な規制はもはや必要でなかった。今や人間は、地理的にも社会的にも、一層多く自由に移動することや自分を向上させることができた」(猿谷要『物語アメリカの歴史』)。新たに手に入った広く豊かな土地、これが近代的自由の正体、少なくとも一側面であったというわけです。

 それに対し、日本を含む後発の近代国家はそれを思想の形で受けとった。それは後のマルクス主義の摂取の仕方とまったく同形でした。日本には殊に外来のものに対する素直な畏敬の気持ちがありますから、そうした思想を純粋に受けとったと思われます。しかし、そのとき、室町・江戸と続いた伝統文化、もしくは、従来の自由の在り方、農山村に根付いていた平等意識は取るに足りないものとされ、簡単に捨て去られました。日本には自生的な自由と平等があったのに、それらが外来語のものに置き換えられていった。木に竹を接ぐようなことをして疑うことがなかった。むろん、文化など、所詮木に竹だということは措いておくにしてもです。

 どんな言論の自由も制限あってのものであるし、どんな平等も差異を認めた上のものであるはずです。欧米に出自をもつ抽象的な権利を主張してやまない人たちに対し、われわれは普遍的な空間に住んでいるのではないし、永遠に生きるわけでもない、視界のきかない未来のために犠牲になる言われもないと語りかけるべき時なのだと思います。そして歴史・文化・慣習に沿った、具体的な個々の自由・制限について議論すべきなのだと思います。しかし、そうした議論を進めるにしても普遍的な自由・平等が絶対の高みに据えられていては、「自由だ!平等だ!」と大きな声で唱える者が、優位を占める結果に終わるのは自明なことです。純粋で粗雑な思考ほど力をもつことになる。それでは議論が成り立ちません。リベラル・デモクラシーを守るためにも、リベラル・デモクラシーを相対化することが必要なのではないでしょうか。それにはどうしたらいいのか。何か出来ることがないのか。私はあると考えます。それはリベラル・デモクラシー以外の原理を立てることです。例えばそれは保守主義でしょう。共和主義でもいい。名称・在り方はいろいろと可能でしょう。近頃、中公新書から出た待鳥聡史の『代議制民主主義』を読みました。そこで書かれていることも、大きな目で見れば「直接」民主主義という理念に傾いた民主主義を、相対化する意図で書かれたものと私には読めました。

 そうした展開の仕方を「保守的」と考えない人がいるのは認識しています。福田恆存もそうだったでしょう。また保守思想をリベラル・デモクラシーの施行細則のようなものとして捉える人も多いと思われます。しかし、それら保守思想の本質について語ることはここでは差し控え、次回にまわしたいと考えます。ともかく、私は、たとえ方便としてであっても、いや、方便でしかないかも知れませんが、それを政治的な原理として取り上げる必要があるだろうと考えています。「リベラル・デモクラシー」の肯定だけではブレーキが効かないからです。

 私はかつて近代化の議論において、竹田青嗣氏に「(進んでいくにしても)進歩に待ったをかけるブレーキが必要ではないか。現在はアクセルしかない」と、生徒の立場で述べたことがあります。しかし、そのとき、それは原理にはならないと言われました。そのとき、私はどう答えていいか分かりませんでした。また、それを承けて佐伯啓思氏に「保守には原理がないのか」と訊いたことがあります。そして「ない」といった返答を受け取りました。さらに保守の思想はポスト・モダンの思想に通ずるところがあるのかと聞いて、肯定的な返答を得た覚えがあります。しかし今、保守思想が実践の思想である限り、いつまでも反定立的なものにとどまっていてはならないと考えます。

 もう「精神のアリストクラシー」などとメタフォリックな表現は用いないで、「私は必ずしもリベラル・デモクラシーを支持する者ではありません。保守主義のものの見方を可しとするものです。」というような具体的な表現の仕方があってもいいのではないかと考えます。その内実はというならば、西部邁氏が語るように、ものごとを自由・平等だけでなく、規制・格差とのバランスでもって考えていくということであり、中庸を専らにするということに外なりません。歴史的な智恵を尊重したうえでの進取です。私はこうした方策を以て、原理を以て答えるべしとした竹田青嗣氏に対する返答としたいと考えているのです。

 私は由紀さんの「リベラル・デモクラシーを支持する」といった「言挙げ」は、もうそろそろ不要であると感じました。「リベラル・デモクラシー」以外の選択肢が「事実上ない」状態での支持・選択の表明は、単に理念化を押し進めるだけだろうと思ったからです。

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文芸はいかに道徳的であるべきか その4(在すが如く)

2016年12月10日 | 文学
メインテキスツ:『鷗外選集 第四巻』(岩波書店昭和54年)

Hans Vaihinger 1852 - 1933

 漱石作品をあれこれ読み返して漫然と考えていたら、この期のもう一人の文豪、森鷗外のことが気になり出しました。先に、この人の立ち位置を瞥見しておきたい。それが後々どうなるか、わかりませんが、このブログ自体が私の公開ノートみたいなもんですから、あまり深く考えずに、ちょっと、顧みて他を言う式に愚考を述べます。

 鷗外と、ほとんどすべての文学者との違いは、国家の、公の身分として、陸軍軍医総監という顕職にまで上りつめたところだろう(そこでの仕事について、いろいろ疑念が持たれていることは以前に書いた)。また山縣有朋、明治維新の志士中最後まで生き残った元勲であり、日本陸軍の創設者と言ってよい人物のブレーントラストの一人でもあった。つまり、「体制側の人間」なのであって、その見解には「治者の視点」が繰り入れられている、と思しい。
 これは彼の評判にとってマイナス要因になっている。文学者は反体制であるべきだ、なる思い込みは、世に非常に根強いからだ。何もそう決めつけることはないと思う。私自身は体制側でも反体制でもなく、体制外の人間だが、それは体制を多少とも動かすほどの能力がないからで、能力のある人は、大いにやればよいではないですか? 判定すべきなのは、どう動かしたのか、その内容の良し悪しであろう。
 それに、鷗外に関して言えば、「体制内文学者」は世界的に類稀なのだから、モデルケースとして虚心に検討しなければもったいない。

 明治最後の年である45年に鷗外森林太郎は数えで知天命の歳になり、いろいろな意味で節目であったように、後からは見える。
 明治43年には大逆事件があり、天皇暗殺計画が、きわめて幼稚なものだが、あるにはあったことが明らかになった。【幸徳秋水らは、この「計画」自体には関係なく、こじつけの判決によって処刑されたことは今では明らかになっている。】これを一つのきっかけとして、南北朝正閨論などで、天皇制国家の正当性・正統性(legitimacy)が44年頃から大きく問題にされ出していた。
 山縣はこの事態を憂慮し、これに関する意見を鷗外に求めた、という話は事実ではないらしいが、前述のような立場の鷗外が個人的にこの問題を考慮した結果は、45年1月に発表された短編小説「かのやうに」に現れている。

 主人公は五条秀麿という、富裕な子爵家の御曹司で、学習院から文科大学(現東京大学文学部)に進み、歴史学を専攻、卒業後は父の金でドイツに留学した。【こんな特権階級がオレになんの関係があるんだ、と言いたくなる気持ちは、私にも分かる。】
 留学から帰った秀麿の様子は少し変わった、と家人には見える。昔は虚弱だった体は丈夫になったようだが、態度が。「秀麿が心からでなく、人に目潰に何か投げ附けるやうに笑声をあびせ掛ける習癖を、自分も意識せずに、いつの間にか養成してゐる」ことを、母親は本能的に嗅ぎつけている。また父の子爵は、彼が「極端な自由思想をでも持つてゐはしないかと疑つてゐるらしい」が、そういう単純なものではない。
 迷いはまずもって、大学生時分からの望みである、日本史の述作にある。「古事記」や「日本書紀」にある神話をそのまま歴史的事実として記載することができるか。近代的な学問を修めた者として、それはできない。
 「信仰」の問題として扱う手段は、ある。神話の成り立ち・教義の変遷・祭祀の機関(今の場合は神社)の歴史、に分けて記述する。例えばプロテスタンティズムには教義史と教会史があるが、それによって新教徒の信仰が毀損されるとは考えられていないのだから、日本神話でそうしても、「祖先崇拝の教義や機関も、特にそのために危害を受ける筈はな」く、安全だ。そうしようか、とは思っても、どうもそれだけではすみそうもないので、秀麿は迷っている。
 鷗外はここで、たぶん意図的に、一番厄介な問題には直接触れないようにしているのだろう。それはもちろん、天皇家に直接関連する部分である。祖先崇拝が日本の、広い意味での信仰心の中心だ、ということにはたぶん誰しも異論はない。それと天皇家が繋がっていることも。と、こう大雑把に言うのはいいけれど、具体的にはどうか、と問われると、そう簡単ではない。まして、明治期、憲法によって皇帝(Japanese Emperor)となった天皇まで視野に収めるとなると、この当時はもちろん、現在でも、政治を離れた純粋に学問上の議論とするのがそもそも困難である。
 秀麿=鷗外に倣ってそれは棚上げにするとしても、神道について上述のように論じるだけでも難しいところがある。久米邦武が「神道ハ祭天の古俗」だと論じて事実上文化大学の教授職を追われたのは明治25年のことで、鷗外は当然知っていたろう。

 因みに久米論文は、内容そのものより、押し出しが少々過激だった。明治24年専門誌『史學會雜誌』に三回に分けて掲載されたものを、より一般的な『史海』に再録した際、同誌編集者の田口卯吉(鼎軒)が序をつけて、「若し彼等【=神道熱信家】にして【この論文について】尚ほ緘黙せば、余は彼等は全く閉口したるものと見做さゞるべからず」などと挑発したのだし、論文中にも「神道を學理にて論ずれば、國體を損ずと、憐れ墓なく謂(いう)者もあり。國體も皇室も、此(か)く薄弱なる朽索(きゅうさく。腐った縄の意)にて維持したりと思ふか」などと、尖った言い方がある。
 秀麿が古神道について書けば、内容は同じようなものになったろうが、「神道熱信家」と摩擦を起こす気はなかった。いや、他はともかく、敬愛する父を悲しませるに忍びないのだ、と彼は言う。そうならないためには、祖先崇拝の儀式は古俗であって差支えなく、自分も軽んじるつもりは毛頭ないことを示さなくてはならない。
 そこで、「かのようにの哲学」(Die Philosophie des Als Ob)。新カント派の哲学者として知られるハンス・ファイヒンガーがドイツでこの題名の書を出版したのは1911年、つまり明治44年で、鷗外はすぐに新刊を入手して読んだものらしい。秀麿はこれを援用して、日本古代史を叙する際の、自己の足場を築こうとする。その大略は、友人である画家の綾小路に、以下のように説明される(カッコ内は私の付け加えです)。
 曰く、「本当の事実」とは何か。例えば裁判での判決文がそうか。それが文としてまとめ上げられている以上は、必ず判事の主観を通ったものであって、事実そのものではない(だからこそ、役に立つ、即ち、価値がある)。逆に小説は、最初から事実ではないことは明らかだが、文として価値が認められる。神話もそうで、事実が基にあるかもしれないが、それは価値とは関わらない(だから、神話は事実ではないと言っても、その価値を貶めたことにはならない)。
 また曰く。幾何学で言う純粋な点や線は、自然界には存在しない。また、物理学で言う原子も、普通の意味で存在が確認されたものではない。しかし、それらが「ある」と考えなければ、これらの学問は発展しない(すると、文明も進展しない)。自由も、霊魂不滅も、義務も(いわゆる客観物としては)存在しない。しかし、あるとしなければ、宗教も倫理も成り立たない。さらに言えば、この世のすべては相対的で、絶対的なものはない(それをある「かのように」見なさなければ、社会自体が成立しない。さらに言えば、ないものをある「かのように」みなせる能力こそ、人間の特長である)。
 またまた曰く。例えば人間がサルから進化したというのは事実問題(というより科学問題)であって、それとして究明しなければならないが、どこまでいっても価値とは無関係。自分は事実(科学)とは別次元の理想を信じる。事実ではないからと言って貶め、否定して、価値を破壊しようとするのが危険思想なのだから、自分は危険思想の持ち主ではない。
 上の一番最後のがあるおかげで、これが書かれた動機は、「私は神話を歴史的な事実とは認めませんけれど、危険思想家ではありません」という弁解か、少し好意的に見ても、「学問をしている人間をいちいち目くじらをたてて取り締まる必要はありません」と山縣有朋たち政府の要路への建議だったのではないか、とも言われてきた。それは治者の見地と言ってよく、そう思ってこの論を見ると、いかにも、何やらケチ臭く思われてくる。作者自身もそう感じていたらしく、作中で、話を聞いた綾小路が、最初「意気地が無い」と評しているくらいだ。
 しかし、そこを離れることができたら、「かのようにの哲学」は、ごく穏当な、いわば常識論を述べただけのものだ、とも見えてこないだろうか。価値は科学的客観的に存在しているというよりは、畢竟人間の主観の問題である、と言っているだけなのだから。それは客観的な事物についても、我々は、あれやには価値あり、これやには価値なし、と言い暮らしている。しかし、どんな場合でも価値付けそのものは人間がやる。それは確かだろう。
 と言って、これで問題の片がつくわけはない。鷗外もそれを知っていたからこそ、エッセイではなく小説の形でこれを書いたのだ。作中で秀麿の主張は、二度にわたって疑問に付され、それにはなんの解決もつかずに終わっている。
 一つ目はドイツ留学中に秀麿がよこした手紙を読んで、父の五条子爵が不安を感じるところ。秀麿は自由主義神学者アドルフ・ハルナックの事績を褒め、神学という学問は、教育のおかげで素朴な信仰をなくした人が、宗教の必要性を認めるためにこそ必要なのだ、と書いていた。
 五条子爵家では、明治の初期、廃仏毀釈運動が盛んな折に、それまでの菩提寺と縁を切って、葬祭の儀は神官にのみ任せてきた。キリスト教とはもとより縁がなく、今の信仰の対象は祖先の神霊しかない。が、それをもちゃんと信じているのかというと、我ながらどうも怪しい、と父は考え始める。
 「祭をする度に、祭るに在(いま)すが如くすと云ふ論語の句が頭に浮ぶ。併しそれは祖先が存在してゐられるやうに思つて、お祭をしなくてはならないと云ふ意味で、自分を顧みて見るに、実際存在してゐられると思ふのではないらしい」。といって子爵は、息子のように本を読んで、信仰心はないが宗教の必要は認める、というのでもない。自分一個に限らず、世間一般が、「自分が信ぜない事を、信じてゐるらしく行つて、虚偽だと思つて疚(やま)しがりもせず、それを子供に教へて、子供の心理状態がどうならうと云ふことさへ考へてもみないのではあるまいか」。
 普通のまじめな人にこんな恐れを起こさせるだけでも、「かのようにの哲学」は危険思想と呼ばれるべき値打ちがあるのかも知れない。父はまた、秀麿がこの種の懐疑に取り憑かれて悩んでいるのではないかと思って、心配するのである。
 第二に、秀麿から前述の説明を聞いた綾小路。「駄目だ」と、ぴしゃりとやっつける。

人に君のやうな考になれと云つたつて、誰がなるものか。百姓はシの字を書いた三角の物を額へ当てゝ、先祖の幽霊が盆にのこのこ歩いて来ると思つてゐる。道学先生は義務の発電所のやうなものが、天の上かどこかにあつて、自分の教(をす)はつた師匠がその電気を取り続(つ)いで、自分に掛けてくれて、そのお蔭で自分が生涯ぴりぴりと動いてゐるやうに思つてゐる。みんな手応(てごたへ)のあるものを向うに見てゐるから、崇拝も出来れば、遵奉も出来るのだ。

 では、綾小路自身はどうなのだ、幽霊が存在すると思っているわけでもあるまいに、と問われると、そういうことはなるべく考えないようにしている、との答え。これが危険ではない、普通の人の行きかたと言ってよいだろう。だからといって、事柄自体の危険性が消えるわけではないが。

 少し細かく考えよう。
 点や線、原子などが自然界に存在するわけではなく、人間の観念の所産であることを指摘しても、かまいはしない。人間の道徳感情には関わらず、従って個人の自尊心にも、社会の権威・権力のレジティマシーにも関わらないからだ。
 「自由」については、民主主義社会を運営するうえで重要な約束事ではある。つまり、政治上の概念なのであって、実際上それ以外には問題にならない。別に、「自由とは何か」などと哲学的に問うことはできるが、そんなことに頭を悩ませる人のほうがずっと少数だろう。
 この後から危険領域に入る。「霊魂不滅」はない、と言えば、多くの宗教を実際上否定することになり、当然信者たちの感情を害する。いや、自分はそれとは別の次元で宗教を尊重しているのだ、と言っても、それはつまり何かの、たぶん社会の便宜のために、宗教を使うというのと変わらないのだから、宗教がもたらすと期待されている「絶対」の観念は傷つけられる。そう感じるであろう素朴な人々には、秀麿としても、「目潰に何か投げ附けるやうに笑」うしか手立てはなかった。
 「義務」は、個々人にある行為を強制する度合いが強いので、しばしば厄介の種になる。「自由」と同じように、人間社会を成り立たせるためには必須の観念である(他人の自由はできるだけ尊重するべき、など)、という段階なら、特に問題はない。しかし、ひとたび集団全体としての「よりよい生き方」が求められると、「より高い義務」の観念が生まれる。それは当然、「より低い義務」の観念をも招来する。例えば、ある宗教や国家を守るためなら、個人の生活や、命まで、犠牲にするのが当然のように語られたりする。これはそのまま、前者は本当に、そんな犠牲に値するほどの価値なのか、と問われる契機になる。
 現に、宗教や国家の価値は、歴史上絶えず疑われ、時に変更されてきた。
 五条子爵家が実践した廃仏毀釈は、仏教否定に他ならない。その動機は、天皇中心の神道を改めて宗教にしようとした場合、他宗教は「邪教」としなければまずいだろうという、わりあいと西洋的な思いにある。これに対して、神道は古俗、つまり古くからある習俗であって、宗教ではないのだから、日本史上仏教や儒教ともうまく両立してやってこれた、新時代だからと言ってそれを変える必要はない、と主張したのが前記久米論文だった。それでは、日本古来の道やら天皇家を軽んじる結果になると、ある人々の目からは見えるのは、全く当然でしかない。
 事実問題からすると、仏教が日本から消えることはなかった。日本では、宗教を含めた純粋に思想上の対立が、大きな、激しい葛藤を引き起こすことはあまりない。その意味では久米邦武は正しかったようだ。
 一方、実際の統治機構である幕府は消滅して、二度と復活することはなかった。そのための手段として、武家は朝廷の委託で政務に当たるのだという古来からの形式論が、目いっぱい強調された。朝廷の権威(この場合は、価値あるものと公に認められること)が上がれば、それに反比例して幕府の権威は下がる。このシーソーゲームを最大限活用したのが山縣有朋たち、維新の志士だったのであって、彼らは自然に、権威・価値とは相対的なものであることを会得していたのではないかと思う。
 で、あればこそ、ますます、明治の統治機構の正当性も権威も相対的だ、と明らさまに言われるようなことには、神経質にならざるを得なかったであろう。
 もっとも、鷗外の長男森於菟の証言によると、「神様といふものは科学的に言へばないけれども、あるもののやうに考へなければいけない」、と鷗外が言うのを聞いて、山縣は、「こいつは何でも出来る人間だが危険な人物ではないと」気を許すようになったとのこと(安川民男「『かのやうに』を巡って」より孫引き)。事実とすれば、山縣は、今日普通に思われているよりも柔軟な人物だったのかも知れない。

 尚また考えるべきことがある。革命のような大きなモメントはなくても、権威の相対性は自然に現れてくる。典型的には、儀式や、儀式的なものの形骸化を通して。五条子爵を不安にするのはこれであって、むしろよりやっかいかも知れない。
 論語で、「祭るに在すが如くす」(八佾篇第三)と孔子が言うのは、祭るべき神霊は「実際は、この場には、いない」ことが前提になっているので、むしろ「かのようにの哲学」に近い。現に秀麿もこの言葉を、自説の補強として援用している。
 ただ、孔子が秀麿と違うのは、知的に必要性を理解する、というのではなく、儀式の実践(むしろ、実践をなぞった行為)によって、ないものを「在る」かのように意識せしめる人間の、身体ぐるみの「在り方」を問題にしているところだろう。思うに、神霊に対するこのような実践倫理を、生きる人間同士にまで拡張しようとしたのが、孔子の「礼」だったのではないだろうか。
 それは目に見える形としての礼法を要する。ところが、形は、長い間には風化を免れ得ない。儀式は簡略化され、意義は忘れられ、無意味ではないか、と意識されるようなものになる。近代に限ったことではない。孔子にしてからが、弟子の宰我に、「父母が亡くなってから三年の喪に服するというのは長すぎます。一年でいいのではありませんか」と言われ、嘆いている(陽貨篇第十七)。人の心は移ろいやすいからこそ、それを支える形が必要とされるのだが、形を支える人間の心が失われれば、すべては崩れてしまう。
 森鷗外は夏目漱石と同様、明治という日本近代化の初端を生きた人である。自分が身につけた古い時代の権威・価値観が急速に崩れていくのを目の当たりにする思いはあった。新たな、西洋風の価値観を知れば知るほど、その思いは強くなったろう。後には、同時代を、「(旧来の)禮は皆滅び盡して、これに代るものは成立してをらぬ」(「禮儀小言」大正7年)と評している。
 ここでは鷗外は、自ら認める「保守派」の例に似ず、古い形式の墨守や復活を退け、「新なる形式を求め得て、意義の根本を確保する」ことを唱えている。今の世にもその任に当たるべき人は多いのだ、と彼は言う。そうだとしても、それは正に孔子のような、思想家兼実践家の仕事であろう。言葉の専門家としての文学者には、何ができるのだろうか。

 「かのやうに」はあまりスッキリした読後感が残る小説ではない。問題を提出して、なんの解決も示唆しないのは、別にかまわないと思う。最大の欠点は、四条子爵家の父子関係がキモであるはずなのに、それがすれ違いで終わっている、いや、より正確には、すれ違うだろうという予想で終わって、いかなる意味でも正面から対峙することがなかったところにある。
 四条子爵のモデルは、従来から言われてきた山縣より、むしろ乃木希典の面影が濃いのではないか、と『鷗外選集』の「解説」で小堀桂一郎が言っている。いかにも、彼は治世の観点から近代西洋的な思想に不安を感じていたわけではない。それなら、「かのようにの哲学」に理解を示すことができたであろう。そうではなく、自分一個の拠って立つ地盤のためにと考えた場合には、この哲学は何も確かなものをもたらさない。だいたいが、確かなものなど何もない、という明らかな宣言なのである。一個人としては、真空状態に耐えろ、と言われていることになり、いやあもう……、「そんなことはあまり深く考えない」以外に、普通人には扱いようがない。
 以上は綾小路によって明確に指摘される。それがこの小説のヤマである。やっぱり、どうしても、盛り上がりには欠けますなあ。
 それもこれも、主人公の秀麿が口だけの人間に終始しているからだ。解決不能な矛盾を抱えつつ生きる人間の行動を描いたほうが、文学としての良し悪しはともかく、印象が強くなるのは確かであろう。
 
 その機会は同じ年のうちに訪れた。
 七月、明治帝が崩御され、大正と年号が変わった九月に、親交のあった乃木希典が殉死した。その「遺言条々」には「明治十年之役に於て軍旗を失ひ其後死處得度心掛候も其機を得ず」云々とある。西南の役に連隊を率いて出撃、その際連隊旗を西郷軍に奪われた。官軍の実質的な総責任者だった山縣に、厳しい処分を自ら求めたが、不問に付された。その後ずっと死処を求めて得られず、このたびの御大変に逢着して、老齢にしてもはやお役に立つべき機もなしとの思いもあって、お後を追うことにした、という。
 この事件後ただちに鷗外は、「興津弥五右衛門の遺書」を執筆し、『中央公論』に寄稿した。題材は、細川三斎(忠興)に仕えた武士の殉死の顛末で、天明・寛政期に執筆された神澤貞幹の随筆集「翁草」に見える。この武士、興津弥五右衛門は、同僚(相役)を殺害したことで、主君に自裁を申し出たが、主命を果たそうとした上でのことだからと取り上げられず、三斎の十三回忌(原作では三回忌だが、それでは計算に合わないとして、鷗外はこのようにした)に、「【今は】心に懸かり侯事毫末(ごうまつ)も無之(これなく)、只々老病にて相果候が残念に有之(これあり)」と、改めて自害した。
 いかにも、乃木の事績に似ている。「興津弥五右衛門の遺書」の初稿は、乃木の誠忠を江戸時代初期の武士のそれとオーバーラップすることで、合理・不合理とは別の出処進退の美しさを炙り出し、もって彼の弁護論としようとしたものだろう。一年後の改稿では、同じく主人公の遺書中の述懐ではあっても、より淡々と綴られており、例えば上の引用文は削除されている。
 鷗外の創意は、弥五右衛門が相役を殺すに至った経過、その折の争論に一番多く注がれており、またこの部分は改稿の際もほとんどそのまま残されている。ただし、横田清兵衛という相役の名は、改稿で初めて明らかにされた。
 ことの顛末はこうである。細川忠興が剃髪して三斎と号してから三年目、茶事に用いる珍品を買い求めるようにと、興津と横田とを長崎に出張させる。ちょうど伽羅の大木が届いていて、それは本木と末木(うらき。梢の部分)に分かれていた。興津たちと同時に、伊達政宗の家来も本木を欲しがり、競り合ったので、値段は次第にせり上がっていった。
 このとき、「本木はもうあきらめて、末木のほうを贖って帰ろう」と言う相役と争いが生じ、興津は彼を討ち果たすに至った。ここまでは「翁草」にある。以下に鷗外の手になる議論を、ただ引用するのも芸がないので、戯曲形式にして、また難しくも何ともない文語を口語訳して、掲げる。

横田 たとえ主命であっても、香木は無用の愛玩物である。法外な大金を投げ出すべきではない。つまりは本木は伊達家に譲り、末木を買い求めたい。
興津 私はそうは思いません。主君のお申し付けは、珍しい品を買い求めて来いということで、現在の渡来品の中で随一の珍品はあの伽羅です。その木に本と末(うら)があるなら、本木のほうが逸品中の逸品であるのは当然のこと、それを手に入れてこそ主命を果たすことになるでしょう。伊達家の伊達(お洒落の意味の伊達)を増長させ、本木を譲ったりしては、細川家の面目を傷つけることになりましょう。
横田 それは力の入れどころが違う。国や城の争奪戦ならば、あくまで伊達家に対抗するのもよかろう。たかが四畳半の炉にくべる木ぎれではないか。そのために大金を捨てるなど、思いもよらない。主君がご自身で競り合うなら、臣下として諫言してお止めすべきことだ。たとえ主君が強いて本木を手に入れたいと思し召されたとしても、それを遂げさせるのは、阿諛追従の行いである。
興津 それはいかにも賢人の言葉のようです。しかしながら私はただ主命というものが大切なので、主君があの城を落とせと仰せになれば、鉄壁の守りと雖も分捕り、あの首を取れとの仰せであれば、相手が鬼神であっても討ち果たすべきであるのと同じく、珍しい品を求めてこいとの仰せであれば、最上の名品を求めるつもりです。主命である以上は、人道に悖(もと)る事は別として、そうでなければ、事柄に立入って批判がましいことを言うのは無用です。
横田 あなたもその通り、道に背くことはしないと言うではないか。これが武具などならば、大金に代えるのも惜しくないだろう。香木に不相応な対価を出そうとするのは、若輩者の心得違いだ。
興津 (前略)御当家に於かれましては、代々武道を深く心掛けていらっしゃり、かつまた、歌道茶事までもご堪能であらせられるのが、天下に比類のないところではないですか。茶の道は無用な虚礼だと言えば、国家の大礼も、先祖の祭祀もすべて虚礼です。我々がこの度命じられたのは茶の道に役立つ珍品を求めることの他にはありません。それが主命であれば、命を懸けても果たすしかなく、あなたが香木に大金を出すことはつまらないと言われるのは、その道のお心得がないために、一途にそう思われるのではないですか。

 これで横田が「いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武辺者なり、諸藝に堪能なるお手前の表藝を見たし」と言って脇差を投げつけたので、刀を抜いて切り合いとなり、興津は一打ちに彼を斬り捨てたのだった。この裁きについて、三斎の言葉として、興津は正しい、なぜなら「総て功利の念を以て物を視候はば、世の中に尊き物は無くなるべし」とあるのも、鷗外の創作である。
 多言は不要であろう。功利、というか、価値の大小を過度に論えば、世の中に価値あるものなどない、という結論に至るだろうと言う。そこは「かのようにの哲学」が援用されていると見てよい。
 ただこの論理も過度に渡らぬようにすべきだろう。例えば、「主命は(ほぼ)絶対」の思いがなければ、人は何もなし得ない。そして、生きる以上、何もなさずにいることは、人にはできないことなのである。
 乃木の殉死は、鷗外にも、漱石にも衝撃を与えた。明治末でもまだ、君恩を第一として生きそして死ぬ行き方が現に存在したとは、という思い。ここから、江藤淳のように、二人の文豪が、国家への誠忠に転じた、とまで見るのは行き過ぎであると思う。そこからさらに悪ノリして、忠義を知る武士は、また大日本帝国の臣民は、かくあるべし、などと説教すれば、それは「かのようにの哲学」と同次元の、単なる理屈になってしまう。
 鷗外は、この小説では論ぜず、ただ描いた。鮮烈な生き方があり、それに感動する人の心があることこそ、人倫の基礎たるべきものだろう。
 それでも、忠義を旨とするような人の心のほうは、一般的に次第に失われるのもまた確かであった。文学は、それへの哀惜の念も含む。そこでは鷗外は漱石と共通していた。すべては移ろいゆく。その根本部分について、鷗外は漱石より深い諦観に達していた。しかし一方、古きものが急速に失われつつある明治期にあって、人はいかに倫理的な生き方が可能なのか、不器用に問い続けるような道は、賢明過ぎる彼の採るところではなかった。
 というところで、漱石に戻りましょう。
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