由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その5(国民の良心に干渉すべきか)

2013年01月28日 | 近現代史
メインテキスツ:山住正己『教育の体系』(日本近代思想体系6 岩波書店平成2年刊)より

 制度的・思想的な話は古いところからやろう。今回は「教育に関する勅語」(以下「教育勅語」)について。
 事の始めは明治十二年、教育令公布の直前に出た「教学聖旨」(以下、「聖旨」)。聖旨とは天子の思し召しという意味である。前年明治天皇は北陸・東海を巡幸し、師範学校や小学校を視察した。そのときの印象が「聖旨」には直接出ているようだ。最後のほうにある、「(要旨)農家や商家の子どもに高尚な空論を教えてなんになる。役に立たないくせに生意気な人間を作るだけだ」など、明治帝の考えそのままと思っていいだろう。
 さて、しかし実際に起草したのは侍講で儒学者の元田永孚(もとだ ながざね)であるか、少なくとも彼が中心であったことは疑いない。冒頭の「(拙訳)教育の要諦は、仁義忠孝を明らかにして知識や才芸を究め、人の道を尽くすところにある。これは我が祖先の訓(おし)えであり国法の根本であって、身分の高下に拘わらず国民一般の教えとすべきところである」などは、教育勅語にとても近い。
 しかし、「聖旨」はこの後、「然(しか)るに」と続く。その要旨は、「今の学校で実際にやっていることをみれば、いたずらに西洋を模倣し、あるいは空理空論に走るばかり。おかげで、国民の品行は悪く、国の風俗も乱れてしまった。まず徳育を先にして、後から知識を学ぶのでなければ、教育は国家にとってむしろ害となる
 現在まで連綿として続く、「知育偏重」批判・「徳育」要請の最初がこれである。「聖旨」はこの後、具体的な徳育のやり方として、次のような案まで示している。
最近の小学校では絵図を使ったりしているのだから、古今の忠臣義士、孝子貞女の画像を掲げて、その事績を説諭して、子どもの『脳髄ニ感覚セシメ』(『 』内原文のママ)ることが大事だ
 感覚に訴えて、道徳をいわば脳に刷り込むことが大事だ、という。平成の、文科省発行の道徳副教材『心のノート』も、ビジュアル面ではたいへんな工夫の跡がうかがえるのは、この故知に学んだものだろうか。要するに、洗脳である。学校が、オウムなどの宗教団体とか、能力開発セミナーとやらほど上手にそれをやれた例がないのは、むしろ幸いだと思う。
 そもそも、明治の最初から、日本人の品行は悪くなったと言われていたのには苦笑させられる。その後ずっと、近代日本人の品行がよくなったことはないらしい。そこのところは学校でなんとかしろ、と言われるのも昔から同じ。ずっと言われ続けているところをみると、一度も成功しなかったようだが。それを、性懲りもなく、平成になっても、また基本的に同じやり方で徳育を試みようというのは、その熱意はどこから出てくるのだろうと、感嘆するばかりだ。

 この「聖旨」には、当時内務卿だった伊藤博文が、「教育議」という文書で事実上の反論をしている。もっとも彼は、教育による風俗矯正について天皇から下問されたから、その答えとして、側近の知恵袋であった井上毅と相談の上でこれを書いたので(実際は井上が書いたものである可能性も高い)、「聖旨」そのものは執筆時点では読んでいなかった可能性もあるらしい。それはともかく、ここでは次のように言われている。
現在の風俗の紊乱は明治維新の大混乱から生じたもので、何も学校のせいではない。またその混乱というのは、旧弊を破って新たな時代を築くために起きたもので、そのときの弊害が未だに甚だしいからといって、世の中を昔にもどそうなどというのは賢明ではない。もしも、過去と現在とを折衷し、内外の文献を斟酌して、新たな国教(国の中心たるべき道徳体系、ぐらいの意味らしい)を建てようとするなら、賢哲の人を待たなければならない。政府などの、従ってその出先機関である学校などが、扱うべきことがらではない」。
 これに対して、元田永孚が再批判しているのが「教育議附議」という文書名で残っている。全部で六箇条あるのだが、なかでも最後の五・六箇条目が一番注目される。
欧州のことは私は詳しくないが、宗教(キリスト教)を中心にして現に国家が営まれているのだろう。我が国でそれにあたるものとしては、古来よりの皇室崇拝の念に加うるに仁義忠孝、即ち儒教があれば足り、新たに国教を建てる必要などない。問題はこの信仰が強いか弱いかだ。教育の要諦は当然ここに置かなければならない」。
 かくて、十一年後の、教育勅語への準備が敷かれた。儒教で理想とする伝説の聖王たちの徳治を抜いて、そこへ皇室崇拝を代入する論理操作でもって、皇室を道徳性の根源たらしめんとする企てがここではっきりと登場したのである。
 ただ、教育勅語の起草者は一般に元田だということになっていて、私も以前はそう記憶していたのだが、これは少し違うようだ。
 明治二十二年には大日本帝国憲法が発布され、二十三年には国会が開設された。この時首相になった山縣有朋が、国家が民主化されるに伴って予想される混乱の予防策を各所に求めた。その回答の一つが、二十三年の、地方長官会議から出てきた「徳育涵養の義につき建議」で、知育偏重の弊を改めるために、徳育の指針を出して欲しいと政府に呼びかけている。
 これらを受けて、山縣内閣で文部大臣になった芳川顕正が、天皇から「徳教に関する箴言」の編纂を命じられ、芳川は数人の候補者の中から「西国立志篇」の訳者中村正直(敬宇)を選んで、草案を書かせた。
 一方、当時法制局長官の職にあった井上毅が、これを読んで、反対して、対案として自ら書いた草案が、ほぼ後の教育勅語になった。完成までには元田と相談して、何度か書き直しているが、この文書の起草者といえば、井上毅、とするほうが正確であるらしい。
 井上が中村草案に反対した理由は、明治二十三年六月の山縣宛書簡が残っていて、そこで七箇条挙げられている。「天とか神とかいうような宗教的な言葉を使うな、また倫理学上の大問題につながりそうなところへは踏み込むな、なぜなら、そういうのは各宗派、各学者間の無用の議論を呼ぶだけだから」というのがだいたいの主旨だが、注目すべきなのは第一箇条に、「今日の立憲政体の主義に従えば、君主は臣民の良心の自由に干渉せず」としているところである。
 私も全く同感。「君主」を「政府」、「臣民」を「国民」とすれば、今日でもそのまま通用するし、通用させなければならない立憲主義、また民主主義の大原則の一つだと思う。
 ただそれなら、「教学聖旨」も「教育勅語」も、出さないのが一番いいはずなのだが、当時の情勢ではそうも言いかねたのだろう。井上の抵抗は、この勅語は政治上の命令と区別して、「社会上の君主」の著作公告として出せ、と要請するところにとどまっている。
 実際は教育勅語は、天皇から首相と文相に下しおかれ、文相がただちに全国に公布する、という形で世に出た。井上のこだわりは、形式的には、他の勅語と違って、国務大臣の副署がないこと、文言では、天とか神とかいうような言葉がなく、また末尾が「朕(ちん)爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺シテ咸(みな)其(その)徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ」で終わっているところに痕跡をとどめている。天皇が臣民に一方的に道徳的な要請をするのではなく、自分も皇祖皇宗以来の徳に拳々服膺(謹んで従う)し、もって臣民と一体の道徳を実現することを願っている、ということだから。

 帝国憲法下の天皇も、立憲君主と言えるのか、それとも絶対君主に近いのか、それは様々な議論があって容易には決着がつかない。その理由の一つは、伊藤博文などが、この問題に敢えて決着を着けないようにしたからだと思われる。
 井上毅の考えは、上に見たように、立憲君主であるべき、に近い。その場合、天皇は「国家の最高機関」ということになろう。昭和天皇は、天皇機関説でよいと考えていたと『独白録』で述べている。しかし、それは浸透しなかった、というより、日本が、特に諸外国とあからさまに拮抗して独立を貫かねばならない困難な時期に、国家としての紐帯となるべき中心理念がなくてもすむものか、と思える問題が大きい。もちろんそれはまた、大敗戦という悲惨へ至る道を進ませる原動力にもなるのだが。
 伊藤・井上と元田の議論は、その後めったに例をみないほど論理的にちゃんとしたものである。しかし、おそらくは上に述べた理由で、それを深めることはできなかった。実際の井上と元田の間にどんなやりとりがあったのかはわからないが、理念としては、井上的なものは元田的なものと妥協し、天皇は、国家の機関であると同時に、国民道徳の根源という二重の性格を背負わされたまま、大東亜戦争の終結にまで至る。
 あるいは今もこの矛盾は残る、というか、多くの人が特に矛盾とも感じないまま、残っているのかも知れない。このような曖昧さこそ日本の特質だ、と言われると、半分は納得するが、敢えて抗いたい気持ちも私にはある。
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