由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

子どもだって犯罪ぐらいできる

2023年02月28日 | 教育
Yahooニュース令和5年2月15日より

 今回は、以前に北海道のいじめ事件その他をとりあげたときに述べたことを、改めて、できるだけ明確に言ってみたい。
 最近千葉の名門公立高校の、盗難事件がネット上で話題になっている。どこまで正確かはわからないが、だいたいはこんなことらしい。
 この学校では今年の2月になってから学校内で金の盗難事件が相次いだ。それについて学校側は有効な対策を何も採らなかった、と少なくとも生徒の目からは見えた。そこである生徒が撮影モードにしたスマホを教室の中に仕掛けておいたところ、移動教室での授業で、HR教室が空っぽだったときを狙って同級生の荷物を漁っている者の撮影に成功した。この証拠映像を持って教師に訴えたところ、「この映像は消去して、拡散しないように」と言われた。にもかかわらず、動画はSNS上に流出した。
 窃盗をはたらいた生徒にはなんのお咎めもなかった、という記事もあるが、しかし『集英社オンライン』の、同校教頭のインタビュー(2月16日配信)によると、彼は保護者といっしょに盗んだ生徒に謝罪、金を返したうえで、謹慎処分になったとのこと。これが常道だ。
 自分が教師として体験したことを、20年以上前なのでもう時効だと思えるので言うと、校内で何度か同級生の金を盗んだ男子生徒が捕まった。この時彼は大パニックに陥って、泣き喚いたが、すぐに保護者に連絡して、上に書いたような処置をした。被害者側は親も子どもも納得した。しかし加害者の方は、二週間の謹慎が明けても学校には戻らず、そのまま退学していった。
 件の千葉県の高校ではどうなったかはわからない。一般的に、こういう事態は、学校という狭い社会内に知れ渡らないわけにはいかない。SNSがあってもなくても、人の口に戸は立てられないのだ。結果、犯人がいづらくなって去る、つまり結果的に退学処分になるのと同じことにあるのもごく普通だろう。学校でなくても、会社でも役所でも同じこと。むしろこう問うたほうがいい。学校は、社会内の他の組織・機関とは別様であるべきなのか? なぜ? どんなふうに?
 逆向きに考えよう。「学校はなんで、被害者ではなくて、加害者をかばうんだ?」などと言う人がいるが、学校が、つまりは教師が、なんらかの犯罪的な行為をした生徒に対して、一切配慮しないとしたらどうだろう? 公立学校の教師は公務員なので、守秘義務がある(国家公務員法第100条1項、地方公務員法第34条1項)。誰が何をしたか、マスコミを含む第三者に言ったりするのは明らかにダメ。
 ただし法律の話なら、告発義務もある(刑事訴訟法239条2項)。法文は「官吏又は公吏は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない」。この前の第一項の主語は「何人も」で、以下同じ文が続いて、最後が「告発をすることができる」。公務員用は、厳しく、「告発をしなければならない」と、義務化しているわけだ。解釈の余地はあるだろうが、公立学校教師は、生徒が窃盗(万引きなどを含む)やいわゆるイジメのなかでも、暴言暴行、脅迫、明白ないやがらせ、などがあるとわかったら、警察に届けなくてはならない、と自然に読める。
 しかし、このような件で教師が、義務を怠ったとして処分された例を私は知らない、どころか、この法の適用が議論されたこと自体もなかったのではないだろうか。生徒が万引きをしたことがわかった、では警察に通報しなければならないはずだ、なんて誰の頭に浮かぶだろう。逆に、そういう場合には公的な、社会的な制裁からは生徒を庇うのが教師だ、と普通に思われている。そうでしょう?
 思いを言葉にすると、「どんな生徒でも(即ち、犯罪・非行に走った生徒でも)、なるべく将来の傷にならないように図ってあげるべきだ」になるだろう。教師とはそうあるべき者だされているので、「あの子(犯罪を犯した生徒)にも未来がある」という発言が出てくる。千葉県の教師はそう言ったらしい。これを進めれば、北海道旭川の中学校教頭の「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか」という発言になる。結果として、学校は加害生徒のみを庇うのか、と言われるような事態にもなるのである。

 これが私の思い込みではない例証としては、昭和47(1972)年に提訴された通称「内申書裁判」がある。現在世田谷区区長をしている保坂展人が、千代田区と東京都に対して、国家賠償法に基づく損害賠償の訴訟を起こしたものだ。このブログで以前に詳述したが、今摘要だけのべると。
 保坂はこの前年、東京都千代田区麹町中学校を卒業したが、受験した公私の全日制高校すべてに不合格となっていた。それは、内申書(調査書が正式名称だが、中学校から高校へ送られるものについては、慣習的にこう呼ばれることが多い)に、在学中の政治活動について、詳細に、また否定的に記載されたためであると考えられた。これは憲法一九条の定める「思想及び良心の自由」、二一条の「表現の自由」、二六条の「教育を受ける権利」に違反したものだというのが提訴理由になっている。判決は、54年の東京地裁では原告勝訴になったが、58年の東京高裁、63年の最高裁ともに敗訴になっている。
 原告側弁護団の一人だった中川明は、著書『学校に市民社会の風を』の中で、当時は開示請求は認められていなかったはずだが、何かの伝手で目にすることができた件の内申書の、備考欄の全文を引用し、「これが教師が生徒の合格を祈って書かれたものだと言えるでしょうか」と述べている。書かれていることが事実だったかどうかは問題にされていない。彼の目から見ても、事実だったのだろう。しかしそれが進学・就職の際に不利になることなら、伏せておくのが常識なのだ。中川や、仙石由人(後に民主党代表代行になった)のような、左翼的な人たちのとっても、そうだった。
 さてしかし、彼らから見て許せない中学教師たちを法的に罰したいと思っても、これがなかなか難しかった。何しろ、これから入学・入社しようとしている者はどういう人間か見るために、試験以外の資料として使われる文書に、本当のことを書いたのはいけない、ということになるのだから。それで前記のように、憲法まで遡って、「思想及び良心の自由」だの、「表現の自由」だのまで持ち出して罪責を問わねばならなかった。どういうふうにかと言うと、進学・就職に大きく影響する文書に、自分の不利になることを書かれると思ったら、その恐れから、自己の思想及び良心を自由に表現できなくなるから、云々。
 どうも苦しいように思えるし、実際この訴えは結局通らなかった。ただ、最高裁の判決文もけっこうヘンだと思えるのだが、それは以前の記事を見てください。法の専門家とは、つまりは辻褄合わせが仕事なのだと思えば、こんなものかとも言えるだろう。第一、この弁護団には、法律以外の大きな味方があった。世間の思い込みである。教師は、学校の秩序より法の遵守より、生徒の将来の幸福を慮るべき者だ。それが、進学・就職に不利になるようなことをわざわざ書いて先方に伝えるなど、とんでもない。
 だから、「この生徒は一年生の時万引きをして補導された」「同級生をいじめた件で指導を受けた」なんぞと書いてはならない。これは学校では、誰の頭にも疑問が浮かばない常識、いや、常識以前としても過言ではない。そこからの流れとして、問題生徒でもその問題をできるだけ外部から隠そうとするのも、ごく自然な話だろう。
 もちろん学校外で万引きや恐喝や暴行をして、警察に補導されるケースは少なくない。その場合には、児童自立支援施設や少年院で矯正教育を受ける。それがいつもうまくいくわけではないが、こちらは普通の学校と違って、そのための専門機関である。もっと活用してもいいのでは、などと言えば不謹慎に聞こえるだろうか?
 実は1970年代の、いわゆる校内暴力期には、学校が警察に通報、結果として前記の機関に送られた中高生もかなりいたようだ。それがはっきりしないのは、学校はできるだけ隠そうとするからだ。理由は上に述べたことで十分だろう。結局、教師は自分たちの評判を落としたくなくて生徒の不祥事を隠すのだろう、という人も多い。それは強ち否定しないが、その評判自体、このような世間一般の思い込みから来ていることを見ないとしたら、公平に欠ける。

 そこで実際に困るのは、加害者と被害者が歴然としている、広い意味の刑事事件の場合。加害生徒のことだけ考えるなら、学校の「指導」ですませたほうがいい場合は実際にあるだろう。しかし、何よりも第一に考慮されねばならないのは、被害者の救済である。金を盗まれたり、暴行・暴言を含むいやがらせをされた者が、加害者の更生につきあわねばならない義理はない。取り調べや償いの過程で該当者の情報が外に漏れて、悪評が立つのも、やむを得ない。
 また被害者には、加害者を告発する当然の権利がある。一般論としては、誰も否定しないであろう。しかし加害者・被害者の双方が同じ学校の生徒であるときには、これがけっこう難しい。「身内意識」が働くからだ。内部の恥を外部に晒すことは、その集団全体を貶めることになる、それは、加害事実と同様、時にはそれ以上にやってはいけないことのように考えられる。公的にそれをした人を咎めるわけにはいかないが、日本、だけではないだろうが、この国には特に強いと言われる同調意識から、陰湿な「仲間はずれ」の対象にされてしまう(これ自体が明らかないじめだ)。その場所にいづらくなり、実質的に追い出されてしまう結果になることも珍しくない。
 このような圧力が無意識のうちにも働く結果だろう、同じ学校の生徒同士で被害を警察などの外部機関に訴えた例を、私は寡聞にして知らない。なくはないだろうが、ごく少ないと思われる。解決の任に当たるべく期待されるのは、教師だ。ところが教師にも当然、学校という集団の面目を守る責務もあれば、縷々述べたように、個々の生徒の、たとえどんな生徒であれ、守る義務もある、と考えられている。
 そのうえ、いじめとなると、やり方も多岐に渡るし、非常にデリケートな領域に及ぶ場合も珍しくない。学校ではなく、専門の捜査機関、つまり警察が扱えば、必ず解決できるかと言えば、旭川の事件のように、主犯格の少年でも「厳重注意」で終わってしまう場合もある。
 そうなると、学校内でより厳しい、指導という名の処分を下すことも難しくなってしまう。そこでさらに、そういう生徒でも授業を受ける権利がある、となると、これも前に書いた調布市の中学校の例のように、クラス内で数人からいじめを受けた女子生徒のほうが、いじめた者たちがいる教室に入れず、音楽の授業にも出られない結果、成績評価が1になった、なんて最悪なことにもなってしまう。

 どうすればいいのか。第一に、遺憾ながら、学校の聖域意識を下げるしかない。学校も社会の一部であり、社会で起きることはなんでも起こり得るのだ。小学生でも、他人を傷つけるだけの身体と頭脳の能力が備われば、やることはあるし、中学・高校と進むにつれて、大人と変わらない加害行動をやれるし、現にやっている。まして今の青少年は、四十歳以上の年代にはあまり馴染みのないSNSという、強烈な人権侵害や営業妨害のツールになりえるものを自由に使えるのだ。もっともこれは、報復の手段にも使えるので、誰にとっても両刃の剣ではあるのだが。
 少年、に限らず、犯罪者は、罰するよりむしろ矯正を図るべきだ、という考え自体には、今敢えて異は唱えない。また、いわゆる少年犯罪の厳罰化に有効な抑止効果があるのかというと、実際にそうしている欧米の例などを見ると、やや疑問だ。などなど、難しいことは様々にあるが、何よりも現に起きている犯罪をやめさせる、それを阻害するような要因は、できる限り省いたほうがよい。そうではありませんか?
 もう一つ付け加えさせてもらえるならば、子どもにも人権を認めるなら、犯罪者にもなれるのだということも認めて、一人前に近い扱いをしてあげたほうがよくありませんか? 中川明たちが、学校の閉鎖主義を批判して、もっと窓を開けて「市民社会の風」を入れるべきだ、というのには全く賛成。それなら、少年たちに、一般社会では自分たちのやったことはどのように扱われるのか、具体的に示してあげるのも、よいことでしょう?
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