由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

学校のリアルに応じて その5(最終回)

2011年01月29日 | 教育
メインテキスト: 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成22年)

 本書第六章「「友だち先生」の実態」(P.122以下)に挙げられている各種の実例のうち、著者が一番怒っていて、たぶん読んだ人も同感するのは、「葬式ごっこ」以上に、最初の、わいせつ被害を受けた女子中学生の件だろう。元が新聞記事(『讀賣新聞』平成20年3月31日)で、詳しいことがわからず、どうにも腑に落ちないところもあるのだが、今は当面の論述に必要なところだけを引用しておく。

 調布市の市立中学で男子生徒らから強制わいせつの被害を受けた3年生の女子生徒が 3か月間、別の部屋で1人学習を余儀なくされ、通知表で一部教科が最低の1に落ちていたことがわかった。男子生徒らは家裁送致されるまで、普通に授業を受けていた。女子生徒の父親は「志望校を変えることになった。被害者の不利益が 大きすぎる」と訴えている。
(中略)
 学校側は父親から相談を受けた際、「まず警察で調べるので、学校としては男子生徒を 処分できない」として、女子生徒に別室に移って勉強するよう勧めた。その後、男子生徒が 家裁送致されるまで、女子生徒が普通の授業を受けられない状態が続いていた。
(中略)
 男子生徒らは保護処分の措置を受けるなどした後、学校に戻り、卒業したという。
(中略)
 学校教育法によると、出席停止措置は、教室で騒ぐなど多数の生徒が正常に学習できない状態にとられる。市教委は「1人が迷惑を受けている状態では、なかなか男子生徒の出席停止には踏み切れなかった」と話している。
 教育評論家の尾木直樹・法政大教授は「司法的な責任と教育の責任は全くの別物。 被害者を守るために、すぐにでも加害生徒を別室に移すなど毅然(きぜん)とした対応が必要だった」と指摘している。


 腑に落ちないのは、こういう事情なのに、学校がこの女子生徒に1をつけたことだ(それも、その教科は音楽)。これはこの学校の体制によるものらしい。で、それは置くとして。
 誰もが訝しく思い、憤激にもかられるのは次の点だろう。女子生徒としては、自分に猥褻なことをした男子生徒と同じ教室にいるなんて耐えられない。そこで、学校は彼女に、別室で勉強するように勧めた。結果として、被害者が教室から追われた形になる。
 そんな馬鹿な。追われるべきなのは、加害者の男子生徒たちではないのか。こんな当たり前の常識が通用しない学校なら、生徒たちに社会のルールを身につけさせるなんて不可能ではないか。と、私も思う。しかし、本当の改善のためには、こういうことになった学校のほうの事情も、もう少し詳しく考えておく必要がある。「毅然とした対応」なんて一言ですむ話ではないのだから。
 義務教育で、生徒を教室に出さないのは、出席停止措置と呼ばれる。記事でコメントしている主語が市教委であることからわかるように、それを決めるのは学校長ではなく、教育委員会。そのことを含めて、もちろん、法に明記されている措置である。
 尾木直樹のコメントを、私は、馬鹿げている、と考える。理由は、こういう場合でも、司法と教育とは截然と分けられる、分けなくてはいけない、としているからだ。これに対して菅野は、学校を、ルール(そのうち明文化されたものが法)の支配する一般社会に近づけるべき、と主張している。
 どちらが妥当な意見か、最終的な判断は個々人にしてもらうしかないが、当面の問題はこうである。七歳~十五歳の子どもは、教育を受ける権利があると日本国憲法にある。それは即ち、特別の場合を除いて、学校へ通って授業を受ける権利だと考えてよい。出席停止とは、この権利を一時停止する措置だ。法の裏付けもなく、教師だけの判断で、「毅然として」やればいいことだなんて、本当に思えるのか?

 それで、法律はある。学校教育法第三十五条。以下にその第一項の全文を示す(これは小学校についての既定だが、中学校についてはこれを「準用する」と同法第四十九条にある)。

 市町村の教育委員会は、次に掲げる行為の一又は二以上を繰り返し行う等性行不良であつて他の児童の教育に妨げがあると認める児童があるときは、その保護者に対して、児童の出席停止を命ずることができる。
1 他の児童に傷害、心身の苦痛又は財産上の損失を与える行為
2 職員に傷害又は心身の苦痛を与える行為
3 施設又は設備を損壊する行為
4 授業その他の教育活動の実施を妨げる行為


 件の男子生徒たちがやったことは、明らかに1に触れる。「他の児童」が一人か複数かなんて、問題にされていない。それでも出席停止にはできないのか?
 調布市教委は、この条文を知らなかったのだろうか。そうかも知れない。この条項の存在は、一般にはほとんど知られていないのだから。現に記事を書いた新聞記者も、「学校教育法によると、出席停止措置は、教室で騒ぐなど多数の生徒が正常に学習できない状態にとられる」なんて思っているくらいだ。
 そうではないとすれば、理由は、この法律の実際の運用面にあると思われる。昭和五十八年十二月五日、校内暴力が頻発する事態に鑑み、文部省は「公立の小学校及び中学校における出席停止等の措置について」という通知を各都道府県教育長宛に出している。
 ここで文部省が、「出席停止の制度の適切な運用を図るため、特に、次のような点が重要であると考えます」として挙げている第一点は以下。
「出席停止の制度は、本人に対する懲戒という観点からではなく、学校の秩序を維持し、他の児童生徒の義務教育を受ける権利を保障するという観点から設けられていること」
 改めて読むと、少々難しいが、それでも、出席停止というのは、授業中騒いで先生の注意を全然聞かなかったり、それどころか先生を殴ってしまったり、といった、授業妨害に対応するためのもの、と読み取っても不思議はない、とは思えるものではないだろうか。実際にこの通知は、まさにそのような状況に対応するものとして出されたのだし。
 「他の児童生徒の義務教育を受ける権利を保障する」ために、授業妨害をしたわけでもない生徒をこの処分にした実例があるかどうかはわからない。何しろ、法文の存在自体がそんなに知られていないぐらいだから、実際にどのように行われているかについては、ますますわからない。
 私も、中学校教師から聞いた例をいくつか知っているぐらいだが、この措置は例外なく、あまり目立たないように、こっそりと行われている。場合によっては、教育委員会には知らせず、学校だけの判断で、どうにも手がつけられない生徒を、教室には入れず、別室に行かせる例もある。とは言え、もともと、部屋で大人しくしている連中ではないのだから、実際は放置に近いのだろう。
 理由は、教師にはすぐにわかる。こんなことをしていると知れ渡ったら、その学校の教師は、指導力のない、ダメな連中だという烙印を押されかねない、と恐れるからだ。教育委員会だって喜ばない。これをやると公式に認めたら、「子どもの学ぶ権利を軽々しく奪っていいのか」とかなんとか、マスコミに叩かれるかも知れない。ある教師や生徒が困っていても、学校の中だけのことなら、黙って見過ごしているほうが、つまり無難なのだ。

 また、別の問題もある。調布市の事件は、九月に発覚し、加害者たちに処分が下ったのは十二月である。強制猥褻のケースで、この期間は、長いか短いかは知らないが、非常にデリケートな性質のものだけに、調査にはそれ相当の時間がかかるのは事実であろう。それで、十二月までは、何がどう起きたか、全容は明らかにならなかった、ということだ。
 それまでに、学校が加害者たちを処分するというのは、非常に難しい。「まず警察で調べるので、学校としては男子生徒を 処分できない」というのも、単なる逃げ口上ではない。もしも、やったことが曖昧なまま処分に踏み切ったりしたら、加害者の親からどう突っ込まれるかわからない。万が一冤罪だった場合には、どのように責任を取るのか?
 要するに教師の保身だ、と言われるなら、半分はその通りだと認めるけれど、一方、生徒を正しく指導するためにも、やったことはできるだけ正確に知っておく必要があることも本当だろう。そして、学校に、警察や家裁並の捜査能力があるはずはないし、権限の問題から言っても、警察が入った以上、学校はその捜査結果を待つしかない。結果として、それ以前は、加害者の男子生徒たちは、何もなかったかのように授業に出続け、彼らと顔を合わせたくない被害者のほうが、教室へ行けなくなってしまったのである。

 やっぱり教師がだらしないんだ、ですまされる人は、結局呑気な人なのだと思う。上の事件は、いじめの一種だ。世の中には自分一個の力量だけでいじめを解決できる教師もいるのだろうが、できない教師もいる。そうでなければ、こんなに蔓延するはずはない。で、どうだろう。あなたの子どもが学校でいじめられたが、そこの教師たちにはやめさせるだけの力はなかった。お気の毒です…であきらめられるものだろうか。「そんな馬鹿な」と言うのが正常だ。ならば、こういう場合には、万人に適用できるような救済措置を、制度として用意しておくべきなのである。
 安部内閣が作った教育再生会議が出した提言の一つに、「学校問題解決支援グループ」の創設というものがある。「学校において、様々な課題を抱える子供への対処や保護者との意思疎通の問題等が生じている場合、関係機関の連携の下に問題解決に当たる。チームには、指導主事、法務教官、大学教員、弁護士、臨床心理士・精神科医、福祉司、警察官(OB)など専門家の参加を求める」(第二次報告)とされている。
 地域によって実際に作られたチームは、モンスターペアレンツの対応が、仕事の大部分になったらしい。私はまだ実際にその恩恵に浴したことはないが、学校と保護者の間にこういう人々が立ってくれるのは本当にありがたいだろうなあ、と感じている。再生会議の提言など、ほとんど唾棄すべきものだと思っているが、これだけはいいアイディアだったと認める。
 それで、このチームをもっと拡充して、いじめなどの問題にもかかわり、それから、M教師(問題のある教師を意味する学校の隠語)などについても、対応するようにしたらいいのではないか、というのが私の考えである。いや、対応というよりは、生徒や保護者や教師から訴えられた各種の問題をきちんと調べ、教育委員会に報告し、それに基づいて教育委員会がしかるべく対処する、でかまわない(そのための大前提として、教育委員会がしっかりしている必要がある)。学校と警察・家裁との中間の組織だと思ってもらってもいいかも知れない。
 なぜそういう組織が必要と考えるのか、それを今まで縷々述べてきたつもりだが、改めて最短でまとめる。学校を一定のルールに従って運営される集団としてきちんと成り立たせるためには、教師だけでは明らかな限界がある。彼らは生徒とあまりに身近な所にいるし、いるべきだとも言われているし、その結果として、生徒集団を管理するための権能は不必要とみなされて、きちんと与えられていない。その機能を果たすためには、学校とは相対的に独立した、外の機関があったほうがいい。
 外部評価、というのも再生会議で提言されたことの一つだが、教師のやったことを後から評価する外部の目なんて、それ自体はどれくらい正当で、どれくらい機能しているか、評価する機会も集団もないような代物でしかない。まずたいていは余計なお飾りで終わると思っていい。そんなのではなく、実際に学校の一部を動かすために外部の力を使うのが、学校改革のポイントなのである。
 そのためには、再生会議が考えたものよりもっと本格的な、常勤の職員から成る「支援チーム」がたぶん必要である。また、こういう組織ができたらできたで、また別の問題が生じる恐れもある。しかし、私はみんさんに呼びかけたい。学校のことをまじめに、冷静に考えたら、細かいところはともかく、こういう方向にも頭を働かせるべき時期にきているのは明らかではないでしょうか?

(ちょっと宣伝になりますが、この問題は夏木智と私で詳しく討議して、私たちの同人誌『ひつじ通信』に載せました。読んでみたい方は、左のブックマークから「onlineひつじ通信」のHPに行き、申し込んでください)
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学校のリアルに応じて その4

2011年01月25日 | 教育
メインテキスト: 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成22年)

 副題にある「クールティーチャー」とは、「人柄指向」だけではなく、「事柄指向」もできる教員のことだとされている。耳慣れない言葉だが、例えば、生徒が何か問題を引き起こしたとき、ただ罰を与えるのではなく、その子はなぜそういうことをしたのか、背景を含めて、「心」の部分を掴み、そこに対応していくべきだ、というようなのが「人柄指向」。
 長い時間顔を合わせる他人の性格や「人間性」を考えてしまうのは、誰にしても自然なことでしかないが、「教師はそうすべき」などと言われるのは、インチキだ、と私は考えている。菅野はそこまでは言っていないが。
 次のように考えたことはないだろうか。子どもが何か悪いことをしたとき、「こんなことをするのは、おまえが悪い人間だからだ」などと言われたりしたら? これも「人柄指向」なのである。それがひどい決めつけだとすれば、「おまえは本当はいい人間だ。しかし、これこれの環境やしかじかの事情で、やってしまったのだ」というのもまた、ひどくはないかも知れないが、決めつけなのだ。
 もちろん、ルソーあたりを鼻祖とする近代の教育観は、性善説を大前提とする。生まれつきの悪人なんていない。そこからすれば、「おまえは悪い人間」は、必ずまちがった決めつけになる。それを疑うことは許されない。こちらの決めつけがあるために、安心して、「人柄」を見ろ、などと要求できるわけだ。
 もっとも、いまどき、「子どもは善」などと、本当はどれくらい信じられているのかは非常に疑問だ。けれでも、少なくとも教育言論の世界では、疑いをあからさまに口に出すことは許されない、と感じられている。

 私は、性善説と性悪説の、どちらが正しいか、なんぞという議論をしたいわけではない。それは畢竟信念だけの、宗教的な問題でしかない。しかし、次のことは確かな事実だろう。「本来」はなんであれ、ヒトは必ず一定の社会環境の中で、「人間」となる。それは即ち、最広義の教育を受けなければ、ヒトという動物が人間になることはない、ということだ。
 そして、人間の様々な側面に応じて、教育も様々にある。学校教育はその中で、いわゆる一般社会で生きていくための、訓練の部分を受け持つ。放っておいて、すべての人間が、近代の勤労者にたるだけの、精神性や身体性を持ち得るわけではないだろう。人間性の本質がどうかなんぞという話はわからないが、それはいわば経験的な事実なのである。そこで近代社会では、学校が必要とされた。
 何も大げさな話ではない。勤め人のエートス(一定の社会・集団で共有される行動規範)とは、まず、毎日決まった時間に一定の場所へ行き、一定時間決まったことをやることだ。朝起きてから日が暮れるまで、自然のリズムと自分の都合に合わせて仕事をする農民の意識とは明確に違う生き方が、そこでは要求される。学校とはまず何よりも、時計が普及した後の、人工的な時間感覚を身体に刻みつけるための場所なのである。
 それともちろん、国民、及び市民として必要とされるマナー(行動様式)と知識を身につけるための。このうち、特にマナーについては、時代によって明らかに変わっていくので、生徒に強制していいものかどうか、時々議論の種になるものの、「身につけなければならない」ところは変わらない。

 以上は、ミシェル・フーコーやピエール・ブルデューなどの構造主義者が説いて以来、菅野のような社会学者や、教育学者の中でも教育社会学者にとっては、常識に属することのようだ。ただし、概ね否定的に語られる。「訓練」とか「規律」とかいうのは、第二次世界大戦後の知識界を覆う左翼的な雰囲気の中では、悪なるものと捉えられがちなのだから、当然であろう。しかし、菅野も言うように(P.43以下)、だからと言って学校を否定してもなんにもならない。社会は今でも、大部分勤め人で構成され、その最低限のエートスは社会常識となっていて、何人もそれを無視しては生きられないのだから。
 また、次のような事情も考慮されなくてはならない。国家や地方共同体や学校やらの、公的な集団とは別に、社会的な動物である人間は、自主的にグループを作りがちであり、その小グループが、外部に対する対抗意識から閉じられたものになると、往々にしてやたらに厳しいルール(ルールとは、エートスより明確なものであり、破られた場合にはこれまた明確な罰則が加えられるもの、と考えてよい)が構成員に課される。それは、「学校のリアルに応じて その1・その2」で縷々述べた。
 学校だけの問題ではない。古くは連合赤軍、近くはオウム真理教の内部で起こった凄惨なリンチはこれが基だ。先頃茨城県の龍ヶ崎市で起きた、出会い系サイトで知り合って共同生活をしていた四人の男女のうちの一人が、「態度が悪い」「言うことを聞かない」といった理由で、他のメンバーから虐待され、死亡した事件もまたそうだ。
 このような事態を避けるためには、グループを、外界との交流もある、開かれたものにしておかなくてはならない。ところが、それがきちんとなされるためには、より大きな集団内でのルールが共有されている必要がある。実のところ、国家を最大のものとする公的な集団の存在意義は、第一にはここにあると考えられる。
 学校という公的機関の意義も、知識の伝授を別とすれば、それであろう。さらに、ここではルールの必要性は二重になっている。学校が何かをするための集団性を保持するためにも、子どもたちが将来生きていくために必要な最低限のエートスを身につけるためにも、それは必要なのだ。

 しかし、教育社会学者以外の教育学者からは、こういう言葉を聞くことは稀である。特に、訓練とか規範という言葉は嫌われる。どうやら、教育学とは、「理想の子ども像」―「本来」は必ずよき者であるはずの子ども、いや、子どもそのものというよりは、そうあってほしいという大人の願望―を守り、ひいては「教育の理想」を守るためことを第一の任務としているらしい。いわば、神学である。俗界の人間たちの、いじましい現実に応じるようなものでは、もともとない。
 例えば、「子どもは本来必ず学ぶ意欲を持つ」などと言われる。大学でそう教わってきた新人教師が教壇に立って見渡すと、どうも子どもたちからはそのような意欲は感じられない、ときもある。その場合は絶対に、教師である彼/彼女が悪いのだ。反省し、努力して、子どもたちから意欲を「引き出す」か、彼ら自身が「再発見」しなければならない。それを指向しないなら、彼/彼女は教師として明らかに怠慢なのである。
 菅野にしても、それから私にしても、こういう指向自体が無駄である、と言っているわけではない。そうではなく、「学ぶ意欲」を持った子どもが、ちゃんと学ぶことができるためにも、生徒の「本来」を求める前に、もっと大事なことがある、と言っているのだ。

 ある子どもが、ルールに「従えない」ときには、その子固有の問題があるかも知れない。それが無視されていいわけではない。しかし一方、どういう事情からであれ、一定のルール破り(「従わない」とき)には一定のペナルティが課される、そうでなければ、ペナルティーの正当性が疑われるから、ひいてはルールの正当性も疑われてしまう。ここをそんなに曖昧にしておくわけにはいかないのだ。ざっとこういうのが即ち「事柄指向」である。
 そんなのは、特定の問題行動(例えば、他の生徒への暴行)に特定の罰(例えば、謹慎)を与えればいいのだから、簡単じゃないか、と思われるかも知れない。しかし、大人の世界の、裁判の有様をちょっと思い浮かべてもらえればいいと思うが、これはこれでけっこう難しいのである。
 そのうえに、学校には学校固有の難しさがある。その大きな部分は、前述した教育学的(神学的)な言説から来ている。本来善なるはずの子どもに、どうしてペナルティーが必要なはずがあろうか。だから公的には、学校には「罰」はない。生徒を謹慎させるのも、罰としてそうするのではなく、生徒に反省の機会を与えるための指導措置として、そうすることになっている。
 教師と生徒双方の実感に全くそぐわないこのようなタテマエが、本当に必要なのかどうか、私にはわからない。しかし学校は、当分この看板を下ろす気配はない。

 それでも、というか、それだから教師は、もっとクールになる必要がある。人柄指向より、事柄指向を優先させねばならない場合も、必ずあるのだから。それは菅野の言う通りだ。
 教師の側でこういうことに気づいた人間がいないのかというと、そうでもない。『ザ・中学教師』(別冊宝島70 昭和62年)でメジャーデビューした埼玉教育塾、後のプロ教師の会も、ほぼ同じことを説いていた。ただし彼らは、自分たちが非常に指導力のある教師であることを誇り、それを担保として、しかしそういう自分たちから見ても、従来の「理想主義的」な、人柄指向のみの教育観では、学校は立ちゆかなくなる、と訴えたのだった。
 『教育幻想』もまた、教師によきコーディネーターであることを求め、菅野が見た優れた教師の例を挙げることで、なんだかんだ言っても教師がもっとしっかりすればなんとかなんるのだ、という印象を与えている。そうではない、などと教師が言えば、結局は自分の怠慢をごまかすための逃げ口上だ、ととられるのが今の世の中だ。
 たぶん現在の学校は、そんなことではすまなくなっている。逃げ口上だと思われてもかまわない、特に優れた教師でも何でもない私が、なぜそう思うのか、次回に述べよう。
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学校のリアルに応じて その3

2011年01月20日 | 教育
メインテキスト : 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成22年)

サブテキスト : 綿矢りさ『蹴りたい背中』(河出文庫 平成19年 平成22年26刷)
 もう一つ、この小説を題材にして述べたいことがある。教師に関することだ。
 主人公は陸上部に入っている。夏休み前のある日(この小説は高校最初の夏休みに入る直前までの時期を描いている)、練習をがんばりすぎた彼女は、転んで、軽い怪我をしてしまう。他の女子部員たちが「大丈夫?」と寄ってくる。主人公は部活でも浮いているから、本当に心配しているわけではない。ただ、練習をサボりたいだけ。
 ところへ顧問の先生が登場。「先生、長谷川さん(主人公の名)が転んだのにびっくりして、みんな何周走ったか忘れちゃいました」と、とぼける部員たち。「しょうがない奴らだ。じゃあ今からミーティングだ」と、わざとらしく眉間に皺を寄せて応じる先生。「それは基礎練は終わりってことですか?」と念を押す生徒たち。「お前らは、どう思うんだ?」先生の目は“いたずらっぽい目”になっている。主人公はこの目にはぞっとさせられている。
 で、練習は終わりになるが、すぐ後で主人公は事実を知る。光化学スモッグ注意報が発令されたという校内放送があった。誰かが怪我をしてもしなくても、練習をどれほどやっていてもやらなくても、屋外での運動は中止になったのだ。それを隠して、部員たちの希望を聞いてやる「優しい、話のわかる先生」を演じた顧問。その「みみっちい計算」を思うと、主人公は泣きたくなる(以上P.51~58)。

 ここに描かれていることの前提に疑念を持つ人がいるかもしれないので、註記しておこう。なんで部活動がこんな状態になるのか? 出席が義務づけられている授業と違って、部活は原則自由参加だ(部活動全員強制加入の学校もあるが、それはここでは除く)。練習をさぼりたいくらいなら、入らなければいいだけの話ではないか? また、自分が中学高校時代に部活に打ち込んできた経験のある人の中には、厳しくしごいてくれる顧問に感謝している、それこそ「よい先生」ではないか、と自然に思っている場合も多いだろう。
 そのような部活動は今でもあるが、そうでないのもある、ということである。最近の統計的な資料など、あるのかどうかさえよく知らないので、全体としてどちらが多いのか、確かなことは言えないが、次のような感覚が広がっているのは、教師として肌身に感じている。
 授業でやる勉強よりは、部活でやる運動のほうが好きな子はもちろん多い。陸上競技が好きだから陸上部へ入るのであって、嫌いな子が来るわけはない。しかしその全員が、非常に苦しい練習を乗り越えてまで、実力をつけたいと念願しているかどうかは、また別の話になる。いくら好きでも、全国大会に出場できるほどの者はもとより少数であり、その他いろいろ考えても、運動をやったことによって報いられる見込みは、勉強よりもっと少ない。今の子どもにはその事実は知れ渡っている。と、すれば、好きなことは、好きなようにやりたくなる。
 とはいえ、運動をやる以上、体力や技術が向上すればやっぱりうれしい。その喜びがないとしたら、部活はやらない。このへんの機微は非常に微妙であって、あまり強くない部の顧問になった教師は、それを視野に入れて、やっていくしかないのである。生徒の感情を無視して、むやみにスパルタでやっても、まるっきり放っておいても、その部活は早晩崩壊する公算が高い。 
 
 『蹴りたい背中』中の部活は、明らかに、スパルタ式訓練が通用する種類のものではない。生徒たちは、あまりきつい練習はしたくないので、甘えるふりをして、顧問教師を丸めこもうとする。教師は、丸めこまれたふりをして、なんとか体面を保ちつつ、部活を存続させようとする。
 そんなに悪いことだろうか? とりあえず、教師と生徒の関係は良好なのだ。みみっちい計算が双方に働いていることは確かだが、見方を変えれば可愛いものだとも言えるだろう。主人公にしても、全国大会を目指すほど陸上に入れあげているわけではない。ここでも問題になるのは、彼女の潔癖さである。人間関係で働くインチキは、それが卑小なものであればあるほど、許せなくなるという、やっかいなリゴリズム。
 私は、かつての文学少年として、彼女に多大な共感を覚えるが、残念ながら、馬齢を重ねるうちに、こういう感覚のままに生きていくのは非常に難しいことも学んでしまった。いかにも、本当の信頼関係は馴れ合いとは違うだろう。しかし、実際の生活の場で、この二つを区別することは口で言うほど簡単ではないし、区別する必要性が感じられることは、学校でもよそでも、めったにないのである。

 教師だって「もてたい」のだ、ということは率直に認めておいたほうがいいだろう。こういうところでは、教師はまったくもって「ただの人」に過ぎない。当たり前の話だけれど。
 誰だって、他人に嫌われるよりは、好かれたほうがいいに決まっている。『蹴りたい背中』の主人公のような、潔癖な性向のままに、厳しい生き方を選択した者でさえ。「人間(生徒たち)に囲まれて先生が舞い上がる度に、生き生きする度に、私は自分の生き方に対して自信を失くしていく」
 別の箇所では、「長谷川は練習を頑張るから、これからは伸びるはずだ」と、嫌いなはずの顧問教師から言われ、不覚にも涙ぐみそうになる(P.109)。人に認めてもらいたい欲求は、人間として最も根源的なものの一つだろう。そのために多少不純な手練手管が働いたとしても、そんなに咎めるべきことではない。

 問題はこの先にある。それでもやっぱり教師は、生徒と馴れ合ってばかりではいけない。
 馴れ合い、とは、教師もまた、部活なら部活、クラスならクラスの空気にある程度合わせるということだ。『蹴りたい背中』の、陸上部の顧問教師も、そうだ。それは、教師もまた生徒とともに学校で生活する者である以上、ある程度は必然であり、必要なことでもある。ただ、度をこしてしまうと、まずいことになる。

 『教育幻想』には、「教室の空気にあわせ過ぎてしまう」例として、昭和61年当時、かなり話題になった「葬式ごっこ」が出てくる(P.126~129)。ある生徒が病気でしばらく休んだとき、この子が死んだことにする遊びが始まった。追悼のための色紙がクラス内をめぐり、かなりの人数が書き込む。「安らかに眠ってくれ」とか、なんとか。そこに、担任教師も書き込みをしていた、というあの事件である。
 この子どもは他でもいじめられており、「このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」という悲痛な遺書を残して自死した。そうでなければ、「葬式ごっこ」が世間に知れ渡ることはなかったろう。ひとたび知れ渡ったら、教師がなんという非常識な、いや、非道なことをするのだ、という憤激が、全国的に湧き上がり、以後、「いじめ」は、最も重要な教育問題であると認知された。
 冷静に考えると、この教師の行動はどこから出てきたのか。菅野の指摘を待つまでもなく、葬式ごっこは、「軽いノリ」・「ほんの冗談」の調子で行われたのに違いない。色紙に書き込んだ生徒の大部分はもとより、ひょっとしたら首謀者(この「遊び」を始めた生徒)もそうだったかも知れない。そこに、教師も巻き込まれていった。つまり、おふざけ気分を共有して、生徒との「連帯」を得るために、書き込んでしまった。それがおそらく真相に近い。

 こういう事態を招く原因の一つには、明らかに、従来からの教育観もある。教師は、生徒との信頼関係こそ大切であり、常に生徒の事情や気持ちを思いやることが求められる、とする、今でもおなじみのアレだ。まちがいだと言うつもりはない。しかし、お互いに対立することも珍しくないクラス内の個々人の「気持ち」を掴み、いちいち的確に対応していくなんて、並の人間には至難だ。勢い、クラスの多数派に同調しがちになる。そこに危険がある。
 どうすればいいのか。「友だち教師」がダメなら、教師は、昔はあったとされている「威厳」を取り戻せばいいのか。これまた、非常に難しい。特にそれを、教師個人の力だけでやれ、ということになったら、はっきりと不可能だ、と申し上げたほうがよい。
 昔の教師がエラかったとすれば、それは、世間に「教師はエラいってことにしとこう」という暗黙の了解があったことを意味する。この点で菅野の言うことは全く正確である。「(教師が)ときには「上からものを言う」ことも大切なのです。でもそれは周りの支えがない状態で、一人の先生の力で行うことは不可能です」(P.132)
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学校のリアルに応じて その2

2011年01月18日 | 教育
メインテキスト : 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成2)

サブテキスト : 綿矢りさ『蹴りたい背中』(河出文庫 平成19年 平成22年26刷)
 この小説の主人公は高一女子で、クラス内での「余り者」だと自分で言う。すすんでそうなったのだ。
「私は、余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌だ。できた瞬間から繕わなければいけない。不毛なものだから。中学生の頃、話に詰まって目を泳がせて、つまらない話題にしがみついて、そしてなんとか盛り上げようと、けたたましく笑い声をあげている時なんかは、授業の中休みの十分間が永遠にも思えた」
 明らかに、すべてのグループがこうではない、というか、すべての子どもがグループをこう感じているわけではない。不毛さはあっても、なんとかやり過ごす。それを過剰に気にして、嫌悪感にさえ襲われるのは、太宰治のファンで、自分でも小説を書こうとするような(主人公がそうだとされているわけではないが、作者はたぶんそうだろう)、自意識が強くて感受性が鋭く、人間関係に関して非常に潔癖な者だけだろう。
 中学時代の友人で、今度もたまたま同じクラスになった娘は、憧れだったという男女混成のグループに入り、主人公を誘う。グループに入れてくれるように、他のメンバーに頼んであげよう、と。そんなのにはとうてい耐えられない主人公は、逆に、「二人でやっていこう」と申し出るのだが、相手からは「遠慮しとく」とすげなく断られる(以上はP.22~23)。
 この友人にとって、グループに入るかどうかなんて、選択の余地はない。入らなければ、「想像するだけできつそう」な事態を招くのはわかりきっているのだから。

 クラスの中で居場所のない者は、自然に皆から軽んじられる。存在がきちんと認められないから。それだけならまだしも、自分で自分の存在が軽いものに感じられてしまう。いや、そうではない。軽くて、どうでもいいのは、自分以外の外界だ。しかしそれは結局同じところへ人を導く。
 例えば、夏休み前に体育館で、スライドを見るための全校集会がある。一人で入った主人公は、ガムテープ貼りで床に巡らされたケーブルを足にひっかけてしまう。グループに属している子は、こういうときでも、にぎやかにおしゃべりしながら移動するから、床なんてろくに見ていないのに、ケーブルにひっかかるようなことはなく、一人ぼっちで、しかもうつむき加減に歩いている彼女が、下にあるものに気づかない。
「私は、見ているようで見ていないのだ。周りのことがテレビのように、ただ流れていくだけの映像として見えている。(中略)学校にいる間は、頭の中でずっと一人でしゃべっているから、外の世界が遠いんだ」(P.89)
 こういう人は、外の世界の側から見ても、やっぱり遠く感じられるしかない。しかし、「目立たない子」というわけではない。そういう子は、グループに入って、大人しく微笑んでいる。『蹴りたい背中』の主人公は、微笑みを向ける相手もいないから、こわばった顔つきで、目つきも鋭くなり、外からは微弱な敵意を発しているように見えてしまう。そこで、外部からも、軽い敵意が返される。
 どうにも悲劇的なことに、遠いところにあるはずのこういう感情を、主人公はとてもよく察知する。もともとそういうことに過度に敏感だったからというだけではなく、一人で自分の内面だけを見つめていると、他者のまなざしを受け流してやり過ごす場所がない。それでその視線の意味は、ストレートに、重くのしかかってくるのである。
 やり過ごす場所を与えるのはグループだ。ただそれだけ、の不毛さのほうをやり過ごすことができれば、という条件つきでだが。それでも、人間関係が織りなす感情上の煩わしさから逃れるには、まだしもこちらのほうがいい。
 別の道はないのだろうか? 主人公のクラスメートで、同じく「余り者」である男子生徒は、いっこうにそれを苦にする様子はない。彼はいわゆるオタクであって、あるアイドルに夢中で、他のことは本当に、心からどうでもいいのである。主人公は、彼が持つ「強さ」に惹かれるが、それはどうも恋愛とは決定的に違う何かだ。これを描くのが、この小説の主眼である。

 菅野仁は、ここまで自意識の強い子のことを考えているわけではないし、オタクをどうにかしようというのでもない。『蹴りたい背中』の世界は、まだいじめにまでは至っていないが、グループ内で「仲良し」を繕うことに飽き果てて、緊張感が高まったとき、悪意の標的になるのは、まちがいなくこの主人公のような子ではあるのだが。率直に言って、それ自体は、「教育」の範囲でどうこうできる問題ではない。
 最悪の事態を避けるために菅野が出した処方箋は次のようなものである。「みんな仲良く」なんて単なる幻想だ。グループを解消しようなんていうのも実現不可能。気を遣うべきなのはそんなことより、「小集団を認めつつ、ネットワークをどのように作れるかということです。あるいは、孤立する子どもを無くしたり、あまりにも対立が激化しないようにするにはどうしたらいいか考えていくことです」
 こういう場合の教員の力量とは、グループとは別のネットワークをクラス内に作り上げていくコーディネーターとしてのものだ、と彼は言っている。具体的には、「まめに席替えをしたり、掃除当番のメンバーを変えたり、いろいろな仕掛けをして」いくことだ(以上P.62~64)。
 それだけ? と学校外の人からは反問されるかも知れない。実際は、それだけでもそんなに容易ではない。今の子どもにとって、環境が変わるのは一大事なのだから。席替えの結果、周りに溶け込めないと感じて、登校拒否になった事例も、少数ながら存在する。どんなやり方でもそうだが、ただむやみにやればいいというもではないのだ。
 もっと簡単なものだと、ある教師から次のようなやり方を聞いたことがある(一部ではかなりポピュラーな方法らしい)。プリントを配布するとき、班ごとや列ごとに渡して配らせるのだが、このとき、数をきちんと数えないで、いい加減に渡す。当然、余るところも足りないところも出てくる。それは放っておく。すると足りない斑や列は、余っているところへ行ってもらって来なければならない。それだけでも、最小限の人間関係ができる、と言って言い過ぎなら、そのきっかけはできる。
 またしても、「それだけ?」であろう。そう、いわゆる力量のある教師は一応別にして、一般的な教師にできることは「それだけ」である。でも、やらないよりはましだ。そうであるならば、学校に、一般的に期待してよいのは、「それだけ」である。「それだけ」を、したかしなかったかにかかわらず、最悪の事態になってしまった場合の対応策は、別に考えられなければならない。
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学校のリアルに応じて その1

2011年01月16日 | 教育
メインテキスト : 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成22年)

 良書である。教員としてとっくに知っていたはずのことに、改めて気づかされた。

 最近(といっても私が教員になってからもう顕著であったから、軽く四半世紀は経っている)の学校では、生徒たちは、クラス内で、2人~6人から成る、小グループで過ごすことが多くなった。以前から、基本的に同性同士による、「仲良しグループ」はあったに違いないが、その存在感が非常に大きくなった、と言ってよいだろうか。逆に言うと、30人~40人の、クラス全体で何かをしよう/しなければならない/したほうがよい、とする意識は、非常に薄くなっている。
 その理由は、というより同じことを別の角度から言うだけかも知れないが、大きな集団を率いるリーダーが非常にできにくくなっている。文化祭などのイベントのとき、クラスで何かをしようとして、クラス委員などが一定の方向で皆をまとめようとしても、そのこと自体がウザがられてしまう(実は、教員が同じことをしようとしても、往々にしてそうなる)。

 以下具体例。
「じゃあ、おでん屋をやろうな。みんな、買い出しと、調理と、販売と、宣伝と、会場作りの係のどこかへは入って」
などと呼びかけても、クラスの半数以上に知らん顔をされたりする。「オレ、おでん屋なんてやりたくねえもん」「かったりい。やりたい人がやれば」等々と、口に出すか、より多くの場合、態度で示す。「放課後に仕事をするから、残って」と言っても、帰ってしまう。
 
 やや脱線。それでも文化祭はできる。半数以下の人間が仕事をするからだ。それも各分野毎に、少人数で、横の連絡もほとんどなしに、勝手にやる。調理がやりたければ、その人間が自分たちの裁量で食材を買って来て、やる。飾り付けが好きな者は、手にはいる限りの材料で、好きなように会場を整える。一人の人間が複数の分野にまたがって活躍することはあるが、一人ではやらない。最低二人でやる。ただし、協力者は多くても四、五人は越えない。これが即ち「仲良しグループ」の規模である。文化祭のときの作業に限って言うと、最初は係でなかった者が、「なんだか面白そうだな」と途中から加わることもあるし、係だった者が「面白くないから」と帰ってしまうこともある。
 それでもできる。それでできるようなことしかやらないし、やらなくてもいいのが文化祭だから。今の文化祭の、クラスの催し物は、たいていそんなふうにしてできあがっている。

 元にもどって。
 大集団の中で、一定の役割を、責任をもって果たす、ということは、敬遠される。そんなこと、つまらないし、意味も感じられない。授業と、他にはホームルームと掃除ぐらいしかやることが定められていないふだんの学校生活では、自然にそうなる。勉強は、結局は一人でやるものだ。仲間なんて必要ない。それなら、一人で過ごしてもいいようなものだが、そうはいかない。休み時間、特に昼休みを楽しく過ごすための居場所を確保する必要はあって、そのためにグループが形成される。

 これだけなら、こんなグループなんて大したことはないじゃないか、と思われるかも知れない。前に言ったことの反対が、これの特質になるはずだから。
 まあ、その通り。集団として追及すべき目的などない。お互いに関する責任など、特に感じられない。このグループはまず第一に、いっしょに昼ご飯を食べるためのものだ。それから、休み時間に適当にダベったりふざけ合ったりして、まったり過ごすための。特に女子の場合、いっしょにトイレへも行ったりする。放課後や休日にいっしょに遊ぶことはあるが、そうでないグループもある。
 いずれにしろ、「責任」なんぞという大仰なものを背負わなければならないとしたら、グループの本来の主旨に反する。笑いのタネにできるような愚痴ならいいが、場の雰囲気が重くなるような深刻な悩みを、ストレートに口にするのはタブーである。そんなことをするために集まっているわけではないからだ。
 そう、こういう仲良しグループにもルールはある。結局のところ、ホンネは言えない。だから、グループのメンバーではあっても、自分のことを本当はどう思っているかはわからない。どういう意味でも、相手を本当に必要にしているわけではないから、いつ解消されても不思議はない。実際、ちょっとしたことがきっかけで、グループが崩れることもあり、そうなるとそこで、取り返しがつかない人間関係上のしこりが残ったりもする。
 
 というようなわけで、「目的もなく、責任もない」からお気楽なはずのグループもまた、独特の緊張をはらんでいるのである。4月の、新クラスが始まってまもなく、グループが形成され、5月から7月、さらに夏やみ明けと、時が経つに従って、緊張も高まる。
 メールを受け取ったら、1時間以内にレスを出さなくてはならない、そうしないのは友だちではない、などというルールが作られたりする。グループへの忠誠を示す儀式であり、冗談半分を装いながらこんなことをすることで、逆にグループの意味が生まれるようにも感じられる。いや、それもまた冗談半分だが。
 それから、みんなが知っている特定の誰か、クラスの他の生徒や先生への、悪意を共有することで、グループの意味を後づけるやり方も、非常にポピュラーだ。人間とはこれほどまでに「意味」を求める、求めないではいられない存在であることに、あらためて驚かされる。

 菅野は前著『友だち幻想 人と人の“つながり”を考える』 (ちくまプリマー新書 平成20年)からひきつづいて、このような現象を「同調圧力」「スケープゴート理論」という用語で説明しようとする(『教育幻想』P.60以下)。以下、彼が問題点として挙げていることをまとめると、
(1)このような小グループは、グループ外の者に対しては「特別に何かもめ事があるわけでもないのに、潜在的な対立・敵意から生じる緊張感を醸し出している場合が多い」
(2)「こういう小グループは、非常に親密で過度に相互に依存した形で閉じた集団になる場合が多い」
(3)「こうした小グループは、ほかの集団に対する「排他性」というものがとても強くなる」
 (1)と(3)が「スケープゴート理論」、(2)が「同調圧力」に関するものだろう。ほぼ、首肯できる。この二つは、互いに表裏の関係で結びついている事情も、察せられるだろう。
 ただ、(2)の部分の「親密さ」に関しては、普通にイメージされるのとはやや違った、現代独特の様相もあると思われ、今回やや詳しく述べた。
 わざわざ言わなくても、特に高校時代がまだ近い過去である若者は、こんなことは先刻、身に沁みてわかっているかも知れない。それでも、私が菅野の本を読んで改めて気づいたように、文章でまとめられると、「ああ、あれはこういうことだったんだ」と気づくこともあるだろうし、高校時代など遠い昔の話で、ノスタルジイで美化された思い出しかない大人たちには、伝えておいたほうがきっといいだろう。
 さて、学校内のこういった微妙な人間関係は容易に病理的なものに転じる。それの処方箋も菅野は提出している。その検討は後でしよう。
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