由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

道徳教育という不道徳 その1(教科化まで)

2015年06月26日 | 教育


 去る6月14日、しょ~と・ぴ~すの会(「日曜会」の一部)で発表したものに、その折の参加者のお話や、そこからさらに思いついたことを基に大幅に加筆して、今後2~3回にわたって当ブログに載せます。

 由紀草一と申します。茨城県の高等学校で、最後の頃は主に定時制だったのですが、普通のいわゆる全日制を含めて三十二年間教員をやりまして、この三月に定年を迎えました。しかし、再任用という制度のおかげで、いまだにほぼ普通の教員生活を続けております。そんな私が、道徳教育について、思うところを述べて、皆様のご批判を仰ぎたいと思います。
 話の根幹を短く言うとこうです。教育、今の場合は学校教育に限定しますが、これは公権力の一部である。それが証拠に、小中学校に子どもを通わせない保護者には罰則が設けられています(学校教育法第百四十四条)。もっとも実際にこれが適用されて罰金を取られた人がいるのかどうか、知らないのですが、ともかく規定があるということは、学校に子どもを通わせることは公権力の意志であるということを示しています。そうであれば、この教育とは押しつけである。それはごく当然というだけなのですが、権力の適用範囲は、つまり何をどの程度に押し付けていいかについては、限定されねばならない。無制限の権力ほど恐ろしいものはない、というのは人類が長年の間に培ってきた知恵であるはずなのです。特に個々人の内面に土足で踏み込むようなまねは慎まねばならない。
 と言っても、教育となりますと、厳密にはそれは難しい。知識技能だけを教えろ、という主張には賛成しますが、知識技能には必ず価値観が伴うのです。早い話が、英語や数学を学校で教える、だから、英語や数学のできる人間が世の中で有用になっている、わけはありませんが、人生の早いうちからこの価値観を知らしめる働きを学校はしている。それから、国際性がどうたらで、最近小学校でも英語が教えられるようになった。国際的、と言いますか、日本の外でも活躍できる人間のほうが価値が高い、とすれば、理の当然として、英語が使えるほうが価値が高い。そんな雰囲気は、日本人の欧米コンプレックスと相俟ってかなり昔からこの国にはあり、その片棒をもっとしっかり担げ、と叱咤されているのが学校であるわけです。
 その他、社会での有用性という意味での価値観は、学校での教育活動から切り離すことなどできません。「学校でやったことなど、実社会では役に立たない」という言い方は、昔けっこう聞きましたが、これが悪口であるとしたら、「学校でやることは社会で役に立つべきだ」という思いが社会の側にあることになる。古文・漢文などの、いわゆる古典的な教養はどうかと言うと、これは西洋のリベラル・アーツに由来する「教養人」(man of culture)、その尻尾みたいなものです。なんの役に立つのかはわからないけれど、それだけに際立つ高級感を身に纏うことの価値は、近年だいぶ落ち込んでいるとはいえ、完全に否定しきれるものではありません。だからここでも学校は社会の価値観と全く関係のないことをやっているわけではない。やれるわけはないんですね、少なくとも、税金で運営されている公立学校が。
 それで、「人格」(character)と呼ばれるものに直接関わる道徳性の養成も学校で考えてもいいんではないか、さらには、やるべきではないか、という要請も出てきがちなんですが。しかし、これはやっぱり非常に危険なことである。人間に道徳性を直接植えつけられる、植えつけるべきだ、という考えは、どうやら、人間性の奥深さに関する畏敬の念を欠いている。その意味で、最も不道徳なものになる可能性がある。今回私が一番強調したいのはこれです。

 まず、戦後教育における道徳教育要請の歴史のうち、主に平成になってからを大雑把に振り返って、今度出てきた「道徳の教科化」の特徴について、考えてみたいと思います。里程標としては、政府側の文書が、すべてネット上に公開されていることもあって、便利でもあれば重要でもありますので、それを年代順に並べて、省察を付け加えていきます。

(1)昭和33年の、小中学校の学習指導要領改訂
 第三章に「道徳,特別教育活動および学校行事等」というのが入りました。これでわかるように、道徳はいわゆる特活(部活動、生徒会、ホームルームなど)や学校行事と同じ範疇に入っていて、週に一時間、基本的にHR担任が行い、成績などはつけないことになりました。この路線は基本的には今日までずっと続いています。内容面もそうです。このとき「道徳の目標」とされたものを以下に挙げますと、

1 日常生活の基本的な行動様式を理解し,これを身につけるように導く。
2 道徳的心情を高め,正邪善悪を判断する能力を養うように導く。
3 個性の伸長を助け,創造的な生活態度を確立するように導く。
4 民主的な国家・社会の成員として必要な道徳的態度と実践的意欲を高めるように導く。

 
 これと、現行のひとつ前の旧学習指導要領平成10年度版を比較してみてください。最初の「総則」第1の2に道徳について詳しく書かれています。

 道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,個性豊かな文化の創造と民主的な社会及び国家の発展に努め,進んで平和的な国際社会に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。
 道徳教育を進めるに当たっては,教師と児童及び児童相互の人間関係を深めるとともに,家庭や地域社会との連携を図りながら,ボランティア活動や自然体験活動などの豊かな体験を通して児童の内面に根ざした道徳性の育成が図られるよう配慮しなければならない。


 前段が「目標」ということになるのでしょうが、文言と配列を替えただけで、中身は前といっしょです。例えば「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念」というのは、前者の2の「道徳的心情」をより具体的に(それでも十分に抽象的ですが)したものだ、と見ることができるでしょう。戦後社会でどこからも文句の来ない道徳の目標となると、結局こんなもんだということですね。
 後段は道徳教育の方法に関するところなんですが、①教師と児童(中学校では生徒)及び児童相互の人間関係を深める②家庭や地域社会との連携を図る③ボランティア活動や自然体験活動などの豊かな体験をさせる、などを通じて、道徳心を育成しろ、と。ただ、その中身は学校任せです。「自然体験学習」なんてのは、林間学校とか臨海学校の形で、昔から多くの学校で実施してきたことなんですから、それでいいなら、なんの問題もありません。
 これに対して、もっと積極的に道徳教育を推進すべきだという動きも当然ありました。京都学派の哲学者高坂正顕が執筆し、昭和41年中央教育審議会(以下、中教審)が「後期中等教育の拡充整備についての答申」の「別記」として出された文書「期待される人間像」はけっこう有名です。しかし古いことは措くとしまして、

(2)平成12年、小渕内閣が組織した教育改革国民会議(以下、国民会議)が、最終報告として、森内閣に提出した「教育を変える十七の提案」
 この中に、「学校は道徳を教えることをためらわない」という項目があり、中身は以下の通りです。

 学校は、子どもの社会的自立を促す場であり、社会性の育成を重視し、自由と規律のバランスの回復を図ることが重要である。また、善悪をわきまえる感覚が、常に知育に優先して存在することを忘れてはならない。人間は先人から学びつつ、自らの多様な体験からも学ぶことが必要である。少子化、核家族時代における自我形成、社会性の育成のために、体験活動を通じた教育が必要である。

 「自由と規律のバランスの回復」ですから、今はバランスを欠いているんだ、という認識ですね。「自由の履き違え」なんて言い方もよくありましたし、今もあります。要するに、若者はあんまり勝手気まますぎるんじゃないか、という「大人」の思いは、中教審より、首相の私的諮問機関である国民会議や後出の再生会議などのほうが、ストレートに出てくるものですね。
 しかしそれより、この後に関連した「提言」が四つ並ぶ、最初のものがもっとすごいのです。

 小学校に「道徳」、中学校に「人間科」、高校に「人生科」などの教科を設け、専門の教師や人生経験豊かな社会人が教えられるようにする。そこでは、死とは何か、生とは何かを含め、人間として生きていく上での基本の型を教え、自らの人生を切り拓く高い精神と志を持たせる。

 すごい、というのは、「死とは何か、生とは何か」なんぞという最も根源的な問の一つを学校で直接扱わせようとしているところが、です。ここまで野心的な提言は、現在までそんなにはありません。
 ただ、この副産物と考えていいものなら平成14年に出ています。文科省が「補助教材」として作成し、全国の小中学校に配布した「心のノート」。これのためにこの年だけで七億三千万円使われています。そんな金をかけて、実際はどれくらい使われているものか、国会でも質問されたので、文科省は翌15年に各教育委員会を対象に利用状況を調査しました。これは結局「利用しろ」と圧力をかけているのと同じです。使用率は小学校で97%、中学校で90%に及んだそうで(『朝日新聞』平成15年9月22日)。しかし、「使用」とは言っても、仄聞の限りでは、道徳の最初の時間に生徒に配布して、それで終わり、という小中学校も多かったようです。もちろん、補助教材ならどう使おうが、そもそも全然使わなくても、完全に学校・教員の自由なはずなので、それでもなんの問題もありません。逆になんらかの形で使用を強制するとしたら、韓国や中国じゃあるまいし、実質的な国定教科書か、という疑問が出てきます。

(3)平成18年、第一次安倍内閣による教育基本法改定
 今日まで直接つながる、理念としての道徳に関するもっとも重要な措置でしょう。
 旧基本法の第二条「教育の方針」は、

 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

 これが、次のように変わったのです。改訂と言うより、条文の新設と言うべきでしょう。項目名も「教育の目標」になりましたし。

一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。


 このように非常に長く詳しく、箇条書きされています。そのすべてが道徳に関することなので、道徳こそ教育の中心と考えられていることは、ここでもわかります。
 中でも、今政府に反対する勢力が問題にしているのは、当然五です。「期待される人間像」のときもそうでしたが、愛国心という言葉がはっきりと登場したことで、日本の右傾化はいよいよ促進される、とか。これがあまり広範囲な共感を呼ばない理由の一つには、「またか」と思われてしまうところにあると思います。そもそも、(1)の、昭和33年の道徳の時間設置時から、日教組などは、これは戦前の修身の復活であり、またあの暗黒の時代にもどろうとする「逆コース」の一部だ、なんて批判してきたのです。それから六十年近くたって、危ないことがわかったのは、むしろ彼らが信奉していた社会主義思想のほうでした。そうでなくても、週に一時間何かやって、戦前型の思想(というのは一体何かも曖昧ですが)が子どもたちの頭に注入されるだろう、なんて、普通の人が心配できるものではないでしょう。
 これを逆から見ると、道徳教育推進派が望むような愛国心などの理念も、週一時間で子ども達の頭に植え付けるのは不可能、ということです。そこはどれくらい自覚されているのか、不明ながら、安倍内閣はより積極的にやろうとはしてきたのです。実際、道徳(あるいは、徳育)の教科化は、この頃から具体的な要請として登場してきました。

(4)安倍首相肝入りの教育政策研究及び提言機関である教育再生会議(以下、再生会議)が、平成19年6月に出した第二次報告「社会総がかりで教育再生を」
 その「Ⅱ 心と体―統一の取れた人間形成を目指す」のうち、最初の二つの提言がそうです(【  】内は、サブタイトル的なもの)

提言1 全ての子供たちに高い規範意識を身につけさせる。【徳育を教科化し、現在の「道徳の時間」よりも指導内容、教材を充実させる】
提言2 様々な体験活動を通じ、子供たちの社会性、感性を養い、視野を広げる。【全ての子供に自然体験(小学校で1週間)、社会体験(中学校で1週間)、奉仕活動(高等学校で必修化)を】


 「提言2」のほうはそれまでと大した変わりはないのですが、「提言1」で、「規範意識」が、前出(2)の、「自由と規律のバランスの回復」より明確に打ち出されたところがミソです。当時は、学校内では「いじめ」が大きな問題としてクローズアップされ、また授業が成立しない「学級崩壊」現象が広く話題になってからかなり経っておりましたから、「子どもたちをもっときちんとさせよう」という要請自体は、割合と支持を集め易かったのだと思います。今でも「道徳教育」と言えば、このへんをイメージする人が多いのではないでしょうか。
 実際、私も、いじめも学級崩壊も、学校で多少は体験しましたので、なんとかできないものか、という気持ちなら、よくわかります。ただし、道徳を科目として実施したら、事態改善の役に立つだろう、などと考える教師は、おそらく一人もいないでしょう。
 それかあらぬか、平成20年に福田内閣に提出された再生会議の最終報告では、「徳育を『教科』として充実させ」云々という文言はありますが、それ以上は踏み込んでおらず、ちょっとトーン・ダウンした感じになっています。実際、この提言は学校現場にはほとんど反映されませんでした。ただ部分的には、都立高校で19年度から奉仕作業が義務化されたり、我が茨城県では全国にさきがけて20年度から高校でホームルームか総合学習の時間に道徳を教えなければならないことになったり、といった変化はもたらしています。

(5)この20年に改定された現学習指導要領
 道徳の教科化は見送られました。
 それには上記以外にいろいろな要因が考えられます。一つには、文科省内部にもこれをいやがる人がいたんじゃないかと推測されることがあります。伊吹文明文科大臣(当時)が平成19年6月5日の参院文部科学委員会で「(道徳について)国がある価値観を持って決めるというような検定教科書的なものをつくるということは、やっぱり非常に難しいんじゃないかなと私は思っておりまして」云々と答弁しているのが一点。
 それから、平成19年2月に組織された第四期中教審の会長には山崎正和がなりました。彼は以前から学校での道徳教育、それに歴史教育も不要、という意見を述べていたのです。会長就任後の4月に、日本記者クラブで講演して、「倫理の根底に届く事柄は学校制度(で教えること)になじまない」云々と発言したことは少し話題になりました。
 私は、このようなものこそまともな感覚だと考える者です。
 それはそうと、このときの指導要領は、「生きる力」というのがサブタイトル扱いになっておりまして、「ゆとり教育」理念の尻尾がまだついていることがわかります。その小学校編、総則第1の2にはこうあります。

 学校における道徳教育は,道徳の時間を要として学校の教育活動全体を通じて行うものであり,道徳の時間はもとより,各教科,外国語活動,総合的な学習の時間及び特別活動のそれぞれの特質に応じて,児童の発達の段階を考慮して,適切な指導を行わなければならない。
 道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重の精神と生命に対する畏(い)敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し,個性豊かな文化の創造を図るとともに,公共の精神を尊び,民主的な社会及び国家の発展に努め,他国を尊重し,国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓(ひら)く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。
 道徳教育を進めるに当たっては,教師と児童及び児童相互の人間関係を深めるとともに,児童が自己の生き方についての考えを深め,家庭や地域社会との連携を図りながら,集団宿泊活動やボランティア活動,自然体験活動などの豊かな体験を通して児童の内面に根ざした道徳性の育成が図られるよう配慮しなければならない。その際,特に児童が基本的な生活習慣,社会生活上のきまりを身に付け,善悪を判断し,人間としてしてはならないことをしないようにすることなどに配慮しなければならない。


 先の(1)で挙げた旧指導要領を長くしただけじゃないか、と思われるかも知れません。新たに入ったのは、「我が国と郷土を愛し」つまり愛国心ですが、他の中に紛れてあまり目立たなくなっていますね。目立つのは、最後に置かれた「基本的な生活習慣,社会生活上のきまりを身に付け」云々の規範意識で、これが(4)の、再生会議第2次報告の名残と言えるでしょう。

(6)中教審平成26年10月21日答申「道徳教育に係る教育課程の改善等について」
 中教審として戦後初めて道徳の教科化を打ち出しました。またこれによって、道徳の教科化は既定の路線となったようです。
 これが出てくるまでの過程はまたいろいろあるんですが、とりあえず、平成20年に解散した再生会議が福田内閣で「教育再生懇談会」となり、民主党政権になってからはそれも途絶えていたものが、第二次安倍内閣発足に伴って平成25年「教育再生実行会議」として蘇った、その最初の提言「いじめの問題等への対応について」からして道徳の教科化を求めた、それが直接の背景です。

 学校は、未熟な存在として生まれる人間が、師に学び、友と交わることを通じて、自ら正しく判断する能力を養い、命の尊さ、自己や他者の理解、規範意識、思いやり、自主性や責任感などの人間性を構築する場です。
 しかしながら、現在行われている道徳教育は、指導内容や指導方法に関し、学校や教員によって充実度に差があり、所期の目的が十分に果たされていない状況にあります。
 このため、道徳教育の重要性を改めて認識し、その抜本的な充実を図るとともに、新たな枠組みによって教科化し、人間の強さ・弱さを見つめながら、理性によって自らをコントロールし、より良く生きるための基盤となる力を育てることが求められます。


 引用の第二段落、「しかしながら」以下は、「どうも、教科になっていないと、多くの教師は真面目に徳育に取り組まないのではないか」ということを言っているわけです。事実としてはその通りです。しかし、それには、個々の教員の熱意や能力だけでは決して片付かない事情があります。それを無視して、教科としての道徳を、というのは、非常に大きな問題がある。これが私が提出したい第一の論点です。
 さて、次に標記の中教審答申ですが、一読して、何かより奇妙なことになったな、という印象が持たれます。端的には冒頭部の、「1 道徳教育の改善の方向性」の「(1)道徳教育の使命」の部分から。

 なお、道徳教育をめぐっては、児童生徒に特定の価値観を押し付けようとするものではないかなどの批判が一部にある。しかしながら、道徳教育の本来の使命に鑑みれば、特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にあるものと言わなければならない。むしろ、多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質であると考えられる。
 もちろん、道徳教育において、児童生徒の発達の段階等を踏まえ、例えば、社会のルールやマナー、人としてしてはならないことなどについてしっかりと身に付けさせることは必要不可欠である。しかし、これらの指導の真の目的は、ルールやマナー等を単に身に付けさせることではなく、そのことを通して道徳性を養うことであり、道徳教育においては、発達の段階も踏まえつつ、こうしたルールやマナー等の意義や役割そのものについても考えを深め、さらには、必要があればそれをよりよいものに変えていく力を育てることをも目指していかなくてはならない。
 また、実生活においては、同じ事象でも立場や状況によって見方が異なったり、複数の道徳的価値が対立し、単一の道徳的価値だけでは判断が困難な状況に遭遇したりすることも多い。このことを前提に、道徳教育においては、人として生きる上で重要な様々な道徳的価値について、児童生徒が発達の段階に応じて学び、理解を深めるとともに、それを基にしながら、それぞれの人生において出会うであろう多様で複雑な具体的事象に対し、一人一人が多角的に考え、判断し、適切に行動するための資質・能力を養うことを目指さなくてはならない。


 道徳とは価値観の押しつけである、という、よくある批判、というか、今教育論議全般が盛んではありませんので、マスコミでよく見かけるというわけではないのですが、東京弁護士会などはしている批判に対する反論から始まっているわけです。学校ってもともと価値観を押しつけるところではないの? 国民会議の言う「学校は道徳を教えることをためらわない」とはそういう意味ではなかったの? という疑問がまず湧いてきます。
 でも、押しつけではないんだ、と。時に対立することもある多様な価値観を前に、「主体的に」道徳の問題を考え続ける姿勢こそ、道徳教育で養うべき資質だ、と言うんですね。
 規範意識は? これを身に着けさせる、というと、普通には有無を言わさず子どもを躾ける、つまり規範を押しつけることだろうとイメージされがちです。でも、そうではなく、ルールやマナー(即ち規範、と考えていいですよね?)の意義や役割をよく考えて、必要なら(誰にとって、ですか?)変えることができるほどの力を育てる……?
 知識の獲得より、自分の頭で考えていく力こそ重大だ、とした「ゆとり教育」を、道徳の分野に応用するとこうなるのでしょうか。これは、普通の教科以上に、やめたほうがいい企てのように思えますが、どうでしょうか。これが、ここで提出したい第二のポイントです。

 本格的に考察する前に、後者に対する軽いジャブを出しておきましょう。「ルールやマナー等の意義や役割そのものについても考えを深める」とは、例えばこういうふうに問い続けることですか? 「朝知り合いに会ったら、『お早う』と挨拶をするの? なぜ?」「年上の人と話をするときには敬語を使わなくちゃいけないの? なぜ?」「人の話を聞くときにはガムを噛みながらではいけないの? なぜ?」「なぜ自動車は道路の左側を、人は右側を通らなくてはいけないの? アメリカでは逆なのに」等々。小学生からこう聞かれたら、教師はちゃんと答えなくてはいけないのでしょうか? あるいは、小学生同士で議論させる。それも、納得させるため、というよりはむしろ、このような問題を考え続けるために? ……やめたほうがよくはないですか?
 より重大な道徳的問題を出してみましょう。ずいぶん以前に、あるTV番組で、中学生が、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問いかけたら、その場にいた大人たちは誰も答えられなかった、というのが話題になったことがありますね。これを例題として、私が答えを探しますと。
 キリスト教の神様のようなものが信じられている社会なら簡単です。「命は神から授かったもので、他人の命でも自分の命でも、勝手に奪ってはいけない」が、とりあえずの答えになるでしょう。もっとも、ここからさらに、「では、なぜ神様は、全能であるはずなのに、人間を、そういう悪いこともできるように作ったのか」という大問題が生じますが、それはいいでしょう。日本人は、私も含めて、そもそもこういう神様を信じていない人が大部分なんですから。
 これ以外の最有力理由づけ候補は、やっぱり以下でしょう。「さらば凡(すべ)て人に爲(せ)られんと思ふことは、人にも亦(また)その如くせよ」(「マタイ伝」第七章十二節)「己(おのれ)の欲ざる所は人に施すこと勿(なか)れ」(「論語」顔淵二、衛霊公二十三)。イエスと孔子という、文化的背景がまるっきり違う二人の聖人が、肯定的と否定的の表現の違いこそあれ、まず同じことを言っているわけで、これは倫理学の世界では「黄金律」(golden rule)と呼ばれているそうです(マイケル・サンデル『これからの正義の話をしよう』による)。これを応用すると、こう言える。「あなたは殺されたくないだろう。だから、人を殺してはいけないのだ」。絶対的な価値にしてすべての価値の源泉(たいてい、神と呼ばれる)を持ち出さずに回答するとしたら、これ以外にはないように私には思えますが、どうですか?
 さらにまた、こう言われたらどうですか? 「オレは殺されたっていいんだよ。ただし、あんたを殺してからならね」。これに対して、「あなたは殺されてもいいかも知れないけど、私は殺されたくないんだから、やめて、と答える」と言った人が、現にいます。この場合は、人間は基本的には同じような欲望を抱くものだから、それを根拠として倫理を建てる、という前提は完全に捨てられており、人間の個別性が強調されるわけです。すると、「あなた」の欲望と「わたし」の欲望が対立した場合、どちらを取るか、その基準はあるのか、という問題が立ち上がります……。
 私は、こういうのはとても好きなタチなので、お望みとあれば、同種の「倫理問題」をいくつも考え出してお目にかけましょう。いやまあ当然、私の好みで、学校でやることを決められても困るでしょうから(でも、ある特定の人々の好みによって決められているように感じるのは、僻みですか?)、それは抜きにして、一般的に、上のようなことを、中高生に議論させたいですか?
 やめたほうがよくないですか?
 マイケル・サンデルの「白熱教室」は、なんと言っても、ハーバードのような名門大学で、倫理学に興味を持っている学生を相手にしたもので、90パーセント以上の青少年が来るような場所でやるなんて、無茶な話です。いや、絶対にできない、とは言いませんけど、あなたが、中高生の子を持つ親だったとしたら、こんな話を延々と続けることを喜びますか、ということなんです。
 やめたほうがよくないですか?
 もう一つ、サンデルの場合、自分が提出した問題に対して、あからさまには言わない時でも、いつも答えは用意されているようです。それは多分、教師としては必要なことなのでしょう。私は、答えを知らない、というか、こういうことには究極的な答えはない、つまり、いつでもどこでも誰をも納得させることができる答えはない、あっても人間にはわからない。それが前述した絶対の価値を見失った近代人の宿命であり、また一面では、人間というものの奥深さに直面する通路だとも思っております。こういう人間は、道徳の教師たるに相応しくない、のでしょうか?
 これ自体も、道徳の問題の一部として議論され得ます。今回はそれは措いて、別の角度から上記二つのポイントを検討していくことにしたいと思います。
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悲劇論ノート 第3回(オレステス)

2015年06月07日 | 
蜷川幸雄演出「オレステス」、平成21年シアターコクーン

 次のやうにも考へられるであらう。「お前は何者か」には、なるほど、究極の解答はない。それがわかつてゐても、この問ひがやめられないのは、人が、人と人の「あひだ」で生きなければならないからだ。完全に孤立した、一人だけの人間といふものは、もしゐたとしても、彼がなんであり、何をなすか、は全く問題にならないであらう。
 言ひ換へると、個人の「意味」は、なんであれ、「あひだ」にしか見出されない。「あひだ」は、個人に先行してゐる。それなら、人間の本質、と呼べるやうなものもまた、「あひだ」にしかないことになる。「人+間」がhuman beingそのものの意味にもなる日本語は、この点たいへん示唆的である。
 ただし、個々人がゐないとすれば、「あひだ」がないこともまた、単純な事実である。「あひだ」の意味は、それを成り立たせる両端の個人(あるひは、集団対個人)のありかたによつて、いかやうにも変はつていく。それが、「お前は何者か」の問が立ち現れてくる所以である。だからこの問は、戯れではないとしたら、必ず「私(たち)にとつて」が前提になつてゐる。会社にとつて、お前は何か。家族にとつて、お前は何か。国家にとつて、お前は何か、など。
 また、「すべきこと」/「してはないらないこと」を定めるのもまた、「あひだ」に国家などの枠を嵌めた社会である。人と人のあひだが一定不変ではないとすれば、社会もまた一定不変であるはずがない。それなら、「すべきこと」/「してはならないこと」の基準もまた、変はる。同じ行為が、善になるときも悪とされるときもある。後者の場合、社会は、どういうふうに個人に責任を負はせられるのか。個人は、どういふふうに責任を取る「自分」を示せるのか。

 ギリシャ神話の体系の中で、テーバイ王家の悲劇と並んで、アレゴスの、アトレウス家の人々の物語はきはめて有名で、多くの悲劇作家によつて取り上げられた。しかし、その中心人物オレステスは、前者のオイディプスほどには人の記憶に残つてゐない。どちらかといふと、彼の姉のはうが知られてをり、「エレクトラ・コンプレックス」なる術語にもなつてゐる。
 彼らの父親は、トロイ攻めのギリシャ連合軍総大将アガメムノン。戦争が終つて凱旋帰国してから、従兄のアイギストスと通じた妻(エレクトラとオレステスの母)クリュタイメストラによつて殺害される。エレクトラは、父親のために、母親への復讐を果たさうとする。オレステスはその道具に過ぎない、わけではないけれど、なんとなくそのやうな印象が持たれてしまふ。
 別の神話で、彼はエレクトラの上の姉イピゲネイアに助けられたりもする。彼の仇討ち劇のきつかけを作り、事実討たれる母はもちろん女。彼女を殺害したことで今度は彼が復讐の神(悔恨の念を擬人化したものと言はれる)につきまとはれるのだが、これは三人の女の姿をしてゐる。最初から最後まで、女によつて運命を決められる男であるやうだ。
 それ以上に次のことは重要である。オイディプスは、自分では知らないうちに母親と交るのに、オレステスは、自分が誰を殺すのか、事前に充分に知つてゐる。まつしぐらにさうするわけではない。アイスキュロス「供養する女たち」でも、エウリピデス「エレクトラ」でも、事前に戸惑ふ様子は描かれてゐる。いかにも、アルゴスの正当な王子として、父の仇は討たねばならないだらう。しかしそのために、母を殺した者になるのはどうか。この迷ひそのものはもちろん正当な、悪く言へば平凡なものである。そのために、仇討ちの実行へと彼の背中を押す者として、エレクトラが必要とされた、とも見ることができる。
 しかし、ひとたびやつてしまつた以上は、彼はある原理「不当に殺された父の仇は討たねばならない」のために他の原理「母を殺してはならない」を明白に捨てたのであつて、それ以外の者ではありやうがない。事前にどれほど躊躇しようと、事後にどれほど後悔しようと、彼が現に為した行為、母殺し、の前ではものの数ではない。周囲すべてにさうみなされるので、彼自身もまた、自分のやつたことの正当性を、少くともその不可避性を主張する。一方の正義を代表するのがオレステスなのであつて、その単純明快さが、彼の人物像から受ける印象を弱めるのだ。

 オレステスのしたことは正当か否か。悲劇作品の中にもいくつかの論点が見られる。エウリピデス「オレステス」に出てゐるのはとりわけ興味深い。クリュタイメストラの父、即ちオレステスの祖父テュンダレオスが次のやうに言ふ。
「誰かが誰かを殺す。殺した者は、殺された者の復讐のために、他の誰かに殺される。そのまた復讐のためにその他の誰かも殺される……などといふことが続いたら、この復讐の連鎖は果てしなく続くだらう。さういふことにならぬやうに、法があり、非道なことを裁くのは個人ではなく、法だといふことにしたのだ」
 これは、仇討ちなどの私刑を禁じた、近代法の精神に合致したものだと言へやう。ところが、これを唱へたテュンダレオスは、オレステスを憎むあまり、彼に死刑の判決がくだるやう、審理に当つた人々を煽動するのだ。つまり彼は、法の厳正中立性、それによる正義の実現など、本当は信じてゐないのである。
 法による判断が、さうでないものより優れてゐると考へられる根拠は、一つしかない。それは非個人的だといふところだ。現実の行為以前に、「してはならないこと」が定められてゐて、それが適用される(罪刑法定主義)のだから、ある人(々)の時々の感情や都合によつて左右されることは少い分、「公正」と呼ばれるものに近づくだらうと期待されるわけだ。
 夫殺しと母殺しと、どちらが罪が重いか、わかつたものではないが、とりあへず、オレステスは憎いので、ここは後のはうが重罪だとしてをかう、などといふことになつたら、個人への好悪の念によつて判断が左右されることになり、ついには「してはいけないこと」の概念も常に揺らぐ。まだしもそれは防げるなら、こちらを採る意味はある。

 それでも、人が判断する以上、感情が完全に消えるわけはない。判断する人間の数を増やせば、その弊害は減るだらうと思へはするが、ゼロにはならない。エウリピデスが伝へてゐるアレゴスでの裁判では、判決は参加者の多数決によつて決まつたらしい。すると、煽動者の暗躍する余地も高くなる。
 その状態で人を罪に落とすのはやはり問題がある、といふことで、現在のアメリカの陪審員制度は、全員一致の評決のみを有効としてゐる。それでも全く公正といふわけにはいかず、裁判は、陪審員にどういふ人間が選ばれたか、その時点で決定する、などと言はれてゐる。
 結局法は、究極の正義や公正を保証するものではなく、まして個人の救済を目指すものではない。さういふことをこの世で完璧に実現することは不可能だ、といふ断念のうへで、それでも「してはならないこと」はあるはずだといふ信念と、社会の秩序は守られなければならないといふ実際上の都合、この二点の便宜のために定められるのが法なのである。二つの対立する正義が登場した時、どちらが上か、などと決定できるやうなものではもともとないのだ。

 ことはアテネで改めて裁判にかけられる。アポロンがさう命じたのだ。この神は、このたびは予言だけでなく、オレステスに復讐を命じ、その後彼を庇護するまでの積極性を見せてゐる。
 アテネにはアポロンの姉アテナがゐる。アポロンは、知恵と防衛を象徴し、アテネといふ都市国家の名前の由来ともなつたこの女神に、オレステスの裁きを委ねたのである。アイスキュロス「慈しみの女神たち」にこの顛末が描かれてゐる。エウリピデスはこの作品を知つてゐて、アレゴスでの裁きとそれから起こる騒動を、これの前史として、創作したのだ。
 さて、最終決着を任されたアテナだが、これはもう彼女一人の手には余るとして、アテネの賢明な市民たちから成る陪審員団を招集する。彼らは劇中一言も発せず、劇の大半は、検事役の復讐の女神たちと、弁護士役のアポロンの論戦によつて占められてゐる。
 女神たちはかう主張する。「我々は非道な行ひを為した者をどこまでも苦しめるのが役割なのであつて、もしオレステスが許されるやうなことがあれば、自分たちの存在意義がなくなるばかりか、人倫が地に墜ちることにならう」
 これにはオレステス自身が反論する。「非道を責めるといふなら、なぜクリュタイメストラの罪を不問に付したのか」。女神たちは答へる。「彼女とアガメムノンの間には血の繋りがなかつたからだ」
 夫婦関係より、血縁関係のはうが上であり、母殺しは夫殺しより重罪だといふわけだ。今も賛成する人はゐるかも知れない。しかしさうだとしても、夫殺しもやはり罪なのであれば、それを放つておいてよいとは言へまい。クリュタイメストラがしかるべく罰せられてゐたとしたら、オレステスが手を汚す必要もなかつたのだ。その情状を無視して、彼だけを罰するのは、やはり片手落ちといふものだ。
 一方、アポロンは次のやうに論じる。「血縁関係の中で、重んじられなければならないのは父とのそれであつて、母との関係は二義的なものである。ゆゑに、父を殺した母を仇敵としたオレステスの行為は正当である」。こちらの、父系のみを重んじる原理は、先のオレステス有罪論以上に、現代で素直に受け入れられることはないであらう。
 選ばれたアテネの市民たちは、どちらの側からも、致命的な欠陥を含む理屈を聞かされるだけではなく、自分たちの言ひ分を通さないなら、以後この市を呪ふぞ、などと脅しまでかけられてから、評決に臨む。結果は、有罪と無罪と、同数の票になつた。
 その場合どうするかは、アテナはあらかじめ言明してゐた。彼女自身の一票によつて、すべての決定とする。そのうへ、「自分には母はなく、父ゼウスの頭部から直接生まれたのだから、アポロンの父系優先主義に賛成する」と、つまり「ひいき」するとまで公言してゐたのだつた。かくてオレステスは無罪となる。
 これは欺瞞であり、それくらゐなら最初からアテナ一人の判断でことを決したはうがましだつたらうか。必ずしもさうは言へまい。肝心なのは形式なのである。一人の人間(この場合神も含まれる)の意向ではなく、多くの人間が参加したうへでの決定のはうが、「社会的正義」の名に相応しい。それを欺瞞と言ふなら、民主主義制度自体もまた、欺瞞であるしかない。そして我々は、社会を営むのに、このやうな欺瞞以上のものを、まだ発見してゐないのである。
 最後にアテナに残された仕事は、ぶつぶつ不平を言ふことをやめない復讐の女神たちを宥めることだ。「お前たちもそんなことだけをしてゐたのでは嫌はれるばかりだ、人を許すことも覚えたらどうだ」。
 驚くべきことに、この説得が効を奏して、復讐の女神は慈しみの女神に変貌し、劇はめでたしめでたしで終はる。
 これについても、そんなんでいいのか、と思はず聞きたくなるかも知れない。しかしここにも一定の智恵があることは認めざるを得ないと思ふ。万人が納得する正義が実現し難いとき、人間に(この場合も神を含む)できることは、許すことだけなのだ。そのはうがまだしも、ずつと憎しみと争ひが続くよりはいい。もちろん、いつでも、誰でもを、許すわけにはいかないのであるが。

 以上は「オレステイア(オレステス物語)三部作」と呼ばれる作品群の締めくくりなのだが、オレステス個人の影はひどく薄くなつてゐることは認められるであらう。彼は無責任なわけではなく、恐ろしい女神たちに悩まされたり、裁判の被告になつたりと、充分に自分のしたことに対応してゐる。しかし、本当の問題はそこにはない。
 不完全な人間が作る社会は、やつぱり不完全だといふ実情が露はになつた。その狭間に落ちた者は、もはや自分自身の運命の主人として振る舞ふわけにはいかない。彼は英雄ではなく、犠牲者になるしかない。たぶんそれがわかつたからであらう、後代の、シェイクスピアやラシーヌなどの悲劇作家は、このやうな者を主人公とはしなかつた。
 現代では悲劇のヒーローに足る人物を見つけ出すことは難しいであらう。一方、オレステスの場合のやうな不条理に陥る者なら、ゐる。橋本忍脚本の「私は貝になりたい」は、テレビドラマの傑作として名高く、リメイクもされ、近年映画化もされた。戦地で、上官の命令に従つて捕虜を射殺した元日本軍の二等兵が、戦後その行為のために戦犯となり、アメリカ軍によつて死刑に処される。これはフィクションだが、事実同じやうな目にあつた人は確実にゐる。
 深海にゐる貝ではなく、人と人のあひだで生きなくてはならない人間は、時として、悲劇作品以上の悲劇を生きなければならない。できれば救済せねばならぬのは、かういふ人間たちであらう。
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