由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

「火の鳥」 七つの謎 その1

2016年03月15日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
【この作品を全然知らないのに拙文を読んでくださるという素晴らしい人のために、説明しておきます。「火の鳥」とは、「漫画の神様」と呼ばれた手塚治虫が、その漫画家人生のほとんどの期間――何回かの長い中断期間はありますが――こだわって書き続けた一連のマンガの総称です。普通は、虫プロ商事の雑誌『COM』昭和42年1月創刊号から連載が開始された「黎明編」から、死の前年の63年まで書き継がれた「太陽編」までの、長短合わせて12編のシリーズを指します。
 これを小説に例えると、バルザックの「人間喜劇」に近いかも。各編はそれぞれ一個の作品として独立していますが、他の編と関連付けられて大きなまとまりの一部ともなります。すべてに登場する、少なくとも話には出てくる火の鳥とは、不死鳥(フェニックス)のことで、その生き血を飲んだ人間は不死、あるいは人間離れした生命力を得る、というのが基本設定です。
 それから、お断り。手塚治虫は一度発表した作品でもしばしば後から描き直しをしたことで有名で、「火の鳥」も細かいところまで含めると、掲載誌と刊本の数だけバリエーションがありますが、ここでは虫プロ商事などから出た最初の刊本(『COM』の別冊として、雑誌扱いですが)と角川文庫版のみを使用します。】
 
 神様まではともかく、戦後日本のフィクション界で「巨匠」と呼ばれるに相応しい存在と言えば、手塚治虫しかいないのではないか、と思う。あとは黒澤明がまあまあ候補になるかも、だが、以下の点で手塚は飛び抜けている。
①戦後日本が産み出した唯一のジャンルであるストーリーマンガの、成立と発展の過程で、長く主導的な役割を果たした。
②あらゆるジャンルの作家の中で、作品総数がたぶん世界一多く、しかもほとんどが現在も読むに耐える水準に達している。
 映画の世界で言えば、D.W.グリフィスとエイゼンシュタインとウィリアム・ワイラーを一身で兼ねた人物、と言ってもホメ殺すことはできないくらいの存在ではある。
 その上で彼は、非常に奇妙なところのあった作家でもある。自らライフワークと銘打った「火の鳥」連作を通じて、しばらくそのことを考えてみたい。

Ⅰ なぜ少年マンガの絵柄と、妙なギャグにこだわったのか
 「黎明編」の主人公ナギ(←イザナギ)は少年で、丸まっちい愛らしい絵で描かれている(ただし背景は重厚)。これと、彼が辿る過酷な運命は合わないような気がするのだが、それについては白戸三平「サスケ」(昭和36~)という先蹤が一応ある。
 しかし、手塚はこの頃、困難な問題を抱えていた。劇画と呼ばれる画風が台頭し、それまでのマンガの絵を幼稚で古臭いものに見せるようになってきたこと。彼がこれに反発と脅威を感じるあまり、しまいには階段から転がり落ちるほど圧迫されたことは自伝的エッセイ「ぼくはマンガ家」(毎日新聞社昭和44年刊、後に角川文庫)に書かれている。
 おそらくそのせいもあって、彼はこの時期、まだ草創期にあった青年(あるいは成人)マンガに軸足を移した。この42年に手塚は新聞の一コマ漫画のような細い線の戯画タッチによる「人間ども集まれ!」を『漫画サンデー』に連載しているし、翌43年の『ビッグコミック』創刊号では、劇画とは一線を画するものの、鋭角的な線と陰影の濃い絵柄、何よりも、それまでになくセクシーな女性を描いた「地球を呑む」が始まっている。いくつかの試みの果てに、手塚青年マンガが確立されたのである。【このへんは手塚治虫公式ウェッブサイト『虫ん坊』中の黒沢哲哉のコラム「手塚マンガあの日あの時 第17回」に詳しい。】
 もちろん、これだけの巨匠になると、そう安直なことは言えない。彼は少年マンガの分野でも、最後まで現役であった。「ブラックジャック」や「三つ目が通る」を無視する、なんてわけにはいかない。ただ、これら後期の作品、のみならず42年当時描かれていた長編少年マンガ「バンパイヤ」や「どろろ」、それに43年からの「ノーマン」などと比較しても【しかし、よく描いたもんだなあと、あらためて舌を巻きます。】、「火の鳥」の、特に最初の三つ、「黎明編」「未来編」「ヤマト編」の人物は、まるで先祖返りしたような、可愛くて平面的な人物絵になっている。内容は、普通に考えて、子供向けとは言えないにもかかわらず。これはどういうわけか。
 まず、首が切られて転がるような描写も、「望郷篇」で、人類の二大タブーである近親相姦と人肉食を採り上げても(後者は角川版では削除)、さほどの生々しさは感じずにすむ、という効用はある。
 もっと重要なのは、「火の鳥」のルーツがずっと昔にあった事実だろう。戦前『少年倶楽部』の編集長だった加藤謙一が学童社を創設して創刊した『漫画少年』に、昭和29~30年、この雑誌の廃刊号まで連載された「火の鳥」があって、これも明確に「第一部 黎明編」と銘打たれている。登場人物も、ナギ、猿田彦、弓彦、ヒミコ、ウズメ、スサノオ、といった面々は後の『COM』版にも、少しづつ設定を変えられたうえで、再登場する。
 一番大きな変化は、火の鳥の設定で、永遠ではなく三千年と寿命が限られて、卵を、つまり子どもの火の鳥を産む。これは少女クラブ版の「火の鳥」(昭和31~32)にのみ引き継がれている。
 このときの第二部以降の構想は、火の鳥の生き血を飲んで三千年の生命を得たナギとナミの兄妹を軸として、日本の歴史を20世紀までたどるという、これはこれで壮大なものだったようだ(手塚「火の鳥と私」、COM名作コミックス『火の鳥 未来編』虫プロ商事株式会社昭和46年刊所収)。また、最初のほうに人肉食の話も出てきて、この時代の少年マンガで、と驚嘆するが、それはその後の回で掘り下げられることはなく、なんとなくスルーされてしまった。
 などなどの違いはあるのだが、『COM』版は、13年ぶりの仕切り直しであったことは確かである。そこで彼が一番描きたかったことには、これまた彼自身が開発して確立した少年マンガの枠組みこそ相応しい、と思えたのだろう。


左:「ヤマト編」より ヒロインの登場シーン         右:「乱世編」より 電話で会話する頼朝と義経

 それから、特に過去の時代を扱った諸編に多い、大して面白くないギャグ、それにデフォルメやアナクロニズム、はいったいなんのためか。
 意地悪な目は、この程度では自分の築き上げた完璧なコマ割は小動もしないという、傲慢なまでの自信の現れを看取するかも知れない。「火の鳥」以外でも、手塚の愛読者にはおなじみの、唐突に一コマだけヒョウタンツギというマスコット(か?)を描く遊びなど、他の漫画家では許されそうにないのだから。するとこれは、手塚式の落款でもあったのか。
 逆に好意的に考えると、ブレヒトが唱えた「異化効果」、つまり、読者が作品世界に過度に感情移入せず、一定の距離を保ち、批判な視座を保つための配慮であった、との見方も、まあ可能である。
 いずれにもせよ手塚は、「現実」を描こうとした作家ではない。ノイローゼになるほど劇画を嫌ったのも、一見リアリスティックな泥臭い絵柄が、自分とは対極にあることを認めたからだろう。
 劇画のタッチは、例えば、日常的な意識の底に潜む情念を抒情的に描き出したつげ義春の諸作品や、時代の制約に挑戦して苦闘する者たちをダイナミックに描いた白戸三平「カムイ伝」のような忘れ難い名作を生んだ。手塚治虫の作家性は、根本的にそれらと相容れない。
 彼は、特徴的な人物を異常な状況の中に投げ込んで悩ませつつ行動させる、オーソドックスでスリリングな絵物語の作者として終始した。「現実」も、「歴史」も、そこでは二次的な意味しかない。服装や建物・乗物などで空想画であることがすぐにわかる未来を扱ったものより、歴史物でこの遊びが多用されたのは、それをはっきりさせるためであったろう。自分の祖先とされる手塚光盛(斎藤実盛を討ったことで有名)を自画像のような顔で登場させたり、細かいところで「日本書紀」や「平家物語」を忠実に踏まえているように見えても、それらは畢竟材料に過ぎない、と。
 このことは、晩年の重厚な青年マンガ「陽だまりの樹」や「アドルフに告ぐ」でも基本的に変わらない。さすがに露骨な脱線・脱力ギャグのコマこそないものの、随所に滑稽にデフォルメされた絵が挿入され、また全体が、デフォルメが不自然なまでに浮き上がらないような軽味をもった絵柄なのである。

『陽だまりの樹 第1巻』より
 より顕著な例として、「アドルフに告ぐ」では、マルティン・ボルマンやアイヒマンといった実在のナチス高官の中に、これまた年来の手塚読者にはおなじみの悪役キャラクター、アセチレン・ランプを入れ、あまつさえヒトラーを死なせるという重要な役割を与えている。もう一人の悪役キャラ、ハム・エッグは、日本の刑事の役なので、日本名になっているのに対して、それらしいドイツ人名を与えるわけでもなく、一見して荒唐無稽なアセチレン・ランプのままで。
 ここまでやるのは、逆に、手塚が稀代のストーリーテラーであることだけでは満足しなかったからこそではないだろうか。絵物語の絵空事でしか伝えられないメッセージがある。それがたぶん彼の確信であり、それなら、それはどういうものかを気にかけながら読むのが、「火の鳥」の読解としては「正しい」のであろう。

Ⅱ 時間構成の意味するものは何か
 「火の鳥」を読んだ人は、その壮大にして独特な時間構成にまず目を奪われるだろう。かく言う私もその一人だった。だから、よく知られているのだが、まとめのために、『COM』誌発表以後の各編(マンガのみ、また中絶した後で書き直されている場合、最初のものは除く)を発表順に並べ、作中の年代を記しておく。はっきり数字が記されているものもあれば、推測するしかないものもあるが。

黎明編(卑弥呼の時代、BC240頃)→未来編(AD3404~)→ヤマト編(日本武尊の時代、4世紀前半)→宇宙編(AD2577)→鳳凰編(東大寺大仏建立前後、AD752頃)→復活編(AD2482・3344)→羽衣編(平将門の乱、AD940頃)→望郷編(宇宙編から再登場した登場人物の年齢から、23~24世紀)→乱世編(源義経の戦死まで、AD1172~1189)→生命編(AD2155~2170)→異形編(応仁の乱、AD1468~1498)→太陽編(過去パートは白村江の戦いから壬申の乱まで、AD663~672。未来パートはAD2009)

 古代から未来、未来から過去へと、振り子のように時代設定を行きつ戻りつして、次第に現在へ近づく。これは前出「火の鳥と私」で手塚自身が明らかにしている構成であり、たぶん全く独自のものである。
 他に「未来編」の中では、シリーズ全体の要となるべき生命観と、円環的時間観念が解説的に描かれている。こちらから先に考える。
 前半の人類(及びすべての生命、らしい)滅亡の部分は、登場人物も少なくて、まことにチマチマした話になっている。力点は後半部分にある。核戦争と放射能汚染による大破局の後、一人の平凡な男が生き残る。火の鳥が彼を不死にしたからだ。地球上にもう一度生命を呼びもどすために。
 その男、山野辺マサトは、まず、火の鳥に導かれて極小から極大の世界を見る。素粒子の周りを惑星のようにめぐるものがあり、そこにも「生物」が住んでいる。その「生物」の細胞の中に入り込むとまた素粒子があって……、以下これが無限に続く。次に太陽系を超えて銀河全体を一望する視座を得ると、多くの銀河がより集まって大宇宙となるのを目にする。この大宇宙は一つの細胞になる。つまり、太陽もまた素粒子の一つであり、宇宙生命という超巨大なものの一部なのである。
 原子核の周りを電子が回っているというボーアの原子模型のイメージから、恒星を中心とした惑星系が連想される。それに基づいた、SFではさほど珍しくないお話であることは後に学んだが、本作で初めて知った時(高校生だった)には、興奮したものだ。
 それはそうと、このアナロジーが正しいとするなら、一つの細胞が死んでも生体が生きている以上すぐに再生するように、地球どころか太陽系・銀河系全体が滅んだところでまた新たなものができるのだろう。宇宙生命から見たら大したことはないのだから、放っておいてもいいはずだ。
 が、ここで火の鳥は違うことを言う。言い遅れたが、火の鳥は、自分は宇宙生命の一部であり、同時に地球の分身でもある、と告げる……。よくわからないところは呑み込んで、彼女(どうも、女性らしい)の言い分を聞くと、地球は今死にかかっている。それは人間が進化の方向をまちがえて、まちがった文明を作ってしまったからだ。一度すべてを御破算にして、つまり人類を絶滅させて、最初からやり直さなくてはならなかった。 
 と、言われたマサトは、ただ一人の人間、いや、生物として、孤独に耐えながら、様々な試行錯誤の果てに、生物進化の最初の一歩にきっかけを与えるぐらいしかできることはない、と思い知る。具体的には「つまらぬ炭素と酸素と水素のまざりもの」を海に投じるのである。それがなんらかの変化を地球に生じさせるまでに何億年か経ち、マサトの肉体は朽ち果てるが、意識はずっと残存する。この新しい世界で彼は神と呼ばれるに相応しい存在になったのだ。このへんの超壮大な展開には、もう脱帽するしかない、と今も感じる。

「未来編」より
 コアセルベートが生命の起源だというのは、当時有力だった説のようで、手塚の勉強家ぶりがうかがえるが、正しいのかどうか当然私にはわからない。とりあえず作品の中では何百億年か後にそこから発生した植物が地上に生い茂り、爬虫類や哺乳類も闊歩するようになる。しかし今回の生物進化は、妙な寄り道をする。
 この段階でナメクジがやたらに強くなって、頭脳も肥大して知性を持ち、文明を築き上げる。ありゃ、このまま全くの別世界譚になるのかな、と心配になったところで、無事に(?)ナメクジ文明もまた、二つの種族間の大戦争によって崩壊する。
 短いエピソードながら、直立して歩くナメクジの姿は非常に印象的だ。これは前述のギャグとは違う。人類とは全く違う種でも、文明を持てば同じように破滅する、一番深いところでこの宿業を見つめているのである。
 さて、ナメクジ文明が跡形もなく消え去った後で、前回通り、直立猿人からホモ・サピエンスが生まれる。しかしそれは、火の鳥やマサトが望んだ新しい人間ではなく、元の通りの愚かしさを備えた者たちだった。ここへ来てさすがにマサトの役割は終わり、彼は火の鳥の内部で懐かしい者と再会し、宇宙生命と一体化する。
 「未来編」の最後には、「黎明編」の最初が描かれているので、つまりここで時間が一巡りして、もとにもどったことが示される。生命は一度滅んでも何度も復活する、というところからすると、これが相応しいようだが、注意しよう。生命の再生と時間の反復は、本来全く違う。だいたい、同じことが無限に繰り返される永劫回帰が宇宙の実相だとすると、進化の「やり直し」という火の鳥の意図は全く無意味だということになってしまう。
 事実、反復による永続性は、「火の鳥」の中では劫罰として与えられる。罪と罰の問題は次項で考えるが、ここでは一例だけ、全編を通じた最重要登場人物である鼻の大きな人物を考える。彼は「宇宙編」で猿田という名であったとき、ある罪を犯し、火の鳥からこう宣告される。「あなたの顔は永久にみにくく……子々孫々まで罪の刻印がきざまれるでしょう」「おまけにあなたの子孫は永久に宇宙をさまよいみたされない旅をつづけるでしょう」。
 とは言っても通常の年代から言うと「宇宙編」の後は「未来編」しかない。後者で登場する猿田博士は、醜いので女性に愛されず、生命の秘密を解こうとする悲願にも挫折する。それが先祖(か?)の猿田が犯したことの因果応報、と確かに読める。ところで、「宇宙編」よりは過去を扱った諸編「黎明編」「鳳凰編」-「乱世編」(-は同一人物として登場することを意味する)「異形編」「生命編」「太陽編」「復活編」(-「未来編」)にも、彼の子孫、ではなくて転生なのだろうが、やっぱり登場して、苦難、あるいは波乱に満ちた生涯をたどる。未来から過去に向かって転生するというのも、時間が閉じた円環をなしていて、順番は関係なくなるから、と考えることはできる。
 円環的時間構造が使われているな、と思えるのはここのみである。それにしても、この時間中の因果応報だと、因(原因)→果(結果)の順番もくるくる入れ替わることになって、じゃあ「応報(行為、特に罪に応じた報い)」ってなんなんだ、と思われても来るが。それはやっぱり呑み込むしかないようだ。

 より重要なのは、「太陽編」が、7世紀と21世紀がシンクロナイズする構成になっていることだ。
 壬申の乱は、霊界の戦争、即ち当時朝廷の庇護を得て日本全土に広まりつつあった仏教と、古来よりその土地にいて住民を庇護してきた産土神(うぶすながみ)の戦いが背景にあったものとして描かれる。一方、21世紀初頭の日本では、火の鳥を崇拝する宗教集団「光」が権力を握り、それに抵抗する集団「影(シャドー)」との戦いを繰り広げている。前者の主人公は、日本と連合して白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた百済の、王族の青年であり、大海人皇子の側に立って戦う。後者ではシャドーの戦士で、暗殺者である。一方が眠った時、もう一方の夢を見る、という形で物語は進む。
 転生、ということも言われてはいるが、それでは辻褄が合わない。過去世界でオオカミの皮をかぶって生きなくてはならなかった主人公が、人間の顔にもどるのと同時に、未来世界の主人公がオオカミの顔になるのだから。
 ここは多元宇宙論という、科学的には本当はどういうことかよくわからないままに、マンガでは多用された観念を使っているらしい。同じような時空が複数個、少しづつ位相を変えて同時並行的に存在するウンヌンカンヌンで、物語の破綻を糊塗するには便利この上ない道具になる。魅力的な登場人物が死んでも、「それは別の世界のできごとで、こちらの世界では……」なんて言うだけで再登場させることができる。
 だったら円環的時間も輪廻転生もあったもんじゃない、ということになるので、手塚は賢明にも、これについては何の説明も加えていない。内容的なこの構成の意味はと言うと、まず、宗教が権力を握って他宗教と争う宗教戦争は、日本ではまだしも、世界史的に最もやっかいなものの一つであった事実が思い浮かぶ。周知のように現在も、キリスト教とイスラム教の戦いはあり、いっこうに解決の目途がつかない。千年以上の時を経て反復される争いから、人間の業の深さを描き出す意図であったのか。そうだとしても、成功しているかどうかは、正直、疑問だ。
 もう一つ、作者の都合が考えられる。最初に述べたシーソーのように揺れて揺れ戻ってだんだん現在に近づく構成。これを貫くには、「異形編」の後には「生命編」の前の年代が描かれなければならない。事実「太陽編」の未来の部分は、2009年だから(今となってはもう過去になってしまったわけだが)、合っている。これの過去方向での反復(どっちがどっちを反復しているかは、前述した理由で問題にならない)という形で、「異形編」よりさらに前の時代を採り上げても、一応の恰好はつく。
 では、この構成自体の意味は何か。これがおそらく「火の鳥」最大の謎である。
 
 昭和46年、一回だけの短い「羽衣編」を『COM』10月号に出した手塚は、次の12月号に「火の鳥 休憩 INTERMISSION またはなぜ門や柿の木の記憶が宇宙エネルギーの進化と関係あるか」というエッセイマンガを載せている(手塚プロダクション監修『火の鳥公式ガイドブック 悠久の時に刻まれる生命の謎と真実』株式会社ナツメ社平成17年刊所収)。ここでは、現実には一度も見たことのない門や柿の木が、夢に、非常にリアルに現れる、という話から、よくある、過去生=生まれ変わりについて語られる。
 手塚は、霊魂不滅そのものは信じないが、もしかすると、宇宙には人間の想像もつかないエネルギーがあって、それが有機物に入り込んで生命として現象するのではないか。個体が死ぬと、いったんエネルギーは離れるが、そのものは消えず、新たな個体に吸収されるのを待つのでは、と。
 これは「子どもだましのデタラメな空想」ではあるが、「だがそれが子どもマンガだと思うんです」とも。なるほど、それで少年マンガの絵柄でなくてはならなかったのか、とそこは素直に納得される。以下、「火の鳥」の創作意図に触れた部分の、文だけ引用する。/はコマが別になるところに入れた。

ぼくは火の鳥の姿をかりて 宇宙エネルギーについて気ままな空想をえがいてみたいのです/なぜ鳥の姿をさせたかというと……ストラビンスキーの火の鳥の精がなんとなく神秘的で宇宙的だったからです/だからこの「火の鳥」の結末は ぼくが死ぬときはじめて発表しようと思っています

 何が「だから」なのかよくわからないのだが、こういうことか。手塚治虫という個体が滅しても、それを生命体にしていた宇宙エネルギーは存在し続ける、最後にそのことを明らかにするために、エネルギーが描いたものとして作品を発表する……。
 描いた作品を秘匿しておいて、死後に公開する、ということなら、インチキだが、できない話ではない。しかし、角川春樹との対談「火の鳥と現在(いま)」では次のようにも言っているのだ。

 いや、僕は【死ぬ瞬間に】描いてみせますよ(笑)。一コマでもいいんですよね。それがひとつの話になっていればいいんですから。「火の鳥」の終末になっていればいい。それは僕にとっての初めての体験でもあるんですよ。「あ、これで僕は死ぬんだ」とは思わないかもしれませんよ。どこかの星に行くのかもしれない。(『ニュータイプ100%コレクション 火の鳥』角川書店昭和61年刊所収))

 最後のひとコマ、それは「陽だまりの樹」の最後に、主人公の一人手塚良庵が自分の祖先であることを明かしたことを思わせる。同じように、火の鳥の窮極の正体も明かされるひとコマ。それを描くのはもはや手塚治虫という人間ではなく、宇宙エネルギーそのもの。すごい空想、というより妄想である。無論悪口ではない。この妄想力こそ手塚を比類ない創作家にした原動力に違いないのだから。
 さらにもっと深い問題がある。過去も未来もすべて、生死の境にいる自分=作者の「現在」に収斂していく構造とは、最後に過去と未来のいっさいを含む「現在」を提示するということに他ならない。時間が直線的であれ円環的であれ、この「現在」こそ、永遠であろう。
 作者が自分の死期を悟る前に急逝しなかったとしても、このような物語は未完になることが宿命づけられていたような気がする。私のような凡人では、どこか別の星に生まれ変わった手塚がどう完成させることができたのか、妄想することも難しい。
コメント (4)
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