由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

正しい道はあるのか? その6(最終回)

2011年02月26日 | 倫理
メインテキスト: マイケル・サンデル 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原著2009年刊 早川書房平成22年5月 同年9月87版)

サブテキスト:吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書平成7年 平成9年第7刷)

 自分の属する共同体の、過去への責務、それも、自分が生まれる前のも、と言われるなら、また別の角度から、教育の問題を考えねばならなくなる。単純に、まず第一に知識が必要とされるのだから。
 ソウルへ観光旅行に行って、安重根の銅像を見て、「これ、だあれ?」と、韓国人のガイドに尋ねた日本のお嬢さんが、ムッとしたガイドから説明を聞いた後、「へえ。じゃ、伊藤博文ってだあれ?」とさらに尋ねた。これは小林よしのり『ゴーマニズム宣言』に描かれているエピソードだが、こんな人に日本の韓国に対する植民地政策はどうたら言っても、まるっきり無理なのは明らかだ。自分が体験したことでないものについては、学ばなければ何も始まらない。しかしなにしろ、ものがデカいから、それも簡単にはいかない。

 サンデルは、P.271で、ナチスのホロコーストの事例に並べて、日本の「戦争中の残虐行為」である従軍慰安婦問題をとりあげている。が、彼はこの問題についてあまりよく知らない。「一九三〇年代および四〇年代に、韓国・朝鮮をはじめとするアジア諸国の何万人もの女性が日本兵によって慰安所に送られ、性的奴隷として虐待された」という記述は、嘘である。言い換えると、一方的な見方でできたイメージを、歴史的な事実だとしている。
 以下は、今では日本ではかなりよく知られている「事実」だと思うが、何しろ、アメリカでは、サンデルのような大学者さえおかしなことを言う情勢なのだから、あらためてまとめておこう。
 戦争によって占領地になった地域は、軍政がひかれる。軍隊が行政のトップに座るということで、敗戦後の日本を支配したGHQもその一例である。大東亜戦争中、日本は中国大陸から東南アジアにかけて、たくさんの地域を占領したから、自然に軍政地もたくさんできた。
 ここでの大きな悩みの一つは、兵士たちの性欲処理問題だった。放っておけば、現地人女性へのレイプが多発する。それでは、占領者日本への悪感情の火に油を注ぐから、支配がやりづらくなる。もっと大きな問題は、性病の蔓延である。その防止のために、慰安所が必要とされた。当時でもレイプは犯罪だが、売春は、公的に許可される場合(公娼制度)もあった。
 日本政府は戦後長いこと、慰安所への軍の関わりを一切否定してきたのだから、ウソツキ呼ばわりされるタネを自ら蒔いた、とは言える。実際には占領地での慰安所の設置には軍の認可が必要だったし、慰安婦に月に一度か週に一度の性病検査は義務づけるなどの管理はしたし、兵士たちには、行為の時にはコンドームの着用を義務づけるなどの規則を課してもいる。また、慰安婦たちを別の土地へ移送するのは、軍が直接行った。
 平成四年一月十一日、吉見義明が「発見」した資料を『朝日新聞』がスクープとして大々的に発表したのが、今日まで続くこの問題の発端である(日本軍のための慰安婦の存在は知られていたし、問題視する動きも日韓双方であったが、大きな問題とはされていなかった)。この時は宮沢喜一首相の訪韓が五日後に予定されていて、朝日の記事はどうやらそのタイミングに合わせたものだった。韓国では反日デモが荒れ狂い、宮沢は謝罪の言葉を繰り返し、真相究明を約束して帰国した。
 同年七月、加藤紘一官房長官が調査の結果、慰安所についての日本軍の関与は認めるが、「強制連行したことを裏づける資料は見つからなかった」と発表した。この実情は今日に至るまで変わっていない。しかしそれは、韓国で日本を糾弾している人々が望むような回答ではなかった。と言うか、彼らが求めていたのは、最初から「事実」なんぞではなかったようだ。
 たぶんなんらかの政治取引の結果、翌年、宮沢改造内閣で加藤の後を継いで官房長官になった河野洋平による、いわゆる「河野談話」が出る。これは、「(慰安婦問題は)軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」ことを初めて認め、「政府は、この機会に、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げ」たことで、歴史的な談話となった。サンデルも、これを真実としたうえで、冒頭に挙げたようなことを書いている。
 事実関係で言えば、この談話の最大の問題は次のくだりである。「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」。
 日本と朝鮮半島について言えば、官憲、つまり軍や警察が、慰安婦の募集に「直接加担した」ことを示す証拠は、いっさいない。吉見の『従軍慰安婦』には、彼が韓国でヒアリングをした元慰安婦たちの証言が出ているが、すべて「甘言、強圧」によって慰安婦にされた例であり、それをしたのは韓国人や日本人の売春業者である。その後、軍人によって直接連行されたと言う人も何人か現れたが、その証言の信憑性は乏しい。
 中国大陸に関しては、元軍人の手記や回想記の類に頼っている。上官に命じられて、塩と交換に売春婦を譲り受けたり、支配下にある村へ行って、慰安婦を集めるように依頼したりしたのだという。「しかし、軍からの要請は、地元の住民にとっては、ほとんど命令と同じではなかっただろうか」と吉見は言う(P.117)。そうかも知れない。が、これは「強制連行」という言葉で普通に連想されるものとはずいぶん違うのも確かだろう。
 かなり近いと思えるのは、東南アジアで起きたいくつかの事例である。昭和十九年にジャワ島スマランで、スマラン事件、別名「白馬事件」と呼ばれる事件が起きた。同地は十七世紀以来三百年にわたってオランダの支配下にあったものを、昭和十七年日本軍が侵攻、現地にいたオランダ人たちは抑留所に収監されていた。スマランにはもともと慰安所はあったが、性病が発症していたため、軍は新たな慰安所の設立を計画した。そこで目をつけられたのが抑留所にいたオランダ人女性である。当地を支配していた第十六軍司令部は、慰安婦を集める際には、強制を禁じ、自由意志で応募したことを示す書類にサインさせることを指示していた模様だが、南方軍幹部候補生隊の将校の中に、これを無視する者が出た。収容所から、強制的にオランダ人女性を連行し、レイプしたうえで、慰安所で働かせたのである(「白馬」とは、「白人女性に乗る」を意味する、日本軍内部での隠語であったらしい)。
 戦後、パタピア(現ジャカルタ)で開かれたオランダ軍の軍事法廷で、この時集められた三十五人の女性のうち少なくとも二十五人が強制による売春だったと認定され、日本の幹部候補隊隊長を初めとする軍人・軍医・軍属十三名が、死刑二名を含む有罪となった。これは、いわゆる「BC級戦犯裁判」の一つであるが、アジア各国で、約五千七百人が裁かれた中で、「強姦」だけではなく、「強制売春」の罪名がついたのは、この一件のみである。
 これは「日本軍人による慰安婦の強制連行」であることはまちがいない。その他に、フィリピンで、反日活動をしていた女性を捕えて連行し、慰安所のような特定の場所ではないが、軍隊内部で強姦し続けた、との証言はある。しかし、いずれも、「日本軍による強制連行」とは言えない。つまり、個々の軍人による犯罪行為はあったが、軍命として、つまりは大日本帝国の国家意志として、日本軍が、組織的に、一般の女性を狩り集めて慰安婦とした、という事例は一つもない。

 何を細かいことにこだわっているのか、という人もいる。日本軍は表面上、合意なしの売春は禁じていたが、それを誠心誠意守ろうとした、とはとうてい言えない。スマラン事件の時も、司令部の意向で、この慰安所は二カ月ほどで閉鎖されはしたが、責任者たちは、日本軍自らの手で裁かれることはなかった。他にも、自分ではやらなくても、業者が不法に慰安婦を集め、日に何人もの男の相手をさせるなど、非人間的な扱いをしているのを、見て見ぬふりをしていたことはあったろう。それなら、日本軍に、ひいては日本人に、なんの責任もない、なんてあるわけないんだから、「ある」と、「男らしく」認めたらどうだ、という。
 純粋に道徳の話なら、そうも言えるかも知れない。そのうえ、このような「潔さ」は、日本人好みでもあるかも。この点から見たら、「河野談話」は、そんなに間違っているわけではない。しかし、この時の自民党政権や外務省が、それしか考えずに、この談話を、政府の公式見解として出したとしたら、その呑気さ自体が犯罪的である。
 国際社会は、実はどうかよく知らないが、少なくとも日韓関係は、「ちゃんとあやまっているんだから、それで水に流そう」なんてことで収まる段階をとっくに越えていた。今回長々と「慰安婦問題」が出てきた経緯を記したのは、これを明らかにするためだ。この問題は、最初から、道徳問題ではなく、政治問題だったのである。
 そこでは、謝罪するということは、自分の悪を全面的に認めたことになり、ではその補償はどうなる、という話に当然なる。実際、そうなった。補償となれば、相手のいいなりに払うわけにはいかないのだから、改めて、事実はどうであったのか、細かく調べなくてはならない。すると、一度自分の非を認めたくせになんだ、ということになる。苦肉の策として、日本は「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」、略してアジア女性基金を作り、補償金ではなく見舞金を元慰安婦に出した。するとこれ自体が、日本の国家犯罪をごまかそうとする行為だ、と非難を浴びた。日本は、みごとに罠にはめられたようなものである。
 サンデルは、政治学者でもあるはずだが、この本の範囲では、こういうことに対してナイーブすぎるようである。いや、それ以上に、日本なんて国については、たいして興味がないのだろう。

 確かに、我々が生きるとは、物語を生きることだ。個人としても、国民としても。そして、雑多な歴史の事実から、一貫した物語を作るためには、嘘はつかないまでも、どうしても事実の取捨選択が行われる。事実の中のあるものを強調することそのものが、他のものを隠蔽する結果になる。それを前回見た。
 女性の立場から見たら、日本軍はいかにも、非道なことをした。とはいえそれは、吉見の本にも例が出ている、アメリカ占領軍が、日本のパンパンとかオンリーとか呼ばれた女性たちにしたことに比べて、格別にひどいわけではない。他の国にも、同じような罪科はある。そう言うと、「お前は日本の罪を隠そうとしている」と非難される。一理はあるが、逆に、日本だけが女性虐待をしたかのような言い方は、他国の罪を隠蔽することになる、というのも、同じぐらいの理がある。
 道徳的に人を非難するのはやめたほうがいいのではないだろうか。「汝らのうち罪なき者、この女を石もて撃て」というイエスの言葉が、この場合正しい唯一の道徳律である、と私は感じる。
 それでは、国家が過去に、他国民に犯した罪はどうなるのか、と言われるなら、それは国家という一種の法人格が存続する限り、法的・政治的な責務もまた続くであろう。それが、サンデルもいくつか例を挙げている、アファーマティブ・アクションまで至るべきものかどうかとなると、今の私にはよくわからない。
 それより、次のことは気にならないだろうか。慰安婦を買ったかつての日本人兵士を、我々はただ、「ひどいことをした」と断じられるだろうか? 赤紙一枚で、故郷を遠く離れた戦地に送られた人々が嘗めた辛酸は、今平和に暮らしている我々には想像もつかない。それはもちろん、慰安婦となった女性たちについても言える。
 我々は、彼らがしたことをいいとか悪いとかあげつらう前に、我々と彼らの間の圧倒的な差異に思いを致すべきではないだろうか。そしてその上で、可能な限りの思い遣りを持つように努めるべきではないだろうか。同朋意識、つまり同朋としての物語は、そのようにして我々の中に生まれるのだと私は思う。
 たぶん、それを教えるのは、政治学でも哲学でもなく、文学の役割であろう。いつか別の機会に、改めてこれを考えてみたい。
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正しい道はあるのか? その5

2011年02月20日 | 倫理
メインテキスト: マイケル・サンデル 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原著2009年刊 早川書房平成22年5月 同年9月87版)

サブテキスト:田中克彦『ことばと国家』(岩波新書昭和56年)

 閑話休題。
 前々回私は本書第9章「たがいに負うものは何か?―忠誠のジレンマ」中に出ている問題を取り上げたのだが、サンデルが提出している最も困難な課題は棚上げにしてしまった。それは、共同体が犯した罪を、個人が、自分のものとして引き受けよ、という要請である。それも、自分が生まれる前のできごとについても。例えば日本なら、かつての従軍慰安婦への非道を償う責任が、現在の私たちにある、とされる。
 「自分の国が過去に犯した過ちを償うのは、国への忠誠を表明する一つの方法である」(P.303)。
 同意されるだろうか? これに答えるためには、サンデルが直接には述べていないことについても、あれこれ考慮されなければならない、と私は感じる。

 まず、国家に対する忠誠心、などと言うと、少し前の日本なら、直ちに忌避されたものだ。忠誠なんて言葉自体、封建的でオクレているものの代表だった。今は、いわゆる保守化傾向の世の中で、そうでもなくなったのだろうか?
 あまりよくわからないけれど、国家共同体にまつわる、難しい問題はまだなくなっていない。それは、ここまで大きくなってしまうと、普通の個人には全体を見渡せなくなってしまう、という事情に由来する。
 家族や地域共同体なら、人が実際にその中で育つのだから、疑いようのない具体性を備えたものとして個人の前にある。いや、それ以前に、これら共同体内部の人々との交流を通じて、あなたはあなたという一個の人間になるのであって、あなたと、あなたの家族や故郷とを完全に切り離すことは決してできない。
 つまり、あなたのかけがえのないアイデンティティの一部がそこにある。それに対する忠誠などという「他人行儀」な言葉は、ふつう似つかわしくない。それは前々回に詳しく述べたことである。
 国家の場合、ただちにそうとは言えない。日本のような、さほど広くない国の場合でも、大部分が行ったことのない土地だし、そこに住む国民の大多数が見知らぬ他人だ。そこに同胞意識が生まれるためには、特別な教育が必要とされる。そのために、学校がある。
 以前私は、「学校のリアルに応じて その4」で、近代の勤め人のエートスを身につけるために、学校は必要だと書いた。それとは少し次元が違うところで、学校は、国民国家の、国民を形成する役割も果たす。
 と言って、「学校にそんな大それたことができるものか」と呆れられた経験が、これまで何度かある。それはそうだ、中でやっていることだけを考えれば。
 例えば、かつて標準語普及のために、学校で「方言撲滅運動」というのが実行されたことがある。現在、方言がなくなったわけでもないし、なくそうという人もいないと思うが、日本ならどこへ行っても、言葉がまるで通じなくて困る、なんてことはまずなくなった。その、最大の功績は、どう考えても、まずマスメディア、の中でもラジオ、次にテレビ、という電波媒体にあって、学校ではない。学校だけだったら、どんなに子どもを虐めても、とてもこうはいかなかったろう。
 重要なのはそれ以前なのだ。我が国では明治五年に「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期」した学制ができ、小学校の就学率は当初こそ三割に満たず、農村部では、労働力として当てにされていた子どもを、学校なんてわけのわからないところへ取られるなんて馬鹿な話があるか、という理由で一揆まで起きたくらいだったが、明治末までにはほぼ100パーセントを達成した。この時期から日本では、学校はあるのが当たり前であり、子どもはそこへ通うのが疑いの余地のないものとなった。
 学校が子ども期を制度化し、さらに中高等教育の拡大によって、その時期は次第に延びて、前時代にはあまり一般的ではなかった「青年」という階層が普通のものとなった。それは国家の意思である。あなたが「子ども」というと漠然と思い浮かべる、イメージの大本を作ったのは学校なのだ。
 中でやることだって、全く問題にならないわけではない。達成されることだけ考えたら、半分以上の人が、学校で習ったことなんて、社会へ出たらたいてい忘れるよ、と言うかも知れない。しかし、何しろ、全国統一カリキュラムで、日本語を使って、国語とか算数とか、やることはやるのである。地域にも社会階層にも性別にも左右されない、共通の経験は、国民全員に与えていると言っていいだろう。
 それだけか、と言われるかも知れないが、それだけでも、あるのとないのではえらい違いだ、とは納得されるのではないだろうか。

 学校の話のついでに、日本ではあまり気がつかれない、次のことにも触れておこう。
 アルフォンス・ドーデの短編集『月曜物語』中の「最後の授業」は、以前はよく教科書に載っていたから、かなりよく知られているだろう。独仏両国にはさまれたアルザス地方で、フランス語の教師が最後の授業をする。教室には子どもたちだけでなく、大人も混じっている。教師は言う。この地方はドイツに占領された。明日から学校でフランス語を教えることはできず、自分もどこか他へ行かなければならない。しかし、忘れないでほしい。フランス語は「世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばん力強いことば」なのだ。「たとえ民族が奴隷の身にされようとも、自分の国のことばを守ってさえいれば、牢屋のカギを握っているようなもの」である。そして彼はいつものように授業をした後、黒板にVive la France!(フランス万歳!)と大書して、皆に別れを告げる。
 美しい物語だ。しかし、『ことばと国家』(「最後の授業」中からの引用も、同書による)などのおかげで、次の事情も今ではよく知られている。
 フランスではアルザス・ロレーヌ地方、ドイツではエリザス・ロートリンゲン地方と呼ばれる地域は、ヨーロッパ史の中で、領有権をめぐって複雑な争いの舞台になった。1648年のウェストファリア条約で、神聖ローマ帝国からフランスに割譲されてから、公用語はフランス語となったが、土着語のアルザス・ドジン語は、ドイツ語の方言とみなすべきものである。「最後の授業」の時代背景は1871年の普仏戦争だが、この時代でもフランス語が生活の中で定着していなかったことは、「ドイツ人たちにこう言われたらどうするんだ。君たちはフランス人だと言いはっていた。だのに君たちのことばを話すことも書くこともできではないか」という先生の言葉からもわかる。
 つまり、「最後の授業」が描く、母国語(フランス語)が奪われることに対する抵抗の物語は、その奥に、もともとフランスがこの地方の土着語を住民から奪おうとしてきた事情を隠している。田中克彦などは、これがつまり国家というもののやり口であり、同一言語を話し同じ過去を持つ「国民」というものは、むしろ後からでっちあげられるのだ、と論じる。
 私は、その面もあることは否定しない。
 人が生きるとは物語を生きるということだ、とサンデルはアラスデス・マッキンタイア『美徳なき時代』を援用して述べている。自分が地域的歴史的に形成されたある集団の一員であり、そこである役割を背負う、と考えることは、契約によって他者とつながる、という個人主義の考えよりずっとダイナミックでエキサイティングな「生きる意味」を与える。国家はその中でも、民族の物語という、最も大きなものを与え、またそれを基盤にして成立している。
 しかし、それが物語、と呼ばれてもいいのは、客観的に確実な根拠はないからだ。その意味では、フィクションの部分が非常に大きい。学校は、このフィクションを伝える場なのである。例えば、お前たちはもともとフランス人だったのだ、これから政治体制は変るかも知れないが、フランス語を忘れない限り、その「事実」はずっと続く、というような。
 「最後の授業」の場合ほどフィクションがはっきりしている例はむしろ稀だ。特に島国日本など、「一民族一国家」がほとんど疑われることがないぐらい、国家幻想が深く浸透している、とも言えるかも知れない。私の先祖など、いつどこから来て、どういう人の血と混じって、その結果今私が日本人として生活しているものやら、皆目わからない。それでも、全く平気で、「日本人」をやっている。
 正直なところ、このような「アイデンテティの根拠」には、あまり興味もない。国民意識を、根拠のない幻想であるとして解除したとしても、今度は例えば「階級意識」なる、別の物語に取り込まれるのがオチだ。20世紀は、そのための大実験が世界的に行われた時期だったと思う。

 とはいえやっぱり、国家というデカすぎる物語は、ときに我々をとんでもないところへ連れて行く可能性があることは、確かである。
 他の人もたいがいそうだと思うが、私はふだん自分が日本人だなんて特に意識することはない。が、TVでオリンピックやサッカーのワールドカップやWBCを見ると、自然に日本チームを応援している。その一方で、日本人一般が侮辱されたと感じたら、平静ではいられない。昔、日の丸が焼かれる映像を見て、嫌な気になったものだ。日本人が別の国の人に、不当に扱われたり、極大だと虐殺されたと知れば、怒りもする。
 我々を主に動かすのは後者の感情だ。本ブログの最初「学校のリアルに応じて その1」で、小グループの排他性ということに触れたが、それは大グループにもある、ということである。人と人をつなぐ原理は、同時に人を遠ざける原理にもなる。
 戦後日本で、国家や、「集団への忠誠」がいやがられたのは、この面が強調されたからである。それは結局、差別や虐待、さらには戦争の温床ではないか、と。アメリカのリバタリアンもまた、その面で、共同体を警戒しているのだろう。
 だからサンデルは、共同体の過去の罪業も背負え、と言ったのだろうか? 「ユダヤ人に対してドイツ人が、アフリカ系アメリカ人に対して白人のアメリカ人が負うように、歴史的不正への集団的謝罪と補償は、自分が属さないコミュニティに対する道徳的責任が連帯から生み出されることの好例だ」と彼は、冒頭に挙げたP.303の引用文のすぐ前に書いている。
 このような道徳的責任は、共同体を外へと開いていくものだろうか? そうだとして、その前提についても、効果についても、まだ考えるべきことは多い。
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正しい道はあるのか? その4(幕間即興狂言)

2011年02月15日 | 倫理


 ちょっと足踏みして、今回は芝居を題材にしておしゃべりします。

 前回私は、「立派な行為」と呼ばれるべきなのは、むしろ、他者のために身近な人を犠牲にするようなものではないか、と述べて、後でそれを簡単に覆してしまった。単純に、あまりよく考えていなかったからだが、なんとなく前者のような感覚が持たれるのは、いくらかは国民性に関連した、普遍的な問題でもあるかな、と思える。
 我々日本人が「私」というとき、それは「公」の反対概念であり、後者より価値の低いもの、と考えがちである。「公」の要請の前では、「私事」は必ず控えなければならない。これが嵩じると、「私」から遠く離れたものほど重要だ、というような感じにさえなる。一種の倒錯かも知れない。ちょっとこだわりたいところだ。

 日本の「公」は、実践すべき徳目としては、義とか義理とか呼ばれるものになる。その代表が、武士の世界の、主君への忠義。武士というのは、江戸時代で人口の一割にも満たなかったわけだが、このノーブレス・オブリージュ(高貴な義務)を背負う者として、人々の上に君臨する道徳的な根拠を得た。一方「私」に関わることは、人情と呼ばれる。
 武士を主人公とする、時代物の浄瑠璃(多くが歌舞伎になった)のヒーローは、公の価値、即ち義の体現者である。義経も、大星由良之助(モデルは大石内蔵助)も、唐木政右衛門(モデルは荒木又右衛門)も、この点でブレることはない。大岡裁きのような、というより一休さんの頓智みたいなものを使って、人情を汲み取ることはあるものの、公→私の順は彼らの中では不動だ。
 こういう人物には葛藤がないので、本当は劇的とは言えず、事実、よく上演される有名な場面(時代物というのはやたらに長いので、全場が「通し」で上演されることは現在ではまずない。一方、各場面の独立性が高くて、一つの芝居として完結していると見えるから、それだけ取り上げられるのが普通である)では、多くの場合彼らは登場さえしない。ここでの実質的な主人公は、公と私、即ち義理と人情の間で、引き裂かれて苦しむ、より心が弱く、立場も弱い者たちだ。
 ここでも、必ず公が尊ばれることは変わらない。人情に惑わされて、主君への忠節や世間への義理を欠く者は、正しい者とはされず、後で自決して責任を取ることで、ヒーローに昇格する(代表例は「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平)。そうではなく、大きな私的犠牲を払って公のために尽くした者の場合でも、芝居の眼目となるのは彼らの人間としての苦しみである。
 そのためには、犠牲が大きく、従って苦しみが大きいほどいい。敵方に殺されそうになっている主君の子どもを救うために、自分の子どもを身代わりにする、という筋は、ほとんどすべての演目にある。いくつか見ているうちに、ええ加減にせえよ、と言いたくなるぐらいだ。
 もっと凄いのもある。「菅原伝授手習鑑」中の「寺子屋」では、主君である菅丞相(モデルは菅直人、ではもちろんない、菅原道真)の幼子菅秀才を匿いつつ寺子屋を営む武部源蔵が、いよいよ敵の追求から逃れられない際まで追いつめられて、菅秀才の身代わりに、寺子屋に来ている他人の、上品な子どもを殺してしまう。いくらなんでもそんなのアリか、と思わせておいて、実は、この子どもは、本心を隠して敵方の藤原時平に仕える松王丸の実子で、松王丸はこうなることを見越して源蔵の寺子屋に我が子を預けたのだ、という隠された事情が後でわかる。さすがに他には例を見ないこのすばらしいご都合主義によって、源蔵の行為は最終的に、公の、正義に叶うものとされるのだ(正に、結果良ければすべてよし、ですな)。
 上はもちろんフィクションであって、江戸時代の観客といえども、こんなことが実際に武士の世界にはある、などと信じていたわけではないだろう。それでも、こんな物語が浄瑠璃語りによって繰り返し語られ、人形浄瑠璃として上演され、さらに歌舞伎として生身の役者によっても演じられて、今日まで伝わっている事実は、何者かではある。
 物語によって私たちのエートスが形成されるのか、それとも私たちのエートスと響き合うから、こういう物語が広く受け入れられるのか、これは卵―鶏関係と言うより、同じものを別の面から見ているだけのことだと思う。ともかく、「何が立派か」についての、私たち日本人の感性に、このような「身を捨てて仁(ではなくて、義、だけど)をなす」行為は確実に面影を留めている。
 乃木希典のかつての人気は、彼が我が子も一兵士として特別視せず戦場に送り出し、結果として二人の息子を戦死させた事実に依るところが大きいだろう。戦後でも、フィクションなら、「義理と人情を秤にかけりゃ/義理が重たい男の世界」という歌をバックに死地へと赴くヒーローを描いた「昭和残侠伝」シリーズがヒットしたのは、割合と最近の話である。
 
 お話変わって西洋では。
 二つの原理が妥協の余地なく対立している、crisisの最中にある者こそ劇のヒーローである。そこは日本とほぼ同じで、違うのは、その二つの間に、あらかじめ優劣関係はないところだ。
 ギリシャ悲劇「アンティゴネ」では、題名になっているヒロインは、かの有名なオイディプスが彼の実母イオカステとの間にもうけた、都市国家テーバイの王女である。同じ父母から、他に息子が二人と娘が一人生まれている。父(であると同時に兄)の、忌まわしい醜聞が暴かれて、彼自身がくだした命令によって追放されると、彼女の兄二人の間で、王位をめぐる争いが起きる。破れたほうは、他国の軍勢をたのみ、テーバイを襲撃する。激戦の末、兄弟は相討ちに斃れ、敵軍は撃退されて、テーバイには平和が戻る。新たに王となったイオカステの弟クレオンは、戦後処理の一つとして、この二人のうち、国を守るために戦って死んだほうは鄭重に埋葬し、裏切り者であるもう一人の死体は野に晒しておくように命じる。
 この禁令を破った者がアンティゴネである。彼女はテーバイ城外に打ち捨てられたままの兄の遺骸に、ひとくれの土をかけるという、最も簡素な行為で、哀悼の意を示した。肝心なのは、彼女が、人情からそうしたのではないところだ。
 なぜ国王の命に背くのか、というクレオンの詰問に、アンティゴネは敢然と答える。家族を埋葬するのは、国家以前に、神々の定めた掟である。その後にできた人間界の都合によって変更されていいものではない、と。
 日本なら、国事の公に比べたら家族間のことは私事で、小さな問題だ、とすぐに考えられる。しかしアンティゴネが依っているのは、もう一つの公であり、これがあり得ると考えただけで、国家は相対化される。現実には彼女に与する人間は何人いるのかはわからない(大勢のほうが公に近く、つまり正義に近いとつい考えがちなのも、日本人の悪いところかも知れない)。原理の話なら、「あり得る」だけでも充分である。
 ずっと時代が下って十九世紀末、西洋演劇は、たった一人で「公」を主張するもう一人のヒロインを出現させた。「人形の家」のノラは、夫は自分をまるで人形のように愛玩するだけで、一個の人間として扱っていないと言って、三人の子どもまで置いて、家を去る。
 作者ヘンリック・イプセンの名誉のために、一言断っておくべきだろう。ノラは別に、今日のフェミニストの先祖ではない。
 ことは次のように起きる。かつて夫が大病をして、医療費が足りなくなった時、彼女は死の床にあった父の署名を偽造して、借金をした。夫にはずっと隠し通してきた、犯罪行為である。それがばれそうになったとき、ノラは、夫は自分をかばうために、罪を被ろうとするのではないか、そんなことは耐えられないから、すべてを告白して自殺しよう、と考える。ボバリー夫人と同じ、結婚にロマンチックで過大な幻想を抱く主婦、それがノラだ。
 こんなのは当然、すぐに破れる。夫は、世間体や自身の出世のことばかり気にして、一方的にノラを詰る。半分以上の夫は、まずはそんなものであって、子どもっぽい夢を見たノラが愚かだった、というだけの話にも見える。
 しかし、幻滅して、裸の現実を突きつけられたノラに、「人間同士の本当の結びつきとは何か」という問題が、切実に立ち上がってくる必然性はある。彼女は、本当に一人の、「全き個人」に近い者になって、彼女だけの答えを見つけるために、家を出るのだ。これまた愚かな行為と呼ばれてもいいが、動機の部分では、「人間」に関する西洋近代の公的な概念に、直接関わっているのは確かなのである。

 私は、西洋と日本を比べて、どちらが優れている、とか劣っている、とかいう話にはあまり興味がない。それでも、個人がストレートに公につながることもあり得る、と考えられているようだ、というところでは、あちらを少し羨ましく思うときもある。また、そのような個人観があるからこそ、社会契約説というのにも、原理としてはリアリティがあるのかな、とも。まだ思いつきの域を出ないが、言えそうなことを言ってみた。
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正しい道はあるのか? その3

2011年02月10日 | 倫理
メインテキスト: マイケル・サンデル 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原著2009年刊 早川書房平成22年5月 同年9月87版)

サブテキスト : ジャン・ポール・サルトル 伊吹武彦訳『実存主義とは何か』(原著1946年刊 人文書院 改訂版昭和49年) 

 自由主義の発想で、公正な社会の原理は示せるかも知れない。しかし、それでは何かが、人間が生きていく上で重要な何かが足りない、というのがサンデルたちコミュニタリアンの立場である。
 だいたい、自立した自由な個人がまずあり、その個人同士が約束(契約)して大小の社会=共同体を作り上げる、という発想自体に無理がある。前にも書いたように(学校のリアルに応じて その3)、ヒトは共同体の中で生まれ育ち、最広義の教育を受けて、人間となる。人間は、まず子どもとして、やがては、夫/妻として、父/母としての役割を受け持つ。ずっと独身でいたとしても、地域共同体の一員として、さらには国家の一員としても、やるべきことはある。これらの共同体は明らかに個人に先行しているし、人間が生きる意味を見いだすのは、共同体内の、人と人の「間」以外にはない。Crisis(「危機」及び「分かれ道」)のとき、決断する場もまた同じ。この「場」を棚上げにして、「何が正義か」を考えても無意味ではないか?
 それでサンデルはまず、契約という概念だけで、人間の考える「正しさ」を説明することはできないと証明しようとする。私が、この時代の、日本の、ある地方に、ある父母の子として生まれた事実には、いささかも私の意志的な選択は含まれていない。自由主義的な考えでは、そのような場合、私は誰にも責任を感じる必要はないのだが、実際は感じているではないか、と。
 それは認めるけれど、やっぱり一般的抽象的な話に留まっている。「やるべきこと」については、大雑把なアウトラインが示されたに過ぎない。個別具体的な場面で、決断して何事かをなす(何もしない、も含む)のはあなたであり、主体はやっぱり問題にされざるを得ない。そうでなければ、責任という概念もまた、生じようがない。「責任ある主体」とは何か、という問いが立ちあがってくる必然性は、やはりある。
 腹立たしいことに、共同体は、個人には背負いきれない義務を強いてくることも、たまにある。その代表例としては、家族→地域→国家(さらにこの上に人類共同体を考えるべきかどうか、私にはわからない)と、共同体が大きくなるにつれて、各レベルで要請される「正しいこと」が矛盾する場合が挙げられよう。このような最大の危機に立ったとき、個人はどうするべきか。あらかじめ身も蓋もなく結論だけを言うと、明確な解答はない。

 サンデルが「共同体の成員としての責務」を説明するために挙げた例にも、上の矛盾はあからさまに現れている。
 フランスのレジスタンスの話をみよう(P.293~294)。第二次世界大戦中ドイツに占領されていたフランスで、レジスタンスの活動家のうちある者は、各地を空爆していた。もちろんドイツ軍の軍事施設が目標だが、その周辺にいる一般のフランス人にも犠牲が出ることは避けられず、それはやむを得ぬこととされていた。ある日、この活動に従事していた一人のパイロットが、空爆の任務を誰か他の者に代えてくれと願い出た。その時の標的は彼の故郷の村だったのである。
 サンデルは、実際にあったことかどうかは定かではないこの話を紹介した後、こう問いかける。「パイロットが躊躇したのは、単なる臆病からだろうか? それとも、道徳的に重要な何かの表明だろうか?」。そうとは書かれていないが、サンデル自身は明らかに後者だと考える者であり、このパイロットの行為は、故郷の一員としてのアイデンティティに忠実だったものとして、どうやら賞賛されている。
 私がこの問に是非答えろ、と迫られたら、前者だ、と言うことになる。このパイロットの立場におかれたら、やはり(臆病風に吹かれて?)、同じようにふるまうことは大いにあり得る、とは認めるが、その上でも、やはり。
 空爆は、彼がやらなければ、他の者がやるのはわかりきっている。そして、それは「正しい行為」であるとまで、彼は認めている。そうでなければ、誰かの故郷ではある、フランスの他の場所を空爆できるはずはない。それなのに、やらない、というのは、「自分の手は汚したくない」というだけの話ではないか。
 むしろ、「立派な行為」と呼ばれるべきなのは、彼が故郷や家族への思いは断ち切って、空爆したときではないだろうか。依然として、そういうふうに私がやれるというわけでも、他人にそうしろと勧めるわけでもないが。それはどうも、煮え切らない、もっと言えば卑劣な態度に見える、と言われたら、私は、世の中には「立派な行為」はあるし、そのための基準も一応あるが、人はそれのみでは生きられない、と答える。

 本書ではさらに、二人の子どもが海で溺れていたとき、一方が自分の子どもで、もう一方がそうでなければ、自分の子どもを優先して助けるのが「正しい行為だ」とも言われている。ただし、他人の子どもの頭を踏んづけたりしない限りは、と留保がつけられている(P.306)。それでも、こう言い切ってしまえるのはすごいなあ、と私は感嘆する。
 すると、既にちょっと触れたが(正しい道はあるのか? その1)、最初に出した「暴走する路面電車」の「仮定1」ではこうなるのだろう。五人の命を救うために一人を死なせるのは正しい、とは言われていないが、どうもそのようだ。この人々がどういう人間かを問わないうちは。ここで、「一人」が、自分の家族だったとしたら、彼/彼女を助けて、五人を死なせるのが正しいことに…、なるようだなあ。あなたも、そう思いますか?
 人間には自分の家族に対する特別の義務があるのは確かだ。私は自分の子どもを養育する義務はあるが、隣の子どもに対しては、ない。だからと言って、隣の子どものおやつを取り上げて、自分の子にあげてもいいわけではないのはもちろんである、なんてことより、もっと進んで、次のようには考えられないだろうか。
 自分の子どもを大切にするのは、「義務」であろうか。サンデルがそう説くのに、ことさら異を立てるまでの必要性は感じないものの、どうも、そのような堅い言葉はここではそぐわないように、我々日本人には自然に思えないか? 我が子が不幸せになって、私が幸福になるなんて、あり得ない。そうだとしたら、血の繋がりの有無にかかわらず、もう家族とは呼べない。と、すると、我が子をよその子よりも大切にするのは、つまりは自分のためなのではないか? 我が子のために結果としてよその子を犠牲にするのは、道徳的な責務に従ったというより、全く逆に、自己中心的な、うんと厳しく言えばエゴイズムから発した行為だと言えないか?
 またしても煮え切らない態度だ、と言われるかも知れないが、私は、だからと言って、自分の子をさしおいても他人の子を助けるべきだと主張するわけでもないし、さらに、エゴイズムが必ず悪いとも主張しない。だいたい、誰が(例えばカントが)主張しても、それはなくならない。人間が自己中心的であるのは、単に自然なことだ。
 ただし、それだけでは社会は保たないのも事実で、だからこそ我々は倫理・道徳を必要とする。正義とはそういうところで語られるべきだ、というのが私の考えなのである。

 最初の話に戻ると、ここでは共同体の二つのレベルから、相反する二つの要求が来ているのは見易い。祖国フランスからと、自分を育ててくれた家族や馴染み深い人々からの。
 後者の場合、共同体の運命は、自分の幸福に直結するので、それを守ろうとするのは一種のエゴイズムではないか、という疑問を上では述べた。この話のパイロットがそこまで考えたかどうかはともかくとして、彼は大筋でこちらを捨てた。結局のところ、空爆はされるのだから。そこまでの動機の部分は、立派なものだったろうか?
 面倒くさくてご免なさい、だけど、そうとも言い切れない。空爆が、犠牲の大きさに比べて、どれほどの効果があったかの、実際的な面での疑問もある(結局のところ、英米軍が上陸してくるまでは、フランスは解放されなかった)し、そもそも国家とは、これほどの犠牲を払っても、解放されるべきかどうか、と問う余地もある。
 問は例えばこんな形になる。自国が占領されているのは、たいていの人にとって屈辱的ではあろう。それでも、屈辱を雪ぐために、覚悟しているわけでも同意しているわけでもない人々まで、戦火に巻き込んでもいいのだろうか? こちらはこちらで、国家のエゴイズムと呼ばれるべきではないのか?
(こんなふうにいちいちくだくだしく考えていたのでは、何もできなくなる。いいかげんによしたらどうだ、という声が聞こえてきそうだ。そう、我々はどこかで、考えを打ち切って、行動に踏み切らねばなない。とはいえ、私たちは事前に考えることができて、また考えてしまう動物でもある。それならいっそ、とことんまでいきましょう。考えるなんて無意味だと考えられるところまででも、できれば、行ってみようじゃありませんか)

 結局のところ、「何をなすべきか」の基盤は、いつも危うい。
 誤解を招かないようにつけ加えておくと、サンデルは、身近な人間への義務と国家や社会への義務が対立したら、いつも前者を優先すべきだ、とは言っていない。自分の兄は犯罪者ではないか、と気づいた二人の弟の、相反する行動が、本書には並列されている。そのことを警察には黙っていた弟と、警察に告げた弟と。どちらが正しいともサンデルは言わない。それには決着がつかないことは自明なので、敢て言う必要はないと思っているのかも知れない。
 彼は、こんなふうに悩むことそのものが、人間の価値なのだ、というところでやめている。
「人格者であるとは、みずからの(ときにはたがいに対立する)重荷を認識して生きるということなのだ」(P.307)

 別の人の意見も聞いておこう。
 たぶん、私のように、若い頃、名声がまだ衰えていなかったサルトルに多少とも親しんだ者なら、彼の言葉が思い出されるだろう。やはりフランスの、対独レジスタンスにまつわる話だ(P.31~37)。
 ある日、サルトルが教えた学生の一人が、相談にやって来る。
「私の父は、ドイツの協力者となり、家族を捨てた。兄は、ドイツ軍と戦って、戦死した。自分も兄のようにしたいが、それでは、年老いた母を一人ぼっちで置き去りにすることになる。そのうえ、自分ももちろん戦死する可能性があり、そうなったら母を絶望のどん底に突き落とすことになるだろう。私はどうしたらいいのか?」
 自分に相談に来た以上、答えは決まっている。それはこの学生にもあらかじめわかっていたはずだ、とサルトルは言う。答えとは、「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」。
 改めて整理しよう。
(1)サルトルは認めたくないようだが、家族や国家は、価値あるものであり、従って維持するための努力を、成員に要求するものとして、個人に先駆けて、あらかじめ、ある。そうでなければ、サンデルのパイロットも、サルトルの学生も、悩む必要などまったくなかったのだ。
(2)しかし、価値は結局相対的なものでしかない。早い話が、ある特定の家族・故郷出身ではなく、フランスという故国を同じくする者でなければ、彼らの悩みは実際問題としては共有できない。いつでも、誰にでも、通用する価値ではないので、ときには、一つの価値のためにもう一つは犠牲にすることも要求されたりする。このとき、サルトルは、再び「自由」を呼び出したのだった。
 つまり、人間が自由である、とは、端的に、人が必ず従うべき価値基準は存在しない状態のことである。このときの自由は、それ自体が価値ではないし、なんらかの価値のために都合がいい状態でもない。どうにも変えようがない、根源的な、人間の条件なのだ。「人間は自由の刑に処せられている」(P.20)と言い得るような。
 ただし、とサルトルはまた反転する。で、あるからこそ、人間は自分の意志で何かをすることができるのだし、価値と呼ぶに足る何かを自ら創りだすこともできる。すると自由は、人間が価値ある存在となるために、必要な状態なのだということにもなる。
 このような論理はあなたにはどう見えるのだろう。今の私には踏み込んで考える余裕はないが、気にかける値打ちはまだあると思えるので、書き記した。
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正しい道はあるのか? その2

2011年02月05日 | 倫理
メインテキスト: マイケル・サンデル 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原著2009年刊 早川書房平成22年5月 同年9月87版)

 本書の特に後半で著者が最も力を入れているのは、自由主義の批判である。そして読者である私が疑問を感じるのも、その部分に集中している。
 その検討に入る前に、自由主義の根源について、サンデルの見解を基に瞥見しておく。
 前回紹介した、政府の干渉はいっさい不要とする立場は、経済面に限ってもなお少数であろう。「他人の自由を阻害する自由」なんてものまで認めたら、実際上自由はほとんどなくなってしまう。それなら、自由主義の哲学とは、自由のために自由を制限する原理をどのように建てるか、こそを専ら考究するべきものだろう。
 敵を論難するにしても、くだらない連中ばかり相手にする議論ならそれ自体くだらない。自由主義批判のためには、この主義のチャンピオンにご登場願わなくてはならない。サンデルが選んだ相手は、申し分なさ過ぎるほどの二人である。イマヌエル・カントと、ジョン・ロールズだ。
 この大哲学者たちの全貌を要約する、なんてことをこの私が夢想しているわけではない。私は、彼らについてサンデルが紹介したものを、さらに自分の問題意識に応じて略述しようと思うだけだ。あまりにも見当外れのことを述べた場合には、諸賢のご叱正をお願いしたい。

 カント哲学のうち、重大なものとしてサンデルが挙げているのは、「人格の尊厳」の概念である。これを生かすために人が心がけるべきポイントは、以下の二つであろうかと思う。
(1)一人の人間は、決して、単なる手段・道具として扱われてはならない。たとえ、一般に立派な目的とされるもののためであっても。それを認めたら、結局は人格の完全否定に行き着く。
(2)人が責任・義務を感じるべきなのは、結果よりも動機についてである。全知全能ではない人間が、行為の結果に完全な責任を持てるなんて、あり得ない。しかし、自分の内心の動機に関しては、理性的な人間ならそれができるはずだ。
 サンデルはそう言っているわけではないが、この原理を適用すると、前回挙げた「暴走する路面電車」の問題に解答できそうだ。「仮定2」で、デブを突き落としてはならない。どんなデブでも一個の人間である以上、電車を止めるための道具として扱われてはならないから。それによって五人の人間が死ぬことになっても、それは結果なのだから、責任を感じる必要はない。同じく、「仮定1」で、五人を助ける「動機」で、「結果」として一人を殺すことになっても、それは容認されなければならない。
 と、いうことで、完全に納得できる人は少数だと思う(私も納得していない)が、解答への有力なアプローチではあるだろ。(デブをナメるなよってこと、ではない。念のため)。
 以上でだいたいわかるように、カントの自由主義と呼ばれるべきものは、たいていの反自由主義よりも厳しい戒律を要求する。人格が尊重されるべきなのは、自由で自律的な人間のみが、この世界に普遍妥当する法則を見つけられると期待されるからで、動物的な欲望やエゴイズムはむしろ邪魔なのだ。逆に言うと、後者に由来する欲求の虜にはならず、そこから自由であることこそが肝心なのだ。
 これも前回挙げた、便乗値上げなどは、他人の困窮を利用して金儲けを企む、最も悪しき動機によるものだから、最も忌むべきだ。たとえその結果、被災地の復旧が早まるとしても、そんなことは問題ではない。
 また、売春はいけない。男女双方が合意の上でやるんなら、誰も困るわけではなし、いいじゃないか、なんてことにはならない。このとき、男は女を、欲望を満たすための道具として利用するのだし、女のほうでは男を、金儲けのこれまた道具として、利用するだけだからだ。人と人との交りがそんなものだけになったとしたら、人格の尊厳のための基盤は雲散霧消してしまう。
 嘘もいけない。それはどういう場合でも、相手に偽情報を与えて、自分のつごうのいいようにふるまってほしいという、不純な動機から発しているものだから(しかし、「言い逃れ」ならいいという、カント自身がやった、なかなか笑える話は、P.174~175にある)。
 カント倫理観の弱点は、現実に、厳密に適用することはたぶん不可能だというところにある。すべての人間がそんなに立派な内面を備えられるわけはないし、結果はどうしても気にせずにはおれないし。だから世間は、「結果良ければすべて良し」=「結果が悪ければすべて悪し」になりがちだし。
 しかし原理としては、「すべての人間は個人として尊重されねばならない」という、今も普通に言われているモットーに、最上の根拠を与えるものだろう。それはサンデルも認めているようだ。
 
 カントは政治哲学者ではない(たぶん、そういう分野自体がカントの時代にはなかった)から、具体的な社会制度についての言及はほとんどない。社会契約説は既にあったが、誰もこの社会で生き始めるときに、契約などしていないのは明らかなのだから、仮想上のものであることは当然である。それはそうと、社会とはそもそもどのようなものであって、どうであるのが望ましいか、カントからは直接学ぶことはできない。彼の「人格の尊厳」概念と両立する形で、二十世紀も後半になってからそれを構築しよとうとしたのが、サンデルによると、ロールズなのである。
 そのための方法論「無知のベール」については、あまりにもよく知られているので、ここで繰り返す必要は感じられない。この思考実験から導かれた望ましい社会の姿は、次のようになる。
 社会の中に競争があり、その結果格差が生じること自体は、解消できない。考えるべきなのは、そこから来る害悪を、どうやって減らすか、なのである。具体的には、(1)どのような人種的・宗教的・経済的なマイノリティ(少数派)にも、平等な権利が認められるべきこと、(2)社会の最底辺の階層の利益に一番適っていること、が社会制度の眼目とされるべきである。
(やっぱり「無知のベール」にほんの少し触れると、あなたが、最小のマイノリティに属し、経済的にも最低の部類に属するかも知れない、と考えたとしたら、上のような制度こそ望ましいと考えるはずだ、そして、それこそが「正しさ」を計る唯一の尺度だ、とロールズは主張する)。
 さて、このような考え自体は、わざわざ言うまでもなく、自明であると言う人もいるだろう。マイノリティへの差別撤廃も、弱者救済のための各種の社会保障も、先進国では、公には、当然のこととされている。それがうまくいっていないとすれば、基本的な「考え」の問題ではなく、制度設計や、制度を運営する人間に問題があるからだ、と。
 ロールズはもっとラディカルなことを考えている。彼は、個人の背丈を超えた価値、だから個人がそのために奉仕すべき価値が、社会の中に存在することを認めない。そんなお題目は、無意味であるだけではなく、躓きの石であり、人を欺く口実に使われる。早い話が、上の二点がなかなかきちんとは実現しないのは、「他にもやるべきことはある」などと思われているからだ。それなら、最優先されるべきなのは何かに関する認識が、定められる必要は今もある。
 この地点でロールズとサンデルは決定的に分かれる。しかし一致するところもある。
 ロールズは、現に生きている人間以外の価値を認めず、個々人の自由は可能な限り保障されるべきだとしている。にもかかわらず、最高の金持ちが金を出して、最低の貧者に与える「所得の再分配」は正当だとも言う。なぜか。
 例えば、イチローが千八百万ドルの年俸をもらうのは、彼の超人的な努力の賜物であり、他人からの「借り」など感じる必要はない、と一見思える。しかしよく考えると、その「努力ができる能力」を含めた才能は、彼個人だけで獲得したものと言えるだろうか(遺伝と環境が決定的な因子になるだろう)。さらに、彼が、野球というスポーツがこれほど人気のある時代と社会に生まれなかったとしたら、普通のサラリーマンが一生かかっても絶対に獲得できない金を一年で稼ぐなんて、不可能だった。そういう意味では、イチローの稼ぎは、幾分かは社会の恩恵を受けているのだから、その金の一部を、逆に、この社会では恵まれない境遇にならざるを得なかった人々に与えるのは、理にかなっている。
 どうも私のまとめ方が悪いせいか、屁理屈にも聞こえるな。サンデルが用意した、もっと適切な例を出そう(P.21~24)。
 2008年~09年の金融危機のとき、ブッシュ大統領は、大手銀行や金融会社救済のための公的資金導入を議会に求めた。それは通ったが、大方が予想したように、評判は悪かった。中でも、こうして救済された会社の一つ、保険会社AIGの幹部の中で、一億ドルを超えるボーナスをもらっている者もいることが判明した時には、多くのアメリカ国民の憤激をかった。もっとも、好況時には、この幹部のボーナスは、その二十倍にも及んだらしいが。会社の稼ぎからでなく、公金即ち税金から、破綻した会社の役員に、多額の金が支払われるとなれば、アメリカでも日本でも、多くの人が、不当なことが行われたと感じる。
 「でも」と、幹部の一人が言ったらしい。「会社が依然として業績不振で、公金からの補助を返せないでいるのは、今の経済状況のせいでもあるんです。我々だってできるだけ努力しているんです」
 大いに、そうかも知れない。しかし、業績が伸びないのは幾分かは社会状況のせいであるとしたら、業績が伸びるのも幾分かはそうであろう。それなのに、その時の収益金は全部「自分のもの」としたのはおかしくないか? 困ったっときには国から助けてもらうんだから、儲かっているときには国に、即ち公の側に、幾分か納めるべきだろう。
 
 以上は理にかなった考え方だと一般にも認められるだろう。累進課税の正当性は、こう考えなければ出てこないのだから。
 たくさんの金を稼いだ人ほどたくさん社会に還元すべきだ、とは考えられていないとしたら、累進課税どころか、税率というものが既に不当だということになるだろう。税金とは、公共サービスの対価であるだけなら、消費税や公共料金がそうであるように、一定のサービスは一定の料金が課されるしか、正当なことはないはずなのだ。
(まあ実際は、税金は、取れるところから取ったほうがいいから、ということで累進課税が用いられている面は否定できない。月収二十万円の人から二万円貰うより、月収一千万円の人から五百万円貰ったほうが楽だ。五百万の金は、そんなに簡単には使えないから。しかし、正当化のための理屈はやっぱりあったほうがいい)。

 人格の尊厳の原理やら、正しい社会制度の原理については、サンデルはけっこう、彼が自由主義者と呼ぶ人々と共通していることがわかった。違いが出てくるのは、もっと別の面、「この人生をどうやって充実させるか」に関するところなのである。
 そこでの私の疑問の核心を一番短く言うと、こうだ。人生の問題を、「正義」ということと、必ず関連させなければならないものだろうか?
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正しい道はあるのか? その1

2011年02月03日 | 倫理
メインテキスト: マイケル・サンデル 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原著2009年刊 早川書房平成22年5月 同年9月87版)

 最近の私はネットで本を買うばっかりで、本屋にはめったに行かなくなった。
 昨年暮れ、久しぶりに立ち寄ったら、入口付近の最も目立つ棚に、ドラッカーの本などと一緒に平積みにされている白い本があった。やっぱりマネージメントか何か、そっち系の本なんだろうな、と軽く考えてふと書名を見たら『これからの「正義」の話をしよう』。え? 金儲けに「正義」が関係あるわけ? そんなのにこだわっていたら、商売の障りになるばかりじゃないか?
 と不審に感じ、著者名を見たらマイケル・サンデル。え? あの? 『自由主義と正義の限界』の? それじゃあ、政治哲学だよな、どうしてそんな本がこんな、売れ筋商品を並べる場所にあるわけ? と、つられて、私は、表紙の、帯を見た。「NHK教育テレビにて放送!」「ハーバード白熱教室in東京大学(仮)」。
 つまり、ハーバード大でサンデル教授の講義の人気は高く、ついにTV放送されるに及んだ、それは日本でも放映され、サンデル自身、東大へ来て出前授業をした、とのこと。
 後日私は、何人もの知人がこの番組を見ていたことを知った。我が家のチャンネル権は、まず五歳の息子が握っており、次が家内、最後が私で、この序列最下位の者が好きな番組を見る機会はごく僅か。自然、TVそのものへの関心も薄くなって、私はこのような番組の存在を全く知らなかった。従って、授業者としてのサンデルの腕前のほどについては何も分からない。今後DVDか何かで、番組を見る機会はあるかも知れないが、それを自分の授業で生かせるかどうか、まあ、望みは薄い。
 しかし、いくらわかりやすく書いてあって、TVの(結果としての)宣伝はあったとはいえ、このような本がベストセラーになるというのは、いまだに不思議である。これは私が世間の人をみくびり過ぎていたということか。客観的には望みは薄い、としか依然として思えないが、今後は生徒をなんとか乗せる手立てをもう一工夫してみよう。

 サンデルの講義はその名も「正義」Justiceと名付けられているとのこと。この講義名は日本では考えられないだろうな。中身は、多くは実際にあった、いろいろな事例を出して、「何が正義か」を学生たちに考えさせ、議論させる、と。それはきっと面白いだろう。結論は出ないだろうし、学生たちが今後生きていくうえでどれくらい役に立つかはやや疑問だが。授業は、やらなくてはならないものなら、面白いに越したことはない。
 で、ついに私は買うことにした。
 この本は、講義をベースにして、新たに書き下ろされたものだ(同書「謝辞」P.347)。授業の熱気は伝わらないが、とりあえず私は、倫理、というか、「何が正しいか」の話は好きだ。英米系の哲学者が得意らしい「思考実験」(譬え話のようなものを使って、ものごとを考えさせること)も好きだ。事実、面白く読めた。これから述べるいくつかの違和感はあったが、それをも含めて。
 一つ私も、サンデル先生の生徒になったつもりで、「何が正義か」について、というより、「何が正義かなんて、なかなかわからない」ことについて、になると思うが、自分の意見を述べよう。読んでくれている人の中で、御親切に、サンデル先生になりかわって、教導してくださる人がいらっしゃったら、よろしくお願い申します。

 本書は第一章からして、考える材料を豊富に出している。そのうちの柱は、(1)2004年の夏、甚大な台風被害を被ったフロリダで、実際にあった話と、(2)思考実験のための譬え話としてけっこう有名らしい、「暴走する路面電車」。
 コミュニタリアン(共同体主義者)として著名なサンデルは、(1)は自由主義に対する、(2)は功利主義に対する、批判のための例示にするつもりらしい、とは後からわかる。そんなのは知らなくてもいいようなものだけれど、知ってしまうと、そうとしか読めない論述になっている。本であれ講義であれ、一人の人がやる以上、その人格からあるバイアスがかかるのは、どうにも仕方がない。
 (1)は、台風通過直後のフロリダで、氷や家庭用発電機や家の修理費用やモーテル代が高騰した話。もちろん便乗値上げも多く、最終的には規制されたが、経済学者の中には、そのような施策は不要である、と唱えた者もいたそうだ。
 その理由の第一は原理的なもの。自由主義経済下ではものの値段は需要と供給によって決まるのであって、それは時と場所によって変動するのが当たり前。取引(売り買い)以前に「公正な価格」があるように思うのは、畢竟感情的な問題に過ぎない。
 第二は現実的なもので、これによって経済活動を活性化させることができる、ということ。例えば氷が高く売れる見込みがあるなら、多くの業者が増産してフロリダまで運ぶようになるだろう。結果として、被災地の復興が早まる効果が期待できる。
 後のほうは、実際にそうなったかどうか、わからないが、ここではそうだった、ということにする。そうだとしても、だから便乗値上げをした業者は正しく、その事態は放置しておくほうがいいのか、となると、少なからぬ人が首をかしげるだろう。人が困っているのにつけ込んで金儲けをする輩に対しては、なんらかの社会的な規制なり罰則が必要なのではないか、と素朴に思えてくる。
 いや、罰もまた市場(売り買いの場)によって与えられるから、それ以上のことを考える必要はないのだ、とする立場もあるだろう。高い品物やサービスを売りつけられた消費者は、自由に買える日が来たら、二度とその業者からは買わないかも知れない。ところで、それは当然だ、と思うぐらいには、私たちはこのような際に便乗値上げをする業者はあこぎで、悪しき者だと考えているのだ。
 即ち、自由主義が、経済的に完全なレッセフェール(放置主義)で市場万能主義をよしとするとしたら、一般にいつも正しいとはされ得ない。その通り。異論はない。

 (2)のほうは少々難しい。純然たる思考実験、つまり仮定の話だ。
 仮定1。あなたは路面電車の運転手だ。時速六十マイルで走行中、前方に五人の作業員が線路にいるのを発見する。ブレーキは間に合わない。ふと、右側へそれる待避線が目に入る。そこには一人だけ作業員がいる。この待避線へとハンドルを切れば、五人の命は助けられるが、一人は殺すことになる。あなたならどうするか?
 仮定2。あなたは橋の上から、走行している路面電車の前方の線路に、五人の作業員がいるのを見る。あなたの隣にはとても太った男がいた。彼を橋から突き落とせば、その男は死ぬだろうが、電車は止まり、五人の命は助かる。どうするか?
(しかし、特に「仮定2」のほうは、すごい仮定だ。だいたい、ぶつかって電車を止められるほどのデブがいるものだろうか。こういうのはデブ差別ではないか、とデブの私などは思うが、もちろんそれは関係ない話)
 多くの人が、「仮定1」では、電車を待避線に入れて、一人を殺して五人を助けるほうがいいと考えるだろう。しかし「仮定2」では、デブを突き落として五人助けるのがいいとは思えないだろう(そうですか?)。
 しかし、何が違うのか? 両方の場合とも、一人の命を犠牲にして五人の命を救う、という点では変わらない。功利主義は、人の命も計算できるとするから、その立場からは、いつも、一人の命より五人の命のほうに、より(五倍の?)価値があることになる。「仮定1」で一人の犠牲者を出すことが正しい行為なら、「仮定2」でも正しい行為である。そうとしか言えない。
 それには同意できないとすれば、功利主義はいつも、一般的に正しいとはされないことになる。う~ん、それはそうか…? でも、これでちゃんと批判したことになるか? いや、それ以前に、前提が少しおかしくないか?
 どのような理由からであれ、やむを得ず一人を死なせるのと、積極的に手を下して一人を殺すのでは、やっぱり違う、とは確かに思えるかも知れない。しかしそれこそ、感情の問題ではないだろうか?
 では、やっぱりどちらの行為も正しいということになるか? いや、むしろ逆ではなかろうか。「仮定1」の場合、運転手が結果として一人死なせる行為は「やむを得ないこと」として、免責されるのは当然であるとしても、積極的に推奨できる「正しい行為」とまで言えるのだろうか? 感情の問題からすると、あなたが、助かった五人とは赤の他人であり、死ぬことになった一人の友人や家族だったとしても、正しいことがなされたのだからよかったのだと、納得できるものだろうか?
 ここで、そんなことを言うなら、(1)の場合だって、規制されたり罰を受けたりする業者やその身内はいやな思いをするじゃないか、と考える人がいるかも知れないので、言葉を重ねよう。このときには、特定の人々の利益や感情を損ねる結果になっても、それを無視して貫くべき「社会的正義」がある、と私は考える。なんと言っても、便上値上げは、自らの意思で行うものだ。しかし(2)は、被害者の意思は全く関係ない。「仮定1」と「仮定2」の違いは、死なせる側の積極性の度合いに過ぎない。片方を是とし、片方を非とするのは、どうにも割り切れないものが残りはしないか?
 本書を最後まで読んでも、「仮定1」での結果としての殺人は正しいが「仮定2」ではそうではない、とする根拠は示されない。割り切れなさは宙ぶらりんのまま残される。さらに、それと同じような思いは、本書中のいろいろな場所で反響するのである。
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