由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

道徳的な死のために その2(特攻について)

2013年11月23日 | 倫理
メインテキスト:モーリス・パンゲ、竹内信夫訳『自死の日本史』(筑摩書房昭和61年)

サブテキスト:百田尚樹『永遠の0』(太田出版平成18年刊。講談社文庫版平成21年、平成25年第40刷)
 この本は現在文庫の中で一番売れているそうだ。確かによくできた娯楽小説ではある。宮部久蔵という、現実にはまずいないスーパー・ヒーローを物語の中心に据えて、真珠湾奇襲攻撃から沖縄戦まで、日米戦争の一面がうまくまとめられ、描かれている。
 宮部は名人の域にまで達した零式戦闘機、通称零戦の操縦士だが、「戦争で死にたくない。生きて妻子のもとへもどりたい」と公言するところが、旧日本軍中では際だって特異なキャラクターになっている。もっとも、よく考えてみると、私も小説や映画からくるイメージ以上のことは知らないのだが、それによると、大東亜戦争中の日本軍では、「命が惜しい」などという言葉はタブーだったようだ(違う、という情報をお持ちの方はご教示ください)。
 兵隊がそんな臆病なのでは戦争に勝てないだろう、と言われかも知れないが、それとは異なる観点が示されている。小隊長としての宮部が部下を諭す言葉。

「たとえ敵機を撃ち漏らしても、生き残ることが出来れば、また敵機を撃破する機会はある。しかし―」「一度でも墜とされれば、それでもうおしまいだ」「だから、とにかく生き延びることを第一に考えろ」

 戦争に勝つためには、こちらは生きて、多くの敵を殺したほうがいい、だからなるべく生き延びるように心がけるべきだ。これは正論ではないだろうか。美しくないだけに、なおさらそう感じる。山本定朝の言う「武士道と云ふは、死ぬ事と見付たり。二つ二つの場にて、早く死方(しぬかた)に片付くばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也」などは、むしろ平時の武士の心がけを説いたものだ。思うに、戦争とはもっと汚いものなのだ。
 汚い話の実例も『永遠の0』中に書かれている。宮部は空中戦で敵機を撃ち落としたとき、向こうの操縦士がパラシュートで脱出するのを見つけたら、それをも機銃で撃った。これが彼の評判を悪くしたもう一つの要因となった。空中戦では、相手の飛行機を破壊すれば終わり、そこから脱出した兵士は、見逃すのが「武士の情け」だと思われていたから。宮部は、そんなものこそ無用な綺麗事だと言う。

「自分たちがしていることは戦争だ。戦争は敵を殺すことだ」「米国の工業力はすごい。戦闘機なんかすぐに作る。我々が殺さないといけないのは搭乗員だ」

 実際、戦争の中盤以降、日本軍は武器弾薬から食料医薬品に至るまでの物資面と同じく、あるいはそれ以上に、経験豊かで優秀な戦闘員の不足に悩まされた。特に、まともに戦えるようになるまでには極めて高い練度を要する戦闘機乗りが、ミッドウェイ海戦からガダルカナル島争奪戦を経てマリアナ沖海戦までに至る過程(昭和17年4月~19年6月)で、数多く戦死したことは、太平洋で戦う帝国海軍の首をじわじわと締め付けていった。これを要件の一つとして、特別攻撃作戦、略して特攻、連合軍からはKamikaze Attackと呼ばれて恐れられた、世界の戦史上類のない戦法が実施されたのである。

 最初の特攻は昭和19年10月、レイテ沖海戦での神風(当初は「しんぷう」と呼ばれた)特別攻撃隊によるものだった。この隊は20日に結成され、21日から出撃したが、悪天候のためになかなか米艦隊まで到達できず、25日になってから、空母セント・ローに激突、沈没させる、などの成果を挙げている。
 当初はこれはこの時限りの、それこそ特別な攻撃だと多くの人が思ったようだが、すぐに常態化した。その経緯は、この25日、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将が、マニラ方面にいた飛行隊長以上の指揮者にした説明に、一番簡潔に示されている。森史朗『特攻とは何か』(文春新書)から引用する。

一、(前略)現在の大編隊の攻撃では、攻撃隊は目標を見る前に、敵戦闘機に迎撃され撃墜されてしまう。
二、しかし、索敵機のような単機ないし少数機ならば目標まで接近できる。現に今回敵空母を撃沈した彗星艦爆は単機毎の攻撃であった。
三、だが、現在の技倆では少数機により命中弾を得ることは極めて困難である。しかも、攻撃後の生還はほとんど望みがない。
四、どうせ死ぬならば、体当たりによって大きな損害を与えることこそ本望であろうし、そのような任務を与えることこそ慈悲であると思う。


 論理的、ではありますな。この時点で帝国海軍最大の目標は、日本列島に迫り来る米艦隊をなんとか止めることになっていた。しかしそのために多数の攻撃機を行かせたのでは、敵艦隊にたどり着く前に発見されて撃ち落とされてしまう。少数ならたどり着けるが、それでも敵の援護機や艦隊からの砲撃でこれまた撃ち落とされてしまう。さらに、促成した現在の多くの搭乗員(多くは昭和18年から徴兵された学徒兵が充てられた)には、敵艦に爆弾を当てるほどの技術がない。つまり、海戦のために打つ手はもはや、ない。まだしも有効なのは、飛行機ごと艦船にぶつかり、損害を与えることだ。「どうせ死ぬならば」…。日本の兵(つわもの)が、本当に「大君の辺にこそ死なめ」を念願するなら、ここがロドスだ、さあ跳べ! と文字通り命懸けの跳躍が行われた。
 言い換えると、なすすべもなくアメリカ軍に撃ち落とされるばかりなら、命と引き替えに一矢報いる道を与える、それが「慈悲」だ、と言ったとき、大西は、いや日本軍全体が、ある一線を越えた。狂瀾を既倒に廻らす方途を論理的に詰めていって、いわばそれを助走にして、倫理の壁を跳び越えたのだ。そのことを大西は自覚していたのだろうと思う。何しろ後に、これは「統率の外道」=「外道の戦法」だと漏らしたと言われているくらいだから。上の説明の最後には、「この案に反対する者は叩き斬る」と言い放ったらしいが、それもつまりは後ろめたさを感じていたからではないだろうか。自分の正しさに充分な自信があるなら、反対者を一人一人粘り強く説得しようとしただろう。
 別人の例。昭和20年4月、沖縄に来襲した米軍に対する菊水作戦が始まると、第五航空艦隊長官宇垣纏(うがき まとめ)中将は旗下の全機に特攻を指示した。出撃時には可能な限りはなむけの言葉を贈ったのだが、その折一人の准士官が、「本日の攻撃において、爆弾を百パーセント命中させる自信があります。命中させた場合、生還してもよろしゅうございますか」と尋ねた。宇垣は「まかりならぬ」と、即座に大声で答えた(岩井勉『空母零戦隊』より)。
 この准士官が言葉通りの技倆の持ち主だったとしたら、複数の敵艦を撃破できたかも知れない。特攻では最良で一機につき一艦撃沈のみに決まっている。戦術としてこれを見れば、この場合は明らかに損なのだ。しかし、大西や宇垣にとって、もうそういう問題ではなくなっていた。兵を、あくまで兵として、美しく死なしめること。それが戦争に勝つことより大事だった。それで初めて、全体として果たしてどれくらいの戦果があるのかを度外視して、特攻作戦を継続できる。
 逆に、たいして有効ではないから、という理由でこの作戦を見直すとしたら、今までに死んだ隊員は無駄死にだ、と見えてしまうだろう。つまり、跳び越えてしまった以上、もう元にはもどれなかったのである。もっとも、特攻を推進した軍幹部の中でも、そう理解していたのはごく少数だったらしい。
 大西瀧治郎は、8月16日に、腹心だった児玉誉士夫からもらった刀で割腹自殺し、宇垣纏はそれより早く15日正午の玉音放送を聞いた後で、艦上爆撃機(略して艦爆)彗星に乗って、僚機十機を従えて最後の特攻として沖縄沖へ飛び立っていった。これを責任のとりかただとすれば、「多くの若者の命を奪っておいて、老人が腹を切ったぐらいでなんだ」という意見も出るだろう。それは『永遠の0』にも書かれているが、私はむしろ、彼らは自分たちの作った美しい物語の内部に入り込んでしまっていたので、死をもってそれを完結する以外にない、そういう心境だったのだと考えている。
 ただ、生身の人間が、過酷な物語の中に敢えて止まって最期を迎えるのは、いつの時代でも難しい。だからこそ、英雄は希少な存在なのだ。この二人以外の特攻指導者の多くは、けっこう戦後まで生き延びてしまっている。因みに陸軍では、この理由で自決した将官は一人もいない。

 
 それなら、「慈悲」をかけられて、若い命を散らしていった特攻隊員達は英雄なのだろうか。そうとしか言いようがない。英霊、確かに彼らはそう呼ばれるに相応しい存在ではあった。どういう意味で? 自己犠牲の化身として。
 多数とは言えなくても、価値ある何かのために自分の身を捧げる高名な、あるいは無名の英雄は、どこにでも、いつの時代でも、いる。今年我々は、猛吹雪の中、幼い娘を庇って、自分は凍死した父親のニュースを知らされた。その荘厳さに心をうたれない人は稀だろう。それでこのような物語はアメリカ映画「タイタニック」(ジェームズ・キャメロン監督)や「アルマゲドン」(マイケル・ベイ監督)など、エンターテインメントにも多数取り上げられ、見る人の涙を誘ってきた。ネタバレになるが、『永遠の0』もまた、日本軍や特攻作戦そのものは批判しながらも、主人公に自己犠牲の死を遂げさせて、ヒーロー像の画竜点睛としている。
 これでもわかるように、戦争という、人命を軽んじなければならない際でも、積極的ないわゆる捨て身の働きはしばしば感動的に語られる。それも日本のお家芸ではない。ミッドウェイ海戦時、対空砲火に被弾したSB2Uヴィンディケ-ター機のリチャード・E・フレミング大尉は重巡洋艦三隅に激突した。そうしなくても死んだ可能性が高いのだろうが、そうだとしても体当たり攻撃など、なかなかできることではない。アメリカ人にとってもそうである証拠には、彼には死後に名誉勲章が贈られているそうだ。
 この延長上に特攻隊員も当然位置づけられる。モーリス・パンゲはこう言っている。

敵だけでなく、平和の到来を今か今かと待っているすべての人々が、彼らのその行為が戦争を長引かせていると思って、それを狂信だと言い、狂乱だと言って非難した。だが人の心を打つのは、むしろ彼らの英知、彼らの冷静、彼らの明晰なのだ。震えるばかりに繊細な心を持ち、時代の不幸を敏感に感じとるあまり、おのれの命さえ捨ててかえり見ないこの青年たちのことを、気の触れた人間と言うのでなければ、せいぜいよくて人の言いなりになるロボットだと、われわれは考えてきた。(中略)しかし実際には、無と同じほどに透明であるがゆえに人の目には見えない、水晶のごとき自己放棄の精神をそこに見るべきであったのだ。心をひき裂くばかりに悲しいのはこの透明さだ。(P.346)

 特攻隊員の遺書に折々見出すことができる不思議な清澄さを評するのに、私はこれ以上の言葉を知らない。それにまた、私のような凡庸な俗人は、この「水晶のごとき自己放棄の精神」など生涯無縁であろうと、すぐに得心できる。
 そういうわけで、私などとは精神の次元を異にする英雄がいることには同意するのだが、その前提として、パンゲが、特攻隊員の死は自由意志によるものだった、と言うのには異論がある。と、言うより、それが強制されたのか自発的だったのか、などという議論には意味がないと思う。それはパンゲにもわかっていたのではないだろうか。彼はこうも言っているのだ。「太平洋戦争が何か新しい物をもたらしたとするならば、それは〈意志的な死〉の計画化というものであった――あらゆる自由を組織化することに血道をあげている現代という時代に、それはいかにも似合いの発明品であった」(P.341)
 最初の時には大西が確かに彼らが志願するかどうか尋ねている。後にもそういうことはあった。志願する者は皆の前で態度を明らかにするのではなく、紙に名前を書いて提出したり、一週間以内に指揮者に個人的に申し出たケースもある。しかしいずれにせよ、特攻も何度も繰り返され、人間魚雷回天によるものなどを加えて戦死者が五千人以上にも及んだということは、この作戦がシステム化され、ルーティン化された、ということである。
 特攻隊員は、システムに乗って、いわば自動的に死んだのである。作戦上の効果もそうだが、彼らの死の意味、つまりは生の意味が考慮されることなどあるべくもなかった。そこで彼ら一人ひとりがそれこそ必死で考えたことのいくつかが、遺言として残され、後の我々を粛然とさせる。
 それにつけても、これはやっぱり外道の戦術であり、最悪のシステムだったと思う。『永遠の0』では、軍上層部は一般兵士など将棋のコマぐらいにしか考えていなかった、と批判されている。それは、戦争である以上、いつの時代でも、どの国でも、幾分かはそうなるだろう。アメリカも、例えば日本に上陸したら兵士の損耗(この言葉だけでも、わかりますわな)はどれくらいに及ぶか見積もった上で、原爆を投下したのだし、日露戦争時の旅順攻撃など、特攻とほとんど変わらない有様だったことは当ブログでも以前に書いた。それでも、紙一重でも、五十歩百歩でも、越えてはならない一線はあるのだと思う。
 例えばこう言えばいいだろうか。九死一生の激しい戦いを生き延びた者は、英雄になることがあり、そうでなくても自軍に帰れば温かく迎えられることは期待される。十死零生では、というかそもそも作戦成功の必要条件に自分の死があるのだから、生きていることは失敗でしかない。事実、悪天候や飛行機の不調で基地に戻ってきた隊員たちは、たいへんな焦燥を感じなければならなかったようだ。生を根底から否定するようなこんな試みは許されない。それを我が国はかつてやったのだ。大東亜戦争の反省として、第一に銘記すべきことであろう。
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道徳的な死のために その1(切腹について)

2013年11月08日 | 倫理
メインテキスト:モーリス・パンゲ、竹内信夫訳『自死の日本史』(筑摩書房昭和61年)

 長谷川三千子氏の近著『神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日』を題材にして、著者にもお越し願って、先日読書会を開いた。そのとき、長年考えていたことを口にすることができた。もっとも、口頭で思いをきちんと伝えるのはいつも難しい。だから多少とも読んでくれる人がいることを期待して、例えば今ここで文を綴っている。以下に、その時言ったことを改めて、枝葉をつけて、述べる。
 それは、日本人はなぜすぐに死にたがるのか、死を美化する傾向があるのか、ということである。
 もっとも、性急に「日本独特」だなどと言えば、まちがいになってしまう。「美しい死」の観念なら、世界中にある。モーリス・パンゲの著書は、「プルターク英雄伝」に描かれている、宿敵ジュリアス・シーザーとの戦いに敗れて、腹をかっさばいて、即ちその後「ハラキリ」と呼ばれるようになった方法で死んだカトー(小カトー)の話から始まっている(B.C.46)。降伏すれば、シーザーはカトーを殺すまでのことはなかったろう。しかし、この敗北によって、ローマに帝政が敷かれることは確定的となった。共和制のために生涯戦い続けてきた者が、どうしてそのような国で生き続けることができよう。信念に殉じた、最も誇り高い生き方としての自死。後にセネカは、この死を、この世で最も美しいものと呼んだそうだ。
 日本と違うのは、このような死が、賞賛されることはあっても、様式化され儀式化されるまでのことはなかった点だ。その要因の第一は、やはりキリスト教であろう。人に生命を与えたのは神である、とすれば、その命を自分の手で捨てることは神に対する反逆であり、罪である。こう明確に定めたのは聖アウグスティヌスであるらしい。そうすると、「美しい死」は、殉教、つまり節を曲げずに敵に殺されることしかなくなる。
 一方日本では、個々人はもとより「人と人との間」をも完全に超越した上位の審判者は、少なくとも一般的には考えられなかった。そこでは、「人からどう見られるか」が究極の価値とみなされがちになる。すると、「美しい(そう見える)死」の価値の底上げが起こる。あまりにも広大かつ複雑微妙な問題を単純化する弊を気にしなければ、そう言えるであろう。

 少しは具体的にわが国の切腹の様相を、『自死の日本史』から見ておこう。
 自刃という死に方そのものは平安時代からあったようだが、本格的な様式化を遂げたのは江戸時代からと考えてよいようだ。
 源義経は日本史上最も早い時期に、ちゃんとした割腹自殺を遂げた武将の一人ということになっている(1189年)。「義経記」によるとその最期はこうだ。兄頼朝からの圧力に屈して敵方にまわった藤原泰衡の軍勢に囲まれた義経は、奥州平泉の衣川館で最期を迎える。「さて、そろそろ自害の刻限のようだ。で、自害はどうしたらよいと言うのだろう」と義経が問うのに郎党が答えて、「佐藤兵衛(忠信)のやり方こそ、後々まで人のほめるものでありましょう」。忠信は三年前、義経の身代わりとなって京の堀川で奮戦、最期は切腹して果てていた。義経は、「けっこうだ。傷口は広いほうがよいな」と、鞍馬山時代から愛蔵していた刀を採り、左乳の下から突き通すと、傷口を三方に掻き破って腸を繰り出し…。
 「義経記」は、義経の時代から二百年ほど後、南北朝時代か室町時代の初期に書かれているので、実際の彼の死がこのようなものであったかどうかは分からない。むしろ、理想的な英雄とされた義経の死に方として、「義経記」の作者か、それ以外の誰かが与えたものとしたほうがいいだろう。逆に言うと、鎌倉時代末ぐらいまでには、切腹こそ武士に相応しい自死のやり方だという観念が定着してきていたのであろう。
 その南北朝時代を描いた「太平記」には、かなり一般的にはなったものの、まだ様式化にまでは至っていない、荒々しい切腹の描写が随所にある。中でも、鎌倉幕府の最後、東勝寺に落ち延びた北条氏得宗高時と一門が集団自殺を遂げる、その有様の凄絶さは無類である(1333年)。それは一種の宴であった。

(試訳)さて長崎高重が走り回り、「早々に御自害なされ。お手本を見せましょう」と、弟新右衛門に酌をさせると、三度飲み、その杯を摂津入道道準の前に置き、「一献さしあげる。これを肴にしたまえ」と、刀で左脇腹から右まで長く切り、腸を手繰り出して、道準の前に倒れ伏した。道準は盃を取り、「けっこうな肴じゃ。どんな下戸でもこれで飲まぬ者はなかろう」と戯れ、盃から半分ばかり飲んで、諏訪入道直性(じきしょう)の前に置くと、同じく腹を切って死んだ。直性は盃を静かに三度傾けると、相模入道(北条高時)の前に置いて、「若者どもがずいぶん芸をつくして見せたのに、年寄りがなんとしましょうぞ。今後は皆様これを私からの肴としていただきたい」と、腹を十文字に掻き切って、刀を相模入道の前に置いた。

 死を前にして血まみれになり、苦痛をこらえながらの、ブラックジョークの応酬。これこそ武士が備えるべき勇気と克己心をこの上なくよく示す実例と思われたのに不思議はない。だがそれだけではない。ここには多分にマゾヒスティックな、自虐の喜びがありそうだ。それはパンゲも指摘している。
 しかし、そのような隠微な喜びは、日本人には明治期まで一般には明らかにされなかった。おかげで切腹は、見た目の、禍々しさを裏地とした華々しさのため、武士に相応しい死に方、さらには、武士の特権とさえ考えられるようになった。死ぬ理由も、敗北死の他に数種数えられるようになる(以下の例は『自死の日本史』からではない)。
 まず、命と引き替えに主君に意見する「諫死」がある。戦国時代織田家に仕えた平手政秀は、傅役(もりやく)を勤めた信長の行状が父信秀の死後家督を継いでからもいっこうに改まらないので、諫めるために切腹して果てた(1553年)。
 それから、主君が死んだ後の後追い自殺としての「追い腹」、またの名を殉死。森鷗外「阿部一族」(大正二年)に、江戸時代初期、寛永年間(1640年代)の、肥後熊本藩におけるその様相が描かれている。普通に言ってなんら死ぬべき理由のない者が自死する不合理には、さしもの日本的美意識でも耐え難かったのだろう、寛文三年(1665)には幕府は禁令を出している。しかし明治時代、乃木希典が明治天皇に殉じて切腹しているのは有名で、「阿部一族」はその事件の影響下に書かれた可能性がある。
 恥をかいた/かかされた、と感じた場合でも武士は死ぬべきだとされた。山本常朝「葉隠」(1717年頃)が言葉にしたのはこれである。ただここでは、恥ずべき状態に陥ってから死ぬのは遅いので、それを避けるためには、少々先走りに見えても死ぬのがよい、と言われている。「阿部一族」の阿部弥一右衛門は、殉死しなかったのを「臆病なせいだ」と陰口されているようなのを憤って切腹する。しかしこれは彼に殉死を禁じた亡主細川忠利の遺命に背いたことになり、ここから阿部一族の悲劇が始まる。以上は史実ではないが、江戸期に出版された「阿部茶事談」に記されており、「君命に従う」と「恥をかかない」という武士の二大徳目が、いつも両立するわけではないことは、当時からある人々の目には映じていたことがわかる。それが思想的な課題とまでされたのは明治以降だというだけである。もちろん山本常朝には、こんな問題意識はない。
 それから、必ずしも自分が望んだわけではなく、周囲からの圧力によって切腹にまで追い込まれる場合は、「詰め腹を切る/切らせる」という成句を現在まで残している。幕末の長州藩で、長州征伐に至るまでの国難(この場合の「国」は「藩」)を回避できなかった責めを負って自決した周布(すふ)政之助あたりが代表例だろう(1864年)。それより先、藩論が攘夷一色になっていく時期に開国論を唱え、周囲から恨みを買った長井雅楽(うた)も腹を切っているが、こちらは藩主からの上意を受けてのことである(1863年)。おそらく数としては、後者のような、賜死としての切腹が一番多いだろう。この場合、咎がありながら、武士らしい死を与えられた、というので、光栄だとされた。切腹をめぐる話の中で、ここが一番ヘンだと、私には思える。
 ヘンなところは他にもあるので、そこからいこう。あらためて、武士の特権としての切腹の性格とはなんだったか。江戸時代という平和な時代に、戦争の専門家である武士が特権を保つために、彼らには日常から戦場にあるような(常在戦場)緊張感が求められた。卑怯な振る舞いがあったときにはただちに自らを裁く、それも非常にむごたらしい、苦痛を伴うやり方で。それこそが、士農工商の最上位として、人の上に立つに足るモラリティの徴であった。それが今日でも、もちろんお話としてはだが、あまり疑われないようなので、日本人というのは人がいいのだな、と感心する。
 むごいたらしいという意味で見た目が派手で、苦痛もべらぼうに大きいという、いわば形式面を考えてみよう。江戸時代には磔刑(たっけい)、あるいは磔(はりつけ)と呼ばれる残忍な刑罰があったのは周知だろう。柱にくくりつけられた罪人の腹を、両側から槍で何度も刺していくというもので、グロテスクな点でも痛いという点でも、切腹にひけをとるとはとうてい思えない。この刑を受けたのは庶民である。「自らの手で自らを裁く」ところが切腹のポイントだとも考えられるのだろうが、江戸時代、それは様式化された。様式化とは形式化ということで、形式化されたものはほぼ必然的に形骸化する。平和に慣れた武士では、自分の腹に刀を突き刺すことなどできない場合もあり、「扇腹(おうぎばら)」と言って、刀の代わりに扇子や木刀を三方に乗せたものが用意され、それを持った動作を合図にして介錯人が首を切る、実質的に斬首となんら変わらない切腹もよくあったようだ。
 内容面で、自決によってすべての罪も恥も解消される、という考え方はどうだろうか。死者を鞭打たない、というのは、日本人の美質の一つであると私も思うけれど、そこから「死ねばすべてが許される」→「何をしても死にさえすればいい」にまで至れば、明らかな短絡、あるいはすり替えがあるように感じられる。

 明治七年に出た「学問のスゝメ 第十篇」で、福沢諭吉はいわゆる忠臣義士を批判する論を述べて、物議を醸している。この部分が「楠公権助論」として知られているのは、福沢は名を挙げているわけではないが、この時代楠木正成が忠臣の代表とされていたからである。一方権助のほうは、愚昧な下僕の仮名として文中で使われている。
 その論に曰く、政府が暴政を行うとき、その下にある身の処し方のうち、最も優れているのは、一身の危険を顧みず正道を唱え続けることである。結果命を落としても、「失ふところのものはただ一人の身なれども、その功能は千万人を殺し千万両を費したる内乱の師(いくさ)よりもはるかに優れり」。一方、日本で名高い忠臣義士と言えば、「己(おの)が主人のためと言ひ己が主人に申し訳なしとて、ただ一命をさへ棄つればよきものと思ふは不文不明の世の常なれども、いま文明の大義をもつてこれを論ずれば、これらの人はいまだ命の棄てどころを知らざる者と言ふべし」。ただ主人への申し訳のために自死した者を義士と言うとしたら、主人の使いで預かった一両の金を紛失したので首を縊る下僕は珍しくない(そうですか?)が、これもそう呼ばれるべきだろう。いずれも同情の涙は誘うとしても、文明の進歩に寄与するところはない。
 こう言ったからといって福沢は、日本人の、「潔さ」に感動する傾向と無縁だったわけではない。明治三十四年、彼の死後に、本来出版を予定していなかった「丁丑(ていちゅう)公論」と「瘠我慢の説」が合本として出た。前者では、西南戦争で斃れた西郷隆盛を、武力を使ったやりかたは悪かったにせよ、政府に抵抗する精神を示したものとして称揚している。それはまだしも上の説と整合しているが、後者では、幕閣でありながら節を曲げて、維新後新政府に仕えた勝海舟と榎本武揚を、一国を支えるべき痩せ我慢の精神を欠いたものとして批判している。しかしこの精神が、「文明の進歩」にはどう役立つのか、理解するのは容易ではない。
 このような矛盾は、福沢一個に即してみれば、彼の魅力を増すものだと私は思うが、この世で倫理的であろうとするときの難しさの一端を示してもいると思う。ただ「正しい」だけで、「美しい」とは感じられないものには、人を動かす力は乏しい。一方「美しさ」に酔った人々が世に厄災を惹き起こすことも数多い。そうであれば、「美しい行為」の理非曲直を見極めようとする努力は必要であろう。それ自体は少しも美しくないにしても。

 関連して私が一番不思議だと思うのは、二・二六事件の青年将校たちが抱いた、「天皇から賜る、栄光としての死」という観念である。美津島明さんのブログに発表させていただいた「書評もどき 長谷川三千子『神やぶれたまはず』 その3 三島由紀夫の「忠義」」に略記したことを、ここで蒸し返す。
 昭和十一年二月二十八日、蹶起部隊は直ちに原隊へ戻るべし、という内容の奉勅命令(天皇からの直接の命令)は出されていたが、それはなぜか当該部隊にはきちんと届けられていなかった。この時蹶起将校の一人栗原安秀中尉が「(天皇に)お伺い申上げたうえでわれわれの進退を決しよう。もし死を賜るということにでもなれば、将校だけは自決しよう。自決するときには勅旨の御差遣くらいを仰ぐようにでもなればしあわせではないか」(高橋正衛『二・二六事件』より孫引)と言い出し、皆が賛成した。この願いは山下奉文(ともゆき)少将から本庄繁侍従武官長を通じて昭和天皇に伝奏された。それに対するご返答は、「自殺するならば勝手に為すべく此の如きものに勅使など以ての外なり」であった。
 これは『昭和天皇独白録』では、「勅使」ではなく「検視」と言われている。よくわからないが、勅使案が天皇に一蹴されてから、本庄が、ではせめて検視の者を、とでも言ったのかも知れない。それに対して昭和天皇は、「然し検視の使者を遣はすといふ事は、その行為に筋の通つた所があり、之を礼遇する意味も含まれてゐるものと思ふ。/赤穂義士の自決の場合に検視の使者を立てるといふ事は判つたやり方だが、叛いた者に検視を出す事は出来ないから、この案は採り上げないで、討伐命令を出したのである」。
 天皇が、討伐命令ではなく、誰かに直接「死ね」という内容の勅使を送ったことは、日本史上例がないのではないかと思う(もし、ある、という場合にはご教示ください)。検視でも同じことで、検視役正使は、君主からの切腹命令を伝えた後、ちゃんと切腹が成し遂げられたことを見届けるのが役目である。それを天皇が送れば、即ち死の命令が天皇から出たということになる。
 赤穂浪士に徳川幕府から切腹の命が出され、検視役も派遣されたのは、温情と言えるだろう。家禄を離れた浪人はもはや武士ではなく、罪を犯せば農工商の一般庶民と同じように罰せられるのが通例だから。吉良邸に討ち入ったのが押し込み強盗と殺人の類とされたら、四十七士は磔か獄門になったであろう。それを武士の「特権」である切腹に処したのは、仇討は美徳と認められていたし、また事件当時から彼らの人気が非常に高かったので、「礼遇」の必要が感じられたからだろう。
 ただし基本的に、命じられて切腹するのは、刑死の一種であることにはなんの変わりもない。「御馬前の死」=「戦場での討死」と同列に見られるようなものではないのだ。武士として最低限の面目が保たれていることは事実であるとしても、それ自体が栄光ある死だ、などとどうして考えられるのか。ここにはどうしてもある種の短絡ないし転倒があるとしか思えない。
 二・二六の蹶起将校の場合、「その行為に筋の通つた所」があると陛下に認められたとしたら、それは光栄でもあろう。が、それでもなお、三島由紀夫が「英霊の聲」(昭和四十一)年)で言ったように、死そのものが嘉されるわけではない。一番大きく見て、彼らの死は端的に、クーデターの失敗を意味する。そんなことはどうでもいい、と思っているらしいところが、三島などの独特なところで、また私には理解しがたいところである。
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