由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

物語作者としての宮澤賢治 上(風の又三郎)

2024年03月22日 | 文学


メインテキスト:宮澤賢治「風の又三郎」
        同「風野又三郎」
        同「ざしき童子のはなし」
サブテキスト:天沢退二郎『謎解き・風の又三郎』(丸善ライブラリー平成3年)

 別役実さんは、宮澤賢治関連だと、NHK少年ドラマシリーズ「風の又三郎」(昭和51年、上図の引用元)や杉井ギサブロー監督のアニメ映画「銀河鉄道の夜」(昭和60年)のシナリオを手がけています。その彼が、短いエッセイの中で、あるとき「宮澤賢治ってハイカラなんだよね」とふと知人に洩らした話しを書いています。知人からは、怪訝な顔で、「だけど、それだけじゃないよ」と返された、と。そりゃあそうで、そんなことが言いたいわけではないよ、でも、じゃあ、何? というのは言い難い、というところで終わっています(『イーハトーボゆき軽便鉄道』記憶で引用)。

 私もこれは気にかかります。賢治自身は岩手を離れたことはほとんどないのに、明確にこの地を舞台にした童話はほとんどない。それどころか、日本でもない場合が多い。例えばジョバンニとかカンパネルラとかは、イタリア人名です。が、では「銀河鉄道の夜」の舞台はイタリアなのかといえば、どうもそうではない。ケンタウルス祭なんてお祭りは、実際にはどこにもない。
 賢治は、外国かぶれなんてものではないのはもちろんですが、身近な生活感覚を直接描くことは、いくつかの例外を除いて、あまり喜ばなかったようだ。「頭の中でこしらえた観念なんて、しょせんはニセモノだ」なんて信仰が強かった日本では、これ自体が珍しい。

 では、賢治の頭の中にあった場所は? 地名としては、何語ともわからない「イーハトーブ」(あるいはイーハトーボ、イーハトヴ)が有名です。その正体は、『イーハトヴ童話集 注文の多い料理店』(大正13年出版)の広告文の中で「実にこれは著者の心象中にこの様な状景(アリスの辿った鏡の国など)をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である」と彼自身が打ち明けています。実在の岩手が基だが、そこを詩人の精神で転換した心象(イメージ)、しかし〈心象としては実在する〉世界なのだ、と。
 では、ジョバンニたちがいるのはイーハトーブか。銀河鉄道の旅だけならそう言えても、そこへ行くまでの学校やお店や川がある街は、どうも少し違うように感じます。このへん賢治の世界はあまりにも多様で多元的だ、と凡人の私には平凡そのもののことしか言えないのですが、その入口の一つかな、と思えるところを軽く述べてみます。

 例えば、民話という、ある地域の人々の集合無意識というか、むしろ意識上のかな、のイメージに対しても、このような転換は働くようなのです。

 「ざしき童子のはなし」は、賢治の生前に活字になった数少ない童話の一つ(尾形亀之助主催の雑誌『月曜』大正15年2月号に発表。童子はここでは「ぼっこ」と呼ばれます)で、岩手県に伝わる、しかしたぶん賢治のおかげもあって今や全国的に有名になった、童形の妖怪だか神だかのエピソードを四つ並べたものです。ごく短い作品ですが、不気味だったり悲しかったりユーモラスだったりと、賢治童話の様々なテイストを、端的に味わうことができます。

 因みに、賢治の故郷の花巻、現在の花巻市から山を一つ越すと遠野市になります。ここ出身の佐々木喜善(号は鏡石)が、故郷の民話を柳田國男に語ったものを柳田が文章にまとめた『遠野物語』(明治43年)は、現在民俗学の最初期の古典として知られています。この中にも座敷童子(あるいは、座敷童衆)の話は出てきますが、内容はほぼ同じ話でも、軽妙な語り口は賢治独自のものです。
 いや、軽妙と言っていいかどうかはわかりません。「遠野物語」のもの哀しい山人と、賢治童話のとぼけた味わいを備えた山男の違いのようなものがある、ということです。

【その後故郷に戻った佐々木喜善は、座敷童子関連の話を収拾する活動の一環として、賢治の童話に目をとめ、手紙を出し、そこから二人の交流が始まります。実際に宮澤家を訪れたのは昭和七年、賢治は既に病床にありましたが、その後数回会談しています。賢治は喜善より十歳年少で、喜善が信仰していた大本教を痛烈に批判したりしたのですが、喜善は「宮澤さんにはかなはない」「豪いですね、あの人は。全く豪いです」と言っていたそうで、彼は宮澤賢治のすごさを最も早いうちに認めた一人のようです。】

 話自体が際立って印象的なのは、前から二つ目のエピソードです。
 どこかの家のふるまい(お祝い事、でしょう)におよばれした子どもが十人、座敷で輪になってぐるぐる回って遊んでいた。それがいつのまにか十一人になっていた。「ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく」、それでも数えるとどうしても十一人。その増えた一人がざしきぼつこだ、と大人に言われて、「けれどもたれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼつこでないと、一生けん命眼を張つて、きちんとすわつてをりました。/こんなのがざしきぼつこです」。

 ちょっとみると、子どもの悪戯の微笑ましさがありそうで、じっくり考えるととても怖い話です。のみならず、生きている者が神隠しにあったり、死んだ者がこの世に甦ってくる『遠野物語』の世界とは違う種類の不気味さを感じます。
 だいたいの感じだと、異界、あるいは異界の者がこちらに入り込むやりかたが、「ハイカラ」なんです。だからこれは宮澤賢治のオリジナルか、原型はあっても、日本のものではないのではないか、と思えるのですが、確信はなく、とんだ勘違いかも知れません。先行話がここにある、と御存知の方は、教えてください。

 天沢退二郎さんは、このざしきぼつここそ、「風の又三郎」に登場する謎の少年の前身ではないか、という説を述べたことがあるそうです。あるいはそうかも知れません。

 天沢さんは、入沢康夫さんと共に(二人とも仏文学者で詩人という共通点がある)、宮澤賢治の生原稿を徹底的に精査し、それまで刊行されていたテキストは賢治が書き残したものとはかなり違う場合があることを発見し、その成果から筑摩書房の『校本宮澤賢治全集』を編んだ人です。特に「銀河鉄道の夜」の、主に構成上の大変更は、私が大学生の時に遭遇した最大の文学的事件でした。これについては後で書きます。
 「銀河鉄道の夜」と並ぶ二大傑作と呼ぶべき「風の又三郎」(しかしこの二作のテイストはずいぶん違います)についても、新事実を教えてもらいました。

 まず、大正13(1924)年頃に完成したらしい原稿があって、そこには明らかに題名として「風野又三郎」と記されていた。冒頭に「どっどど どどうど どどうど」で始まる歌(これにはシンコペーションを使った洋風のかっこいい曲をつけることを、賢治は希望していたそうです)が置かれ、「谷川の岸に小さな四角な学校がありました」(『四角の』は後に削除)と書き出される。夏休みが終わった九月一日、小学生たち(全学年の児童が同じ教室で学ぶ)が登校して外から教室の中を見ると、そこに奇妙な子どもが座っている。これが物語の導入部です。
 この後の部分は、昭和6~8年頃に大改訂された、というより、新たに書かれたとしか言いようのないものになりました。ただし題名は、原稿でも作品について記された各種のメモでも、一貫して「風野又三郎」なのですが、賢治の死後に出版された文圓堂版全集で初めて活字になった時、編集者の考えで「風の又三郎」とされ、以後それが踏襲されているのです。

 最初期の「風野又三郎」も、これはこれでなかなか魅力的ですので、「風の又三郎〈異稿〉」などとされてある程度は知られていたものが、『校本宮澤賢治全集』以来、「風野又三郎」の題で、各種の全集・童話集に収録されています。本稿でもこの名称に従います。

 「風野又三郎」をあと少したどりますと、このとき教室の中にぽつんと一人で座っていた子どもは「をかしな赤い髪」で、「変てこな鼠いろのマントを着て水晶かガラスか、とにかくきれいなすきとほつた沓をはいてゐました」と、実に怪しい。そして教室内に入った小学生が話しかけても何も応えないので、「外国人だな」とも言われます。ガラスの靴って、シンデレラのあれですかね? まあ、この子は、怪しいだけでなく、〈ハイカラ〉なんです。
 その後原稿が何枚か欠けていて、はっきりとはわからないのですが、どうもこの子どもは先生など、大人には見えないらしい。そして、いつの間にか教室から消えている。あれはなんだったのか? と子どもたちが飽きるほど考えていると、次の日の放課後、そのうちの二人が山で再び巡り会う。そして、「汝(うな)ぁ誰だ」と訊かれて、「風野又三郎」と応える。「ああ風の又三郎だ」とこちらは納得する。

 このやりとりから、〈風の又三郎〉はコロボックルとかドワーフとかホビットとか座敷童子とかいう種族あるいは一族名だと推察されます。実際、新潟から東北にかけて、風三郎・風の三郎・風の又三郎などと呼ばれる風の神を祀る信仰は広く認められるそうで。一方〈風野又三郎〉は、おそらくは大正期の、岩手県の小村に現れた童形の者の固有名なのでしょう。
 もっとも、彼の兄も父も叔父も風野又三郎だと言うのですが……。ともかく、神霊という特別な者が人間の姿で現れるのは特別なことなので、特別に特別を重ねたものが風野又三郎なのです。因みに〈風野又三郎〉の表記は自分で名乗る時だけで、あとは子どもたちの言葉でも地の文でも、ただの〈又三郎〉でなければ〈風の又三郎〉表記です。

 風野又三郎は、前述のように、学校に現れたときには何も言わず、次の日に喋り出したときには、名前も正体も少しも隠しません。そして九月九日までの間、自分が風として世界中で体験したことを生き生きと語ります。活動場所は地球全部なので、扮装は洋風だというわけかな、と少し思いますが、それは語られないまま、十日の風の強い日には村を去って行きます。
 村の子どもたちは話を聴くだけで、自分からは何も行動しません。これは弱点ではなく、そういう作品だというだけです。しかし、では、風野又三郎はなぜ、最初小学校の教室に現れて、子どもたちを驚かせたのかなあ、と思うと、うまい回答は見つかりません。

 そのこともあって、だと思いますが、新版の「風の又三郎」だと、焦点の童形の者の正体は曖昧にされ、格好と標準語を話すところが少し変わっていますが、村の子どもたちといっしょに遊びます。
 登場したときには、元の「風野又三郎」と同じく、夏休み明けの教室に一人でぽつんと座っているのですが、格好は、やはり赤毛で「変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴」と、やはり怪しいけれど、マントはなくなり、また靴も変わっています。その理由は後でわかります。それでやっぱり話が通じず、「外国人だ」と言われ、やはりいつのまにかいなくなっている。

 しかし、その後、先生に連れられて再び姿を現し、お父さんの仕事の都合で「けふからみなさんのお友だちになる」高田三郎くんだ、と紹介される。だけでなく、いつの間にか「白いだぶだぶの麻服を着」た大人が教室の後にいて、学活が終わったとき先生に近づいて「何ぶんどうかよろしくおねがひいたします」と挨拶して、三郎を連れて帰ります。これは三郎のお父さんということで、つまりこの子は家庭まで含めて大人にも存在が認められている、普通の子どもなのです。
 それでも村の子どもたちの間では、少しの言い争いの後、あれは又三郎だということに一決し、以後ずっと「又三郎」と呼びます。当の本人はそう呼ばれても抗議もせず返事をしますが、それ以上自分が又三郎なのかそうでないかについては触れません。因みに地の文では〈三郎〉と表記され、〈風野又三郎〉表記はこちらでは一度も出てきません。

 この後三郎が、一見村の子どもたちと溶け込んで様々な活動するリアルな話が続きます。その筋の運びと描写の手腕は大したものです。しかし一番注目すべきなのは、普通の日常が、異界に接近し、重なる部分の手際のよさです。

 前半のヤマ場は、最初の日の二日後なので九月三日(「風野又三郎」では章題代わりに日付が記されているが、「風の又三郎」ではそれはすべて消えている)。馬が集められている場所へ子どもたちが入り、怖がる様子をからかわれた三郎が口惜しがって競馬をやろうと言い出す。馬は最初なかなか動かなかったが、走り出すと、そのうちの一頭が土手の切れているところから外へ逃げる。三郎と嘉助という少年がそれを追う。土手の向こうはすすきやたかあざみが生い茂って視界が悪く、崖にも接していて危険なので、立ち入りが禁じられている場所だった。嘉助はやがて三郎も馬も見失う。霧も出てきて帰り道がわからなくなり、嘉助はついに草の上の昏倒する。

 そんなことはみんなどこかの遠いできごとのやうでした。
 もう又三郎がすぐ目の前に足を投げだしてだまつて空を見あげてゐるのです。いつかいつものねずみいろの上着の上にガラスのマントを着てゐるのです。それから光るガラスの靴をはいてゐるのです。

(中略)
 又三郎は笑ひもしなければ物も言ひません。ただ小さなくちびるを強さうにきつと結んだまま黙つてそらを見てゐます。いきなり又三郎はひらつとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。

 この前の文に「嘉助はとうとう草の中に倒れてねむつてしまひました」と明らかに書いてあるのに、この時は嘉助は目を覚ますでもなく、まるで以前からそうだったように、又三郎になった三郎がいて、ガラスのマントを光らせて空へ昇ります。いやあ、お洒落ですねえ。

 この時は一人の少年の幻視ですが、やがて村の子どもたち全員の前で、異界が一瞬、口を開きます。

 嘉助は三郎といっしょに救出されて、無事に家に帰ることができ、次の日から普通に皆といっしょに外で遊びます。三郎も、負けん気の強さは折々見せるのですが、まずます無事にその集団に参加しています。その話が続いて最後に、川での〈鬼ごっこ〉の場面になります。
 三郎が〈鬼〉になると、嘉助にからわかれたこともあって、むきになって村の子を川につかまえ、「三郎の髪の毛が赤くてばしやばしやしてゐるのに、あんまり長く水につかつてくちびるもすこし紫いろなので、子どもらはすつかりこわがつてしまひました」と、文字通り〈鬼〉に近い様子になる。すると……、ここは長くなりますがやはり引用しなければならないでしょう。

 そのうちに、いきなり上の野原のあたりで、ごろごろごろと雷が鳴り出しました。と思ふと、まるで山つなみのやうな音がして、一ぺんに夕立がやつて来ました。風までひゆうひゆう吹きだしました。
 淵の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなつてしまひました。
 みんなは河原から着物をかかえて、ねむの木の下へ逃げこみました。すると三郎もなんだかはじめてこはくなつたと見えて、さいかちの木の下からどぼんと水へはいつてみんなのはうへ泳ぎだしました。
 すると、だれともなく、
「雨はざつこざつこ雨三郎、
 風はどつこどつこ又三郎。」と叫んだものがありました。
 みんなもすぐ声をそろへて叫びました。
「雨はざつこざつこ雨三郎、
 風はどつこどつこ又三郎。」
 三郎はまるであわてて、何かに足をひつぱられるやうにして淵からとびあがつて、一目散にみんなのところに走つて来て、がたがたふるへながら、
「いま叫んだのはおまへらだちかい。」とききました。
「そでない、そでない。」みんないつしよに叫びました。
 ぺ吉がまた一人出て来て、
「そでない。」と言ひました。
 三郎は気味悪そうに川のほうを見てゐましたが、色のあせたくちびるを、いつものやうにきつとかんで、「なんだい。」と言ひましたが、からだはやはりがくがくふるへてゐました。


 物語「風の又三郎」はあと少し続き、余韻を残す終わりを迎えますが、転校生高田三郎はもはやどんな姿でも村の子どもたちの前に姿を現すことはなく、お母さんがいるという北海道へ戻ると言われます。

 この物語にはいくつかの解釈が可能ですが、一応自分のを言っておきましょう。
 高田三郎はまず普通の子どもですが、村の子に「風の又三郎だ」と言われ、どういう気持ちでだか、その役を演じているうちに、いつか本物の異界を呼び寄せてしまったのです。
 それは山村の人々の無意識と、一番奥底で繋がっていて、時々「遠野物語」に収められた各種の民話として現出するものです。詩人はこれをさらに〈心象としての実在〉として、地方色を脱したスマートに、しかしやはり怖いものとして、描き出すことに成功しました。
 やっぱり平凡なんですが、戦前の日本の田舎にいて、よくこんなものが書けたなあ、と驚嘆するばかりです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小浜逸郎論ノート その3(共同態・上)

2024年03月01日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『倫理の起源』(ポット出版プラス令和元年)

 初期の著作『男はどこにいるのか』からいきなり晩年の大著に移るのは、最近これについての勉強会を開催したからです。それで久しぶりに『倫理の起源』を読み返して驚いたのは、書かれていることの九割方に同意できること。それなのに、初読(小浜ブログ「ことばの闘い」の連載記事)の時から感じてきた違和感はなんだったのか、あらためていぶかしく思えました。今回はこれにこだわってみます。

Ⅰ.善の在りどころ
 小浜の最大の意図は明瞭で、西洋の大哲学者たちが、倫理の根拠を、善のイデアだの我が内なる道徳律だの、やたらに高いところや深いところにおいてきたものを、身近で具体的な人間関係の場に降ろそうということである。
 その中でも、あまりに卑近に感じられるからだろう、従来まともにとりあげられることもなかった男女の性愛関係に重きを置こうとする指向は、独創的と呼ばれてよいかも知れない。
 それ以外だと、一般的に、人間にとって最も重要なのは具体的な共同性であるのは当然すぎる話だ。人間は人間から生まれるだけではなく、普通は家庭という最小の共同体内で、人間に育てられなければ人間にはなれない。共同性(他者とのかかわり)以前に個人はない。倫理(人としての正しいふるまい)もまた、人の間にいればこそ必要なのである。

「善」とは、そもそも共同存在としての人間の生活を離れたところに自立的に成り立つような「観念」ではない。それは人間生活がうまく回っていることやうまく回そうと努力していることを示す「現実」の表現である。(P.077)

 ならば「善」は、なんら特別なことではなく、家庭も社会もひっくるめた共同体が無事に経営されている、それを支える日々のルーティンの中の「ひそやかで慎ましいもの」(p.079)であるはずなのだ。しかし、しばしばそれでは足りないと考えられて、それは簡単に錯覚だとは言えない。
 すると、むしろ問いは、なぜことさらに、共同性以外の人倫の根源を、特に西洋の思想家たち(東洋にもなくはない)が、探してきたか、という形にすべきではないだろうか。
 小浜が置いてくれた里程標を辿って、この問いに自分なりに向き合おう。
【実は、つい最近まで本当に忘れていたのですが、以下の記事は以前「倫理の起点」として書いたものと内容はかなり重なります。ただ今回は、ここから自分なりの一歩進めたいという意欲だけははっきり自覚しましたので、それに沿う形で編み直しました。】

Ⅱ. 国家の在り方
 近代国家は現在のところ最大の共同体だが、大きすぎて、全体を完全に把握することは誰にもできない。日本ぐらいの国になれば、国内でも、一度も行ったことのない土地のほうが多いだろうし、大部分の人とは一度も会っていないだろう。ごく普通の意味で(エロス的に)愛せるようなものではなく、「そこに属する住民の福祉と安寧とをいかに確保するかという機能的・合理的な目的意識によって支えられている」(p.418)ものなのだ。
 具体的には国家はどのような体制であるべきなのか。一見両極端が挙げられている。

(1)生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する(p.466)

 国家は国民の安寧秩序を守ることを第一の目的とすべきだ、ということなら、私を含めて、反対する人は現在少数だろう。ただ上の言葉を、個々人の幸福のためなら国家なんてどうでもいいんだ、というふうに取るなら、戦後の進歩主義と同じだということになる。小浜はそうではなかった。

(2)もし公共体としての国家が、外敵から己れを守るために個人の命を捨てることを要求する場合には、進んでそれに従わなければならない。(p.390)

 これはスイスの憲法の規定らしく、小浜自身が明らかに賛成しているわけではないが、反対はしていない。
 この二つはどのように両立するのか。

個体生命倫理そのものはなるべく貫かれるべきであるし、個々の個体生命の限界を超えて維持されるべきであるが、しかし絶対的ではない。いずれ誰もが死ぬということは、すべての人がよく知っているので、(中略)この倫理をただ何よりも優先されるべきものとして前面に押し出せば済むのではなく、ケースによっては死んでも仕方がないという諦念をいつも傍らに引き寄せておく必要がある。(p.393)

 「ケース」は、〈自分の属する共同体を守るために必要なら〉というのがすぐに頭に浮かび、だから(2)のような要求も出てくる。しかしこの要求が正当であり、従うしかないとすれば、「よりよい関係を築きながら強く生きる」のほうは損なわれる。これはアポリア(解き難い矛盾)とするしかないと思う。

(前略)公共性という概念そのものは厳として存在する。それは、もともと私的であることと一対の関係にある概念だから、抽象的であることを免れないのである。つまり、この種の関係概念は、ある事態(たとえば家族生活)が他方の事態(たとえば国家活動)に比べてより私的かより公的かという相対的な位置関係で把握するほかない概念である。言い換えると、私的・公的という対概念は、互いに他方の「否定態」としてしか成立しない。 (p.395)

 それでも小浜は後のほうで、このアポリアを解くことはできるという考えを示した。そのモデルとして採り上げられたのが百田尚樹の小説「永遠の0」。これについては前にも述べたが、未読の人のために以下に粗筋を書いておく。
 主人公は宮部久蔵という大東亜戦争中の軍人であり、達人の域に達した戦闘機乗り。にもかかわらず、戦場にいて「生きて家族の元へ帰りたい」と公言して、物議をかもす。戦局が悪化し、彼が指導した若いパイロットたちが特攻によって散っていくことが重なるにつれて、罪の意識からの葛藤に追い詰められていく。最後には彼自身が特攻に志願するが、同時に進発する隊員の中にかつて宮部を庇おうとして無茶をした大石がいた。宮部は自分が乗る予定の機に不調があるのを知って、口実を作って大石の機と交換し、自分は無事(?)米艦に突撃して戦死する。大石は、エンジントラブルのために無人島に不時着し、帰還する。この場合に限って、特攻から生還することが認められていたのだ。そして終戦。大石は帰国し、宮部の妻と面会、やがてお互いに行為を抱くようになって結婚、彼女と子どもとを守る。宮部が家族とした約束は、このようにして、大石によって果たされた、とみなせる。
 感動的な話である。お伽話としては。「単に戦前・戦中をひたすら軍国主義が支配した悪の時代と見る左翼的な平和主義イデオロギー」と「その左翼イデオロギーの偏向を批判するために、日本の行った戦争のうちにことさら肯定的な部分を探し当てたり、失敗を認めまいとしたりする一部保守派の傾向」という「戦後における二つの対立する戦争史観の矛盾を止揚・克服している」(以上p.445)とも言えるかも知れない。
 しかし、現実には。上の梗概の、「最後には彼自身が特攻に志願する」以下の部分の、偶然の連なりを考えれば、宝籤の特賞に連続して当るほどの確率だから、こんなことの実現はほぼ不可能だな、と自然に納得されるのではないだろうか。
 お伽話そのものも、ありがちなご都合主義も軽蔑はしない。そこには人間の時代や場所、さらには根本的な人間の条件をも超えたいとする切ない願望の現われである。それが傲慢な駄法螺にはならないのは、語るほうと聞くほうに、「世の中、そう都合良くはいかないがな」という諦念があればこそだ。
 結局、公と私とは、「互いに他方の「否定態」としてしか成立しない」のであれば、(イギリスの王家の紋章に描かれた王冠を支えるライオンと一角獣のように)、決して完全には相容れず、争い続けるまさにそのことによってこの世界を保っているということだ。
 ならばまた、個々の場面では、どちらかがどちらかのために犠牲になることを完全になくす術はない。この場合、弱い立場の私・個人のほうが、犠牲になるべく強いられることが圧倒的に多いのもごく自然であろう。
 できることは、「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きる」ことこそ人間が望み得る最高の幸福であり、簡単に無視されたり毀損されることがないように心がけていく、ぐらいではないだろうか。これすら、けっこう難しいのだ。

Ⅲ. 自己を支えるもの
 戦後の日本は、「個人の命を捨てることを要求」することはないだろう。少なくとも、露骨には。(個人の)生命至上主義は、普段敢えて頭に上ることさえないぐらい我々の常識になっている。とりあえず、結構なことと思う。
 国民が命懸けで国のために尽くす場面の代表はなんといっても戦争、壮年男性であれば必ずそこに参加することを義務とする、つまり徴兵制は、現在の先進国ではたいてい、実質的になくなっている。しかし、軍隊はある。徴兵制に対して志願制で。日本でも(自衛隊は軍隊かそうでないか、なんぞという面倒な議論は置くとして)、以下のような誓約をしてから国防の任に就く。

事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います。

 つまり、国家から与えられた責務を完遂するためには一身を擲つこと、するとかなりの確率で「身近な者たち」の「よりよい関係」を失うことまで要求できるのは、事前に「それでいい」と約束した人だけになる。最初に個人の決断が必要とされている。
 いや、最初ではない、そもそもある個人がそのような決断に至るまでには、彼の過去の共同性に由来する価値観や、今後の共同性をうまく保っていくための配慮(だいたい、日本国憲法第九条がある以上、日本は戦争なんかしない、だから、兵士として危険な目に合うなんてことは実際はないんだ、と予想するような配慮まで含めて)が、決定的な働きをしているはずだ、と小浜的な立場からは言うだろう。
 それに間違いはないのだが、いずれにしろ個人の意向はあり、それは無視できない、というのは民主主義国家の重要な前提、いやタテマエである。
 そうでなくても、人生には選択がつきものである。人がある共同態の中でけっこう不満を抱えていようと、まずます幸福にすごしていようとも。その選択の基準もまた、共同体から得た価値観にあるが、個別具体的な事態は決して繰り返されることはないのだから、結果は完全な予測は不可能であり、『人間は時間の中でたえず新たな「決断」と「行為」をなしていく存在』(p.304)であるからこそ、人は絶えず不安を抱えずにはいられない存在である。
 本書には、妻が難産で苦しみこのまま出産を続ければ母体も危険である、と言われた場合が例にでている(p.388)。このように直接に生死に関わる問題以外に、介護が必要になった老親を施設に入れるか在宅介護にするか、いつどの相手と結婚するか、転職するかしないか、家を建てるかマンション住まいを続けるか、などなど。
 念のために言うと、その問題が各個人及び家族にとってどれほど重い問題であるか、まで含めて、よそからは窺い知れない。自己責任なる言葉は好きではないが、何かを選んで、何かを捨て、何かを為すのは、個人であるしかない。
 ただ、小浜はこここで、それでもやはり、共同体への信頼感(これこれをやれば、家族や知り合いに認められる、少なくとも非難はされない、といった)がなければ、人は何事も決断し得ず、何事もなし得ない。つまり、人は不安であるからこそ、共同体内部の信頼が必要となる、としている。ここは非常に微妙なポイントなので、後で改めて考える。
 いずれにしても、現に決断して、その結果を受け止めねばならないのは個人である。選択がうまくいかなかったと感じられたときには、であることによって、そのを物心両面にわたって産み出した共同性が実現されている、という幸福な一体感は揺れて、単独者としての私が顔を出す。
 大前提として、小浜は、身近な人間関係、即ち彼の言うエロス的関係以外は、国家も、自由で自立的した個人も、すべて人間社会を保つためのフィクション(人工物・仕組み・約束事)だと考えていた。私もそう思う。しかしそれがフィクションである以上、〈共同主観〉ではあっても、根拠が見失われたら雲散霧消してしまいかねない。その危険は常にある。

それでは、「個人の自由意志の結果としての行為」という、近代道徳の図式の基礎にあるフィクション性には何の根拠もないのかといえば、そうではない。そこにはフィクションを構成せざるを得なかったそれなりの理由がある。また私たちは、人と交わりつつ生活していくうえで、このフィクションを設定せずにはすまない。
 それは、簡単に言えば、私たちが関係を編みながら生活しているとさまざまな摩擦葛藤が生まれ、やがてそれが高じて取り返しのつかない不幸な事件や解決不能な不祥事が引き起こされることがあるからである。つまり自由意志から行為へという因果関係は、じつは逆なので、まず不幸や不祥事が起きた時に私たちの感情が混乱し、自己喪失や共同性の崩壊の感覚に襲われるのだ。それを何とか収拾して未来に臨むために、私たちは、「ある個人の行為は、その人の自由で理性的な選択意志を原因としている」というフィクションを必要とするのである。
(P.193)

 問題は、不幸や不祥事だけではない。我々庶民が生涯のうちに何度か直面せざるを得ない選択もそうであることは前述の通り。だいたい、crisisの原義は「分岐点」なのだ。
 あらゆるものがそうであるように、共同性も時間の中にあり、変化する。親も自分も年老いるし、幸せな性愛関係を結んでいた相手もあるとき突然心変わりする。そこに肉親の扶養義務や、結婚という制度の枠を嵌めて、外側から、あまりに乱脈にしないようにするのは国家の役割だが、内面的に、既成の共同性を超えてを支えてくれる存在への冀求も生じる。そこにまた、自分を大きな存在と思いたい心性も相俟って、永遠に確固不動の超越者・絶対者の概念が、人間社会の中に広く長く見出されるようになる。
 我々東洋人、特に日本人は、伝統的に、「自己喪失や共同性の崩壊の感覚に襲われ」ることが少なかったか、あるいは、それをことさらに問題視する心の習慣に乏しかったせいで、絶対なる観念とは縁遠かった。それは幸せなことと言ってよい。なぜなら、そんな観念が必要と感じられる共同体は、けっこう不幸なものだろうから。
 しかし、今後もその幸運が続き、例えば、私というフィクションを支えるための絶対者などの大フィクション(苦しいときに頼む神であっても)の必要が実感されないかどうか、そこまではわからない。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする