由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その18(昭和天皇の戦争指導)

2022年01月30日 | 近現代史
天長節観兵式 昭和16年4月21日

メインテキスト:山田朗『昭和天皇の戦争 「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(岩波書店平成29年)

 当ブログで記述したように、いわゆる神風特攻隊は昭和19年10月、レイテ沖海戦時に行われたのが最初である。同月26日、昭和天皇は海軍軍令部総長及川古志郎からこの件に関して奏上を受けた。その時の御言葉は、「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」だったと伝えられている。この出所はわからない(『昭和天皇実録』には御発言の記載なし)が、直ちに前線各地の日本軍に伝聞で伝えられた。
 フィリピンのセブ島で第一次神風特攻隊に属する「大和隊」を指揮する中島正中佐が総員にこの御言葉を読み上げた後、たまたま作戦指導に来ていた第一航空艦隊参謀猪口力平大佐(神風特別攻撃隊の命名者)がポツリと呟いたのを聞いている。

「この陛下の御言葉を伝えた軍令部総長の電報は、マニラの司令部で大西(瀧治郎)長官も拝読された。オレはそばにいた。長官は全くおそれいっておられたようだ。それは指導官として、作戦指導に対し、陛下から、激しいおしかりをうけたも同然の伝聞だからだ」(読売新聞社編『昭和史の天皇1 空襲と特攻隊』中公文庫平成23年)

 一方昭和41年に発表された三島由起夫「英霊の声」では、「飛行長」にこう言わせている。

『この御言葉を拝して、拝察するのは、畏れながら、我々はまだまだ宸襟をなやまし奉つてゐるといふことである。我々はここに益々奮励して、大御心を安んじ奉らねばならぬ』

 これらを見て、改めて、天皇とは奇妙な立場なのだな、と思われてくる。どこの国の君主でもこんなものなのだろうか。
 大日本帝国憲法の規定上、天皇は帝国陸海軍の最高位・大元帥である。それでも、軍事上の作戦個々の立案・実行にいちいち関わったわけではない。飛行機による体当たり攻撃という史上例のない「作戦」もそうで、実行後に報告を聞いた。そして驚き呆れながら、「しかしよくやった」と、犒(ねぎらい)の言葉を出す。もう死んでしまった、だけではなく、計画の達成に必定の死が組み込まれていた者たちに。
 そうするしかない。皆、天皇の名の下に、死んだのだ。実際には自分が決定に与らなかった死であったとしても。だからまるで他人事のように聞こえたとしても。
 この孤独。まず他の立場では味わえないものだ。そんな感情に天皇を追い込んだのは自分たちだ、と作戦の実行者たちは思わずにはいられなかった。それでも、始めてしまった以上、やめることはできなかったのだが。

 昭和天皇と戦争との関わりということになると、何より、日米開戦の決定に至る過程を考えねばならない。それは次回以降の課題とする。今回は天皇の具体的な「作戦指導」と呼ばれるに相応しいものをいくつかを拾い出しておこう。そのために表記の山田朗(以下「著者」)の著作は最適だと思えた。
 一応断っておこう。著者のイデオロギー的な立場は知っている人も多いだろうし、私のとはほぼ正反対に思える、という人も少しはいるだろう。実際私も多少の先入観を持って読んだのだが、それはいい意味で裏切られた。これまでの傾向の延長で、天皇の「戦争責任」を直接追求していると思しき部分は少ないし、サブタイトルとは裏腹に、「昭和天皇実録」の批判的な検討をしている部分も、さほど多くはない。大部分は、戦前戦中の昭和天皇の言動を淡々と記述している。
 決して昭和天皇をほめてはいないが、貶すために書いた本とも思えない。私自身に限って言えば、これまでは昭和天皇個人の人柄には特に興味はなかった。好きでも嫌いでもなかったのだが、本書を読んで、その立場に少し同情(か?)がわいた。上に書いたのはその「同情」の中身である。
 奇妙な立場、についてもう少し具体的に述べる。本シリーズその二「至尊は無為にあり」に書いたように、昭和天皇の御諚、即ち明確な意志によって政治的な重大決定がなされたのは、全部で二例知られている。二・二六事件を叛乱としたこと、ポツダム宣言を受諾して大東亜戦争を終わらせたことである。
 それ以外に、政府や軍部の上層部が天皇に情勢を報告し、天皇からの質問(ご下問)に対して答えることがあり、それは「上奏」もしくは「奏上」と呼ばれた。他により自由な形式の「内奏」もあり、天皇が主権者ではなくなった戦後はこの言葉が使われるが、中身はほぼ同じである。原則非公開。このうち、軍事に関するものが「帷幄上奏」。より公的な場としては、陸海軍を統合した大本営会議や、そこに政府(文官)を加えた大本営政府連絡会議には天皇は臨席するので、そこで「ご下問」する機会はあった。
 つまり、天皇は、希望や感想を述べることはあっても、それは例外であって、質問をする者なのだ。それでも、例えば「それで大丈夫か」というような形なら、御意志が現れているのは明白である。
 昭和天皇のご下問は、特に戦争に関しては、非常に厳しい時があり、陸軍ではそのために想定問答集まで作って対策を練ることがあった。
 それにしても、その時に現れた天皇の御意志はあくまで「個人的」なものである。誰もそれを無視するわけにはいかないが、正式な国家の意思、とは言えない。聴いた方がお気持ちを「忖度して」何かをしても、大御心を体して、ということになるのか、それとも、そうではないのか。微妙、というより、決して闡明されることはない。これは、絶対者を一人の個人とする制度の特質なのであろうか。

 大東亜戦争中、天皇が個々の作戦に容喙した例は、さほど記録に残ってないが、かなり適切なものが多いことに驚かされる。ずいぶん勉強はしたにしても、もちろん軍事の専門家ではないにもかかわらず。理由はすぐにわかる。実際に戦争をしている軍人たちのような、組織内人間関係上のしがらみやら、面子などには関係なく、いわゆる大所高所から戦局を見ることができたからだ。
 以下、いくつかの局面ごとに特徴的に見えるところを例示する。

(1)フィリピン・バターン半島の攻略戦。昭和16年12月より。
 大東亜戦争の緒戦時には、日本は快進撃を続けた。大日本帝国陸軍の南方軍は、17年1月2日のマニラ占領をもってフィリピン戦線は残敵掃討の最終段階に入ったとみなし、攻略に当っていた本間雅晴中将司令官の第十四軍から、多くの戦力、特に航空部隊を引き抜き、蘭領東インド(インドネシア)とビルマ戦線に転用することを決定した。
 こうして弱体化した第十四軍による、米比軍の立て籠もるバターン要塞攻略戦は困難を極めた。1月13日の大本営会議で陸軍部参謀・竹田宮恒徳王から報告を聞いた天皇は、杉山元参謀総長に対して「バタアン攻撃の兵力ハ過小デハナイカ」と下問した。
 しかしここで兵力増派を決めたら、それは即ち陸軍首脳部の判断ミスを認めることになる。代わりに現地軍をひたすら叱咤激励して、力攻めさせた結果、こちらの被害はいたずらに拡大した。
 1月21日、天皇は再び「バタアン半島ノ攻略ノタメ現兵力デ十分ナノカ、兵力増加ヲ必要トシナイカ」と下問した。参謀総長は具体的に応えることはできず、ただ、天皇の「御軫念(憂慮)」だけを南方軍や第十四軍に打電した。冒頭の特攻隊に対する「御褒賞の御言葉」もそうだが、天皇の考えは、この後も、叱咤激励の言葉に変えられて、物理的な兵力の代わりによく使われた。これによって現地の司令官クラスは奮起したこともあったろうが、現実の戦局まで動くとは限らない。
 フィリピンを攻めあぐねた日本軍内部では、戦闘を継続するか、それともこの地域を封鎖して食糧不足による立ち枯れを待つかで議論が分かれたが、後者の意見が天皇の上聞に達することはなかった。天皇は、「日本恐るるに足らず」の輿論がアメリカで醸成される一助になることを恐れ、攻略を急がせたが、それはなくても、支那大陸で広範な戦線を展開中で、ソ連の侵攻にも備えなくてはならない日本軍には、長期の持久戦を維持することは困難だったろう。
 3月24日以降、中支や香港からの増援部隊を加えた日本軍は連日要塞に爆撃を加え、4月9日、ついにバターン半島攻略は成った。この時の捕虜は米比合わせて七万人超、これは日本の予想をはるかに上回るもので、他の不手際と相俟って、日本の大東亜戦中三大戦争犯罪の一つとして名高い「バターン死の行進」(疲弊した捕虜を、炎天下100キロ以上、捕虜収容所まで歩かせ、多くの死病者を出した)を惹き起こした。

(2)ガダルカナル(ガ島)攻防戦。昭和17年8月より。
 この戦いはミッドウェー海戦(同年6月5~7日)に次いで、日米戦争の帰趨を決めたものとしてよく知られ、日本軍の作戦ミスが目立つ。それに対して昭和天皇は、かなり踏み込んだ注意を与えている。
 ざっくり言うと、日本軍はガ島を初めとするソロモン諸島攻略に関する米軍の意欲と能力をかなり後まで甘くみていたところがあり、天皇を歯がゆがらせたのである
 8月7日に米軍を主力とした連合軍がガ島に上陸したのに対して、日本はグアムにいた一木支隊を応戦させた。しかし敵情報も装備も不足していて、同月21日には壊滅状態に陥った。24日に杉山から戦況奏上を受けた天皇は「一木支隊はガ島に拠点を確保できるか、(中略)ひどい作戦になったではないか」と下問している。
 9月7日、増援の川口部隊が上陸したが、ガ島の米軍を撃破することはできず、逆に次第に追い詰められていった。さらに困難は敵軍以外にもあった。輸送手段に乏しいこの島では食糧不足が深刻化し、ガ島は「飢島」だ、と呼ばれるまでになった。
 この事例に典型的に見られる日本軍の弱点はよく指摘される。物量の点で米に及ばないのは当初からわかりきっている。その上で、戦局全体を見通した構想力に乏しく、場当たり的に、小出しに兵力を投入する傾向が強い。結果、各個撃破されやすくなり、また戦闘が終わった後のことまで十分に考えていないので、敗北時にはより悲惨な状況を招来し勝ちになる。
 その後、次のようなこともあった。海軍は10月13~15日、高速戦艦二隻によるガ島の艦砲射撃を行ったが、11月にもう一度同じ事をやる計画を立てた。11月10日頃永野修身軍令部総長からこれに関する上奏を受けた天皇は、「日露戦争に於ても旅順の攻撃に際し初瀬八島の例あり、注意を要す」と、これはご下問ではなく、明白な警告を行った。
 初瀬八島の例とは、旅順港閉塞戦の時、二隻の戦艦が触雷沈没したことを指す。戦艦が陸上を反復攻撃する場合、同じ航路をとりがちになるので、機雷を仕掛けられたり、待ち伏せされやすくなる、そこを注意したのである。
 軍令部はこの御言葉を電報で伝えず、ちょうど上京していた一人の参謀に伝言を頼んだ。この参謀が連合艦隊司令部に報告したのは11月12日、既に作戦は発動されていた。正にこの12日、比叡・霧島の二艦はガ島砲撃に向い、米軍のレーダーに捕捉されて待ち伏せに遭い、比叡は撃沈された。
 これで終わりではなかった。大日本帝国海軍は、この失敗に懲りて方針を転換するのではなく、半ば意地づくで従来の路線に固執した、と見える。14日にまた同じことをして、霧島も失ってしまった。
 この「第三次ソロモン海戦」は、日本軍のもう一面の弱点である硬直ぶりを示している。近代科学兵器であるレーダーを取り入れず、従ってその威力をよく知らなかったことが最大の敗因である。なまじ伝統的な高い目視能力を誇っていたことが裏目に出た。その上、かつての失敗から謙虚に学ぶ柔軟性を欠いており、それは軍人ではない天皇のほうが上だったのである。

(3)沖縄戦。昭和20年3月より。
 大東亜戦争の最終局面で、もう勝利の見込みはなくなっていた。ただ、前年10月12~16日の、台湾沖を航行中の米機動部隊に対する日本の航空攻撃は、空母・戦艦を十隻以上沈める大戦果が挙った、と報告された。しかし、米側報告書ではこの時多少の被害はあったが、沈没など一例もなかった。後者のほうが正しいことは、このすぐ後に特攻攻撃が始まり、多くの日本機が米艦に体当たりせねばならなかったことでも明らかだ。
 これはいわゆる「大本営発表」によるサバ読みではなく、飛行機からの「目視」による錯誤がもとだったが、大本営はろくに調査もせず新聞発表し、天皇にも奏上している。天皇は大いに慶び、21日に「朕ガ陸海軍部隊ハ緊密ナル共同ノ下敵艦隊ヲ邀撃シ奮戦大イニ之ヲ撃破セリ/朕深ク之ヲ嘉尚ス」という勅語を出した。
 もしも最初の報告の通りだったとしたら、日本本土に迫る米軍を撃退することも可能だったろう。それはまちがいであることはすぐにわかったはずだが、夢は残った。もはや敗北は必至であるとしても、せめて一矢報いて、つまり部分的にでも戦果を挙げてから、できるだけ有利な休戦協定に持ち込むという「一撃講和論」がこの少し前から浮上しており、天皇もこの方針に賛成だった。
 米軍に対しては、沖縄戦がそのための最後の機会だった。特攻は、もはや非常の手段ではなく、作戦の中心になった。そのような中で、「航空部隊だけの総攻撃か」というご下問があり、戦艦大和中心の、いわゆる海上特攻に繋がった、という。
 ただ、これに関しては、天皇の片言が利用された可能性が高い、と著者は言う。海上特攻隊の出撃は連合艦隊の一部の参謀たちが進言したものだが、その一人神重徳大佐は、「総長が米軍攻略部隊に対して航空総攻撃を行う件について奏上した際、陛下から航空部隊だけの総攻撃かとの御下問があったことであるし」と連合艦隊首脳部を説得した。しかし、当の軍令部総長及川古志郎や天皇本人に即した記録はない。また、4月30日、天皇が米内光政海相に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と下問している記録はあり、仮に天皇が「航空部隊だけ~」のようなことを事実言ったとしても、それは直ちに大和以下の総攻撃を示唆したものとは思われない。
 つまり、天皇のお言葉は、ある立場の人間の都合がいいように使われる場合もあったということだ。これは上意下達の際、今でも、比較的小さな組織でも起こりがちなことである。トップが、権威を疑うことすら公的には許されない絶対者である場合には、この危険は増す。それだけでも、このような存在は、特に戦争のような非常時には、なるべく何も言わないほうがいいということになろう。

 これらを踏まえて、以前に触れた昭和天皇の戦争責任を再考する。
 著者が言うように、昭和天皇は、戦争に反対だったのに、軍部に押し切られてやむを得ず認めた、とは言えない。そんなロボットではない。ただ、少なくとも対英米戦には、乗り気ではなかったことは明らかだ。それでも、一度始まったからには、自国の勝利を願う。それはごく自然な感情であり、また、自軍がもたついているように見えれば、つい叱咤したくもなるだろう。軍から見ると、小うるさい小姑じみた存在だというのが正直なところだったのではないかと思う。とても適確な、よい指摘をすることもあるが、それだけに。
 そんな存在でも、大日本帝国憲法上の主権者であり、帝国陸海軍の大元帥なのだから、形式上の責任があるということなら、その憲法で、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」と、無答責の存在であることが規定されている。国内法上の問題はそれで終わり。
 それ以外は? 昭和50年10月31日、米国訪問からの帰国後の、生まれて初めての記者会見で尋ねられ、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」と応えた時には、多くの憤激を呼んだ。天皇の名の下に戦って死んだ者たち(もちろん国内での空襲の被害者なども含めて)に対して、あんまりだ、というわけだ。
 国家を挙げての戦争における国民の生と死の意味に対して、責任はあるはずだ、と言われるのは、一応もっともなようであるが、この「責任」は、君主以外、つまりこの場合は昭和天皇以外は実感できない性格のものではないか。それを他の立場の人々に伝える言葉も、まず見つからない。私は、昭和天皇のとぼけたような言葉の真意はそういうことで、それを外から裁こうとしても、「意趣晴らし」にしかならないから、やめたほうがいいと感じるのだが、如何?
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