由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その10(八紘一宇:戦前日本のグローバリズム)

2017年10月31日 | 近現代史

八紘之基柱(あめつちのもとはしら) 宮崎市平和台公園

メインテキスト:石原莞爾『最終戦争論・戦争史大観』(底本は『石原莞爾選集3 最終戦争論』昭和61年たまいらぼ刊。中公文庫平成元年)

天皇に(大東亜戦争に関する)政治上の責任がない、とは簡単には言えない。では、それは具体的にはどのようなものか。昭和天皇と大東亜戦争の関わりはどんなものだったか、歴史の問題として非常に興味深いから、現在まで実にいろいろなことが言われている。私も今後できるだけ勉強して、当ブログで断続的に意見を開陳していきたい」とずいぶん前に書いた。しかしやろうとすると、天皇制にしろ大東亜戦争にしろ、モノがデカ過ぎて、手がつかない。「何を、いまさら」なんですけどね。
 それで、関連する特徴的な言葉・概念を採り上げ、それだって到底軽々に扱うことなどできないのだが、とりあえずの愚考を述べて、皆様のご批判を仰ぐことにした。
 その最初が八紘一宇。私の年代だと、いや、あるいは全く個人的にかも知れないが、なんとなく禍々しいイメージが伴う言葉だった。どうしてそうなったかは、全然覚えていない。「大東亜戦争」のほうは、拙著『軟弱者の戦争論』で使ったときには、「右翼だと思われるとイヤだな」と、けっこう勇気が要ったけれども、「禍々しい」とまでは思っていなかった。何かひどく巧妙なイメージ操作が行われていたような気がする。
 三原じゅん子議員は私よりちょうど十歳年少なのだが、この洗脳には引っかかていないようだ。平成27年3月16日の参議院予算委員会で、安倍首相や麻生財務大臣(当時)への質問の形で、次のように言っている。

 私はそもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の、影の部分に、もう、私たちが目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。そこで、皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)になさむ」とおっしゃったことに由来する言葉です。(中略)これは昭和13年に書かれた『建国』という書物でございます。
「八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる」
 ということでございます。これは戦前に書かれたものでありますけれども、この八紘一宇という根本原理の中にですね、現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと、私は思えてならないんです。
(『ハフポスト日本版』2015年3月17日より引用)

 外国資本に対して税制上の優遇措置を採る国、いわゆるタックスヘイブンを念頭において、彼女は語っている。そこへ形式的に本社を移せば、租税回避、つまり税金逃れができることは、この年話題になっていた。そんなことができるのは、大企業、その中でも多国籍企業である。これは現在の、弱肉強食のグローバリズムを最もよく象徴する。神武天皇が言った八紘一宇とは、それとは全く違った、すべての人々が家族のように睦み合い、強い者が弱い者を扶けるという謂いで、これこそ日本が建国以来抱き続けてきた人間世界の理想のありかたである。と、すると、現在も、国境を越えて応用もできるはずだ、と。
 この言葉が戦前、大日本帝国の海外膨張、即ち侵略を美化するためのスローガンとされていたことは知らないわけではない、と後に三原は言っている。引用されているのは清水芳太郎『建国』という本だが、この筆者は「最終戦争論」に「天才」として名が出てくるのを見ただけ、書名に関しては恥ずかしながら私は全く知らなかった。清水は和歌山県のジャーナリスト兼社会運動家で、農村の貧窮問題に取り組んだ人。また、八紘一宇は二・二六事件の蹶起趣意書にも登場するが、事件首謀者の青年将校たちは、窮迫した農民の救済を目的の一つとして掲げていた。つまり、「弱者救済」の思想こそ、この言葉本来の意味であり、それを日本国民は銘記すべきではないか、と。(「だから私は「八紘一宇」という言葉を使った」東洋経済オンライン同年4月5日
 それにしても、上の文脈でこの言葉を持ち出した三原の、本当の動機はわからない。それは誰にしても、私にしても、さほどの興味を惹く話題ではなかった。いくつかのマスコミは批判したし、批判があまり盛り上がらない現状を批判する言説もあるにはあったが、いずれも盛り上がる前に忘れ去られていった。
 私が思い出したのは、山田朗『昭和天皇の戦争』(岩波書店平成29年)で、昭和天皇の次の言葉が採り上げられているのを読んだからである。

 内大臣木戸幸一に謁を賜い、枢密院議長近衛文麿の辞意につき言上を受けられる。また仏印問題につき御談話になり、フリードリッヒ大王やナポレオンの如きマキャベリズム的な行動ではなく、神代からの方針である八紘一宇の真精神を忘れないようにしたい旨を述べられる。(昭和15年6月20日。『昭和天皇実録 第八』一○六頁)

 山田はここから、「この言葉からも分かるように、少なくとも領土拡張・勢力圏拡大という点については天皇自身、何ら否定するものではなかった」(P.124)と言う。「この言葉」とは八紘一宇のこと。それは端的に、領土拡張・勢力圏拡大のイデオロギーを示す、少なくとも象徴するものだった、と考えられている。では、マキャベリズムとはどう違うのか。少なくとも、天皇のおつもりでは。その考察は抜きで、昭和天皇の戦争責任を証する根拠の一つにされている。ちょっと性急な気がした。
 歴史的に、この言葉は極東軍事裁判(東京裁判)でも採り上げられている。この時は、日本側弁護人清瀬一郎らが、井上孚麿を証人に呼ぶなどの努力を重ね、「八紘一宇や皇道は日本道徳上の目標であると認め」られて、判決書にも書かれた。東京裁判全体を通じて、弁護側の証明が公式に認められたのは、これと、タイの俘虜に関する虐待の事実はなかったことぐらいだ、と清瀬は著書『秘録 東京裁判』(原著は昭和42年読売新聞社刊。中公文庫版から引用)で書いている。この判決書(日本文)の「皇道と八紘一宇の原理」の部分は、この言葉についての最も簡明な説明になっていると思われるので、同著から孫引きで引用する。

 日本帝国の建国の時期は、西暦紀元前六百六十年であるといわれている。日本の歴史家は、初代の天皇である神武天皇による詔勅が、その時に発布されたといっている。この文書の中に、時のたつにつれて多くの神秘的な思想と解釈がつけ加えられたところの、二つの古典的な成句が現れている。第一のものは、一人の統治者のもとに世界の隅々までも統合するということ、または世界を一つの家族とするということを意味した「八紘一宇」である。これが帝国建国の理想と称せられたものであった。その伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもった人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかった。
 行為の第二の原理は「皇道」の原理であって、文字通りにいえば「皇道一体」を意味した古い成句の略語であった。八紘一宇を具現する途は、天皇の仁慈に満ちた統治によるものであった。従って「天皇の道」――皇道または「王道」――は徳の概念、行為の準則であった。八紘一宇は道徳上の目標であり、天皇に対する忠義は、その目標に達するための道であった。
(下線部は原文では傍点部)

 簡明、とは言ったが、よく読むと、様々な疑問が浮かぶし、けっこうアブナイと思えるところもある。
 「一人の統治者のもとに世界の隅々までも統合するということ、または世界を一つの家族とするということ」と並記されるが、世界が一つの家族になる、その前提に、一人の統治者が世界を統合する、ということがあるのではないか、と読める。仮定の話ではない。そもそもこの詔は、神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)が九州の日向から東上し、長髄彦(ながすねひこ)などの強敵を打ち破って奈良に橿原宮(かしはらぐう)を造営、そこで即位して神武天皇となったときに出したものである。国中が一家のようなものになるには、その前に戦が必要、ということではないか。
 八紘一宇という徳の実現には、天皇に対する忠義が必要とされる、もほぼ同様。これが、天皇崇拝など関係ない外国に広げようとしたら、やっぱり戦になり、向こう側からは、どうしても侵略に見えるしかないのではないだろうか。実際、それがつまりは大東亜戦争の悲劇だったのである。

 改めて言葉の由来を尋ねると、日本書紀に記された詔中の言葉「掩八紘而爲宇」から「八紘一宇」を造語したのは、日蓮宗の信者で愛国主義団体國柱會の創設者・田中智學で、それは大正2年のことだった(島田裕巳『八紘一宇』幻冬舎新書平成27)。原典に忠実を期すなら「八紘爲宇(はっこういう)」(八紘を宇と為す→世界を家とする)となるべきところを「八紘一宇(はっこういちう)」としたのは、語呂がいいからではないか、とこれは私の憶測である。
 いくら元は古典にあるとはいえ、一宗教家・思想家が創った言葉が、国策の標語となり、天皇や首相の口からも出る、なんぞということは、めったにあるものではない。田中の影響力の大きさは疑うべくもない。しかし正直言って、それは内容がないからではないだろうか。「世界の人がみな、一家族のように仲良く暮らせたらいい」には文句はあるまい、と言われるなら、いかにも。ために、戦後、たぶん田中智學とは関係のない笹川良一の口から「世界は一家、人類は皆兄弟」というよく似た言葉が出たり、また若手の国家議員の口から、やっぱり田中との直接の関連を離れて、ひょいと出てきたりもする。どこからも文句の出ない言葉とは、つまり無意味だ、ということなのである。
 とりあえず一番問題にすべきなのは、大東亜戦争の現実の中で、この「道徳的目標」がいかなる働きをしたかであろう。國柱會の会員だった石原莞爾が遺した言説から、その一端を窺っておこう。

 石原は、際だった個性の持ち主であることはよく知られている。何より、旧日本軍の中では珍しい思想家だった。熱心な日蓮宗の信徒であることと、満州事変に代表される冒険的軍事行動、この間にある矛盾、ではないにしろ溝を、尋ねれば、ある程度の答えは期待できた。その意味で、「最終戦争論」(昭和15年、京都の東亜連盟会員である柔道家の道場での講話を、立命館大学教授田中直吉が整理して、出版したものが最初)に付された「第二部 「最終戦争論」に関する質疑応答」は特に興味深い。実弟石原六郎の解題によると、これは一定の場所での質疑応答ではなく、「最終戦争論」が評判になるにつれて、内容に関する疑問の声も、東亜連盟運動に奔走していた石原の耳に直接間接に入ることもあり、それらと答えとをまとめて17年に脱稿したものである。
 第一問は、上に述べたことに関連する、融和と争闘との矛盾に関して。曰く「世界の統一が戦争によってなされるということは人類に対する冒瀆であり、人類は戦争によらないで絶対平和の世界を建設し得なければならないと思う」。ここまで言う絶対平和主義者は戦後でもそんなに多くはないであろう。石原に実際にこう聞いた人があるのかどうか、あるいは、彼の頭の中から出てきた自問かも知れない。
 それはそうと、答えは、「どうも遺憾ながら人間は、あまりに不完全」だから、

 刃(やいば)に衅(ちぬ)らずして世界を統一することは固より、われらの心から熱望するところであるが、悲しい哉、それは恐らく不可能であろう。もし幸い可能であるとすれば、それがためにも最高道義の護持者であらされる天皇が、絶対最強の武力を御掌握遊ばされねばならぬ。文明の進歩とともに世は平和的にならないで闘争がますます盛んになりつつある。最終戦争の近い今日、常にこれに対する必勝の信念の下に、あらゆる準備に精進しなければならい。
 最終戦争によって世界は統一される。しかし最終戦争は、どこまでも統一に入るための荒仕事であって、八紘一宇の発展と完成は武力によらず、正しい平和的手段によるべきである。
(P.70)

 「絶対最強の武力」があれば、誰も力で逆らうことはできない。そしてその武力の持ち主が、「最高道義の護持者」であるとすれば、力を濫用することなど考えられないので、平和に、八紘一宇は達成される、と言う。
 ……いやまず、どうして天皇がそれほど道義的に至尊の存在であると考えられるのか、戦後の我々は疑問に思わないわけにはいかない。しかしそれは、当時の国粋主義者にとってはいわば公理であって、証明する必要がない、そんな証明が要ると思うだけでも不敬であるとされねばならぬ事柄であるようだ。「イエスが偉大であるなんて、信じられない。そうだと言うんなら、証明してみせろ」なんて言う人がキリスト教徒には成り得ないようなもの、だろうか。少なくとも私は、これについて冷静に、客観的に、根拠を挙げて説明しようとした文章を読んだことがない。ある、という場合には、是非ご教示願いたい。
 しかし一度この前提を受け容れたら、石原の説くところは理に適っていると見えるであろう。彼は道義の力によって戦争に勝てる、などとは信じていない。あくまで、兵力しか問題にならない。一方、科学技術の進歩に応じた兵器の増強は目覚ましいものがあり、今もなお日進月歩を続けている。もし「原子核破壊による驚異すべきエネルギーの発生が、巧みに人間により活用せらるるようになったらどうであろうか」。破壊が大きくなりすぎて、もはや戦争などできなくなるではないか。その時、至高の道徳と力を兼ね備えた存在があるならば、力は使わずとも、自然に渇仰される存在となるから、その下で、絶対平和で平等な、理想世界が出現するだろう。ちょうど厳格だが慈愛に満ちた家長によって、幸福な家庭ができあがるように。ざっとこのようなものが、石原の考える八紘一宇であった。
 ここから最終戦争論が自然に出てくる。上で見た真の八紘一宇が実現する手前の、残念ながらどうしても必要な闘争があり、それがすめばもう戦争は決して起こらない、と言う意味で最終なのである。それは、文明の進歩の速さを閲すれば、だいたい三十年後に、東洋文明と西洋文明のそれぞれチャンピオン同士である日本とアメリカの間で起きるだろう、と石原は予言する。これにはなんとしても勝たねばならない。それは即ち、力による支配を意味する覇道と、道義が自から支配する王道の対決なのだから。
 西洋の覇道と東洋の王道とか、それに近い観念(西洋の物質主義と東洋の精神主義、とか)は、いろいろな人がこの時期に言っている。「質疑応答」では、第四問でこの説明を求められる形にして、「私の尊敬する白柳秀湖、清水芳太郎両氏の意見を拝借して、若干の意見を述べる」として、大略次のように言う。文明の性格は気候に依るところが大きい。熱帯・亜熱帯では生活環境が厳しくないために特に支配階級は抽象的な思考・瞑想に耽る暇があり、宗教や芸術を発展させた一方、社会は長い停滞に陥ることになった。【これがほぼ、インドと支那を中心としたアジアのことで、ひいては東洋、という括りになる。ユーラシア大陸北部の大部分を占めるロシアや、同じく熱帯でも砂漠が多くて生活環境の厳しい中近東のことなどは、度外視されている。】一方北部の民族は、厳しい生存条件を克服するために、科学技術や、ひいては経済や社会制度を発達させ、軍事も強く、結果としてアジア諸国を力で支配するようになった。【これがヨーロッパ→西洋。】日本は、この分類では北に属するとされている。【え? そうなの? と言いたくなりますね。】
 この後、清水の『日本新体制論』を大幅に引用している、その冒頭を孫引きする。

 寒帯文明が世界を支配はしたけれども、決して寒帯民族そのものも真の幸福が得られなかった。力の強いものが力の弱いものを搾取するという力の科学の上に立った世界は、人類の幸福をもたらさなかった。弱いものばかりでなくて、強いものも同時に不幸であった。本当を言うと、熱帯文明の方が宗教的、芸術的であって、人間の目的生活にそうものである。寒帯文明は結局、人間の経済生活に役立つものであって、これは人間にとって手段生活である。寒帯文明が中心となってでき上がった人間の生活状態というものは、やはり主客転倒したものである。

 三原じゅん子が引用した反弱肉強食論の背後にはこういう見解があった。そして石原もそれに完全に賛同していた。さらに、と、清水と石原は言う。このような文明の二傾向はいつか統一されねばならない。それをやり遂げられるのは、日本を置いて他にない。「科学的能力は白人種の最優秀者に優るとも劣らないのみならず、皇祖皇宗によって簡明に力強く宣明された建国の大理想は、民族不動の信仰として、われらの血に流れている」。そのうえ、「しかも適度に円満に南種の血を混じて熱帯文明の美しさも十分に摂取し、その文明を荘厳にしたのである」。ついでに支那については、「今日の多くの北種の血を混じて南北両文明を強調するに適する素質をもち、指導よろしきを得れば、十分に科学文明を活用し得る能力を備えていると信ずる」(以上は石原の文。P.78)
 これがつまり、王道。夜郎自大、としか戦後の目には、いや、戦前でもたいていは、見えなかったろう。しかし、これほどではないにしても、ほぼ近いような「理想」がなければ、八紘一宇はそれこそ侵略のための単なる口実、ということになるだろう。事実、そうなった。

 石原莞爾は軍人としては、なんと言っても満州事変の首謀者として知られている。自ら自国が経営する鉄道を爆破しておいて、それを軍閥・張学良の仕業として、鎮圧のための軍を起こし、日本政府の不拡大方針にもかかわらず、支那北東部三省を僅か一万一千の関東軍によって五ヶ月で制覇、満州国建設を実現した。世界軍事史上稀に見る戦果であるが、また、権謀術数という意味での典型的なマキャベリズムを行使した、と言うべきであろう。
 上に見た「王道」とは矛盾しないのか? しない。これは遺憾ながら必要な「荒仕事」であって、これが済んでこの地の秩序が確立し、満州国が出来上がったら、そこは八紘一宇の王道楽土になるはずだったから。つまり、最終戦争→理想世界、の雛形なのである。だから石原は、満州国内での五族協和(五族の中身は、漢民族・満州民族・朝鮮・モンゴル・日本)が成ると本気で信じていた。そこではすべての民族は、もとより平等に扱われなければならない。天皇を崇拝すれば、という条件はあるが、天皇が真に「最高道義の護持者」であるなら、何人であっても自然に崇拝するはずのものだ。そこに強制など必要なかった、いや、あってはならなかった。
 もちろん、そんなにうまくはいかなかった。石原は事変の翌年(昭和7年)帰国し、12年に関東軍参謀副長となるまで時々しか満州に戻らなかった。彼はこの地の治世の失敗を、生涯にわたる政敵東條英機(当時関東軍参謀長)ら、実質的に統治していた軍人たちの無能のせいにしているが、石原自身がいてもそれほど代り映えはしなかったろう。皇徳なんて認めない、それ以前に知らない民も多く、満州という国を認めない勢力も、内外に少なくなかったのだから。結局、新たな「荒仕事」、つまり戦争が必要になった。
 これについて、昭和12年の盧溝橋事件に際しては、陸軍参謀本部作戦部長として不拡大方針を唱え、「日支全面戦争になったならば支那は広大な領土を利用して大持久戦を行い、日本の力では屈伏できない。日本は泥沼にはまった形となり、身動きができなくなる」などと説いたことが作戦課長武藤章の回想にある。周知の通り、この後の日支戦争の成り行きは正にこの通りになった。理想家ではなく、軍務家としての石原は非常に冷徹で合理的な目を持っていたことがわかる。
 しかしその前年、関東軍首脳部に内蒙工作(内モンゴルを支那から独立させて、ソ連や支那との緩衝地帯にしようとする計画。失敗に終わった)の中止を命じた石原に対し、その武藤に、「(満州事変時に)あなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです」(辻正信の回想)と反論されたことは有名なエピソードである。内モンゴルは現在も自治区であり、中華人民共和国からの独立運動が盛んなところだし、東の一部は当時既に満州に編入されていた。満州建国にはソ連の進攻への備えの意味もある以上、その延長としてこうした計画が立案・実行されて悪いはずがない、と考えられるのは無理もない。それはどこまでも覇道であって、王道ではない、と言ってみても、そんな雲の上の理想にかまっている場合か、と言われておしまいである。

 国家間の強い連帯・連盟は、現在のEUのような純粋に経済的な、「手段生活」が目的の場合でも、なかなかうまくいかない。そこへ理想を持ってきたとなると、話は限りなく紛糾する。
 一番の問題は、理想の輝きによって、連帯しようとする相手の異質性・他者性が、見えなくなるか、見えてもどうでもいいことのように感じられてしまうことだろう。
 日本人は元来、決して同化できない「他者」と関わるのは苦手な民族ではあるのだろう。それでいて、明治維新以後、他者が出てきた。西洋である。王道対覇道、とまでは言わずとも、日本あるいは東洋の和に対する西洋の稜(りょう。かどばって、激しいこと【他にいい言葉が見つからずに使いました。なんとなくわかっていただければいいです】)、などと言えば、あまり深く考えなければ、今も多くの日本人が納得するようだ。しかし、前々回採り上げた福田恆存の言葉にあったように、「対する」の部分がもう西洋的なのである。和合の精神で対立の精神と対立して、というような矛盾をはらんだ主張を、多くの日本主義者は、知ってか知らずか、唱えている。その場合、東洋の国々はどういう位置が与えられるのか。
 以上は決して言葉の遊びではない。日本が世界戦争に乗り出して、多くの国々と直接衝突してから、その意義を考えた時には、底の方に横たわっているのが見えてくるアポリアだった。天皇を含めて、当時国の指導的な位置にあった多くの日本人がこれに躓いている。というところから、一典型としての昭和天皇の肖像が描ければよい、と現在ぼんやり期待しています。

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