由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その8(幕を下ろすためのドラマ)

2015年09月20日 | 近現代史
メインテキスト:古川隆久『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』(中公新書平成23)
サブテキスツ:長谷川毅『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(中央公論新社平成18年、後に中公文庫)
鈴木多聞『「終戦」の政治史 1943-1945』(東京大学出版局平成23)
山本智之『「聖断」の終戦史』(NHK出版新書平成27)



 今回は天皇の方向から終戦の様相を見てみたい。

 米軍のフィリピン上陸が間近い昭和20年1月、昭和天皇は戦争の見通しについて重臣たちから直接意見を聞くことを求めた。主に木戸幸一内大臣が秘密のうちに準備して、2月に総理経験者など7人が個別に拝謁、中で、14日、前日に上奏文を書き上げていた近衛文麿の言上は異彩を放っている。この文書が今日一般に「近衛上奏文」と呼ばれているものである。
 近衛はまず率直に「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと侯」と認める。続けて、

 敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしと存侯。国体護持の立前より最も憂ふべきは、敗戦よりも、敗戦に伴ふて起ることあるべき共産革命に侯。

 昭和天皇もまた、共産主義革命を最も恐れており、それは前述の通り敗戦後まで続いた。いかにも、英米に降伏しただけなら、皇統の存続を図ることはできるかも知れないが、共産主義政権になれば、その可能性はずっと低くなるだろうから。
 近衛はさらに次のようにも述べた。軍や政府内部にも数多くの共産主義者が入り込んでおり、対支戦争を長引かせるように工作した。自分もまた首相時代、誑かされていた。今また彼らは対米戦を引き延ばし、国民の不満を煽って、革命が起きやすい空気を醸成しようとしているのだ、と。
 今日でも一部に根強く残っている「大東亜戦争はコミンテルンのスパイによる陰謀」説の濫觴というべきものであろう。その当否はしばらく措く。しばしば問題にされるのは、この後の御下問で天皇が、「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う」と言っていることだ。
 このお言葉は、記録によって多少の異同があり、「軍がそう言っている」というニュアンスのものもある。しかし、この時期の天皇は、一度でも連合軍に対して戦果を挙げ、なるべく有利な条件で講和を結ぶ考えであったことは確かだ。3月に、小磯内閣の外相だった重光葵に、「条件は皇統維持を主とし、戦争責任者処断・武装解除を避け度き」と漏らしているのだから(古川、P.292)。カイロ宣言(昭和18年12月1日発表)による無条件降伏では、そもそも「条件」を出すこともできない。
 また、この条件は、前回述べた、阿南陸相たちが唱えた四条件①国体護持②自主的戦犯処罰③自発的武装解除④可及的小範囲短期間進駐、の前三つに近いことは注目されるだろう。偶然かも知れないが、重光に言ったことが、なんらかの形で軍にも伝わった可能性もある。もっとも、これも前述の通り、『昭和天皇独白録』(文芸春秋平成3。後に文春文庫。以下、『独白録』)時の天皇は、②と③を唱えたのは、軍のした「拙い事」だと言ったのだった。
 『独白録』は、天皇の戦争責任が追及されるときに備えて口述されたいわば弁明書であることは、もちろん大きな要素である。しかしそれ以前に、古川も指摘するように、「皇統維持」と「国体護持」では、微妙だが決定的な違いがあった。終戦の過程でそれが露呈された。それが一番大きなポイントであろうと思う。

 天皇が早期講和、言い換えると、上の三条件が一条件になっても、さらにはそれも怪しくても、やむを得ない、と考え始めたのはいつ頃であったろう。5月3日、木戸内大臣に、責任者処断と武装解除はやむを得ぬから、なるべく早く講話を結びたいと述べたのが記録としては最初らしい(古川、P.294)。
 6月8日、御前会議で、「皇土決戦」即ち本土決戦の方針を定めた「今後採ルベキ戦争指導ノ基本大綱」が採択された。木戸はこれには出席していないが、この時提出された「国力の現状」という資料は事前に閲覧していたらしい。同じ8日の日付がある、木戸の起草に成る「時局収拾の対策試案」が『木戸幸一日記』(東京大学出版局昭和41。下巻P.1208~1209。以下『木戸日記』)に収められている。そこには大略こうある。
 我が国は今年下半期には戦争遂行能力を殆ど失うであろう、また、敵の本土攻撃によって生じる荒廃は、深刻な衣食住不足を招き、国民の不安は収拾がつかないところにまで至るやも測り知れず。軍部が和平を提唱し、これによって政府が交渉を開始すべきところであるが、今日の現状ではほとんど無理。と言って機の熟するのを待てば、日本もまたドイツと同じ運命を辿り、「皇室の御安泰」「国体の護持」という至上の目的すら危うくなりかねない。「依つて従来の例より見れば、極めて異例にして且つ誠に畏れ多きことにて恐懼の至りなれども、下万民の為め、天皇陛下の御勇断を御願ひ申上げ」るしかない。
 ここで初めて、天皇自身の決断、即ち御聖断による終戦の構想が出てきた。しかしこの段階ではまだ、「天皇陛下の御親書を奉じて仲介国と交渉す」ることが考えられていた。
 この構想は、7月に入って、近衛文麿を特使としてソ連に仲介を依頼する、というところまでは具体化した。しかしポツダムでの会談は目前に迫っていた。スターリンは日本をまともに相手にする気はなく、特使受け入れの返事を引き延ばし、18日には拒否した。
 こう言うと、日本はソ連の動きについて何も知らなかったように思えるが、そうではない。陸軍でも、ソ連軍は早ければ夏にも攻め込んでくるのではないかと予想されていた(鈴木P.165)。交渉には、それを防止する目的もあったのである。しかし如何せん、日本はどのような条件を提示して和平の仲介を依頼するかについても、まとまった話はできていなかった。終戦について、公に議論を始める時期が遅すぎたのである(このあたりは長谷川毅『暗闘』第三章が詳しい)。
 
 6月9日か11日、大陸の視察に行って上の御前会議を欠席した梅津美治郎参謀総長が戻ってきて天皇に拝謁し、かの地の現状を報告した。日付がはっきりしないのは、梅津がこの内容を書類にはせず、部下にも知らせず、極秘としたからである。
 内容とは、「支那総軍の装備は大会戦をなすとせば一回分にも充たない」というもので、和平交渉が不調に終わった場合には戦争継続を考えていた天皇に衝撃を与えた。さらに、12日、国内の軍需工業を視察した長谷川清海軍大将の報告によって、「敵の落した爆弾の鉄を利用して「シャベル」を作るのだと云ふ、これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した」(『独白録』)。
 6月14日、天皇は心労で倒れ、二日間病臥していた。たぶんこの前後に、皇統維持だけを譲れぬ最後の一線として、あとはすべて諦めて早期和平を講ずる決心をしたのだろう(鈴木多聞P.126~127)。
 そして22日、天皇自身の意志で、「懇談会」として最高戦争指導会議のメンバーが秘密裡に集められる。冒頭の御言葉を『木戸日記』(下巻P.1213)から引用する。木戸はこの場に出席していないから、以下は、たぶん天皇自身からの伝聞である。

 戦争の指導に就ては曩(さき)に御前会議に於て決定を見たるところ、他面戦争の終結に就きても此際従来の観念に囚はるゝことなく、速に具体的研究を遂げ、之が実現に努力せむことを望む。

 山本智之はこれをもって実質的な終戦の御聖断であったと言う(山本P.172)。極めて婉曲な表現ながら、5日の「皇土決戦」方針を白紙に戻し、改めて終戦の方途を考えろ、と言っているのだから。この時にはまだソ連を仲介者とする案は生きていたので、具体的には、そこで出すこちら側の条件もできるだけ緩和しても、という意味になる。これ以後、政府と軍の首脳部は、戦争終結を具体的に視野に入れて動くことになった。
 そしてそれはあくまで下部には秘密とされた。明らかに不利な条件で講和したりすれば、まして降伏と言うことになれば、軍が、特に陸軍がクーデターを起こす可能性がある。そこまではいかなくても、上層部が戦争への意欲をなくしたとわかれば、兵は自暴自棄になって、軍は統制を失いかねない。それでは、講和を待たず、大日本帝国は自壊する。
 当然ながら、このときの軍首脳の立場は、非常に微妙かつ深刻なものであった。日本軍の最高首脳には二種あった。一つは内閣中の陸・海軍省の長である陸・海軍両大臣。それとは別に、統帥部とも呼ばれる、全体的な作戦立案と実行を司る陸軍の参謀本部と、海軍の軍令部、この二つでほぼ、戦争に関する最高統括機関としての大本営が構成される。その長である参謀総長と軍令部総長は、大元帥たる天皇を「輔翼」する者として、内閣や議会から独立した実力者であった。
 そのうちの参謀総長が、極秘のうちに天皇に日本軍の装備について真実を告げた。これはどういう心境からか。山本は、梅津こそ実は早期講和論者であり、自分の報告が天皇及びその側近にどういう影響をもたらすか、十分承知の上でしたのだ、としている。最も好戦的だと考えられていた陸軍のトップから、戦局に関する悲観論が出たのでは、いよいよ具体的に講和を進めなければならない、という気分になるだろうから(山本、P.167~168)。
 梅津こそ「腹芸」をやっていた張本人だった、というわけである。そうかも知れない。そういう芸当なら、陸軍きっての俊英であり、昭和19年7月にそれまで首相・陸相・参謀総長を兼任していた東條英機の後に参謀総長になると、そのまま終戦まで務め、最後には天皇直々の希望で重光葵とともに降伏文書に署名した梅津のほうが、阿南陸相より確かに相応しいようである。
 江藤淳監修、栗原健・波田野澄雄編『終戦工作の記録(下)』(講談社文庫昭和61年)には、戦後に豊田副武(そえぶ)軍令部総長が、占領軍参謀第二部(G-2)歴史課の求めに応じて語った「陳述録」が収められている。そこでは、「阿南も梅津も胎の中では受諾已むなしと考えて居たことと思うが、陸軍部内には本当にポ宣言の受諾には反対する強硬気分があつたように私は観測して居た。それで両将軍共あの条件で和平を受諾するには困難な立場に置かれて居たように見えた」とある。
 ではその豊田こそ純粋な継戦派なのかというと、そうではない、と言う。自分が主張したのは四条件のうち武装解除、それもその方法に関してだけだ。降伏を円滑に成し遂げるためには、日米双方が十分に用心してかからねばならないから、その点で留保をつけたのだ、と。それならどうして阿南・梅津に同調するかのような態度をとったのかというと、米内光政海相があまりにハッキリ和平派の立場を鮮明にしていたので、同じ海軍の自分までそうしたら、陸軍対海軍の構図になってしまう。
「陸軍にソッポをむかせないようにする為には海軍も譲歩して和平に同意するのだから陸軍も同意しなさいと云う風に導いて来ることが肝要と考えた」(P.377)。情勢判断としては、もうとても戦争を続けられないと思う点では、米内海相と完全に一致していた。また、陛下もそのようにお考えである以上、自分が、本心とは裏腹に反対申し上げても大勢に影響はないと考えた、とも。
 「陳述録」は「マッカーサー戦史」編纂のための資料集めとして聞き採り調査されたもので、東京裁判などとは無関係だが、それにしても、この豊田の陳述は、戦後に道徳的責任逃れのためにした下手な言い訳だ、と思う人も多いだろう。が、私は、下手なだけに、部分的には真実ではないか、と感じる。自分の意見の客観的な正しさより、その場の「バランス」をとることを重んじる者は、学校というある意味非常に日本的な組織の中で(日本だけではないかも知れないが)、何人か出会った覚えがあるから。またこれは、丸山眞男が「超国家主義の論理と心理」などで摘出して見せた、戦争開始時の政府・軍指導者たちの傾向とも一致する。
 しかし、そうだとすると、終戦間際の戦争継続派として知られている三人は、誰一人として本気でそう希望していたのではないことになる。これはいったいどういうことなのか。外国人はもとより、私を含めた現代日本人にも容易に理解できない事態であろう。これが考えるべき第二のポイントである。

 上記を頭に置いて、最初の「御聖断」を改めて考える。
 御聖断による事態収拾は具体的にはいつどのように準備されたのか。当事者たちの回想も若干錯綜している。一級資料であるはずの『木戸日記』にも、一番肝心なことは故意か偶然か、記されていないような感じになっている。
 最初に頭の整理のために、9日から翌10日の未明にまで及んだ一連の会議の流れを下村海南(宏)『終戦秘史』(講談社昭和25年、後に講談社学術文庫)から抜き書きしておく。
 第一回戦争指導会議(九日午前十時半より三時間余にわたり議決せず休憩)
 第一回閣議(十四時半開会 十七時半休憩)
 第二回閣議(十八時半開会 二十二時休憩)
 第二回戦争指導会議(二十二時五十分開会 十日午前二時半散会)
 第三回閣議(十日午前三時開会 四時散会)

 しかし、これまた日本の組織ではままあることだが、最も肝心なことは会議以前に決められていたと思しい。
 半藤一利『聖断』(PHP研究所平成15年。後にPHP文庫)には、「少数の、資料的価値のやや劣る書には、九時十五分、あわただしく参内した鈴木首相から【天皇が】報告を聞いた、とある」。この時天皇と鈴木貫太郎の間で、二回目の最高戦争指導会議を御前会議にする相談があったとする推定は十分成り立つ。
 迫水久常内閣書記官長の回想『機関銃下の首相官邸 二・ニ六事件から終戦まで』(恒文社昭和39。後にちくま文庫)に、第二回閣議の終了時に、「かくなる上は、ご聖断をあおぐほか途はないと思います」と述べて、鈴木から「実は、私は早くからそう思っていて、今朝参内のとき、陛下によくお願いしてある」と言われた、とある。他方東郷茂徳外相の回想『時代の一面』(改造社昭和27、後に中公文庫)には、同じく第二回会議後、即ち夜の10時過ぎ、鈴木に伴われて拝謁し、それまでの会議の経過をご報告した、そのとき鈴木が二回目の戦争指導会議を御前会議とすることをお願いした、とある。これが初めての「お願い」だとしたら、いくらなんでも急過ぎる。鈴木のこの時お願いは、「改めて」、あるいは「正式に」であったろう。
 ただ、誰がどう言ったかだけの話より、行動が伴っている回想のほうが、信憑性が高いように思う。やったことを他の人が見ているからである。耳だけより、目も働いていたほうが、印象が強いものだ。
 御前会議の開催には、首相、参謀総長、軍令部総長の署名花押のある書面で宮中にお願いする慣例になっていた。迫水は午前中にそれをもらっていた。つまり、鈴木はこの段階で御前会議開催の腹づもりでいたのである。一方両総長にはこう言った。署名花押をもらうためにはどうしても面談しなくてはならず、時間がかかってしまう。連絡は電話ですむ。「御前会議をお願いする場合には必ず事前にご連絡申し上げてご承諾を受けます」から、と。
 それでいて軍の承認は求めず、御前会議開催のみを伝えた。迫水の元へは抗議のために大勢の陸軍軍人がつめかけた。阿南陸相もやってきた。迫水は、この会議は最高戦争指導会議構成員の意見を直接陛下に聞いてもらうためのものだ、と説明した。皆不満ではあったが、陛下から会議の招集があった以上、逆らうことはできない。
 迫水はこれはみんな自分の独断でやったことだと書いているが、こんな危ない橋を渡るからには、鈴木のみならず、天皇も早い段階で御前会議、さらにはご聖断まで承諾していたと考えるべきだろう。
 一方、上記一連の会議には直接関係がない木戸内大臣も多忙を極めた。【念のために注記。内大臣とは、内閣中の内務大臣とは別で、内大臣府の長である。略称は前者の内相との区別のため、内府。宮中と政府との連絡調整が主な仕事であったが、昭和期、以前の元老に代わって、重臣会議を主宰し、総理大臣の指名にも中心的な役割を果たすようになり、絶大な権力を持った。また昭和15年からこの職に就いていた木戸幸一は天皇の側近中の側近とみなされていた。】
 『木戸日記』9日の記事(P.1224)から当面必要なことだけ摘記すると、9時55分から10時まで拝謁、ソ連が参戦した以上、戦局の収拾につき急速に研究決定の要あり、首相と充分懇談するようにとの御言葉をいただく。
 10時10分、即ち第一回戦争指導会議の直前、首相と面談。陛下の思召しを伝え、ポツダム宣言を使って戦争を終結に導くこと等を力説した、と。もし上の半藤の推定が正しいなら、鈴木にとっては「今更」であったろう。「十時半から最高戦争指導会議を開催、態度を決定したし」とだけ答えた。
 午後になると、この時は閣僚ではなかったが、政界の有力者ではあった近衛文麿・重光葵たちのラインからの働き掛けがあった。以下、「重光葵手記」(『中央公論』昭和61年4月号)の記述を、『木戸日記』と照らし合わせて整理する。
 まず1時に近衛が訪ねてきて、戦争の早期終結に向けて陛下の御親裁をお願いしたい旨の申し入れがあったが、木戸は「それは政府のやるべき事である」として聞き入れなかった。
 その後1時半に鈴木から、午前中の最高戦争指導会議では、四条件をもってポツダム宣言を受諾することに決定した、と報告された、とある。今日知られているこの会議の実態は、「議決せず休憩」の状態で、議論は午後の閣議に持ち込まれていた。それをこう報告したのは、あるいは鈴木の策略であったかも知れない。事態がこのように伝わったおかげで、閣外の和平派が一斉に動いた。前記近衛の申し入れも、その一環であった。たぶん迫水のラインから、鈴木の「報告」より前に、近衛はこのことを知ったのであろう。
 次に、2時45分、高松宮が、電話で、条件付きでは連合国は拒絶とみなす虞がありとして、その善後策を述べた。上の近衛の訪問はこの宮の意向によるものでもあったので、同じ内容を告げたと思われる。
 さらに近衛は、木戸と親しい重光に説得工作の続きを頼む。木戸と重光は4時頃に会う。木戸は強い口調で言った。

「君等は何でも彼でも、勅裁、勅裁と云って、陛下に御迷惑をかけ様とする。一体政府や外務省は何をして居るか。陛下の勅裁で漸く平和終戦の途が付いた。之を如何(いかに)措置して行く位は責任者たる政府でやるべきだ。(後略)」(『終戦工作の記録(下)』P.380より引用)

 平和終戦に関する「勅裁」とは、おそらく、6月22日の「懇談会」での御発言を指すと思われる。木戸はこれくらいが天皇にできる限度だ、と思っていたようだ。自身の発案になるソ連への特使派遣にしても、鈴木首相が近衛に依頼した体裁になっている。誰の目にも明らかな形で、陛下自身の御判断によって、政治上の重要事を決めるのは、二・二六事件の時を唯一の例外として、明治帝の時代まで遡っても、他にないことである。
 これがつまり日本独特の立憲君主制である天皇制の常道であり、政府上層部はすべて、暗黙の裡に心得ていた。誰にも言われずとも、それを体得しているのが、帝国政府首脳に席を連ねるための条件であった、と言ってもよいだろう。だからこそまた、この時の天皇の具体的な動きについては、誰一人明白な記録は残さず、戦後の回想でも言うことはなかったのではないだろうか(ただし、『昭和天皇実録』は私は未見)。
 重光も当然それは心得ていて、木戸の言はもっともだと思ったが、引き下がらなかった。この土壇場へきて軍部の意向を覆すには、陛下に頼るしかない。必死の説得に木戸も折れて、「解った。直ぐ拝謁を願うことにしよう」と言って退席した。三、四十分後に戻ってきて、「陛下は万事能く御了解で非常な御決心で居られる。君等は心配はない」と告げ、さらには「今夜直に御前会議を開」くようにしようとまで言った。
 この拝謁は『木戸日記』には4時35分から5時20分までのことと記されてしている。内容はわからない。ここで御前会議、さらには聖断まで決めたとすると、微妙な時間帯である。すでに決まっていたことについての、迷いを吹っ切る機会になった可能性はある。もっとも、どちらかと言うと、迷いは木戸のほうに多くあったかも知れない。その推定の理由は、上の通りである。

 ついに、御前会議は開かれた。それはこんなふうに進んだ。
 ① 迫水内閣書記官長がポツダム宣言を読み上げる。
 ② 東郷外務大臣発言。一条件のみにて宣言を受諾すべきである、と。
 ③ 米内海軍大臣発言。短く、外相に賛成、とのみ。
 ④ 阿南陸軍大臣発言。外相に全く反対。国体護持のために他の三条件は絶対に必要であり、それが容れられないなら、七生報国の精神を持って戦い続けるのみ、と。
 ⑤ 梅津参謀総長発言。陸相に同意。本土決戦になれば、死中に活を求める機会は必ずある、と。
 ⑥ 平沼枢密院議長発言。他の出席者に詳しく質問してから、一条件を「天皇の国法上の地位」から「天皇の国家統治の大権」に修正するよう外相に申し入れ、後は概ね外相に同意。
 ⑦ 豊田軍令部総長発言。ほぼ陸相・参謀総長に同意。

 ここで鈴木総理大臣が立ち上がった。自分の意見を言うのかと思えたが、そうではなく、玉座のほうへ進んだ。阿南は、「総理」と声をかけた。鈴木は、「前例もなく、まことに畏れ多い極みながら、陛下の思召しを伺ひ、それに基いて会議の決定を得たい」という主旨のことを申し述べた。天皇は鈴木に席にもどるように言った。鈴木の耳は遠く、二度繰り返さねばならなかった。そして、命令でも懇談でもなく、自身の意見を表明した。「私の意見は、外務大臣の案に賛成である」と。
 「念のために理由を言う」として天皇が言われたことを一番手短にまとめると、軍はあてにならない、日本はもはや戦争を続けられるような状態ではない、となる。それはみんなが知っていた。問題はその事実をどう認め受け入れるか、だった。
 米内海相のように、きわめて率直に認めている軍人もいたが、それは少数であった。すべてが終わってから振り返れば、そんなのは悪あがきに過ぎない、とも見える。天皇の目からさえ、そうだった。しかし、どこの国でも、軍人とは国家の栄光という物語(フィクション)を生きるべき、とされる者だろう。そうでなければ、戦争なんて延々とやっていられるものではない。
 ことに大日本帝国軍人は、国家元首であり大元帥である天皇に直結し、文字通り、フィクションとしての国家の中枢を担う存在であるはずだった。そう教えられていた。例えば、明治15年の軍人勅諭(正式名称は「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭」)にはこうある。

汝等皆其職を守り朕と一心(ひとつごころ)になりて力を国家の保護に尽さは我国の蒼生は永く太平の福(さいわい)を受け我国の威烈は大いに世界の光華となりぬへし

 昭和20年の客観的な情勢では、蒼生の福も我国の威烈も失われたと言わざるを得ない。だからと言って天皇との「一心」ももはやない、となれば、軍人のレゾン・デートル(存在理由)は完全に破壊される。軍人たちが自分の命はもとより他の何者を犠牲にしても守らねばならぬ、とした「国体」の核心はつまりこれであった。だから、その代表たる阿南、梅津らは、ただ継戦派を宥めるためというなら不必要なまでに、和平に反対しなければならなかった。
 即ち彼らは、「本心」などというものより、この立場に忠実であろうとした。誤解を恐れずに言えば、役割を演じることを第一としたのである。それは、天皇も同じことだった。
 考えてみれば天皇家は、大日本帝国以前から、摂関政治や武家社会などの、政体の変更に関わらず、連綿として続いてきている。もっとも「軍人勅諭」では、兵馬の権も政治の大権も天皇から失われたそのような時代は「我【が】国体に戻(もと)り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき」と言っているのだが。ともかく、軍から離れた天皇家は現にあった以上、この未曾有の危機に際会して切り離すもまたやむを得ない。それによって天皇家の存続というぎりぎりの「国体」が守れるのなら。天皇だけではなく、天皇家に最も近い存在の近衛文麿もそう考えた。そこで、「敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なし」としたのである。
 ただ、大元帥でもある天皇の役割は、そんなに簡単に捨てられるものではない。武装解除と、戦争責任者の処断を相手に委ねることによって、軍は精神的に死ぬ。またそれは天皇の大権に属するはずであり、敵の手に譲り渡すなら、天皇はもはや帝王ではない。即ち、大日本帝国もまた、ここで死ぬ。一種のクーデターが行われた、と見ることもできる。
 で、あればこそ、それを成し遂げるのは、天皇自身以外にありようがなかった。

 芝居好きの私としては、この終戦決定というドラマを演出したのは誰だったろう、とつい考えてしまう。
 鈴木貫太郎にだって、完全に見通せたはずはない。彼は9日の一連の会議ではほとんど自分の意見を言わず、議決も取らなかった。御前会議の出席者各自の考えには大きな隔たりがあったことは、前回と今回見てきた通りである。それを大雑把に和平派対継戦派で三対三の同数、と見える形にして、陛下に最後の決断を仰ぐ。ギリシャ悲劇「オレステイア三部作」の結末に近い現実が、現出した。いかなる人間の知略をもってしても、こんなことを成し遂げられるはずはない。
 つい、天の配剤ということを考えたくなる。しかしそれも、当事者個々人が、胸の中の思いとは別に、巨大なドラマの一登場人物としての役割を全うしようとしたからこそ、見えてきたものであろう。

 これも迫水の回想によると、御聖断が下された宮中の地下防空壕から退出する道すがら、吉積正雄軍務局長が「総理、約束が違うではありませんか」と鈴木に詰め寄った。阿南が「吉積、もういい」と言ってそれを押しとどめた。
 どんなに遅くてもこの時点では、阿南も和平派の工作に気づいていたろう。それは近衛や鈴木たちの意向によるものだろうが、天皇の意思もいくらかは入っていたに違いない。ならば、抗議しても仕方ない。彼らによって用意された舞台の上で、ひと踊りして見せるまでのことだ。そんなふうに考えたのではないだろうか。
 そこで、陸軍の抵抗はまだ続いた。継戦派も和平派も、誰よりも天皇が絶対に譲れぬ条件とした皇室の安泰についても、アメリカは明白な言質を与えることを避けた。ならば降伏できない、と14日までねばり、今度は全閣僚の前で、再度の御聖断を仰ぐことになる。
 こちらの御聖断については手短に、有名な「自分は如何になろうとも万民の生命を助けたい」というお言葉についてふれたい。古川隆久や鈴木多聞など、若手の研究者は、これは下村宏情報局総裁によって作られたフィクション(作り話)だとしている(古川P.307)。鈴木多聞は、天皇がそんなことを言ったら「無神経」だ、とも(鈴木P.185)。天皇がどうにかなる危険があるとしたら、日本人にとって軽い問題であるはずはなく、結果まだ抗戦を続けたい軍人たちに口実を与えることになってしまうから。
 たぶん、それが正しいのだろう。そういうところから、昭和天皇は自分が助かりたい一心ですべての戦争責任を軍に押し付け、国民の命は口実に使っただけだ、と言う人もいる。私は、終戦の詔書にある「帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五內爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(しんねん)スル所ナリ」は、天皇の真意に即したものだと信ずるが、人間の「真意」なんてものを過度に論ってもしかたない、とも思う。それは、すぐに変わって、本人が後から思い出そうとしても難しくなるようなものでしかないのではないか。
 終戦前後のお言葉を伝える各種の資料からは、三種の神器の保全を含む皇室の維持が第一で、国民の安寧はそれに次ぐ、とお考えなのだな、とも確かに思える。現代的な、生命第一のヒュ-マニズムからすると、それ自体許し難いとする人がいるのは無理もない。ただそれは、前者こそ、日本の歴史の中で自分にふり当てられた第一の役割なのであるから、懸命に果たそうとされている御姿の現れである。こういう使命感に支えられていなかったら、この時期、正気を保つことさえ難しかったのではないだろうか。
 そして忘れてはならないのは、皇統の存続を第一とするのは天皇だけではなく、立場の違いにかかわらず政府の全員だったという事実である。歴史もまたフィクションだが、それを共有しているという思いが、「国民」の、つまりは「国」の実質を作り、戦争も起こすが、また最低限の誇りを保って粛然と降伏もできるようにする。この事情は、国家がある限り、社会が変わっても、今後も続くであろう。

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