由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

語る私と語られる私と その2(芳子の「堕落」)

2011年08月19日 | 文学
メインテキスト: 柄谷行人『定本日本近代文学の起源』(岩波現代文庫平成20年、23年第3刷)

サブテキスト : 中島京子『FUTON』(平成15年講談社刊、講談社文庫版平成19年、22年第2刷)
 ごく最近この小説を知って、読んでみたら、主要人物の一人が書いたものだという体裁で、作中の折々に挿入される「蒲団」のリライト「蒲団の打ち直し」がことのほかよくできていて、感心した。それに比べると、作品の大枠であるデイブ・マッコーリーとエミ一家の話にはやや退屈したが、まあそれは好みの問題かも知れない。
 で、「蒲団の打ち直し」(この題名からしてまことに秀逸)だけを述べる。ここで、時雄の細君は、美穂という現代風の名前が与えられ、のみならず、主人公の地位も得ている。この一篇は、時雄と芳子の物語を、妻の立場から見る試みなのだ。これによって「蒲団」の世界に、原作にはほとんどない、あってもごく目立たない、批判的な視点が取り入れられる。
 批判の多くは、直接には芳子に向けられている。時雄を魅する豊かな表情にしても、「その顔は美しいというのではなくて、表情がありすぎるのだ。目をくりくり動かしたり、唇を半開きにしたり、とんがらかしたり、美穂のように躾の厳しい商家で育ったものの目には、かえってはしたなく映った。神戸仕込みの、ハイカラの、新婦人の、と夫は無闇と芳子の肩をもったが、美穂に言わせればああいう娘は昔からいた。昔はハイカラと呼ばずにアバズレと呼んだものだ」という具合。もちろんこの批判は直ちにアバズレの崇拝者たる時雄に至るはずのものだが、そこは夫婦なので、どうしてもバイアスがかかる。それがこの小説内小説のキモであり、味にもなっている。
 「蒲団」は、一度岡山へ帰省した芳子が、恋人と京都嵯峨に遊び、どうやら一泊したことも露見し、時雄が懊悩するところから始まる。芳子は、この恋は神聖なものであって、恋人田中との間に「汚れたこと」などない、と言い張るが、信用できるものかどうか。そんなことは、「蒲団の打ち直し」の美穂から見れば問題にならない。
いったい、ツルゲーネフに、何が書いてあったか知らないが、体の一線を越えようと越えまいと、嫁入り前の娘が男友達と旅館に泊まるなんぞはふしだら以外のなにものでもないのであり、即刻田舎へ叩き返すのが娘のため、師としての面子のためでもあり、田舎の親なら話に変な尾鰭がつかないうちに、純朴な田舎男をだまして嫁にやってしまうほかないではないか」と、これが当時の堅気の商家一般の常識かどうか、正確にはわからないが、部分的には今も通用する見方ではあろう。美穂は、なぜ夫がただちにそうしないのか、不審でもあれば歯がゆくもある。
 ただ、「その一方で、美穂もひどく夫の時雄の傾倒する文学だの新時代の思想だのに、何も知らないなりに惹かれるものがあって、時雄があんなにも苦しんでいるのだから、この跳ねっ返り娘の「神聖な恋愛」を、温かく見守ってやるのが師である時雄に添うたものの務めかもしれないなどと」思わぬでもない。美穂は時雄よりずっと、いろんなところに目配りができる人物になっているのだ。
 時雄が芳子を帰したがらなかったのは、「文学だの新時代の思想だの」のためというよりは、「肉欲」に近い感情からである。自分を恋しないまでも、一心に敬慕はしてくれる、甘く華やかな肉体を手放すのが忍びがたいのだ。美穂はそれを正確に見抜くことはできず、芳子と田中の「神聖な恋」の「温情なる保護者」役を引き受けさせられる夫の「お人好し」に同情する。最後に、例の蒲団に付いた、「年頃の娘の漂わせているいかなる香りとも異なる、しかし美穂のよく知る一種むさくるしい匂い」によって、文字通り真実を嗅ぎつける。アナグノリシスによるカタストロフ(破局)で、「蒲団の打ち直し」は小説としてたいへん座りのよい終わりを迎えるのである。
 
 「蒲団」は全く違う。芳子の恋人の発見から始まるこの小説は、芳子が処女であるかどうかの疑惑を大きな動因として展開し、彼女の告白をもってクライマックスに達する。ちゃんとそんなふうに構成されている。芳子と田中に肉体関係があろうとなかろうと、美穂にも、「蒲団」中の芳子の父親にも、大した問題とはされていないのだが、時雄にとっては重大であるなら、そういう描き方も当然であろう。
 重大な問題ならば、だ。しかし、では、真実が明らかになったとき、時雄にはどのような変化が起きたのか。
 告白の直前、もうそれに違いないと時雄の目にも映るようになったときには、一晩中煩悶する。ただしその中身は、「あの男に身を任せて居た位なら、何も其の処女の節操を尊ぶには当らなかつた。自分も大胆に手を出して、性慾の満足を買へば好かつた」などという、浅ましいものだった。
 芳子が、口では言えないからと、同じ家内にいるのにわざわざ手紙で、「私は堕落女学生です」と告白した後は、なんと、かえって好都合だと思い始める。それは前回述べたことだが、あらためてまとめると、第一に、これを口実にして田中と芳子を別れさせることができるし、第二に、「傷もの」なのだから、年の離れた、三人も子どもがいる自分と結婚しやすいだろうとの目論見からである。それは両方とも全くの的外れであったことは、暗示はされているけれど、時雄の主観がすべてであるように見えるこの小説では、このご都合主義の極致のような妄想によって、せっかくの告白がカタストロフにはほど遠くなり、クライマックスはアンチ・クライマックスに変じる。
 こうなると、結局のところ、主人公時雄の煩悶はなんだったのか、それ以前に、元々彼の拠って立つ基盤はなんだったのか、すべてが疑わしくなってくる。彼は、かつては熱烈に恋した細君が、今見ると旧弊な女に過ぎぬと不満たらたらなのだが、では、どれくらい「新時代の思想」に肩入れしているのかと言うと、
勿論、此の女学生気質(かたぎ)を時雄は主義の上、趣味の上から喜んで見て居たのは事実である。昔のやうな教育を受けては、到底今の明治の男子の妻としては立つて行かれぬ。女子も立たねばならぬ、意志の力を充分に養はねばならぬことはかれの持論である。此持論をかれは芳子に向つても尠なからず鼓吹した。けれどこの新派のハイカラの実行を見ては流石(さすが)に眉を顰めずには居られなかつた
 他人がやるのを傍観しているだけならいいけれど、自分が強い関心を持つ者がやるとなると、いやになる。そんなものだったのだ。口先だけと言われても仕方あるまい。

 渡邉正彦「田山花袋「蒲団」と「女学生堕落物語」」(『群馬県立女子大学国文学研究』平成四年三月十五日)という論文は、「蒲団」の先行テキストとして、『毎日新聞』に明治三十八年九月二十から十一月十七日まで三十五回にわたって連載された「女学生堕落物語」の存在を指摘している。「女子教育に就きて多年の経験を有する某氏」の談話という体裁で、女学生の危険な状況を訴えたものらしい。彼女らのうちでも特に田舎から出たての娘が、男子の「狼学生」の標的になり、貞操を奪われ金を貢がされて、挙げ句には妊娠、最悪の場合には女郎屋に売り飛ばされることさえあるという。実例を詳しく挙げての記事であれば、いくら世の教育者や保護者に警鐘を鳴らすというタテマエであっても、どういう好奇心で読まれたものか、今ならすぐに察しがつくが、明治時代の人はもっと素朴だったろうから、気がつかれずにすむこともあったのかも知れない。
 以下は「事実」の話である。丹波(「蒲団」では嵯峨)の一件の発覚後、田山花袋は「監督者」の責任として、岡田美知代には郷里の父親に手紙で報告させ、また自身でも詳しく書き送っている。それから何通かやりとりが続くのだが、美知代の父は、おりおり新聞の切り抜きを同封することもあったらしい。この切り抜きとはたぶん「女学生堕落物語」であろうと渡邉は推測している。美知代が処女かどうかより、娘の恋人は「狼学生」で、金をせびり取るのが最後の目的ではないか、のほうが心配だったのだろう。それは「蒲団」中の、芳子の父の言葉にちゃんと反映されている。花袋はこれに対して、そのように美知代と恋人を疑うのは、監督者としての自分をも疑うもので、心外だという意味のことを書き送っている。
 地方の親が、娘を女学生として東京に送り出すときには、「必ず先づ相当の監督者を選んで之れに托」すことは、「女学生堕落物語」を語る某教育家の強い希望であった。明治三十二年の高等女学校令によって制度的に公認され、東京の景色を一変させた庇(ひさし)髪に海老茶袴の女学生は、新たな女性性、即ち性的な魅力を顕現させたイコンにもなった。それだからこそ、「監督者」が必要とされたのだが、その監督自体が性的な眼差しを帯びるのはほとんど必然であろう。「蒲団」は、読みようによっては、「教育」の名で隠蔽される眼差しの奥にあるものを暴露した小説でもある。ただ、おそらく作者自身は、そのことを意識していない。

 柄谷行人は、

『蒲団』では、まったくとるにたらないことが告白されている。たぶん花袋はこんなことよりももっと懺悔に値することをやっていたはずである。しかし、それを告白しないで、とるにたらないことを告白するということ、そこに近代小説における「告白」というものの特異性がある。(P108。下線部は原文では傍点。以下同じ)

と書いている。
 「もっと懺悔に値すること」とは何か。たぶん、そんなものはなかった。そしてむしろ、なかったことこそ問題だったろう、というのが私の考えである。
 「蒲団」は抑圧された性の告白録だ、と柄谷は言う。

 花袋の『蒲団』がなぜセンセーショナルに受けとられたのだろうか。それは、この作品のなかではじめて「性」が描かれたからだ。つまり、それまでの日本文学における性とはまったく異質な性、抑圧によってはじめて存在させられた性が書かれたのである。(P.110~111)

 キリスト教によって、性、というよりは性欲が、告白して神の許しを乞うべき内面の罪とされた。逆に見ると、これによって「内面」が問題とされるべきものとなった。こうして発見された内面の上に、西欧の「文学」が建てられた。これが私なりに理解した柄谷の立論である。大枠は首肯する。告白すべき何かがある、ということは、即ち普段は隠すべき何かがある、ということであり、それこそが「内面」であろう。近代文学はなんらかの形でこの「内面」に関わらねばならない、ということは、当然の前提だと言ってよいだろう。
 この定式を「蒲団」という小説に当てはめた場合には、かなりの人が違和感を覚えるのではないだろうか。なるほど、主人公が若い女弟子に向ける性的な視線が主題であることにまちがいない。その視線は、主人公が「師」であり、「監督者」であることで隠蔽されていることも事実だ。しかし、それは「罪」として抑圧されているか? 女弟子に性的な関心を持つことを、主人公は、あるいは作者は、罪悪だと感じて、その結果生じてきた「内面」と向き合っていると言えるのか?
 どうも、そうではない。時雄の行動は、当時の社会規範からしても、全く悪いところはないのはもちろん、彼自身が、「内面」で、その常識の枠外にある「自分」を特に感じているわけでもない。妄想にあったように、現在の妻と、死別でも生別でも、うまく離縁できて、芳子を新たな妻にしたとすれば、世間は、陰口は叩いても、指弾まではしない。時雄の「良心」も、あったとしても、なんら動揺しないだろう。その程度のものだ。とるに足りないことを告白する「自分」は、やっぱりとるに足りないものでしかない。
 芳子の父は、クリスチャンだが、世慣れた地方の名士であるキャラクターのほうが強く、作中に具体的に登場する世間の代表と考えてよい。前述したように、彼もまた、「処女の純潔」なんぞという観念に、さほど決定的な重きを置いているわけではない。芳子の告白の前、時雄が、芳子と田中の間には「汚い関係」はないだろうと言っても、「でもまア、其方(そっち)の関係もあるものとして見なければなりますまい」と、落ち着いたものである。まあそれは、信心深い西洋の親でも、だいたいはそんなものだろう。「純潔」が尊いという説教は、未経験の者に言って聞かせてこそ一応の効力も期待できる。ヤっちまった者に言ってもしかたない。
 この作品における「抑圧」とはこんな、表面さえ繕えればそれでよし、になりそうなものばかりだ。しかし、花袋は繕うのをやめた。いや、繕うも何も、黙っていればそれなりになることを、敢えて公表した。往々にして、「悪いこと」より「恥ずかしいこと」のほうが告白しづらいのだから、ここでの「告白」の真率さは、誰もが認めざるを得ないだろう、というのが作者の目論見であり、「賭」の切り札だったのだろうか?
 そうだとすれば、それは西洋文学が理想として掲げた「真実の自己」あるいは「自己の真実」とは微妙だが決定的にズレている。とるに足りないことを告白するのが近代小説の特性だという柄谷の言葉を一応認めたとしてもなお、すり替えとしか呼べないことが行われている、と思える。中村光夫を初めとして、福田恆存、佐古純一郎など、西欧文芸を学んでから日本文学を批評するようになった評家たちの、この作品への不満の根底は、そんなところにある。
 なんだか、西洋の「罪」の文化に対する日本の「恥」の文化というところへ収まってしまいそうな雲行きではある。私は、特にそれに異論はないのだが、もう少しこれに絡んで、考えてもいいことはありそうな気がしている。
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語る私と語られる私と その1(「蒲団」・茶色い中折帽の謎)

2011年08月06日 | 文学
メインテキスト: 柄谷行人『定本日本近代文学の起源』(岩波現代文庫平成20年、23年第3刷)

サブテキスト : 小谷野敦『リアリズムの擁護 近現代文学論集』(新曜社平成20年)

 『風俗小説論』や『明治文学史』を書いた中村光夫も、彼を批判しつつ近代日本文学成立の事情を分析した柄谷行人も、次のことは等しく認めそうだ。田山花袋「蒲団」は、実質的に主人公竹中時雄のモノローグ(独白)である。ならば、三人称で書かれねばならぬ必然性はどこにもなかった。
 小説における人称の問題(主人公、というか中心人物が「私」と書かれるか、「彼/彼女」と書かれるか)は、いろいろと考えると面倒かつ面白いでので、後でまた取り上げるとして、ここでは作品が語り出される(書き出される)視点・始点のことだとする。一人称小説は、たった一人の「私」が見たり聞いたり感じたりしたことを書くのがタテマエで、作品世界がこの範囲を出ることはない。一方三人称なら、「彼/彼女」はいくら増えてもかまわない。登場人物のそれぞれが感じていることを、主語を替えてどんどん並べていってもよい。一応そう言える。
 「蒲団」は、主人公の内面描写(彼は~と考えた/~を感じた)と、彼の目と耳に入ったことに、作品世界がほとんど完全に限定されている。ヒロインの横山芳子や時雄の妻の考えを直接述べた部分も二、三あるが、それは時雄によって推測されたことだ、としてもさしつかえない。風景描写では主語は別になるが、例えば最後の一文「薄暗い一室、戸外(おもて)には風が吹暴(ふきあ)れて居た」にしても、「~のを聞いた」と付け加えても、文体がダラける、というような問題はあるだろうが、内容的に別におかしなことは生じない。つまり時雄によって感じ取られた外界しかない。
 いやそれ以前に、「蒲団」は作者の実体験を述べたことを、そもそもの最初からウリにした小説なのだ。時雄=今これを書いている「私」=花袋田山録弥、だからこそ当時の文壇関係者や文学愛好家の興味を引いたのだ。どうしていっそのこと、「時雄は」ではなく、「私は」を主語にしなかったのか?
 これは当の作者・花袋自身に聞いたとしても、唯一の「正解」は得られっこない問題だろう。それを、ああでもない、こうでもない、と引きずり回すのが文学論議なのである。で、私もやってみたい。

 「ほとんど完全な限定」の、ほとんど唯一の例外が、終わり近く、田舎へ帰る芳子を、時雄が新橋の駅へ見送る場面にある。「時雄の後に、一群(むれ)の見送人が居た。其蔭に、柱の傍に、何時(いつ)来たか、一箇(ひとつ)の古い中折帽を冠(かぶ)つた男が立つて居た。芳子は此(これ)を認めて胸を轟かした。父親は不快な感を抱いた。けれど、空想に耽つて立盡した時雄は、其後に其男が居るのを夢にも知らなかつた
 男がいたことを知らないなら、それを見て芳子が胸をときめかせたことも、芳子の父がいやな気になったことも、時雄は推測しようもないはずで、ここでは彼とは別の、「作者」が現れている、としか見えない。「作者」はどうして、一度だけ出てくる必要があったのだろうか?
 小谷野敦のおかげで、私は最近、この新橋駅のできごとも「事実」であることを知った(小谷野は小林一郎に拠って書いているので、以下は孫引きである)。芳子のモデルである岡田美知代の、恋人の永代静雄(「蒲団」では田中秀夫)は、実際に新橋駅へ来ていた。それを花袋は、美知代の父親からの手紙で、初めて知ったのだった。
 上の引用文の最後を、「その男が居るのをその時は夢にも知らなかった」とでもすれば、作者=時雄であることははっきりする。その代わり、小説中の世界が「過去」であることは露わになる。花袋はそれを嫌ったのだと考えられる。が、問題はもう少しある。田中が芳子を陰ながら見送りに来る場面は、これが最初ではない。
 この別れの日、時雄と芳子とその父とは、それぞれ車(人力車)に乗って出立する。時雄の細君と下女がこれを見送り、隣の細君も何事かと眺めている。「猶其後の小路の曲り角に、茶色の帽子を被つた男が立つて居た。芳子は二度、三度まで振返つた
 この茶色の帽子の男も田中、でしょうよね。このときは時雄は気がついたものかどうか、何も書かれていない。それで、帽子だが、このときは「茶色の帽子」で、後では「古い中折帽」。田中の帽子は古い茶色の中折帽だったわけだ。一方、時雄はと言うと、「時雄は茶色の中折帽、七子(ななこ)の三紋の羽織といふ扮装(いでたち)で、窓際に立盡して居た
 同じく「茶色の中折帽」だった……。これは、この時代(明治三十九年頃)の流行だったようだ。夏目漱石がこの年、「蒲団」の掲載誌になったのと同じ『新小説』に発表した「草枕」(明治三十九年九月号。「蒲団」は明治四十年八月号)では、ヒロインの元夫は、「茶色のはげた中折帽」をかぶって、最後のシーンで汽車に乗って去る。「蒲団」の基の「事実」において、新橋駅で二人の男が同時にかぶっていても、ありふれた偶然に過ぎなかったのかも知れない。そうだとしても、最後に出てくる、芳子の、手紙の文言はどうだろう。
新橋にての別離(わかれ)、硝子(がらす)戸の前に立ち候毎に、茶色の帽子うつり候やうの心地致し、今猶まざまざと御姿見るのに候
 「茶色の帽子」は時雄だ、と読者は自然に思うだろう。それなら、時雄もそう思った、ことになる。「蒲団」を読むということは、時雄の視点で作品世界を見る、ということなのだから。しかし、すぐ前を読めば、もう一人、芳子が懐かしく思うであろう男が、同じ色の帽子で、後に立っていたのである。
 芳子はこれ以前に、自分は処女だと言って時雄をだましていて、事実を告白したがために帰郷させられることになったのだ。この時も、だましたのだろうか? いや、だましたとすれは、それは最後の瞬間だけちらっと姿を現した「作者」である。誰を? もちろん読者を。なんのために? 次のようには考えられないだろうか。
 時雄ってのはなんか、いやらしい男だな、と思うのは、あまりにも有名な、芳子が使っていた蒲団に顔を埋めて泣くシーンより、例えば次のように語られる彼の気持ちではないだろうか。
時雄の胸は激しては居つたが、以前よりは軽快であつた。二百余里の山川を隔てて、もうその美しい表情をも見ることが出来なくなると思ふと、言ふに言はれぬ侘(わび)しさを感ずるが、其恋せる女を競争者の手から父親の手に移したことは尠(すく)くとも愉快であつた」。
 まあ、好きな女をよその男に取られたときには、誰しもこんなふうになるのかも知れないが、いよいよお別れの間際になっても、この男は都合のいい空想に耽ったおかげで、「中折帽の男」に気づかないのだ。
時雄は二人の此旅を思ひ、芳子の将来のことを思つた。其身と芳子とは盡きざる縁(えにし)があるやうに思はれる。妻が無ければ、無論自分は芳子を貰つたに相違ない。芳子も亦喜んで自分の妻になつたであらう。理想の生活、文学的の生活、堪へ難き創作の煩悶をも慰めて呉れるだらう。今の荒涼たる胸をも救つて呉れることが出来るだらう。『何故、今少し早く生れなかつたでせう、私も奥様時分に生れて居れば面白かつたでせうに……』と妻に言つた芳子の言葉を思ひ出した。此の芳子を妻にするやうな運命は永久其身に来ぬであらうか。この父親を自分の舅と呼ぶやうな時は来ぬだろうか。人生は長い、運命は奇(く)しき力を持つて居る。処女でないといふことが― 一度節操(みさを)を破つたといふことが、却つて年多く子供ある自分の妻たることを容易ならしむる条件となるかも知れぬ
 あいにく、芳子の心はこのときも田中のものだった。時雄は、「恋せる女を競争者の手から父親の手に移」すことには失敗していたのである。そして、「事実」の花袋は、少なくとも「蒲団」執筆時点(明治四十年七月頃)では、岡田美知代と永代の心が離れていないことを知っていた。
 これも小谷野からの孫引きになるが、四十年五月六日と推定される美知代の母親への花袋の手紙では、「既に霊肉共に其人に許し候上は」「兎に角二人をして東京に新生活を始めしめ」るのがよいだろう、と書かれているそうだ。それ以前に美知代からもらった手紙には、どうしても永代と添い遂げたいという気持ちが書かれていて、花袋も最初のうちこそ腹を立てて永代を攻撃したりしたが、ここに至って、もう美知代を我がものにすることは決してできない、と観念したものらしい。以下の小谷野の見解は首肯できる。

(前略)当初、美知代を郷里へ帰した花袋が、美知代が永代を諦め、また前のような恋文めいた手紙を書いてくれることを期待、妄想しており、それがありえないと分かった時点で、美知代と永代の結婚を認め、かつまた自然主義の頭目の地位を占めることになるとの「賭け」の意味も込めた作を書くことにしたのである。

 美知代と永代は明治四十二年に結婚している。妊娠したり、家出をしたりと、さんざん騒動を繰りひろげた美千代を、花袋が自分の養女にしてまで、添い遂げさせたのだ。
 こういうのも、中年男の見栄と呼ばれるべきかも知れない。「蒲団」も、田中と芳子の肉体関係がばれるまでは、時雄が彼らと芳子の両親との仲立ちを頼まれ、本心とは裏腹に、「太っ腹に」その役を務めるところが、作品の中心になっている。その時雄にとって、芳子が経験済みだったのは、むしろ好都合とも考えられたことは、上に述べた通りである。
 それもこれも、時雄の一人よがりであったことは、作品が成立したときには明らかだった。「事実」の花袋は、美知代の母親にあれだけのことを言ったからには、必要とあれば、美知代と永代の結婚のために、相当立ち入ったことまでやる決心はあったろう。
 しかしもちろん、新橋駅での別れの(正確にはその日の夜の)時点で終わる物語の主人公である時雄には、そんなことは関係ない。彼と芳子の仲は、今後どうにもならないと決まっている、とも思わない。それならそれで放っておいてもいい、とも考えられるかも知れないが、それはしずらい。作品の中心をなす事件には、なんらかの結末をつけて終えるのが、西洋でも日本でも、物語の定法だからだ。実際、蒲団に顔を埋めて悲嘆に暮れる結末は、女を永遠に失った男にこそふさわしく、読者の受ける印象もそうだろう。
 しかしさらに一方で、時雄の幻想が完全に破れるところを、花袋は描きたくなかった。それは多分、花袋の創作意図の核心に触れることだったろう。今簡単に言ってしまうと、花袋は、真実の「認知(アナグノリシス)」によって劇的に変容するギリシャ悲劇以来の伝統的なヒーローではなく、いつまでも幻想の中に止まろうとするドン・キホーテ型の、アンチヒーロー(一つの見方では、これこそが「小説」の始祖である)を描こうとしたらしい。
 そこで、作中にも「真実」は描かれるが、それは目立たぬように、主人公の「後」に置かれ、読者が主人公並みに迂闊だとすれば(「蒲団」を最初に読んだときの私がそうだった)、気づかれずにすんでしまうような形になった。工夫は工夫だが、成功とは言えないと思う。どっちつかずの、曖昧さしか後に残らないようだから。

 小谷野敦に教えられたことはもう一つある。こちらが『リアリズムの擁護』所収論文「岡田美知代と花袋「蒲団」について」の眼目に近いのだが、上述が末尾部分に関連するのに対して、「蒲団」の冒頭に近い次の部分に関することである。
数多い感情づくめの手簡(てがみ)――二人の関係は何(ど)うしても尋常(よのつね)ではなかつた
 この手紙はどういうものか、具体的に明らかにされていないので、時雄の妄想であったようにも思える、と小谷野は言っている。私の素朴な読後感では、妄想とまでは思わなかったが、そう言われてみると、なるほど、「蒲団」は、何も具体的な証拠はないのに、ある種の若い女がよくふりまくコケットリイにひっかかって、恋愛妄想に陥り、ストーカーになる寸前までいった男の話にも読める。
 しかし「事実」は、感情ずくめの手紙はあった。詳しくは小谷野のこの論文か、彼が引用しているもとの『田山花袋記念館研究叢書第2巻 「蒲団」をめぐる書簡集』を見てもらえればよい(私も早く読まなくては……)が、「一入(ひとしお)師の君恋しう存候」とか、「君は今西へ四百里春の日を此身涙にもの思ひ暮らす」というような短歌とか、口語で「私は先生を、……却つて失礼でせうけれ共(ども)師の君だと心から身も魂もさゝげて事(つか)へてるのですよ」とかいう文言が美知代の手紙にはある。「師」という言葉が出てくると、男女関係とは別よ、という言い逃れもできそうだが、これをもらった男が、恋文だ、と思い込んだとしても、それは妄想だとか、自惚れだ、などと嗤って済ませることはできないだろう。
 ところで、「君は今西へ四百里」という言葉は、このとき花袋が、前回述べたように、日露戦争に従軍していたから出てきた。花袋は、小説家志望の娘を弟子にした直後に、戦争に出かけている、そのことは、「蒲団」では完全に抹消されている。その結果、時雄が作中で芳子に抱く感情の、基になったはずの「手紙」の中身も隠されてしまった。日露戦争直後に発表された作品であるにもかかわらず、「蒲団」中にあるこの大戦争との関連物と言えば、別れの日に芳子がしている「二百三高地巻き」(束髪の前部を高くした、当時の女学生に流行した髪型)しかない。
 これに限らず、「蒲団」からは、時雄の芳子への執着以外は、夾雑物としてできるだけ排除されているようだ。東京市内の様子はけっこう細かく描写されていても、その中で積極的な意味があるのは「女学生」だけである。「電車は東京市の交通を一変させた。女学生は勢力になつて、もう自分が恋をした頃のやうな旧式の娘は見たくも見られなくなつた」。芳子はその、明治末に出現した女学生代表である。「美しいこと、理想を養うこと、虚栄心の高いこと――かういふ傾向をいつとなしに受けて、芳子は明治の女学生の長所と短所とを遺憾なく備えて居た」。むしろ、今ならロリコン趣味と言われそうな「少女病」(四十年五月、つまり前出の、美知代の母親への手紙と同じ月に発表)の著者でもある花袋にとって、執着断ち切りがたいのは、女学生一般のイメージであって、生身の芳子ではないのではないか、とさえ思えてくる。
 関連して、以下のようなことは、花袋の同時代人片上天弦(かたがみ てんげん。後には本名の「片上伸」で執筆活動をした)などの批評以来、中村光夫によっても繰り返し言われてきた。「蒲団」は作者と主人公との、また作者と作品世界との、距離感がなさ過ぎる。芳子もそうだが、もう一人の重要人物であるはずの時雄の細君は、名前も与えられておらず、筋を運んだり、古い型の女として芳子と比較されたり、といった作者の都合だけで登場したような印象になっている。
 その作者とイコール言われる主人公はどうか。失われた青春を追い求め、愛欲に苦しむ姿はそれとして、それを突き放して眺める視点がない。本当は、いい年をした妻子持ちのおっさん(数え年で三十六歳だから今風なら三十四、五だが、人間の寿命が今よりずっと短い明治時代の話だからね)が、十七も年下の女の子に、手を出すわけでもなく、思春期になりたての少年のように一人で思い悩み、酔って便所で寝てしまったり、道で転げまわって泥だらけになったり、というのは、笑い物になるはずなのだ。しかし、笑えない。主人公も、作者も、ひたすら大真面目なようだから。主人公を批判する視点を全く欠いた作品は、偏った、狭いものにならざるを得ない。
 このような批判はもっともである、と私も思う。ただ、花袋が、承知のうえでこういう作品にしたのだとすれば、それはどういうことか、考える余地がありそうな気がする。
 最初に述べた「茶色い中折帽」が、私の深読みではないとしたら、そして、「芳子は……胸を轟かした」とあるからには、深読みではないと思うのだが、ここで一瞬時雄を離れた「作者」の眼差しは、すぐに嘲笑に転嫁しそうなものだ。そもそも対象を離れるということ自体が、批評的になることだから。けれど、明らかな嗤いにならないように、わざわざ目立たなくする工夫がされている。その必要はどこから出てきたのだろう?

 花袋という人は、最新の外国文学を同時代の誰よりもたくさん、英語で読んでいたと言われれているから、きっと、現実世界とも並び立つような客観的な世界を、文章で作り上げる野心もあったと思う。
 例えば、自伝的な「生」「妻」「縁」の三部作のうち、前の二作は、三人称で、複数の視点から、一家の歴史が語られれている。岡田美知代をモデルにした女は、別の名前で、「妻」の最後のあたりに登場する。「縁」ではさらに別の名前になって、花袋(この作中では清という名)が骨を折って実現してやった、永代をモデルにした男との結婚から、その破綻までが描かれ、この作は、実質的に「蒲団」の後日談になっている。それを含めて、この三部作は、「生」の、母親の死の迫力ある描写こそ感銘深いものの、全体としては、「こんな退屈な話、わざわざ拵えてまでする人はいないから、きっと実際にあったことなんだろうな」と思えるようなできばえである。
 そんなわけもあって、田山花袋と言えば「蒲団」、「蒲団」と言えば田山花袋、ということになったのは、果たして当人にとって幸福なことであったかどうか。また、小谷野敦が言うように、花袋がこの作品で、自然主義の頭目になる「賭け」をしたのだ、というのが本当なら、彼は賭けに勝ったわけだが、それは、平凡な男を平凡な妄想世界に閉じ込めた作戦が当たったからだ。なぜ当たると思ったのか、そして現に当たったのは何故?
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