由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

別役実論ノート その2(象・上)

2020年06月15日 | 

Hiroshima mon amour, 1959, directed by Alain Resnais

メインテキスト: 『別役実評論集 言葉への戦術』(烏書房昭和47年)

Ⅱ ヒロシマの語り難さ
 「原爆一号」と呼ばれた男がいる。
 本名を吉川清といい、三十四歳のとき、広島の電鉄会社からの夜勤明け、帰宅した瞬間に被爆、奇蹟的に一命をとりとめ、翌年妻とともに広島赤十字病院に入院した。
 背中一面に負ったケロイドは、生存者中最大のものであるところから、まず医療関係者の間で有名になり、昭和22年、『ライフ』『タイム』など外国人記者団の取材を受ける。このとき『ライフ』誌に載ったケロイド写真にATOMIC BOMB VICTIM No.1 KIKKAWAというキャプションがついたのが、上の通り名の由来。
 26年、たぶん病院の待遇改善を求めたことが仇となって強制退院させられ、原爆ドーム横にみやげもの屋「原爆一号 吉川記念品館」を出す。翌年「原爆被害者の会」を結成したが、後に内部の軋轢のために脱退している。
 昭和30年は第一回原水爆禁止世界大会広島大会があり、それに先立ち被爆者諸団体を結成した「広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)」が結成されると、常任理事に就任する。38年平和都市建設法によって彼の店は壊され、44年からはバー「原始林」を経営した。61年に亡くなっている。
 以上のような経歴は、原爆被害者としてはそれほど珍しくないのだろう。たった一つ、特別な名前で呼ばれたことを除いては。この名は元来、吉川本人よりは、彼の背中一面のケロイドにつけられたものだった。そして彼は、半ば以上自らの意思で、だろう、これをずっと引き摺って生きた。つまり、原水爆禁止大会などの機会に、背中を聴衆の目に曝し続けた。
 現在では土門拳の写真集『ヒロシマ』(研光社昭和33年)などでその姿を見ることができる。新藤兼人監督「原爆の子」(27年)やアラン・レネ監督「ヒロシマ モナムール」(1959年。日本公開時の題名は「二十四時間の情事」だが、これはどうにも気に入らないので、使わない)などの映画にも出ている。いずれも当然のように、ケロイドを見せて。

 こんなことで目立つのは、いいことばかりではない。吉川自身の著作『「原爆一号」といわれて』(ちくまぶっくす昭和46年)にはこうある。

 “原爆一号”といえば、大きなケロイドのあることをよいことにして、図々しくも自ら“原爆一号”などと称して、売名とケロイドを売り物にして生きているいやらしい奴ぐらいにしか思っていない人もまた、少なからずあったようである。
 その証拠に、そうしたたぐいの非難や中傷をいやというほどに、直接間接に聞かされてきたものであった。中には悪意に満ちたものもまれではなかった。


 非難や中傷は、まず諸肌を脱いでケロイドを人目に曝す手段のあざとさ(に、見えてしまう)に由来する。結果として吉川個人が目立つことへの反感もあった。自分が作った「原爆被害者の会」を辞めた事情を初め、彼の本に出ている具体例はたいていそれである。
 しかし、そういうはっきりした形をとる以前の、彼の背中を目の前にした人々の微妙な戸惑いは、書かれない。たぶんそれは言葉にならない、してはならないものだ、と感じられたから。
 今そこを簡単に述べておこう。背中一面のケロイド、それは正に、科学技術がもたらした蛮行の証である。それでも、原爆ドームとは違って、彼は生きている。そこにあるのは、我々同様生活している男の生身である。それを目にするについては、男の明確な意思が働いている。我々はそれを、どう扱ったらいいのか。
 外国人記者団の前で服を脱いだときの心持ちを、「見とりやがれ。このオレの身体を、ピカで生き残った証にしたるけんの。そうでもせにゃ、やれんわい」と表現している。決して歴史になり終わらない生々しさ。それに対して誰が、何をできるのか。それとも、何もできない無力さを認めるべきなのか。そのような決意を、この意思は言わず語らずのうちに迫ってくる。
 取敢えず我々は、戸惑い、立ち尽くすしかない。やがて目を逸らして、忘れるだろう。それでも、その前に、戸惑い立ち尽くすこと自体に、何か意味はないのだろうか。

 「ヒロシマ モナムール」のシナリオを書いたマルグリット・デュラスは、映画冒頭部分のシノプシスに、次のように記している。

何について、彼らは話しているか? まさしく、ヒロシマについて。
彼女は彼に向って、自分はヒロシマですべてを見たのだと言う。彼女が見たものが画面に現れる。それは、怖ろしい。しかし、それに対し、彼の声は否定的な調子で、空しいさまざまの映像を非難するだろうし、また彼は彼女がヒロシマで何も見はしなかったのだということを、個人の立場を離れて、我慢がならないといったふうに、繰返し語るだろう。
彼らの最初の言葉のやりとりは、従って寓意的なものとなるだろう。それは結局、オペラの言葉のやりとりとなるだろう。ヒロシマについて話すことは不可能なのだ。なしうるすべてのこと、それは、ヒロシマについて話すことが不可能であるということについて話すことである。ヒロシマについての認識は、精神の陥る典型的な罠として、先験的に設定されているので。
(マルグリット・デュラス 清岡卓行・坂上脩訳『ヒロシマ、私の恋人/かくも長き不在』筑摩書房昭和45年。太字は引用者。以下同じ)

 この映画に吉川のケロイドの画像を使ったのはたぶん日本のスタッフで、デュラスはそのことも、吉川本人のこともあまり知らなかったのではないかと思われる。彼女は日本へ来たこともなく、従って広島を直接目にしたことはなかった。フランスにいて、ヒロシマの語り難さに、そしてそのことこそが語らねばならないことに、思い至ったのである。
【吉川のほうは、映画好きを自認していて、「原爆の子」「ヒロシマ モナムール」から「はだしのゲン」(昭和55年作)に至るまで自著でコメントしている。しかし、「象」については全く言及がない。たぶん、知らなかったのだろう。】

 「象」は別役実の発表された戯曲の二作目に当り、現在に至るまで彼の、そしてまた戦後日本戯曲の代表作に数えられている。別役もまた、吉川のことはよく知らず(内田洋一『風の演劇 評伝別役実』―後出―によると、土門拳の写真で見たぐらいがせいぜいらしい)、デュラスの戯曲「セーヌ・エ・オワーズの陸橋」は評価しているが、「ヒロシマ モナムール」から直接何かインスピレーションを受けた、ということはなさそうである。しかし彼は偶然にもこのフランスの女性作家と非常に近いところから創作した。
 以下では、上記を含めて、「象」で採用された方法論について、別役自身の遺した言葉から考えてみよう。『言葉への戦術』には、初期に上演された際のパンフレットに書いたものが三つ収められている。まず年代順に題名・年・上演団体を記し、以後は①~③の番号で記述する。
① 「赤い鳥のいる風景――「ヒロシマ」との関係を探るために――」・昭和42年・企画66
② 「盲が象を見る」・昭和43年・早稲田小劇場
③ 「ヒロシマについての方法」・昭和45年・青年座
【現在知られている「象」は改訂稿であって、戯曲は『新劇』昭和40年8月号に発表され、同時期の7月青年芸術劇場(青芸)によって俳優座劇場で初演された。別に初稿があって、昭和37年劇団自由舞台の旗揚げ公演として、鈴木忠志の演出で所も同じ俳優座劇場で上演されている。翌38年自由舞台の機関誌『劇場評論』No.2に戯曲が掲載されたとのことだが、私は未見。
 ところで少し気になるのは、①には、別役が初めて広島を訪れたのは昭和41年の秋だと記されていることだ。すると「象」は、改訂稿も、実際の広島を見ずに書かれたことになる。それはデユラスと同じではあるのだが、どうも①の調子はそれには相応しくない。因みに私は『新劇』昭和40年8月号所収のテキストは確認しており、その後再び改稿されていないことは断言できる。
 偶然だが、③には、原民喜が、原爆投下以前に、レストランの丸天井が崩れる幻覚に襲われたことを書いたエッセイが紹介され、「記憶の修整」と呼ばれている。同じことが別役にもあったのかも知れない、ぐらいに思って、以下の引用文を読まれたい。】

(前略)私はひなたくさい原爆記念館に陳列されたゆがんだ弁当箱や、ケロイドの写真の前でどうしていいのかわからなかった。それらは、奇妙に生々しいのだが、ちっとも具体的ではなかった。その時なのだろう。私の中構築されていたかに見えた「ヒロシマ」がガラガラと崩れ去っていったのは。そして、ドームを中心に広がる、荒涼としたものだけが残ったのだ。

 原爆資料館の弁当箱は、究極の暴力によってそれが使われていた日常の場から引き離された。その歪んだ形から、暴力の恐ろしさは偲ばれるだろう。いずれにしろ、そこにあるものはあくまで終わってしまったものの結果であり、一見きわめて明確である。
 数多の言葉がその上に積み重ねられる。そういう行為を、我々は普通、ヒロシマを語り、理解することだと呼んでいる。
 けれどもし、それをもう一度、日常性の過程にもどすことができたなら、歪みは耐え難いほどの具体性を備え、ゲンバクの、それがある日突如として一般人の生活の場に侵入してきたことの「意味」を語るのだろう。
 
 そのために必要なのは、まず第一に、「見る」ための新たな方法である。②にはこうある。【以前にも引用した

 象は、当時、われわれ「目明き」にとってハッキリしていた以上に、現在、ますますハッキリしてきたかに見える。ほとんど理解し尽くしたかに……。
 しかし、どんな「目明き」が、象を「太い柱である」とか、「大きなうちわ」であるとか、「厚い壁」であるとか断言できるだろうか……? また「太い柱」である、と断言することによって、それにつながって広がる量と、それに対する不安を、誰が、それ以上に感じ取れるであろうか……?
 ある漠然とした空間がある。その空間については、盲が象を見るようにしてしか、見ることが出来ないという奇妙なメカニズムが存在する。陰湿なマイナスの世界である。

(中略)
 盲は何故象に手を触れたか? 漠然とした巨大なものに対して、一つの関係を築きたかったからである。目明きが笑うか笑わないかは、盲の知るところではないし、象が果たして、柱であるかないかも問題ではない。盲は、むしろ、象と自己との何かを探ったのである。盲にとってこそ象は理解されるべきだというのは、知るということがこういうことだと思うからである。

 デユラスの言う「精神の陥る典型的な罠」を回避するためには、迂回路を辿る必要がある。
 リトルボーイの破壊力、その被害の総体を示すことは、言わば象の画像を見せ、象の表面積と体重を測ってみせるようなものだ。そういうことを我々は「象を理解する」ことだと思っている。別に間違ってはいない。が、その「分かり方」によってかえって見失われるものがある。
 途方もなく巨大なものと、比べればあまりにもちっぽけな人間との関係。
 別役が舞台上で表現しようとしたのは、ある状況のために必然的に「誤った認識」に陥るしかない人間の視点だった。象の一部を「うちわ」とか「大きな柱」と断定することで、象は「そうではない、何か巨大なもの」だと、漠然と、不安のうちに意識される。そしてまた、その「正体」は極められないからこそ、反対側に「それをそう感じずにはいられない自分とは何か」、という問いも立ち上がる。
 ③にはこうある。

 その日原子爆弾がヒロシマに落とされた事実を、政治的な経済的なカラクリをもって説明する事など何でもない。それは被爆者の悲劇を、被爆当時の苦しみや、その後の病状や、生活の困窮や、社会的な差別の実情で説明するのと同様である。それら結果として表現された様々なものを無限の彼方に据え、それを究極に於て拒否するものを自らのうちに確かめる行為こそ、先ずもってなされなければならない。そこにしか、ヒロシマに対する方法はないのである。

 「私はヒロシマですべてを見た」「君はヒロシマで何も見なかった」という「ヒロシマ モナムール」冒頭の男女(岡田英次、エマニュエル・リヴァ)の対話は、見ようとすればするほど見えなくなるものがあることを示している。その上で、消えない心の傷を抱えて、一夜限りの愛を交わす彼らの孤独な魂の響き合いの彼方に、何かが、本当に語るべき、見るべき何かがあることを暗示する。
 一方、別役が劇を展開するために使った動力(ドラマトゥルギー)は、独特の「芸」だった。
 別役劇の主人公としてお馴染みの漂泊者は、アーサー・ミラー「セールスマンの死」を原基とするが、最初芸人として現れた。
【「セールスマンの死」は、昭和35年、早稲田小劇場の前身である自由舞台が、鈴木忠志演出・小野硝主演という、「象」の初演と同じコンビで上演しており、このとき別役は舞台監督をつとめた。その影響については、別役自身が岩波剛のインタビュー「別役実氏に聞く」(『悲劇喜劇』昭和53年4月号)で以下のように言っている。
あのウィリー・ローマンの形象に対する思い入れというのが非常に強かったんじゃないかという感じがするんですよ。ぼくの場合、たいてい男が主人公になってでてくるのですけれどもね、それはどうも、ずっと連続して、ぜんぶウィリー・ローマンの変形ではないかという感じがする」】
 もちろん、ケロイドが芸であるはずはない。ただし、それを積極的に人に見せようとする決意は芸そのものだ。そのことは、カフカの短編小説「断食芸人」を劇化した「獏」(昭和46年。『別役実第三戯曲集 そよそよ族の叛乱』所収)の時にはっきりと明言される。

 ところで断食芸人は、興行師と共に一つの街に現われ、想像を絶するほどの長時間の断食を宣言し、それに挑戦してみせるわけであるが、実に思いがけないところに矛盾を露呈するのである。断食芸人の芸人たるゆえんは、断食もまた芸であるとしたその決意のうちにあるのであって、実際の断食行は単にその結果にすぎないのであるが、観客はそう見ない。観客には、結果としての断食行しか見えないから、それが芸であるならば、それは断食する事なしにあたかも断食をしているが如くにふるまう芸に違いない、と考えてしまうのだ。つまり、こっそり食べる芸である。(「断食芸人の悲哀」初出は『朝日新聞』昭和46年10月)

 背中のケロイドを見せつけられたとき、我々は疑わずにはいられない。これは同情を惹こうとする行為なのか。もっと端的に、目立ちたいのか。彼はどうしても孤立する。
 もっとも、孤立ならずっと以前に始まっていたのだろう。生産にも、共同体の維持にも、歴史を振り返ることにすら関係なく、ただただ彼個人の事情と思いを突き出しているだけなのだから。しかし、個人的なこのような思いを、個人的だという理由で無視し去るのであれば、「人間そのもの」も消えてしまうだろう。
 共同性にも歴史にも回収されないから、対応するとすれば神しかいない人間性のこの部分は、「魂」と呼ばれるのに最も相応しいのである。「私に言わせれば、農夫には魂なんか必要ではないが、旅芸人には、スパイや裏切り者にそれが必要なように、魂が、それこそ必要なのである」(「「獏」創作雑感」初出五月舎「獏もしくは断食芸人」上演パンフレット昭和47年1月)
 以後、別役劇は、スパイ、裏切り者、そして元のセールスマン、などなど様々に姿を変える魂の持ち主たちを主軸として展開する。だから、「象」こそ別役実の出発点と呼ばれるべきなのだ。
 つけ加えるならば、ここには、現代の意識的な作家に固有の、メタ演劇(演劇についての考察を含む演劇)のレベルもある。断食を、またケロイドを芸にするという奇妙な決意は、演劇に携わる決意と同質とされるのだ。

 大げさな言葉を使えば、人間が文明の内に演劇という奇妙な装置を仕掛け、それを操作しているという事実こそが、感動的なのでなければならないのだ。人間が演劇をするという奇妙さは、断食を芸として売る奇妙さと比較して勝るとも劣らないのである。(前出「断食芸人の悲哀」)

 別役は演劇が初源に持っていた衝撃と感動を、多少とも現代に蘇らせようとする野心を持った劇作家だったのだ。その奇妙な決意において、彼自身が、断食芸人や原爆一号と共通点を持っていた。
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