由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

独裁者の条件

2019年08月28日 | 文学


The Childhood of a Leader, 2015, directed by Brady Corbet

メインテキスト:ジャン-ポール・サルトル/中村真一郎訳「一指導者の幼年時代」(『水いらず』所収、原著”La Mur”は1939年刊、新潮文庫昭和46年)

 日本では「シークレット・オブ・モンスター」という題名で公開された映画の原題が、上のキャプションでわかるように「一指導者の幼年(むしろ、子ども)時代」であることを知って、興味を惹かれてビデオで見た。サルトルの短編(むしろ、中編)小説の映画化だとすると、あんな小説がどのように映像化されるのだろうと思ったからだ。その結果の感想は、映画は小説を意識して作られているにもせよ、両者はずいぶん違っている。設定はもちろん、内容も。
 ブラディ・コーベットの映画は、フェルメールの絵を思わせる端正な画面を積み重ねて、大人たちの欺瞞(そのうち最大のものは、映画の最後をよく見て、初めてわかるようになっている)の中で歪んでいく子どもの心理を描いている。結果、何度か癇癪を起こすのだが、こういう傾向は多くの人々を惹きつける要素になり得るのだろうか。プレスコットという名のこの子がそのまま成長すれば、恐るべきテロリストとかシリアルキラーなどにはなっても、リーダーにはならないのではないかな。
 もっとも、プレスコットの造形にはベニート・ムッソリーニの伝記も参考にされているそうで、実際、キリスト教会への反発など、直接連想させるエピソードはある。私の考えはごく狭いものであるかも知れない。それでも、その狭い考えからすると、サルトルの描き出したリーダー(の大本)像は私にとってたいへん説得的ではあるので、今回はこの小説について述べる。

 この作は難解と言うより、叙述の点でかなり読みづらい部類に属する。ほぼ主人公の内面描写にのみ依って展開されていて、状況説明は最小限度に抑えられている。サルトルは後に、自伝の最初になるはずだった「言葉」で同じ手法を用い、かなり成功していると思えるのだが、この場合はどうだろう。とりあえず、私同様、かなりの人が読むのに難渋するのではないかと思う。それからして、以下の概要説明も少しは役にたつのではないかと期待される。

「ぼくの天使のおべべ、きれいね」。ポルチエさんの奥さんはお母さまに話していた。

 これが書き出し。主人公は子どもで、背中に羽をつけた天使の扮装をし、さらに、たぶんスカートを履いて、女装していた。と、いうことは、子どもは男なのだ。クリスマスか何かの宗教的な催しの、アトラクションのつもりで、母親か誰かが思いついたものだろう。【因みにこの冒頭は、映画にも取り入れられている。】
 大人たちの「つもり」については具体的には何も語られない。語られるのは、リシュアンという名の子どもの心だ。皆が彼の美しさを褒め、女の子扱いをするので、自分は本当は女の子ではないのか、そぅでなければいけないのではないか、と思い始める。
 自分自身に対するこの疑いは、やがて周囲にも向けられる。母は女の人だが、本当は違うのではないか。元はズボンを履いていたのに、あるときスカートを履かせられ、それからずっと女として過ごしてきたのではないか。今でもズボンに履き替えさえすれば、髭が生えてくるのではないか。
 いや、そもそも、お父様とお母様は、本当に僕の両親なのだろうか。そのふりをしているだけではないと、どうしてわかる?

お父さまとお母さまは、お父さまごっこ、お母さまごっこ、をやっていた。お母さまは坊やがすこししか食べないので心配だ、というお芝居をやっていた。お父さまは新聞を読みながら、ときどき、リュシアンの顔の前で指を動かして、「よしよし、いい子だ!」というお芝居をしていた。そしてリュシアンもやっていた。しかし、彼は自分でも、もう何をやっているのか、よくわからなかった。孤児ごっこなのか、リュシアンごっこなのか。彼は水差しを見た、水の底に、小さな赤い光が、踊っていた。(中略)リュシアンは、突然に、水差しも水差しごっこをしているような気がした。

 同年に発表された小説「嘔吐」は、主人公が奇妙な非現実感に襲われる部分で有名だ。河原の石はある。公園の木はある。自分の手さへ、ある。「自分」はそういうものとしては、ない、と。リシュアンの感覚はそれよりもっと亢進している、と言えるかも知れない。何しろ、物質である水差しも、本当に「ある」のではなく、「あるふりをしている」のではないか、と感じるのだから。
 実は、表現方法はまちまちだが、このような非現実感(と表現すべきか、も問題だが)、は、私も幼い頃しばしば陥った覚えがあり、けっこう普遍的なのではないかと思う(それとも、私だけ?)。すべては仮象である、とも表現できるとすると、では仮象の裏の「本質」とか「(真)実在」はある、という考えを導きそうである。実際、洋の東西を問わず、宗教的感覚の根底にはたぶんこれがある。ただしもちろん、「本当の存在(の姿)」なんて、常人には見えないのだから、この感覚は、さらなる「ごっこ」をも導く。

リュシアンは祈祷台にひざまずき、お母さまがおミサから帰るときに、彼を祝福してくれるように、おとなしくしているように努力した。しかし彼は神さまはきらいだった。神さまはリュシアン自身よりもリュシアンのことをよく知っている。神さまはリュシアンがお母さまもお父さまも好きではなく、おとなしいふりをしていて、夜、寝床で、自分のあそこをいじる、ということを知っているのだ。(中略)リュシアンは、また、自分がお母さまを好きだと、神さまを言いくるめるようにした。ときどき、彼は心の中で言った。「なんてぼくはお母さまを好きだろう」。いつも、心の片隅に、うまく本気にしないところがあった。そして神さまはたしかにその片隅が見えるのだ。そんなときには、神さまの勝ちだ。だが、ときどきは、自分の言うことのなかに、すっかりはまりこめるときがある。

 不思議なゲームだが、こう言われると、またしても、ありふれているのではないかという気がしてくる。自分の言葉や行為とは裏腹な「心の片隅」を感じるとき、そこに注がれる神の眼差しもまた、感じる。そうでなければ、神なるものを特に意識することはない。その状態を彼は「神さまを言いくるめる」と表現する。そしてこれはまた、「本当の自分」をめぐる内心のゲームなのだった。要するに観念の空回りに他ならないのだから、終わりも見えず、特に面白くもない。

 小説はこの後でようやく主人公の置かれている状況を少しだけ語る。
 時代は1910年代から20年代、即ち両大戦間の世界。
 リュシアン・フルーリエはフェロールという地方で五代続いた工場主の家の子で、将来そこを継ぐことを当然のこととして期待されている。一家は、たぶんリュシアンの教育のために、パリに移住する。彼はリセ・コンドルセでバカロレア(大学入学資格試験)のための課程を修了すると、フランス最高峰の技術系グランゼコール(大大学)エコール・サントラルへの入学準備のために名門リセ・アンリ=ル=グランに入る。このへんで十代後半にはなっているはずだから、「幼年時代」という日本語タイトルはもう相応しくない。

 リセ時代のリュシアンは、前述の感覚を発展させ、世界も自分も本当は存在しないなる思想(か?)に至る。「虚無論」という論文を書こうと計画し、狒々(ヒヒ)という渾名の哲学教授に「ぼくたちは存在していないということを論証できましょうか?」と尋ねる。狒々は「できない」と答える。「きみは自分の存在を疑うのだから、存在しているのだ」と。デカルト「方法叙説」をなぞっているだけだが、言葉の上でこの論理を打ち破ることは難しく、リュシアンも不承不承引き下がるしかない。

 この後リュシアンはベルリアックという文学青年と親しくなり、その影響で精神分析の本を読み耽るようになる。そして、幼年期からの自分の懊悩は、要するにコンプレックスがあるからだ、と納得する。不安は軽減されたが、しかしコンプレックスを決定的に脱するにはどうしたらいいのか。誰か権威ある人に相談したい。
 ベルリアックはベルジェールという名のシュールレアリストの友人がいた。当時のシュールリアリストはアナーキストとほぼ同義であり、革命家兼文化人として社会的名士だった。それと親しいのはベルリアックにとって誇りだったのだろう、リュシアンにはなかなか紹介しようしなかった。ある日カフェで偶然出くわすと、ベルジェールはただちにリュシアンに注目する。それはリュシアンがかなりの美男子だったからだ。これは最初の女装の時から暗示されていて、社会的な(対他的な)リュシアンという人物に関する大きな要素に違いないのに、作中正面から語られることはほとんどない。
 このようにして知己となったベルジェールに、リュシアンは長年の自殺願望を伴う不安を訴える。ベルジェールは彼をアルチュ-ル・ランボーになぞらえ、彼の状態をデザロワ(錯乱)と名付ける【ランボーなら錯乱=デリールではないかと思うのだが、デザロワは最後のオワの音がかっこいいらしい。】リュシアンが文学に入れ揚げていたら、これで大きな満足を感じもしたろうが、そこまでではなかった。
 それでもベルジェールは、リュシアンにとって初めて知り合いになった大人の、大物だった。ベリアックについては、彼の面白いところは全部ベルジェールの猿真似であることがわかった、と言うと、ベルジェールは、「あいつの母方の祖母がユダヤ人だってことを知ってるかい? それが事態をよく説明するね」と応える。生まれて初めて聞く反ユダヤの言説。ごく軽いものだから、返事は「そうですね」で終わりである。
 
 ベルジェールとの関係でより重大なのは、リュシアンが彼と旅行に行き、男色を体験したところだ。これも、ヴェルレーヌ×ランボー関係の模倣かも知れないし、リュシアンにはいかなる喜びももたらさない。
 むしろこの幻滅から、長い間霧に閉ざされていたような真実が現れたような気になる。リュシアンは結局、農民の家系であり、田舎の工場経営者である。自分の家族のみならず、従業員である労働者たちの生活にも責任がある。それには男色家のレッテルは全く相応しくない。わけのわからない抽象的な理由で自殺を考える、などというのも同様であろう。
 かくしてリュシアンは、「足が地に着いた」大人としての道を歩み始める。

 この後ははしょって述べる。
 リュシアンには恋人ができ、普通に情事に耽る。また、ルモルダンという名の、黒髭を生やして堂々とした同級生に惹かれるようになり、彼の薦めでモーリス・バレスを読む。デラシネ(根無し草)という言葉はこの人の小説の題名が始めであり、バレスはフランスの大地に根を下ろした国民性に戻ることを主張していた。

かくしてまたもや、一つの性格、一つの宿命、意識の不滅のおしゃべりからのがれる一つの手段、自己を定着し、価値づける一つの方法が提供された。しかし、フロイトの不潔で淫奔な獣よりは、バレスからさしだされた田舎臭にみちた無意識のほうが、どれほど好ましいことだろう。それをとらえるには、リュシアンは不毛で危険な自己凝視をやめさえすればよかったのだ。

 かくしてリュシアンは少しづつ、アクション・フランセーズを中核とする右翼的な青年たちに近づく。行ってみると、みな髭を蓄えた大人で、政治の話などはめったにせず、笑ったり歌ったり、愉快に時を過ごしていた。レオン・ブルムなど、左翼的な人士に対するかなり不謹慎な軽口が出ることもあるが、それを気にしさえしなければいい。
 少し先回りして言うと、そういうのは思想的云々より、現代日本の嫌韓のような、なんとなくの共感が、特にある共通の対象への反感があればよく、その感情の中身に立ち入ってあれこれ深く考える、なんてやらないほうがむしろいいのである。ドイツへの敗北のような、本当の危機的な状況になれば、そうもいかないかも知れないが、その前には、仲間意識に浸って気楽に過ごすのが一番、口角泡を飛ばして議論するなんて、野暮な青二才のやることだ。
 これを学んだリシュアンは、もう級友たちとの議論はやめる。

 やがて決定的な転機が訪れる。
 リュシアンを議論でうるさがらせた級友の一人に、「ただの共和主義者」であるギガールがいた。彼の妹ピエレットの十八歳の誕生パーティに招かれて行くと、その招待客の一人にユダヤ人がいた。ギガールに紹介され、相手が手を差し出したところで、リュシアンはポケットに手を突っ込み、踵を返して立ち去った。
 外へ出て苦い誇りを噛みしめたのも束の間、リシュアンは馬鹿なことをしたという後悔に襲われる。その少し前に彼は、フランス人を侮辱したユダヤ人を仲間と一緒に殴っていた。しかし、それをこの場にまで引き摺ることはなかった。それは、皆で陽気に飲んでいるときに、突然小難しい議論を始めるのと同等の、あるいはそれ以上の無作法でしかないではないか。
 引き返そうか、とも思った。「ごめんください、気持が悪かったものだから」とでも言って、ユダヤ人の手を握って、ちょっとだけ礼儀に適った会話を交わせばいい。いや、もう手遅れだ、彼の振る舞いは取り返しがつかない。「何もかもだめだ。僕は何者にもなれない」と思いながら、リュシアンは恋人の家へ行き、激しく交わる。
 次の日学校で、ギガールと気まずい思いで顔を合わせると、驚いたことに向こうが謝るのだった。あのユダヤ人とはフェンシングの稽古で会って、それで、まあ、その、つい忘れて……どうたらこうたら。

「親父たちは、きみが正しい、きみに信念がある以上、そのとき、ほかにしようもなかったろうと、言うのさ」。リシュアンは「信念」という言葉を舌の先で味わってみた。

 信念を持つこと、それを言葉ではなく、断固とした行動で示すこと。そうすれば顰蹙も買い敵も作るだろうが、引き換えに曖昧な人間世界の中で確固たる地位を占めることができる。その権利を手にするのだ。「我思う、ゆえに我在り」ではない。「ぼくは存在する、と彼は思った。存在する権利があるから」。

あんなふうにねばねばした親密さのなかを掘っていても、肉の悲しさや、いやしい平等のうそや、無秩序のほかに何を見いだすだろうか。「第一の格言、とリュシアンは思った。自分のなかを見つめないこと。それ以上、危険な過ちはないから」。真のリュシアンというものはーそれを今、彼は知っているのだがー他人の目のなかに求めるべきなのだ

 こうして、彼はリーダーとなった。級友たちの、娘たちの、将来は経営する工場労働者の、さらに恐らくは政治党派の。それは権利というよりほとんど宿命であった。なぜなら、大多数の人間は、愛国主義者であれ自由主義者であれ共産主義者であれ、中途半端な存在でしかないからだ。
 主義の中身はどうでもいい。それをあれこれ論じたりすれば、人々をますます混乱させるばかりだ。彼らには明確な方向を与えてやらねばならない。彼らはそれを望んでいる。その期待に全面的に応えることが出来る者、それこそが自分の存在価値だと認める者、リーダーとはそのような者ではないか。

 ざっと上のような自己発見と確立を、サルトルは「自己欺瞞」と呼んだようだ。一回転した自己放棄と変わらないからだ。しかし、では、「真の自己」とは何か、不完全な言葉を使って、どうやってそこへたどり着くことができるというのか。いや、安易に考えることこそ最も危険なのだ。だから、そこへの大いなる困難を示し得ているだけでも、このような作品には価値があるのだと思う。

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