由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

経済オンチがお金について語ってみた その2

2020年10月08日 | 倫理


 お金についてFace Bookに挙げた記事をまたまとめます。これに対して数人の人からご意見をいただき、本当にありがたく思っています。
 おかげで、長い間私の中で謎だった、信用創造money creatingということについて、最近ようやく見え始めたか、と思えるところまでは来ました。以下の記事は、それ以前の、とても未熟な見識も含んでいます(一番ひどい、というか他の記事との重複が大きい、と思えた一つは今回省きました)。それでも、金融の現場にはいない人間の素朴な思考の歩みの記録として、なにほどか価値があろうかと思って、再録します。少なくとも、私自身にとっては(^^;)。
 他の人にとっても、「反面教師」であっても、役に立つことを期待しつつ。

◎疑問3:(松田智臣さんより)よく財務官僚の答弁でマーケットの信用という言葉が使われますが、PB黒字化のその信用に与える影響とはどんなものなのでしょうか?また、S&Pなどの格付け会社の影響力のほどはどの程度と考えられるでしょうか?
お答え:マーケットの信用とは、例えばつぎのようなことですかね。
 「収益を大きく上回る借金によって経営している企業があるとする。誰もそんなものを信用して、株を買ったりするわけがない。いるとしたら、その企業を乗っ取ってやろうとする者だけだろう。国家だって、同じことだ。PBの黒字化、つまり、政府の正当な収入である税収の範囲で公共事業をやっていかなければ、信用は失われるばかりだ」
いや、そりゃないでしょう(😣)
 企業は、借金したらそれを返済するのにどこからかお金を調達しなければならないわけですけど、日本はそのお金を、一種の子会社である日本銀行に言って、創り出すことができるんですから。
 格付け会社については、一流証券マンとして長年勤め上げた知人(この人は、MMTはカルトのようだ、とも言ってますが)によると、「格付け機関とヘッジファンドがグルになっているという噂は事実のようだ」とのこと。
 私などに実態がわかるわけないんですけど、S&P、フィッチ、ムーディーズの三大格付け会社も、相当いかがわしい存在であると思ったほうがいいようです。
 以上で終わり、ではあんまりなんで、有名な政府文書を一瞥しておきましょう。皆さん先刻ご存知でしょうが。
 平成14年(2002)、上記三社が、日本国債の格付けを、AAA(トリプルA、信用度最高)からA(シングルA、信用有り)に下げたとき、当時は財務相の財務官だった現日銀総裁黑田東彦氏が抗議のために提出したもので、イの一番に
日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない。デフォルトとして如何なる事態を想定しているのか
とぶつけている。
 いやあ、カッコいいじゃないですか、黑田さん、この勢いで、財務省の後輩たちを叱ってやって下さいよ。
 それはともかく、その後の主張を簡単にまとめますと、
(2)日本は世界最大の貯蓄超過国にして経常黒字国、債権国であり、外貨準備も世界最高。
 だから、赤字国債と言っても、よそ(海外)からお金を借りず、国内でやりくりしている。このような経済基盤を格付け会社は考慮に入れていないようだ。
(3)各国国債間の格付けの根拠に、一貫した整合性が感じられない。
 そらまあ、韓国や中国のより日本国債は格下だ、と言われると、愛国心(身びいき)はたなあげにしても、「え~? マジ?」と思えてきますね。
 これに対しては先方からははかばかしい返事はないとのこと。
 こんなんでも、格付け会社のほうを信用して、日本を信用しなくなる人がいるわけですかね?

◎疑問4:MMTerはよく、「万年筆マネー」とか言って、銀行の「信用創造」は英語ではmoney creationなんで、お金とは、銀行が貸し出したときに生まれるものだ、銀行はゼロから、ただ通帳に金額を書き込むだけで、お金を創れるんだ、なんて言う。
 そうだとしたら、
① 誰でも、俺でも草一でも、明日から銀行を創設して、頭取になれる。
② ゼロから創り出したお金を貸して、「返却させる」とはどういうことだ。利子ともども、元金まで銀行が丸儲けか。
など、疑問が湧いてくるぞ?
お答え:これ、要するにレトリック(言い回し)の問題じゃないんでしょうか。いわゆる経済についての話というのも、ずいぶんレトリックが幅を利かすんだ、と最近わかりました。人間的な、あまりに人間的な領域なんだから、当然なんですけど。
 市中銀行には、もちろん日本銀行券、いわゆるキャッシュは創れません。預金だって、普通預金や定期預金を、万年筆で書くって言うか、今はコンピューターのキーボードを叩いて(キーストロークマネー)、それだけでこの世に出現させられるわけはないんです。もしできるというなら、私にも、元金なしで、創ってもらいたい😉。
 貨幣の価値を保証するものの一つに、希少性がありますからね。誰でも彼でも創って、同じように流通させられるとしたら、それだけで貨幣制度は崩壊するでしょう。その貨幣が、モノであっても記号であっても。
 ランダル・レイが「負債のピラミッド」というので図解しています。政府の負債→銀行の負債→銀行以外の主体の負債、の順に価値が下がっていく、と。負債、とは即ちお金のことですから、実は銀行でなくても、誰でも、IOU(借用書)というお金を発行できるのです。ただ、その信用力によって価値のヒエラルキーが形成され、流通の範囲と期間が決まる。
 と、言いますか、下の二つは、てっぺんの、政府の負債、普通に言うお金と、期限が来たら替えることができる、というのが即ち信用なんです。このへんは以前に書きました。
 因みに仮想通貨というの、政府負債と直接には結びつかないので、国家権力を相対化するんじゃないか、と国家嫌いの左翼的な人々が期待したようですが、なかなかそうはいかない。そう簡単になんとかなっちまうんでは、危なくて仕方がない。権力者じゃなくても、普通はみんな、その危惧のほうが強いんです。
 元にもどって具体例。例えば銀行が企業に1億円貸したとします。その後その企業か、そこから小切手をもらった人が来て、全部じゃなくても、1千万円を現金にしてくれ、と要求しました。
 銀行としては、ない、とは決して言えない。本当になければ、どこからか借りて払うしかない。必ずそうするのが銀行の信用ですから。
 どこから借りるか。普通は、「銀行の銀行」である日本銀行からなんでしょうね。この場合の利率を公定歩合と言う、と高校で習いました。また、担保には、その銀行が保有している国債があてられる場合が多いようです。
 ですから、銀行は、貸したお金を回収したら丸儲け、ということにはならない。逆に、返済されなかったら、そこから生じる損害をかぶらなければならない。私如きが明日から銀行の頭取にはなれないんです。
 「万年筆マネー」のキモは、それより、次の点にあるのでしょう。
 借りる人は元金+利子以上のお金を稼ぐ見込みがあるから借りるのでしょう。言い換えると、1億円以上のモノ(サービスを含む)を作って売る自信があって、1億円借りわけです。
 見込み通りなら、その企業は銀行に1億円+利子を返した後で、いわゆる粗利から、社員の給料やら税金を払います。たとえ失敗しても、そのモノを作る過程で使った材料費やら工賃は、1億円分、社会に出回ります。
 逆に、こういう借金→投資がなければ、お金は社会で流通しない。銀行の日銀当座預金にいくらあろうと、それは使えないんだから、我々一般国民にとっては、ないのと同じこと。
 お金は、銀行の貸し出しによって初めて生じる、とはつまりそういう意味だと、私は理解しております。

◎お金の話をなんとなく始めてから、多くの人からご意見をいただき、とてもありがたいのですが、どうも元来無知で無能なのでうまく飲み込めません。これ以上話をすすめるには時間がかかりそうなので、自分の立ち位置を改めて述べておこうと思います。結局言い訳になってしまうでしょうし、大して興味も持たれないでしょうが、よかったらお読み下さい。
 世の中には私には理解出来ないことがごまんとあることは、さすがに承知しています。宇宙生成の話ですとか、変形生成文法ですとか。それは黙っていても、自分の身がどうなるということもなさそうなので、専門家に任せておけばばよい。
 しかし、経済政策となると、今日明日にも日本社会が、ということは社会の一員である私個人にも、密接に関わってくる領域です。そこで、
「日本の借金1,100兆円、国民一人当り880万円」
「将来世代にツケを残す」
というような明々白々たるデタラメが公然と言われているのを見ると、これを黙っていたのではせっかく民主国家の国民でいる甲斐がない。そう思ったのです。
 私は幸にして、「これは悪い冗談みたいな話だが」と言ってくれる人(誰だか忘れました(-_-;))から赤字国債の話を聞きましたので、ダマされずにすみました。説明が必要だとしたら、例えば、皆さん先刻ご承知でしょうが、例えば次の表でもざっと頭に入れておけば。
 これによると、本年6月の時点で、国債の47.7%(約490兆円)、国債の償還や借り換え時につなぎとして使う国庫短期証券を含めても44.5%(約520兆円)を日銀が保っています。これは、事実上、国債の半分近くが既に償還済みであることを意味します。「国の赤字1,100兆円」は、この時点でウソ。
 それから、残りの国債は、市中銀行と保険会社が保っています(全体の35.6%)。国債を買うのは主にここなのでしょう。その資金は? 結局は国民のお金、というのは後に述べる理由で憚られますが、取敢えず、民間のお金が使われているんです。
 これを借金と考えても、国民の税金から返す、なんてことなら、税の二重取りに近くなります。なんと、そうではありませんか。まるっきり筋の通らない話なんです。
 これで終わりならいいんですが、まだ先があるんです。銀行が顧客から集めた預金で国債を買っている、ならわかりやすいんですけど、そうすると、
「これから老齢化で、預金を取り崩して生活する老人が増える。そうすると、預金が減るんで、銀行は国債が買えなくなる」
なんて言う人もいて。
 だいたい、これは事実ではない。「お金は、誰かが銀行から借金した時に生まれる」という信用創造論。日銀の人もあっさり認めた、言わば公認された事実なんですが、これを財務や会計の現場にいたことのない人が理解するのは容易ではない。
 我々は、
「銀行は国民から預金を集めて、それを企業などに貸し付けるんだ」
と教わってきましたからね。私も、中野剛志『富国と強兵』を読むまではそう思っていました。
 これはけっこう大きな問題ですよ。なるべくたくさんの人に同意していただけないと、「多数の意思が政策を決定する」という民主主義の原則が働きませんから。何かの利害関係やら、イデオロギーに捕らわれている人を説得するのは不可能、と私はとうにあきらめています。しかし、一応聞く耳はある一般の人の素朴な疑問にちゃんと答えられないなら、いかなる正論も、社会的な力を持ち得ないでしょう。
 個人的に、何人かと話をして、「万年筆マネー」を言い出すと、「そんなバカな」という顔をされたり、直接言われて、終わりでした。だいたい、私自身が完全に納得していないのだから、当然です。
 なんとかならないものかな、としばらく前から考えあぐねています。こんな奴の相手もしてやろう、という奇特な方々、この先もご意見をいただければ。

◎信用創造money creatingの話は私の頭の中でまだ足踏みを続けてますんで、ちょっと視点を変えて、人間の道徳心について考えてみます。
 「自分で稼ぐ金以上に借金をして、その金で暮らしていくなんて、まともじゃない」というやつ。これは、個人については全く本当なんですが、国にはあてはまらない。今や私でさえも、「そんなの、当り前だ」と思ってしまう。そこで傲慢になって、「分からない奴はバカなんだ」なんて態度になると、鼻持ちならず、この「当り前」が世間に広まる支障になります。もう少し向こう側に寄り添ってみましょう。
 例えば、「税金の無駄遣い」なる、よくある言い回し。
 先日、日曜会で法廷ものの傑作映画「検察側の証人」(1957年、ビリー・ワイルダー監督、アガサ・クリスティー原作、マレーネ・ディートリッヒ主演。「情婦」なんて、ひどい邦題がついている)を鑑賞しました。この中で、証言台のマイクをぞんざいに扱う中年女性の証人を、判事が、「それは税金で買ったものです」とたしなめる場面がありました。
 これを、「そのマイクは、政府の、返さなくてもいい借金で買ったものだ。大切に扱いなさい」なんて言ったら、説得力がない、どころか、「ふざけてるのか?」ということになるでしょう。
 1957年と言えば、いわゆるニクソン・ショック(1971年)で、金本位制が名実ともに崩壊する四半世紀前ですから、現在とは国の財務状況は違っているのかも知れない。そうだとしても、この言い回しは連綿として残っている。
 ひょっとしたら、上の「当り前」が世間一般でもそうなった後も、残るかも知れない。税収からだって、支出されないわけじゃないですし。
 よく、主流派経済学とMMTの違いは、天動説と地動説の違いだ、なんてMMT寄りの人は言いますね。
 今では、天動説が正しいんだ、と思っている人はめったにいないでしょう。しかし、「日の出」sunrise「日の入」sunsetなんて表現は普通に残っている。普通人の生活実感に合ってますからね。
 おそらく、「税金の無駄遣い」も、長く残るんじゃないでしょうか。別に害がないなら、それでもいいです。私だって、つい使ってしまうことが、今後もないとは言えない。何から買ったものだろうと、ものを大切にするのはいいことですんで。
 ただこれが。「税金泥棒」なんて、社会の特定の立場にある人々を非難するために使われると、ちょっとまずい。それは中には、いいかげんな公務員もいるでしょうが、だから全員の給料を減らせ、人数も減らせ、になると、結局は公共サービスの低下という形で国民に害をもたらす。
 それから、三橋貴明さんの言う「お金のプール論」ですか、すぐに「で、その財源は?」ときて、これが明らかにならない案は非現実的だ、とみなす思考。
 政府は税収の範囲でしかお金を使えないんだとすると、その総額が急に伸びることはない(というか、それは国民の所得を今よりたくさん取り上げることになりますので、社会に出回るお金の総量を減らす結果をもたらす)ので、他の分野に使われているお金を回さなければならない、という。
 ここまできたら、その財政観、中でも税金に対する考え方はまちがっている、と言わざるを得ない。
 これを説得するのは難しい。長い間人々の生活実感の中に蓄積されてきた金銭観と、自然に結びつきますから(社会的な特定の立場や、イデオロギーに囚われている人はここでは除きます)。
 最後に、税金からちょっと離れます。
 MMTは、お札は無限に刷れるという主張だとみなして、「そんなの錬金術だ」「打ち出の小槌みたいな話だ」と言う人々。
 MMTに関する誤解を除けば、この考え方はまちがっていません。いや、「そんなもの、ないんだ」は、この世の中の鉄則と言っていいでしょう。
 ただしそれは、お金ではなく、生産され消費されるモノ(サービスを含む)に対して言うべきなのです。
 どんな時代でも、人は、労働して、価値あるものを生産しなくてはならない。それが乏しくなったら、買うための手段であるお金の価値も自然に下がる。
 要するに、お金には最初から値打ちがあるのではなく、それが使える状態があるから、価値あるものとみなされるのです。
 ここは自分で完全に納得しておりますので、もっと表現力を磨いて、一人でも多くの人に伝えていきたい、と念願しておるのです。
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