由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

語る私と語られる私と その7

2012年05月07日 | 文学
メインテキスト: デイヴィッド・リースマン、加瀬秀俊訳『孤独な群衆』(原著1961年刊みすず書房昭和39年 昭和49年第19刷)

サブテキスト:丸山眞男『増補版 現代政治の思想と行動』(未来社昭和39年、昭和57年第109刷)

 今回は、本シリーズ「その3」の最後に述べた「内部指向型」と「他人指向型」についての補足、及びそれに付随したことを述べる。
 デイヴィッド・リースマンは、上の二つに「伝統指向型」を加えた三類型を、社会的人格のモデルとして提唱している。もとより、社会学上の概念であり、文学にそのまま当てはめるのは無理がある。
 それ以外にも次のことがある。この本の刊行当時から、リースマンたち(『孤独な群衆』には、共著者としてルーエル・デニーとネイサン・グレーザーの名が挙げられている)が、「他人指向型」よりは「内部指向型」のほうが上だ、としていると見られることはよくあり、リースマンは、この三類型間では価値の序列づけは行っていない、と何度もことわらなくてはならなかったそうだ。彼は他に、よく知られた性格分類である「自律型」「同調型」「アノミー型」にも言及していて、この中では明らかに「自律型」を一番好ましいと思っている。つまり、「内部指向型」=「自律型」ではないのである。
 
 せっかく取り上げたのだから、少し詳しくリースマンにつきあってみたい。
 この三類型は社会の歴史的な変遷に伴って登場し、やがて時代の主流を占めるようになる、とされている。その変遷を具体的に示す有力なメルクマール(指標)としては、人口統計が使われる。人類の大部分が経験した、産業社会以前は、人口増加率はきわめて低い。出生率は高いが、人間の寿命が短く、また幼児死亡率も高かった。それ以上に、人口が増えすぎた場合にはそれだけで、家族や、社会全体さえ破壊される危険も実際あったので、堕胎や間引きも広範囲に行われていた。ヨーロッパ中世や、日本でも江戸時代まではそういう社会であったと思ってまちがいない。また、いわゆる文明以前の地域は、現在もそうだろう。
 ここでの社会性格は「伝統指向型」。人は昔から決まりきった役割の中で生活し、それ以外に生き方の可能性があるということさえ、例外的にしか考えなかった。
 やがて産業革命などが、大規模な社会構造の変化をもたらし、また生産が飛躍的に向上するところから、社会は多くの人口を養えるようになる。衛生や医学も進歩するから、人間の寿命は延びるし、幼児死亡率は下がる。ヨーロッパでは十七世紀以降にこの状態になったし、他の地域も、主に西欧列強の植民地になることで、多くがその状態になった。ここで登場したのが「内部指向型」。
 以下では、リ-スマンの直接の論述というよりは、私が読み取った信じることを述べる。「内部指向型」とは、好ましい人間像・生き方のモデルを、内面に備えていることである。それは典型的には、上流・中流階層の家庭で、幼児期からの教育によって植え付けられる。学校が一般的となり、生産とは切り離された場所で教育されるべき者としての「子ども」が発見されたのもまた、この時期であった。
 伝統指向型の社会では、そのような教育そのものが必要だとはほとんど考えられていなかった。だいたい、「伝統が大切だ」なんぞとわざわざ教えなければならなくなったこと自体、他の伝統もある、とか、伝統から離れた別の生き方もある、とかいうふうに、「多様性」が目に見えるようになった証拠であろう。こわれやすいからこそ大切にしなければならないものとして、「伝統」は改めて発見されたのだ、と言ってもよい。
 以上を要するに、「内部指向型」人間とは、保守的な人間なのである。因みに、「保守的」という言葉もまた、「革新的」とか「進歩的」という言葉が登場した後で、それへの対抗上出てきたものだ。「昔ながらの生き方」が危機にさらされていると感じられたからこそ、それを守るために、伝統・家柄・信仰・道徳などが、無意識の押入れから持ち出され、その収納場所として、人間の「内部」が重視されるようになった時代。リースマンに即して言うと、これが「近代」の姿なのであった。
 例えばダニエル・デフォーが1719年に公刊した「ロビンソン・クルーソー」は、内部指向型人間の一典型を描いている。一人で南洋の無人島に漂着したロビンソンは、故国でのライフ・スタイルをそのまま続けることなどもちろんできないが、内面はイギリス紳士であり続ける。彼の無人島には時折付近の島から土人(どじん。差別語だが、ロビンソン物語ではこれが相応しい)がやってくるのだから、彼が通常の「人間」として、人と人の間で生きようと思えば、彼らの仲間に入れてもらえばよかったのである。しかし、そんなことは問題にならない。土人は、「同じ人間」ではない。せいぜい召使にすることができるだけで、同輩として付き合うなんて考えられもしないところに、イギリス紳士がイギリス紳士たるゆえんの一つがある。
 もっとも、それは偏狭だとみなす我々にしても、物語に描かれている残酷な処刑やら、さらには食人の習慣までも、「文明・文化はさまざまであり、その間に価値の上下などはない」と、おおらかに認められるのかというと、ぐらついてくるだろう。その程度のモラリティは、我々の「内部」にも刷り込まれている。人間が、いやしくも文明と言えるほどのものを持っているなら、いつでも、どこでも、「内面」と言えるものもあるのだろう。本当の差は、これをどの程度に自覚するかによる。
 自覚が行き詰まりに達して、モラリティそのものの有効性が疑われるようになった時代こそ、リースマンが同時代として観察した1950年代のアメリカなのだった。時代の特徴としては、都市化の進展・人口増加率の低下・産業人口構造の変化(第三次産業、つまりサービス業従事者がそれまでになく増えた)などが挙げられている。
 アメリカは、この時代も、今も、公には内部指向型が理想とされているようだ。「自分の意見を持て」と強制される(強制されるなら、「自分の意見を持つべき」という意見は自分のものではないことになる)妙な社会なのだ。それとは裏腹に、若者は、いつでも、どこでも通用する不動の価値などほとんどないことに、人生の早い段階で気づかされるようになった。親から植えつけられた価値観に従ってまっすぐに生きたところで、その先に幸福が待っているわけではない。自己実現は、それこそ、人と人の間でこそ成し遂げられなければならない。とすれば、周囲の人々に認められること以上の大事はないことになる。そして、どうすれば認められるか、それは時と場合に応じて変わるから、首尾一貫した「自分」などより、その場その場にうまく対応する能力こそ望ましい。
 こうして、価値の基準は、自分自身の内部の他者(超自我)である道徳律から、具体的な他者へと移る。その変化はゆっくりしたものだが、しかし確実に起こっているとして、リースマンは後者に「他人指向型」という名前を付けたのだった。
 と、まとめてから気づいたのだが、「他人指向型」は、浅田彰が1984(昭和59)年の『逃走論』で提唱し、新語・流行語大賞新語部門で銅賞を受賞した「スキゾ・キッズ」に似ている。すべてうろ覚えの記憶で言うのだが、リースマンが言ったような産業人口の変化も、少子化も、日本で話題になり始めたのはこの時期だったと思う。アメリカの社会問題が、約三十年遅れて日本でも発見された、ということか。これはまあ、今急に浮かんだ思いつきでしかない。

 改めて文学の話。
 『孤独な群衆』第一部第四章は「技術の教師としての物語―性格形成要因の変化(3)―」と名付けられている。因みに、「性格形成要因の変化(1)」は、親を代表とする年長者からの、「(2)」は同輩集団からの、広義の「教育」について論じている。これに次いで物語と文学も、人々の性格形成に資するという意味で、教育的な役割を果たしてきたのだし、現に果たしている。しかし、そこからすると、余計な要素もかなり多い。

 じっさい伝統指向から内部指向への変化が最初に起るのは、読み書き能力、その他によって人生がさまざまな方向をとりうるのだという一種のあいまいさを獲得した人びとの間から始まった、とわれわれは考えるのだ。コミュニケイションについての数学的理論では、ノイズ(雑音)と呼ばれているものと、情報と呼ばれているものがあらゆる回路の中に混在しており、それによって送り手の自由が制限されるのだ、と考えられているが、それと同じように子供たちを社会化するのに役に立つと考えられているメッセージの中には、ほとんど必然的にまったく反対の効果をもつような雑音、つまりかれらを適正に社会化しえないような雑音が含まれているものなのだ。(P.77)

 伝統指向型が支配的な社会で語り継がれた物語にも、その社会の伝統的な枠をはみ出すか、あるいは積極的にこわそうとする悪人たちはよく登場する。もちろん、最後には彼らは罰せられたり改心したりして、伝統の中へと回収されるのだが、文化がごく素朴な段階でも、共同体であれば必ず、和辻哲郎の言う往還の運動が、このような形で認められるのは、人間というものの業の深さを教えてくれるような気がする。
 例として、日本古代の物語を考えよう。「古事記」上巻、神代編に登場する神々の中で、一番印象深いのは、イザナギ・イザナミが生んだ三貴神(いや、実はイザナミが黄泉の国へ去り、それを追って行って、戻ってきたイザナギが、死の穢れを払うために沐浴する、その垢から生まれたので、母はいないのだが、このくだりはしばしばつごうよく忘れられる)のうちの末弟、スサノオであろう。亡き母に会いたいと言って、禁じられると、泣き叫び、それがあまりにもすさまじいので草木が枯れた。姉であるアマテラスが治める高天原では、酔っぱらってさんざん狼藉を働いて、アマテラスの岩戸隠れという大事件を引き起こす。そこを追放されてから、怪物・ヤマタノオロチを退治して、ようやく神々だか人々だかに迎えられ、たぶん出雲を安住の地とする。
 このスサノオの正体は何か? 三貴神のうちアマテラスが太陽、ツクヨミが月の象徴とすると、何かの天体を現わしていると考えられる、というところから、例えば諸星大二郎「暗黒神話」では、かつて地球のすぐ近くにあった暗黒星雲のことだとしている。こういう想像は面白いのだけれど、彼の物語を素直に読んで最も心に残るのは、その人間臭さであろう。
 気に入らないことがあると暴れまくって、周囲にたいへんな迷惑をかける子どもっぽさと荒々しさ。それがすぐに怪物退治の英雄にもなるのは、矛盾していると感じられる向きもあるようだが、私は特に感じない。狂気と見まがうばかりのエネルギーの持ち主こそ、困難な事業を成し遂げるに相応しいと、我々は、実例を見たことはなくても、けっこうすんなり納得するのではないだろうか。
 それ以上に、我々に「正しい道」を教え、社会を保つ道徳の力は、個々人にとっては結局束縛であるので、それをふりほどいて見せるふるまいからは、爽快感が与えられるのも事実であろう。
 要するに、悪人の話は面白い。道徳的な物語の語り手もまた、聞き手を惹きつけようと思ったら、話の中に、悪のスパイスを入れないわけにはいかなかった。それは時に、表面の意図とは全く反対の働きをすることもある。人間とはその程度に、罪深く、奥深い存在だということだ。

 別の大きな論点として、近代リアリズム文芸と、「内部指向型」の、首尾一貫した自己の物語は、密接な関係があるのは本当だろう。この物語にもはや大した魅力が感じられないとしたら、文学はどうなってしまうのか。いや、文学そのものはどうでもいいとして、今後我々はどんな物語を生きることになるのか? 一番気になるところだが、これについてはリースマンたち社会学者から学べるものはあまりないように感じる。
 ここへ行く前の補助線としても、特殊日本的な問題に今はこだわりたい。わが国では「内部指向型」はあまりない、というのは本当だろう。独自の文化の伝統があり、開国によってそれが失われていく際の葛藤もあった。が、それを抽象的な原理として、個々人の内部に備え付けようとする意欲は、全体として見た場合、ごく弱かった。だからこそ、自分たちも驚くような、急速な近代化を成し遂げることもできたのだった。
 これを言い換えると、日本はもともと「他人指向型」だったことになる。そこから例えば、夏目漱石を初めとする我が国近代文学者の戸惑いが生じた。西洋文学とは、自我の妄執の物語ではないのか? 翻ってわが身を見れば、我執は軽い分、我々日本人は、風の吹くままに流されていくしかないような頼りない存在でしかないのではないか? ざっと見て、このような疑問の両極の間を揺れ動かざるを得なかったのである。
 我が国が未曾有の敗北を喫した大東亜戦争期に多感な青春時代を過ごした、いわゆる戦中派には、だいたいにおいて、後者の思いのほうが強かったようだ。それはもちろん文学者に限ったことではない。丸山眞男が戦後すぐに日本の軍国主義を批判的に分析した一連の論文を読むと、この高名な政治学者が、しばしば、あられもなく感情をむき出しにしているのに驚かされる。もっとも、だからこそ彼は、狭いアカデミズムの世界を超えて、ジャーナリズムでも寵児になったのだろうが。
 丸山は、確信犯であり、悪人としての魅力があるナチスの高官たちに比べて、矮小でだらしなく見える日本の戦争指導者たちに心から苛立っている。「(前略)戦犯裁判に於て、土屋は青ざめ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する」(P.20)の名文句は有名である。
【人名註。引用文中、たぶん、土屋は土屋達雄(資料によっては辰夫、あるいは辰男と表記されているのもある)、古島は古島長太郎。主に日本国内の、捕虜虐待の容疑者を対象に開廷されたアメリカ第八軍事法廷、いわゆる横浜裁判の被告である。土屋は軍属、古島は中尉で(しかも、横浜裁判で裁かれた被告第一号となった土屋には、冤罪の可能性がある)、ゲーリングと並べるにしてはどこから見ても役者不足だが、この論文「超国家主義の論理と心理」が書かれた昭和二十一年初頭には、まだ極東国際軍事裁判は開かれていない(昭和二十一年四月二十六日開廷)。横浜裁判の開廷は昭和二十年十二月十八日で、裁判の様子はその頃よく報道されていたから、この二人が引き合いに出されたのだと思われる】
 これについては、牛村圭がきちんと反論している(『「文明の裁き」をこえて』中公叢書平成十三年)。丸山は、特に東京裁判を扱った「軍国支配者の精神形態」(昭和24年)で、恣意的な引用によって、ドイツと日本の責任感の違いを印象づけようとしている。実際には、ゲーリングたちは、嘘をついてでも、できる限り責任逃れをしようとしていたのだし、他方、東条英機や、南京事件時の司令官松井石根は、最初から逃げるつもりなどなく、東洋人として、淡々と運命を受け入れようとしていたようだ。
 問題は、後者の場合、個人の責任などは、二義的な問題に見えてしまうところである。
 牛村の実証に信服した後でも、私は、丸山論文から受けた衝撃を忘れることができない。日中戦争にしろ日米戦争にしろ、誰かが「やろう」と決断したわけではなく、むしろ時の政府の大勢は、天皇を初めとして、開戦を避けたい気持ちであったにもかかわらず、情勢がどうしようもなくなって、やむを得ずに始めてしまった、のだという。それが運命なら仕方ない、と。当時の日本人の全員がそう感じていたなら、それでいいかも知れないが、二百万人に上る犠牲者の誰もがそうだったわけではないだろう。彼らはなんのために戦い、なんのために死んだのか。答えなんかない、という「真実」ほど、恐ろしいものはないのではないか。我々はぎりぎりのところで、自分たちの生死には意味があると思いたがっているのだから。
 自ら決断して行動し、その結果には全責任を負う。そのような「自立した近代的個人」は、西洋でも日本でも、「真実」なんかではない、フィクションであったと言われるなら、たぶんその通りなのだろう。ただ、日本では、そのフィクションを、理想として建てて、個々人の内部に取り込んでいこうとする意欲自体が弱かった。「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千萬人と雖も吾往(ゆ)かん」(孟子)なんて文句はあり、つまりそのような「強い自我」への憧れは昔からあっても、「人間なんて所詮は弱いんだから、そんなことできないよ」と、すぐにわかってしまうほどに現実的だった、と言えるかも知れない。
 個人の力など何ほどのこともないという現実主義は、すぐに、ならば何をしてもむだ、というニヒリズムに行き着くから、その点では丸山眞男の苛立ちも理解できる。中村光夫や福田恆存などは、丸山とはイデオロギーはまるで違うのに、同じ視点から、日本独自の発想と美意識による、と思われる自然主義文学を批判した。
 日本が西洋に比べて劣っているとか、いやその逆だ、などと言いたいのではない。「個人」には、この日本では、意味はなかったのか? これからは、意味はあるのか? あるのだ、としたら、それはどんなものか? 私はそれを問いたいのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする