由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

家なき少女

2019年07月29日 | 文学

The Night Street, 2014, by Salavat Fidai


メインテキスツ;櫛木理宇『少女葬』(原題は『FOOD』新潮社平成28年。新潮文庫令和元年)
桐野夏生『路上のX』(朝日新聞出版平成30年)

 以前の当ブログ記事「There is no place like home」で、家族の紐帯と呼ばれるものを悪用して金をむしり取る悪人たちを取り上げた。そこには、家族の個々の成員を気遣ってというよりは、世間体=家族の評判を気にして、という面も確かにある。しかしそれ以上に、特に、親の無償の愛、つまり親は子どものためなら無限に、自己犠牲的にまで尽くす者だ、そうすべきだ、という通念が、この場合最も強く働いた。
 実際、それは現在でも日本社会に広範に存在する。なかったら、いわゆる「オレオレ詐欺」を初めとする、子どもの金銭的なトラブルを親に償わせるといったタイプの特殊詐欺が成立するはずはない。因みに、このような手法が広範囲に見られるのは日本の特徴だそうだ。海外では、東洋でも、金銭問題に関する限り、親子関係はもっとクールであるらしい。
 これはまた、「萬葉集」に見える山上憶良「子らを思へる歌」以来の日本の、長い伝統的な感情であり、倫理でもあるのだろう。この通念は非常に根強いので、日本の文芸には、だらしがないので結果として子どもに迷惑をかける親はいても、子どもを食い物にする親は描かれてこなかった(私が知らないだけの場合にはご教示ください)。
 いつ頃からそれが現れたか、定かには知らないのだが、大学生時分に、山本周五郎「赤ひげ診療譚」の、八話ある連作中の最終作「氷の下の芽」に子どもを意識的に食い物にする親が描かれているのを読んで、こういうのは初めてだな、と思ったのを覚えている。因みに「赤ひげ診療譚」は昭和33年の初出で、他にも幼児の性被害などが描かれており、そういう意味でも先駆的(?)な名作である。

 近年子どもへの虐待が大きく取り上げられるようになった結果、「親は子どもを必ず愛するものだ」なる通念は、なくなりはしないまでも、大きく後退した。実際の件数が増えたわけではない。虐待の内容の、具体的な深刻さも、たぶん、それほどひどくなっているわけではない。
 DV(←ドメスティック・ヴァイオレンス)なる言葉ができ、広まって、ラベリングが横行した結果、多いようにも悪質化したようにも思えるのだろう。セクハラ(←セクシャル・ハラスメント)なる言葉と同じ働きである。
 決して、悪いことではない。それまでにもあって、しかし社会的には「悪事」としては認識されてこなかったことが、そのように扱われ、被害者救済に道を開くならば。
 それとは別に、今日的な問題として意識すべきなのは、これまで本ブログで何度か指摘してきた、消費社会の進展であろう。これと平行して、皆が長生きするようになり、子どもがかなり大きくなっても、親業に専念してばかりもいられない/する必要を感じない、事情もある。これまた、悪くない。ただ一応、「家族」を考える新しい要素として、指摘しておくのも多少は意味があると思う。

 標記の二作は、様々な理由で家庭を飛び出し、街を彷徨うようになった十代後半の少女たちを描いている。当然のことながら、家庭は、外面的にはどうであれ、彼女たちから見て壊れてしまっている。
 両作に共通するのは、母親が離婚して再婚してから、新たな父によって体を狙われるケース。これによって家族は崩壊する。当たり前の話ではあるが。
 内田春菊「ファザー・ファッカー」(平成5年)が、このような父娘関係を描いた、最近の印象的な文芸作品であり、ほぼ実話とも言われたので、余計に衝撃が大きかった。この作品の場合、母親は新たな夫を引き留めて置くために娘を差し出している、のと同様だと娘は思っている。
 「少女葬」の二人いるヒロインのうちの一人・眞美は、母親から義父をめぐってライバル視される。自分の方が当然歳をとっているが、女としてはより魅力的であることをアピールしたくて、娘にダサい格好をさせたりするのだ。眞美が義父のしつこさに負けて性行為に応じた後は、露骨に嫉妬する。
 こういうことは最近起きてきたことだろうか? そんなことはない。実は私は、ごく身近なところであった、かなり昔の似たケースを知っている。現代の特徴は、むしろ、このような目に合った少女が、家庭から逃れる手段が増えたところにこそあると思う。もちろんそうすればしたで、たいへんなリスクを背負うことになるのだが。

 「路上のX」のヒロイン・真由の場合は、母の不倫がすべての始まりだった。結果として両親は離婚、高校生になったばかりの彼女は叔父の家に預けられ、そこで虐待に近い扱いを受ける。
 叔父夫婦に、必ずしも悪意があったわけではない。二人の子持ちで、経済的に逼迫し、もう一人子どもを引き受ける余裕はなかった。そのうえ、真由の両親とは仲が悪かった。それなら、最初から断ればいいものを、叔父が気弱なのでできなかったらしい。それでいて、引き受けた以上はできるだけ、などという気にもなれない。

今の人たちは、親戚の子の窮状を救おうとは思ってないよね。お金がないというよりは、そんな面倒なことを引き受けたくないんだよ。昔は貧しくても、みんな親類同士で助け合っていたけどね。

 真由がレイプ被害を訴えた婦人警官の言葉である。これはその通りであろう。
 親戚だけではなく、「遠くの親戚より近くの他人」などと言われた地域共同体の紐帯も薄れた。人情の衰えを嘆く声は、いわゆる保守派の間からよくあったものだが、今はそれも少なくなったようだ。嘆いたところで「面倒」と感じる意識が元へもどるわけでもない。 
 以前TVでビートたけしが大略次のように言っていたのを覚えている。昔は人情があって、近所の子どもが食卓へ来てご飯を食べていった、なんてことがよくあった、なんて言うが、冗談じゃない。そうでなければ食えなかったから、仕方なしにそうしていただけなんだ、と。
 そのうえ、他所の子どもを預かって事故があったら責任を取らされる、なんぞというケースも報道されるようになり、ますます他所の子どもの面倒なんぞ見たくなくなる。
 いや、それどころではない。これも「路上のX」に描かれているが、下手に子どもの友だちを家に入れたりすると、仲間を呼んで、家が溜り場にされかねない。そうなると、全く遠慮をなくした連中に、家が荒らし放題荒らされる。ミトという少女の母親は、そのために愛想を尽かして、家も娘も捨てて去った。昔は若者宿とか若衆宿とか言われる、青年の荒れるリビドーを回収する場所や制度が地域で用意されていたこともあるが、今はそんなものもない。
 これを要するに、日本の高度産業化・都市化、それに伴う個人化(必ずしも個人主義化、ではない)がもたらした変化はある。

 真由は、彼女の面倒などみたくはない叔父夫婦に預けられたこととは別に、母の不倫を許せないと考える。
 
 現役。そうだ。自分は、母親が不倫して父親が嫉妬のあまり逆上した、という事実よりも、両親が恋愛沙汰に現役だということに、衝撃を受けているのだった。

 それ以前には若く見えて美しい母が自慢だった。そのことは、父以外の異性を性的に惹きつける要素にもなる、ということには目を塞いでいた。「母親」と「女」は並び立たない、それが当然だ、とする倫理観(でしょ?)は、これまた当ブログで以前に取り上げたように、ハムレットの昔から存在している。
 そういう真由を、親友のリオナが諫める。自分は義父にレイプされたのだが、彼も実母もいいかげんだった。真由の場合、母は真剣に他の男が好きになって、離婚してそちらへ走ったのだし、父はそういう母が男として許せない、とこれまた真剣に思ったのだ。子どもができたら、一人の男・女として生きてはならない、などとは言えない。いや、実は言われてきたし、今もそれは残っているのだが、個人主義の原則からすれば、それをどこまでも押し立てるわけにはいかない。それを認めようとしない真由を、リオナは「その辺にいる五歳の子と、全然変わんない」と言う。
 もっとも、真由が言わないから、リオナが知らない事実はある。真由の母は、真由に泣いて詫びるのだが、真由といっしょに暮らそう、とは決して言わない。その一事で、何を言おうと、母にとって新しい夫との新しい家庭のほうが、旧来の娘・真由との関係より大事なのだな、とわかる。
 家庭こそ最も大事にすべき、という観念がなくなれば、親がどういう人であれ、こんなことは増えることはあっても、減ることはない。これまた当たり前の話である。

 「少女葬」のもう一人のヒロイン・綾希は、父のモラハラに耐えられず中学校卒業前に家出する。
 たとえば夏休み前夜、綾季は七月中に夏休みの宿題の、少なくとも半分は終えておくように、と厳命され、約束させられる。さっそく次の日からとりかかるのだが、その次の日には宿題のノートやドリルはどこにも見つからなくなる。八月一日、彼女は父の前に正座させられ、「また嘘をついた!」と叱られ、髪をつかんで引き摺りまわされる。幼い頃には泣いて許しを乞うしかなかった。小学校高学年になって、父がわざと宿題を隠しているのだ、と確信する。

「いい子を殴るわけにはいかないけど、悪い子にはお仕置きっていう名目があるでしょう。それに、『おまえは悪い子だ、嘘つきだ、ろくでなしだ』って萎縮させておけば、支配しやすいから」

 中学教師の父は、全面的な支配以外には家庭を営む術を知らず、元教え子の母も、よく期待に応えて、絶対に逆らわない奴隷として彼に仕えた。後に綾希は「自分をお父さんと二人にしないで」と懇願する母に言う。父はまちがったやり方であれ、親であろうとした。あなたは、それを全く放棄したではないか、と。
 昔の父親のほうが威張っていた、というイメージがもたれがちだし、一般的にはそうであったろうが、昔は世間もそれを当然とした。「男女平等」とか、「子どもも一個の人格」なる市民道徳が、たてまえとしては一般化すると、世間の支援が受けられないと感じる分、より陰湿な手段で家人を支配しようとする父も現れる。「ファザー・ファッカー」の義父もまた、最初そのような支配者として振る舞った。

 これらの事情から家を出て街に向かった少女たちは、当然、性被害者になりやすい。若々しい肉体という条件の他に、親の保護が必要とされている存在なのに、それがないということは、それだけでも弱い、御しやすい存在に見えるから。
 JKビジネスの世界で経験を積んだリオナは言う。

「レイプする男たちは、あたしたちを馬鹿にしてるんだよ。女なんか大嫌いで、自分たちよりずっと劣るものだと思ってる。だから、ばれなきゃ、いくらでも酷いことをする。差別そのものなんだよ」

 綾希の父の支配欲にも、このように表現し得る歪んだ欲望が根底にあるであろう。
 それがわかっていながら、リオナは、そして真由も、JKビジネスで、男の差別感をぎりぎりまで満足させる「仕事」で金を稼ごうとする。それ以外には、安定して暮らしていけるだけの金を稼ぐ手段が見当たらないからだ。

 現代消費社会は、あらゆる方向の欲望を「商品」として開いた。その割には、日本では、件数としてはそれほど悲惨なことは起きていない。何も悲観したり、悲憤慷慨したりする必要はない。しかし、一度開かれたものは閉じることはできない。個人も家族も、具体的に明らかとなった欲望の海の中で生きていくしかないのである。それがつまり、目下の時代の宿命なのである。
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