由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

レ・ミゼラブル雑感

2021年09月29日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)


 以下の雑文は平成25年(2013)美津島明さんのブログ「直言の宴」に掲載してもらったもので、もう8年経ってしまったわけです。最近FB内のグループで「レ・ミゼラブル」について語る機会があり、おかげで久しぶりに、このミュージカルに浸った、という完全に個人的な事情で、思い出しましたので、最低限の訂正を加えて、採録します。

 昭和62年(1987)3月、ブロードウェイで、「レ・ミゼラブル」のニューヨーク初演を見た(2年前のロンドン初演時とほぼ同じキャスト)。その瞬間、これが最高のミュージカルだ、と私の中では決まってしまった。その後、日本では帝国劇場で一度見た。「そんなもんか」と、世界中に数多いと言われる「レ・ミズ(レ・ミゼ、だっけ?)ファン」には鼻で笑われそうだが、正に「そんなもん」ですので、まあ相手にしないでおいてください。暇があるからとか何かの理由で、相手にしてやるよ、という方々に向けて申し述べます。

 「そんなもん」が漠然と感じたことを生意気に解説風に述べる。一口にミュージカルと言っても多種多様だが、「レ・ミゼラブル」はグランドオペラに近い。朗々と歌い上げられるナンバーが第一にそうだが、パフォーマンスが完全に歌中心なのだ。ストーリーはもちろんあるけれど、それは各ナンバーの背景、及びナンバー間をつなぐ役目を果たしている。
 このナンバーが凄い。作曲はクロード・ミシェル・シェーンベルク、十二音技法で有名なアルノルト・シェーンベルクは大叔父に当たるそうで。はあ、通常のメロディの超克を目指した人の血縁が、ごく普通の意味できれいなメロディをこんなにたくさん作ったわけか、なんて感心してしまう。それだけに、どっかで聞いたような曲ばかりじゃないか、って声もあるが、そんなら簡単にできると言うなら、やってみればいいだけの話。
 要するに、すべてのナンバーに心を揺さぶられた。そんな体験は私の、映画を含めたミュージカル観劇史上初めてであった。歌、歌、歌、同じ旋律が何度か繰り返して出てくるが、その構成も含めて、200パーセントの満足、というのは。
 何よりの証拠には、1995年10月8日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれた10周年記念コンサートがある。コンサート形式なので、舞台中央にはオーケストラが占め、演者はその前の椅子に座って、出番が来ると最前列のマイクの前まで歩いて行って歌う(ただし扮装はしているし、ホール天井から吊り下げられたスクリーンに、バリケードが組まれる場など芝居の一部は映るから、劇の視覚部分が完全に無視されたわけではない)。
 これで充分感動できる。と言うか、ここで歌っているのは、キャメロン・マッキントッシュ(フランスで上演された「レ・ミゼラブル」を拡充した英語版を作らせ、ロンドン・シェークスピア・カンパニーで上演し、このミュージカルを世界的なものにした大物プロデューサー)が厳選したドリーム・キャストなので、過去10年間の上演すべての集大成となっている。その後同じ趣旨・形式のコンサートは現在までいろんな国で開催されているようだ。

【10周年記念コンサートは、DVD化されたものが、すべてyou tubeで見ることができます。最後のアトラクションで、世界各国のジャン・ヴァルジャン役者17人が、リレー式でフィナーレのナンバー’Do you hear the people sing? (people’s song)’を歌い、また第1幕最後の’One day more’を合唱、日本からは鹿賀丈史が参加した、それをも含めて。いいのかなあ、と思いながらも、私はよく視聴しては涙を流しています。(上の画像をクリックしてください)

 特に、ルーシー・ヘンシャルの歌う’I dreamed a dream’は、時々声がかすれるところも含めて絶品。そう、十数年前スーザン・ボイルというおばさんを一躍有名にしたあの曲だ。
【日本初演時には岩崎宏美がファンティーヌを演じて、歌っているが、これはヘンシャルやボイルに劣らない歌唱力と表現力だと思う。岩崎はこの歌を紅白歌合戦で披露したこともあるので、かなりよく知られているだろうが、よかったらまた聞いてみてください(日本語題名は「夢やぶれて」になっているが、これはやっぱり「夢を夢見た」じゃないですか、岩谷時子さん?)。】


第38回紅白歌合戦(昭和62年)より。Piano:羽田健太郎

 次に、日本では平成24年末に封切られたトム・フーバー監督の映画化作品についてについて。
 安倍首相(当時)も就任直後のお正月早々に夫人といっしょに見たそうだが、疲れたんじゃないかなあ。なにしろ、スピード感は舞台以上だ。ミュージカルをほぼ忠実に踏まえた構成だから、もちろん全編ほとんどが歌。同じような例だと、ジャック・ドゥミ監督の名画「シェルブールの雨傘」が思い浮かぶが、こちらは画面に登場している俳優は口パクしているだけで、歌は別人によるアフレコ。他のミュージカル映画でも、俳優と歌い手は同一人物であっても、歌はアフレコが普通であるらしい。
 これに対してフーバー版「レ・ミゼラブル」は、俳優にその場で、演技しながら歌わせるのをウリにしていた。おかげで、いかにも、臨場感はあり、そのうえ人物のバストアップの映像が多く、観客は思い入れたっぷりの表情と歌とを、切れ目なしに見聞きしなければならない。舞台ではほとんど同じ上演時間でも、そんなに目まぐるしさは感じないのは、役者の生身の肉体がそこにあるおかげで、人間的・日常的な時間を感じ取れるからなのか。
 ファンティーヌのアン・ハサウェイは、これによってアカデミー助演女優賞を得たそうだが、’I dreamed …’をあんなふうに、泣き叫ぶように歌わなくてもいいのではないか、というのが率直な感想である。これも、舞台の、オペラやミュージカルは完結したフォルムとしての歌が大事、映画はよりリアルに近い感じを与えるもの、というジャンルの違いによるのかも知れない。
 しかし映画独自の優れた効果もある。あのバリケード。ルイ・フィリップ王の政府に対して叛乱を起こした学生たちが、狭い街路に椅子やテーブルや敷石を積み上げてバリケードを組む。日本でも1960年代に、いろんな大学で見られたアレだ。

【註もどきに。19世紀のフランスというと、革命や動乱がしょっちゅう起き、政体が目まぐるしく変わったことはよく知られているが、その中で、「レ・ミゼラブル」で最大の山場となる1832年6月5日のは、一晩で鎮圧された、比較的小さなものである。とはいえ、数百人の死者は出している。
 フランス史で「6月暴動」というと、普通、1848年、ルイ・フィリップが2月革命で失脚して共和制になった後、ナポレオン三世ことルイ・ボナパルトが大統領になる直前に起きて、3日間続いたものを指す。カール・マルクスも「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」で取り上げている。こちらも32年のも事前に充分に計画されてはおらず、自然発火的な蜂起であったところは共通するが、前のは王制打倒を目指し、後はその王制を打倒した共和制への反発が動機という違いがあり、ヴィクトル・ユゴーはマルクス同様、後者には批判的だった。】

 映画では市民たちがバリケードの材料となる家具を放り投げて、叛徒となった学生たちを応援する光景が描かれる。これも舞台にはない情景だが、問題はその先だ。
 学生たちは自分たちに呼応して市民が立ち上がると期待している。が、一夜明けても誰も救援には来ず、彼らの孤立がはっきりする。やがて政府軍の総攻撃。バリケードは破壊され、逃げまどう学生の一人が民家に避難所を求めて、「入れてくれ!」と叫ぶその目の前で、今度は関わり合いを怖れるようになった市民の女房が、窓をピシャリと閉ざす。ほんの短いシーンながら、歴史そのものの非情さを象徴したものとして、心に残る。

 このように、映画は「レ・ミゼラブル」の世界に新たな要素を付け加えた。ただ、ミュージカルからの最も大きな変更点は別にある。エポニーヌの扱いだ。
 ミュージカルでは、前半のヒロインがファンティーヌならば、後半はエポニーヌ。明らかにそう構成されている。第一幕開幕近くに歌われる’I dreamed …’と、第二幕開幕近くの’On my own’とは、このミュージカルの二大アリアと称すべきものである。後者をソロで歌い上げたエポニーヌは、次に登場した時には、パリの動乱で傷を負い、バリケード内部にいる叛乱学生の一人で、彼女が片思いしているマリユスの腕に抱かれつつ、息を引き取る。この時のデュエット曲’A little fall of rain’も泣けますよ。
 で、終幕、ファンティーヌとエポニーヌの霊が、ジャン・ヴァルジャンを天国へと迎えに来るのだ。それが映画では、迎えに来るのはファンティーヌだけ。エポニーヌは他の、バリケードでの死者たちといっしょに教会の屋根の上で’People’s song’を歌っている。彼女はファンティーヌと違って、生前ヴァルジャンとはほとんど関わりはなかったのだから、これが自然というか、リアルというか(死人が歌っているのにリアルはないか…)、ではあるけれど。

 それ以前に、フーバー監督は、エポニーヌに関するミュージカルの筋を、原作に沿う形で変更している。それはどういうものか。改めてユゴーの小説から詳しく見ておこう。
 いくら二義的な意味しかないと言っても、ミュージカルの、特に第一幕のストーリー展開は早すぎて、まるでダイジェストを見ているようだ、という声もよくある。それでもなんとか話についていけるのは、キャラクターの輪郭がはっきりとした、強い個性の持ち主ばかり登場してくるからで、これを悪く言えば類型的、となる。
 もちろん原作が、そうできているのだ。典型的な人物のための典型的な筋の小説ではある。ただし、その筋が単一ではなく、人物もエピソードもやたらに多様。古今東西の娯楽小説とかメロドラマと呼ばれるもののパターンは、すべて出そろっているんじゃないかとさえ思えるほどに。元囚人(途中から脱獄囚になる)ジャン・ヴァルジャンの偉大な贖罪の生涯を中心に、追う者と追われる者のサスペンスあり、人間離れしたタフなヒーローの冒険譚あり、悲運に泣く女がいて、理想に燃える青年の挫折があって、甘い恋物語があって、バイタリティーあふれるストリート・チルドレンがいる。いかにも、みんなどこかで読んだか見たりした話ばかりのようだが、そんなら簡単に作れると言うなら、やってみればいいだけの話。

 それから、シンデレラ物語も仕込まれている。本作中のシンデレラの名はコゼットという。ファンティーヌの娘。私生児なので、安宿を営むテナルディエ夫婦の元へ里子に出された。このテナルディエというのが、「レ・ミゼラブル」の裏の主人公とも言えそうな悪役で、最初から最後まで出てきて、狂言回しとしても重要な役割を果たす。ただ、小悪党なので、ミュージカルでは女房ともどもお笑い部門を一手に引き受けている感じにもなっている。その五人いる子どもの長女がエポニーヌ。テナルディエ夫妻は、ファンティーヌには法外な養育費を請求して苦しめながら、幼いコゼットを女中代わりにこき使う。その一方で、自分の二人の娘は猫かわいがりして、できるだけ贅沢をさせた。
 しかし八年経つと、娘たちの立場は逆転する。ファンティーヌの死後、彼女の悲惨な生死に間接的な責任があると感じたジャン・ヴァルジャンがコゼットを引き取り、我が子として慈しみ育てる。テナルディエのほうは、悪行の報いで故郷を追われ、パリの犯罪者の群れに加わり、エポニーヌもその片棒をかつがされる。二人の娘は同じ青年、マリユスに恋するが、彼の愛を得るのはコゼットのほうである。
 というか、マリユスのほうがコゼットを見初めるのだが、そこはこんなふうに描かれている。マリユスは、裕福な祖父に育てられたが、父親のことや政治上の思想信条の違いから対立が生じ、家を飛び出して自活するようになった青年である(原作者ヴィクトル・ユゴー自身がモデルとされる)。時々気晴らしにリュクサンブール公園を散歩して、六十歳ぐらいの老人と十三、四の不器量な娘がベンチに座って仲良く話をしているのをよく見かけた。最初は気にもとめなかったのだが、あるとき気がつけば、娘はたいへんな美女になっていた。それから彼はできるだけ身なりに気をつけ、毎日のように公園へ出かけるようになった。
 シンデレラの名の原義は「灰をかぶった娘」。後で灰を拭い落として美しく変身しなければならない。それもちゃんと書き込まれているのだ。
 エポニーヌのほうが先にマリユスに恋するのだが、みすぼらしい身なりの彼女は、マリユスからいっこうに気にかけてもらえない。ところが彼女は、イジワルな義理の姉のままでは終わらず、このへんから大活躍を始める。まるで、「男と美貌はあんたにあげるわ。でも、物語はあたしのものよ」とでも言っているかのようだ。あるいは、おとぎ話の端役が突然自己主張を初めて、文学へと突入していったような感じになる。
 以下に、順を追って原作でエポニーヌがやったことを列挙する。そのうち舞台に取り上げられたものはSで、映画にあることはFで、それぞれ最後に示す。

(1)マリユスに頼まれて、ジャン・ヴァルジャンの、つまりはコゼットの住居を教える。礼として金を差し出すマリユスに、「お金がほしかったんじゃないわ」と言う。(S・F双方にあり)
(2)テナルディエの一味がジャン・ヴァルジャン宅を襲撃しそうになると、体を張って阻止する。(S・F双方にあり)
(3)ジャン・ヴァルジャンは(2)の騒ぎから、追っ手が迫っているのかと疑う。その彼に「引っ越しな」とだけ書いたメモを渡す。これでヴァルジャンは、コゼットといっしょにロンドンへ渡る決心をする。(双方になし)
(4)コゼットがマリユスに書いた別れの手紙を手に入れる。が、最後の時までマリユスには見せずにおく。(Fのみ)
(5)コゼットとの恋に生きるか、バリケードで同志とともに戦うか迷うマリユスに、男の声を装い、「友だちが待ってるよ」と物陰から呼びかけて、彼をバリケードへ誘う。(双方になし)
(6)バリケードでは、マリユスを狙った銃の前に飛び出して、自分が撃たれる。(Fのみ)

 こうしてみると、報われることのない愛に身を捧げる女性像としてのエポニーヌは、Fのほうが細かく描き込まれているようだ。とは言え、小説「レ・ミゼラブル」の読者に、エポニーヌをコゼット以上に忘れがたくしている要素、つまり彼女の複雑な心理を最もよく示す(3)と(5)のエピソードは、やっぱり省かれている。エポニーヌは、マリユスとコゼットを引き合わせながら引き離そうとし、マリユスを死地に導きながら彼の身代わりになって死ぬ。悪女と聖女を一身に兼ね備えたような、その後の小説や映画中でもおいそれとはお目にかかれないキャラクターだろう。
 舞台や映画で描くのが不可能というわけではない。ただ、うまくやればやるほど、類型的どころではなくなるので、「レ・ミゼラブル」の登場人物の一人としては浮いてしまう感じになるのではないか。もっとも、他の映画化・ドラマ化された作品ではどうなっているか、あまり見ていないから知らないが、このミュージカルは最初に述べたような作品ではあるし、何より、愛する男に愛されない女の哀しみを切々と歌う’On my own’(訳せば「私一人で」でしょうね)があったのでは、その歌い手に悪の要素は加えづらい。
 だからそれはなくなったのだが、筋の省略の結果、ミュージカルには他の問題が生じた。コゼットからマリユスへの手紙はなくてもすむが、バリケードの中でマリユスがコゼットに宛てて書いた別れの手紙のほうは必要。これを読んだジャン・ヴァルジャンは、初めてコゼットの恋人について具体的に知り、最初は「花嫁の父」の嫉妬心で、見殺しにしようかと思うのだが、結局は救援に向かう。そして最後のクライマックス、パリの下水道の逃避行になるのだから、これがなくては文字通りお話にならない。
 それで、誰がこれを届けるか。ミュージカルの脚色だと、第二幕の冒頭でごく手短に処理されている。マリユスはバリケードに男姿で現れたエポニーヌに、この手紙を託す。エポニーヌは言われた通りにヴァルジャンの家に行くが、コゼットには会えず、ヴァルジャンに手紙を渡す。後は前述の通り、夜のパリを彷徨いながら’On my own’を歌い、政府軍の最初の攻撃の後、バリケードへもどって、’A little fall of rain’の死に至る。
 なんでもないようだが、ミュージカルが有名になって、「レ・ミズおたく」とでも言うべき人も出てくると、こういう細かいところにもツッコミが入れられるものだ。一心に自分を慕っている女にその恋敵への手紙を頼むなんて、いくらなんでもマリユスにデリカシーがなさすぎだろう、とか、エポニーヌはマリユスの言うことならなんでも聞くというなら、コゼットではなくヴァルジャンに手紙を渡す小さな背信行為はどう考えたらいいんだ、とか。
 で、映画ではこれまた原作通り、エポニーヌの死後に、ガヴロッシュによって届けられる。パリの下層民を象徴しているようなこの浮浪児は、マリユスとコゼットのことなど知らないのだから、見つからなかったコゼットの代りに、彼女の父だと名乗る人物に軽い気持ちで仲介を頼んでも、さほど不自然ではない(ガヴロッシュはテナルディエの息子で、エポニーヌの弟なのだが、SでもFでもそれには触れられていない。まあ確かに、必要な情報ではない)。

 しかし、どうもフーバー監督には、そういう辻褄合わせ以上の意図があったように思える。上記(6)の、自己犠牲があるにもかかわらず、エポニーヌの印象はミュージカルより薄くなっているようなのだ。構成的には、主に二つの理由が考えられる。
 第一。ミュージカルでは、もう死んでしまったファンティーヌを除く主要登場人物全員が、もちろんエポニーヌを含めて、それぞれの明日の運命を思って歌うド派手な’One day more’が第一幕の締めくくりになり、休憩をはさんでほぼすぐに’On my own’が聞かれる。映画では、エポニーヌがバリケードを一度離れる理由がなくなった結果(かな?)、このナンバーの順序が逆になった。’On my own’→’One day more’だと、後者の悲壮感で、前者がややかすむ。それに、ミュージカルの緊密な二幕構成を崩したこと自体が、第二幕冒頭をリードするというエポニーヌの役割を軽くする。
 第二。エポニーヌが死の間際にコゼットの手紙をマリユスに渡すので、マリユスはエポニーヌの死体の前で手紙を読み、すぐにこちらからも別れの手紙を書いて、封もせずにガヴロッシュに託す。次にはガヴロッシュはバルジャンと会い、バリケードに戻り、勇敢と言うよりは無謀な働きをして、政府軍の銃に撃たれて死ぬ。すべて原作通りの筋の運びだが、このため、エポニーヌは死んだらすぐに忘れ去られる感じになっている。

 しかしこういうことより以上に、映画は「映し方」の問題が大きい。それを文で伝えるのは困難だが、一応言うと。
 映画版でエポニーヌを演じたのはサマンサ・バークス。イギリスの25周年記念コンサートでもこの役をやった実力派で、歌は文句なくうまい。顔は、もちろん好みにもよるが、アン・ハサウェイやアマンダ・サイフリッド(コゼット役)に比べると、パッと見のキレイさはやや劣るようだ。
 でも、ウソ! と言いたくなるぐらい腰がくびれていて、なんでも、映画のためにものすごいダイエットを敢行したらしい。それはハサウェイもやったが、こちらは全体が痩せて、悲惨な境遇を強調していた。バークスは胸は歌声に劣らずとても立派で、この映画のセクシー部門担当という感じだ。それもまた、こういう(まじめな)作品のヒロインには相応しくないような。


映画「レ・ミゼラブル」(2012年)より

 ただしもちろん、フーバーの前作「英国王のスピーチ」では、聡明で優しいエリザベス王妃を演じたヘレナ・ボナム=カーターが、ここでは俗悪なテナルディエのカミさんになっているのだから、こういうのもメイクと映し方次第でずいぶん変わる。それこそ映画の特権というものであろう。そしてまた映し方によって、ヴァルジャンとコゼットの父娘愛が強調されている。
 そう言えば、映画にはミュージカルにはない新しいナンバーがごく少しあり、その一つは、テナルディエからコゼットを奪った直後に、馬車の中で、安心しきって眠っているコゼットを抱きながらヴァルジャンの歌う、「俺はずっと孤独だったが、今、愛する者ができた」という意味の歌である。
 かくして、シンデレラが、お伽噺には出てこない父との関係で、新たな愛らしさを発揮し、再び姉を凌ぐヒロインの座を獲得した。こういうのもなかなかスリリングじゃないですか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家族はどこで成立するのか

2018年06月25日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
メインワーク:是枝裕和監督「万引き家族」(平成30年)



 上映が始まって間もなく、舞台となっている「家」の光景に否応なく惹きつけられた。ビルの谷間にポツンと取り残された、古ぼけた平屋建ての家屋。その中で、大小の荷物が雑然と積み重ねられたあまり清潔ではない室内を、ますますむさくるしく見せるだらしない格好の人間たちが、ちゃぶ台のまわりに集まって飯を食っている。その飯とはカップヌードル。ここにコロッケを入れて食べるとうまいのだそうだ。後ではすき焼き、にしては汁が多すぎる鍋を、皆でつつくシーンもあるが、肉が足りないようで、争って食う。活気はある、が、秩序はない。秩序、というのが大げさなら、型がない。「団欒」と呼ばれるに相応しい型が。
 かつての貧しい家庭とは、あまりモノのない家だった。モノのない貧しい家は今もあるだろう。しかし現代の、特に都市部で典型的に見られるのは、不要、ではないのかも知れないが、「用」ときちんと結び付けられていない雑多なモノであふれかえる、いわばゴミ箱のような「家」だ。なんせ、ゴミの分別が一仕事になるご時世。これをきちんとやるのは、少なくともやろうとする意欲を示すのは、ちゃんとした「市民」である証しになる。「そんな意欲なんてもう知らないよ、それでも生きていけるし」となれば、家はすぐにゴミ屋敷と化す。
 そういう家や部屋は、正確な数や割合はわからないが、けっこうありふれてはいるから、多くの人が目にしているはずだ。現にそこで暮らしている人も、もちろん少なくない。しかし、皆がちゃんと見ているとは言い難い。invisible、か。いや、本当は見てはいる。目にしている、という意味なら。むしろ、語れないのだ。「モノがあり過ぎる貧しさ」を語る言葉や、語り方を、我々はまだよく知らないようなのだ。
 是枝裕和監督がそこへ、映画の言葉である眼差し(映像)を届かせようとするのなら、十分に意義のある試みだと言うべきだろう。彼は既に「誰も知らない」(平成16年)で、ドキュメンタリータッチでそのような部屋を描いた。こちらは親から見捨てられた、子どもだけの特殊な環境なので、今回より生々しさは少ないが。なにしろ、是枝監督が「家族」に対して一貫して持っているこだわりは、並々ならぬものがあるようだ。「家族はかくあるべし」なんぞという簡単な道徳物語では、とうてい収まりがつかないぐらいには。
 もっと多くのフィルモロジーを振り返ると、例えば「歩いても歩いても」(20年)では、血の繋がった、ちゃんとした家族を描いている。家の中はきちんと整理されていて、型は一応ある。しかし、欠損を抱えている。それは、完璧な人間などいないのだから、完璧な家族などないわけだし、欠損がなかったらドラマは作れない。当たり前すぎる話ではある。ドラマはその欠損を埋めるべく展開する。これまた当たり前。そして映画の最終場面は「埋まった」ことを示すようである。だが、本当にそうなのだろうか? ただ時が流れの中に欠損もまた、飲み込まれただけではないか、という、余韻ではなく、ためらいのようなものが残る。
 この作品の場合、欠損とは、二人の息子のうち、人を救おうとして自分は犠牲になって死んだ兄だ。人格も能力も申し分ない男だった。若死にしたことで、余計にそう思える。「自分はどこをとっても兄には劣る」弟はそう思う、いや、「もしかすると、親からそう思わされているのかも」とも思う。「兄ではなく自分が死ねば、皆にとってよかったのか」と。もちろんそんなことを問い質すわけにはいかないから、思いはいつまでも残り、両親と自分との間のしこりになる。それでもやがてその親も死ねば、すべては思い出となり、切実さは消える。正にユーミンが歌う通り、「時はいつの日にも 親切な友達 過ぎてゆくきのうを 物語にかえる」(「12月の雨」)。
 この続編あるいは変奏曲と言うべき「海よりもまだ深く」(28年)の場合。【両作の関連は作者にちゃんと意識されていたと思う。母子を同じ役者(樹木希林・阿部寛)が演じる以上に、歌謡曲の歌詞の一部を題名にする共通点を持たせているのだから。因みにその曲は、両方とも映画中に流れるが、お節介に記しておくと、橋本淳作詞「ブルーラート・ヨコハマ」と荒木とよひさ作詞「別れの予感」。】祖父―父―息子三代にわたる父子関係のしこりが解消されたような終わり方をしている。しかし、壊れた家族は元に戻らない。むしろ、戻らないことを必須の条件として、「和解」が成立しているようだ。
 もう一つ、本作の主人公は金にだらしのない男で、そのくせ見栄っ張りで、離婚した妻といっしょにいる息子の養育費を払えないのを、年金で暮らす老母のへそくりを盗んで充てようとする。このへんの人物設定は「万引き家族」に引き継がれた要素と言ってよい。
 「海街diary」(27年)の場合、主人公の女性たちはちゃんとし過ぎているくらいちゃんとしているが、それよりは、まず是枝の関心を惹いたのは、三姉妹がそれぞれ他に愛人を作った父母に、順に捨てられる初期設定のほうだったのではないかと思える。そして、彼女たちは、腹違いの妹、つまり父が他所の家で作った妹を、新たな、四人目の家族として迎え入れる、その過程で、父母とも象徴的に和解する。私見ではこれがあまり説得的ではなく、作者が家族の何を描こうとしているのかも、よくわからなかった。元来吉田秋生の原作があり、そのダイジェストのような作りなので、余計にそう思うのかも知れない。【今をトキメク美人女優を四人並べて、興行成績を伸ばそうとする配慮のほうが勝ったか、との疑念も消えない。】
 一方、「そして父になる」(25年)は、「家族にとって血縁より重大なのは、ともに過ごした時間であり、家族たらんとする意思だ」とういう道徳(でしょ?)の範囲で作品を作っているので、たいへんよくまとまって安定している。説得力もある。それで私はこの作品を是枝の最高傑作ではないかと考えていたのだが、訂正しなければならないようだ。彼の志はもっと高かったのだ。時に作品の枠を壊してしまうぐらいに。

 そこで「万引き家族」。もう既に言われ尽くした感じがあるが、この映画ではまず安藤サクラの、次に樹木希林の、存在感が圧倒的である。彼女たちの周りを飛び跳ねている感じのリリー・フランキーも、おそらく自己最高の演技を披露している。また、子役の使い方も、いつもながら舌を巻くぐらいうまい。これらを伝える撮影も編集もBGMも、ほぼ完璧の域に達しているようだ。これだけでも観客は、「確かに何かを見た」・「チケット代に値するだけのものはあった」と思わせられる。映画作品としてはもう成功、なんだから、話は終わり、黄金の棕櫚賞おめでとう、でよい。
 それを弁えたうえでさらに何か言うのは、上にも示した個人的なこだわりからであり、正当な作品鑑賞ではないかも知れない。それでも一応ここには現在こだわるべき何かがあると信じられる。
 まず物語の「世界」を構成する上での、普通なら弱点と呼ばれうる、設定説明の思い切った省略に注目しよう。万引き家族の家族構成員の間には、全く血縁関係はない。それはすぐにわかるが、もう一歩突っ込んだ彼らの関係、どうしていっしょに住むようになったかの最初のきっかけなどは、映画の最後の、警察の取り調べによって追及されているのに、決して完全には明らかにされない。
 家族の表面上の関係は、祖母(樹木)を中心に、その息子夫婦(リリー、安藤)、息子の腹違いの妹(松岡茉優)、息子夫婦の子ども二人(城桧吏、佐々木みゆ)、で、このうちなぜこの家に来ることになったのかがわかるのは最後の子ども二人のみ。祥太は真夏のパチンコ屋の駐車場で自動車内に置き去りにされていたのを、「父」・治が車上狙いをやっている時に見つけて、連れて来たのだった。りんは、「仕事」=万引きの帰りに、マンションの寒い階段に締め出されているのを、治と祥太が連れて来た、それが映画のそもそもの発端である。
 それ以外の「家族」のメンバーにはけっこう衝撃的な過去がある。
(1)治と信代夫婦は、かつて信代が(本当の)夫のDVによって苦しめられていたのを、治が、あるいは男女二人で、殺して埋めた。殺人そのものは正当防衛だか緊急避難であることが認められて、治は、たぶん死体遺棄の罪で禁固刑になっている。彼らと祖母・初枝の関係はわからない。いっしょにいるのは、家賃がかからないのと、初枝に定期的に入ってくる遺族年金が目当てであるらしい。
(2)妹・亜紀は、初枝の夫が、他の女性と家庭を持って作った息子の長女。つまり、初枝にとって血のつながらない孫。なぜか家出して、この「家」に来た。一番初枝になついている。大学生ぐらいの年齢だが、女子高校生に扮して風俗店で働いている。「家」には金は納めなくていいのが最初からの(初枝との)約束だそうだ。初枝は、時々亡父を弔う口実で、いやがらせ的に亜紀の実家を訪れては、金をせしめている。ただ、こちらの、亜紀の両親夫婦(緒方直人、森口瑤子)は、亜紀が初枝のもとにいることは知らず、彼女は現在留学中と嘘をついている。【初枝の亡夫の遺影にはなぜか山崎努の写真が使われている。どうせなら緒方拳のほうが面白いように思うが、それはいくらなんでも不謹慎か。】
 是枝自身がノベライズした本『万引き家族』(宝島社)には、本来初枝一人で暮らしていた家へ、問題大ありの者たちが住み着いたきっかけも短く説明されている。小説なら一頁足らずで書けるのでいいが、映画の場合、あからさまに「説明」のためのセリフは、極力省くようにしたものらしい。
【映画は、原案・脚本・監督が是枝裕和とクレジットされている。たぶん次のような順番で出来上がったものだ。原案に従って役者を集める。その役者に応じて脚本の細かいところまで練り上げる。例えば亜紀は最初の設定では太っていてとりえのない娘であったものを、「樹木・安藤に比肩し得る若手女優は松岡しかいない」とされた時点で、現行のようになった。特殊メイクで松岡を太った姿にすることもできたろうが、それはせずに、美人で、それも今風の幼いアイドル顔ではない、伝統的な、で登場するのだから、この改変は小さくなかったはずである。などなどを取り入れた脚本完成後、そこでは省かれた説明まで加えた小説が書かれた。】
 なるほど、そんなにくだくだしい説明はなくても、彼らが体制外の、非合法の存在であることはよくわかる。ただ、やっぱり構成上の問題であろうと思えるのは、治・信代夫婦(もちろん籍なんて入れてないだろう。為念)と亜妃があまり絡まないところだ。
 亜妃は風俗店に客としてやってきた青年(池松壮亮)に、自分と同じような心の傷を感じて、惹かれ合う。この話はそこまでで、その後の展開はない。
 他の「家族」といっしょに連行され、警察の取り調べを受けた時には、初枝が両親から実質的に金をせびっているのを知り、「おばあちゃんはお金が欲しかっただけなのかな……、私じゃなくて」と呟く。これは誤解だが(もっとも、映画ではけっこう曖昧)、どちらにしても治夫婦とは関係ない。子どもたちの世話もしない。だから彼女は「家族」内の局外者になっている。最後のあたりで、誰もいなくなった家を一人で覗きに来るシーンも、小説に記されているような意味を映像だけから読み取るのは無理だ(それとも、私だけ?)。
 しかし、だからこそ、かも知れない、治との次のような印象的な対話はある。映画の場面を私が説明するより、ほぼ同じだと思える小説から引用したほうがいいだろう。

「ねぇ……いつしてるの? 信代さんと」
 珍しくふたりだけになってチャンスだと思ったのか、亜紀は日頃から疑問に思っていたことを治に問いかけた。
「えっ? 何が?」
 治は動揺しているようだった。
「ラブホとか行ってんの? 内緒で」
「もう……いいんだよ俺たち……そういうのは」
 治は大人の男の余裕を見せようとして、逆に表情がぎごちなくなった。
「ほんとに?」
 亜紀は上半身を起こして治に向きなおった。
「あぁ」
 そう言って治は亜紀に笑いかける。
「俺たちここじゃなくて、ここでつながてっからよ」
 治は股間と胸を順番に触ってみせた。
「うそくさ」
 亜紀は吐き捨てるように言った。
「じゃあ何でつながってると思ってんだよ」
 治はちょっと真剣な顔になった。
「お金。普通は」
 亜紀は何か悟ったような表情でそう言い放った。
 たかだか23年の人生の間に、いったいどんな大人たちの姿を見てきたのだろう。
「俺たち普通じゃねえからな」

 
 人間の繋がり、絆、を創り出す基になるのは、セックス(を初めとするエロス)・心・金のうち、何か一つ、と言い切るととたんに嘘くさくなる。【このすぐ後に、治と信代の、是枝作品には珍しい露骨な性交場面があって、それが稀な行為であることも明かされ、「性」は彼らにとって決定的な重要事でないこともわかる。】それらの混合、と言っても違う。
 では、何? を、説明するのではなく、描き出すのがつまりこの映画の眼目なのだ。最も「普通」ではない家族を通じて。

 何が普通でないかと言うと、彼らがいわゆる社会性をほとんど失っているところだ。
 社会から捨てられた、と言ってもいいし、事実よくそう言われる。映画中信代も、「(初枝を、ひいては自分たちを)捨てた人は他にいるんじゃないですか?」と問いかけている。
 では、社会は彼らを拾えばいいのだろうか? ここが難しい。
 無論、いわゆる社会福祉によって救うべきなのに、それがなされていない場合はまだまだ少なくないだろう。「誰も知らない」の子供たちは明らかにそうされるべきだし、昨年度のパルムドール受賞作、ケン・ローチ監督「わたしは、ダニエル・ブレイク」は、福祉制度の不備のために本来救われるべき人が救われずにいる不条理を告発した名画だった。そういう文芸(的な)作品は現にある。是枝監督は今回はそれとは明確に一線を引いたのだ、と思える。
 題名になっている万引きをやるのは、主に治と初枝で、治はまず祥太に「仕事を教える」という口実で手伝わせ、次に祥太がりんに教えて、これが彼らの仕事=犯罪の破綻の、直接のきっかけになる。筋が展開する上で一番の動力になっているので、最初監督は「声に出して呼んで」という切ないタイトルを考えていたのに、プロデューサー側が、よりインパクトの強い「万引き家族」にしたものらしい。
 彼らは、食うために仕方なく万引きをするのだろうか? どうも、そういうことではない。パチンコ屋で隣の客が大箱にいっぱい玉を貯めたままトイレに行った隙に、初枝がいくらか玉を盗む、それを見ていた他の客に、初枝は唇に中指を当てて「シーッ」と言う。その男が知り合いというわけではない。なのに、全く悪びれない。【この後どうなったかは描かれていないが、「シーッ」された男は、関わり合いになるのが面倒なので、黙っていたらしい。たぶんみんな知っているように、「社会」の側の正義も、だいたいはそんなものだ。】
 彼らにとって盗めるものを盗むのは「当たり前」でしかない。見つかって罰を受ければそれは罪になる。見つからなければ、多少気を使い労力を使ってモノを手に入れる、正に「仕事」なのだ。ありあまるほどの金があれば、そんなことはしないだろうが、それはあり得ないのだから、この状態が変わる見込みはない。彼らの社会性は、即ち彼らの中の「社会」は、そこまで壊れている。
 壊したのは社会だ。そう言える。彼らはずっと、社会から否定され続けて生きてきた。しかしこの言い方は、「社会」という抽象語を使うからもっともらしく聞こえるところがある。具体的に彼らの周りにいて、彼らを嫌い、疎外してきた者たちは、「社会正義」のために彼らを尊重する、なんてことがあるだろうか。そうしろ、と言われてするものだろうか。そんなことはない、ならば、行政組織などの、公的な「社会」がここでできることは、ほとんどない。
 「家族」の、特に女性たちの行動原理には社会への復讐が含まれているようだ。初枝が金をせびるのは自分を捨てた夫への仕返しだろうし、亜紀はその同じ家族への不満(何が不満なのかはよくわからない)から、だろう、風俗店での源氏名に、家族と幸せに明るく暮らしている妹の名を使っている。信代は、かつて親から虐待された者として、りんを慈しむ。りんの両親は、虐待の事実が明らかになるのを恐れて、二か月もの間りんの失踪届を出さなかった。ために、りんを殺したのではないかと疑われる。信代から見たら、「いい気味」だ。
 このように、彼女たちの復讐は間接的であり、明確な焦点を結ぶものではない。それが生きる目的になっている、なんてものではない。だから彼女たちはけっこう軽いし、明るい。社会性と一緒に、社会へのこだわりも捨ててしまえるなら、後は気楽なものなのだ。
 ただ、問題は残る。そんな彼ら相互の「関係」は、どんなものなのか。家族もまた、最小の社会である。元の社会から弾き出された、という事実は、とりあえず彼らを結びつける。しかし、どんな場所でも時は流れる。生活は続く。そこで、彼らがいっしょにいる「意味」は、改めて問われざるを得ない。

 初枝と治・信代夫妻の間には実は信頼関係はなかった。初枝は亜紀の両親からもらった金を治たちには隠しているし、治たちはまた、初枝が自分たちには隠したへそくりがあるのではないかと疑っている。初枝が治夫婦を家に置いておくのは、孤独死を免れる保険だ、と言う。その彼女が死んだとき、信代は冷静に、床下に死体を埋めるように指示する。遺族年金をもらい続けるために、という以前に、元来血縁関係はなく、住民票もない彼らに、葬式を出すなんてできない。そして死体を隠す作業が終わった治は改めてへそくりを探し、見つける。九万円ぐらいの金だし、治夫婦の喜び方も無邪気なので、それほど醜い印象にはならないが。
 初枝の生前から、彼らの間では冗談めかしてこれらのことは語られていた。このクールさはまた、「家族」がヘラヘラ明るく暮らすのに役立つ。本当の信頼関係、責任感、などは、人間関係を重くする。その重さを引き受けるのが社会人の条件とされるのだが、外部の社会の中では誰一人、彼らの存在の重さを引き受けてくれなかったことは前述の通り。だから結局は社会のせい、とは言いたくないが、この点では誰も彼らを責めることができないのはそうだと思う。
 もっとも、ケチな欲望だけがすべてなのではない。一家が海水浴へ行くシーンで、初枝が信代の顔を眺めて、「あんた、綺麗だね」と言うシーンは、こんな関係でも愛着が生じることを示している。あったところで、どうということはないが、ともかくそれは、ある。

 大人同士の関係ならこれでもひとまず済むが、済まないのが大人と子どもの関係だ。なぜなら、大人は子どもを養育しなければならない。この社会性だけはぎりぎり残るところが不思議と言えば不思議。それ以前に、他人のことなどかまう余裕はないはずの彼らが、本当の親からは捨てられた子どもをなぜ引き受けるのか、それが不思議。要は、ちょっとした同情で犬や猫の子を拾ってくるのと変わらない。それでも、いったん家に入った子どもの存在は大きい。この集団は子どものために家族になるのだし、子どもを引き受けられないことが明らかになった時に崩壊する。
 信代はりんに対して本当の母性を感じるのは前述の通り。
 治は祥太に万引きの「仕事」を伝授する。「(自分には)他に教えられることは何もないから」と。そして、祥太というのは治の本名だった。彼も他の親と同様、子どもの中に自分の分身を見ていた。そこで、他ではやらない、自分たちの行為の正当化も一応はした。祥太は十歳なのに、学校へは行っていない。「学校は自分では勉強できないヤツが行くんだ」と。泥棒はよくないが、万引きはいい。「店にあるものはまだ誰のものでもないから」。こんなインチキ、子どもだましですらないから、祥太にも見抜かれ、その時、治が父の役割を引き受けられないことは明らかになる。
 事件は次のように起きる。祥太はりんが見よう見まねで万引きをして、捕まりそうになるのをかばって、みかんのケースをひっくり返してみかんを一袋持って逃走する。逃げ切れなくなったとき、陸橋から飛び降りて、脚を骨折する。病院に運ばれた夜に、「家族」は夜逃げしようとしたところを、警察に捕まる。
 「祥太を見捨てようとしたのだ」と警官から聞かされた祥太から、「そうなのか?」と問われて、治は「そうだ」と認める。正当化はしない。血縁からしても法的にも親ではなく、保険にも入っておらず病院代も払えない自分たちにはそれしかできない、それは言わば最初からの前提であったはずだ、と大人同士なら言えても、庇護しているはずの子どもには言えない。賢い祥太には、それは理屈としてはわかっていたとしても、だ。
 死体遺棄や年金詐取、幼児誘拐などすべての罪を一身に受けて逮捕された信代は、祥太に実の親に関する情報を与える。自分たちには彼を守り切ることはできないのだから、と。しかし、その親とは、サウナのようになる車内に幼い祥太を長時間置き去りにして、パチンコに興じるような人間なのだ。
 つまり、体制内の人間が、きちんと義務を果たすとは限らない。その実例を、我々はごく最近見たばかりだ。体制とは、その内部にとどまって、かつ義務を果たそうとする人間に、いくらかの援助を与えるだけのものだ。無論、それだって、ないよりはあるほうがよい。なくては困る。
 しかしそれですむのかと言えば、もちろんそうではない。
 「こどもにはね、母親が必要なんですよ」と女性刑事に言われて、信代は「母親がそう思いたいだけでしょ」と答える。子どもを産めば自動的に母親になれるというものではない。しかし、体制は、人の心の内側にまで踏み込むことはない。この「家族」は、初枝を除くおそらく全員が親からも捨てられている。だが捨てた親の側がめったに、罰せられることはない。かなり虐待が明白なりん(本名は、じゅり)の場合も。
 TVのインタビューで、「じゅりちゃんはゆうべ何を食べましたか?」「大好きなオムライスを……」「お母様の手作りの?」「ええ」と流れる場面からは、我々の日常の、それを支える制度の、欺瞞そのものを見せつけられているようで、怖気をふるうほどになる。体制はタテマエに応じて秩序を作り上げる。だから我々が生きる生の現実からすれば、必ず多少の嘘を含む。けれど、それがなければ、人の世は保たない。
 信代は、元の家とこちらのどっちがいいかりんに尋ねて、はっきり、「こっち」という答えを得ている。血縁関係はあっても、選ばれていない親より、現に選ばれている自分たちこそ「本物」ではないか、と。
 一般的にこれに答えるとしたら、自分が「選んだ」はずの結婚相手ともしばしば離婚するのだから、どっちが「本物」だ、とは言えないだろう。ただ、「万引き家族」は、制度に守られていない分だけ、欺瞞のない、純粋な情愛を持ち合えた面はある。それこそが「真に人間的なもの」と言えるかもしれない。いつまでも保つものではない、それと引き換えに、ではあっても。

【本作がカンヌ映画祭のパルムド-ル賞を獲得して、是枝監督は世界各国のメディアからインタビューされた。その中の一つがネット上で物議をかもした。この一連の騒動からは、日本の文化人の、あまりの政治的なナイーブさ、そしてそれを利用するメディア(この場合は外国の)の悪辣さがよくわかるので、ついでに記録しておきたい。
 問題になったのは、韓国の「中央日報」日本語版6月17日で、そこで是枝の言葉として次のように記されている。

 共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている。

 これに対して是枝監督が公式サイトに載せた「「invisible」という言葉を巡って」は、文の調子はそうではないが、抗議文と言ってもよい内容だ。要点は以下の二つ。
(1)インタビューの際、共同体の話になったとき、EUを例に出し、ドイツが果たしている役割を日本が東アジア共同体の中で果たそうとしたら、過去の歴史ときちんと向き合う必要がある、とは、是枝は言った。「謝罪」という言葉は、翻訳(英語→韓国語→日本語、らしい)の過程でつけ加わったのだろう。
(2)「民主主義が成熟していく為には、僕は定期的な政権交代が必要だと考える人間のひとりである。何故なら権力は必ず腐敗するからである」と言ったら、これは余談の類であったのだが、それが「安倍政権が続いて私たちは不幸になった」と単純化されて伝えられて、驚いたとのこと。
 いや、監督さん、これ、単純化じゃなくて歪曲ですって。
 それにしても、ちょっとだけ批判したい。ドイツのEUでの在り方については、エマニュエル・トッドの、「ドイツ第四帝国が出現したようなものだ」など、さまざまな批判があることをご存知の上で言っておられるのか? そうでなかったら、危ういと思います。
 それから「権力は必ず腐敗する」としたら、今の世界で危険な国は、ロシア・中国・北朝鮮、ということになりませんか? ほとんど政権交代がなく、今後も当分ありそうにないんだから、きっと腐敗しきってるんでしょう。そんな国が、日本のすぐ近くにあるんだから、危険極まりない、ということにはどうしてならんのですか?
 こういうのは日本の左翼、じゃなくてリベラルか、の通弊になっている考え方が出ていて、「是枝よ、お前もか」とういうところ。しかし、是枝監督の名誉になりそうなことは最後のほうにある。
 フランスの女性記者からは、「この映画は何を告発しようとしているのだ?」と、執拗に訊かれたとのこと。そういう時、監督はいつも「映画は何かを告発するとか、メッセージ伝えるための乗り物ではない」と答えて終わりにするのだが、今回の彼女はそれでもなかなか引き下がらなかった、こういう場合には「リベラル」なメディアのほうが頑なである、とも言っています。
 例えば手塚治虫は、多くの人と同様私も尊敬する大表現者ですが、とても単純な戦後平和主義者でした。政治やイデオロギー上の思想信条とは別に、「人間」についてすぐれた表現ができると、私は信じておるわけです。まあそれ自体が、ひどくナイーブな文学少年的な信条だと言われるかも知れませんが。】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「火の鳥」 七つの謎 その3(天空の眼が見つめるもの)

2016年05月30日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
【手塚治虫は一度発表した作品でもしばしば後から描き直しをしたことで有名で、「火の鳥」も細かいところまで含めると、掲載誌と刊本の数だけバリエーションがありますが、ここでは虫プロ商事などから出た最初の刊本(『COM』の別冊として、雑誌扱いですが)と角川文庫版のみを使用します。】

Ⅳ 権力はどんな味がするか
 権力闘争は「火の鳥」の、特に過去を舞台とした部分で多く描かれ、ほとんど常に物語を進める動因となっている。中でも「乱世編」は、角川版のプロローグに、「この世に 種族がある限り その種族の 生きる道は 権力の座を 争うほか ないのだろうか」と書かれ、これがテーマであることが明示されている。
 しかし遺憾ながら、「乱世編」は傑作とは言い難い。ここまで、「宇宙編」―「鳳凰編」―「復活編」―(短編「羽衣編」はちょっと事情があって……ですが)―「望郷編」と、手塚治虫ならではの広大でダイナミックな物語世界に瞠目してきた者としては、「あれ?」と思えるような作品だった。
 これよりは、非常に独特で、他の編から孤立した感じのする(そうなったのにも外部的な事情が考えられるのですが……)「望郷編」を主にとりあげたいと思う。が、順序として、「乱世編」のどこがイマイチなのか、言っておこう。



 天空の眼           左:「太陽編」より                 右:「望郷編」より

 手塚が「平家物語」をきちんと読み込んでいることはわかる。しかし、それだけに、だろう、歴史上知られている権力者像からするとデタラメな描き方がされている「鳳凰編」(例えば、吉備真備は橘諸兄の配下と言っていいのに、敵対関係にされている)に比べて、緊張感も躍動感も劣る。平清盛、木曾義仲、源義経、源頼朝、といった権力者たちの拮抗と興亡が、まるで歴史絵巻のように淡々と描かれている。
 ここに樵の弁太(武蔵坊弁慶のモデルということになっている)と、彼の幼馴染みで恋仲だったおぶうという男女が絡まるのだが、これまた「鳳凰編」の架空の人物・我王と茜丸に比べると甚だ印象が薄い。【雑誌初出時には、「望郷編」に通じる設定で、これで進めたなら、少なくとも弁太・おぶうの人物像は強烈になったろうが。】後者二人は、時代の権力闘争劇に否応なく巻き込まれながらも、紛うことなき自己の宿命を生きる。対して、特に弁太は、いったい何がしたいのだ? と詰りたくなる。
 彼は、平氏に捕えられたおぶうを取り戻すために、義経の家来となり、あるとき清盛の館に忍び込むが、おぶうは吹(ふき)の方と名を変え、清盛の愛妾になっていた。彼女は、清盛の、最高権力者であるがゆえの深い孤独を知り、同情から、彼を残して弁太と逃げるのを肯んじ得なくなっている。しかたなく弁太も、義経と共に奥州平泉へ落ち延び、そこで、心を病んでいて盗癖のあるヒノエと夫婦になるので、この恋は終わる。
 これは「火の鳥」全体の中で珍しい類の結末である。愛し合う男女は、たいてい、あらゆる困難に耐え抜き、死をも越えて結ばれる、ことになっている。思い切ってキツイ話である「望郷編」も、例外ではない。まあそれよりは、愛し合いながら離ればなれになってしまうカップルのほうが、「現実的」であるかも知れないが。
 やがておぶうは、平氏方の女として、壇ノ浦の戦いで義経に斬られて死ぬ。その他にも、義経の非情さを目の当たりにした弁太は、彼を憎むようになるのだが、なぜか離れない。それでいて最後に、義経を殺す。
 このへんがどうも、あまり説得的ではない。清盛とおぶうとの交情はまだわかるが、「おまえはどうせもう おれから離れられない運命さ」と義経が弁太に言う、その「運命」は何に由来するのか、さっぱりわからない。結果として、弁太の人物像はぼやけてしまっている。
 人物像がくっきりしているのは義経のほうである。彼こそ、「乱世編」最大の見所と言っていいだろう。元来さほどの悪人ではないが、強烈な野心に取り憑かれており、そのためなら非道も厭わないところ、「鳳凰編」の茜丸によく似ている。【しかし、「鳳凰編」の時代から四百年生き延び(ここでツッコムのはよしましょう)、鞍馬山の天狗と呼ばれることになった我王は、義経と弁太を引き合わせるのだが、その直前に、弁太こそ茜丸に似ている、なんぞと言う。弁太は、芸術家気質とも権力志向とも縁遠い、純真無垢そのものといった性格付けであるのに。ただ、その後我王は、「若いものはみんな似とる」と恐ろしく大雑把なことも言うので、あまり気にかける値打ちはないようだ。】
 因みに、夜の行軍の時、義経が、「大松明」と称して民家に火をつけたことは、ちゃんと「平家物語」に記されている。その家に住んでいた者たちがどうなったかはわからない。これを「非道」と見るのは現代の目なのだ。さらについでに、こういうところは忘れられて、義経が代表的な悲劇の名将と考えられるようになったのも、後代の見方である。
 ところで、権力争奪戦については、もう一工夫ある。源平の争いに、輪廻転生譚を重ねたのだ。先述の義経と弁太の出会いのとき、天狗=我王は彼らに二匹の動物の墓を見せている。猿の赤兵衛と犬の白兵衛。赤が平氏の、白が源氏の旗印であることは言うまでもない。
 その上で、朝日ソノラマ版では、義経が死んだ時、幽明界で平清盛に出会う。そこへ現れた火の鳥が、彼等は生まれ変わると宣言する。ただし、人間として生きた時間よりずっと以前に。「宇宙には時間はない」のだって……、そりゃあんまりだ、とさすがに手塚先生も気がさしたらしく、角川版では猿と犬のエピソードはプロローグとされ、火の鳥の解説もなくて、人間のほうが赤兵衛白兵衛の生まれ変わりに見えるように配置された。
 話の中身は変わらない。赤兵衛はもと鞍馬山の猿のボスだったのだが、黒い離れ猿が現れ、一対一の決闘の末にその地位を奪われた。傷ついた赤兵衛を我王が手当てし、白兵衛といっしょに養う。やがて二匹は仲良くなる。一年たったある日、赤兵衛は白兵衛を山へ誘う。かつて自分を負かした黒猿に、雪辱戦を挑むために。突然姿を見せた犬に相手が驚いた隙に、赤兵衛が喉元にくらいつき、勝負は一瞬のうちについた。
 赤兵衛は最初からこれを計算に入れて、つまり白兵衛を利用するために、彼と親しんだのかも知れない。しかし、ボス猿の座に返り咲いた後も、白兵衛への感謝は忘れられず、交情は続いた。白兵衛のほうもまた、犬たちの群のボスとなるまでは。
 群が増えれば、生存のために必要なテリトリーも自然に拡大する。ならば、それをめぐる二つの群れの衝突も、自然に起きる。ボス、つまり権力者とは、特権を得る代わりに、いざとなれば命がけで群を守らねばならない者だ。この公式に導かれて、赤兵衛と白兵衛は争い、相討ちになって、息絶える。
 権力というより、集団同士の闘争はなぜ起きるのか、そのメカニズムを描いた寓話と言ってよい。「火の鳥」では、前々回述べた「未来編」のナメクジ文明のエピソードがすでに同種のものとしてある。こちらのほうが、絵のインパクトが強いので、印象深い。
 犬猿の仲のほうは、個々の「内面」を描いたところがミソだが、それは野心に燃える義経や、苦労人の清盛の性格とは特に関係はない。全体を通して、人間は、いや生物は、いかなる境遇に生まれようと、お互いに友愛の感情も抱けるが、また憎しみ合いもする、という宿命観だけが現されている。
 火の鳥は、「あなたがたは……殺し合うのです それが宿命(さだめ)です」と、転生の最初に、明瞭に告げていたのである。どうしてもそうなるならば、何度やり直しても同じこと、生物はいずれすべて滅びへの道を進むことになる。このペシミズムは、手塚治虫の一部にあった。
 しかしもう一方では、そのような宿命を自分のものとして、懸命に生きる者たちの姿に、物語作家として強く惹かれていたのである。そうでなければ、これほど多数の作品を遺せたはずはない。
 我王は、「権力はむなしい」とも言うが、「わしはその【権力を】のっとる方のパワーが好きじゃ」とも語る。それで、赤兵衛や、人間では義経を庇護し、さらに「(弁太は)お前の立派な片腕になりそうか」などと彼に言って、平氏打倒の野心に肩入れしていることを示す。火の鳥も、殺し合う定めにあると告げた元清盛と元義経に、「精一杯お生き!」と言って、動物界に送り出す。
 戦後民主主義を信奉する者として、「権力争いは、醜く、愚かだ」と一方では言いながら、その醜さをバネにして生きる者たちへの興味を終生捨てなかったところが、手塚の大作家である所以なのである。

「乱世編」より 幽明界の清盛と義経

 そこで、「望郷篇」に移る。まず次の特徴がある。
①未来パートの重要なキャラクターが数多く登場する。「宇宙編」のプロットの中心人物である牧村については前述した。それから、「未来編」のムーピーと「復活編」のチヒロ。前者は異星の不定形生命体、後者はロボットだが、それぞれの編中で「女」としての役割を果たしている。一方、全編を通しての最重要人物である猿田の転生は登場しない。
②ナレーターがいて、それが火の鳥自身。他にナレーターがあるのは「宇宙編」で、それは猿田が務めている。
 のみならず、彼女は、登場人物にたいへんな肩入れをする。これも、全編中の、例外である。
③上の二つに比べると顕著と言うほどではない、ので余計に気になるのだが、「目」が象徴的に使われている。
 一つは、前半の舞台となる、惑星エデン17の太陽。その引力で宇宙塵が引き寄せられて周囲を回っている、のだそうだが、そういうのは土星の輪と同様、円形になるのではないかと思うのに、これは楕円形。それで全体として、巨大な眼に見える。いったい何を見つめているのか。
 それから、地球人と異星の生物ムーピーとの混血である、エデン17の住人たちは、全員目が見えない。特殊な感覚が発達しているので、別に不自由はない、どころか、中盤以降の主人公の一人コムは、「目って不便でムダだね」とも言う。視覚がないのに、例えば彼とロミが最後にたどり着く、地球に僅かに残された自然の森林と湖の美しさをどうやって知覚するのか、興味深くもあるが、それより、この設定が意味するものは何か、深読みしたくなる。

 改めて、①の特徴は、「望郷編」が女の物語であることに関連している。「火の鳥」では女が単独で主人公になるのがそもそも珍しい。他には、「異形編」の、男として育てられた八儀左近介がいるだけ。他のヒロインたちはといえば、「太陽編」のマリモ=ヨドミにいたるまで、男にひたすらなる純愛と貞淑を捧げ、彼らの最後の救いになる。いかにも、フェミニストからは怒られそうでありますなあ。
 さらに、左近介が、治療者として、不特定多数の人間と人外の者たちを無限に受け入れる存在であるのに対して、本編のロミは、非常に能動的である。何しろ、「子どもを産む」という特性によって、一つの世界を作り出す、つまり、創造主となるのだ。
 これは最初の「黎明編」で予告されていた、と見ることができる。
 邪馬台国にクマソ族が攻め滅ぼされた後、二人の姉弟が生き残る。姉のヒナクは、邪馬台国のスパイとして敵と内通していたグズリと結ばれており(婚礼の夜に邪馬台国が急襲した)、彼を憎みながらも、子どもを産むことで、クマソを復興しようと考える。弟のナギは、敵将猿田彦を、これまた憎みながら共に暮らすうちに、愛着を抱くようになる。
 大陸から襲来した騎馬民族【私が大学生だった頃までは有力視されていた騎馬民族征服王朝説に依っているわけです】によって猿田彦とナギらが討たれた後、猿田彦の妻ウズメ(美女が醜女に化けていた)に、勝者側の首領ニニギが迫る。ウズメは「私のおなかにはこの人の子が……!!」と告げる。「女には武器があるわ」。
 男は力で社会を征服することはできる。それが即ち権力であるわけだが、女の「産む力」を完全にコントロールすることはできない。なにしろ、自分もそれに依ってこの世に生を受けたのだから。【この子は猿田彦=猿田の子孫として、過酷な生を送ったろうと想像されるのだが、それは置いときましょう。】
 しかし、この力も、ある特殊な環境の下で暴走するとどうなるか。「望郷編」はこの壮大な思考実験を含んでいる。
 年代は記されていない。地球では人口が増えすぎて、宇宙移民が盛んになっている。若いジョージとロミのカップルが、自然破壊が進む地球に絶望して、大金を盗み出し、宇宙不動産屋の手で、数光年離れた惑星・エデン17への逃避行を企てるのが発端である。
 そこは地球とほぼ同じ大気と質量の星だが、土地は不毛であり、地震が多発するので、人間が住むには適していない。ジョージたちはそれを知らされないまま、悪徳不動産屋に騙されてやって来たのだった。しかし、犯罪者である彼らには、他に行くところはなかった。
 次の日ジョージは、付近に水がないことを発見し、ボーリングを始める。首尾よく水は出たが、地震のためボーリング機械が倒壊、下敷きになって彼は死ぬ。
 一年後、彼らをこの星に案内した不動産屋がやって来る。たぶん地球人なのに、宇宙人の血が混じったらしく、キツネかハイエナのような顔で描かれている。彼は寡婦になったロミに言い寄るのだが、その時赤ん坊の泣き声が聞こえる。
 ロミはジョージとの子どもを産んでいた。男の子で、カインと名付けた。やがてこの子と結婚するつもりだ、とロミは告げ、驚く不動産屋を撃ち殺してしまう。そして自身は、召使いロボット・シバに作らせた冷凍睡眠(コールド・スリープ)装置で眠りにつく。
【曖昧にされているが、自分たちだけの新しい世界を作ろうとしてこの星へ来たジョージとロミは、最初から子孫を残そうとまで考えていたのだろうか? そうだとすると、他に人がいな以上、ジョージが早死にしなくても、近親相姦は必然になってくる。火山の噴火でできた深い穴の中に閉じ込められた、グズリ・ヒナク夫婦の子どもたち――これは男女ともにいる――が、危うくそうなりかかったように。】
 ロミが目覚めた時、カインは逞しい立派な若者に成長していた。しかし、自分を育てたシバを母と呼び、ロミを受け入れようとはしない。ロミは光線銃でシバを破壊し、同じ武器でカインをも脅して、言うことを聞かせる。「母親には子どもにしつけを教育する権利があるのよ」、と。
 少し変なセリフではないですか? 「しつけ」は「する」ものであって「教育する」ものではない。それに、普通の母親なら、「権利」ではなく、「義務」と言うだろう。
 何も重箱の隅をつついて意地悪をしたいのではない。作者がどれくらい意識していたかは不明ながら、ロミがこれからやろうとしていることを考えたら、ここには非常な決意が現れていると見ることができる。
 いかにも、それは、わが子を自分の思い通りにしようとする「教育」ではある。が、やらせようとすることの中身は、地球なら最大の不道徳とされるものだ。それでも、やらなければ、自分とジョージがこの星へ来た意味も、痕跡さえも、完全に雲散霧消する。だからこそ、暴力的な手段で、従わせねばならなかった。
 ここで、親とは教育者であり、教育者とは即ち権力者であるという、地球では忘れられ、隠されがちになる事情が露になる。
 断るまでもないだろうが、私は権力を悪いものだとは思っていない。この言葉にそういうニュアンスを付けたのは、戦後民主主義の、薄甘い左翼性である。その左翼党派の中にでも、権力はちゃんとあった。家族のような最小の集団であっても、その集団に「意味」を与え、一つの方向に導こうとするなら、統率するための権力は、必要不可欠なのだ。
 目に見える外敵の存在や、過酷な環境は、直接集団を脅かすので、権力を正当化する。それが権力の生じる根源であるように見え、「乱世編」の犬猿エピソードもその考えに基づいたものだった。実際は、肉体的にはけっこう弱い人間にとって、権力は、集団で生きる必要性そのこと自体に由来する。ただし、具体的な「必要性」は時に応じて変化するので、不必要な、即ち理不尽な、強権として現れる場合もある、ということだ。
 ロミとその一族を襲う運命は、非常で非情なやりかたを必要とする、最も過酷なものだった。カインとロミは結ばれて子どもも七人できるのだが、それはすべて男だった。そのうえまた地震で、カインは両脚を失い、子どもを作ることも働くこともできなくなる。とるべき道は一つしかない。ロミには再び眠ってもらい、カインとロミ自身の息子との間で、また子どもをもうけることだ。
 こうしてロミがまた冷凍睡眠に入った後、エデン17を旱魃が襲う。食糧が尽き、全員餓死の危険に見舞われる。その時、カインは自分を殺してその肉を食べるように、息子たちに言う。旧約聖書に出てくる同名の者とは真逆に、自己犠牲の死を遂げるのである。
 まだこれで終わりではない。目覚めたロミは、カインの望み通りに、長男のロトとの間で子作りをするのだが、生まれてくるのはまたしても男ばかり。ここに至って、この星唯一の女性であるロミの存在価値は圧倒的に大きくなる。
 ロミはもう銃は持たないが、代わりに鞭で、容赦なく息子で、孫でもある者たちを打ちのめす。「教育」のためでもあるが、別の本音もある。「おまえたち息子だっていったって男だからね いつなんどきみんなでおそってくるか知れないから用心のためよ」。ン? 二代に渡って近親相姦を繰り返していながら、雑婚はダメ、ということ? 
 いや、よく考えてみると、これも一族を守るためには妥当な、必要な措置である。すべての男が欲望の赴くままにロミと交わったりしたら、完全に秩序がなくなり、それはたった一人の女をめぐる兄弟の、血みどろの争いを結果する可能性がある。
 現にそれに近いことが起こった。ロトの末弟セブは、体が大きいが頭が悪く、兄弟間の厄介者扱いされていた。彼がある時、ロミは自分の子どもを産むべきだと言い出す。自分はよく女の子の夢を見るので、自分とロミならきっと女が授かる、と。当然兄たちからは相手にされないので、ロミをさらって逃げ出す。
 その時は、ロミの説得によって強奪をあきらめ、セブは一族の間で「聖地」として知られていた火山へと逃れる。しかしロトたちは、セブを殺してその肉を、ロミも含めて、食べるべきではないか、と言い出す。女の子が産まれないのは、この星には動物が他におらず、肉を食べないからかも知れない、と。それに、彼らの父は、必要とあればそれもやってよい、やるべきだ、と身をもって教えてもいた。話を聞いて絶望したロミは、再び閉じこもり、冷凍睡眠に入る。
 このままなら、すぐにロミの一族は滅んでしまったろう。そこに救い主として、火の鳥が介入する。彼女がここまでの好意を人間に対して示すのは空前絶後のことで、要するに、空前絶後の体験をしているロミに深く同情したのである。
 彼女は遠く離れた星からムーピーという生物を連れてくる。いかなる過酷な環境にも耐えられる強い生命力で、寿命は四百歳ほど。不定形で、対面する相手の心を読んでその望む姿になる。それが喜びであり、生きがいなのだ。個体はあるし、自己意識もあるのに、自己主張はない。伴侶として、これ以上都合のいい存在はない、というか、冷凍睡眠装置以上に、あり得ない存在と言うべきだろう。
 もしいたら、人間は完全にこの存在に没頭し、決して思い通りにはならない厳しい現実からはできるだけ目を背けるようになるだろう。このため、「未来編」の時点では、ムーピーの所有は禁じられている。
 火の鳥は、「一番心がきれいだから」と、セブにムーピーを与える。ムーピーはセブが一番憧れているロミそっくりの姿になり、これでセブの思いは遂げられる。これによってまた、兄弟殺しは回避された。そのうえムーピーは、人間との間でも子どもを作れるのだ。
 ロトたちの死後、セブはムーピーの妻から生まれた女の子をロトの子どもたちに与え、これから一族の繁栄が始まる。次にロミが眼を覚ました時には、地球人とムーピーの混血児たちが不毛の地を耕して畑にし、家を作り、生産性も人口もどんどん増える最中だった。彼らは町をエドナと名付け、全員の祖先であるロミを、女王として崇める。
 「復活編」はここまででやっと冒頭から三分の一弱である。いろいろなエピソードが削除された角川版では、さらに短く、やっと四分の一を占める程度になっている。残りは、地球への望郷の思いに駆られたロミが、まだムーピー独自の力を強く残す少年コムとともに、かつて火の鳥が最初のムーピーを連れてきたときに使った円盤形の岩船で、地球を目指す話で占められている。【コムは、カインの三男エベルの、三十番目の息子であると言われるが、これは書き直しの過程で生じた、単純なミスだろう。セムが娘たちを連れて来たときには、カインの他の息子たち、つまりセムの兄たちは、もうみんな死んでいたのだから。】
 途中で牧村と出会ってからの筋は前回述べた。途中で立ち寄る様々な星や、下半身が雌雄同体の生物のエピソードの寓意も、面白そうではあるが、私の目下の興味はそこにはない。

 ロミとコムが去った後、エドナでは、まだ変身能力のあるコムの母親が、ロミの代役を務める。数多くの神話の型通り、創造主はこの世界を創造し終えてからどこかへ立ち去り、ただその似姿だけが残されたのである。
 そこへ、ロミたちに地球へのロケットを与え、さらに瀕死のロミに、寿命と引き替えに若返りの施術をした、ネズミ顔の宇宙商人ズダーバンがやって来る。彼は、コムを見て、彼の母親は純粋なムーピーに違いないと見込んで、捕獲にやって来たのだった。スーパーペットであるムーピーは、高く売れるから。
 ズダーバンは、女王ロミの姿の者こそそれだ、と見抜くものの、手出しはできず、エドナで商売を始める。エドナの住民は皆質素で正直で、悪の臭いがしない。欲望に火をつけることができさえすれば、贅沢品や享楽への嗜好が、とめどなく高まり、それはやがて争いを引き起こし、そうなれば武器の需要も出てくるだろう。
 ズダーバンは水源に、ある麻薬を投げ込む。それは甚大な効果を現し、半年も経たないうちに、素朴で清潔な街エドナは、薄汚れた犯罪の巣となる。
火の鳥は言う。「私は もうエデン17はおしまいだと感じました 地球が何万年もかかって 人間の悪徳をはびこらせてきたのを この星では たったの半年で 追いついてしまったのですから……」。しかし、たかが小悪党の商人に、こうまで簡単に操られるのには、別の理由が考えられる。
 おそらく、エドナは、ズダーバンが見抜いた以上に清廉潔白過ぎたのである。ここの住人には、原罪の意識もなければ、無明という観念もなかった。キリスト教と仏教を簡単につなげるような真似は慎むべきだろうが、要するに、宗教の土台である、「人間とはしょうもないものだ」という諦念がない。このため、心の中の超自我というような機制も、社会の警察のような機構も発達しなかったようだ。無菌状態で育った生物は抵抗力が弱い、ということである。
 それでは、一度悪に感染したら、とめどなく広まるのを防ぐことはできない。フレミル人が、外敵から身を守る術がなかったように。
 始祖のロミからして、近親相姦はしても、それはやむを得ぬことと、自分にも他人(息子たちと火の鳥)にも見過ごされた。一人を殺しているが、これは夫の仇討ちでもあるし、それ以上に身を守るためという言い訳がたつ。人肉食については、彼女の知らないところで起き、もう一度起きそうなときには逃げ出して、兄弟殺しは未遂に終わる。多くの創世神話の神々が、創世のために犯した罪を、可能な限り免れた存在なのであった。
 それでも創造主になれたのは、何よりも火の鳥の助力があったればこそである。③で言った天空の眼は、火の鳥のものであるとしか考えようがない。それは「太陽編」に出てくる、異郷の神々の敵意ある眼ではないのはもちろん、人々を上から眺め、監視するものではなく、優しく見つめる母親のような眼差しだ。日照りの時の太陽は、輪のない、まん丸の絵柄で描かれている。【しかし、ロミとコムが岩船でエデン17を離れたときには、輪が円状に描かれている。これはどういう象徴か、わかりかねる。火の鳥はまだしばらくの間、この星を見捨ててはいない。】
 それだけではなく火の鳥がこの星の地震をもできるだけ押さえていたから、エドナの繁栄もあった。「もうおしまいだ」と感じたとき、この街をどうしたいか、火の鳥は、コムの母で、女王代理である者に問う。彼女は、明日最後に国民を説得する、それが聞き入れられなければ、もうどうなってもいい、と答える。
 ズダーバンから真相を告げられた住民が、偽女王の言葉に耳を貸すはずもない。かえってムーピーの彼女をズダーバンに、金と引き替えに渡そうと、襲いかかる。そのとき、エデン17は「ちょっと身震い」をし、ために街のすべてが倒壊して、ズダーバンを含めた、この星にいた生物すべてが死滅する。
 この時のエドナ市長の名はソドムだが、彼と市民たちは、神の怒りに触れたと言うより、悲しみのうちに葬られるのである。
 本物の女王・ロミがいればこの事態は避けられたろうか? たぶんそうではない。どの民族でも、創造主を間近に見てはいない。せいぜい代理がいるばかりだ。それでも保つのは、創造主が自分の名において、罪を明らかにしておいたからだ(「殺す勿れ」、など)。それを内面化した人々は、良心の眼を持つようになり、他人も自分も監視し、罰も考え出す。エドナ人に眼がないのは、それがないことの象徴なのである。
 言い換えると、ここにはそもそも、大した罪がなく、従って罰を与える強い権力も必要なかった。「望郷編」は、そういう社会であっても、やっぱりちょっとしたことで滅びに至ることを示した。ペシミズムというよりは、人間をごまかしなく凝視する強さの現れであり、これも物語作家としてのすぐれた資質の一つであろうと思う。私が理屈でしか言えないものを、手塚は、物語の神に導かれて、イデオロギーを超えて、人間の実相を、文字通り目に見せてくれた。
 それだけに、角川版で大きく改訂し、上で引用した不動産屋殺しや鞭で息子たちを従えるところ、人肉食のエピソードなど、すべて削ってしまったのは、何とも言えない感じになる。これはやっぱり、彼がコミットした、薄甘いヒューマニズムのせいであろう。ネット上の意見を拾うと、これは改悪としか言えないと、多くの人が考えている。物語の迫力が半分以上なくなってしまうんだから、それが当然なんですよ、手塚先生!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「火の鳥」 七つの謎 その2(フード付き鳥女とフードなし鳥女の違い)

2016年04月07日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
【手塚治虫は一度発表した作品でもしばしば後から描き直したことで有名で、「火の鳥」も細かいところまで含めると、掲載誌と刊本の数だけバリエーションがありますが、ここでは虫プロ商事などから出た最初の刊本(『COM』の別冊として、雑誌扱いですが)と角川文庫版のみを使用します。】

Ⅲ 罪とは何か、罰とは何か
 火の鳥のくだす罰はなぜこうまで不公平なのか。「火の鳥」全編を読んだ多くの人の頭に、この疑問が浮かぶであろう。
 「宇宙編」の猿田は一人を殺そうとしただけである。相手の牧村は、大量殺戮者だった。そんなことは関係ない、「罪は罪です」と未来永劫、現在の人類が死に絶えたさらにその先まで続く罰が宣告される。一方「太陽編」未来パートの主人公スグルは冷酷な殺し屋で、何十人か殺している。命乞いをする敵方の女を、「あんたを見逃すとすぐ通報するだろう」と躊躇なく光線銃で撃ち殺すところなど、牧村と同等の非情さが感じられる。しかるに、こちらは罰を受けるどころか、霊界で、千年前(正確には千三百年前)の恋人と改めて巡り合い、「自由な世界」へ行くことができる。
 このようなヒイキはどこから来るのか。私なりに考えついた結論を簡単に述べると、火の鳥は本来は罰を与える存在でない。ただ、何かの都合でそうすることはあり、さらに、どうもウソもつくようである。そこからすると彼女は、人間から見たら隔絶した強大な力を持つが、公平無私ではなく、まして全知全能でもない。人格というのか、「鳥格」を持ち、それに沿って行動している。もっとも、神話で語られる神は、煎じ詰めれば皆そういうところがある、と言えるのだが。
 以下、火の鳥の行動から逆にたどって、行動原理を探ってみよう。それには「宇宙編」を主に見なくてはならない。
 ここまでの「火の鳥」各編のテーマは、比較的明瞭で、
「黎明編」永遠の生命を求めて争う人間達を描く。
「未来編」生命観と時間観を明らかにした。
「ヤマト編」男女の愛を美しく謳い上げた(ので、手塚先生も照れたらしく、脱線ギャグが最も多い)。
 これに次ぐ「宇宙編」は、斬新なコマ割を駆使した緊密を極めた構成で重い内容を描き、強烈な印象を残す。今までのは長い導入部で、ここから「火の鳥」が本格的に始まるのだな、とさえ思えてくる名編である。


 「宇宙編」より、フードなし鳥女とフード付き鳥女

 ここではテーマを問題にしているので、いきなりネタバレする。
 牧村五郎は、地球のトーキョーで生まれたときから、宇宙飛行士となるべく定められていた(おそらく、「未来編」のロックのように、保存された精子と卵子から、コンピューターが才能ありと見込んだ二組を選んでできた試験管ベイビー)。他の惑星へ地球の雑菌をばらまかないようにと、無菌状態で育てられ、孤独だった。十八歳のとき、ある女と恋に落ちたが、女のほうはほんの遊びであったことがわかり、終生消えない心の傷を負う。
 この後「望郷篇」で描かれるエピソードを経験したはずである。惑星エデン17から地球へ向かう途中のロミとコムに出会い、彼らの手助けをしてやる。が、それは法律違反であり、この二人を殺さなければ「受刑星」へ送る、と政府首脳陣から申し渡される。刊本ではいずれも、牧村が撃つ前にロミの寿命が尽きて死ぬが、初出誌では命令通り彼が殺していた(コムのほうは片手をもがれ、水草に変身する)。「かんべんしてくれ。おれも…わが身大事の哀れな男さ」と言い訳しながら(このセリフは角川版では変更された)。ここでの彼はそれほど残忍ではないが、性格の弱さを抱えていることはうまく描かれている。
 さて、通常の時間だと、ここから何年か、何十年か経て、「宇宙編」のエピソードにつながる。牧村は調査のために鳥人(鳥から進化したと思しき形態の知的生物)の星フレミルを訪れる。フレミル人は穏やかな性格で、彼を暖かく迎えるのだが、牧村は、荒れていて、乱暴を繰り返す。初恋の相手に裏切られた痛みが、地球への望郷の念と重なって、激しくなったものらしい。
【これはちょっと……、そんなのは何人か女性体験を重ねれば消えてしまうじゃないか、と年配の男性は思うでしょう。手塚も多少は気にしていた証拠に、「望郷篇」で、いくらか後付けの伏線を張っています。
 第一に、「ウラシマ効果」というものがあって、彼のような宇宙連絡員には恋愛はタブーなのだ、と牧村自身が語ります。冷凍睡眠で肉体の老化を抑えながら、星から星へと巡るのが仕事なので、元の場所へ戻ってきたときには知り合いはみんな死んでいるか老人になってしまっているから、と。
 それでも、一夜限りの契りならできますし、牧村は、女にモテる男として描かれています。実際、そうでなければ後述の悲劇は起こらなかったのです。確かに、私が若い頃まで、不安定な感じの男は不思議に女性の関心を集めていました。「放っておけない感じの男」という感じで。
 と、いうような一般論より、「望郷篇」のヒロインのロミが、寿命と引き換えに若返えると、言葉ではなく行為で求愛し、同じく行為で(平手打ちで)拒絶されています。さらに、「あんたに百十三年前であってればまず第一におれは、あんたにプロポーズしただろうよ。そしたらおれの運命もかわってたかもしれない」というセリフを、角川版ではつけ加え、物語上の辻褄を合せています。そうなるとしかし、牧村の年齢はこの時で百十三歳以上か、という新たな疑問が生じますが。】
 そんな彼を慰めようと、ラダという鳥人の娘が、身辺の世話係として送り込まれる。献身的に尽くすラダに、牧村も心を許し、やがて惹かれ合うようになり、他の鳥人たちの反対を押し切って、彼らは結婚する。
 フレミル人の文明は高く、脳にある映像を可視化する装置「宇宙集像機」も発明していた。それを借りた彼はかつての地球の女を映し出し、会話を交わす。「本当は愛していた」「あなたを地球で待っている」などと女の映像は言うのだが、それは牧村が心底で望んでいることの反映に過ぎない。その挙げ句、この願望は、望みを妨げているようでもある周囲への憎しみに変って、爆発する。


 「宇宙編」より、現実のフレミル星の女と幻の地球の女
 
 私はこういうところに最も、手塚治虫の凄味を感じる。気弱な男が自分で自分を追いつめ、殺人鬼、正確には殺鳥鬼、へと変身する。これを三~四ページ足らずで見事に描出している。
 フレミル人は、これほど高い文明を持ち、人間の憎しみや悪意も知っているのに、戦う術はまるでなく、一方的に牧村に狩られてしまう。手塚も支持していた戦後平和主義の行く末を、皮肉にも暗示しているようだ。
 さて、牧村の前に最後のフレミル人と思しき女が現れ、「撃たないでください。私の生き血を飲めば、あなたは不老不死になれるのです」と告げる。言われるままに血を飲んだ牧村は、やがて異変に気づく。体が、だんだん若返っていくのだ。これがフレミル人の復讐であった。

 「宇宙編」の前半は、赤ん坊になった牧村が、手の込んだ仕掛けで「流刑星」へと送られる過程を描いている。五百光年離れた移民の星から、男四人女一人の連絡隊が地球へ向かう、そのうちの一人に彼がいる。亜光速で進む宇宙船の中では、一人づつ一年交代でブリッジに座り、あとは冷凍状態で眠る。牧村の番のとき事故が起こり、皆が目覚めると彼はミイラ状になっていた。宇宙船は航行不可能、四人は個人用の小型ロケットに乗り込み、脱出する。すると、死んだはずの牧村用ロケットが、彼らの跡からついてくるのが見える……。
 閉鎖空間もの(ヒッチコック「救命艇」、アガサ・クリスティ「そして誰もいなくなった」、など)の変形ではあるが、巧い。そして、凄い。無限の宇宙空間で、一人が横になれるだけのスペースしかない場所に閉じ込められて、音だけでコンタクトを取り合う、そこで牧村の「死」の真相(本当は死んでおらず、ミイラに見えたのは子どもになった彼が着ていた着ぐるみのようなスーツだった)をめぐる疑惑が膨らむ。この秀逸な設定と描写のために、他の無理矢理感は消えてしまう。火の鳥の力をもってすれば、牧村一人を流刑の島へ送ることなど簡単ではないかと思うのだが、なぜか関係のない四人を巻き添えにする、その理由は全く語られない。
 四人のうち二人とは途中ではぐれ、猿田と唯一の女性隊員ナナ、それに謎の牧村艇が酸素のある惑星に漂着する。そこは嵐や地震などの自然災害が年がら年中起きる苛酷な星だが、おさまると、洪水であふれた水も、崩れた岩も元に戻ってしまう。生き物を苦しめるだけ苦しめても、星そのものが壊れないように配慮された、悪意に満ちた環境。そこで牧村は永遠に生きねばならない。ある年齢に達すると若返り、赤ん坊からまた成長する、を繰り返して。
 シジフォスが運び上げては落下を繰り返す岩が、自分の体そのものになったようなもの、と言おうか。無意味な繰り返しによる永続。その恐怖をこの上なく説得的に可視化している。
 「宇宙編」は、このように、人間の根源的な孤独を描くのが主眼であって、「罪と罰」テーマは、物語をまとめるための枠、あるいはpretext(口実)に過ぎない、とも見える。作品評としてはそれで十分なのだが、敢えて、野暮を承知で、手塚が遺した細かい記号性にこだわってみる。
 牧村が赤ん坊になって流刑星に送られるまでの経緯は、火の鳥が変身した鳥女が猿田に説明することで読者にも伝わる。この鳥女は牧村を罠にかけたフレミル人の女にそっくりで、要するに両方とも火の鳥が化けているのだろう、と自然に思う。が、ちょっとした違いがある。前者は、顔の両側にフード状の布か毛が描かれているのに、後者にはない。そして、フード付きのほうは最後には火の鳥になって飛び去るのに、それがないほうは、光線銃で何度撃たれても死なないが、鳥に変身はしない。
 絵柄で類例を探すと、フード付き鳥女は「太陽編」で唐突に再登場し、異国の神々(仏教の守護神たち)との霊界戦争で傷ついた日本の産土神たちに、傷を治療してくれる女がいることを伝えて、ここでもまた火の鳥になって飛び去る。
 フードなし鳥女は、他では登場しないのだが、同じ「太陽編」未来パートのヒロイン・ヨドミが光線銃で撃たれるシーンは、「宇宙編」のそれに近い。灰状になってもまだ立ち上がる。彼女は火の鳥との直接の関係はなく、本性は産土神の狗族(くぞく)なので、最後には狼の姿になって、逃れる。
 これらからすると、フードなし鳥女は、火の鳥にたいへん近い存在だが、火の鳥そのものではない、という推定が成り立つ。あるいは、フレミル人と火の鳥の混血児なのかも知れない。

 火の鳥は子孫を作れる。その話は、「生命編」に出てくる。三千年前に空から舞い降りた鳥の姿の精霊が、ケチュア族(インカ帝国を築いた部族)の若者と結ばれ、娘を産み落とした。この娘は鳥のような顔をして、あらゆる生物を複製する薬の調合法を知っていた。食物も家畜も無限に作り出し、年老いると自分の複製も作って、何千年も生き延びている。
 それが、「人間狩り」を見世物にしようともくろむTVプロデューサー・青居邦彦の前に現れる。前述二種の鳥女は、フード付きもフードなしも、最低限の線で顔が描かれていたのに対して、こちらは劇画のように線が多く陰影の濃い絵で、不気味さが強調されている。彼女は青居の左手薬指を切り落とし、そこから多数の複製、即ちクローン人間を作り出す。
 この作品の発表当時(昭和55年)、クローンを使ったSFはもうそんなに珍しくはなかったが、ここでは、一般人がこの技術に対して漠然と抱く恐怖が最大限活用されている。無限の反復に換えるに、無限の増殖。生物の個体がいくつでもできるなら、もう「かけがえのいない生命」という概念は成り立たない。欠けた場合の「換え」はいくらでもいる、ということだから。人々に刺激と娯楽を与えるための、「人間狩り」の対象にしてもかまいはしない。青居は元々それを狙っていたのだが、自分及び自分の分身たちが狩られる獲物になり果てることで、この目論見の真の怖しさ罪深さを知る。
 ここでは罪と罰が正確に照応している。青居は自分がしようとしたことの結果を全身全霊で受け取るからだ。それは永久に続くわけではない。薬指を失くしたオリジナルの青居は、「できそこない」として最初に殺され、一体だけ逃げ延びたクローンは、最後に自分もろとも日本に出来たクローン工場を爆破する。こうして、彼自身も、彼の罪の結果も消えるのである。


    左:「生命編」より、アンデスの鳥女         右:「太陽編」より、再登場したフード付き鳥女

 改めて、火の鳥とその亜種たちの関係はどうなっているのか。鳥の形になるものと、姿かたちは鳥に似ているが、空を飛ばない者。後者に二種あって、アンデス山脈の奥に潜んでいる方は、自分は火の鳥の娘だと、来歴を語った。一方は、フレミル人に化けたまま。罪を犯した登場人物を罠にかけて、生きながら地獄へ突き落すところは共通する。
 彼女たちは完全に鳥の形になる原・火の鳥の、特性の一部を現しているが、より小さな存在である。だから、復讐と言うような、人間的な行為に及ぶのだ。原・火の鳥はどちらかというと救済をもたらす。猿田の前に現れた時にも、「あなたがたには罪は何もありません この星を出て地球へおいきなさい 私がはからってあげます」と告げるのだ。だったら、流刑星に辿りつく前にはぐれて、宇宙に消えた他の二人の宇宙飛行士のためにもはからってやれよ、と思うのだが、それにはなんの言及もない。
 もっとも、最後まで牧村とはぐれなかった猿田も、えらい目に合う。彼は女性宇宙飛行士・ナナに恋していたが、彼女は牧村が好きで、流刑星で、植物の姿になって、永遠の罰を受ける牧村を見守ろうと決心する。そこで、牧村には永遠の生命があることを火の鳥から聞かされていながら、「こいつさえいなければ」と愚かにも赤ん坊の彼を殺そうとするのである。それはやっぱり罪だ、と言われるのは、一見すると、「私が決めた罰を邪魔しようとしやがって」と怒った火の鳥の意趣返しのようだ。と、言うより、単なる嫌味だったのかも。
 次の「鳳凰編」の主人公・我王は、猿田の転生の中でもとりわけ印象深い人物である。幼い頃事故で片腕を失くし、ために差別と迫害を受けた彼は、長じて盗賊となり、何人も人を殺めた。僧・良弁と知りあい、ある悟りに達してからは、在野の仏師として、仏像や鬼瓦を製作し、人々の尊敬を集める。しかし、心の奥底の恨み・憎しみの炎がすっかり消えたわけではない。
 この作品のクライマックスで、火の鳥(だろう)が彼に語りかける。「おまえだけではない 一千年前一万年後の人間も すべていかりにつつまれた人生をおくったのです」と。それはなぜか? 「なぜ人間はいつもいかりに苦しまねばならんのか?」と我王が問うのには直接答えず、三つのビジョンを見せる。それは未来の彼の子孫、というかやはり転生した姿であろう。その中には、「未来編」の猿田博士のもある。「宇宙編」の猿田としか思えないものもある(が、そうだとすると、「ある星の世界で彼は永遠の苦しみをうけているのですよ」とこの時火の鳥が言うのはウソなわけだ)。要するに、皆苦しみ、報われない生涯を送っている。
 「人間はいつまでこの苦しみといかりがつづく?」と、再び我王が問う。「永久にです そして我王 おまえはその人間の苦しみを永久にうけて立つ人間なのです
 これが正解だろう。多にして一の存在である彼は、苦しみ、苦しむがゆえに罪を犯し、その罪のためにまた苦しむ。あるときたまたま何をしたか・何をしようとしたかには関わらず、人間存在のもっとも深い宿業を生きる者なのだ。それに対してどんな罰を与えようと、それもまた「たまたま」以上ではなく、いかなる解決も導かない。生きることそれ自体が罪責であり、劫罰なのだから。
 火の鳥はこの宿命に寄り添う存在である。少なくとも「鳳凰編」ではそうだ。仏師として我王のライバルである茜丸が焼け死ぬ時、もう一度人間に生まれ変わりたいと望む彼に向って、冷たくこう言い放つ。「おまえにはもう永久に…この世がなくなるまで 人間に生まれるチャンスはないの!」と。それは茜丸が何をしたか、どういう人間かには依らない。ただ、そう決まっている、というだけなのだ。
 キリスト教だと、ジャンセニズムやカルヴァンの「予定説」が思い出される。誰が救われるか救われないか、それは神のみが決められる。人間が、これこれをすれば恩寵が得られる、なんぞと慮ること自体が不遜なのだ。そもそも人間は、永遠の相の下ではチリにも等しいちっぽけな存在でしかない。まずそれを得心することが、信仰の第一歩になる。
 それでも、短いスパンでは、やったことの結果の一部か全部が報いとして降りかかってくることはある。それ以前に、感情はあり、欲望もあり、その揺れ動き自体が人間にとって重大事であるに違いはない。ただ、憎悪や悲哀などに、あまりに強く拘泥し、挙句に罪を犯すのは馬鹿げきっている。前述した我王の悟りの内容は、これであった。
 では窮極のところ、罰はなんのためにあるのか。ある世界を世界たらしめている秩序を守るために。たぶん、フレミル星やアンデスは、火の鳥には縁の深い場所なのであろう。そこでの罪は見過ごされず、全面的に罪人に返される。火の鳥の亜種たちが関わるのはそこで、結局は自分の都合と感情で動くのだから、その分セコく見えてしまうのである。

 繰り返しによる罰、ということなら、もう一つ、中篇「異形編」に触れないわけにはいかないだろう。しかしこの作は、お話としての集中度は高いが、辻褄合わせの点で突っ込みどころがまことに多い。手塚先生に直接それを言えば、「そんなことにこだわるから、お前は到底大作家になれないんだよ」と返されるかも知れず、それはまことにそのとおりなんですが……。
 題材は八百比丘尼(やおびくに/はっぴゃくびくに)伝説である。八百年生きているとも、どんな病気でも治すことができるとも言われている。
 戦乱の世。八儀家正はしがない下人の身から、非道を重ねることによって、地方の領主にまで成り上がった。悪行の報いか、鼻が大きく腫上がる病気になって、猿田の転生であることがはっきりするのだが、このたびは些かも同情の余地がない。実の娘にも憎まれている。世継ぎがほしいので、左近介(さこんのすけ)と名付けて男として厳しく武芸を仕込み、初めて恋した家老の息子は、いくさ場で置き去りにして、間接的に殺してしまったのだ。
 この家正、鼻の病気のために命も危ない、と言われたので、霊験あらたかと評判の八百比丘尼を呼び寄せ、治療させようとする。現れた尼は左近介にそっくりなので、皆驚く。それはそうと、自分の鼻の病を治すことはできるのか、できなければお前をこの場で殺す、と家正が迫るのに、尼は、七日の猶予をもらえれば特効薬を作ろうと答える。
 それは困る、と左近介。父のような人でなしは業病で死ねばいい。それで初めて自分も女として生きられる。治そう、などと言う者は、先に殺してしまおう。と、尼の住む蓬莱寺に忍び込み、首尾よく凶行を成し遂げた。が、城に戻ろうとすると、不思議な力に押し返され、寺の付近から先に進むことができない。何日か後、病や怪我を治してもらいたいと、人々が寺へやって来る。やむなく尼に扮し、仏像の中に隠されていた光る羽で治療を行う。人間のみならず、妖怪(もののけ)たちも、怪我をしたものが現れる。左近介は哀れに感じて、それも治してやる。そうこうするうちに、海岸に流れ着いた漂流物から、外の世界は三十年時間がもどったことがわかる。さらに十年経つと、領主八儀家正に、左近介という名の世継ぎが生まれたという報せがもたらされる……。
 やがては二十年前の自分に殺されるのだろう。それに気づいたとき夢に火の鳥が現れ、これが十年前に彼女が人を殺した報いであり、この場所には特別な時間が流れているので、三十年ごとに新しい左近介が来て尼を斬り、新たな尼に成り代わる、それが無限に繰り返されるのだ、と告げる。
 ひとつだけ突っ込ませてください。新・左近介が前の尼を殺すと同時に、蓬莱寺を中心とした場が三十年前の時に戻る、ということだろうが、そうすると、尼の治療を受けられるのはこの三十年間の人や妖怪だけ、ということになる。八百年生きている、という伝説はどこから生まれたのか? 
 やっぱり「多次元宇宙」なのかなあ。火の鳥は、別の世界にいる人間以外の異類もここへ送り込む、と言う。そこは、左近介が元いた場所とも蓬莱寺付近とも別の時間が流れている、とすれば、別にいいわけか。
 もっと深い企みがあるような気がする。「太陽編」では、フード付き鳥女=火の鳥が、産土神を治す女は八百比丘尼だと明言していた。尼のいる場所には無限の時間が流れている、とも。しかし、このときは壬申の乱で、左近介は応仁の乱の時代の人だから、ちょうど八百年の開きがある。たぶん、普通の時間概念から言っても、献身的な治療者たる尼は八百年前からいたのである。それは左近介とは別で、これが、罪障が消えたか何かで引退(?)したとき、新たにリクルートされたのが左近介だったのだ。
 最初の尼を殺したとき、それは自分自身を殺したのだという思い込みは、火の鳥によって与えられた幻覚だったのだろう。あとはループ構造の時間場を作り、実際に自分殺しを延々と続けさせる。なんのために? この世界と他の世界の生き物を多少なりとも慰める仕事をさせるために。それには、殺す-殺される、の両方の立場から罪の恐ろしさをよく知っている者こそ相応しい、と考えられたのだろう。
 そう、これは仕事なのだ。宇宙のさいはての星でただ苦しむためにだけ無限に生きるのと比べれば、違いはすぐにわかる。どんな生き物でも分け隔てなく治療することで、深い尊敬を得るのだから。
 のみならず、こうなるのは半分以上左近介自身の意思である。三十年前の「あの日」が来ると、彼女は城まで行ける。よそへも行けるかも知れない。そうでなくとも、家正の治療を断りさえすれば、その場で殺されるから、新しい左近介が新しい尼になる契機は失われる。が、どちらもしない。「鳥との約束だから」と。ここには一身を他者への救済に捧げた、紛うことなき聖女がいる。彼女の、あくまで自らの罪を引き受けようとする意志が、無限の時間が流れる小世界を維持するのである。
 思うに、日本のような宗教風土では、罪とその贖いの物語を語るのは難しいのだ。下手をすれば、御利益を餌に善男善女を釣ろうとする、生臭坊主の説教程度になってしまう。そこを巨大な構成力にものを言わせて、人間存在の根源までうかがわせるダイナミズムを獲得している。話の進行上の、多少の強引さには目を瞑るべきなのであろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「火の鳥」 七つの謎 その1

2016年03月15日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
【この作品を全然知らないのに拙文を読んでくださるという素晴らしい人のために、説明しておきます。「火の鳥」とは、「漫画の神様」と呼ばれた手塚治虫が、その漫画家人生のほとんどの期間――何回かの長い中断期間はありますが――こだわって書き続けた一連のマンガの総称です。普通は、虫プロ商事の雑誌『COM』昭和42年1月創刊号から連載が開始された「黎明編」から、死の前年の63年まで書き継がれた「太陽編」までの、長短合わせて12編のシリーズを指します。
 これを小説に例えると、バルザックの「人間喜劇」に近いかも。各編はそれぞれ一個の作品として独立していますが、他の編と関連付けられて大きなまとまりの一部ともなります。すべてに登場する、少なくとも話には出てくる火の鳥とは、不死鳥(フェニックス)のことで、その生き血を飲んだ人間は不死、あるいは人間離れした生命力を得る、というのが基本設定です。
 それから、お断り。手塚治虫は一度発表した作品でもしばしば後から描き直しをしたことで有名で、「火の鳥」も細かいところまで含めると、掲載誌と刊本の数だけバリエーションがありますが、ここでは虫プロ商事などから出た最初の刊本(『COM』の別冊として、雑誌扱いですが)と角川文庫版のみを使用します。】
 
 神様まではともかく、戦後日本のフィクション界で「巨匠」と呼ばれるに相応しい存在と言えば、手塚治虫しかいないのではないか、と思う。あとは黒澤明がまあまあ候補になるかも、だが、以下の点で手塚は飛び抜けている。
①戦後日本が産み出した唯一のジャンルであるストーリーマンガの、成立と発展の過程で、長く主導的な役割を果たした。
②あらゆるジャンルの作家の中で、作品総数がたぶん世界一多く、しかもほとんどが現在も読むに耐える水準に達している。
 映画の世界で言えば、D.W.グリフィスとエイゼンシュタインとウィリアム・ワイラーを一身で兼ねた人物、と言ってもホメ殺すことはできないくらいの存在ではある。
 その上で彼は、非常に奇妙なところのあった作家でもある。自らライフワークと銘打った「火の鳥」連作を通じて、しばらくそのことを考えてみたい。

Ⅰ なぜ少年マンガの絵柄と、妙なギャグにこだわったのか
 「黎明編」の主人公ナギ(←イザナギ)は少年で、丸まっちい愛らしい絵で描かれている(ただし背景は重厚)。これと、彼が辿る過酷な運命は合わないような気がするのだが、それについては白戸三平「サスケ」(昭和36~)という先蹤が一応ある。
 しかし、手塚はこの頃、困難な問題を抱えていた。劇画と呼ばれる画風が台頭し、それまでのマンガの絵を幼稚で古臭いものに見せるようになってきたこと。彼がこれに反発と脅威を感じるあまり、しまいには階段から転がり落ちるほど圧迫されたことは自伝的エッセイ「ぼくはマンガ家」(毎日新聞社昭和44年刊、後に角川文庫)に書かれている。
 おそらくそのせいもあって、彼はこの時期、まだ草創期にあった青年(あるいは成人)マンガに軸足を移した。この42年に手塚は新聞の一コマ漫画のような細い線の戯画タッチによる「人間ども集まれ!」を『漫画サンデー』に連載しているし、翌43年の『ビッグコミック』創刊号では、劇画とは一線を画するものの、鋭角的な線と陰影の濃い絵柄、何よりも、それまでになくセクシーな女性を描いた「地球を呑む」が始まっている。いくつかの試みの果てに、手塚青年マンガが確立されたのである。【このへんは手塚治虫公式ウェッブサイト『虫ん坊』中の黒沢哲哉のコラム「手塚マンガあの日あの時 第17回」に詳しい。】
 もちろん、これだけの巨匠になると、そう安直なことは言えない。彼は少年マンガの分野でも、最後まで現役であった。「ブラックジャック」や「三つ目が通る」を無視する、なんてわけにはいかない。ただ、これら後期の作品、のみならず42年当時描かれていた長編少年マンガ「バンパイヤ」や「どろろ」、それに43年からの「ノーマン」などと比較しても【しかし、よく描いたもんだなあと、あらためて舌を巻きます。】、「火の鳥」の、特に最初の三つ、「黎明編」「未来編」「ヤマト編」の人物は、まるで先祖返りしたような、可愛くて平面的な人物絵になっている。内容は、普通に考えて、子供向けとは言えないにもかかわらず。これはどういうわけか。
 まず、首が切られて転がるような描写も、「望郷篇」で、人類の二大タブーである近親相姦と人肉食を採り上げても(後者は角川版では削除)、さほどの生々しさは感じずにすむ、という効用はある。
 もっと重要なのは、「火の鳥」のルーツがずっと昔にあった事実だろう。戦前『少年倶楽部』の編集長だった加藤謙一が学童社を創設して創刊した『漫画少年』に、昭和29~30年、この雑誌の廃刊号まで連載された「火の鳥」があって、これも明確に「第一部 黎明編」と銘打たれている。登場人物も、ナギ、猿田彦、弓彦、ヒミコ、ウズメ、スサノオ、といった面々は後の『COM』版にも、少しづつ設定を変えられたうえで、再登場する。
 一番大きな変化は、火の鳥の設定で、永遠ではなく三千年と寿命が限られて、卵を、つまり子どもの火の鳥を産む。これは少女クラブ版の「火の鳥」(昭和31~32)にのみ引き継がれている。
 このときの第二部以降の構想は、火の鳥の生き血を飲んで三千年の生命を得たナギとナミの兄妹を軸として、日本の歴史を20世紀までたどるという、これはこれで壮大なものだったようだ(手塚「火の鳥と私」、COM名作コミックス『火の鳥 未来編』虫プロ商事株式会社昭和46年刊所収)。また、最初のほうに人肉食の話も出てきて、この時代の少年マンガで、と驚嘆するが、それはその後の回で掘り下げられることはなく、なんとなくスルーされてしまった。
 などなどの違いはあるのだが、『COM』版は、13年ぶりの仕切り直しであったことは確かである。そこで彼が一番描きたかったことには、これまた彼自身が開発して確立した少年マンガの枠組みこそ相応しい、と思えたのだろう。


左:「ヤマト編」より ヒロインの登場シーン         右:「乱世編」より 電話で会話する頼朝と義経

 それから、特に過去の時代を扱った諸編に多い、大して面白くないギャグ、それにデフォルメやアナクロニズム、はいったいなんのためか。
 意地悪な目は、この程度では自分の築き上げた完璧なコマ割は小動もしないという、傲慢なまでの自信の現れを看取するかも知れない。「火の鳥」以外でも、手塚の愛読者にはおなじみの、唐突に一コマだけヒョウタンツギというマスコット(か?)を描く遊びなど、他の漫画家では許されそうにないのだから。するとこれは、手塚式の落款でもあったのか。
 逆に好意的に考えると、ブレヒトが唱えた「異化効果」、つまり、読者が作品世界に過度に感情移入せず、一定の距離を保ち、批判な視座を保つための配慮であった、との見方も、まあ可能である。
 いずれにもせよ手塚は、「現実」を描こうとした作家ではない。ノイローゼになるほど劇画を嫌ったのも、一見リアリスティックな泥臭い絵柄が、自分とは対極にあることを認めたからだろう。
 劇画のタッチは、例えば、日常的な意識の底に潜む情念を抒情的に描き出したつげ義春の諸作品や、時代の制約に挑戦して苦闘する者たちをダイナミックに描いた白戸三平「カムイ伝」のような忘れ難い名作を生んだ。手塚治虫の作家性は、根本的にそれらと相容れない。
 彼は、特徴的な人物を異常な状況の中に投げ込んで悩ませつつ行動させる、オーソドックスでスリリングな絵物語の作者として終始した。「現実」も、「歴史」も、そこでは二次的な意味しかない。服装や建物・乗物などで空想画であることがすぐにわかる未来を扱ったものより、歴史物でこの遊びが多用されたのは、それをはっきりさせるためであったろう。自分の祖先とされる手塚光盛(斎藤実盛を討ったことで有名)を自画像のような顔で登場させたり、細かいところで「日本書紀」や「平家物語」を忠実に踏まえているように見えても、それらは畢竟材料に過ぎない、と。
 このことは、晩年の重厚な青年マンガ「陽だまりの樹」や「アドルフに告ぐ」でも基本的に変わらない。さすがに露骨な脱線・脱力ギャグのコマこそないものの、随所に滑稽にデフォルメされた絵が挿入され、また全体が、デフォルメが不自然なまでに浮き上がらないような軽味をもった絵柄なのである。

『陽だまりの樹 第1巻』より
 より顕著な例として、「アドルフに告ぐ」では、マルティン・ボルマンやアイヒマンといった実在のナチス高官の中に、これまた年来の手塚読者にはおなじみの悪役キャラクター、アセチレン・ランプを入れ、あまつさえヒトラーを死なせるという重要な役割を与えている。もう一人の悪役キャラ、ハム・エッグは、日本の刑事の役なので、日本名になっているのに対して、それらしいドイツ人名を与えるわけでもなく、一見して荒唐無稽なアセチレン・ランプのままで。
 ここまでやるのは、逆に、手塚が稀代のストーリーテラーであることだけでは満足しなかったからこそではないだろうか。絵物語の絵空事でしか伝えられないメッセージがある。それがたぶん彼の確信であり、それなら、それはどういうものかを気にかけながら読むのが、「火の鳥」の読解としては「正しい」のであろう。

Ⅱ 時間構成の意味するものは何か
 「火の鳥」を読んだ人は、その壮大にして独特な時間構成にまず目を奪われるだろう。かく言う私もその一人だった。だから、よく知られているのだが、まとめのために、『COM』誌発表以後の各編(マンガのみ、また中絶した後で書き直されている場合、最初のものは除く)を発表順に並べ、作中の年代を記しておく。はっきり数字が記されているものもあれば、推測するしかないものもあるが。

黎明編(卑弥呼の時代、BC240頃)→未来編(AD3404~)→ヤマト編(日本武尊の時代、4世紀前半)→宇宙編(AD2577)→鳳凰編(東大寺大仏建立前後、AD752頃)→復活編(AD2482・3344)→羽衣編(平将門の乱、AD940頃)→望郷編(宇宙編から再登場した登場人物の年齢から、23~24世紀)→乱世編(源義経の戦死まで、AD1172~1189)→生命編(AD2155~2170)→異形編(応仁の乱、AD1468~1498)→太陽編(過去パートは白村江の戦いから壬申の乱まで、AD663~672。未来パートはAD2009)

 古代から未来、未来から過去へと、振り子のように時代設定を行きつ戻りつして、次第に現在へ近づく。これは前出「火の鳥と私」で手塚自身が明らかにしている構成であり、たぶん全く独自のものである。
 他に「未来編」の中では、シリーズ全体の要となるべき生命観と、円環的時間観念が解説的に描かれている。こちらから先に考える。
 前半の人類(及びすべての生命、らしい)滅亡の部分は、登場人物も少なくて、まことにチマチマした話になっている。力点は後半部分にある。核戦争と放射能汚染による大破局の後、一人の平凡な男が生き残る。火の鳥が彼を不死にしたからだ。地球上にもう一度生命を呼びもどすために。
 その男、山野辺マサトは、まず、火の鳥に導かれて極小から極大の世界を見る。素粒子の周りを惑星のようにめぐるものがあり、そこにも「生物」が住んでいる。その「生物」の細胞の中に入り込むとまた素粒子があって……、以下これが無限に続く。次に太陽系を超えて銀河全体を一望する視座を得ると、多くの銀河がより集まって大宇宙となるのを目にする。この大宇宙は一つの細胞になる。つまり、太陽もまた素粒子の一つであり、宇宙生命という超巨大なものの一部なのである。
 原子核の周りを電子が回っているというボーアの原子模型のイメージから、恒星を中心とした惑星系が連想される。それに基づいた、SFではさほど珍しくないお話であることは後に学んだが、本作で初めて知った時(高校生だった)には、興奮したものだ。
 それはそうと、このアナロジーが正しいとするなら、一つの細胞が死んでも生体が生きている以上すぐに再生するように、地球どころか太陽系・銀河系全体が滅んだところでまた新たなものができるのだろう。宇宙生命から見たら大したことはないのだから、放っておいてもいいはずだ。
 が、ここで火の鳥は違うことを言う。言い遅れたが、火の鳥は、自分は宇宙生命の一部であり、同時に地球の分身でもある、と告げる……。よくわからないところは呑み込んで、彼女(どうも、女性らしい)の言い分を聞くと、地球は今死にかかっている。それは人間が進化の方向をまちがえて、まちがった文明を作ってしまったからだ。一度すべてを御破算にして、つまり人類を絶滅させて、最初からやり直さなくてはならなかった。 
 と、言われたマサトは、ただ一人の人間、いや、生物として、孤独に耐えながら、様々な試行錯誤の果てに、生物進化の最初の一歩にきっかけを与えるぐらいしかできることはない、と思い知る。具体的には「つまらぬ炭素と酸素と水素のまざりもの」を海に投じるのである。それがなんらかの変化を地球に生じさせるまでに何億年か経ち、マサトの肉体は朽ち果てるが、意識はずっと残存する。この新しい世界で彼は神と呼ばれるに相応しい存在になったのだ。このへんの超壮大な展開には、もう脱帽するしかない、と今も感じる。

「未来編」より
 コアセルベートが生命の起源だというのは、当時有力だった説のようで、手塚の勉強家ぶりがうかがえるが、正しいのかどうか当然私にはわからない。とりあえず作品の中では何百億年か後にそこから発生した植物が地上に生い茂り、爬虫類や哺乳類も闊歩するようになる。しかし今回の生物進化は、妙な寄り道をする。
 この段階でナメクジがやたらに強くなって、頭脳も肥大して知性を持ち、文明を築き上げる。ありゃ、このまま全くの別世界譚になるのかな、と心配になったところで、無事に(?)ナメクジ文明もまた、二つの種族間の大戦争によって崩壊する。
 短いエピソードながら、直立して歩くナメクジの姿は非常に印象的だ。これは前述のギャグとは違う。人類とは全く違う種でも、文明を持てば同じように破滅する、一番深いところでこの宿業を見つめているのである。
 さて、ナメクジ文明が跡形もなく消え去った後で、前回通り、直立猿人からホモ・サピエンスが生まれる。しかしそれは、火の鳥やマサトが望んだ新しい人間ではなく、元の通りの愚かしさを備えた者たちだった。ここへ来てさすがにマサトの役割は終わり、彼は火の鳥の内部で懐かしい者と再会し、宇宙生命と一体化する。
 「未来編」の最後には、「黎明編」の最初が描かれているので、つまりここで時間が一巡りして、もとにもどったことが示される。生命は一度滅んでも何度も復活する、というところからすると、これが相応しいようだが、注意しよう。生命の再生と時間の反復は、本来全く違う。だいたい、同じことが無限に繰り返される永劫回帰が宇宙の実相だとすると、進化の「やり直し」という火の鳥の意図は全く無意味だということになってしまう。
 事実、反復による永続性は、「火の鳥」の中では劫罰として与えられる。罪と罰の問題は次項で考えるが、ここでは一例だけ、全編を通じた最重要登場人物である鼻の大きな人物を考える。彼は「宇宙編」で猿田という名であったとき、ある罪を犯し、火の鳥からこう宣告される。「あなたの顔は永久にみにくく……子々孫々まで罪の刻印がきざまれるでしょう」「おまけにあなたの子孫は永久に宇宙をさまよいみたされない旅をつづけるでしょう」。
 とは言っても通常の年代から言うと「宇宙編」の後は「未来編」しかない。後者で登場する猿田博士は、醜いので女性に愛されず、生命の秘密を解こうとする悲願にも挫折する。それが先祖(か?)の猿田が犯したことの因果応報、と確かに読める。ところで、「宇宙編」よりは過去を扱った諸編「黎明編」「鳳凰編」-「乱世編」(-は同一人物として登場することを意味する)「異形編」「生命編」「太陽編」「復活編」(-「未来編」)にも、彼の子孫、ではなくて転生なのだろうが、やっぱり登場して、苦難、あるいは波乱に満ちた生涯をたどる。未来から過去に向かって転生するというのも、時間が閉じた円環をなしていて、順番は関係なくなるから、と考えることはできる。
 円環的時間構造が使われているな、と思えるのはここのみである。それにしても、この時間中の因果応報だと、因(原因)→果(結果)の順番もくるくる入れ替わることになって、じゃあ「応報(行為、特に罪に応じた報い)」ってなんなんだ、と思われても来るが。それはやっぱり呑み込むしかないようだ。

 より重要なのは、「太陽編」が、7世紀と21世紀がシンクロナイズする構成になっていることだ。
 壬申の乱は、霊界の戦争、即ち当時朝廷の庇護を得て日本全土に広まりつつあった仏教と、古来よりその土地にいて住民を庇護してきた産土神(うぶすながみ)の戦いが背景にあったものとして描かれる。一方、21世紀初頭の日本では、火の鳥を崇拝する宗教集団「光」が権力を握り、それに抵抗する集団「影(シャドー)」との戦いを繰り広げている。前者の主人公は、日本と連合して白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた百済の、王族の青年であり、大海人皇子の側に立って戦う。後者ではシャドーの戦士で、暗殺者である。一方が眠った時、もう一方の夢を見る、という形で物語は進む。
 転生、ということも言われてはいるが、それでは辻褄が合わない。過去世界でオオカミの皮をかぶって生きなくてはならなかった主人公が、人間の顔にもどるのと同時に、未来世界の主人公がオオカミの顔になるのだから。
 ここは多元宇宙論という、科学的には本当はどういうことかよくわからないままに、マンガでは多用された観念を使っているらしい。同じような時空が複数個、少しづつ位相を変えて同時並行的に存在するウンヌンカンヌンで、物語の破綻を糊塗するには便利この上ない道具になる。魅力的な登場人物が死んでも、「それは別の世界のできごとで、こちらの世界では……」なんて言うだけで再登場させることができる。
 だったら円環的時間も輪廻転生もあったもんじゃない、ということになるので、手塚は賢明にも、これについては何の説明も加えていない。内容的なこの構成の意味はと言うと、まず、宗教が権力を握って他宗教と争う宗教戦争は、日本ではまだしも、世界史的に最もやっかいなものの一つであった事実が思い浮かぶ。周知のように現在も、キリスト教とイスラム教の戦いはあり、いっこうに解決の目途がつかない。千年以上の時を経て反復される争いから、人間の業の深さを描き出す意図であったのか。そうだとしても、成功しているかどうかは、正直、疑問だ。
 もう一つ、作者の都合が考えられる。最初に述べたシーソーのように揺れて揺れ戻ってだんだん現在に近づく構成。これを貫くには、「異形編」の後には「生命編」の前の年代が描かれなければならない。事実「太陽編」の未来の部分は、2009年だから(今となってはもう過去になってしまったわけだが)、合っている。これの過去方向での反復(どっちがどっちを反復しているかは、前述した理由で問題にならない)という形で、「異形編」よりさらに前の時代を採り上げても、一応の恰好はつく。
 では、この構成自体の意味は何か。これがおそらく「火の鳥」最大の謎である。
 
 昭和46年、一回だけの短い「羽衣編」を『COM』10月号に出した手塚は、次の12月号に「火の鳥 休憩 INTERMISSION またはなぜ門や柿の木の記憶が宇宙エネルギーの進化と関係あるか」というエッセイマンガを載せている(手塚プロダクション監修『火の鳥公式ガイドブック 悠久の時に刻まれる生命の謎と真実』株式会社ナツメ社平成17年刊所収)。ここでは、現実には一度も見たことのない門や柿の木が、夢に、非常にリアルに現れる、という話から、よくある、過去生=生まれ変わりについて語られる。
 手塚は、霊魂不滅そのものは信じないが、もしかすると、宇宙には人間の想像もつかないエネルギーがあって、それが有機物に入り込んで生命として現象するのではないか。個体が死ぬと、いったんエネルギーは離れるが、そのものは消えず、新たな個体に吸収されるのを待つのでは、と。
 これは「子どもだましのデタラメな空想」ではあるが、「だがそれが子どもマンガだと思うんです」とも。なるほど、それで少年マンガの絵柄でなくてはならなかったのか、とそこは素直に納得される。以下、「火の鳥」の創作意図に触れた部分の、文だけ引用する。/はコマが別になるところに入れた。

ぼくは火の鳥の姿をかりて 宇宙エネルギーについて気ままな空想をえがいてみたいのです/なぜ鳥の姿をさせたかというと……ストラビンスキーの火の鳥の精がなんとなく神秘的で宇宙的だったからです/だからこの「火の鳥」の結末は ぼくが死ぬときはじめて発表しようと思っています

 何が「だから」なのかよくわからないのだが、こういうことか。手塚治虫という個体が滅しても、それを生命体にしていた宇宙エネルギーは存在し続ける、最後にそのことを明らかにするために、エネルギーが描いたものとして作品を発表する……。
 描いた作品を秘匿しておいて、死後に公開する、ということなら、インチキだが、できない話ではない。しかし、角川春樹との対談「火の鳥と現在(いま)」では次のようにも言っているのだ。

 いや、僕は【死ぬ瞬間に】描いてみせますよ(笑)。一コマでもいいんですよね。それがひとつの話になっていればいいんですから。「火の鳥」の終末になっていればいい。それは僕にとっての初めての体験でもあるんですよ。「あ、これで僕は死ぬんだ」とは思わないかもしれませんよ。どこかの星に行くのかもしれない。(『ニュータイプ100%コレクション 火の鳥』角川書店昭和61年刊所収))

 最後のひとコマ、それは「陽だまりの樹」の最後に、主人公の一人手塚良庵が自分の祖先であることを明かしたことを思わせる。同じように、火の鳥の窮極の正体も明かされるひとコマ。それを描くのはもはや手塚治虫という人間ではなく、宇宙エネルギーそのもの。すごい空想、というより妄想である。無論悪口ではない。この妄想力こそ手塚を比類ない創作家にした原動力に違いないのだから。
 さらにもっと深い問題がある。過去も未来もすべて、生死の境にいる自分=作者の「現在」に収斂していく構造とは、最後に過去と未来のいっさいを含む「現在」を提示するということに他ならない。時間が直線的であれ円環的であれ、この「現在」こそ、永遠であろう。
 作者が自分の死期を悟る前に急逝しなかったとしても、このような物語は未完になることが宿命づけられていたような気がする。私のような凡人では、どこか別の星に生まれ変わった手塚がどう完成させることができたのか、妄想することも難しい。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴミ製のネバーランド

2014年12月31日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
メインワーク:黒澤明監督「どですかでん」(昭和45年)

サブテキスト:山本周五郎『季節のない街』(昭和37年『朝日新聞』連載。新潮文庫版より引用)

 
 最近ふとした気まぐれで、黒澤明の未見の映画をまとめてツタヤから借りてきて視聴した。やっぱり、いいですね。「一番美しく」(昭和19年)にも「わが青春に悔なし」(21年)にも「素晴らしき日曜日」(22年)にも、文句なく感服した。しかし、ずっと後年の「どですかでん」は……? 黒澤五年ぶりの、また初のカラー作品である以外にもいろいろと曰くがあり、また評価の分かれる作品であることは聞きかじっていた。たぶん私の「?」は本作公開当時多くの観客の感じた戸惑いと同じものだったろう。
 これは黒澤の心象風景を映したものなのだろうか。「夢」(平成1。これは公開当初映画館で見た)がそうであるように。だとすると、その種の作品には私はめったに感応することはなく、批評の言葉も持たない。縁なき衆生だとあきらめるしかない。しかし、そうでもないような。二度繰り返して見て、少しも退屈は感じなかったのだから。
 
 あるいは私は、山本周五郎の原作小説を愛しすぎているのかも知れない。黒澤の前作で、名作の誉れ高い「赤ひげ」(昭和40年)にも少し不満を抱いた。この映画の後半には、原作(「赤ひげ診療譚」)にはないエピソード(二木てるみと頭師佳孝という二人の名子役を主としたところ)が大幅に入っている。これもいいが、どうも映画の他の部分と整合性が取れなくなっているような気がした。山周の世界はあれで完成しているのだから、余計なものをつけ加えるな、なんて言いたくなったのだ。
 「どですかでん」には、原作にないシーンやセリフはほとんどない。ただ、原作から八つの短編を選び、これを細切れにして、順次入れ替わりに進める構成をしている。それで話がこんがらがるのを防ぐために、乞食親子の過剰なメークやら、スワッピングをする夫婦の赤と黄の色分けなど、視覚的な記号を幼稚なまでにわかりやすく使っているのかな、と思う。
 それにしても、グランドホテル形式というのは知っているが、中心になる大事件もなく、大多数の登場人物が、同じ場所(「街」)にいるというだけで、終始顔を合わせもしない、という例は私は他に思いつかない。「大空港」でも「愚か者の船」でも、もうちょっと登場人物間のからみがあったように思う。だいたい、時間の進み方も各エピソード毎にまちまちなのである。この独特の構成法に、脚本(黒澤明・小国英雄・橋本忍)の工夫の第一があるのだろう。それはどんなものか。三度目にノートを取りながら見て、考えてみた。【こういうことができるのはビデオがあるからで、映画のまっとうな見方とは違うかも知れないのだが、できるようになってしまったものはしかたないでしょう?】

 その前に私が敬愛してやまない山本周五郎の作品について述べておこう。
 「季節のない街」は前年の「青べか物語」と同じ現代もので、貧しい庶民の日常を描いた短編連作というところまで共通する。【「青べか物語」は川島雄三がこの37年に映画にしている。You Tubeにアップしてくれた人がいて、やれありがたや、と思って見始め、あの川島がずいぶん端正な画面作りと編集をしたものだな、と感心しているうちに、途中で切れてしまっていた。早くDVD化されないかな。】
 しかし、「青べか」よりは、「季節のない街」の、「街へゆく電車」で始まり「たんばさん」で終わる全部で十五の短編は独立性が高いし、何よりすべてのエピソードを見聞きして語る「私」(「浦粕」という漁師町にやってきて「青べか」と呼ばれる中古のボートを買った三文文士)がいない。話の中身は、「登場する人物、出来事、情景など、すべて私の目で見、耳で聞き、実際に接触したものばかり」と「あとがき」にはあるけれど、ここでは作者は時折論評的なことを書きつける以外は作品の背後に隠れている。そこは近代三人称小説の王道に則っているが、大枠では、それに収まりきらない世界を扱っている。
 まず冒頭の、「街へゆく電車」の主人公六ちゃんは、この「街」の住人ではない。「街」へ行く唯一の市電の運転手、と言っても、電車自体は彼の頭の中にしかない。それは時々荒地のどぶ川を飛び越して「街」中へ入る。狭いどぶ川が境界なのである。東側の繁華街と、西側の極めて貧しい「季節のない街」との。「東側の人たちにとって、その「街」も住人も別世界のもの、現実には存在しないもの、というふうに感じられている」(「街へゆく電車」)。読者は六ちゃんの見えない電車に乗って別世界へと誘(いざな)われるわけだ。この導入部は映画「どですかでん」でも忠実に踏まえられている(どぶ川はなかったように思うが)。
 どんな別世界なのか? 名づければ、「逆ユートピア」というのが相応しい。あまりにむきつけに人間の基本的な欲望が露出しているので、かえって現実感が失われる、といったような。
 住民たちは皆、その日暮らし、英語のfrom hand to mouthの生活を送る者たちであって、社会的栄達の見込みはないし、大多数がそんなものは望んでいない。昨日のことも明日のことも知らない、今しかない、という有様でいる。例外は二つあって、夜学で英語を習いながら、亡父の忠告通りこっそり貯金をしている少年は、それがエゴイスティックだと母から詰られる(「親思い」)し、できるだけ倹約をして貯蓄を心がけた主婦は、栄養不足が主因で三人の娘を次々に亡くし、自身も「自分のいのちまで倹約するように」早死にする(「倹約について」)。通常の美徳や前向きの夢はこの世界では決してよい結果をもたらさないのである。因みにこの両エピソードは映画では取り上げられていない。
 では、いかなる夢も望みもないのかと言えば、そういう生き方も人間にはけっこう難しいようだ。現実離れした「夢」、というか法螺話は、多くの登場人物の口から語られる。それは見栄からではない。いや、それもなくはないが、「虚飾で人の眼をくらましたり自分を偽ったりする暇も金もない」(「あとがき」)彼らの語りには、あるのっぴきならない響きがある。あたかも、世界が終った後で人がまだ何か夢を見るとしたら、こんなふうになろうかというような。もちろんそれは話の内容そのものより、言っている彼らの人間性が滲み出る部分に依る。「肝心なのは何を言うかじゃなくて、なぜ言うか、なんだ」とゴーリキイ「どん底」のルカが言っている通り。
 海外の作品では、この「どん底」(黒澤が昭和32年に翻案して映画化している)が「季節のない街」に一番近いかも知れない。同じような人物やエピソードなら山周は、「赤ひげ診療譚」や「寝ぼけ署長」でも描いているが、新出去定や五道三省はここにはいない。彼らは医者と警察署長であって、制度的にも人間的にも、作品世界の住人達より上にいるからこそ、救いらしきものをもたらすこともできる。「季節のない街」に時折登場する老賢人たんばさんは、自身が街の住人で、他の住人のありのままを肯定する。決して裁くようなことは言わないが、救いもしない。そこがルカに似ている。が、ルカは警察が来ると逃げ出す、いかがわしいところのある人物なのに、たんばさんにはそれもなく、あまり目立たず、さりげない印象を残す。

 これから映画の分析に移るが、インデックスとしては各短編の題名を使うのが一番いいだろう。取り上げられたのは以下の八編。
 ①街へゆく電車②たんばさん③牧歌調④僕のワイフ⑤とうちゃん⑥がんもどき⑦枯れた木⑧プールのある家。
 番号は映画の登場順につけた。以下それでエピソードを示す。
 
 ①最初のタイトルバックは電車で、その各部や吊革広告らしきところにキャストとスタッフ名が書かれている。これは市電らしい。六ちゃん(頭師佳孝)がガラス戸を開けて見ていると、そのガラスに市電が通って行くのが映る。戸を閉めて家の中へ入ると、至るところに極彩色で、電車の絵が描かれている。そこで六ちゃんの母(菅井きん)が、拍子木を叩きながら、一心に「南無妙法蓮華経」と御題目を唱えている。隣に座った六ちゃんも、同じように唱える。やがて彼は平頭すると、「おそっさま、毎度のことですが、どうか母ちゃんの頭がよくなるように、お願いします」(せりふは基本的に原作で引用する。下線部は原文傍点。以下同じ)と祈る。母のほうは疲れたような、諦めたような顔をしている。
 もちろん普通の意味で頭がおかしいのは六ちゃんであり、母は彼が正常になることを祈って御題目を唱えているのだ。家を出た六ちゃんは、ゴミの山の前から空想上の電車の運転を始める。最初だけは、六ちゃんの正確無比なパントマイムに列車に動力が入るときの音や汽笛を重ねるサービス(か?)をこの映画はやるのだが、「どですかでん」という進行音は六ちゃんの口から出る。川辺を走るときには橋から子どもたちに「電車ばか」と囃されながら石を投げられる。六ちゃんは意に介さない。
 やがて空想の列車はトタン屋根のバラックのような家が立ち並ぶ「街」の中へ。おかみさんたちが井戸端会議をする共同水道場の横を通って②たんばさん(渡辺篤)の家に立ち寄り、③のアニキ(井川比佐志)に危うくぶつかりそうになりながら去っていく。
 ここから水道場を中心としたシークエンスとなる。黄色い家から黄色いTシャツを着たかみさん(吉村実子)に見送られて出てきたアニキは、六ちゃんの異様な行動を気にする様子もなく、洗い物をするかみさんたちの横を通って相棒の初つぁん(田中邦衛)の家へ。こちらは赤と青の建物で、かみさん(沖山秀子)は青いシャツに朱色のスカートを履いている。因みにアニキは黄色い鉢巻でオレンジ色のベスト、初つぁんは赤い鉢巻に赤いズボン。彼らはかみさんからもう飲むなと言われているのに、仕事帰りに一杯やる相談をしながら去る。次に④の障害のある礼儀正しい島さん(伴淳三郎)と、咥えたばこで迫力のある彼のかみさん(丹下キヨ子)が順に通り過ぎる。かみさんはキャベツのことで八百屋(谷村昌彦)と悶着を起こすが、八百屋は全く歯が立たない。
 場面が切り替わって、⑤の人のいいブラシ職人沢上(南伸介)の家から五人の子どもたちが走る出る。腹の大きな彼のかみさん(楠侑子)はビッチで、外で五人の男たちに声をかけられる。
 また替って⑥酒を飲んでいる綿中(松村達雄)の傍で黙って造花を作っている姪のかつ子(山崎知子)。この女優はその後どうなったのかさっぱりわからないのだが、決して醜くはない。しかし叔父は彼女が不器量だと罵る。そういう設定なのである。酒屋の御用聞きの岡部少年(亀屋雅彦)は、そんな彼女に同情し、名ばかり父親代わりで、かみさんとかつ子にばかり働かせている叔父を非難する。
 再び水道場にもどって、⑦の、不気味に無表情な平さん(芥川比呂志)が通る。吉つぁん(ジュリー藤尾)が話しかけるが、完全に無視。吉つぁんは怒るものの、平さんの氷のような目に射すくめられて、動けなくなる。
 最後が、⑧の乞食親子(三谷昇、川瀬裕之)で、壊れた自動車の前に座って、これから建てるべきべき家について話し合っている。現実にそんな家ができるわけがないことは彼らのゾンビじみた扮装とメイクですぐにわかる。そして①鮮やかな色彩で夕焼けから夜空までが描かれ、その下を六ちゃんの「どですかでん」が走り、プロローグ、というか、芝居なら第一幕が終わる。
 この部分では人物紹介以外にも彼らの住居の位置関係もおおよそわかるようになっている。③アニキと初つぁんの家④島さんの家⑦平さんの家は、水道場の周りにある。②たんばさんの家はほんの少し離れているらしい。⑤沢上と⑥かつ子はどこに住んでいるのかわからない。彼らの家には(警察官を例外として)家族以外の誰かが来るということはなく、家庭内でドラマが完結するからだ。逆に言うと③④⑦では誰かがやってきて、それを水道場にいるかみさん連中に見られ、噂されることで、一応の小社会が形成される。そして「客」によってもたらされた多少の波瀾は、何かを決定的に変えることはなく、街の小社会は映画が始まったときのように明日からも続くであろうことも暗示されている。
 ⑧の乞食親子は(職業柄?)いろんなところを徘徊するが、彼らの寝所である廃棄自動車は実は水道場から見えるところにあることが最後のほうでわかり、子どもの死の前後にたんばさんが関わる。
 そして一番外側に①六ちゃんの「どですかでん」がある。


 これ以後のすべてのエピソードを記述する要はないだろう。それなら、実物を見てもらえばいいのだし。私なりに最も肝要だと思えたところをまとめて言うと。
 普通の意味で一番ドラマチックなのは⑥と⑧である。何しろ、人が死んだり、誰かを殺しかかったりするのだ。そして映画全体のしめくくりにされているのもこの両エピソードの結末なのである。
 ⑧から述べる。ばらばらにされ、途中に他のエピソードが挟まることは、当然各カットとシークエンスの独立性を強める。これはなかなか映画的なようにも思える。
 前半までは、かつ子の疲れ果てた様子が短いカットで描写される(→のところには別のエピソードが挟まることを示す)。夜中に青い造花を作っていて、つい突っ伏して眠ってしまう。→また起きて作り始める。→朝、買い物に行き、途中で出会った岡部少年から食べかけのお菓子をもらう。→(かなり後に)赤い造花を敷き詰めた上に、太腿を丸出しにして眠っているかつ子の姿に、叔父が劣情を催し、のしかかる。「事件」はこのようにして起き、何も起きない、起きてもその意味など深く考えられないこの映画の中で、こればかりはある結末を迎えることになる。
 →叔父も、自分のしたことをなんとも思っていないわけではないことは、家の外で飲みながら、酒場の親父に、「女は魔物だよ」なんぞと言うカットでわかる。→病気で入院していた叔母(かつ子の母の妹)(辻伊万里)が帰ってくる。彼女はかつ子が異様に窶れたことを気にする。→病院からの帰り。かつ子の妊娠がわかる。相手は誰か、叔母に聞かれてもかつ子は何も言わない。これ以後かつ子はしばらく登場せず、主に叔父夫婦の会話のみでドラマが進行する。
 →産ませるか中絶させるかについて叔父夫婦の話し合い。そこへ警官が来て、かつ子が岡部少年を刺したことを告げる。→かつ子の相手は岡部少年なのだろうと、罪をなすりつけようとする叔父。警察に呼ばれても、叔父は行こうとしない。→岡部は助かり、かえってかつ子をかばう。かつ子のおなかの子について、警察は叔父に出頭を求めている、と叔母は言う。叔父は慌てて荷物をまとめ、逃げ出す。叔母は無関心な様子でそれを眺めている。
 →最後に、外で、かつ子は岡部少年と出会い、このとき初めて口をきく。「死んでしまうつもりだった」と。「いま考えてみると自分でもよくわからない。ただ死んでしまいたいと思ったとき、あんたに忘れられてしまうのがこわかった。自分が死んだあと、すぐに忘れられてしまうだろうと思うと、こわくてたまらなくなった」。これは立派な愛の告白であろう。同時に、他人に認めてもらえず、自分にもよくわかっていなかった生の意味が、意思的な死を目の前にして痛烈に問われてくる、そのことはたいへん説得的に描かれている。

 ⑧には⑥ほど目立った曲折はなく、一直線に話が進む。エピソードのとびとびの進行は、ここでは単調さを救うための技法になっているようだ。
 乞食の父親は、⑥の叔父同様、この街ではインテリに属するだろう。生半可な知識はあるが、生活力はまるでなく、結果、身近な弱い者を犠牲にしてしまうことまで共通する。繁華街の「のんべえ横町」から残飯をもらって来るのも幼い息子の役目である。父親のほうは、ローストビーフはどうたらなどの蘊蓄を垂れながらそれを食べると、後はひたすら、「きみ」と呼んでいる息子に「家」の話ばかりする。
 最初の頃のカット割は、彼らの居場所の移動のみを示す。もう一つ、門から塀、ベランダへと、父の想像の赴くままに、画面には丘の上の瀟洒な家の模型が一瞬づつ映し出される。その是非については、意見が分かれると思うが、映画でしかできない技法であることは確かであろう。
 夢想の家はしょせん現実逃避にしかすぎない、とは言える。そうであっても、父にとってそれが生きることのすべてなのである。息子もそれを感覚的に理解しているので、父の話に相槌を打ちながら聞き入り、死ぬ直前に、「プールが欲しい」とだけ要求する。
 息子はたぶん食当たりが原因で死ぬのだが、映画の終りに近いその前後の場面は、ホリゾントを使った夕焼けと、スチロール製らしく見える廃墟のセットのおかげで、まるで舞台のような、現実とも違う禍々しさを醸し出している。パニック映画か、と一瞬錯覚されるほどだが、むろんパニックに陥っているのは父だけである。
 以下の場面は、前述⑥の最後の、かつ子と岡部の会話の後に置かれている。たんばさんが懐中電灯で照らす中、父は寺の境内に子どもを埋める穴を掘る(死体遺棄罪になると思うが、気にしちゃいけませんよね)。と、父がこちらを向いて、両手を広げて、「きみ、プールができたよ」と言うと、穴のあったところに、きれいな青いプールが現れ、画面いっぱいに広がる。
 この後④島さんが挨拶しながら水道場の傍を通り、①六ちゃんも家にもどって、映画「どですかでん」は終わる。
 プールの美しさは、「現実」のグロテスクさを反転させたものであることは言うまでもないだろう。「どですかでん」が全体として提出しようとしたのは、どんなに美しく装おうとしても醜いところを捨てきれないのと同様、どれほど醜くなっても美しいものと縁が切れない人間存在の根本的なあり方だったと思う。成功しているかどうか疑問の余地はあるが、映画で、映画独自の表現方法でそれを描こうとした志は、壮とすべきであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お前がセカイとつながるのなら

2014年03月26日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
メインワークス:ムラーリ・K・タリル監督「明日、君がいない」(2006年)
        吉田大八監督「桐島、部活やめるってよ」(平成24年)

 この両作がガス・ヴァン・サント監督「エレファント」(2003年)にインスパイアされていることはよく知られている。一見して、手法が似ている。似過ぎているほどだ。いずれも高等学校のごく短い期間を描き、登場するのはほとんど高校生。特定の主人公がいない群像劇。移動カメラの長回しでドキュメンタリー的雰囲気を出す一方で、同じシーンが視点を変えて複数回繰り返される。クラシック音楽が、BGMではなく、登場人物のたちの演奏で、ドラマ中のアクションの一部として使われているところまで共通する。
 特に、いやでも目につく、最後から二番目の手法はなんのためか?
 まわり道をして考える。「エレファント」という題名の映画には、象は、たぶん登場人物が描いた絵で壁に留められているのが、小さく、一瞬だけ映される以外には、話にも出てこない。こじつけめいているとは思いつつも、何かのゾウチョウ、もとい、象徴であるところから、私はどうしても別役実の戯曲「象」と、これについて作者が語っている言葉を思い出してしまい、ここで紹介したくてしかたないのだからしかたない。紹介する。
 おおもとにあるのは、日本では「群盲象を撫でる」あるいは「群盲象を評する」という成句になった古代インドのエピソードである。欧米でも話は知られているので、サント監督がこれを意識していたことはまちがいない。別役はこれを「盲が象を見る」という言いまわしにして、語っている。

 しかし、どんな「目明き」が、象を「太い柱である」とか、「大きなうちわ」であるとか、「厚い壁」であるとか断言できるだろうか……? また「太い柱」である、と断言することによって、それにつながって広がる量と、それに対する不安を、誰が、それ以上に感じ取れるであろうか……?
 ある漠然とした空間がある。その空間については、盲が象を見るようにしてしか、見ることが出来ないという奇妙なメカニズムが存在する。陰湿なマイナスの世界である。
(中略)
 盲は何故象に手を触れたか? 漠然とした巨大なものに対して、一つの関係を築きたかったからである。目明きが笑うか笑わないかは、盲の知るところではないし、象が果たして、柱であるかないかも問題ではない。盲は、むしろ、象と自己との何かを探ったのである。盲にとってこそ象は理解されるべきだというのは、知るということがこういうことだと思うからである。(「盲が象を見る」『別役実評論集・言葉への戦術』烏書房昭和48年刊所収)


 この方法論によって別役が扱ったのは原子爆弾投下という、個人としての人間の身の丈から見たらあまりに巨大な事件であり、にもかかわらず個人の生身の肉体がある日突然それに出会ってしまったことの「意味」である。また、サントの映画も有名な歴史的事件がモデルになっている。1999年の、コロンバイン高校銃乱射事件だ。最後に自殺した犯人二人を含め十五人の死亡者を出したこの惨劇を、サントは学校のありふれた日常と地続きのものとして描いている。
 それでようやく元へもどる。「エレファント」における複数視点は、「事件を多方面から検討する」という意味合いで採られたのだろうか。明らかに、違う。むしろ、逆、に近い。何日か(二日以上)のできごとを混在させて、一見すると一日のできごとを描いているかのような、意図的に観客をミスリードする編集さえなされているのだから。
 おそらく、サントは、「目明きが象を理解する」というような、通常の意味の「理解」を拒絶したかったのではないかと思う。象で象徴されているものは、この場合は学校である。適度な距離から眺めた場合には、その姿は全く明らかであるように見える。今更「それは何か」などと訊く必要など思い浮かばないほどに。アメリカでもオーストラリアでも日本でも。それこそが難点だろう。この「理解」に閉じ込められて、「学校」の他の姿はいよいよますます見えづらくなるのだから。
 例えば、アメリカのとある高校で銃を乱射して何人かを殺した二人の男子高校生にとって、それはなんだったのか。彼らは音楽や美術を愛する、もの静かで目立たない若者で、スポーツが得意で学校で人気のある男子(アメリカではジョックjockと呼ばれる)及びその取り巻きグループから執拗にいじめられていたようだ。復讐のために銃を、ということなら、当然この連中だけを狙うべきだったろう。実際には生徒と教師を無差別に殺害した。そうすれば自分も死なねばならないことはわかっていた。彼らは命とひきかえに、「学校」を攻撃したのだ。
 もう一度問う。彼らの歪んだ自我に映じた「学校」とは何か。たぶん、彼らへのいじめを構造化し必然化する(ように見える)、呪わしい場所であったのだろう、とまでは想像がつく。それ以外には? そしてこの歪んだ学校はどのようにして外部の広大な世界とつながっているのだろう。たぶんそこには「知る」に値する何かがあるだろう。
 

 

「明日、君がいない」(原題は「2:37」。以下、これで表記する)の登場人物は、あまりにステレオタイプな高校生に見える。
 若葉の季節。ある日の午後2時37分、学校のトイレで誰かが自殺した。因みにこの映画ではトイレが最も重要な場所となるが、それはもちろん、学校の中で一番プライベートな、それでいて(同性ならば)不特定多数に共有される。特殊な空間だからだ。
 次に映画はその日の朝の、主要登場人物六人の様子を描く。朝起きてから登校まで。そこにモノクロで、彼らへのインタビューがはさまる。ようやくタイトル画面。バックは、冒頭に映された若葉。クローズ・アップで映されると、やや汚く見える。
 マーカス(フランク・スウィート)はガリ勉の秀才タイプ。将来は父と同じ敏腕弁護士を目指す。「他の連中は可哀想だ、五、六年たったら生活保護かマックのバイトぐらいしかやることがないだろ」などと言う。 
 ルーク(サム・ハリス)はハンサムなマッチョ。将来の夢はサッカーの、プレミアリーグの選手。この映画の舞台はオーストラリアだが、アメリカではまちがいなくジョックで、そういう自分に誇りを持ってもいる。「学校の勉強なんて意味ないね。弁護士になるようなやつは別だけど」と語る。「大昔に死んだ詩人とか数学や古代史が、俺に何の関係があるんだ」。
 サラ(マルニ・スパイレイン)はルークに夢中。「十七歳にして理想の男性にめぐりあったわ」。心配のタネは他の女子に彼を取られること。「みんな手段を選ばずに男を狙うビッチなのよ」。
 彼らがそれぞれ明確な目標を持ち、「前向き」に高校生活を送っている生徒たちだとすると、残りの三人は見るからに後ろ向きそうだ。そして、彼らとの関わりの中で、上記三人のうち男子二人の闇の部分が明かされる。
 マーカスの妹のメロディ(テリーサ・パーマー)は、美人なのに浮かぬ顔だ。朝、兄に呼ばれて服を着る時の彼女は泣いている。彼の車で、同じ学校に登校するのだが、何かに腹を立てているようで、マーカスと口をきこうとしない。彼女はもともと、両親(それぞれ仕事が忙しいのか、別に暮らしている)、特に父親が、兄に比べて自分をないがしろにしていると思っているのだが、そんなことより……。兄にレイプされ、妊娠してしまったのだ。
 トイレで妊娠検査薬を使い、陽性と出たのを、サラに察知される。彼女はメロディの相手はルークではないかと疑う。サラの友だちから事実を告げられたマーカスは、妹を詰る。「なんてこった。君って女は!」と。まさに救いようのない身勝手さだね。
 ショーン(ジョエル・マッケンジー)はゲイで、それをカミングアウトした。ために、特にルークを中心としたマッチョグループからはからかいの対象にされている。が、実は、ルークもゲイで、ショーンとは恋仲だった。
 スティーブン(チャールズ・ボイド)は生まれつき左右の足の長さが少し違い、また、尿道が二つあって、一つは普通なのだが、もうひとつからのは尿意を伴わず、コントロールできない。この日も教室で漏らしてしまって、追い出される。サラたち女子生徒は彼を不潔がって、忌み嫌っている。だけでなく、学校の誰ともほとんど交流がない。サッカーに興じているルークたちを見て、自分がスーパースターになる夢を描く。もちろん、妄想でしかないのだけれど。
 さて、ルークとショーンはトイレで出会い、接吻するが、すぐにルークはショーンを突き飛ばす。学校で秘密がバレたらおしまいだ、とルークは思っているから。ショーンはうちひしがれて、ルークを罵り、いつもこっそりマリファナを吸っている物置へ行って、のたうちまわって泣く。
 この時のトイレの個室にはもう一人、汚れたズボンの始末をしていたスティーブンがいた。ルークは彼を見つけると、殴って、「誰かに言ったら殺すからな!」と叫んで出て行く。外でサラに出会い、声をかけられるが、「なんでもないさ」とルークは学校の外へ。
 殴られて鼻血を出したスティーブンを、第七の人物、ケート(クレメンンティーヌ・ミラー)が見かけて、「どうしたの」と声をかける。彼女はマーカスに好意をもっているらしく、映画中二度話しかけているが、あまりまともに相手にされていない。スティーブンもまた、「大丈夫」とだけ言って離れていく。
 この後の場面は、ケートに即した視点で、件のトイレのある二階から階段を降り、彼女が外へ出るまでが描かれる。周囲にはそれまでに既に描かれていた場面が一瞬づつ浮かぶ。ショーンが泣いている物置の前を通り過ぎ、去って行くルークを窓から見送るサラを遠目に見て、一階ではメロディを詰るマーカスの声を聞き、戸外の空と、青葉を見上げる。
 すべては風景だ。皆が何かに悩み、苦しんでいるが、一歩引いて眺めればなんでもない。時が経てば、「青春の痛み」とやらになって、懐かしく思い出されるのかも。
 と、思えた瞬間、画面は一転して2時37分の、痛ましい自殺の場面になる。泣き叫ぶ声と、流れ出る血。これは何よりも、直前の「一歩引いた視点」に対する抗議のように思える。方法はリストカット。「私に気づいて!」というシグナル、なのだそうだ。「私を見て、今ここにいる私を!」。
 「今、ここ」を見ろ、悩める若者にはこれこそ最も過酷な要求であろう。未来は、未だ来たらざるものであるがゆえに、得手勝手に輝かしく思い描くことができる。「今、ここ」にあるのは、いじましい(特に性的な)欲望にふりまわされるだけの、イケてない自分である。外面を取り繕うぐらいはなんとかできても、本当の意味での救いも、逃げ道も、見つからない。そんな有様で、なんで他人を救えるものか。
 つまり、彼らが学校を、「将来の成功につながる場所」とか「恋人を見つける場所」などと思い込もうとしても、そうすればするほど、「ある漠然とした大きなもの」に必ず脅かされる。それは具体的な人間関係を通じて迫ってくる。ふだんからねっとりと取り巻かれている場合もあれば、稀に、自殺というような、誰にも無視し得ない突発事として現出する。いずれの場合も、直面したら、まずほとんどの人にどうしようもなく、無力感にうちひしがれて、ジタバタするばかりであろう(若者にこっそり教えてあげるけど、年をとっても同じことだよ)。それでも。
 それでも、もし「青春」と呼べる時期があるとしたら、ジタバタして、「漠然とした大きなもの」、即ち「世界」とつながろうとするあがき、それが比較的長く持続してできる時なのだろうと思う。


戦おう。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから

 もちろん、人間、そう強くはないのも、もう一面の真実である。時に妄想に耽るぐらいしなければ、とうていこの不安定な時期を生きのびることはできないだろう。自分自身の若い日々を顧みても、痛烈に、そう、思う。
 「桐島、部活やめるってよ」(以下、「桐部」)の映画部は、妄想で、ゾンビとなり、「学校」を襲う。8mmカメラのファインダー内の、古色蒼然とした画像は、確かに非日常的なホラーの雰囲気を醸し出し、そこでジョックの男たちと、梨紗(山本美月)とかすみ(橋本愛)という本作中の二大美女が食い殺される。美人はこういう絵にもよく合う。つまり、ここでも、男たちの妄想源になりやすい。向こうからは「ヤダ、キモチワルイ」と言われるに決まっているが、実際に撃たれるのよりはましだろう、ってフォローにならないか。とりあえず、攻撃衝動を捨てきれない男にとっては、妄想もそれなりに役に立つ場合がある、ということだ。
 「桐部」でクライマックスとなる「事件」はこれであり、実際に人が死ぬ「エレファント」や「2:37」に比べれば、全体の雰囲気も一見穏やかなものである。やはり湿潤な日本の気象がもたらす気性は、アメリカ・オーストラリアとは違うのかも。
 「スクール・カースト」と呼ばれていいものは、あるにはある。学校内のイケてる/イケてない、の区分、その中でも細かくいろいろと。しかし、現代日本の高校では、グループが作られたら、異グループ間の交流はほとんどなくなり、同じクラスの生徒でも名前すらわからなかったりする。グループ相互や個々人の優劣について、どれくらい意識されているかはともかく、あからさまに表面化することはほとんどない。イジメもまた、大半は同一グループ内のイザコザが基だ。このへんの様相は当ブログでも以前に書いたし、「桐部」の世界の大前提になっている。
 それなら平和かというと、そうとも言い切れない。同性愛や近親相姦のような派手なトピックスはなくても、小さな悲哀や怨嗟の感情は毎日のように若い心をざわつかせ、時に鬱積していく。これを描くことが「桐部」の眼目である。
 そのため、だろう、この映画には登場人物を「風景」として眺める視点がない。俯瞰的な構図であっても、すべての場面が誰かの物語になっている。数え方にもよるが(例えば映画部の武文は必ず前田といっしょにいるので、いわば「分身」と考えれば、除外できる)、十人を越える主要人物の物語が、時に交差しつつ、実に丁寧に描出されている。
 唯一の例外、らしく思えるのが、上の「ゾンビの叛乱」を含む、「火曜日の、屋上への全員集合」直前の、屋上から下を180度見廻す画像の視点。誰の? 桐島、あるいは桐島らしき人物の、だ。この画像の中に映る人物は一人だけ、古いバスケット・コートにいる友弘(浅香航大)。彼のほうでも屋上の人物に気づき、「桐島がいる」との知らせを廻し、バレー部+桐島の友人グループ(カースト上位者の集団)が駆け上がると、探し人はおらず、そこで撮影していた映画部とぶつかることになる。
 では、最初から最後まで登場しない桐島とは何か? 語らない視点である。また、本当の意味では、語られない視点でもある。同じような設定なら、三島由紀夫「サド侯爵夫人」という優れた戯曲が日本にはあるが、ここで登場人物はマルキ・ド・サドのことのみ話題にしている。本作はそれよりは現代演劇の原点と呼ばれるサミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」のほうにより近い。問題は彼の存在より、彼の不在のほうだ、という意味で。
 具体的には、桐島とは何か? 「超万能型」の高校生だとは言われている。成績優秀、容姿端麗、スポーツ万能、バレー部のキャプテンにして、学校一の美女を彼女にしている。彼が突然部活をやめると言い出したことが間接的に伝わり、波紋が広がる。肝心の本人は学校にも来ず、皆の前に姿を現さない(しかし実際の欠席日数は、間に土日を挟んで、金曜から火曜までの三日に過ぎないのだが)、それがつまりプロットである。しかし、従来の「学園もの」「青春もの」と違い、誰も彼のことを第一に心配しているわけではない。ここの高校生たちは、リアルに、自分のことでせいいっぱいなのだ。
 それを端的に表現しているのは、火曜日の、クライマックス前の一場面である。「今日は個人面談があるから、桐島も来るだろう」という「親ネットワーク」からの情報があり、バレー部の風助(大賀)が様子を見に行く。進路指導室は空っぽで、外から梨紗が、「誰もいないよ。バカみたい」と声をかける。そのまま去ろうとする彼女に、風助は「あいつ、俺たちバレー部のこと、なんか言ってなかったか?」。梨紗「さあ? もともと眼中になかったんじゃない」。
 桐島は何も言わずに去った(のかどうか、本当の結論が出るのはまだ先の話だろうと思うが)。彼にとって自分(たち)は意味が無かったのか? ただのプライドの問題ではない。これは彼ら自身のアイデンテティの根本に関わることなのだ。強力、に見える存在に、自分の存在を認めてもらえているのかどうかがかかっているのだから。もちろんそれは、バレー部より、桐島の彼女で、いろいろな人から彼のことを訊かれるのに、実際は全く連絡が取れないでいる梨紗自身に最も痛烈に突き刺さっている。

 登場人物個々人の物語について、もっと詳しく語りたいところであるが、それではどれくらい字数を費やすかわからない。ここでは、私にとって特に印象深かった、不思議な「気持ちの通い合い」のことを述べて終わろう。
 「盲が象を見る」方法最大の難点は、「太い柱だ」とした者と「大きなうちわだ」と感じた者の間でほとんど共通理解が成り立たないところであろう。いや、「それにつながる漠然とした大きなもの」への不安が共有できればいいわけだが、当面こだわるべきなのは、彼ら個々人と「それ」との関係なのだから、なかなかうまくいかないのである。
 それでも、一瞬だけ、つながったかな、と思える瞬間がないではない。「桐部」には二つ、それが示されている。
 第一は、映画部部長にして自主制作ゾンビ映画の監督前田(神木隆之介)と、吹奏楽部部長沢島(大後寿々花)の間で。彼らは同じクラスで、見かけの冴えない文化部なので、下位のカーストにいるのだが、交流はない。映画部の武文(前野朋哉)は、「あいつ絶対スイブのほうが俺たちより上だと思っている」と言う。そうかも知れない。
 沢島は一人でサックスの練習をしている、ところへ映画部が撮影にやってくる。少しどいてくれ、という前田の依頼に、彼女はなかなか応じようとしない。これが二度繰り返される。最初沢島は、「ここじゃないと微妙に音が違うんです」とか、「(映画部がやってることって)遊びですか。こっちは真剣な部活なんです。遊びなら学校の外でやってください」と、いわば権柄づくの態度だった。しかし次の時には悲しそうな表情で、「これが最後だから。私は部長だから、こんなふうにフラフラしてちゃいけないから。これで最後にしたくて」と、およそ部外者には理解不能なことを訴える。前田はそれでなんとなく納得して、撮影場所を屋上に変える。それで、あの「ゾンビの叛乱」場面につながる。
 実は沢島は、桐島の親友で、彼と張り合えるほどカッコいい宏樹(東出昌大)に密かに恋している。彼は梨紗の友だちの沙奈(松岡茉優)という、可愛いのでカースト上位にいる(また熱烈にその地位に留まりたいと願っている)女子とつきあっているし、沢島もそれは知っているのだが、思いを抑えきれず、放課後、彼が見える場所で、また彼から自分が見える場所でサックスを吹き続けていた。それを察知した沙奈は、それからたぶん宏樹も、彼女に「あきらめろ」と引導を渡すために、見られていることを承知の上で、長い接吻を交わす。
 前田と沢島の二度目の交渉は、この接吻の前である。前田もまた、この日、好意を抱いていたかすみに彼氏がいることがわかって、つまり失恋を経験していた。この経験を通して、彼も少しは成長したのだろう。他人の気持ちが理解できるようになった? そうではなく、他人には理解できないことがあることを、それは可能な限り尊重しなければいけないことを理解した。この世で他人に期待できるのは、それぐらいが精一杯であろう。
 屋上で起きたのは、それが全くない場合だった。乱入してきた者達によって撮影が邪魔される。それなりに苦心して作った小道具の隕石(ゾンビ化のきっかけとなる)も足蹴にされた。バレー部にはバレー部の事情があるとしても、なぜ自分たちはあたりまえのように無視されるのか。スクール・カーストがあるからだ。前田たち映画部は「キモオタ」として、今まではそういう扱いに甘んじてきたのだが、このとき、叛乱を起こす決心をする。もちろん、そのような「学校」の、ひいては「世界」の体制に対して。
 「桐部」は妄想の後、宏樹視点でここに至る過程を描き、現実には、映画部=ゾンビがジョックたちによって簡単に制圧されたところまでを映す。そして第二の、前田と宏樹の短い交流の場面になる。
 代表的なジョックで、その場にいたのに、乱闘には加わらなかった模様の宏樹は、前田が落とした8mmカメラのキャップを拾って、持って行ってやる。それから、「変わったカメラだね」「ちょっとさわっていい」と、前田からカメラを受け取ると、前田に向け、冗談の調子で「将来は映画監督ですか」等と問う。
 前田「いや、それはないな」。宏樹「え、それじゃどうして……?」。前田「ホントにたまにだけど、自分の好きな映画とつながっているような気がして、うれしい気分になるんだ」。
 茫然とした宏樹から前田が、「それ、逆光だよ」と言ってカメラを返して貰い、宏樹をファインダーに納める。前田「やっぱりカッコいいね」。宏樹「いいよ、俺は」。そして彼は涙ぐむ。たぶんなんでもできるせいで、何事にも本気で取り組めない彼が、感情の動揺を見せるのはこの時だけである。野球部の幽霊部員なのに、キャプテンから練習に来ないことを咎められるどころか、試合には出るようにと懇願されるほどの能力があっても、やらない。沙奈とも、向こうから熱烈に迫られたので、「ま、いいか」とつき合っている様子。そんな彼が、たぶん何も報われることはないのに、懸命に好きなことにすがるキモオタの言葉に動揺するのである。
 「桐部」は、野球部の練習を遠目に見ながら、桐島に電話をかける宏樹の後ろ姿で終わり、そこで初めて、白地に「桐島、部活やめるってよ」というタイトルが映し出される。呼び出し音はまだ鳴っており、繋がるかどうかはわからない。
 以上から、せめて言えそうなこと。誰でも、自分の立場で、「世界」に働きかけるしかない。「世界」のほうが何を返すか、そもそも返すかどうかわからなくても。なぜなら、それが「生きる」ということなのだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カネこそリアル、だろ?

2013年03月07日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
メインワーク:真鍋昌平『闇金ウシジマくん』(『週刊BIG COMIC スピリッツ』に連載中。単行本は小学館、2004年から現在まで既刊27巻)

 以前に「金色夜叉」を取り上げて、金貸しとは「近代資本主義が生みだした仇花なのだ。仇花であっても、それが出てくる必然性はあった」と書いた。資本主義が爛熟した今日では、この必然性はどういう形で現れているだろうか。
 「闇金ウシジマくん」を、青木雄二「ナニワ金融道」が切り開いた「金融もの」マンガというべきジャンルの一つとする見方もあるが、両者には明確な違いがある。
 「ナニ金」の帝国金融はいわゆる「街金(まちきん)」であって、顧客は原則として事業者。銀行では審査が通らず、融資が受けられない者たちが、商売のための金を借りに来るのだ。ウシジマ社長率いるカウカウファイナンスへ来るのは、生産者ではない。借りた金はその日のうちに、たいていは、パチンコや風俗などの、いわゆる遊興費にあてがう。その上大部分が、いろんなところから借りまくっている多重債務者で、ブラックリストに載ったから、やむを得ず非合法の闇金へ来るのだ。帝国金融でも、客を信用してはならないところが他の商売とは違うところだと言われているが、ウシジマの客は金が返せないのが当たり前。それをどうやって返金させるか、というより、金を貸したことをきっかけにして、どうやって彼らから搾り取るか、が眼目となる。
 本作品からは「ナニ金」にあったような、商法や民法の実際上の知識は学べない。その代わり、現代社会特有の「悲惨」はこの上なくリアルに描かれており、そのへんの評価はもう確立していると言ってよいだろう。ここから学べるものはなんだろうか。

 雑誌の読み切りか、連載でも前後二回の短いエピソードを集めた第1巻に、「ウシジマくん」のエキスはほぼ出そろっている。一つを除いた各エピソードの概要は、
 「奴隷くん」。金を返せないばかりに言いなりになるしかない客(もと客と言うべきか)はこう呼ばれる。話の中心になる主婦は、借りた金をすべてパチンコにつぎ込んでしまうので、ウシジマによって、売春を、それもパチンコ屋のトイレでのオーラル・セックスを強要される。なんでそうまでしてパチンコがやめられないかについては、後のエピソードに登場する同じくパチンコ依存症の中年女二人によってそれぞれ代弁される。「パチンコ辞めたら退屈で死んじゃうよォ!!」/「(パチンコをやっていると)何も考えないで済むから」と。このエピソードの主婦は、別居している夫と離婚調停中であり、近くまとまった慰謝料が入る見込みがある。それを知ったウシジマは、売春したことをネタに恐喝して、その金を巻き上げようともくろむ。
 「若い女くん」。主人公は(たぶん)一流企業のOLで、同僚たちとのつきあいに余計な金がかかる。つきあいというのも見栄の張り合いで、田舎出で一人暮らしの彼女は、部屋代を含めた生活費がかかる分、東京の実家から通勤しているOLより自分にかけるお金(お洒落、旅行、合コンなどの費用)に不自由しなくてはならない。ウシジマは、「若い女なら回収する方法はいくらでもある」と、初回から彼の所では破格の30万円を貸し付ける。この後ウシジマが彼女をはめて、心身ともに破滅させるまで奪い尽くす過程は、いわゆる恐怖マンガをはるかに超えた恐さにまで達している。クライマックスでは見開き二頁を真っ黒に塗りつぶして、左下近くに「ああああ…」という悲鳴だけが書かれている。この表現も決して手抜きとは思えない。
 「バイトくん」。小さい頃からまわりをバカにして、「俺はあんなつまらない人間にはならない」と思い込んでいる男。といって何もできず、何も始められない。何かをやり始めたら、自分もまた凡庸な人間であることがはっきりしてしまう、それに薄々気づいているからだ。なんだかんだと言い訳ばかり並べて、専門学校もやめ、バイトも続かず、三十になってもパチンコしかやることがない。ウシジマに二百万円(ものすごい高金利なので、実際に借りたのはいくらだかわからない)の返却を迫られ、百万は親に出してもらい、残りを支払うために、山の中の作業場(いわゆるタコ部屋)に送り込まれる。そこでの彼は以前より生き生きしているように描かれる。それをわずかな救いとみるか、どうしようもないほどのお人好しぶりは要するに意思の弱さの現れなんだとみるか、意見が分かれるところだろう。
 「闇金狩りくん」。昼間は旅行代理店の仕事でそれなりに評価されている男が、仲間をかたらって、闇金業者から金を奪う計画をたてる。最初はうまくいくが、結局はウシジマたちに捕まり、奴隷にされる。

 二巻目以降は、これらの人物像を核としながら、もっと細かく丁寧に、人間関係や内面が描かれるようになる。風俗店で生きる女たちは「フーゾクくん」「出会いカフェくん」「テレクラくん」に、無気力な若者は「フリーターくん」「生活保護くん」に、ウシジマたちに対抗する悪どい者たちは「ヤンキーくん」「ヤミ金くん」「元ホストくん」に、それぞれ文学的にも絵的にも進化した形で登場する。
 これらから派生したキャラクターもある。自分の才覚でなんとかのし上がろうとして失敗する「ギャル汚(お)くん」「楽園くん」「ホストくん」の若者たち、大人としては、「サラリーマンくん」「トレンディくん」の転落していくサラリーマンがいる。「ゲイくん」「スーパータクシーくん」ではより特異なキャラが扱われ、それは現在進行中の「洗脳くん」で最もスリリングな展開を見せているが、ここでは考察外とする。
 では、何を考察内にしようか。ひところ話題になった階層社会か。それは大きな要素のようだが、この切り口では見過ごしてしまうものがある。ウシジマにひっかかるのは、最下層の無気力な者たちばかりではない。そこそこの大学を出て、そこそこの会社で働くいわゆる中流も、ちょっとしたことで網にかかる。その「ちょっとしたこと」は現代社会の何に由来しているのか、そこに目をつけよう。

 一つのポイントは、このマンガが、いわゆる「失われた二十年」の後期、つまり新たな「失われた十年」に登場し、書き継がれているということである。ポスト・バブル期のマンガと言ってもよい。二十年以上過ぎたのだから、実際にバブルの世の中を見ていない子どものうち何人かは、もう成人している。しかし、この時生まれた消費社会の、生活のモードは、そう簡単には消えない。

「消費だけで世界が成り立っていると教えられ続け、金がないのに物を買わされ続ける」(「出会いカフェくん」より。未成年者と淫行する教師の言葉)。

 ウシジマの客に共通する特徴をまとめると、上の言葉が一番相応しい。
 「消費が美徳」の時代には、消費物のスムースな流通のためには都合の悪いものは隠されがちになる。と言うか、本当は誰でも知っているが、否むしろ、知っているからこそ、なるべく目立たないようにしていることがある。

 「今の生活では負担を感じないようにできてるから人間は鈍感になる」/「強い国は弱い国から奪い、資本家は労働者から奪い、政治家は国家から奪う。世の中は奪い合いだ。ちょっとずつ気付かねェようにしているだけで、俺が『奴隷くん』から奪うのとなンも変わらねェ」

 人物紹介の意味もあって、最初のエピソードにたくさんあるウシジマ語録の一部である。とうてい自己正当化にはなり得ない下手な言い訳だが、ウシジマから切り離して言葉だけ考えると、一理はある。「世の中=奪い合い」と言えば言い過ぎだが、その側面は確かにある。そしていかにも我々は、のほほんと生きていられる限り、その事実には鈍感だ。ウシジマから金を借りるということは、剥き出しの、奪い合いの世界に入るということである。しかし、それにちゃんと気づかないので、一方的に奪われるだけの餌食になってしまう。
 もっと基本的な、「モノは生産されなければ消費されることはできない」という事実さえ、特に大消費地帯である都市部にいると、忘れ勝ちになる。いやむしろ、みんな忘れたがっている。生産なんて、ダサくてウザい。少なくとも最下層にいる人間の、手の届くところにある仕事はそうだ。スーパーやコンビニの店員とか、工場や工事現場の単純肉体労働。バイトならまだしも、一生の仕事にして、その立場を皮膚のような永続的な自己イメージにするなんて、むしろ厭わしい。
 念のために言葉を重ねる。上に挙げたような仕事がもともとつまらないとか、昔と比べてつまらなくなった、などと言いたいのではない。つまらないと、より正確に言えば、つまらないんじゃないかなあと事前に感じてしまう意識が発達した、ということである。そこをちょっと乗り越えれば、ちゃんとやれる者のほうが今も多いだろう。
 フリーター(←フリー・アルバイター)なる言葉が登場したときには、敢えて乗り越えずに、自らの意思でいつまでも非正規雇用者であり続ける若者という意味だった。現在では、迷うまでもなく、前述の仕事のかなりの部分が、パートによってまかなわれるようになってきている。それもキツく感じられて続かない者は、とりあえず手元に残った金で、それがなくなれば借りて、パチンコやテレクラ、女ならホストクラブなど、手軽な娯楽で、空虚な自分の空虚な時間を埋めるしかない。
 しかし、これもまた、現代では立派な消費の一形態なのである。罪悪感を持つ必要などない。だから、とめどなく続けられる。ウシジマが借りた金の回収に来るまでは。

 ダサくもウザくもない職業と言えば、女なら風俗がすぐに思いつく。もっとも、気に入らない客の相手をしなくてはならない部分は相当にウザいだろうが、バイトとは一桁か二桁違う収入のおかげで、それは我慢できる。ここで一番問題になるのはプライドだが、もともと大切にしたい自分なんてないと思えば、その自分を売って金に換えても問題ない。「どーせヒマな時間なら、お金に換えたほうがイイっしょ?」と、「出会いカフェくん」に登場するデブス(←デブ+ブス)女は言う。
 ここには罠がある。自分で自分を、女であること以外は無価値だと認めてしまえば、「でもそれじゃ私って…」と、自分を見つめなければならない時間が必ず来る。それで、究極のレゾン・デートル(存在理由)であるはずの、「愛」を熾烈に求めるようになったりもする。その場限りの、見せかけの愛のようなものに慣れすぎると、本物が必ずどこかにあるはずだという思いが強くなるのだ、とも言える。

 ここでちょっと断っておきたい。今後「本当の自分」とか、それに近い言葉がよく出てくることになるだろうが、そんな概念こそ消費社会が生み出したもので、消費を離れたところでは見つからないのかも知れない。その恐れはある。が、それはここで扱うにしてはデカすぎる問題なので、閑話休題。

 愛し愛されている仲だと、半分無理矢理信じた男(ホストを含む)に貢ぐ金を稼ぐために、ますます風俗業に深入りする女は、「ウシジマくん」には何度も繰り返して出てくる。それは愛を買おうとすることではないかと思えるが、そうではなく、好きな男が必要とする金を出しているのだという言い訳がちゃんと用意されている。ほんとうに、必要は発明の母なんだね。
 男の場合、人並以上の容貌があっても、さすがにそれだけで商売をするというわけにはなかなかいかない。そういう男たちも「ウシジマくん」にほんのちょっと登場するが、この市場はまだごく小さい。自分以外に華やかなイメージを生産して供給する必要があるのだ。おかげで、自分は傷つかない代わりに、虚業ではあっても並の事業者と同じような苦労をしなければならない。
 ギャル汚くんはイベサー(←イベント・サークル)の代表、楽園くんはファッション雑誌の読者モデル、ホストくんは文字通りで、それぞれ、イベント・プロデューサー、洋品店店長、ホストクラブ店長、に成り上がることを目指している。そのためには、チケットを売り捌いたり、高価で稀少な衣服を揃えたり、女の客に楽しんでもらえる雰囲気を盛り上げたりの労力はもちろん必要である。加えて、こういう場所こそ競争が激しいので、それに打ち勝たねばならない。さらに加えて、アブク銭が集まりそうなところには、ハゲタカのような人間(ヤクザや詐欺師の類)も集まってくるから、それとの対応がハンパなくキツい。などなど、華やかどころではない部分は大きいが、とりあえずオシャレな自己イメージはあるので、それを慰めにしてがんばれる。
 「見た目が重要」なんだと、ギャル汚くんは言う。「(服飾品の)タグチェックするのにも、心が通い合うのも、この街では時間が足らねェ!!」と。これは順番が逆だろう。ホンモノの品物とは何か、本当の友達とは、とりわけ、本当の自分とは? なんて、危険な問いから逃れたいからこそ、軽くて、チョット見きらびやかなイメージを高速回転で流通させる需要が出てくるのだ。
 
 上の同類の中で「ウシジマくん」中随一の成功者は、「トレンディくん」に登場する万里子という、五十歳になる女性のようだ。年齢を誰にも隠さないが、それは彼女がアンチ・エイジングが売り物の美容品を開発販売する会社をやっていて、見た目が異常なまでに若くて美しい彼女自体が、何よりの広告塔になるからだ。
 因みに、万里子が登場するシーンの絵は、背景まで美麗である。もともと「ウシジマくん」には、写真を加工したのが多用されているのだが、それはリアリティよりも、細く鋭角的な線で描かれる人物とマッチして、シャープな雰囲気を出すことを狙っているようだ。出てくるのは街並み以外だと、下層の者たちのゴミゴミした住居環境が多い。それと対照的に、万里子には、屋上庭園やら公園の手入れの行き届いた景観があてがわれる。あるいは瀟洒なマンションの寝室、そこで4カットだけ、彼女の素顔も出てくる。見かけを保つために無理な美容(現代のは、ほとんど人体改造レベルにまで達している)を重ねているので、年齢よりむしろ老けている。万里子の魔性を表現するためには、これらの絵がストーリーよりはるかに重要になっているようだ。
 それでもまあ、ここは文字を使っているのだから、ストーリーを追いかけよう。万里子は、彼女にあやかりたい金持ちの有閑マダムやその女性たち目当ての男たちから高額の会費を取って、毎晩のようにパーティを開く。むろん全く見かけだけの、虚飾の世界で、おかげで彼女は体だけではなく、内面でも孤独感に蝕まれている。
 そこで出会うのが、「トレンディくん」の主人公である斗馬(とうま)。小さな電気屋の倅が、勉強して一流大学から一流企業へと進むことができた。現代の成り上がり者だが、仕事でけっこう評価されている会社でも、美しい妻と彼を慕う子どもがいる家庭でも、「演じている」意識が強い。彼が「本当の存在感」を発揮できるような気がするのはナンパの場でしかなく、その一環で、変形プレイとしてオバさんをハントしようとして、万里子と知り合うのだ。
 彼らは、お互いの中に似たような孤独を感じ取り、愛し合いそうになる。万里子は、斗馬となら「素のままの」自分でいられるかも知れないと一瞬思うが、所詮は無理。彼にも素顔は見せられない。老婆の顔の万里子を斗馬が愛する見込みはほとんどないのだから。
 万里子は、「ずっと自分を好きでいたかった」からこうなった、と独りごちる。自分が好きな自分は、他人に好かれる自分だ。そして、「みんな都合のイイ嘘が好き」なのだから、彼女が生きるのはそういう場所しかない。
 この覚悟によって、万里子は「愛」に溺れる風俗嬢たちよりずっと強力になっている。即ち、現代では、空虚なら空虚に徹して、「真実」の避難所なんて求めない者こそが強いのである。
 ただし最後に、万里子が詐欺で訴えられたことが伝聞として斗馬に聞こえてくる。その後はどうなったかわからない。想像するに、彼女は、「何を言ってるの?」という思いになったのではないだろうか。みんな、化粧品の現実的な効果なんてものより、私がふりまく夢のほうがほしかったんじゃないのかしら。その夢は、誰かが「嘘だ!」と叫べば、いかにも嘘になる。その前には、夢であって、嘘ではない。これが華やかなイメージだけが流通する市場のルールだったはずなのに、なんで野暮を言い出すわけ?
 思うに、「真実」に頼ろうとする弱い心以外にも、「金」そのものが躓きの石になる場合があるのだ。まさにバブル(泡)のような、イメージのみの商品を買うのは、やっぱり浮いた金だから。
 万里子の顧客の一人に、成金社長の奥さんがいて、これがウシジマに金を借りに来る。夫は若い愛人のところからもどらず、妻には高価な物だけあてがって、放っておく。彼女の目には金の値打ちなんてほとんど映らないが、といって手元に現金はない。こんな女に金を自由にさせたら、それこそ湯水のようにあっと言う間に浪費するに決まっているから、夫もそれは与えていないのだ。そこで彼女は、ごく軽い気持ちで闇金融を利用するのである。定期を崩しさえすれば、元利ともすぐに返せるから問題ない、と。でも、そうならなかったら?
 以下は作品を離れた私の純然たる仮定です。金は所詮夫のものだから、彼が「そんなのに使うのは、ダメだ」と言ったら、奥さんは、少なくとも、夫に弁解したり抗弁したりしなければ、手にすることはできないない。できなければ、万里子に対してはただ入会を断ればいいのだが、もう借りてしまった以上、ウシジマの請求を逃れることは至難である。金にそんな負荷がかかって重くなってしまった場合、「万里子にはそれだけの値打ちがあるのかしら?」という疑いが湧くかも知れない。そうなったら、万事休す。値打ちなんて、ないに決まっているんだから。それなら、彼女のやってきたことは詐欺だ。そう思えるようにもなる。法律的にはどう決着がつくか、それは別の話ではあるけれど。

 一応の結論。ウシジマとは、鎌の代わりに現金を手にして、消費社会の夢にまどろむ者たちを、「現実」という終わりのない悪夢に引き込む現代の死神なのである。しかし、忘れてはならない。消費社会が意識の表面から消した闇こそ、彼を生み出した場所なのだ。誰にも彼を否定することはできない。「ウシジマくん」の迫力は、そこに由来する。

【最近DVDが発売された山口雅俊監督の映画についても一言しておこう。ストーリーとしては、「ギャル汚くん」と「出会いカフェくん」のエピソードを混ぜたものであることはすぐにわかるが、後者には「テレクラくん」もだいぶ入っている。「ママの借金はママから取り立てろ!」というのは、「テレクラくん」の美奈のセリフである。母親から3Pを強要されるのも美奈。もっとも、最初は美奈のほうから母に、やってくれるように頼むのだが。一方、映画で役名になっている「出会いカフェくん」の美來(みこ)は、原作の後半ではまるで福本伸行マンガのような非現実的なギャンブルの設定の中で、美人で頭が切れて度胸もあるスーパーヒロインとして大活躍する。大島優子の演じる美來はこれもやらない。ただ、いかにもそのへんにいそうな恵まれないフリーターの女の子の雰囲気は醸し出している。活動はもっぱら、ギャル男、というよりはチャラ男をこれまたいかにもそれらしく演じた林遣都に任せた感じになっている。トップアイドルを起用したらこんなものさ、と思うかも知れないし、それは確かにあるだろうが、それ以前に、映画でマンガのようなエグい世界をストレートに描いたら、R指定どころか、少数の観客にのみ鑑賞されるカルト映画になりかねない。写真も完全に記号として使えるマンガと違って、いわゆる「実写」は、生々しさにある程度の歯止めがかけられて、娯楽として流通する、それもまた消費社会の常識なのである。】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男はいらんかね

2012年07月11日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
メインワークス:平山秀幸監督「愛を乞うひと」(平成8年)
        成島出監督「八日目の蝉」(平成23年)

 母性神話は、最も強力に人類の文化を支えている要素の一つだろう。しばらく前には「子どもを産まない女の生き方」を商品化しようとする動きも多少あったような気がするが、「少子化」が一大問題とされるようになってから、それも消えた。だからといって、若い夫婦が子作りに励むようになったという明らかな証拠まではないけれど、「産まない」選択をすることは、女性にとってたいへんなプレッシャーになるとは実感されているようだ。
 これは理不尽だ、と思う女性がいても不思議ではない。人は社会の中で、「自然に」何かになったりできる者ではない。母親も、それ以前に女そのものも、生まれてから「なる」ものだ。それなのに、母親にならなかった場合には、一方的に、まるで女失格のように見られたり言われたりしてよいものなのか? あまり目立つとは言えないが、ここからくる葛藤は、フェミニズム以前から、いくつかの文学的な作品にも垣間見えている。
 ただし、文学関係で母子関係というと、すぐにかのエディプス・コンプレックスが思い浮かぶだろう。「母を犯したい」という欲望がそれほど普遍的なものかどうか、私自身は疑っているけれど、誰からであれ、「母」が性欲の対象と見られるのは、それだけでもけっこうスキャンダラスだとされがちなのはわかる。もちろん、少なくとも一度は「性」の段階を経なければ、女は母にはなれない。そしてそのことは、少なくとも子どもの目からは隠すべきものとされている。
 例えばハムレットは、かなりのマザコン男で、母が父以外の男のモノとなったことをさんざんに罵る。そして母もまた、その非難を受け入れて、後悔するようなそぶりは見せる。女が、夫の死後に再婚するのは、当時も今も一般に不道徳とはされていないにもかかわらず、母である以上、こんな「義務」までなんとなく背負わされてしまう。
 また、キリスト教で、処女のままイエスを産んだとされているマリアが崇拝の対象になってきた事実も、「母」から「性」(セックス)を引き離そうとする感情がいかに広く深く行き渡っているかを証すだろう。換言すると、母体であるユダヤ教からして非常に父性的であるキリスト教が、世界宗教へと発展していくためには、なんらかの形で母性を取り込む必要があり、そのためにマリア伝説は好都合であったのだ。
     
 もう少し別の角度から考えるために、エディプス関係から外れているはずの、母娘関係を例にしてみたい。といっても、これを主軸にした作品は、無知のせいか、あんまり思い浮かばないのだが。
 古い映画だと、たまたま同じ1960(昭和三十五)年に製作された、ヴィットリオ・デ・シーカ監督「ふたりの女」と小津安二郎監督「秋日和」ぐらいか。この二作品の母(ソフィア・ローレン/原節子)はともに寡婦で、しかも美貌であるために、男たちの欲望の対象にされる。前者はイタリアの、第二次世界大戦の敗戦前後を舞台にしているため、あからさまに、後者は小津作品なので、礼儀正しく。どちらの場合も、娘(エレオノラ・ブラウン/司葉子)はこれに対して、けっこう厳しい。母には、自分のお手本になってくれることを当然のこととして求める。自分もまた、男の欲望の対象になる身体を持っていることを自覚すれば、なおさら、そうなる。そのときの母の側の惑い。両作品はこれを主要なモチーフとして展開する。
 つまり、これまた旧来の母性神話の枠内にある。母が母性以外の意味で「女」であることには、子どもの立場からは反感が持たれる。子どもが男であっても女であっても。理不尽だ、と言ってみてもそれだけでは解消できないぐらい、その根は深いのである。
 もっと別の形のものはないのか、と思ったら、最近の日本映画にそういう作品があった。これも、女性の自由度が高まったためだろうか。

 標記の二作品には共通したプロットがある。両作の「母」とも、非難が少しも理不尽ではないような者だ。しかし、そのことの本当の意味は何か? 成長した娘が探る。この探索と発見の物語が全体の大枠を作っている。そこで映画は、現在の娘と、過去の母を交差させる形で進む。
 「愛を乞うひと」の母(原田美枝子)は暴力的で、娘(成長してからは原田が一人二役で演じる)にひどい虐待を繰り返す。なぜか? 娘はかつて父(中井貴一)の手で母から引き離され、父の死後は孤児院に預けられていた。それを、他の男と同棲だか再婚だかしていた母がわざわざ引き取った。それなのに、まるで憎んでいるとしか思えない暴行の嵐。娘はあるとき、「私が可愛いからひきとったんでしょう?」と精一杯の抗議をしてみる。母の答えは、「お前なんか産みたくなかったんだ。お前は強姦されてできた子だ」。
 後に「強姦されて」云々は嘘であると判明する。それ以外の理由として、母の口からは、「子どもが施設にいたんじゃみっともない」と漏らされることもあるが、信用できない。世間体なんかそんなに気にする女とは思えない。娘が働けるようになってからは、その給料を巻き上げるが、最初からそれが目当てで、十歳の娘を引き取ったというのも無理がある。そんなに「計画性」がある女とも思えない。
 この母もまた、その親から虐待されていたのではないか、とは父の知り合いの婦人(熊谷真実)の推測だが、父と知り合う以前の母については、描かれることも語られることもないから、これは仮定にとどまる。
 これが語られる会食の場面には、もっと重要な話がある。父と母の関係が詳しくわかるのだ。終戦直後、台湾人である父は、宿無しの母が、ゆきずりの男に強姦されたところに行き合わせて、知り合う。父はやさしく彼女を包み込み、やがて愛情が芽生えて、結婚する。しかし妊娠すると、彼女はなぜか、捨てられるのではないかと脅える。出産後まもなく父は肺病にかかり、死期が近いことを悟る。虐待はもう始まっていた。そこで前述のように、彼は幼い娘を連れて、母と別れる。
 これが重要なキーであることは、そもそも映画の冒頭に、雨の中、娘の手を引いて歩み去る父と、悪態をつき、よろめきながらそれを追いかける母の姿が置かれていることでもわかる。すると、こういう推測が成り立つ。父は、母が愛したたった一人の男だった。そして、母を捨てたたった一人の男でもあった。それ以外にはいつも、母のほうで男を捨ててきたのだ。そこからくる強い愛憎の感情を、母は忘れ形見の娘にぶつけた。
 以上はセリフで語られることは一切ない。それはこの映画の優れたところだとしてよいと思う。この推測が正しければ正しいで、間違っていれば間違っていたで、強く印象づけられるのは、人間の愛憎の手に負えない不条理さだろう。母性もまた、その例外ではあり得ない。つまり、理不尽なのは女性が置かれた立場とばかりは言えないのである。

 「八日目の蝉」は、生後四ヶ月から四歳までの四年半、誘拐犯の女に育てられた娘の話である。
 誘拐犯(永作博美)を「母」として記述すると、彼女は妻帯者の男(田中哲司)との不倫で、妊娠するが、「まだ妻とは離婚できる段階ではない」と言われ、堕胎して、それが基で子どもが産めない体になってしまう。男が離婚して彼女と結婚するわけはないことは、彼の妻(森口瑤子)が妊娠したことで確定的になる。浮気を嗅ぎつけた妻からは、「(子どもが産めない)あんたは空っぽのがらんどうよ」と罵られる。絶望にかられた「母」は、夫婦の留守宅に入り込み、残された赤ん坊を見る。一目見ればすべてあきらめられると思ったのだが、産まれる前に失われたわが子が念頭に浮かんできて、衝動的に赤ん坊をさらう。その後は、各地を転々としながら、警察に捕まるまで、自分の子として、わが子につけるつもりだった名前で呼びつつ、慈しみ育てる。
 娘は、実家にもどされてからも、最初は実の父母を「知らないおじさんとおばさん」だとしか思えず、「母」のところへもどろうとして、家出したりする。やがてそれなりに事情が飲み込めた後も、ちょっとしたときに「母」の影が滲み出てきて、実母を苛立たせる。
 これ以上の不条理はないだろう。本当は、「母」から娘を取り戻すべく奮闘する実母こそ、ヒロインとして描かれるべきだったのではないか。現に冒頭は、実母が裁判でその不条理を訴えるところから始まっている。しかし、その後の映画の半分は、「母」と娘の「愛の逃避行」の描写で占められる。そこで一番強い訴求力があるのは、憂いに満ちた永作博美の可憐な容姿だと個人的には思うが、ともかくこれを見た観客は、彼らの幸せな生活が一日でも長く続くことを願うように導かれる。不条理の上塗りである。この束の間の幸福のために実の両親が払わされた代価が、償われることはついにない。
 やがて成長した娘(井上真央)は、「母」と同様に不倫の子を孕む。そして、「逃避行」のとき出会っていた女(小池栄子)に導かれて、思い出の地を歴訪し、「母」の深い愛情を改めて見出し、自分は一人で、今お腹にいる子どもを育てることを決意する。ここで映画は終わる。母性が勝利したわけだ。それも、男を可能な限り遠ざけた形で。
 角田光代の原作小説からして、男性排除の志向があることは見やすい。何より、女だけの宗教団体らしきエンゼル・ホームなるものが登場する。映画では、逃避行の最初の場所として選ばれるのがここである。様々な理由で社会にいられなくなった女たちの駆け込み寺的な性格もあるので、イエスの箱舟を連想させるが、全体としてはジェンダーからの解放を目指しているらしい以外、よくわからない。原作では、娘が後で新聞・雑誌記事などで調べたこととして、創設から消滅までの簡単な説明はあるが、映画ではそれもない。こういった団体の全体像を描くとしたら、それだけで、小説「八日目の蝉」よりずっと分厚い本になりそうだから、しかたのないことではある。しかし、中途半端に出てくるので、未消化感は残ってしまう。
 それより、映画にはもっとずっと強烈なシーンが二つある。娘の家庭は、この出来事と、それがマスコミの好奇の目にさらされたために、離散はしないが内面的にはバラバラになり、十年以上たっても修復されない。改めて、不条理極まりない話である。娘は大学入学を期に、実母の反対を押し切って一人暮らしを始める。実父は仕事を転々としつつ、実母にはないしょで娘に小遣いを与える。最初のほうのシーンで、娘はこれを断る。「父親らしいことはしないで。似合わないから」。
 もう一つは、娘が不倫相手(劇団ひとり)に別れを告げる場面。彼も、実父と全く同じ種類の男であり、このままでは娘も「母」のような道を歩かされることははっきりしている。で、「もう会いません」と言うのだが、ここは井上真央一人のアップとなり、それを聞いた男のほうの反応は一切描かれない。愛していたはずなのに、最初から全く問題にする値打ちもなかった存在であったかのよう。これはめったにない、大胆な手法である。
 こうしてこの映画からは「父」は二重に追放される。残るのは、聖母マリアに近い純粋な母性のみ。一見「無償の愛」に見えるので、感動的だ。しかし、実際は有償であったことは、上で見た通り。

 もう一つの作品には、これほど露骨な表現はないが、やはり父の影は薄い。
 娘の旅は、直接には父の遺骨をさがすためのものだ。それがほとんどただちに、より強力な人物だった母に向き合うためのものにすり代わる。前述の私の推測が正しいとして、問題になっているのは父の存在ではなく、父の不在なのだ。娘は女だというせいもあって、どうあっても父の代わりにはなれない。母を苛立たせるものとしては、おそらくこれ以上はない。
 また、この娘・照恵には、今は高校生になる娘・深草(みぐさ・野波麻帆)がいるのだが、母子家庭である。深草の父親はどうしたのか、全然わからない(下田治美の原作では、交通事故で亡くなったことになっている)。話題になるのも一度だけ、プロポーズの模様を、のろけのように深草に告げるとき。深草の漕ぐ自転車の後に横座りで乗って、深草に抱きつきながら。このときの原田美枝子は、母・信子を演じるときとはうってかわった可愛らしさを存分に見せていて、よいのだが、話の内容は凡庸なホーム・ドラマに過ぎない。
 それはいいとしても、このとき照恵は夫を「あの人」と呼ぶ。「あの人ったらね~」という調子で。娘に父親について話すときに、「あの人」と呼ぶ母がどれくらいいるものか。いなくはないだろう。しかしここでは、照恵は、かつての夫について語るのであって、それが今現に密着している深草の父であることは、度外視されている。計算づくでそうした、というより、彼はそういうふうに扱われるのが相応しいのだ。より正確に言うと、「父」はそう扱われるのが相応しいように作られた映画なのだ。
 つまり、「愛を乞うひと」の父たちは、「八日目の蝉」のよりずっと優しく、責任感もあるのに、やっぱり根本的に問題とはされていない。
 母が性から可能な限り遠ざかるのをよしとするのは、エディプス・コンプレックスを除けば、家庭を作って維持するために都合がいいからだが、そのために最も有効なやり方は、父や息子などの男性を家庭から消去してしまうことだ。これは論理的というより、算数の問題である。家庭で、程度の差はあれ、男は居心地の悪さを味わはなければならないのは、そういうわけだったのだ。
 といって純粋な母性がよいとばかりはとうてい言えないことも、ちゃんと描き込まれている。たとえジェンダー・フリーが実現したとしても、愛憎は深く強く人を縛り続けるだろう。ここに解決はないし、解決しようなどと思ってはならない。

 末筆ですが、「愛を乞うひと」を勧めてくださったW.H.さんに、心からお礼申し上げます。

【今回もやっぱり細かいことをつけ加える。「八日目の蝉」の最初のほうに、誘拐実行直後の永作博美が、ホテルの部屋で、泣きやまない赤ん坊の前で途方に暮れるシーンがある。スキム・ミルクは受け付けない。服を脱いで、乳をやろうとするが、もちろん出ない。合間に別のシーンが挿入されるが、前後三分近く長回しで続くこのシーンをどう思うか、うまい表現か、あざとすぎるか、人によって感じ方はまちまちであろう。
 私は、悪くない、と思うほうだが、でも…これやっぱり、乳首を赤ん坊に含ませるべきじゃないか。インナーを着けたままで、乳房に赤ん坊の顔を押しつけて、「出ないわよね」ってつぶやくのって、アリですか? どうしてこうなったの? すぐ後の井上真央のベッド・シーンでは、井上の裸は背中だけを見せる。そういうもんだ、と我々は自然に思い込まされているが、それと連続した流れ? 意味が全然違うでしょ。女の乳房が露になるのは、どういうシチュエーションでもイヤらしいというのは、それこそ男目線なんだから、それへの反逆を志向したこの映画では、それもスッパリ切ってみせてほしかったです】
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諸星大二郎讃

2012年01月29日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
 私が大学生時分からずっとファンを続けている創作家のうち、現存しているのは二人。劇作家(であると同時に童話作家としても秀逸)の別役実と、マンガ家の諸星大二郎だ。両人の作品に共通しているのは、独自のスタイルを持ち、また物語性が強いことである。もっとも別役は、一時、物語性を意識的に削り取ろうとしたことがあるが、それについては後で述べる機会もあるだろう。
 今回は諸星の話である。マンガとは、戦後日本が生み出した唯一の表現形態で、一時は全出版物の半分以上がこれで占められていたと言うが、今もそうだろうか。大元をたどれば、絵と文を組み合わせた「絵物語」と呼ばれるものは世界のいろんなところにあったが、主に手塚治虫という天才の牽引によって、現在の形になった。一連の絵を組み合わせることで、人物の動きと表情に言葉(主として、「吹き出し」中に書かれるセリフ)を重ねてストーリーを展開する。全体の構成は、映画の編集から多大な影響を受けているのは確かだが、もちろんそれとは決定的に違う何かである。まだ新しい表現形式だけに、現在でも少しずつ進化が見られる。諸星大二郎は、その中でも非常に重要な役割を果たし、また果たしつつある作家である。

 『ユリイカ』2009年3月号の「特集*諸星大二郎」に、「幻の初期作品」として「硬貨を入れてからボタンを押してください」が掲載されている。手塚が創刊した漫画雑誌『COM』に、「ぐら・こん」という既成マンガ家の交流と、新人の発掘・育成を目指したコーナーがあり、本作は昭和四十五(1970)年、その「コミックスクール」に投稿され、佳作となって、5・6月合併号に、最初の2頁だけが同誌に掲載されたものだという。ほんの一部だけの不十分な形であれ、諸星マンガがメディアに出た最初であろう。
 これをみると、彼独特の、乾いた、そして残酷なウイットに富んだ作品で、もう諸星ワールドの重要な一要素は完成していたのだな、とわかる。
 本格的なデビュー作は同年『COM』12月号に全編掲載された「ジュン子・恐喝」で、後に『コンプレックス・シティ 諸星大二郎傑作集』(双葉社昭和五十五年刊)に収録された。こちらは、幻想も怪奇も全く含まない、という意味でリアリズムに徹した作品。横に細長い絵を重ねるなど、構成についていろいろ学び、工夫していたことを如実にうかがわせる。
 彼のコマ割は現在に到るまで細かい。前出『ユリイカ』のインタビューで諸星自身が言っていることだが、縦に四コマを基本にしている。多少ともストーリーのある(起承転結、などがある)マンガの基本は四コマなのだから、当然と言えば当然である。が、最近は縦に三段割が商業マンガ誌ではむしろ普通になった。
 また、横には一頁に二コマ並べるのが昔から基準になっていて(因みに、四コママンガのように縦に一列ずつ読んでいくのではなく、最上段の右から左→二段目の右から左…のように読んでいく現代マンガの「文法」を創始したのは手塚治虫だそうだ)、諸星もそれに倣っているが、時には三コマあるいは四コマに分割することもある。このため、マンガ雑誌をペラペラとめくって、諸星の頁になると、全体に黒っぽいことに並んで、コマが細かいのがただちに目につく。つまり、他のマンガ家に比べて、情報量が多いということだ。それは、ストーリーの展開よりは、独特の情緒を盛り上げるための工夫である。
 「ジュン子・恐喝」には縦に五段割の頁もある。そこで例えば、警察の取調室のシーンで、刑事たち一人一人の表情を描きつつストーリーを進めるのは、もしも映画でやったら、うるさく感じられるカット割りということになるだろう。そうならないのは、コマの大小によって変化をつけられるうえに、すべてのコマを含めて一頁を一枚の絵として俯瞰も出来るマンガの特性があるからだ。
 そうかと思うと、主人公たち(ヤクザの男とストリッパーの女)の出会いの場は、鉄橋の上で、横は頁いっぱいを使った絵を五段割の頁に四段重ねている。こちらはすべて遠目から見た絵、映画で言うロング・ショットで、しかも溝口健二や相米慎二ばりの長回しの効果もある。
 作品の内容は、お互いに惹かれ合いながらも、現実には傷つけ合うことしかできない最下層の男女関係を描いたもので、いかにもこの時代の、『COM』や『ガロ』でよく見たマンガである。だけでなく、映画やTVドラマでも同種のものを見たような記憶はある。
 しかしそれらとは一味違うのは、前述した構成の凝り方で、主人公たちへの思い入れよりは、不幸な関係の物語を、一定のフォルムとして提出する意欲が勝っているところであろう。こういうのは、物語作家としては重要な資質であると私は思っている。

 『コンプレックス・シティ』にはもう一つ、「むかし死んだ男」というリアリスティックな作品も載っている。初出は『ぱふ』1979年7月号だが、最後に1972.Jan.と記されており、最初期に書かれたまま発表されなかったものだとわかる。
 主人公は父親に無理心中されかかって、助かった少年。彼は自分を殺そうとして、自らは死んだ父を恨んでいるが、何か大事なことを忘れている気がして、それが頭から離れず、過去を調べている。そんなあるとき汽車を見て、突然、父が機関士だったことを思い出す。仕事をしていたときの父の横顔、同時に、幼いときに引かれた母の手のぬくもり。それがあるなら、家族に何があったのかはもはやどうでもいい、「父にも彼自身にもかつて幸せな時間があったことをしって 彼はふしぎと心がおちつくのを感じた」「和志はその時はじめて 父を許してもいいと思った」。
 すっきりしたよい話である。絵としては、見開き二頁にわたって続く夢のシーンが非常に印象的。線路際の一連の杭、今でも古い駅付近でよく見かける、有刺鉄線を張ってあるあれだが、その杭の列だけが霧の中にぼうっと浮かんでいる感じで、またその列が微妙に折れ曲がっていく。その傍を、最初は成長した主人公和志が一人で、次に幼い姿で父に手を引かれて歩いていく。やがて電車の正面。その前へ行こうとする父と、抱えられた幼子のシルエット。そこに(そうじゃない!と夢の中で叫んだように思った!)というような、吹き出しのセリフではない、一種のナレーションが書き込まれる。
 文字で説明すると、主人公の割り切れない心理状態を表したものとして、平凡なようだが、このような表現方法はマンガ独特であろうと思う。「ジュン子・恐喝」は、映画かTVあるいはビデオドラマでもかなりの程度近いものは作れそうだが、この杭の列は、実写では生々し過ぎるし、アニメにしても、やっぱり絵が一枚の絵として決して完結しないのは、この場合致命的であろうと思う。映画は動画と音声によって、マンガは連続した内容の静止画と文字によって、作品世界を作り上げるジャンルだという当たり前の事実を、改めて教えられた気がする。

 昭和48年、「不安の立像」が『漫画アクション増刊』(9月8日号)に掲載され、翌49年「生物都市」が手塚治虫賞を得て『週刊少年ジャンプ』(7月20日号)に出、同誌9月9日号より「妖怪ハンター」シリーズが連載(五回まで)され、いよいよ諸星大二郎の本格的な活動が始まる。同時に、これらの作品群は、諸星といえばすぐに思い起こされる、おどろおどろしくどろどろしたイメージに彩られたものである。実際には、最初期からずっと引き続いている緻密な構成が、知的で乾いた印象を残すので、「どろどろした」には歯止めがかかっていると思うが。
 これに続く「マッドメン」(最初は「妖怪ハンター」と同じく読み切り短編のシリーズだったものが、後に一部改訂されて立派な長編になった。『少年チャンピオン』1975年増刊8月号が最初)、「暗黒神話」(『週刊少年ジャンプ』1976年5月17日号~6月20日号)、「孔子暗黒伝」(同誌1977年12月12日号~78年2月29日号)の三作は、現在でも諸星の代表作となっている長編である。
 物語の骨子はすべて、少年の自己探求と言ってもよい。現在執筆途中で、諸星最長の作となることが確定的な「西遊妖猿伝」もまた、少なくとも第一部「大唐篇」にはその趣がある。少年マンガで、多少とも「内面」を問題とする「文学的」な作品にしようとすると、どうしてもそうなってしまうのかも知れない。
 しかし、ただちにわかることだろうが、たぶんこの時代・昭和五十年代に始まって現在まで続く若者の「自分探し」の文脈に諸星マンガをあてはめようとすることは無理がある。そういうことならば、「むかし死んだ男」が一番近い。主人公の少年は過去を取り戻すことで、家族と、世界と、ひいては自分自身と和解する。どうも一部で誤解されているように思えるのだが、「自分探し」は、こんなふうに過去に遡及するのでなければ意味がない。未来に「投企する」形の自己は、投企してみて(何かをやってみて)初めて出てくるので、それ以前にどこをどう探したって、見つかるはずはない。ないんだから。
 「マッドメン」「暗黒神話」「孔子暗黒伝」の主人公たちの自分探しは、上とも違う。だいたい、彼らが何者であるかは、生まれる前から決められている。人間が努力してなれるようなものでは全くない、神話上の人物、あるいは神の生まれ変わりなのだ。彼らは彼らの欲求に従って行動するのだが、それは結果として神話の構造をなぞるものとなる。これらのマンガの面白さは、卑近な人間世界のできごとが宇宙の創生にまでシンクロする大胆な跳躍にある。これまた諸星が最初ではないが、ここまでの大仕掛けは彼以前に書かれたり描かれたりしたことはまずなかった。シンクロナイズが完全にうまくいっているかというと、いろいろと理屈に合わないところがあるのだが、跳躍のあまりの高さに目が眩まされて、読んでいるときには気づかなくなってしまうのだ。
 「暗黒神話」の主人公山門武(やまと たけし)は、その名の示すとおり日本武尊の生まれ変わりである。しかし、彼が自ら何かを始めることはない。彼の秘密を部分的に知っている人間たちに引き回され、さらには古代の神々に導かれて、日本中を移動し、体に八つの聖痕を受け、やがて、父を殺して母を死に追いやった菊地彦(母の実弟なので、武の叔父ということになる)を倒す。菊地彦とはクマソのことなので、これは日本武尊の征西神話のなぞりである。
 が、そんなのはほんの序の口。日本武尊=山門武とは、宇宙の根源的唯一者ブラフマン(梵)に直接選ばれたアートマンなのであって、かつて日本の縄文文化を破壊した暗黒神を自由に使える。暗黒神の正体は暗黒星雲で、これが一種の生物なのだとすると、地球どころか太陽系全体を一瞬にして食いつぶすことができるというのだから凄い。凄すぎる。いくつかの文明を滅ぼしただけなんて、話が小さくないか。
 それにまた、日本武尊がそのような存在だったことを暗示するような神話は存在しない。その部分は純粋に諸星の創作であって、そのために「古事記」や「日本書紀」に記されている伝承が、材料として、個々ばらばらにされたうえで組み替えられて、使われる。「これは、一種のはめ絵遊びです。古代史の材料を片っぱしからぶち込み、その一つ一つを関連づけながら事件が展開し、最後に全体を眺めると、ダリの二重像の絵のように全然別の新しい絵が浮かび上がってくる……そういった緻密で壮大なジグソー・パズルをやってみたかったのです」と、単行本『暗黒神話』(創美社発行・集英社発売昭和五十二年)のカバーに諸星自身が書いている通り。
 しかしそれではそのようなゲームだけがすべてかと言うと、決してそうではない。主人公たちの周りにいて、彼らの運命を見届けようとする者や、彼らの神秘な力を己のために使おうとする者たちの人間像は、きちんと印象に残るように描き込まれている。前者の典型が「暗黒神話」の竹内老人=武内宿禰であり、後者の典型がこの作品では菊地彦、「孔子暗黒伝」では、孔子を初め、主人公ハリ・ハラが放浪中に出会うインド・東南アジア・日本の人々である。普通に言って最も劇的なのは後者であって、身の程を知らぬ大望を抱いて神聖なものに近づき、挫折あるいは破滅に至る。人間の努力なんてすべて無駄、と言われているような気もするが、それより、無駄と知りながらも永遠なもの・神的なものにあこがれずにはいられない人間の哀しさが活写されていると見たほうがよい。
 主人公たちについて言うと、ナイーブな少年として登場した山門武は、自分の真の姿を知っても迷ったままだし(人類を救う弥勒菩薩になることは絵で暗示されているが)、「マッドメン」の主人公コドワは、神話通り復活しながら、「俺の神話は俺が作る!」と、妹でもあれば恋人でもある波子(=ナミテ=イザナミ)とともに、旧来の神話世界の外へと逃れてしまう。これは彼が、登場した時点から、部族を率いる若き酋長としての威厳と行動力を充分に示しているからである。どちらも、神と言ってよい存在なのに、一般的な青年の性格を残しているところがいい。「孔子暗黒伝」のハリ・ハラは、根源的唯一者と完全に同化してしまうらしいので、どうにもならないが…。
 このように、諸星マンガの醍醐味は、広大な世界観にあることは確かだが、その中の人間ドラマもそれに劣らず、あるいはそれ以上に魅力的なのである。『文藝別冊 総特集 諸星大二郎 異界と俗界の狭間から』(河出書房新社平成二十三年刊)所収のインタビューでは、創出した登場人物が当初の予想を越えて動き出すので、例えば「西遊妖猿伝」はそれに引きずられたこともあってあの長さになっているのだ、と語っている。キャラクターが作者の傀儡では終わらず、存分に生動する。諸星が大作家であるゆえんは、第一はそこにあると私は思っている。

 最初期から現在まで、何作も書かれてきたという意味では、諸星マンガの代表格である「妖怪ハンター」シリーズについて最後に言おう。この中では最新作「稗田のモノ語り 魔障ヶ岳」(講談社平成十五年刊)が最高傑作ではないだろうか。
 架空の山・魔障ヶ岳の奥に、その「モノ」が潜んでいる。強大な力を持っているが、不定形にして無性格、ただ接する人間の欲望に応じて、いかようにも姿を変える。また、アメーバーのように分裂して増殖もするので、同時に複数の人間の持ち物になれる。物語の中心軸に「何にでもなれるモノ」を置くのはちょっと安易な気がしないではないが、諸星は実に見事にこの「モノ」を動かして見せる。
 山中で「モノ」と出会い、持ち帰った人物は、妖怪ハンターと呼ばれる(シリーズ第一作「黒い探究者」の末尾にそう記されている以外、作中でこの言葉が出てくることはないが)異端の考古学者・稗田礼二郎を含めて四人。稗田の後輩の考古学者・赤井はモノを「魔」と名付ける。するとそれは妖しい魅力を備えた男(後には女)となり、赤井に考古学上の画期的な発見をさせるが、また発掘物の偽造をさせるようになる。やがて赤井は幼い頃からの夢だった邪馬台国発見の妄想に取り憑かれ、奈良盆地の中心にある耳成山こそ卑弥呼の巨大な墳墓だとみなして、一人でシャベルで山を掘っているうちに死んでしまう。
 修験者・信田はモノを「神」と呼ぶ。するとモノは座敷わらしのような童子の姿になって、信田に神通力を授け、ために彼は教祖として信者を集めるようになる。能力の一つは空中浮遊。このへんはオウム真理教のパロディに見える。因みに前の赤井の話は、平成十二年に発覚した旧石器偽造事件を連想させるだろう。ただそれは単なるヒント以上の意味はない。オウム真理教の超能力はインチキだったのだが、それがホンモノであったとすれば、ますますもって善男善女を惑わせる危険が高まることになろう。信田の空中浮遊の最中に稗田がモノを祓うと、信田は崖下に落ちてこれまた死んでしまう。このへん、稗田が信田を殺したように見えるので、後味が悪い。
 四人中唯一の女・岩淵翔子は、恋人で、イラクで死んだジャーナリスト(また実際の事件が連想されるね)の代用をモノにさせる。しかしこのモノは、自分が本当は何者か、不安を感じる。モノの「自分探し」は、三輪山に関する神話・伝説をたどり直すことで遂行される。この部分は「マッドメン」や「暗黒神話」に近い。その結果、もともと何者でもない、だからこそ何にでもなれるモノは、翔子の腹に子どもを残し、あとはただ異界に去るのみである。
 上の三人が「身の程を知らぬ大望を抱いて神聖なものに近づき」過ぎた人物たちであるのに対して、稗田礼二郎は基本的に、事件に立ち会って見届けるだけの人物である。それはこのシリーズ始まって以来変わらない。たまに積極的に行動するのは、異界のものがこちら側(いわゆる現実の、人間世界)へ侵入するのを防ごうとするとき。この作品でも彼はモノに、敢ていかなる名前もつけず、もとの山中に帰し、封印する。
 ここまでの私の説明で、オムニバス形式で綴られたこの作品の真価がどれくらい通じたかはわからない。あと少しだけ説明を試みる。確かに強い力を発揮するが、正体を見極めようとするとひどくとりとめがなく、その意味でも手に負えないのは、人間の欲望そのものだ、とは、読んでいるうちに自然によく納得される。稗田が語る三輪山の苧環(おだまき)伝説の解釈は、それ自体面白いし、モノ神話についての歴史的な厚みを与える。その神話が、宇宙大にまで広がることは本作ではないけれど。
 他の登場人物としては、かつて信田の弟子で、自ら宗教団体を立ち上げた岩田狂天が抜群に面白い。ライブハウスで、ラップで御託宣を下す。ありそうでないキャラ、というか、似たような拝み屋兼ラッパーはもうどこかにいるのかも知れない。彼が稗田の行動をかぎつけて、つきまとうので、ひっそりと行われるはずだった封神の儀式がやたらに賑やかになる。岩田が携帯電話で呼び集めた信者が大勢魔障ヶ岳山中に押し掛けると、赤井によって「魔」とされたモノが、山中のモノに携帯電話を与えるので(!)、交信可能になり、モノは人々の呼びかけに応じて、モーニング娘。(今ならもちろんAKB48だろう)など、様々な形を同時にとって見せる。最後に稗田が祟り神を祓う祝詞を、やっぱり携帯で送って、すべてを収拾する。ただし「魔」だけは祓われずに人間界に残ってしまうというのが、なにか怖いような楽しいような余韻を残す。
 岩田というのは、「面白ければすべてよし」が行動原理だ。他には「コンプレックス・シティ」で初登場した奔放な女・ゼピッタがこのタイプで、彼らは挫折も破滅もしない。ただしゼピッタが活躍するのは、諸星マンガのもう一つの系列であるスラップスティックス・ギャグマンガなのだが、生々しくも切ない願望に焦がれている人間たちのドラマ中にも、こういうトリック・スターをぶちこんで、作品を少し軽く、明るくして見せる。こういう芸当も諸星の力量の一つと言ってよいだろう。

 以上、いろいろ述べたが、私としては、興趣の尽きない作品を生み出し続けている創作家を同時代に持てたことを心から喜んでいる。諸星先生、今後もお元気に、末永くご活躍ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする