由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

語る私と語られる私と その3

2011年09月14日 | 文学
インテキスト: 柄谷行人『定本日本近代文学の起源』(岩波現代文庫平成20年、23年第3刷)

サブテキスト: D.H.ロレンス、福田恆存訳『黙示録論 現代人は愛しうるか』(原著1930年刊、ちくま文庫平成16年)

 本シリーズの最大の眼目は、日本おける「近代的自我」の形を検討するところにある。日本ではこれが未熟なのでダメだ、と言われてきたアレだ。それが少し様子が変わってきたのは昭和の最後の頃、1980年代、ポストモダンとかなんとか言われる言説が流行りになった頃だった。
 私にも理解できる範囲でこのへんの事情をまとめよう。自由で自立した「主体的な」個人は、民主主義の大前提である。この「個人」なら、国家権力が無謀なことを、例えば戦争を始めようとしても、ちゃんと抵抗してやめさせることができる、と期待される。日本が無謀きわまりない大東亜戦争をやってしまったのは、このような個人が育っておらず、したがって民主主義が正しく機能しなかったからだ。あのような惨禍を防ぐためには、皆さん、自覚して、りっぱな個人になりましょう。ざっとこのような教説が、戦後すぐは盛んで、その後様々なニュアンスが加わって、さまざまな形になって、一部では今でも言われている。
 ところが、私が大学生だった70年代頃から、ではないかと思うが、「主体」とか「自立した個人」とかいうのは、近代という時代がもたらした迷信である、というような言説がぼつぼつ現れるようになった。まあ、そうかも知れないな、と私など、呑気に思ったものだ。以前にも述べた、ごく単純なレベルで、である。「お前がこれこれのことをしたのはどういうわけか、ちゃんと説明してみろ」と言われて、かくかくしかじかと、筋道を立てて言えるのが、「責任ある主体」なんだろう。しかし、自分のことを虚心に思い浮かべると、たいていの場合そのような説明は「後付け」であって、その当初には、なんとなく「これこれ」をやった、と言ったほうがふさわしい場合が多い、ような気がしたので。
 おそらく、自我なるものが「ある」のかどうか、究極的なことは人間にはわからないのだろう。地球が動いているのか、宇宙が動いているのか、宇宙全体を外から見る視点がない以上、百パーセント定かには言えないのと同じようなものだ。ただ、どっちだと考えたほうが都合が良いか、しかない。例えば、ある人間が罪を犯したとき、人間には元来責任ある主体が備わっていて、何が悪いことかはわかっていて、それにもかかわらずその悪いことをしたから、その人を罰する。刑罰に、このような理屈付けができたのは、近代のことではあるけれど、大昔から、ほぼ例外なく、罪人は罰せられたようである。それは間違いだ、責任ある主体なんてものはないんだから、ということになったら、個人を罰すること自体が無意味になる。それで世の中、やっていけますか?
 どうも、いけそうもないので、我々はやっぱり、「責任ある主体」として生きることを、時には求められることになっている。刑罰の場合を一歩進めれば、日本という国が良くなるのも悪くなるのも、「主権者」たる我々の責任だ、などと言われても、一応納得するしかない。だからと言って、選挙に行く以外に、具体的にどうしたらいいのか、たいていはよくわからないにしても。
 それくらいで、日常を過ごすためには大過ないのだが、文学というのは、この、あるのかないのかよくはわからない「個人」を、できるだけ掘り下げて考えてみようとする試みである。そんな余計なことしなくても、と言う人がいるのも不思議はない。それには、文学好きとしては、人間は考えられることならなんでも考える、たとえ無駄だとわかっていても考えてしまう動物なんだから、仕方ないでしょ、としか言葉はない。

 柄谷行人は、私たちの目には、新時代の、ポストモダンの光背を纏って登場した、ブリリアントな批評家であった(本人は、自分がポスト・モダンだと言われるのは否定するだろうが、無知な者にはそう見えた、ということである)。それが日本近代文学の成立事情を分析してみせたのが「日本近代文学の起源」で、私は昭和五十五年に刊行された単行本(講談社刊)を読んだ。そのときには、逆転の発想と断定で非常に歯切れ良く展開される行文に知的な興奮と爽快感を味わった反面、時に、ここまで言い切ってしまっていいのか、と首をひねるところもあった。このほどやっと読んだ「定本」でも同じような感想が持たれて、まあ私は学生時代から全く進歩していないことがまた明らかになったわけだが、もう少し自分の疑問点を詰めて考えてみてもいいのではないかとも思った。
 これまで田山花袋「蒲団」にからめて、本書の第三章「告白という制度」を瞥見してきたのだが、ここで少し詳細に、この章の後半部分を眺めてみよう。
 そこでは、「内面」は転倒から生じる、と言われている。キリスト教会の、告懈(こっかい)という制度は、人には、神の前でつつみ隠さず告げるべきことがある、とした。これが内面である。ここまでは前回略記した。
 さて、このようにして告げられる内面は、必ず「真実」であろう。神の前で明らかにすべき=ふだんは隠すべき何かが、真実ではないとすれば、どこに真実があろうか。かくして、神に帰依し、そこからもたらされる救いを信じて、「内心」を残る隈なく神の前に曝け出そうとする用意のある「自己」こそ、真実を知る本当の「自己」であり、彼の告白にこそ「自己の真実」はある、と信じられた。
 ここには、抑圧された権力意志がある、と柄谷は指摘する。傍証として、山路愛山「現代日本教会史論」が平岡敏夫『日本近代文学の出発』から孫引きされ、明治初年の日本人クリスチャンには佐幕派の士族が多かったことが挙げられる。彼らは、明治政府からは冷遇される立場だったので、現世での「立身出世」を相対化し、さらには蔑視することを教える「神の王国」=「内面の王国」は魅力的なものに見えた。

 渡来したキリスト教(新教)に敏感に反応したのはもはや武士ではあり得ない武士、しかも武士たることにしか自尊心のよりどころを見出しえない階層である。キリスト教がくいこんだのは、無力感と怨恨にみちた心であった。(P.119)
 キリスト教がもたらしたのは、「主人」たることを放棄することによって「主人」(主体)たらんとする逆転である。彼らは主人たることを放棄し、神に完全に服従することによって「主体」を獲得したのである。(P.121)


 平たく言うとこういうことになる。薩長のやつらは、天皇をかついで、幕府を転覆し、権力者として威張りかえっている。俺たちは転覆された側の人間ではあり、もはや仕えるべき君主もこの世にはいないが、天皇よりもっと偉い全能の神への信仰のおかげで、「真実の自己」に目覚めた。「来世」のことは言わぬとして、今この娑婆にあっても、本当に偉いのは、権力の代わりに真実を得た我々なのだ。
 と、こう言うと、「田作(ごまめ)の歯ぎしり」の負け惜しみでしかないことになる。実際、それはあったろう。しかし、それが、「教義」として、広範囲にわたって組織されると、個人にも社会にも、深い影響をもたらす。日本の近代では、それは独特の様相を見せた。そのことへの顧慮を、柄谷はあまりしていない。こちらで勝手に敷衍して述べさせてもらうことにして、先にキリスト教の本場の事情について、上と同じようなことを指摘した著作をみておこう。

 D.H.ロレンスは、新約聖書中の「ヨハネの黙示録」に、まさしくこのような屈折した権力意志の爆発的な発露を見出している。イエスは復讐を禁じた。それは非抑圧者だったユダヤ民族の権力意志が、この世で具体的な形になることを防ぐためであった。だからと言って、永年ローマ帝国に支配されていた民族の積もりに積もった怨念が消えるわけはない。かくして愛と許しを説く新約聖書の最後に、難解な比喩で粉飾された恨みの情念が入り込んでしまった。
 黙示録(アポカリプス)の予言は、もっとも奇怪な姿で描かれた怪物(=ローマ帝国)が、天の軍隊によって徹底的に粉砕され、屈服させられて、以後キリストによって選ばれた民(=ユダヤ民族)による千年の支配が始まる、というものだ。最後の審判による救済の前に、今自分たちが甘受させられている屈辱はなんとしても雪がれねばならぬ。イエスが何を言い、何をしようと、この感情ばかりは払拭できなかった。
 ただし、責任の一部はイエスにもある、とロレンスは言う。人が集団になれば、権力意志は必ず生じる。人の王たる資格のある者は、彼らをうまく支配してやらなければならない。さもなければ、権力意志は地に潜り、さらに醜悪な形になって、人の世に厄災をもたらす。イエスは、生前、教団のリーダーではあったものの、肝心なところで支配者として振る舞うことを拒否した。純粋な個人でなければ、神の声を聞くことはできない、と感じていたからだ。すると、彼に従う者は迷うしかなく、さらにはイエスへの恨みも生じてきて、ユダの裏切りへと繋がる。

 諦念と冥想と自己認識のための宗教はただ個人のためのものである。しかしながら、人は己れの本性のほんの一部においてのみ個人たりうる。他の大きな領域においては、人は集団である。(P.48)

 平凡な人間は権力者にはなれないが、純粋な個人にはなおさらなれない。権力による適切な秩序のない社会、例えば民主主義社会では、権力意志から自由になれない個人は、他人の足をひっぱることで嫉妬心を宥め、隠微な満足を得るようになる。柄谷行人がたびたび引用しているニーチェは、それをキリスト教道徳そのもののせいにしているが、ロレンスによれば、集団化されたキリスト教のせいなのだ。もっとも、人が集団を免れて生きることができない以上、宗教もまた必ず集団的になるのだから、この二つは同じものだと言ってさしつかえないかも知れない。ただ、私の目下の関心領域は文学なので、「純粋な個人」はある、少なくとも理念的にはあり得る、としたところを重く見たいのである。
 柄谷の立場からすれば、そのような「単独者」の姿こそ後付けだ、ということになるのだろう。それはそうだ。ゲッセマネの園で祈るイエスにしろ、菩提樹の陰で冥想する仏陀にしろ、実際に見た者などいない(いたら、全き孤独というわけではなかった、という、冗談みたいな話になる)。いつの頃からか伝えられてきた話を、はるか後代の聖書や仏典の筆者が書き記したものだ。それでも、このような伝説が生まれ、イコンとして描かれた事実は何ものかである。我々は、「本性のほんの一部において」絶対を求めたいし、それには一人であることが必要だと、大昔から感じてはいるのである。それ自体が何かの転倒、あるいは刷り込みであったとしても。

 話を近代日本にもどす。
 主に明治三十年代から活躍し始めた我が国近代文学の草分けたち、北村透谷、国木田独歩、島崎藤村、田山花袋、などは、皆例外なく、明治二十年代の若き日に、キリスト教に出会っている。どれくらい感化されて、どういう形で作品上に現れているか、それはまちまちながら、そこで彼らが「内面」を知ったことは確実である。そして、「内面の真実」の底には歪められた権力意志があることなどは、伝えたほうも、伝えられたほうも、見なかった。
 それはそうだろう。西洋では、キリスト教は、宿敵だったはずのローマ帝国と妥協し(ミラノ勅令、313年)、さらには国教になって(392年)、ヨーロッパ中に広まった。もっとも、キリスト教の母体たるユダヤ教は異教とされたので、ユダヤ人差別は続くことになってしまったが、キリスト教自体は立派に権力の一部になったのである。日本ではそんなことは起こりようがなかった。国教として仏教があったことより、異民族によって征服された記憶はなく、自然環境も比較的穏やかで、従って全体としてそれほど恨みがましくはない日本人に、キリスト教が広く受け入れられる素地はないからである。
 そのうえ文学となったら、出世とか何とか、そういうことからは落ちこぼれた者がやるに決まっていた。そんな者が宗教からも離れたら、仕えるべき神もなく、自分の経験やら、心に浮かびゆくことどもを、何の根拠もなく普遍的な価値あるものと信じて、あるいは信じたふりをして、押し出していくより他にやることはなかった。日本の場合、おおむね、それが即ち「文学」となったのである。
 以上のようなことは、柄谷行人の関心の埒外にある。彼の目からは、日本における「近代的自我の未成熟」などは、問題とするに足りない。成熟していようが未成熟であろうが、西洋でも日本でも、それは近代国家の、いわば陰画として成立したのだ。

「近代国家」は、中心化による同質化としてはじめて成立する。むろんこれは体制の側から形成された。重要なのは、それと同じ時期(引用者註、明治二十年代)に、いわば反体制の側から「主体」あるいは「内面」が形成されたことであり、それらの相互浸透がはじまったことである。(P.137)

 相互浸透、とは味のある言葉だが、具体的にはどういうことか? 例えばこういうことか。「内面」や「自我」、その表現としての文学が、国家に拮抗し得るとしたら、それが、ごく小規模であっても、中心化・同質化に抗い、ずらし、できれば異化する可能性にしかない。しかし実際には、文学は、同じ国語を話し、同じ文化を共有する「国民」という共同幻想を創出して、国家を強固にするのにいくらか役に立っただけだった。
 文学なんてもともとそんなものさ、と見極めるべきなのだろうか? 比較的近年の『近代文学の終わり』(インスクリプト平成17年)では、柄谷は、日本にはもともと、自律的な個人を求める「内部指向」はなかったし、また今やグローバル資本主義のおかげで、世界的に「他人指向」が強まって、近代的自我の物語は終わった、それはつまり近代も近代文学も終わったことを意味する、と述べている。ただ国家は、資本主義そのものと結びついているので、まだ生き残っている、ということらしい。
 本当だろうか? 「他人指向」とは、アメリカの社会学者ディヴッド・リースマンによる、他人にどう見られているかを主に気にする社会心理の類型(タイプ)のことである(『孤独な群衆』)。それが昔から、特にこの日本では強く、また近年ますます強まっていることには同意する。しかし、人は実際に、他人の眼だけを尺度にして生きていけるものだろうか? 近代文学が滅びたとしても、なるほど、大したことはないかも知れないが、近代的自我もそう言えるのか? いや、それは消滅するようなものなのか? ここにはもっとこだわるべきポイントがありそうに思える。
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