由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

先生と呼ばれるほどのバカが減っている件

2023年09月02日 | 教育

あもとっと制作 【漫才解説】ずんだもんと学ぶ「ブラック企業」

 公立学校では教員不足だそうだ。なんでも、不足数は全国の小中高全部で2500人ほどに及ぶのだと言う。危機的な状況だ、と教育行政関係者は言っていて、さる8月28日に、中央教育審議会初等中等教育分科会質の高い教師の確保特別部会が、学校における働き方改革に係る緊急提言を出している。その冒頭にはこうある。

 「教育は人なり」と言われるように、学校教育の成否は教師にかかっている。
 教師は、子供たちの人生に大きな影響を与え、子供たちの成長を直接感じることができる素晴らしい職業であり、教師や友人との学校生活は、卒業後も子供たちの心の中に残り続けるものである。そして、これまで、我が国の学校教育が世界に誇るべき成果を上げることができたのは、高い専門性と使命感を有する教師の献身的な取組によるものであることは言うまでもない。
 他方で、子供たちが抱える困難が多様化・複雑化するとともに、保護者や地域の学校や教師に対する期待が高まっていることなどから、結果として業務が積み上がり、教師を取り巻く環境は、我が国の未来を左右しかねない危機的状況にあると言っても過言ではない。

 「我が国の学校教育が世界に誇るべき成果を上げることができた」とは、「言うまでもない」ことであるせいか、あまり聞かないようだが、あとは結局いつもの伝だな、としか思えない。公教育を語ろうとすると、半ば必然的にそうなってしまう見えない仕組みがあるのだ。それが「危機的状況」の改善を困難にしている。今回はそれをできるだけ明らかにしてみたい。

 まず、「素晴らしい職業」「使命感」など、精神論に属する言葉を、雇用者側が使うのは控えるべきだ。それはすぐに、「献身的な取組」というような同じく精神論的な言葉を呼び込み、献身的」であるのが当然だ、なる通念を生む。ここまで言えば勘のいい人にはわかってもらえたと思うが、献身的なのが当たり前の仕事を軽減しようとしたら、どうしても矛盾が出てきてしまう。
 もっとも、「夢」だの「やりがい」だのと上から言われるのはブラック企業の特徴だと、一般に認識されるようになったのは、わりあいと最近のことである。労働者がどんな夢を持とうと、やりがいを感じようと、それに対価が支払われるわけではない。給与はあくまで、労働に対して支払われるものであるのに。
 特に教育の世界は昔から精神論が重んじられている。何しろ、「卒業後も子供たちの心の中に残り続ける」ことこそ何よりの報酬だ、そのための骨身を惜しむのはまちがっている、なんぞというお説教が平気で罷り通る世界なのだ。それに、労働の対価、と言っても、仕事の「質」の部分はなかなか掴みづらい、という難点もある。どういう人がよい教師と言えるか、必ずしもはっきりしないので、業績評価は容易ではないのだ。これらが複合的に絡み合って、教師の仕事はブラック化しやすくなっている。

 具体的に述べる前に、客観性を担保するために、公共の調査による数値をやや詳しく見ておこう。まず、『「教師不足」に関する実態調査』(令和4年1月)のうち「教師不足の要因 (1)見込み数以上の必要教師数の増加」。調査時期からすると、2年近く前の数値になるが、今もそれほど変わらないだろう。
 文科省が各都道府県+指定都市などの教育委員会合計68に、認識している教員不足の原因を尋ねたアンケートで、多数が「よくあてはまる」と回答したトップ3とその回答数は、① 産休・育休取得者数が見込みより増加24、② 特別支援学級数が見込みより増加17、③ 病休者数が見込みより増加16。
 ④ 採用辞退者数の増加(以下略)は5だから、③までが日本全国の主要な問題と言ってよい。因みに、これに「かなりあてはまる」の回答を加えると、①53②47③49で、7割以上の教委がこの問題を抱えていることがわかる。
 このうち①は、令和になる少し前から急増した、男性教職員の育休取得による。公務員は子どもの誕生後3年間取得可能で、最初の1年は給与の半分の手当が出る。地方によって温度差はあるが、男女共同参画社会推進とやらで、わざわざ推進した結果がこうなったのだから、困るといったところで、それまでにちゃんと対策を考えておかなかったのが悪いんじゃないか、と言われて終わりである。
 ②は、精神医学の発達、というより浸透の結果、PDD(広汎性発達障害)とかADHD(多動性障害)とかいう診断名がつく子どもが非常に増えた。そのため、多くの小中学校に、発達障害とされた子どものための支援学級が増えたのだった。特別な時間割で、だいたい一クラス十人以下の生徒数で作られる。学年は混成で編成されるのが普通だが、それでも学校全体ではクラス数が増えるのだから、そのための教員が必要になる。
 この功罪はある。昔なら、ちょっと変わった子とか、落ち着きのない子、と言われるだけだった子どもが、特別視される。しかし、普通クラスで不登校に陥りそうになった子が、こちらでは登校できた例もある。きめ細かい対応、と言ってもいいのだが、そのための教員数が補充されないのであれば、その学校に元からいる教員が分担して負担するしかない。現状そうなっている学校も多い。
 ③は「かなりあてはまる」まで含めれば堂々の(?)第二位になっている。病気の内訳はよくわからないが、昨年度は精神疾患で休職した公立学校の教員数が、過去最多の5897人(全体の0.64%)に及んだというニュースがある。ただし、厚生労働省の「令和4年労働安全衛生調査(実態調査)」の調査結果によると、メンタルヘルス問題が原因で「連続1か月以上休業した労働者」は0.6%、「退職した労働者」は0.2%だから、調査方法の違いその他があって単純な比較はできないものの、ざっと見て教職員のメンタルヘルス問題による休職者が他業種に比べて飛び抜けて高い、とは言えないようだ。
 もちろん、だからいい、というものではない。身体の不調で休職した教職員が以前より増えた、という話は全くないのだから、これも教員不足の主因の一つだと言うなら、学校の精神衛生状態(それが他の仕事場の問題と連動していてもいなくても)がどうなっているのか、考えるしかない。

 ところで、文科省の調査には、続きとして「教師不足の要因(2)臨時的任用教員のなり手不足」があった。実はこれが問題を深刻化している。育児休暇や病欠は、いつかは復帰するのが前提だから、そのために正式な教諭を採用するわけにはいかない。いわばつなぎとして、一年契約の講師が使われる。その講師は、教員免許を持っていることは最低条件で、たいていは教員採用試験に合格しなかった若者や、教員を定年退職した年配者がなり、原則として講師登録名簿登録者が選ばれる。その登録者自体が最近減っている、というのである。それで講師が見つからなかった場合には、その負担は正規職員が負うしかない。
 教師という職業の魅力が一般に乏しくなっていると考えるべきであろう。講師の希望者数のみならず、教員採用試験の志望者も減っているのだから。令和5年度の公立学校の受験者数は40,636人で、前年度に比較して2,812人減少。倍率は全国平均で3.7倍、これも前年度の3.8倍より減少している(東京学芸大学総合教育政策局教育人材政策課『教員採用倍率の低下と「教師不足」等について』)。そして、合格者の中から、前述「教師不足の要因 (1)」中の④採用辞退者、つまり試験にはパスしたが、教壇には立たない人が引かれる。
 これに対処する「働き方改革」の一環として、学校の業務軽減も図られた。その成果は文科省の『教員勤務実態調査(令和4年度)【速報値】』にまとめられている。管理職ではない教諭の、週当たりの在校等時間(出張なども含めた勤務時間)を前回調査の平成28年度と比較すると、小学校で57時間29分→52時間47分、中学校で63時間20分→57時間24分と、確かに減ってはいる。それでも、一般の法定労働時間1日8時間、週40時間を基にしても、小学校教諭で12時間半近く、中学校教諭は17時間半近く超過勤務をしていることになる。過労死の認定基準とされる月80時間、週20時間の超過労働時間はかろうじて下回っているようだが、この数値は平均だから、このラインを軽く超えている教員も1,2割はいることだろう。

 繰り返すが、教師の仕事を減らすのは難しい。献身的であるのが当たり前の立場であって、しかも、教師自身がそれを疑問視するのはタブーになっている、と言っても過言ではないのだから。
 例えば歌人にして仙台市の高校教師だった佐藤通雅氏は、小浜逸郎氏との昭和60年の対談(『別冊宝島47』)で、「教師自ら自分たちのやっていることは無力なんだと言うことはタブーだった。それがタブーでなくなったのはつい最近なんですね」と言っている。
 そうなのだが、微調整を加える必要はあるだろう。例えば授業内容を一教室のすべての生徒に完全に理解させるということ。それは不可能である。ただし、教師によっても、授業のやり方によっても、生徒の理解度に相当の差が出ることは否定できない。その意味で、教師の仕事は無力とは言えないし、よい授業ができるように工夫することは義務だと言って差しつかえない。しかしそもそも、まず生徒全員に授業内容に興味を持たせようとすることからして容易ではない。教師ではなくても、自分の学生時代、いつも教師の説明や教室内の学習活動にちゃんと集中できていたか、虚心に振り返ればわかるはずだ。
 もっとも、生徒全員にテストで100点を取らせることができる、と言う小学校教師もいたが、それは、嘘をついているのでなければ、一番理解の遅い子に合わせた問題を出す、ということであって、平均以上の学力の子には無駄な時間を強いていることになる。しかも、いつまでもゴマかせるものではない。もし全員が本当に同じ学力を身につけたなら、そのクラスの生徒が同じ私立中学を受験したら全員合格しなければならないはずだが、そんなことはないのだから。
 だから、こんな無意味なことをやったり言ったりする教師が減ったことを「タブーではなくなった」と佐藤氏は言ったのだろう。けれど、「教師自ら…言うこと」は現在でもタブーではないか。「どんなに一所懸命授業をしても、どうしても理解できない生徒は出てきてしまう。これは仕方ないことです」と、教師が言ったとしたら、あなたはすんなり「そりゃ当たり前だ」と認めますか?
 私が直接知る限り、そういう大人はいなかった。現実は誰でも知っている。それでも、ではなくて、だからこそ、教師が「それでいい」なんて認めるのは問題だ。できなくても、どこまでも理想(か?)を求めて努力すべきなんだ、できないのは、生徒の側に原因があるのではなく、自分の力量不足のせいだ、とひたすら反省すべきなんだ、という意味の言葉を、何度聞いたろうか。
 昔はそれでも特に問題がなかったのは、世間一般に、理想、ではなくタテマエはそれとして、実態は別にあり、タテマエ通りにはできないからって、個人としての教師を責めるなんて酷だ、という健全な大人の常識が今よりはまだしも働いたからだ。それが少なくなったのは、公平に言って、世間一般より、学校内部、及び教育行政やそこに採用されている教育学からの声が大きかったせいだと言わざるを得ない。
 特に後者は、これまで何回も言ってきたように、教育現場の実際の改善より、教育の「理想像」を守ることを至上命題にしている。だから教師が「~はできません」と言うのを決して認めず、言うこと自体が怠慢でしかない、とする。教師の中にも、同僚にマウントをとりたくて、「それはお前の指導力不足だ」などと直接間接に圧力をかける者が出てくる。
 最後にモンスター・ペアレンツが、タテマエを全面的な盾にとって、その通りにはできない教師を責める。「保護者や地域の学校や教師に対する期待が高まっ」た、とは、具体的にはそういうことだ。そして、高圧的教師とモンペが、自分たちを棚に上げる技術だけは、まことにすばらしいものだ。
 かくて、一番割を食うのは、小心で真面目な教師である。彼らは、できないことは依然としてできないが、せめて、必死でやろうとしているという姿勢だけは、学校の内外に示さなければならない、と励むようになる。すると、一度やり始めたことは簡単にはにやめられない。
 こんなに宿題を出す必要はない、と思っても、出さないで生徒の成績が下がったりしたら、その原因は実ははっきりしていなくても、きっと宿題を減らしたせいだ、これは教師の手抜きだ、と言われるだろう。まして現在は、毎年デジタルで人事考課(業績評価)がなされている。どうしてそんな危険なまねができるものか。

 こういうところに、上から教育改革のお達しが来る。行政職は、教員よりは偉いが、文科省にしても、行政全体の中でそれほど立場が強いわけではない。改革案自体はいいものでも悪いものでも(いいものなんて一つもなかった、というのが私の実感だが)、実践になると教師を使う以外の権限はないから、必ず教師の仕事を増やす。
 そして、その実践報告をするというオマケまでもれなくついてくる。学校の中で一番仕事量が多いのは教頭だということは、前出の調査にもはっきり出ているが、それは、そのとりまとめがほとんど教頭の仕事になっているからだ。もちろん、一般の教師でもこれを免れるはずはなく、「仕事をした証拠を作る仕事が膨大に増えた」という嘆きは、ずっと以前からあった。
 だいたい、今度の「働き方改革」でも、各学校がどう取り組んでどういう成果があったかの報告は必ず求められるから、その分教頭以下の仕事は増える。教師の仕事を軽減しようとしたおかげで忙しくなる、こんな冗談みたいな事態が普通に起きるのが学校なのだ。
 さらにもう一つ、この報告には、決して失敗例を挙げることは許されないと、誰も言わないが、学校では誰でも知っている。「かくかくの指示に従いしかじかの実践をしましたが、うまくいきませんでした」なんて正直に書いたりしたら、「それはお前たち教師の力量不足だ」と言われるだけであることはわかりきっているからだ。ここでも、教師が「できません」と言うのは、「自分は無能だ」あるいは「怠慢だ」と言うのと同じで、つまりタブーなのである。
 「ゆとり教育」のような、一般に失敗だったとされている施策であってもそうだ。総合的学習の失敗例など、もし公に報告されているとしたら、是非教えていただきたい。成果はあったが、「(あくまで自分たちの)課題は残る」ぐらいが精一杯のところだ。  
 公式には、成果はあった、それなのに、よそから批判が出て、廃止される。いや、完全に廃止されたならまだしも、中高では週1時間程度は残っている。もちろん教師の要望からではなく、完全に失敗、などと認めたら、これを推進した行政側の汚点になってしまうからだ。やがて時が過ぎたら、かつての必修クラブの時間と同様、忘れられて、消滅するだろう。
 他にもたくさんあるが、ざっとこのような経緯で、教職はブラックになりやすい。仕事が無造作に精神論に結びつき、それでいて、ではなくて、そうであればこそ、教師の主体性など全く等閑にされる。給与は悪くはないし、倒産で仕事場がなくなることはないという意味で安定はしていても、さほど多くの人が積極的につきたがらないのが当然なのである。この根本の部分を見直さない限り、危機的な状況は変わりようがないのだと、一人でも多くの人に知ってもらいたい。もし、あなたが、本当に「危機」だと思っていればの話ではあるが……。

【一番上の、Youtubeのずんだもん動画に引用されているのは、「仕事とはお金のためにするのではない。相手を幸せにした分だけ『ありがとう』が返ってくる。それを集めるためにするんですよ」という言葉です(出典不明)。これを言ったとされるブラック企業の社長さんがかつての「教育再生会議」のメンバーだったのは、なかなかよく利いたブラックユーモアですね。】
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大量消費社会の中の学校(前回の補遺)

2023年05月30日 | 教育


 前回の記事について、ある人から、「変わったのは、消費者としての意識の方だ」以下の文章からは、特に肝心のはずの、生徒たちの意識の変化は、文章からたどれなかった、と言われまして、もっともな批判だと思い、これ以降は全面的に書き直すことにしました。記事としても、差し替えた方がいいか、とも考えたのですが、一度公表したものですので、そこはそのままおいて、変えた部分を今回掲げます。結果、前回と重複する部分も多いですが、同じ文でも新たな文脈の中におくとどう印象が変わるか、眺めるのもあるいは一興かもしれませんので、できればお願いします。

 『学校の現象学のために』は最初のほうに、仙台の高校教師にして歌人・佐藤通雅さんの、「私が教師になった頃は高度成長期の始まりだったんですが、そのあたりから急激に子供の問題行動が増えてきたという印象がある」云々という言葉が引用されている。
 私はその後の、いわゆるバブル期の始まりに奉職したのだが、学校内部の崩壊は外から見るより大きいと実感したものだ。
 どうしてそうなったのか。同書の後半では、組織としての学校の独自性に着目して、このような「現象」を精緻に分析している。そこの今必要な部分を、小浜さんのこの後の論考や、私自身の言葉を交えて述べてみよう。

 先に「二次的な意味しかない」と簡単にやっつけてしまった学校活動の表の中心、つまり学習だが、ここにも元来矛盾がある。
 特に現行のカリキュラムの中心である五教科、英数国理社は、純粋な知識欲とでも言うべきものを前提にしなければ長時間の興味を保てないようにできている。これをすべての子どもが、いつでも抱いていると期待するのは無理があり、学年が進むにつれて、授業を「聞かない」ことが常態化する生徒が多数出てくるのは必然である。
 それにまた、会社や工場とは違って、学習は個々人でやることだ。集団学習の方法はいろいろに工夫されてきたし、その成果もたくさん報告されているが、結局は、生徒個人にとって、自分がどれくらい理解したかを問題にせざるを得ない。そうである限り、教室内で集団で過ごす意味は、究極的には、ない。
 これらはリベラルアーツ、いわゆる教養、を中心にした学校が発明されて以来ずっと続いてきた問題である。これが高度成長期以来、学校外の人にはほとんど意識されないうちに、改めて問題としてせり出してきた。それは、近代産業社会の進展という大状況と切り離せない。
 変化は具体的にはどのへんから見えてきたのだろうか。やはり昭和30年代から50年代が大きかったようだ。
 数値として確認できるものだと、第一に産業別人口比率で第三次産業が第一次産業を抜いたのは昭和35年、50年には第三次が全体の50%を超え、第一次は10%近くまで落ち込み、以後それぞれ漸増と漸減を続けていく。
 第二に高校進学率は昭和29年に50%を超え、20年後の49年には90%を超えている。子どもが学校へ行くことは、全く普通になったのだ。
 第一の過程は当然、第一次産業から第三次産業への大幅な産業人口の移動を示す(第二次はこの時期から今日まで20%代が続いている)。多くの子供が、それに大人も、いわゆる3K(きつい・汚い・危険)仕事を嫌い、清潔で楽そうなサービス産業を目指すようになった。そこで学校の勉強は大きな役割を果たすようにも見える。五教化のいわゆる座学は、業種の中では、デスクワークを必須とする第三次産業の会社勤めと一番類縁性が高いようだから。このため高校進学率は急速に伸び、学校は言わば全盛期を迎えた。
 それはすぐに過ぎた。学校の何かが変わったのではなく、最終目標だったサラリーマン像が色褪せてしまったのだ。みんなが当たり前につく地位がそれほど魅力的であるわけはない。今時リーマンに憧れる子どもなんていない。ここでまず学校は威信を失った。
 ところがそれに反比例して、学校の、別の意味の重要性は増した。勤め人が当たり前になれば、生活の場と仕事の場ははっきり切り離される。結果、かつて第一次産業の生産の拠点でもあった地域社会内部の繋がりは、どんどん掘り崩されてきた。
 例えば昭和30年代あたりまで、農村では、農繁期には子どもにも手伝わせるために学校を休ませる、などということは割合と普通にあった。近所づきあいも、青年団のような内部組織も、具体的な機能を果たしていて、そこにいくらかは子どものための居場所もあった。
 今は青少年が家庭以外で過ごす社会と言えば、学校と、その言わば補助機関としての塾などしかない。友達を得るのも失うのも学校。つまり、制度として子ども時代を確定し、現実の居場所を与える学校は。かつて以上にこの社会で必要不可欠な機関になった。そう言えば、昭和50年代、「15(歳)の春を泣かせるな」と、やたらに高等学校が増設されたのを覚えている。
 高校にいけないことは大問題。しかし、そうであればあるだけ、その中でやることの意味、「なんのために学校に通うのか」は子どもを含めた国民全員に敢えて問題にされなくなった。それも当然、行くのが当たり前の場所なのに、なんで事々しく「意味」なんて考えねばならないのか、というわけで。
 一方ではイメージを含めたモノを大量生産―大量消費させることで成り立つ高度産業社会は、「無駄使いはよそう」「将来のために今は辛抱しよう」という、貧しい時代のエートスをどんどん後景に押しやるようになった。子どもは特にそうだ。生産とは関わらない、言わば純粋消費者としてこの社会で位置づけられているのだから。
 今の子どもが昔より辛抱が足りなくなった、などということは特にない。アイドルのコンサートのために行列に並んだり、複雑なロール・プレイング・ゲームをクリアするような時には、驚くほどの忍耐力を発揮する場合もある。ただ、学校という、なんのためにいくのか・いるのかはっきりしない場所では、そもそもなぜ我慢せねばならないのか、実感できなくなってしまったのである。
 かくして浮遊する子どもたちの意識は、同年齢で同質性の高い集団の中で、僅かな異質性(態度や行動で目立つところ)を見つけて、それで執拗に遊ぼうとすることもある。それが現代型「いじめ」を誘発する淵源だ、と小浜さんは分析している。
 そして教師は教師で、あと一歩で全面崩壊しかねない「学校」の、体裁だけでも整えようとせざるを得ない気分になってしまった。

 昭和の末、1980年代と言えば、学校関係の最大の話題は校内暴力だった。その言わば前段階として、1970年代からずっと、いわゆる管理教育が問題にされた。多くの中学・高校が、服装を中心に、厳しすぎる規則(校則)で生徒を縛りつけている、というもの。髪の毛やスカート丈は長からず短からず、化粧や装飾品は原則禁止、髪色や髪型でおしゃれするのもダメ、という具合に。
 荒れる中高生は、このような理不尽(学生運動用語で言う「ナンセンス!」)に対して反抗したのだ、と言った人は多い。60年代を彩った全共闘など大学生の反乱は終息していたが、その残像はまだあり、それからの類推を働かせた見方だった。しかし、全体的に見た場合、それでは順番が逆さまになっている。
 もともと学校は、子どもは年齢が進むにつれて性的にも成熟するという当たり前の事実を、できるだけ目立たないようにしようとするものだ。子ども、というか、今や十代後半の青少年まで、未熟な存在であるからこそ、教育の対象とすることが正当化されるからだ。これは子どもにとっても不利なだけの話ではない。引き換えに、社会的責任を免れる特権を手に入れるのだから。
 その上で、「青春」のイメージを中核とするファッションやアイテムの消費者として、彼らはとうにロックオンされていた。少し昔風の見方からしたら、華美で享楽的なものが、「時代の流行」として、徐々に滲出してくるのは防ぎようがない。かつては「学生らしい服装、態度を」と言えばすんだ気になったものを、スカート丈は、髪型は、などと細かく決めた上で、定期的にチェックしないと、生徒には通じないと実感されるようになった。
 そんなことが必要だと思い込むのは、頭の硬い教師だけだ、と言う人が多いが、とんだ買いかぶりというものだ。教師とは、世間の大多数の意向に逆らってまで何かができるほど強力な存在ではない。制服姿でフルメークの女子中高生に眉を顰める人は、世間に数多い。それでいて、我が子に対してさえ、直接には何も言えない場合もあるので、そこはお前たちがなんとかしろ、と汚れ役を教師に押しつけている、というのが実情に近い。
 だから前述のような教師批判の言葉は、学校を作って運営する側、即ち上位の権力者にとって、全く痛くも痒くもない。本来子どもはすばらしい・教育はすばらしい、の部分を少しも疑わないからだ。ならば、学校は素晴らしくなくてはならないのに、そうではない結果が出てくるのは、現場の教師が悪いとしか思いようがない。だからやるべきなのは、教師を鍛え直すことだ。
 かくて、教師は、右からも左からも、十字砲火を浴び、その影で、理念としての素晴らしい学校は生き延びることができる。
 教師たちは、「自分たちは一所懸命にやってはいるんです」を示すために、寝る間も惜しんで仕事をしなければならないようなところへ追い込まれ、その結果、教職はブラックな仕事の典型になり終えた。学校が全面崩壊するとしたら、ここから、具体的には、教師のなり手が足りなくなるところから生じる可能性が高い。既にその兆候は見えている。
 「しかし、批判はごく平凡な普通の教師が努力してできる程度のものでないと意味がないと思う」と、佐々木賢さんは言っている。当たり前すぎるようなことだが、たぶんそれだけに、めったに聞かれず、新鮮な感じがするのは、思えば悲しいことだ。
 無茶な「教育の理想」を押し付けて、教師を縛ろうとする試みは、そろそろやめるべきではないだろうか。これを聞いていると、非常に教育的であって、かつて学校に対して抱いたルサンチマンをぶつける、それこそ復讐そのものであるようだ。教師に対する不信感に基づくので、彼らを無力化し、卑屈にし、陰険にする。それ以外の効果は一切ない。そんなものをなくすことこそ、現在最も必要な教育改革だと思うのだが、いかがだろうか。

 結局のところ、学校とは何か

それ(学校)は全体的にいって、たいして魅力もない日常性に貫かれており、時にはわかることのおもしろさも与えてはくれるが、別の場面では、自分の欲望どおりには事がはこばない外部世界の論理をよく体にしみこませてくれる場であった、という他ない。

と、小浜さんは言う。そしてそれは、「あたりまえのこと」である、と。
 この世が楽園ではない以上、生徒にとって日常生活の場である学校が、誰にとっても素晴らしい場所であるわけはない。もっとも、「学校は楽しい」と答える生徒は、各種アンケートで八割を超えているが、それは「楽しいか、と聞かれたから、楽しい、と答えておく」程度のものと思ったほうがいい。もし本当に大部分の生徒にとって学校の毎日が楽しいものだとすれば、学校問題なんて本当はないんだ、ということになるだろう。
 ここで、学習や他のことについて大切なものを学んだり、一生の友を得ることもあるだろうが、それ以上に、退屈や挫折は普通にある。非常に深刻な不遇、例えばいじめなどで不当に辛い目に合う場合には、なんとか救済を図らねばならないが、そうでなければ、「そういうもんさ」と言うしかない。そんなことは誰もが知っているだろう。だからこそ、少なくとも教師が、公に言うことは許されない。だって、学校のイメージを無駄に傷つけてしまうばかりではないか!
 このような理念とイメージ先行型の言説は、現実の問題に対応することを最初から放棄しているのと同様だから、なんら有効な結果をもたらさない。ただし、反転して、教育の悪しき部分をのみを言い立てるのも、観念過剰で、非現実的であると小浜さんは言っている。『学校の現象学のために』でも、イワン・イリッチを、直接ではないが、彼を信奉していた信州大教授(当時)・山本哲司の言説を通じて、批判している。
 それに第一、子どもを、教育の一方的な被害者とのみ見るのにも、問題がある。子どもを完全に無力な存在と規定するのが、他ならぬ闇教育の第一歩だったのだ。
 子どもは、主に友達関係で傷ついて、不登校状態に陥ることもあるが、大部分は学校期間をなんとかやり過ごす。そして、生産者にならねばならない時が来れば、リクルート・スーツに身を包んだこざっぱりしたなりで社会に出る。ここまでの道程は、硬い生産者のイメージと、柔らかい消費者のイメージの間を、不安定に揺れながら、揺れ自体を遊んでいるようだ。イメージはどちらも外から与えられるのだが、遊ぶところには主体がある。
 アリス・ミラーなどと同様に、佐々木さんにも、これをつい軽視する弱点は認められる。しかしそれは、言説者としての話である。佐々木さんは定時制高校教師を長年務め、そこで多くの生徒と接し、「教育」の構えをなるべく減らすように努力してきたことは、後の『学校非行』などの著書に詳しい。
 どんな場所でも、どんな制度下でも、人が生きている以上必ず、制度にからめとられない領域はある。それこそが人間的な価値であり、希望であろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼に代えて 佐々木賢さんと小浜逸郎さんの教育論

2023年04月30日 | 教育


メインテキスト:佐々木賢『学校を疑う 学校化社会と生徒たち』(三一書房昭和59年)
小浜逸郎『学校の現象学のために』(大和書房昭和60年)

 さる三月に、私にとってかけがえのないお二人の訃報に相次いで接した。しばらく茫然としていたが、いつまでそうもしてもいられない。お二人の文業を振り返ることでいささかの手向けとして、明日からまた少しづつ歩んでいこう。

 『学校を疑う』を読んだのは、教員になって1年目の年だった。何かの新聞記事でこの人が取り上げられているのをたまたま見て、気になって買ったら、それまでに接した凡百の教育論とはまるで違う、新鮮な感銘を受けた。
 何しろ、「教育は悪だ」とする言説はなかったし、今もない。もちろんこれだけではいらぬ誤解を招くので、やや詳しい内容を後で紹介しなければならない。それにしても、「教育って、それほどいいものではないのではないか?」と思うだけでも、それまで隠されていた様々なことが見えてくるようだった。
 その翌年、『学校の現象学のために』が出て、当時同僚だった夏木智が、「面白い本がある」と教えてくれた。
 この本の前半は、従来の教育論は、「お子様教」とでも言うべき一種の宗教であって、教師や子どもの現実を少しも踏まえていない、むしろそれを切り捨てる働きをする妄説だと、実例を引きつつ痛烈に批判されていた。
 これに力を得て、夏木と共著の形で書いた私家本『学校の幻想と現実』を、小浜さんを初め何人かに勝手に送りつけた。すると、信じられないことに、ある夜、大和書房の小川哲生氏から電話があり、出版する気はないか、と問われた。小浜さんからの紹介で、読んだのだそうだ。
 小川氏は、いわゆる学者ではない、在野の書き手の本を多数手がけてきた編集者だった。小浜さん以外だと、渡辺京二氏を世に出すにあたっても多大な功績があった。そう言えば渡辺氏と小浜さんは、塾を経営して生計を立てていたという共通点がある。その他何人かいるうちの末席を汚したのが我々で、『学校の現実と幻想』に、いくつか新たに書いたものを加えて公刊していただいたのが『学校の現在』(平成元年)である。
 また、この頃は、教育論で言うと、私には違和感の方が強かったが、埼玉教育塾(後に「プロ教師の会」)もメジャーになったし、仙台の高校教師にして歌人の佐藤通雅氏も、現場の実感を踏まえた新鮮な教育論を少し前から発表し始めていた。何かが新たに始まるのではないか、という予感に少しだけ酔ったものだった。

 具体例として、佐々木さんと小浜さんの教育論を比較しながら述べてみる。
 『学校を疑う』の「第一部 教育を疑う」には、「第一に、教育とは力関係である」、そして「第二に、教育とは復讐である」とある。
 教育全般となると話は限りなく拡散するが、ごく普通の意味では、必ず上下関係のあるところで行われる。もちろん教えるほうが上で、程度と範囲の差こそあれ、下の者を従わせる。
 当たり前である。しかし、これが、学校での教師と生徒の関係、家庭内の親と子の関係ほど完璧に行われる場合はない。何しろ、この場合の「下の者」は子どもであって、社会的には不完全な存在なので、これを完全にするには教育が必要不可欠だ、とされているのだから。
 すべては「子どものため」なのだ。こうして、この支配は正当化され、支配とは、結局は、支配する側の都合によって行われるのだという実態も隠蔽される。
 「子どものため」は嘘だ。最大限譲歩しても、口実の面が大きい。
 だいたい、学校教育はなんのためにあるのか。なぜそこで、英語や数学を教えるのか。人間社会の文明を維持し、発展させるために必要不可欠だからだ。日本人全員が英語の読み書き話す能力を備えたり、高等数学を理解する必要なない。しかし、全員ができなくなったら困る。
 誰が? 現在の社会人、つまり、いわゆる大人だ。少なくとも、そう思って、子どもを教育するのは大人に違いない。子どもにとってもそうであるのかどうかはわからない。と言うより、個々の子ども自身がどう思うは、最初から問題にされない。
 この場合最悪なのは、支配そのものではない。上下関係は、人間社会の至るところに張り巡らされている。ごく親しい仲でも、親友や恋人・夫婦でさえも、場面に応じて、どちらかが主導権を握るものだ。中にはずいぶん理不尽な支配もあるが、かなりの部分、我慢するしかないのがこの世の常だろう。
 問題なのは、支配の事実が隠蔽され、自覚さえされない、その深い欺瞞にある。これは一番徹底した人間性無視であり、深い心理的な傷を残す。この傷を負った人は、これまた無意識のうちに、代償を求める。代償は、成長した後、今度は下の者を従わせる、つまり、教育することで果たされる。「教育は復讐」とはこういうことであって、そのとき根本にある感情は、愛情よりは憎しみなのだ。そして、教育が続く限り、憎しみも代々続けられて、止むことはない。
 以上のように述べると、いかにも極端だが、いくぶんかは真実だ、と思い当たる人は何人かいるだろう。この反教育論は、フロイトの抑圧理論「人は人間社会で生きるために、さまざまな欲望を無意識に押し込めねばならず、それ自体が文明を生むが、また神経症の原因にもなる」の、ある部分を拡大したものだと見なすことができるだろう。
 佐々木さんが直接依拠しているのは、この時代一部ではけっこう有名になったイワン・イリッチやエヴァレット・ライマーの脱学校論、とりわけ、スイスの反教育論者にして反精神医学者でもあったアリス・ミラーの主著『魂の殺人』である。そこには、ヒトラーや幼児殺人者の幼年時の記録を精査して、彼らが「躾」によっていかに性格がねじ曲げられていったかを、説得力豊かに詳述されている。もちろん、彼らを育てた親も、その親から同じように躾けられて成長してきたのだ。
 無論、そのうちの誰に訊いても、自分は子どもの健やかな成長をこそ願っていたのだし、少しは酷い目に合わせたとしても、それはやむを得ず、「子どものためを思って」したのだ、と言うだろう。それに嘘はないだろう、主観的には。元来、人格的な繋がりの場合には、意識の表面にあるものより、無意識の奥に秘められているもののほうがはるかに大きく伝わる。ミラーはこれを「闇教育」と呼んでいる。

 以上は家庭内の教育の話。学校教育には、上の他にもう少し見ておくべき要素がある。これを佐々木さんはあまり詳述していないので、以下は私の付け加え。
 家庭ではどうしても十分に与えられないもの、それは集団行動の訓練である。そう言うと多くの人が、運動会・体育祭の時の一斉行進や器械体操などのマスゲームを思い浮かべるだろう。学校は軍隊に似ている。これはすでに多くの人に指摘されている。しかし、こういうのは学校教育の中でごく小さな部分に過ぎない。
 大きいのは、他でもない、子どもが、決まった時刻に決まった場所に行き、一斉の指示に従って一定時間同じことをするという、最も基本的な行動様式にこそある。工場労働者など、近代の勤め人には不可欠のエートスであり、これを体に沁み込ませるのが、めったに意識されることのない、学校の役割なのだ。近代化のためには学校制度が不可欠である理由は第一にここにあり、それに比べたら伝達される知識や伝達方法など、二義的な意味しかない。
 ミシェル・フーコーらによってヒドゥン・カリキュラム、即ち学校の闇教育、と呼ばれたこのような訓規よって、すべての子どもが不幸になる、とまでは言えない。ただ、ここでも、「子どものため」だと言って押し付けるのは社会=大人の側であって、個々の子どもの事情など考慮されていないのは明らかだろう。
 文明の進歩によって、集団行動の必要性は減ったろうか。「個性化」なんぞという言葉を使って、そう言われることも多い。現代日本の主流である第三次産業、つまりサービス業では、皆で一斉に何かに取り組むスタイルの仕事は、もはや主流とは言えないようではある。
 とは言え、そのままで交換価値がある、つまり金になる個性などめったにあるものではなく、人は集団の一因として、与えられた役割を果たすことによって生産に携わる。この事情には根本的に変化はない。だから学校の集団主義も、装いは変わったとしても、相変わらず健在である。
 変わったのは、消費者としての意識の方だ。

 昭和の末、1980年代と言えば、校内暴力の全盛期だった。昭和57年には千葉県流山中央高校が荒れた挙げ句に校長が自殺、58年には東京都町田市忠生中で、原爆症を生徒からからかわれていた教師がナイフで生徒に怪我をさせた事件が発生している。
 その言わば前段階として、1970年代からずっと、学校関係では、いわゆる管理教育が話題になっていた。多くの中学・高校が、服装を中心に、厳しすぎる規則(校則)で生徒を縛りつけている、というものだった。髪の毛やスカート丈は長からず短からず、化粧や装飾品は原則禁止、髪色や髪型でおしゃれするのもダメ、という具合。
 私が中高生だった昭和40年代にも、服装・頭髪の規定はあったのかも知れないが、検査など一度もされたこともなく、意識したことさえなかった。それが58年から高校教師になったら、一月に一度、検査日があって、体育館に生徒を集めてチェックするので、最初の頃とても戸惑ったものだ。
 これはどういうことか、いろいろな面があるのだが、以下は重要であろう。①昭和50年代に高校進学率が九割を超え、十代の子が学校へ行くのが当たり前になった②いわゆるバブル期を迎え、多くの国民が豊かさを実感するようになった、この二つの時代風潮の中で、旧来の、質素・清潔を基調とする学生像を守ろうとする試み。
 換言すると、ものの有り余る時代に育った若者たちの「自分を飾りたい」「青春を楽しく過ごしたい」欲求が文字通り目に見えて突出してきたから、学校はそれを抑える役割を担ったのである。
 そんなことが必要だと思い込んでいるのは、頭の硬い教師だけだ、と言う人が多いが、それはとんだ買いかぶりというものだ。教師とは、世間の大多数の意向に逆らってまで何かができるような、強力な存在ではない。世間一般がどういう若者を求めているか、リクルート・ファッションを思い浮かべればわかるはずだ。若者のほうでも、大部分は、このコードに従うことが大人になることだと心得ていて、子どもである学生のうちは、気ままも許されるはずだと思って、小さな逸脱を試みるまでだ。
 それでも、大人の側が子どもをあからさまに押さえつける場面ではあるのだから、闇教育が表に出てきたと感じられるかも知れない。もっとも、闇教育は、無意識の闇のうちに働くからこそ強力なのであって、表に出てきたらそれだけで威力は半減するのだが。
 そんなことにはおかまいなく、一時代前の学生運動時によく言われた「反権力闘争」の用語の応用で、この事態を語ろうとする論者が出てきた。大学紛争は昭和45年(1970)には終息していた。そこで中学高校に眼を転じると、権力が民を非道に圧迫する構図が見える、と思ったらしい。これに、子どもは元来純粋な、罪無き存在だ、という旧来からの感傷的な観念が野合する。
 簡単にそうなってしまう。なぜかと言うと、教育に関する言論の大部分が、教える側や教えられる側の現実を度外視してなされることが常態だからだ。これは少し離れたところから見たら非常に奇妙で、『学校の現象学のために』は、まずその指摘から始めている。

(前略)ごくふつうに考えて、ごくふつうの教師が子どもに対する悪意をもった権力者などであるはずはない。自分の与えられた職務をともかくひととおりこなそうと努力しているあたりまえの人間であるはずだ。その与えられた職務とは、一定時間内に、かなり多数の、しかも大部分ができればそんなところにきゅうくつにすわっていたくないと思う子どもたちを相手に、ある学習内容をわからせようとする、ということである。

 全くその通りだし、教壇に立ったことがない人であっても、かつての学校時代を振り返れば、「まあ、そんなもんだな」と納得するのではないだろうか。
 では、「できればそんなところにきゅうくつにすわっていたくないと思」っている大部分の生徒にとって学校とは結局何なのか。

それは全体的にいって、たいして魅力もない日常性に貫かれており、時にはわかることのおもしろさも与えてはくれるが、別の場面では、自分の欲望どおりには事がはこばない外部世界の論理をよく体にしみこませてくれる場であった、という他ない。

 これまた全くその通り、と言うしかない。
 敢えて少し付け加えると、中学高校はとても楽しかった、と言う人は少なくないが、それは友達付き合いの部分であって、授業が楽しかった、という場合は稀である。学年が進むにつれて、授業内容は難しくなって、理解できない者がかなり生じるし、理解できる場合でも、抽象的な学習内容が何の役に立つというのか、その部分はやはり理解できない場合が多い、というよりは普通だろう。

 ここをなんとかしようとする方策は様々に提案されたし、それを実践して成功した、という報告も多い。私としてもその努力に敬意を表するに吝かではないが、根本的な事情は変わらない。変えようがない。つまり、たいていの青少年にとって、授業とはどうしても退屈なものだ。と、言う小浜さんの言葉が、佐々木さんの「闇教育」の指摘より衝撃的だったのは、誰もが本当は知っていながら、いや、それだからこそ、公には決して言われない身も蓋もない本音を、あっさりと明らかにしたからだ。
 すると、何が困るのか? 何を恐れて、実際を隠す、いや、眼を逸らそうとするのか? それは、学校の枢要な活動である授業に大した意味はないのだとすれば、学校の、学校へ子どもが通う意味の、根本が失われるように感じられるからだ。
 では、学校の代わりになるもの、と言っても、容易に見つかるものではない。とりあえず、近代が発見・発明した「子ども」という存在をどこへ置いたらいいのか、学校以外には思いつかない、としたら、学校はすばらしいもの、ではなくても、すばらしいものであり得る、とするしかないではないか?
 か弱き大人の一人として、この気持ちはわかる。それでいて、学校の根本的な矛盾・弱点を暴こうとすることを、佐々木さんや小浜さんの後に従う形で、私はやってきた。矛盾を糊塗しようとする試みが、実際の害毒を生む、それが、それこそ隠しようもなく明らかになってきた、と感じるからだ。
 実のところ、小浜さんが批判している学校批判者の言説は、学校という制度そのものにとって、従ってその制度の設計者・運営者、即ち上位の権力者にとって、全く痛くも痒くもない。本来子どもはすばらしい・教育はすばらしい、の部分を少しも疑わないからだ。にもかかわらず、すばらしくない結果が出てくるのは、教育の実践者・教師が悪いとしか思いようがないではないか。かくて、教師は、右からも左からも、非難攻撃されることになった。
 「教育の理想」はずいぶん昔から言われてきた。それでも、「理想は理想、その通りにはいかないのが現実だ」という大人の健全な常識が働いているなら、実害は大してなかった。理想が「当たり前」とされ、その通りにはできないのはお前たちが悪い、と非難されてはたまらない。
 教師たちは、「自分たちは一所懸命にやってはいるんです」を示すために、寝る間も惜しんで仕事をするところに追い込まれ、その結果、教職はブラックな仕事の典型になり終えた。学校が崩壊するとしたら、ここから、具体的には、教師のなり手が足りなくなるところから生じる可能性が高い。既にその兆候は見えている。
 「しかし、批判はごく平凡な普通の教師が努力してできる程度のものでないと意味がないと思う」と、佐々木さんは言っている。前述の小浜さんの言葉と同様、これも当たり前すぎるようなことだが、たぶんそれだけに、めったに聞かれず、新鮮な感じがするのは、思えば悲しいことだ。

 付け加えておかねばならないが、小浜さんは、「美しい教育」の理念から、一方的に現実の教師を叱咤する言説や政策の不毛さをこそ、最も強く批判していた。同じように、教育の悪しき部分をのみ言い立てるのも、観念過剰で、非現実的である。『学校の現象学のために』でも、イワン・イリッチを、直接ではないが、彼を信奉していた信州大教授(当時)・山本哲司の言説を通じて、批判している。
 因みに、最も抽象的な哲学の言辞をも取り入れながら、常に生活する人間の実感を踏まえて考察するところこそ、小浜さんの最大の長所で、それはこの後、論じる対象を様々に変えても、一貫していた。
 それに第一、子どもを、教育の一方的な被害者とのみ見るのも、問題がある。子どもを完全に無力な存在と規定するのが、他ならぬ闇教育の第一歩だったのだ。子どももまた、学校がなかったら、他に行く場所は容易に見つからないのだから、やはり学校へは来る。そこを、したたかに、と言えば褒め過ぎになるが、なんとかやり過ごすだけの生命力はあるのだ。
 アリス・ミラーなどと同様に、佐々木さんにも、これをつい軽視する弱点は認められる。しかしそれは、言説者としての話である。佐々木さんは定時制高校教師を長年務め、そこで多くの生徒と接し、「教育」の構えをなるべく減らすように努力してきたことは、後の『学校非行』などの著書に詳しい。
 どんな場所でも、どんな制度下でも、人が生きている以上必ず、制度にからめとられない領域はある。それこそが人間的な価値であり、希望であろう。
 それにつけても、無茶な「教育の理想」を押し付けて、教師を縛ろうとする試みは、そろそろやめるべきだ。これを聞いていると、非常に教育的であって、かつて学校に対して抱いたルサンチマンをぶつける、それこそ復讐そのものであるようだ。教師に対する不信感に基づくので、教師を無力化し、卑屈にし、陰険にする。それ以外の効果は一切ない。そんなものをなくすことこそ、現在最も必要な教育改革だと思うのだが、いかがだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもだって犯罪ぐらいできる

2023年02月28日 | 教育
Yahooニュース令和5年2月15日より

 今回は、以前に北海道のいじめ事件その他をとりあげたときに述べたことを、改めて、できるだけ明確に言ってみたい。
 最近千葉の名門公立高校の、盗難事件がネット上で話題になっている。どこまで正確かはわからないが、だいたいはこんなことらしい。
 この学校では今年の2月になってから学校内で金の盗難事件が相次いだ。それについて学校側は有効な対策を何も採らなかった、と少なくとも生徒の目からは見えた。そこである生徒が撮影モードにしたスマホを教室の中に仕掛けておいたところ、移動教室での授業で、HR教室が空っぽだったときを狙って同級生の荷物を漁っている者の撮影に成功した。この証拠映像を持って教師に訴えたところ、「この映像は消去して、拡散しないように」と言われた。にもかかわらず、動画はSNS上に流出した。
 窃盗をはたらいた生徒にはなんのお咎めもなかった、という記事もあるが、しかし『集英社オンライン』の、同校教頭のインタビュー(2月16日配信)によると、彼は保護者といっしょに盗んだ生徒に謝罪、金を返したうえで、謹慎処分になったとのこと。これが常道だ。
 自分が教師として体験したことを、20年以上前なのでもう時効だと思えるので言うと、校内で何度か同級生の金を盗んだ男子生徒が捕まった。この時彼は大パニックに陥って、泣き喚いたが、すぐに保護者に連絡して、上に書いたような処置をした。被害者側は親も子どもも納得した。しかし加害者の方は、二週間の謹慎が明けても学校には戻らず、そのまま退学していった。
 件の千葉県の高校ではどうなったかはわからない。一般的に、こういう事態は、学校という狭い社会内に知れ渡らないわけにはいかない。SNSがあってもなくても、人の口に戸は立てられないのだ。結果、犯人がいづらくなって去る、つまり結果的に退学処分になるのと同じことにあるのもごく普通だろう。学校でなくても、会社でも役所でも同じこと。むしろこう問うたほうがいい。学校は、社会内の他の組織・機関とは別様であるべきなのか? なぜ? どんなふうに?
 逆向きに考えよう。「学校はなんで、被害者ではなくて、加害者をかばうんだ?」などと言う人がいるが、学校が、つまりは教師が、なんらかの犯罪的な行為をした生徒に対して、一切配慮しないとしたらどうだろう? 公立学校の教師は公務員なので、守秘義務がある(国家公務員法第100条1項、地方公務員法第34条1項)。誰が何をしたか、マスコミを含む第三者に言ったりするのは明らかにダメ。
 ただし法律の話なら、告発義務もある(刑事訴訟法239条2項)。法文は「官吏又は公吏は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない」。この前の第一項の主語は「何人も」で、以下同じ文が続いて、最後が「告発をすることができる」。公務員用は、厳しく、「告発をしなければならない」と、義務化しているわけだ。解釈の余地はあるだろうが、公立学校教師は、生徒が窃盗(万引きなどを含む)やいわゆるイジメのなかでも、暴言暴行、脅迫、明白ないやがらせ、などがあるとわかったら、警察に届けなくてはならない、と自然に読める。
 しかし、このような件で教師が、義務を怠ったとして処分された例を私は知らない、どころか、この法の適用が議論されたこと自体もなかったのではないだろうか。生徒が万引きをしたことがわかった、では警察に通報しなければならないはずだ、なんて誰の頭に浮かぶだろう。逆に、そういう場合には公的な、社会的な制裁からは生徒を庇うのが教師だ、と普通に思われている。そうでしょう?
 思いを言葉にすると、「どんな生徒でも(即ち、犯罪・非行に走った生徒でも)、なるべく将来の傷にならないように図ってあげるべきだ」になるだろう。教師とはそうあるべき者だされているので、「あの子(犯罪を犯した生徒)にも未来がある」という発言が出てくる。千葉県の教師はそう言ったらしい。これを進めれば、北海道旭川の中学校教頭の「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか」という発言になる。結果として、学校は加害生徒のみを庇うのか、と言われるような事態にもなるのである。

 これが私の思い込みではない例証としては、昭和47(1972)年に提訴された通称「内申書裁判」がある。現在世田谷区区長をしている保坂展人が、千代田区と東京都に対して、国家賠償法に基づく損害賠償の訴訟を起こしたものだ。このブログで以前に詳述したが、今摘要だけのべると。
 保坂はこの前年、東京都千代田区麹町中学校を卒業したが、受験した公私の全日制高校すべてに不合格となっていた。それは、内申書(調査書が正式名称だが、中学校から高校へ送られるものについては、慣習的にこう呼ばれることが多い)に、在学中の政治活動について、詳細に、また否定的に記載されたためであると考えられた。これは憲法一九条の定める「思想及び良心の自由」、二一条の「表現の自由」、二六条の「教育を受ける権利」に違反したものだというのが提訴理由になっている。判決は、54年の東京地裁では原告勝訴になったが、58年の東京高裁、63年の最高裁ともに敗訴になっている。
 原告側弁護団の一人だった中川明は、著書『学校に市民社会の風を』の中で、当時は開示請求は認められていなかったはずだが、何かの伝手で目にすることができた件の内申書の、備考欄の全文を引用し、「これが教師が生徒の合格を祈って書かれたものだと言えるでしょうか」と述べている。書かれていることが事実だったかどうかは問題にされていない。彼の目から見ても、事実だったのだろう。しかしそれが進学・就職の際に不利になることなら、伏せておくのが常識なのだ。中川や、仙石由人(後に民主党代表代行になった)のような、左翼的な人たちのとっても、そうだった。
 さてしかし、彼らから見て許せない中学教師たちを法的に罰したいと思っても、これがなかなか難しかった。何しろ、これから入学・入社しようとしている者はどういう人間か見るために、試験以外の資料として使われる文書に、本当のことを書いたのはいけない、ということになるのだから。それで前記のように、憲法まで遡って、「思想及び良心の自由」だの、「表現の自由」だのまで持ち出して罪責を問わねばならなかった。どういうふうにかと言うと、進学・就職に大きく影響する文書に、自分の不利になることを書かれると思ったら、その恐れから、自己の思想及び良心を自由に表現できなくなるから、云々。
 どうも苦しいように思えるし、実際この訴えは結局通らなかった。ただ、最高裁の判決文もけっこうヘンだと思えるのだが、それは以前の記事を見てください。法の専門家とは、つまりは辻褄合わせが仕事なのだと思えば、こんなものかとも言えるだろう。第一、この弁護団には、法律以外の大きな味方があった。世間の思い込みである。教師は、学校の秩序より法の遵守より、生徒の将来の幸福を慮るべき者だ。それが、進学・就職に不利になるようなことをわざわざ書いて先方に伝えるなど、とんでもない。
 だから、「この生徒は一年生の時万引きをして補導された」「同級生をいじめた件で指導を受けた」なんぞと書いてはならない。これは学校では、誰の頭にも疑問が浮かばない常識、いや、常識以前としても過言ではない。そこからの流れとして、問題生徒でもその問題をできるだけ外部から隠そうとするのも、ごく自然な話だろう。
 もちろん学校外で万引きや恐喝や暴行をして、警察に補導されるケースは少なくない。その場合には、児童自立支援施設や少年院で矯正教育を受ける。それがいつもうまくいくわけではないが、こちらは普通の学校と違って、そのための専門機関である。もっと活用してもいいのでは、などと言えば不謹慎に聞こえるだろうか?
 実は1970年代の、いわゆる校内暴力期には、学校が警察に通報、結果として前記の機関に送られた中高生もかなりいたようだ。それがはっきりしないのは、学校はできるだけ隠そうとするからだ。理由は上に述べたことで十分だろう。結局、教師は自分たちの評判を落としたくなくて生徒の不祥事を隠すのだろう、という人も多い。それは強ち否定しないが、その評判自体、このような世間一般の思い込みから来ていることを見ないとしたら、公平に欠ける。

 そこで実際に困るのは、加害者と被害者が歴然としている、広い意味の刑事事件の場合。加害生徒のことだけ考えるなら、学校の「指導」ですませたほうがいい場合は実際にあるだろう。しかし、何よりも第一に考慮されねばならないのは、被害者の救済である。金を盗まれたり、暴行・暴言を含むいやがらせをされた者が、加害者の更生につきあわねばならない義理はない。取り調べや償いの過程で該当者の情報が外に漏れて、悪評が立つのも、やむを得ない。
 また被害者には、加害者を告発する当然の権利がある。一般論としては、誰も否定しないであろう。しかし加害者・被害者の双方が同じ学校の生徒であるときには、これがけっこう難しい。「身内意識」が働くからだ。内部の恥を外部に晒すことは、その集団全体を貶めることになる、それは、加害事実と同様、時にはそれ以上にやってはいけないことのように考えられる。公的にそれをした人を咎めるわけにはいかないが、日本、だけではないだろうが、この国には特に強いと言われる同調意識から、陰湿な「仲間はずれ」の対象にされてしまう(これ自体が明らかないじめだ)。その場所にいづらくなり、実質的に追い出されてしまう結果になることも珍しくない。
 このような圧力が無意識のうちにも働く結果だろう、同じ学校の生徒同士で被害を警察などの外部機関に訴えた例を、私は寡聞にして知らない。なくはないだろうが、ごく少ないと思われる。解決の任に当たるべく期待されるのは、教師だ。ところが教師にも当然、学校という集団の面目を守る責務もあれば、縷々述べたように、個々の生徒の、たとえどんな生徒であれ、守る義務もある、と考えられている。
 そのうえ、いじめとなると、やり方も多岐に渡るし、非常にデリケートな領域に及ぶ場合も珍しくない。学校ではなく、専門の捜査機関、つまり警察が扱えば、必ず解決できるかと言えば、旭川の事件のように、主犯格の少年でも「厳重注意」で終わってしまう場合もある。
 そうなると、学校内でより厳しい、指導という名の処分を下すことも難しくなってしまう。そこでさらに、そういう生徒でも授業を受ける権利がある、となると、これも前に書いた調布市の中学校の例のように、クラス内で数人からいじめを受けた女子生徒のほうが、いじめた者たちがいる教室に入れず、音楽の授業にも出られない結果、成績評価が1になった、なんて最悪なことにもなってしまう。

 どうすればいいのか。第一に、遺憾ながら、学校の聖域意識を下げるしかない。学校も社会の一部であり、社会で起きることはなんでも起こり得るのだ。小学生でも、他人を傷つけるだけの身体と頭脳の能力が備われば、やることはあるし、中学・高校と進むにつれて、大人と変わらない加害行動をやれるし、現にやっている。まして今の青少年は、四十歳以上の年代にはあまり馴染みのないSNSという、強烈な人権侵害や営業妨害のツールになりえるものを自由に使えるのだ。もっともこれは、報復の手段にも使えるので、誰にとっても両刃の剣ではあるのだが。
 少年、に限らず、犯罪者は、罰するよりむしろ矯正を図るべきだ、という考え自体には、今敢えて異は唱えない。また、いわゆる少年犯罪の厳罰化に有効な抑止効果があるのかというと、実際にそうしている欧米の例などを見ると、やや疑問だ。などなど、難しいことは様々にあるが、何よりも現に起きている犯罪をやめさせる、それを阻害するような要因は、できる限り省いたほうがよい。そうではありませんか?
 もう一つ付け加えさせてもらえるならば、子どもにも人権を認めるなら、犯罪者にもなれるのだということも認めて、一人前に近い扱いをしてあげたほうがよくありませんか? 中川明たちが、学校の閉鎖主義を批判して、もっと窓を開けて「市民社会の風」を入れるべきだ、というのには全く賛成。それなら、少年たちに、一般社会では自分たちのやったことはどのように扱われるのか、具体的に示してあげるのも、よいことでしょう?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国際教育の後に

2022年11月30日 | 教育

FIFAワールドカップ2022 11月23日 日本対ドイツ

 日本対ドイツ戦での、歴史的な逆転勝利の後、著名人による以下の二つのツイートが、FBF(face book friends)によって紹介されていたのが目についた。

サッカー・ドイツ戦に勝ってよかったけれど、26人のうち19人が海外チームで活躍している選手ということで、グローバルな世界での戦いを心得ていた事実を、今後、鎖国型人事の日本の企業がどこまで学ぶかですね(猪瀬直樹11月24日)
日本のサポーターがスタジアムの清掃をして帰るのを世界が評価しているという報道もあるが、一面的だ。身分制社会などでは、分業が徹底しており、観客が掃除まですると、清掃を業にしている人が失業してしまう。文化や社会構成の違いから来る価値観の相違にも注意したい。日本文明だけが世界ではない(桝添要一11月25日)

 おかげで、かなり突飛なのだが、「国際教育」という言葉を久しぶりに思い出した。高校の英語教師だったので、いくらかは関係があった。しかし、思い出す値打ちもないことだ、という思いにしか残らなかった。

 国内だけではなく、広く海外にも目を向けるべきだ、なる言説は、きっと明治以来のものだろう。江戸時代の二百年以上に渡る鎖国のおかげで、日本はオクレてしまった、という思いが、その根底にはある。その後、文明国である西欧諸国に追い着け追い越せを目標として、近代日本が発展してきたことは事実だろう。
 大東亜戦争後はこれに平和主義が野合した。国家には可能な限りこだわらず、世界人類の視点から物事を考えていくべきだという。それができなかったのはやはり日本がオクレているからだ、という思いは残った。高度経済成長を経て、GDP世界第二位になって、「目標としての西欧」観念は表面からは薄れたが、まだまだ、何かというと「アメリカでは/ヨーロッパでは」とあちらを持ち出して日本を批判する「ではのかみ」は健在である。それがいつもまちがっているというわけではないが。

 直近の曲がり角は、平成になった1990年代に、グローバリズムという言葉が広く使われ出してからだろう。今から見ると、これは、インターネットの発展によって、世界規模で、瞬時に経済取引が可能になった結果、いよいよ国境の壁が邪魔になった国際金融資本の企てであることは明らかだ。しかし、教育関係では、このハードな面は見ないようにして、相も変わらず日本が進むべき目標としての国際化路線を掲げている。
 因みに文科省総合教育政策局国際教育課が作成した「国際教育の意義と今後の在り方」中の「1.いかなる人材を育てるべきかー国際社会で求められる態度・能力」には次のようにある。

・国際化が一層進展している社会においては、国際関係や異文化を単に理解するだけでなく、自らが国際社会の一員としてどのように生きていくかという主体性を一層強く意識することが必要
・初等中等教育段階においては、すべての子どもたちが、
1.異文化や異なる文化をもつ人々を受容し、共生することのできる態度・能力
2.自らの国の伝統・文化に根ざした自己の確立
3.自らの考えや意見を自ら発信し、具体的に行動することのできる態度・能力を身に付けることができるようにすべき

(後略)

 初頭中等教育、つまり小中高の教師でこれをちゃんと知っている者はそんなにいない。雲をつかむような話としか思えないからだ。それは県教委なども同じこと。といって、何もしないというわけにもいかなかったのだろう、とりあえず、英語教育が、つまりは英語教師がいじられた。国際化とは西洋化だ、とは文科省は言わなくても、それがあたりまえだという強固なイメージはあるし、西洋化のためには英語だ、とこれまた自然に結びつく。第一、それならやれることはあるじゃないか。
 かくて、英語の「話す・聞く・読む・書く」四技能が大事だ、などと言われ、「英語の授業は原則として英語で行う」などというお達しがきた。他方、この頃改名された大学や、新設された学部は、「○○国際大学」とか「国際○○学部」というのが多くみられた。講義はすべて英語で行う、などと宣伝したところもあって、へえ、国内でネイティヴの教授をそんなに集められるもんか、と思っていたら、そんなことはなかった。知り合いがそこの講師に雇われて、彼は海外経験はほぼゼロだったので、今は講義の準備より、英会話の特訓で忙しい、と言っていた。
 これらのあれやこれやは、今はどうなったか、少なくとも私が直接知っている人々は、そんなこと、思い出したくもない、という顔をしている。
 極めつけは、かなり手間がかかるので、ずっと遅れて令和二年度からの完全実施になった、小学校での英語が必修化だ。その成果はまだわからない。良きにつけ悪しきにつけ、大した成果はないだろう、と予測している。

 ただし今回は、英語教育よりその前提の、掴み辛い「雲」の部分、「国際化」について考えてみたい。
 ①の猪瀬直樹氏のツイートが当然の前提としているのは、日本国内の基準はグローバル・スタンダード(国際標準)とズレており、それはよくない、ということだ。だいたいビジネスで勝てないし、というわけで。
 嘘だとは言わない。個人でも企業でも、アメリカやチャイナなどで活動しようとしたら、当然日本とは勝手が違うことが多々あるだろう。そこからくる苦労を減らすための教育、ということになると、本当に必要なのだろうか? それも、国民全員に。
 実際のところ、海外で生活する日本人の数は、外務省の統計によると長期滞在者と永住者を足して134万人ほど、だいたい総人口の1%。もちろん日本にいても、日常的に諸外国との交渉に従事している人は多いだろうし、日本国内だけの話でも、国際化に伴う「時代の流れ」というやつで、生活様式や仕事のやり方が変わっていくことはあるだろう。
 それでも、日本人の全員が「国際化」を気にかけて、それに沿って行動しなければならないということになるだろうか。義務教育で目標の一つにされるのは、社会の普遍的な価値と認められる、ということなのだが。
 だいたい、状況が変わったら、それに合わせる必要も出てくるという、平凡とさえ言うまでもない当り前の話に、良い・悪いはない。「郷に入れば郷に従え」というやつ。英語でもWhen in Rome、do as the Romans doという有名な諺があるくらいだから、日本だけの話ではない。しかし、周囲に合わせることを陰に陽に求められる、いわゆる「同調圧力」の強さこそ日本社会の特徴と言われるのは、きっと本当なのだろう。それだと今後は困る、ということで、上述の、国際社会で求められる人材は「自らの考えや意見を自ら発信し」云々ということになるのだろうが、それなら「これからの時代は国際化」なんぞという、同調圧力のテンプレみたいな言い方は使わない方がいい。
 それに、「郷に入れば~」より確実に、日本にあって欧米にはない観念があって、それこそ「国際社会」なのである。「国際化する」internationalizeという動詞はあって、何かを世界的に有名にする、とか、何かを国連などの国際機関の管理下に置く、などの意味で使われる。前者はいいことであり、後者は良くも悪くもないことだが、いずれにしろ、社会全体を国際化しようとか、国際的な人材を育成しよう、なんぞという発想はない。当然のことだ。前述のように、日本で言われている国際化とは、イコール西洋化ということなのだから、西洋はもともと国際的なのである。少なくとも、日本ではそういうことになっている。
 以上は、大前提、という意識もないぐらい当り前になっている前提なので、深く考えられることもなくひょいと出てくる。日本国内でのみ通用する「鎖国人事」などはもうダメだ、グローバルな世界=西欧世界で活躍するには、もっとそこでの戦い方≒西欧的な基準、を知らねばならない、という具合に。もちろんビジネスや外交の、実際上の必要性はあるだろうが、どこまでいっても善悪の問題ではなく、西欧風の基準・やり方に合わせるべき精神的道徳的義務など存在しない

 ②の桝添要一氏のツイートは、欧米では階層意識が強く、公共の場所の掃除は下層の人がやると決まっているのであって、そこで「自分の使ったところは自分がきれいにする」という「日本文明」は奇異に見られるし、実際に迷惑をかけることもあり得る、という「国際標準」を伝えている。サッカーの観客が上層の人たちだけかはわからないが、それはその場では「観客」として、「上」として扱われるべき、でいいのだろう。
 こういうことを心得ておくのはいい。実はこれは欧米だけの話ではなく、日本以外はたいていそんなもののようで、日本のやり方を真似てサウジアラビアの観客も掃除を始めたというニュースもあったが、かの国の階層差、いや身分秩序は現在のたいていの国より強いようだ。2022年度のサッカーWCの開催地であるカタールは、石油のおかげで、国民はたいてい豊に暮らしているが、その代り肉体労働は、苛酷な環境下で外国人労働者がやっている、という話もある。あるいは、階層意識の乏しさ(ないわけではないが)こそ日本社会の特殊性なのかも知れない。だとしたら、国際化時代を迎えて、こういうことは改めていくべきなのだろうか?
 逆に、日本こそ正しいのであって、諸外国はそれに倣うべきだ、と言ったとしたらどうか、から考えてみよう。桝添氏が言うことが現実にどれくらいあるかはわからないが、階層差を当然の前提にした社会で、それを無視したように振る舞って、それで疑いや失笑を買うのはかまわないとしても、誰かの職を奪うような加害行為になるのだとしたら、慎むしかない。自分が持ち込んだゴミを持ち帰らないだけではなく、できるだけ沢山持ち込んで放置するように心掛けるべきなの、か? だからと言って日本国内でもそうすべき? そんな筈ないでしょう。
 もっと大きな例で、イスラム教国では、日本や欧米の基準からしたら女性蔑視としか見えないこともよくあるが、それを不正として一方的に断罪することはできない。
 要するに、世界全体にそのまま通用するような正義はそんなにあるものではない。それを踏まえると、「異文化や異なる文化をもつ人々を受容し、共生する」なんて簡単に言っても、空疎なだけだ。目下では、うまい「棲み分け」を目指すぐらいがせいぜいだろう。それだって、途方もなく高遠な理想のように思える世界の現状はある。

 さらに付け加えると、「鎖国型人事」はよくないということで、外国籍の人を積極的に雇うのは、企業なら自由かも知れないが、公務員はよしてもらいたい。相対的な価値観が乱立する世界の中で、その「標準」からして、あまりに乏しすぎて、実際に危険でもあると思えるのは、日本の国防意識だからだ。よその正義を力づくで押しつけられないようにするためには、国家の力が必要で、グローバル時代で国境の壁が低くなればなるほど、その重要性は増す。
 もちろんそれと、スポーツや学芸など、純粋にその範囲で使われる知識・技術だけが問題になる分野は全然別だ。今度のサッカー日本代表26人のうち19人がふだんは日本ではなく、外国のチームで活動しているということだが、国籍には関係なく、できるだけ好条件のチームと契約するのは、サッカーでは全く普通である。野球ではそれほどではなくても、野茂英雄から松井秀喜からイチローからから大谷翔平まで、アメリカの大リーグでプレイする日本人の例は少しも珍しいことではなくなった。彼らには、日本人だからといって卑下する様子も、逆に「日の丸を背負う」なんて悲壮な決意も見られない。
 かなり以前に、当時はアメリカにいた新庄剛志が、英会話能力について訊かれたとき、「いやあ、英語の勉強のために来たわけじゃないですから」と、例によってヘラヘラ言っているのを見た時には、私は陰キャなのでこのタイプは苦手であるのにかかわらず、かっこいい、と思ってしまった。彼は、「国際化」なんて全く気にしない程度に国際化して、「主体的に」生きている。海外にいる他のアスリートもそうだろう。正直、羨ましい。
 ただし、そういう人たちも、WCやWBCの時には日の丸の元に集まって、ナショナリズムの視線を浴びて戦う。国とは終始無縁、というわけにはいかない。今の世界は、そういう場所なのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SDGs教育の前に

2022年09月28日 | 教育
メインテキスト「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030」 アジェンダ(外務省仮訳、原文はなぜか現在ネット上では閲覧できない)

「勤務校でSDGs教育をやることになったんですけど」と知り合いの教師に言われた。「校長が研究指定校を引き受けてきちゃったから」と、半分愚痴のように。「SDGsって環境保護運動のことかと思っていたんですが、いくつかのネット記事を見たら、違うようですね」
 無理もない。環境省のHPにも、「17のゴールのうち、少なくとも13が直接的に環境に関連するものであり、残り4も間接的ではあるものの、環境に関連するものです」とある。しかし、多少こじつけ感がある。人間が大規模にやることなら、大なり小なり、環境に影響を与えないわけはないのだから。

 あらためて考えてみる。まずsustainable development goalsを「持続可能な開発目標」と訳すところからして少し妙だ。developmentを辞書で引けば、「発達」「発展」の意味のほうが前に出てくる。これは経済的な発展の話なのである。
 それが何より証拠に、標記アジェンダの最初には「このアジェンダは、人間、地球及び繁栄のための行動計画である」とあり、最初の目標(goal)は「あらゆる場所のあらゆる形態の貧困を終わらせる」だ。「あらゆる形態」とは、絶対的貧困と相対的貧困の両方を含む、ということ。
 絶対的貧困は世界銀行の定義では、1日1.9ドル未満(現在の円安の交換レートで280円ほど)で生活する人と定義されていて、2017年で全人口の9.2%、約7億人ほど。それ以後コロナのおかげでさらに1億5千万人ほど増加したようだ。
 その85%が南アジアとサブ・サハラアフリカ地域(スーダン+サハラ沙漠以南)の住民で占められている。日本もこれらの地域にはODAでかなりの援助はしている。しかしそれで「終わらせる」ことはできない。いや、援助にしても、元にそれだけのお金があればこそなのだから、これには経済発展が不可欠なことは誰にでもわかる。
 相対的貧困のほうは、定義自体が国によって違い、日本では厚生労働省によると可処分所得が世帯平均の半分以下を指す。2018年時点で15.8%約二千万人がこれに当るそうだ。しかしこの定義だと、所得で下位四分の一以下がそうだということだから、富裕層が増えただけでもその人数は増えてしまうし、日本全体が貧困化すれば減る。後者の場合は絶対的な貧困国への援助も少なくしなければならなくなる道理だ。
 この双方の貧困を2030年までにこのゼロにする、ということだが、一般庶民は何をしたらいいのか、見当もつかない。実は国連でも具体的な取り組みについては、既存の機関や各国に任せた形になっている。
 元教師からすると、SDGsって、なんだか文科省から降りてくる教育改革に似ているなあ、と思えてくる。「そうなったらいいな」と、誰もが言わずにはいられないような美しい文言が並んでいるが、いざそのための実行はと言うと、現場に丸投げ。失敗したときの責任もこっちに負わされる。まともにつきあってはいられない、という気分にどうしてもなってしまう。それはひとまず措いて。

 sustainableのほうが、経済発展に伴う害を除去しようということで、害の代表は、断然環境問題。そしてその中での第一のトピックスは最近では地球温暖化問題で決まり。
 これについては、SDGs以前からいろいろな方面で取り上げられていて、そのための教育実践もいくつかある。しかしこれを少し突っ込んで考えてみると、普通の教員なら教室内で取り上げるのはためらわれるような要素がすぐに見つかる。「総合的学習の時間」はまだあるので、取り上げてもいいが、その前に以下のことは頭に入れておいたほうがいい。
 SDGsではこれは7番目の目標として挙げられている。
「すべての人々の、安価かつ信頼できる持続可能な近代的エネルギーへのアクセスを確保する」
 近代的エネルギー、とは再生可能エネルギーのこと。ターゲット7の2には、「2030年までに、世界のエネルギーミックスにおける再生可能エネルギーの割合を大幅に拡大させる」とある。資源エネルギー庁によると、日本の2020年度の全電力中再エネの電源構成比は19.8%。昨年10月に閣議決定された第六次エネルギー基本計画では2030年までにこれを36~38%、つまり倍増することになっている。
 これより前にCO2など温室効果ガス排出量46%削減(2013年度比)も打ち出されている。その大前提である地球温暖化CO2犯人説にもいくつか疑問があるが、それはここでは措く。既にかなり知られている再エネの問題点を書いておく。
 電力は基本的に「蓄める」ことはできない。使うときに使う分を作るしかない。再エネとは自然の力を原動力にするということで、それが太陽光でも風でも水でも、季節により時刻により元の「力」が大きく違い、電力の安定供給を頼るのは無理。現在の技術では補助にしか使えない。
 福島の震災による原発事故(2011年)以降、太陽光発電によって作られた電力を、電力会社が固定価格で一定期間買い取るFIT制度のおかげで、全国で太陽光パネルを敷き詰めるいわゆるメガソーラー事業が展開された。需要と関係なく、つまりどれくらい売れるかには関係なく買ってもらえるのだから、これはおいしい商売だ、と見える。因みに、そのためのお金は我々一般の消費者が毎月払う電気料に上乗せされている。
 メガソーラーで原発一基分の電力を生産するためには、山手線円内の面積が必要とされる。その敷地は山の、主に斜面の木を伐採して用意する。この点では立派な環境破戒である。それで発電がうまくいかなかった場合や、災害で損傷を受けた場合のパネル群の処理は現在大きな問題になりつつある。

第14回新エネルギー発電設備事故対応・構造強度WG資料より

 それで肝腎の電力の需要を満たす役には立ったのか? 全然立たなかったとは言えないことは、前述の数値からも見て取れる。しかし、今年の六月、政府が節電を呼びかけたことは、とても十分とは言えない何よりの証拠だ。停止していた火力発電所を復活させるなどして、なんとか切り抜けたが、今後もそうだとすると、火力発電所の老朽化に伴う危険もあるが、何しろCO2削減目標から遠のく。
 そこで岸田首相は、原発推進に舵をきった。今のところは、震災後の厳しい審査基準をパスした七基の再稼働を改めて認めた、というだけだが、将来は新原発の建設まで含めた大規模な原子力発電事業の展開も発表されている。
 そうせざるを得ない。経済的な発展を続けつつ、環境にも配慮しようというなら、温室効果ガスは出さない原発に頼る以上に有効な手段は、今のところないようだから。とはいえもちろん、一度事故になったらとんでもないことになる、そのリスクはある。現に前述の七基からして、地元の合意はまだ得られていない。

 根本的に、経済発展と環境保全を含めた人間社会の安全は本当に成り立つのだろうか。私は、①人類がこれまで獲得した科学技術を放棄したことはない②科学技術によってもたらされた害悪は科学技術によって解決することは可能、の二つの理由から、今後も科学の発展に期待する者だ。
 もちろん異論はあってよい。しかし、「皆で貧乏になろう」みたいなのはどんな状態になるのか、ちゃんとした考えも覚悟もないような言論は端的にダメだと思う。
 斉藤幸平『人新世の「資本論」』(2020年)では、人間が現在の「豊かな生活」を諦めない限り、地球環境の破滅的な悪化は止められない、SDGsなどは、本当の危機から人々の目を逸らし、免罪符と安心感を与える麻薬に過ぎない、としている。これがベストセラーになったということは、社会の一定程度の共感を勝ち得たのだろう。豊かさに対する根源的な罪悪感は、どういうものか、人類になかなかに根強いものがある。しかし少なくとも私は、資本主義を超える、社会主義などのシステムが、まだ一度も成功していない現状では、予言者の煽る危機意識に基づく未来図に賛成する気にはなれない。

 もう一つ、これもSDGs以前からたびたび取り上げられているジェンダー問題がある。
 目標5「ジェンダー平等を達成し、すべての女性及び女児のエンパワーメントを行う」
 直接には、主に開発途上国での女性差別、つまり、女性には教育の機会が奪われてたり、服装や行動に強い制限がかかったり、早い年齢での強制結婚、などなどの解消を目指したものだ。先進国の人権意識からすれば、ひどい状態だと言わざるを得ないものをなくそうというのだから、文句なくいいことと言えそうだが、実行上は、宗教が絡んでいるので少々、ではなくて、かなりやっかいではあるだろう。
 一方、日本のような先進国でこれを適応しようとすると、しばしばいわゆる牛刀割鶏の様相になる。フェミニスト、の中でもツイッターで活動している通称「ツイフェミ」さんたちが、ミスコンは性的搾取だとかなんとか言っているような、及び、最近何かと話題になるLGBTQなどはこの際棚上げにするとして。

オンワードによるジェンダーフリーファッション

 このゴールに連動する形で、ジェンダー・フリー教育に取り組んでいる学校の例がTVで紹介されていたのをたまたま見たことがある。例えば、「夫は外で仕事を、妻は家事と育児をする」などの性による役割分担は差別であり、そのような偏見(pre+judice先行する判断)はなくすべきだ」とか。この偏見というか社会通念がまだ日本社会にあることは否定しない。
 これはどう思うか、と抽象的に訊かれたら、「良くないと思う」という人が、男女ともに、中でも女性の中に、多いだろうと予想される。続けて、「女性がより活躍できる社会になるほうがよいと思うか」と言われても、同じこと。因みに、私もその多数派の一人だ。抽象のレベルでは。
 しかし問題は、これによって現に不便・不自由を感じている人がどれくらいいるかなのだ。対価としてお金をもらういわゆる労働ではなく、家事・育児に従事したほうがいいと思っている女性にとっては、土台問題にならない。現在女性が家庭外で働くこと自体が白眼視されることはまずない。いわゆる家庭と仕事の両立に苦しんでいる女性ならたくさんいると思うが、それは個別具体的な家庭や職場の問題なのだから、そこで解決が図られるべきことであって、一般的な社会問題とすべきではないし、しても問題解決の役には立たない。
 社会問題とすべきなのは、しかるべき能力も意欲もあるのに、性別が理由である立場になれなかったり、なっても仕事をする上で障害が出てくる場合である。これも現代日本でなくはないだろう。しかし「女性一般が職場で不当に扱われている」と言うからには、もっと様々な要因に目を配らなければならない。
 平成になってから政府が目標として掲げてきた「202030」というのがある。2020年までに女性の管理職を30%以上にしようとする計画だが、みごとに失敗した。2019年度で管理的立場の女性従業員の割合は14.8%。このため政府は、SDGsに合わせたものかは不明だが、目標達成時期を2030年に延ばした。
 なぜこの計画が進まないのか? 個々の職場に固有の事情があるだろう。そこを敢えて一般化して、「まだまだ男性社会である企業で女性が指導力を発揮するのは難しいのだ」とよく言われる。そういうこともあるだろう。またしても、抽象のレベルでは。
 少しは具体的に、女性の中でどれくらいの人が現に管理職に就きたがっているのか、も考えた方がいい。2020年にソニー生命が行ったアンケート調査では、「管理職への打診があったら?」の設問に「受けてみたい」と回答したのは働く女性の2割未満だった。管理職になりたくない理由トップ2は、「責任が重くなるから」「ストレスが増えそうだから」。ここから言えるのは、誰もが機会がありさえすれば、社会で華々しく活躍したいと考えているわけではない、ということだ。
 僭越ながら、この気持ちはよくわかる。男性である私もそうで、出世などより自分の時間が持てるほうがありがたい、とずっと思ってきた。実際に出世しなかったのは、無能力のせいだから問題外ではあるが、能力があるからと言って、必ず出世競争に参加しなければならないものか。それは「価値の多様化」に反するのではないだろうか。少なくとも、このような意識を無視して、数値目標を掲げた「改革」がうまくいくものか、そもそもいいものなのかどうか、一度は考える必要があるのではないだろうか。

 以上のような話をかいつまんで知り合いの現職教師にしたら、「やっぱりあなたにこんなことを訊くんではなかった。そんなことを意識していたら、研究授業がやりにくくなるばっかりだから、忘れます」とは、口では言わなかったが、顔にはそう書いてあった。もっともだと思う。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「これはいじめではない」

2021年11月29日 | 教育
広瀬爽彩さんの描いた絵。Twitterより

メインテキスト:文春オンライン特集班(文中「特集班」と略記する)編著『娘の遺体は凍っていた 旭川女子中学生イジメ凍死事件』(文芸春秋社令和3年)

 旭川の女子中学生いじめ凍死事件は、最近NHKの「クローズアップ現代」(令和3年11月9日)とTBSの「報道特集」(同27日)で採り上げられたが、他の地上波TVなどではほとんど見かけない。盛り上がっているのはYoutubeやTwitter、FacebookなどのいわゆるSNS上でだから、ネット世界に疎い人は、全く知らない場合もある。火をつけたのは「文春オンライン」(第一回は令和3年4月15日)だということもあるのかも知れない。
 ただ、大手マスコミがこの件に及び腰である理由はほぼ見当がつく。北九州連続監禁殺人事件や尼崎連続殺人事件と同じくあまりにも陰惨だし、あからさまに下半身がらみ。それでいて関係者には小学生もいる。被害者側ではなく、加害者側に。ただその場にいて、見ていただけにしても。性的暴行の加害者として、小学生を描いたものは、小説でさえ、アガタ・クリストフ「悪童日記」に一応あるが、それ以外には私には思いつかない。まして、ノンフィクションとなると、顔を背けたくなる人が多いと予想される。ならば、商品としてのニュース・バリューには問題あり、ということになる。
 逆に、噂話のレベルで盛り上がるネット上では、恰好のネタになる。中には、無関係な人間が加害者として実名や住所が晒されたり、反社会的団体の関与の疑いがあるなどと、陰謀論めいた書き込みもある。そういうのは別としても、現在進行中の不明なところもかなりあり、また、ある種の遠慮から、敢えて言わずにすましている部分もあるようだ。
 遠慮とは、上に書いたような、「子ども」に関することである。子どもは純粋無垢な存在だと、何人の人が本気で思っているかは知らないが、その思いはあることにしようという合意は、どうもあるようなので、敢えて傷つける必要はあるまい。それに第一、なんといっても子どもには、大きな社会的影響力があるわけでもなし、黙っていた方がいいだろう、と。そこで、非難の言葉の八割方は、公的な立場にあるにもかかわらず、事態にちゃんと対処しなかった大人たち、つまり学校教師や教育委員会に向けられる。
 私もそれに倣うべきなのかも知れない。しかし、「敢えて触れずにおく」領域に、いわゆる教育現場にいるか否かを問わず、我々が今後直面しなければならない現実があるようにも思える。そこで、文春オンラインの記事を加筆構成した『娘の遺体は凍っていた』に書かれている事実(これにもまちがいはない、とまでは断定できない)から、推測も交えて、事件ついて省察を試みる。固有名詞のアルファベット表記は、同書による。

 令和元年4月、廣瀬爽彩さんが中学校に入学して間もなく、それは始まった。
 きっかけは、放課後、塾へ行く前に過ごした児童公園で、同じ学校の中三のA子と知り合って、いっしょに過ごすようになってからだった。やがてA子の友だちのB男とC男がその場に加わる。
 C男は他の三人とは別の中学だったが、6月3日、次のようなラインメールを爽彩さんに送ったことが分かっている。「裸の動画送って」「写真でもいい」「お願いお願い」「(送らないと)ゴムなしでやるから」。これで爽彩さんは結局、向こうが望むような画像を送っている。
 C男の最後の言葉から、この時までに爽彩さんはレイプされていた、と考えてまずまちがいない。いや、それより前、ゴールデン・ウィークに、B男らから、夜中の4時にラインで呼び出され、行こうとするのを母親はなんとか止めたが、爽彩さんはひどく脅えた様子だったという。中学に入って1ヶ月経つか経たぬかのうちに、決定的なことが起きていたのだ。
 それにしても、この脅え方はなんだろう。女子中学生とは言え、レイプを含めた暴力だけで、ここまで言いなりになるものだろうか。どうも、「弱味を握られていた」気配がする。それは何か。
 現時点ではそれはやっぱり、恥ずかしい動画・画像であったろうと思える。たぶん、レイプ、その時の、あるいはその直後の、とか。ネット上で拡散されたりしたら、特に思春期の少女にとっては、この世に居場所がなくなるような、死ぬしかないような感じになるもの。
 そこで一度言いなりになると、ドツボに嵌まることになる。加害者側は、より強い刺激を求めて、要求をエスカレートしていく。「裸の動画」を送れ、とは、以前に自分たちが撮ったのとは別の姿態の、という意味であったろう。やがて、オナニーの動画、さらに彼らが見ている前での実行、へと進む。
 A子は、最初は爽彩さんに同情し、味方のような顔をしていたが、実はC男に、送られてきた画像を自分にも共有させることを要求し、受け取っている。現在、彼女こそ主犯だったろうと言われている。すべては最初から仕組まれた罠だったのか。そうかも知れない。それにしても、中学生が、と思う人も多いだろう。
 上のようなストーリー、つまり、無理矢理かこっそりとか、恥ずかしい動画・画像を撮って、それをネタに脅して、支配して、ますます恥ずかしいことをさせる、という筋のDVDなどは、少しも珍しくない。それも、かなり前から、小中学生の手の届くところに、ある。郵便受けに入っている、その種の商品の宣伝ビラを見たことはありませんか? これはもう古いか。パソコンはなくてもスマホがあれば、ネットで、それこそいくらでも見つかるのだから。
 それでも、さすがに、このストーリーを真似て、実践しよう、なんて者はごく少数である。しかし、ごく稀には、ある。それも、軽いノリで、悪意は、あっても、ニヤニヤ笑いに包んで、「悪ふざけ」の遊びとして。実はこれが、一番怖いところなのだ。
 A子は、保護者同伴で、特集班のインタビューに応えている。爽彩さんとは「友達」だったと言うが、彼女が死んだことについては「正直、何も思ってなかった」。公園で、皆の前でオナニーをやらされたことは、イジメとは思わなかったか? 「うーん?」。その場のノリのようなものだった? 「うんうんうん」。
死ぬから画像を消して下さい」と爽彩さんに哀願されて、「死ぬ気もねぇのに死にたいとかいうなよ」と言ったことは認めた。「周りに小学生いるのに死にたい死にたいとか、死ぬ死ぬとか言ってて、どうせ死なないのに次の日またあそこの公園に現れてたから、小学生にはそういうのはダメでしょ? と思って言ったんです」。教育的配慮(別に皮肉ではない)からの言葉だった、というわけだ。
 もう一つ印象的だったのは、A子がこの一連の行為の首謀者だったのではないか、と問われたときの、母親とのやりとりだ。

「いやだって、そもそも、こんな子に命令されて誰が言うことを聞くのって話じゃないですか」
「おい!」(A子)
「うち同級生だったら別に(言うことを聞かない)……」(A子の母親)


 ごまかそうとしているのか? そうであっても、TVで女芸人たちが毎日やっている軽いツッコミ。この雰囲気がすべてを支配していたろう。学校もまた。
 爽彩さんの母からイジメの調査を依頼された当時の担任は(実名が出ている)、「あの子たち(A子ら)おバカだからイジメなどないですよ」「今日は彼氏とデートなので、相談は明日でもいいですか」などと応えた。デートは事実でも、もっともらしい口実をこしらえることもできたろうに。その程度の深刻さも感じていなかったということだ。後に、調査は、やるにはやったが、爽彩さんが、「A子には言わないでくれ」と頼んだのに、A子の担任教師に伝えたので、そこからA子にもすぐ伝わったという杜撰さ。
 弁護するつもりはないが、A子たちを見ると、「おバカ」で、ヤンチャではあっても、イジメなんて大それたことがやれるか? 「悪ふざけ」がせいぜいじゃないか? と思えたのだろう。たぶらかされていた? いや、むしろ、確かにすべてが、「悪ふざけ」の「遊び」だったのだ。それで一人の少女が死ぬまで追い詰められたとしても。だって、そのほうが、スリリングで、面白い遊びになるじゃないか!

 大人には何ができるだろうか。
 同年6月22日、小学生を含めた十人ほどに囲まれた爽彩さんは、A子から「死ぬ気もないのに……」と言われ、ついに川に飛び込んだ。この時は事前に中学校に助けを求める連絡をしていたので、駆けつけた教師に救い出された。警察も来た。残っていた子ども達は、「この子はお母さんから虐待を受けて」いたから自殺を図ったのだと警官に言ったので、母親が病院へ付き添うことは拒否された。それは嘘だとわかるまでに、グループ内で共有していた証拠になるメッセージや、猥褻な画像は消去していたが、警察は復元できる。その場にいた全員が取り調べられた。爽彩さんに対する加害行為は、この時もうほぼ全容が明らかになっていたのである。
 しかし、十四歳以下の者には刑事罰は問えない。家裁に送致することはできるが、例えばC男を児童ポルノを製造した廉で訴追しようとしても、販売したわけではなく、言わば中途半端だ。その他、暴行、脅迫、強制猥褻、どれをとっても立件するにはいまいち決め手に欠ける、と思われた。結果、全員が「厳重注意」の処分で済んだ。
 被害者からすれば、これだけのことをやりながら、結局野放しにされたのと同じだと見えたろう。つまり、法律も自分を守ってくれないのだ、と絶望を深める要因になったろう。加害者たちはと言えば、もちろん反省などしなかった。猥褻動画・画像は、 グループの一人がバックアップをとっていて、また共有し、爽彩さんが転校してもなお、脅しの材料にし続けた。その挙句、爽彩さんはPTSDとなり、ほとんど登校できず、令和3年2月13日に突然家を出て、約1ヶ月後、雪の下で、凍った姿で発見された。
 今、非難の的になっている学校は? 加害者の「処分」ということに関して、警察以上のことができるわけはない。学校は「指導」をする場所なのだ、と、A子たちの学校の元校長は、特集班によるインタビュー中で、何度も言っている。同校では令和元年9月11日に爽彩さん母娘と、加害者側の生徒と保護者を呼んで「謝罪の会」を開いているが、その場に弁護士が同席することは、校長は拒否する方針だった。「教育機関のあるべき姿じゃない」と。「弁護士がいるなんて子どもからしたらどれだけ厳しい状況だと思います?」とも。
 爽彩さんが転校した先の学校での「謝罪の会」では、最初から弁護士同席を認めているし、こちらの学校も結局はそうしている。その後のことを考えたら、弁護士がいることなど、保護者はともかく、中学生には、「厳しい状況」と感じられたわけではないようだ。それにしても、なぜ「厳しい」のはいけない? 答えは決まっている。「学校は教育的指導の場だから」。
10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか」という、多くの憤激を招いている同校教頭の言葉はどうだろう。けっこう「教育的」ではないだろうか? 「何人いようが、こんなひどいことをするやつらの未来なんて、考えていられるか」と言ったら、今なら共感してくれる人はいるだろうが、この事件が明らかになる前でも、あなたは認めますか? 考えてみていただきたい。
 学校の事なかれ主義は否定しない。いじめ事件が起きたこと自体で、その学校の不名誉になるから、なるべく外部には隠したい心理は確かにある。上の校長と教頭の言葉は、そのための都合のいい隠れ蓑、口実になっているのはそうだ。つまり、子どもなら、たとえ何をしても守るべきだという「教育はかくあるべき論」は、抽象的なお題目なので、そんなふうにも使われ得る。教育に関心がある人なら、多少は心得ておいてもいいだろう。
 だいたい、「教育」では、このような事件は解決できない。人格の力だけで子どもを正しく教え導ける偉大な教師は、絶対にいないとは言わないが、それをすべての教師に期待するなんて、およそ非現実的だ、ぐらいは、納得していただけませんか?
 なぜなら、これは「いじめ」なんてものではない。犯罪だ、それもかなり凶悪な。と言って、加害者たちが特に極悪人だと言いたいわけではない。すべての子どもが、大人もそうであるように、天使でも悪魔でもない、人間なのだ。人間は、ごく普通に育ちさえすれば、「これはやってはいけない」という最低の倫理観は身につくのだが、何かけのきっかけでそれがなかったり、無くしたりする場合がある。その人が一人で生きているなら、じっくり教え諭して、つまり教育しようとするのもよいが、他者に危害を加える場合には。罰で脅して、やめさせるしかない。それは大人でも子どもでも、基本的に変わらないのである。
 以上は、大人なら心得ておくべき常識の一つだと思う。これを考慮に入れた上で、今後、子どもに関する社会制度をどうするか、考えていくべきだろう。少年法も義務教育の概念も変える。何より、「子ども」に対する一元的な思い込みを変える。その必要性は、見えてきている。
 具体的に、早期に、今すぐにでもやらねばならないと思うのは、被害者救済である。ひどいいじめ・加害行為を受けている子どもは、できるだけ遠く、最低でも市外に、無料で、避難でき、また「教育を受ける権利」が保証される場所を作るべきだ。「被害者がなんで逃げなくては成らないんだ」という声はよく聞くし、もっともだとは思うが、理不尽な戦争にこそ、避難所は必要なのである。何しろ、逃げ場がない状態に被害者を置いたら、最悪の事態を招く、それが今回の事件から得られる最大の教訓なのである。児童相談所の機能を拡充するなどで、実行することはそんなに難しくないと思う。政治家にも国民の皆さんにも、是非御一考願いたい。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いじめは青春だ!?

2021年08月29日 | 教育
 平成7年のTVCM

 上の画像で女装している小山田圭吾という人が、オリンピック開会式の作曲担当者の一人に選ばれたばかりに、過去のいじめ語りがクローズアップされてしまったのは皆様ご存知の通り。私は、田舎者で、お洒落な渋カジ(って何?)になどなんの興味も、従って知識もなかったのだが、おかげでいろんな話を聞き、自分でもインターネット上の言説を漫然と眺めるぐらいはした。
 中に、最初の主なきっかけである、「いじめ紀行 第1回ゲスト 小山田圭吾の巻」(『Quick Japan 95年3号』所収)を全文アップしてくれた人がいた。読むと、これはけっこう興味深い文書だった。いじめの記録と言っていいかどうか、小山田本人もよくわからない、と漏らしている。ただ、「ひどいこと」はした、という自覚はある。不謹慎に聞こえるかも知れないが、そういう道徳的な裁断だけでは、子ども達の中に(大人と同様に)ある猥雑で陰湿な要素は隠されてしまうばかりだ。そんなものは見たくないし、見る必要もない、と言う人は沢山いる。しかし、見なくても、それは、ある。
 それでやっぱり、断っておかねばならないだろうが、私は、「いじめ」そのものはもちろん、小山田を初めとしたこの記事関係者を弁護する気は毛頭ない。それに、ここに書かれていることが文字通り事実だったかどうかもわからない。10%から90%ぐらいの幅で、話が「盛られている」可能性はある。たとえ100%フィクション(作り話)であるとしても、話を作る作者たちの心性はそこにこめられているはずだ。小説と同じこと。そう思って読むと。
 語り手・小山田の話に最初に登場する沢田くん(仮名)は、体が大きくて、「怒らすと怖い」と思われている人で、普通ならいじめられないタイプなのだが、非常に目立つ言動があった。小五のとき人気のないクラブ(いわゆる「必修クラブ」のことか)でいっしょになって、活動場所が体育館だったので、語り手(小山田)を含めて五、六人で、沢田くんをマットでぐるぐる巻きにして……、などした。これは「実験」だと言われている。沢田くんは喜んではいないだろうが、さほどいやがるそぶりも見せず、妙なことを口走ったりするのがウケて、「実験」は続いた。
 こういう関係性自体は子どもの世界にはそんなに珍しくないと思うが、これをどう名付けていいかはわからない。小山田は高校時代には沢田くんの「ファン」だったと述懐する。同じクラスで席が隣同士になり、また二人ともクラス内には友だちがいなかったこともあって、仲良くなった……というのとはやはり違っていて、小山田は「オマエ、バカの世界って、どんな感じなの?」と、ストレートに訊いたわけではないが、そういう興味で彼を見ていたのだった。因みに、沢田くんのほうではどうだったのか、『Quick Japan』のスタッフが調べると、記事の時点でますます人と関わることはなくなっていたが、「小山田さんとは、仲良かったですか?」という問いには、「ウン」と応えたという。ただし、小山田との対談の話はお母さんを通して断っている。

 話はまだまだ続き、後の二例は、よりはっきりした「いじめ」になる。それを紹介する気にはならない。今までのところで私が言いたいことはおおよそ二点。
 第一に、話の舞台となった小学校から大学まで繋がったW学園(イニシャルを使う必要はないだろうが、この学校自体を批判したいわけではないので)の、インクルーシブ教育について。いわゆる障害のある子も、そうでない子と一緒に同じ教室で学ばせようという、統合教育の発展系とも言われるが、実際は、きれい事をヴァージョン・アップさせただけだ。
 実践レベルで言うなら、私も、高等学校しか知らないが、中学校までは支援級にいた子が入った普通クラスを担当したことならたくさんある。当然、その子の性格にもよるのだが、多くの場合、他のクラス・メートに溶け込み、まずまず楽しく学校生活を送る場合も多かった。この事件をきっかけにして、W学園出身者からのSNSへの投稿でも、小学校から高校まで、差別なんてことは全くなく、皆で楽しくやった、というのもあり、それは嘘ではないだろう。
 しかし一方、次のようなツイッターの投稿もあった。

 ここからは取り止めもない回想になります。/学園の空気が伝われば幸いです。/ある知的障害を持つ子が同じ学年にいた時、その障害について先生が説明したことがありました。/その説明は十分なものだったと今でも思います。/ですが次の日から始まったのは、その障害名を呼んで囃し立てるいじめでした。/正しい理解があればいじめをしない、というわけではないのに、/障害を持つ生徒を手薄なフォローで受け入れることがどれだけ残酷なのか、と思います。/(私自身、その子とうまく付き合えませんでしたし、大分酷い対応もしたとは思います。一応、公平のため付け加えておきます)

 ここにも全く嘘はない、と感じる。似たようなことなら、体験したし。
 子どもは本来純真か、それとも残酷か、なんて話をしてもしかたない。ここには、同年齢の者だけが集まった同質性の高い集団では、多少とも異質なものはひどく目立つし、それとの関わりは誰にとっても、もちろん大人にとっても、難しい、ということが端的に現れている。思い遣りをもって、などと言うが、具体的にどうしたらいいのか。それは一定の社会の中でしか学べない。
 本人たちがどう思っていようと、小学校時代の小山田たちが沢田くんにやったことは「いじめ」、いや明確に「暴行」なのであって、そのように扱われねばならない。そうでなければ社会は保たない。
 自分の体験で言うと、しつこいからかい、と思えることをしていた生徒を叱責した場面を覚えている。この子が、下やら脇やら、あらぬ方を見て、こちらと視点を合わせないのはいつものことだが、いかにも、「何を言われているのかわからない」様子だった。その他、途切れ途切れに言われた問答をまとめると。
 生徒「俺なんかもっとひどくからかわれてる」私「それがいやだったのか?」生徒「……別に、いやじゃない」私「何をいやと思うかは人によって違う。少なくとも、いやだと言われたら、やめるべきだ」生徒「……」。
 これで何かが「解決」したろうか? 少なくとも私の目に映じた範囲では、大事は出来しなかったが、それは、少し前の定時制高校という、60代の人もいる、同質性があまり高くないクラスのできごとだという状況に拠るところが大きい。
 それから、もう気づいた人もいるだろうが、「少なくとも、いやだと言われたら……」という私の言葉には問題がある。じゃあ、言われなければ、いいのか? ということになるから。無論、そうではない。ただ、「ふざけっこ」と「いじめ」の境目は必ずしもはっきりはしない。大人の目から見て、だけではなく、当人たちにとっても。
 それでも、ではなく、それだからこそ、自分たちのやっていることは外部社会からはどう見られるか、わからせる「指導」は必須なのである。学校に、いや、社会に出来る「フォロー」はそれしかない。「理解」ではなく、「強制」。その必要性を認めないなら、インクルーシブ教育は、時に必然的に悲惨を招く。

 これから第二。小山田へのインタビューを中心にこの記事をまとめた村上清は、いじめに関する新しい語り方を打ち出そうとしたようだ。「いじめはエンターテインメントだ」と。彼自身も学生時分に短い期間だがいじめられたことはあったから、いじめられっ子に感情移入することはできると、その上で、「いじめスプラッターには、イージーなヒューマニズムをぶっ飛ばすポジティヴさを感じる」と言う。
 スプラッター映画に厳密な定義はあるのかどうかは知らないが、例えばブライアン・デ・パルマ監督「キャリー」(1976年)などは真正面からいじめを描いた青春残酷映画である。ザラついた不安によって物語が運ばれ、最後の大破壊のカタストロフに至る(最後の最後にもう一段ドッキリが仕掛けられているのはこの際度外視)。日常生活にこんなのがあるわけはないが、いじめは、いくらかそれに近いような気がする。とりあえず、他のごっこ遊びとは違って、いじめられるほうは本気で苦しんだり痛がったりするのだから、切迫感はある。
 そして、背徳感のスパイス。
 理解していない、というより、理解したくない人がけっこういるようだが、いじめは悪いことだとわかっていないからなくならないのではない。悪いことだから、それがわかっているから、魅力的なのだ。近代の若者の多くは、大人社会への反抗を経て、アイデンティティを獲得する。いわゆる第二次反抗期。大人に禁じられていることを敢えてやるのは、スマートに(賢く、カッコよく)やりさえすれば、英雄的な行為のようにもみなされる。
 元来『Quick Japan』とは、サブカルチャーの専門誌だった。そしてサブカルチャーとは、60~70年代の荒れる若者の系譜を継いでいる。既成権威の悪に反逆するという、一見政治的で真面目な衣が剥がれた後の、遊びの形をした反抗。ただ、大人たちの偽善には我慢ならないという感情は相変わらず根強い。起源をたどればもっと古く、石原慎太郎「太陽の季節」(昭和30年)あたりで形になっている(当時は、「アプレ」と言われた若者像)。これがつまり、戦後社会に大量発生した「青年」と呼ばれる存在の、中心核なのであろう。村上は言う。

 去年の一二月頃、新聞やテレビでは、いじめ連鎖自殺が何度も報道されていた。「コメンテーター」とか「キャスター」とか呼ばれる人達が「頑張って下さい」とか「死ぬのだけはやめろ」とか、無責任な言葉を垂れ流していた。嘘臭くて吐き気がした。

 だからどうしようと言うのか。子どもの世界の外側から、通り一遍のヒューマニズムを振りかざしてマウンティングしてくる大人の偽善に吐き気を催しながら、内側にいて、どんな責任を負ったのか。結局の所、自分たちは子どもなのだから、少々の逸脱は許されるはずだという甘えしか、見えてこない。ぎりぎり煮詰めたら、彼らを突き動かしたのは、薄汚い既成権威とやらが作り上げた消費社会の中で肥大した自意識の、「平凡な大人にはなりたくない」という我が儘な感情だ(と、他人事として言いましたが、私もそうだったから忸怩たる思いはあります)。
 それもこれも、高度経済成長社会の必然的ななりゆきだったと言えるかも知れない。それでも見逃せないのは、かつての、既成権威の悪に反逆するという一事をもって、自分たちは悪を免れていると思いみなす脳天気だ。「政治の季節」が終わると、正義を気取る偽善はなくなったが、悪と言えばどこか遠いところにいるバルタン星人やショッカーのようなものであって、自分の身内には感じないお気楽さは残ってしまった。そんな暗くてダサいこと考えてたんじゃ、そうでなくても退屈なこの世界が、ますますつまらなくなるばかりでしょ、とばかりに。
 しかしいじめとは、どう見ても、支配する者とされる者が固定された権力ごっこに他ならない。その基本構造に敢えてだか無意識にだか目をつぶる結果、自分たちや自分たちの先輩たちが最も忌避し、反逆したはずの権力欲が、彼らの中で無傷で、それも、パロディーの、グロテスクな純粋形で、生き延びてしまう。
 いじめを肯定する、と言って、この悪をも引き受けよう、というなら、それも一つの思想的な態度なのかも知れない。しかし、小山田にも村上にもそんな気概はない。SNSで大々的に叩かれたら、殊勝に「反省」して見せるばかり。やっぱり、すべては甘えだったのですね。やんぬるかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校は黄金の卵を産まない

2021年05月28日 | 教育

The Goose that laid the Golden Eggs - Fairy tale - English Stories

メインテキスト:小松光/ジェルミー・ラブリー『日本の教育はダメじゃないー国際比較データで問い直す』(ちくま新書令和3年)
 本書を読んで、驚いた。今までこういう言説が出てこなかったのがまず驚きだが、本書発行以後でも、たとえ反論であっても、これを踏まえた論は、管見の限りでは、全くない。「日本の学校教育は全体としていいほうで、教師はよくやっている」などとは、意地でも言わない、言ってはならない、とかなりの人が決意しているようだ。
 以下に、本書が挙げているポイントのうちいくつかを、箇条書きにして、多少の注釈を加える。「国際比較」のための主な資料はご存知のPISAの調査である。

(1)2015年度中2生対象のテストで、日本は数学で5位、理科で2位(1位は両分野ともシンガポール)。
 これはピザではなく、TIMSS(国際数学・理科教育動向調査。中学校だと40の国と地域で、約25万人が参加)による国際比較。この調査は数理の分野で「学校で習ったことをどれくらいきちんと覚えていて使えるか」に重点をおいたもの。対してピザは「知識を創造的に使えるか」を調べるのだそうだ。前者を「20世紀型学力」、後者を「21世紀型」、と呼ぶらしい。

(2)そのピザの調査(2018年)では、日本は数学的リテラシーの分野で6位、科学的リテラシーで5位、読解で15位(1位は3分野とも中国)。
 一番下位の読解の分野でも、参加79カ国中ではもちろん、OECD37カ国の中でも真ん中より上ではあるのだが、以前よりは下がっている。これに関する報道と論説はいくつか見た。今の若者・子どもの多くが本を読まなくなったことが最大の原因だろうが、それを踏まえた上で、今後の日本の学校で課題とすべきことの一つ、と言われれば、その通りであろう。

(3)しかしピザには「創造的問題解決」に関するテストが別にあって、そこで日本は参加した40カ国中3位。また、2015年度には「協同的問題解決」についても調査され、日本は2位。前者は意外でも、後者は納得しやすいかも知れない。日本という国は同調圧力が強く、そのためチームであるプロジェクトに取り組むことは得意である、と思われているから。
 むしろ不審なのは、日本人が、ならったことをただ覚えるだけではなく、それを能動的に問題解決に生かす点でも、世界でトップクラスという調査結果は、マスコミに取り上げられることもあまりなく(取り上げた人も何人かはいるが)、従ってあまり知られていないことの方であろう。
 この部分にはもう一つ注目すべきことが書かれている。ティムズでもピザでも、上位にはだいたい同じ、東アジア諸国が並ぶ。これには、様々な国情が関係しているであろうが、それとは別に、「20世紀型」から「21世紀型」とか、「知識から創造へ」などと言うときには、この事実は考慮すべきであろう。創造的な能力を高めるためには、まず知識を習得しなければ始まらないのではないか、と。

(4)OECDは近年、15歳を対象としたピザの他に、大人を対象としたPIAAC(ピアック、国際成人力調査)という調査を行っている。これについては本書記載の実施年などが、なぜか、私がネット上で見たものとは違うので、後者に基づいて述べる。
 調査対象年齢は16~65歳で、実施年は2011~12年。三分野でテスト形式の調査が行われ、数理的能力・読解力の二分野の平均点で、日本は参加24カ国中1位だった(もう一つの「ITを活用した問題解決能力」の分野は、問題形式も結果の集計法も他の二分野とは違うのだが、それで日本は10位。三分野総合では1位)。日本の大学生が勉強しないのは有名だが、だからと言ってその後の学力が落ちているわけではない、とは言えそうだ。

(5)日本の子どもは世界的にみて勉強し過ぎだなどとは言えない。ピザはアンケート形式で勉強時間の調査もしている。学習時間が週に60時間以上(学校の授業時間を含む。その時間は1日6時間×週5日として30時間。つまり、それ以外に30時間以上勉強するということ。塾での学習時間も含まれている)の子どもの割合は、調査に参加した25カ国のうち19位(1位はトルコ)。逆に週40時間以下しか勉強しない者は過半数を占め、その順位は6位。アメリカの子ども(前者で3位、後者で22位)に比べてもずっと勉強していない。そして東アジア諸国の中では最低である。
 このことには別の資料がある。国立青少年教育振興機構が2016年、日本と米・中・韓の、全学年の高校生を対象とした学校以外の勉強の時間の調査をしている。これでも日本は、学校の宿題をやる時間を含めても平均1日2時間に届かず、4カ国の中で最低の勉強時間だという結果が出ている(最高は中国)。
 それでいて、(1)~(3)で見たように、日本の子どもの学力は決して低くはないのだから、大したものだ、と言えるだろう。学校の授業がいいのか、学習塾通いのおかげか。
 後者については、反証が二つ挙げられている。①ティムズは中二以外に小四の学力調査もしている。文科省の調べによると日本の子どものうち塾通いをしているのは、小四で26%、中二で50%超。つまり、倍の割合になっているのだが、これによる学力の伸びは看取されない。②1990年代から2000年代にかけて小学校低学年の塾通いは増えているのだが、その期間、小四対象のティムズの点数は上がっていない。
 学校の授業については、このように数値化された資料はない。ただ、アメリカの教育学者ジェームズ・スティグラーの見解が紹介されている。彼は、日本の数学の授業では、アメリカやドイツと違って、答えを与えるだけではなく、「より多くの時間を子どもたちに与え、数学の別解(別の解答法)について発表させている」と報告しているそうだ。「別解を考えることは物事を別の角度から見る訓練ですので、これは発見的・思考的な課題と言えます」。
 このときスティグラーが参照した授業のビデオは1994~95年のものである。ゆとり教育とその双子の兄弟みたいな新学力観、そしてアクティブラーニングへと続く現在の「教育改革」の流れが本格的に始まったのは2000年以降のこと。日本の授業は、それ以前から生徒の創造性を伸ばすことに適した、質の高いものであったと評価するアメリカの研究者がいたのである。
 そしてまた、前述のピアックの受検者は、この古い時代の授業を受けて成長した人(2000年に18歳以上だったなら、ほぼ30歳以上)が半分以上で、それが総合的に世界一の成績を収めている事実もある。

(6)日本の子どもはだいたいにおいて、学校で楽しく過ごしている。少なくともアンケート調査などではそう答えている。例えば前出国立青少年教育振興機構の調査では、「今の学校生活は楽しいか」の設問に「とても楽しい」「まあ楽しい」と答えた者が78.8%で、その割合は4か国中最も高い。苅谷剛彦氏などによって、ずっと前から報告されている事実なのだが、例えば悲惨ないじめのニュースが大きく報道されると、そちらの印象が強いからだろう、どうしても一般的な認識にならない。
 もっとも、上のような設問と回答が、どの程度に子どもの内面を伝えているか、私も、文学愛好者として、大いに疑問がある。しかし、逆に、日本の学校を概括的に語ろうとするときにこれを無視するのでは、全く恣意的だということになるだろう。
 本書の資料にもどると、ティムズの中二生対象の調査では、「ほとんどいじめられたことがない」と答えた者は日本は80%で、38カ国中5位(1位は台湾)。欧米諸国はすべてより下位に来る、即ち、いじめられたことがあると答えた者の割合が高い。
 そして高校卒業率、つまり高校入学して、途中でドロップアウト(中退)せずに卒業までいった者の割合は97.6%で、31カ国中2位(1位はフィンランド)。
 最後に、十代の子どもの自殺率は、著者達の計算で、29カ国中高い方から数えて14位(1位はニュージーランド)。ちょうど真ん中ぐらいということだから、この点で日本はいい国だ、とは言えない。もちろん、自殺の理由が学校にあるとは限らないにしても。

 以上いろいろ紹介してきたが、本書の著者達も、私も、日本の学校教育は非常にすばらしいのだから、何も改める必要はない、などと言いたいのではない。元来不完全な人間が作って運営している制度が完全なはずはなく、改善すべきところは必ずある。問題は、日本の現在の学校の長所と短所をきちんと見定めた上で、改革を進めようという、当り前の、現実的な姿勢がほとんど見られないことだ。
 現状認識としては、教師はダメなんだ、とひたすら言われる。教師の能力の国際的な比較は、資料もあまりなく、難しい。ただ、ピアックは、受検者の職業もデータとして挙げているので、これに基づいて著者達が計算したところ、日本の教師は数理的能力と読解力の両分野とも、参加18カ国中トップだった
 これにはびっくりしますか? 正直なところ、私も少し意外だった。ただし、ピアックのどの資料をどのように使ったのか、わからなかったので、鵜呑みにはできないと思う。
 しかしその反面、「日本の教師は能なしで、当然やるべきことをやっていない」という観測にはどのような根拠があるのだろう。TVでも、世間話でも。教師の中にすら、そう言う人は珍しくない。もちろん、自分以外の教師は、ということだが。いわゆるマウンティングというやつだ。人を罵るのは気分がいいのだろうが、それだけの話なら、現状をよくするためにはなんの役にも立たないのはもちろんである。
 困るのは、実際の教育改革を主導する文科省とその周辺も、この段階をほとんど超えていないことだ。さすがに日本の子どもの学力は世界的に見て高いことは認めても(認めないんだったらピザやティムズなんてやる意味はない)、それは「古い学力」であって、今後はそれでは、あるいはそれだけでは、足りないんだ、などと言って、教師の尻を叩く。
 教育は「理想」を追求すべきなんだと言い続けるのが、文部行政の第一の仕事であるらしい。そんなことばかりやっていられるのは、教師たちが、古かろうがなんだろうが、学力と呼ばれ得るものを生徒に与えるために、それなりの工夫と努力を積み重ねてきて、おかげで日本の学校は、上で見たように、そこそこうまくいっているからなのだ。これがこの場合の最大の皮肉であろう。
 理想が理想通り達成されることなどない。達成できないものを理想と呼ぶ、と言ってもよい。しかし教育界の偉いさんたちは、世間の力も借りて(実は両者が望むところは根本的に違うのだが、表層的な部分、というか、「教師はダメだ」のところで一致する)、理想が達成できないのは教師のせいにして、かつまた「それはできない」と教師が言うのは即ち教師失格を自ら認めたのと同様だ、という通念を作り上げることには成功した。おかげで、教師たちは、最低限、必死に努力していることは示さなくてはならない、と感じる。それで文字通り死ぬほど忙しくなるとは、およそ滑稽で、もの悲しい話ではないか。こういう点で教師はバカだと言われるなら、返す言葉はない。これについて具体的なことは、拙ブログの「今の先生は年中走っている その2 その3」その他をご参照ください。
 イソップのお伽噺に出てくるガチョウは、一日一個づつ黄金の卵を産んだがために、本当はもっとあるんじゃないかと疑った欲張りの農夫に、腹を裂かれて死んでしまった。日本の学校は、「お前たちの産んでいるのは平凡な卵で、黄金じゃない。努力が足りないからだ」と首を絞められ続けていて、このままではやがて窒息死してしまうだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会的共通資本としての学校

2021年01月31日 | 教育

University of Chicago

メインテキスト:宇沢弘文『社会的共通資本』(岩波新書平成12年、平成29年第22版)

 教育とは、一人一人の子どもがもっている多様な先天的、後天的資質をできるだけ生かし、その能力をできるだけ伸ばし、発展させ、実り多い、幸福な人生をおくることができる一人の人間として成長することをたすけるものである。(P.125)

 こういう断定にはうんざりする。たてまえの、挨拶みたいな言葉だとすれば、聞き流していればよいが、ここからして、今の教育はなんだ、と、批判・非難のために使われると、害になる。
 第一、「教育」というと、学校教育のこと、と短絡的に結びつけるのがよくない。だから、教員以外の人は、自分には関係ない、と、「教育の責任者」即ち教師、を罵っていればいい、という感じになる。このような言説は、決して生産的なものにはならないのである。
 実際は、教育は、社会に生きている以上誰もがするし、されるものだ。我が子を教育しない親なんていないし、職場の部下や後輩にも、教育は施されるであろう。人間同士の影響関係全般にまで拡げることもできるが、それでは話がまとまらなくなるので、他の人間に何かを教え込もうとする明確な意図をもって行われるものに限定しても、人間社会に非常に普遍的な、というよりはありふれた行為と言える。それがいつでも、教育される側によい結果をもたらすとは言えないことも、虚心に振り返ってみれば、誰もが認めざるを得ないであろう。
 もちろん、「実り多い」ことだってある。いわゆる子どもについてみれば、学校での教師や他の生徒・学生との関わりや、家庭や社会での様々な出会いや、TVやネットからの情報からも、多くのものが得られるし、自分の特性や才能を発見して伸ばす契機になることも多い。それはもちろん、すばらしいことである。
 しかし、では、そのことのために特化した機関・組織というのはあり得るのだろうか。学校がそうだし、そうでなければならない、というのが冒頭の断定の前提である。ところで一方、「一人一人の子ども」は「多様な先天的、後天的資質」を持っている、と言われる。多様どころか、人間は一人一人みんな違うと言ってよいし、現にそうも言われてもいる。そのすべての資質・才能を「できるだけ伸ばし、発展させ」る、なんてことが本当にできるのか、できたら虚心に(「べき論」の思い込みはなしで)考えていただきたい。
 現実を見れば、そうでないことが多い、というか、統計などとれるようなことではないが、たぶん、割合としては、そうは思えない場合のほうが多いだろう。それは教員がちゃんとやらないからだ、というのが、上の非難の、まあ、内容で、決して終わることはない。なぜなら、原理的にできないことはいつまでたってもできないのだし、それでいて、「できない」と正直に言ったらそれもダメな証拠だとしか受け取られないようなのだから。
 遺憾ながら人間社会では決して珍しくない、言論の罠の一典型である。不可能な、百歩譲っても非常に困難なことを、「当然」として押しつけておいて、できないのはダメなからだ、と裁断する。裁断したほうは、自分がいくらか偉くなったような、優位に立ったような気分になれる。そして、それで終わり。有害無益、としか言えない。

 上記のような観点から宇沢弘文(以下、著者、と表記する)を批判するのは少しどうかと思われるかも知れない。
 いくつかの留保つきながら、著者は経済学者と呼ばれるべきなのであろう。1970年代からこっち、新古典派経済学(市場原理主義、新自由主義)の牙城であり続けているシカゴ大学で教鞭を執った経歴もありながら、レーガノミックスやサッチャリズムの柱になったこの学説を痛烈に批判したことで知られる。
 経済政策は、市場最優先の、経済合理性を主眼として行われてはならないものだ、と言う。特に、森林や農地、都市空間、医療や教育、環境、などは、人間が幸福で豊かな生活を送るためにはどのようなあり方が有益か、という発想から開発され、整備されるべきものだ。至極穏健妥当な主張で、現在ますます重要であろう。
 それでもやっぱり経済学の範疇に入るのは、コストの問題としてこれを扱うからだ。コストとは、直接的な金の問題とは限らない、広い意味の労力なども含むのは旧来と同じだが、ただ、「合理的期待」などで、個々別の経済活動によってのみ市場のメカニズムは均衡する(需要と供給、生産と労働力が過不足なく一致する、つまり非自発的な失業者はいなくなる)、などという考え方はきっぱりと否定する。
 現在の需要、つまり、あるコストをかけて購う値打ちがある、と一般的に認識されているものの他に、長い目で見た効用も顧慮される必要がある。例えば、農地。水田は、一年の半分以上放置しておかねばならないので、経済合理性からすれば非効率なもの(おかげで、大企業の進出・買収は免れている)だが、国土の環境保全のためには不可欠だし、食糧自給は国家の安全保障上非常に重要な要素なのだから、無闇に減らすなんてことがあってはならない。
 これを管理するためには、国家でも個人(経済人)でもない、ゆるやかな共同体があったほうがよいし、何より、社会全体の「共通資本」として保全しようという意識がなくてはならない。そのことがまた、本当に人間らしい豊かな生き方をもたらす。
 このような視点に基づく著者の農業・農村論は本書の第2章に直接当ってもらうに如くはない。ただ一つ付け加えると、いわゆる成田闘争時に発表された著者の「三里塚農社」構想は、挫折した。著者の理想は、金銭的利害に無関心ではいられない農民や、反国家運動の機会になればよいと考える学生などとは、最後まで協調することはできなかったのである。

 学校にはまた固有の、難しい問題がある。「第4章 学校教育を考える」が、他の章に比べて特徴的なのは、コストの問題が全く出てこないことだ。これにはがっかりした。
 学校が重要な社会的共通資本であることには疑問の余地はないであろう。学校が完全になくなったとしたら、多くの人が困り、途方にくれるに決まっている。しかし、我々はどれくらいのコストをこれにかけるべきなのか。例えば、教員数を二倍にしたら、どの程度の効果が期待できるのか。逆に半分にしたら、どの程度に良くないことが起きるのか。完全な計算は、難しいというより不可能であろう。しかし、それをいいことに、コストを考えること自体を、「教育の理想」からみて不純なものであるとして忌避する風潮は、結局は社会的共通資本の毀損をもたらすだろう。
 私が本書に期待したのはそういう視点なのだが、それはない。この発想がいかに一般に等閑視されているかの証左であろう。

 これ以上の議論を進めるために、理想論ではなく、現実の浮世(憂き世)で学校が果たしている役割を考えておこう。脱学校論者として知られるエヴァレット・ライマー『学校は死んでいる』(松井弘道訳、晶文社昭和60年)中の規定がこの場合役に立つ。私はこのイデオロギーには同調しないが、学校の理想化は端から拒否している分、相当正確なことが言われていると思えるから。
 ただし、私の言葉に翻訳して、学校は何をしているか、列挙すると、
① 子どもの囲い込み。
② 職業や社会的地位のための選抜。
③ あるイデオロギー的なものの刷り込み。
④ 知識の伝達。
 このうち①は、一般社会の危険から子どもを隔離し、守っている、と言えるわけで、実際上一番有用性が認められている学校の機能ではないか? ただ、同質性が極めて高い集団になるので、いじめなど排除の構造を持ちやすい弱点はある。これについては、本書では触れられていないので、ここでは述べない。
 ②は一時は悪名高かったいわゆる学歴社会のことになる。「非人間的・非倫理的な受験地獄」(P.7)というような文言を見ると、ああ、またか、と思ってしまった。しかし著者は、学校による人的資源の配分自体を批判しているのではない。むしろ、そうなっていないことを問題視しているのだ。
 アメリカでは、特に1960年代、貧困と社会的格差の解消のために、学校教育の平等化が叫ばれれた。しかし、調査に拠れば、「とくに学歴の高さと経済的成功の間の統計的相関はあまり高くないということがわかっている」(P.138)。日本もそうで、学歴格差は「職業達成の三割、経済的成功の二割程度を説明するに過ぎない」(麻生誠『学歴社会の読み方』筑摩書房昭和58年)。これは少々古いが、受験地獄、学歴社会の弊害が声高に叫ばれていた時代でこうであった、ということだ。
 人々は、できるだけよい大学に入って、卒業することによって、社会でできるだけよいポジションを得ることを期待する。このシステム、のように見えるものは、非合理だとか、合理的すぎるとか、さまざまに批判されるのだが、そもそもシステムが本当に働いているのかというと、必ずしもそうなっていない。実に奇妙なねじれである。上で農地について述べたこととは位相は違うが、学校は重要な社会的共通資本であるところまでは同意できても、具体的に何を望むかは各自まちまちで、容易に合意点が見出せないところは似ている。
 例えば、社会的な選別はちゃんとやり、同時に、その選別にもれた人の救済もちゃんとやれ、などと言われ、驚くべきことに、けっこうやっている。しかし、本当に「ちゃんと」と言えるかとなると、常に疑問の余地はあるので(それが当り前だ)、常に批判され非難される。このへんをできるだけ整理し、学校に是非やらせたいことは何か、それをちゃんとやらせるためには何を諦めねばならないか、共通認識が持てたほうが、生産的な議論ができやすいと思うのだが、なかなかそうはならない。これは、合理性を括弧に入れて考える社会的共通資本の議論にありがちな通弊と言えると思う。

 なぜ学校は選抜機関としてもさほど有効には働かなかないのか。サミュエル・ボウルズとハーバート・ギンタスの研究『アメリカ資本主義と学校教育』によると、その主要な原因は、「社会的統合、平等化、人格的発達という学校教育の機能が、法人資本主義という経済的、社会的体制のもとでは整合的な形で働くことができない」(P.143)からだという。ここで著者は、ボウルズ=ギンダスと同様、まちがっているのは社会のほうだ、と考えている。法人資本主義とは、企業中心社会ということで、そこで人間は、組織内のヒエラルキーの、歯車として働くことが求められる。個人が内発的な動機に基づいて活動する、なんぞというのは、害でしかない。
 社会がそうである以上、平等や人格的発達を目指すリベラリズムの教育が失敗するのは必然である。結果として現実の学校教育は、会社組織に都合のいい人間を創り出すことに貢献するようになる。現在のハーバード大などのビジネススクールの隆盛は、その具体的な現れであろうか。
 問題はもちろん社会の側にある、ということで、著者は教師の批判はしていない。そこは正当だが、どうだろうか。上記③に関して、学校は「(前略)ある特定の国家的、宗教的、人種的、階級的、ないしは経済的イデオロギーにもとづいて子どもを教育するようなことがあってはならない」(P.125)とも言われている。しかし、宗教の教義のようなはっきりしたものなら、学校で教えることは現に禁じられているが、今の社会でうまくやっていけるようなものの考え方や口の利き方などの日常的行動様式(ピエール・ブルデューの言うハビトゥス)は、無意識のうちにでも伝えているのではないか。
 私は、これこそ、実際上④より強力な、根源的な教育だと思っている。そしてこの領域でも、教師は、「世間知らず」で、つまり世間一般に通用するハビトゥスを身につけておらず、役立たずだ、とも非難されている。
 このように、知識以外に、教師が生徒に伝えるよう期待されているものの中身は、往々にして著者たちリベラル派が言っているのとは真逆なのである。それも無理はない、でしょうね。「幸福な人生をおくることができる……ことをたすける」なんて言うけれど、社会でよいポジションについたほうが普通に言って幸福じゃないか? それ以外に何があるの?
 シカゴ大学の有名教授ソースティン・ヴェブレンは「真理」の保持者たる知識人を組織して研究に従事させるのが大学だ、という意味のことを言っているそうだ。「この「真理」としての知識は、物質的ないしは現実的にはなんらの価値をもたらさないのが一般的であって、それ自体として固有の価値をもつ」(P.148)文化・文明の精髄なのだそうだが、大学に限って考えても、今の大衆化されたありさまでは、なんとも場違いに大仰に聞こえるしかないだろう。
 高校以下の学校について、もう少し和らげた表現にしてみよう。物質的・現実的な価値には直接結びつかないが、「人間として本当に大切なもの」はあるのかどうか、それを学校で伝えるべきなのかどうか。言い換えると、そういうのを社会的共通資本の一部とみなすべきかどうかは、それこそ社会全体で決めるべきことだろう。教師如きが、世間一般からは離れた高みから勝手に考えて、実行したりしていいことではない。みなさん、そんなこと、許す気はないでしょう?

 最後に、本書では触れられていない学校教育のコストに関連して、簡単に言っておこう。
 医療については、こう言われている。医師の報酬は、その医療行為がどれくらいの利益を生むか、などの観点から決められてはならない。「(前略)医師はさまざまな職業のなかでももっとも神聖なものの一つであって、医師という職業にふさわしいと社会的に考えられる所得水準もまたそれに応じて高いものでなければならない」(P.179)
 教員もそうではありませんか? いや、別に神聖なものだなんて思っていないよ、と言われるならそれまで。それなら、そうはっきり言って欲しいもんです。
 そして、学校にはまだまだできることがあるはず、と、コストは極力増やさず、教員だけをこき使おうとして、結果、仕事をやった証拠を残す仕事を膨大に増やすようなことは、是非やめていただきたい。これだけでも、考慮してもらえないものでしょうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育に万能薬はない

2019年12月28日 | 教育



メインテキスト:松岡亮二『教育格差ー階層・地域・学歴』(筑摩新書令和元年)

 本年12月17日、萩生田光一文科大臣は、来年度の大学入学共通テストの国語と数学で予定されていた記述式問題導入の見送りを正式発表した(会見録はこちら)。既に11月1日に英語の民間試験活用見送りも決まっており、これによって大学入試センター試験(かつての共通一次テスト)から大学入学共通テスト(以下、「共通テスト」と略記する)への変化は、名称だけということになった。三十なんねんかぶりの大改革とか、ずいぶん賑々しく言われていたのに、大山鳴動して鼠一匹も出ず、の結果になったのは、まずはめでたい。
 皮肉ではない。教育改革、中でも入試改革は、やればやるだけ悪くなるに決まっている。萩生田は結果としていい仕事をした、と言える。消費税は、二度の見送りを経てとうとう10パーセントにまで引き上げられたのに比べれば大したことではないと言えるし、また、せっかく作って宣伝までした案を流されてメンツを潰された官僚たちが巻き返しをはかって何をやってくるか、気になるところではあるが、ひとまずは。

 萩生田の功績の第一は、「身の程」発言(BSフジ「プライムニュース」10月24日)によって、反発といっしょに、この改革案の底につきまとっていた不満と不安を表面に炙り出したところにある。
 何が不安で不満か。この改革は結局のところ、一定以上の階層(収入と、いわゆる社会的地位の一方か双方で上位)に有利なのではないか、ということだ。つまり、「いい家の子」の得になりそうだ。「身の丈」を知れ、とは、それを認めろということではないか。ということは、改革を主導している政府のほうは、とっくにそれを知っていたのではないか、と。
 もっともそれは、話としてはずっと前からあったことで、だからこそ「プライムニュース」の反町キャスターも尋ねたのだが、一般にはさほど大きな声にはならなかった。そうならないような言論の、空気の力が働いていたのだ。
 例えば、英語では、今後は「話す・聞く」力も必要ではないか、と言われるなら、そう思える。これに反対するのは、自分にそれだけの英語力がないからだ、というコンプレックスのためだと思われるだろう、という懸念もバイアスとして働く。
 しかし、本当はみんなわかっていると思う。英語を日常で使ういわゆる英会話能力なら、日本国内での民間テスト(TOEICなど)の受けやすさ以前に、英米で何年か過ごした帰国子女が絶対に有利なのだ。これを指摘する人もまた、ずっと以前からいた。それがあまり広く聞かれない理由は、さらに二つ考えられる。①帰国子女の数はそう多くない。②当り前すぎるので面白くない。

 これに比べたら国語や数学での記述式問題は、ある境遇の者が有利になる要素は小さいようだが、決して無視できないところもある。フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(『再生産』1970年、など)などが夙に指摘したように、面接や小論文は受験生の「ものの考え方」を露出させる。そこでは、生まれ育った境遇から身についたもの(ブルデューは「ハビトゥス」と名付けた)が決定的に大きい。「いい家の子」のほうが高評価になるのは、ほとんど必然である。
 以上についてブルデューは多くの統計資料(家にどれくらい蔵書があるか、博物館見学や観劇の習慣などのいわゆる「文化資本」から、ペットにはどんな動物を飼っているか、まで含めている)をあげて説得力を富ませているが、そんなものを見る前に、多くの人がほとんど直感的に納得するのではないだろうか。しかも、学校だけで終わる話ではない。非常に独創的な何かを生み出す能力ということになるとわからないが、もともと社会で有用と認められる独創なんてごく少ないし、それまでになかったものを発見する能力を既存のやり方で発見しようとするなんて、それ自体矛盾である。
 普通に書類をまとめたりプレゼンをしたりする能力なら、文章を書かせたり対面での受け答えを見ることでチェックできる。だから、この方法は欧米ではずっと以前から大学入試などの選別試験で使われているし、日本でも大企業の入社試験などでは主流になっている。結果としてそれは、既存の社会階層を再生産し、拡大し、さらには、機会は全員に与えているという「公平」の見せかけで、そのことを覆い隠す制度となる。

 逆に、出身社会階層からの影響が最も軽く、その意味で「公平」なのは、(「学力」を評価基準から外すのでない限り)本(教科書や資料集)を読めば書いてある知識をどれくらい覚えているかを主な基準とした選抜、ということになる。受験生の「考え方」はわからないだけでも、そう言える。即ち、いわゆる○×式、まさにセンター入試がそうであるような、選択肢から答えを見つける形式だ。そしてそのための教育なら、いわゆる「詰め込み式」が一番よい。
 それはよくない、「本当の学力とは言えない」「社会に出てから役立たない」などなど、これまた言われ続けて今日まで続く「教育改革」の流れがあるわけだが、表面的な言葉だけで考えたら、そうかな? と思えるだろう。そして、教育論議の多くがそのレベルに止まっている。これが、改革案が決してうまくいかない理由の一つである。
 選択問題では「本当の学力は測れない」としたら、まず「では本当の学力とは何か」についての詰めた議論が必要になる。それはやればやるほど言葉の迷宮に深く迷い込みそうだから、「しかし断片的な知識だけたくさん詰め込んだのが本物だ、とは言えんだろ」「そらそうだ」ぐらいで止める。それでも、というかそれだから、今までの知識量を測るテストでは低評価だった人間は、これから高評価になるのではないか、となんとなくの「希望」が生まれる。
 こういうのが教育論議の「華」なのである。それ以上踏み込むのは、むしろ疎まれる。選抜試験では、「本当の学力」と「公平」のトレード・オフ(二者択一)になる、なんて話は、厳しすぎるし、重すぎるのだ。

 それ以前に、学校の選抜機関としての役割、「有能な人材を社会全体から広く平等に選び出す」のほうも、あまり表だっては言われない。「選ぶ」ということは、どうしたって「選ばれない」者を出すのだという重いところは、みなさん、あまり見たくないのだ。それで、安倍内閣の閣僚という広い範囲から反発を招きやすい立場の者の「失言」で、ようやく表面化したのである。

 『教育格差』の著者松岡亮二は、萩生田発言の真意を「好意的に」次のように読み解く(「萩生田大臣「身の丈」発言を聞いて「教育格差」の研究者が考えたこと」『現代ビジネス』2019.11.06

 現状でも予備校などによって教育機会の格差がある。これくらいの制度変更は「身の丈」にあった準備・努力をして、よい結果を出せばいい。それくらいのことはできるはずだ。若者よ、逆境を乗り越えていけ!

 なるほど、萩生田も、決して「いい家」出身でない者は身の程をわきまえて、過度に社会的上昇の野心など持つな、などと言うつもりはなかったろう。ただ、社会階層上のハンディキャップがあっても、個々人の努力でそれは乗り越えられる、とも言っていないから、そういうもんじゃない、認識が甘い、という松岡(以下「著者」と表記する)の批判は、萩生田に対するものとしてはいささか当を失している。

 著者も、誰もが認めるだろうように、社会的な格差はある。この格差は、主として、SSM調査(社会階層と社会移動全国調査The national survey of Social Stratification and social Mobility、昭和30年以来10年に一度日本社会学会によって行われている)に基づくSES(社会経済的地位socioeconomic status)という指標で示される。これと、子どもの学校での成績や、教育達成(どのような職業・社会的地位に就いたか)の相関関係を調べるのが教育社会学者の仕事。
 詳しくは、『教育格差』(以下、「著書」と表記する)や文科省が平成19年以来実施している「全国学力・学習状況調査」の結果に基づいた分析がネット上に公開されているので、そちらを見ていただきたい。後者の例で、お茶の水女子大による文部科学省委託研究「平成29年度全国学力・学習状況調査を活用した専門的な課題分析に関する調査研究」では、親の収入や学歴と小学生の学力はほぼ比例する、と報告されている。これは、もしそうでなければむしろびっくりするような話ではないかと思う。
 とすると、著者が強調している以下の話も大して意外ではないだろう。小学校のときのこの格差はその後もずっと引き継がれる傾向がある。つまり、SESが高い家の子は中学校でもよい成績を取り、よい上級学校(偏差値的に上位)に進学し、よい企業や官公庁(社会的信用度or/and経済的に上位)に入る率が高い。
 これからすれば、日本は「緩やかな階級社会」と呼ばれるのが妥当である。自助努力で階級上昇を達成する人も確かにいるが、それだけでなんとかなるはず、とすべてを個人のせいにしてしまうのは、適正でも公正でもない。
 国際比較だと、我が国の教育格差の固定度は、OECD諸国の中では高くも低くもない(因みに高い方の代表はアメリカ、低い方はフィンランド)真ん中ぐらいで、それをもって著者は日本を「凡庸な教育格差社会」と呼ぶ。「ちゅうくらい」ではなく「凡庸」という(マイナスの)価値観が滲む言葉を敢えて使うところに、彼のこだわりがある。これをなんとかせねばならん、と著者は強く訴えているのだ。

 どうも違和感が持たれる。社会科学は、まずは価値中立で、各種のデータを冷静に検討して、この社会の有様を明らかにするところに本務があるはずだ。というのは言わば一種のタテマエであって、実際は「社会はこうあってほしい/こうあるべきだ」という願望は誰にでもあるし、それは実際社会研究のモーティベーションになっているだろう。
 問題は、クールな社会分析と、「あるべき社会」像との距離感。現実の条件を無視した「理想論」は結局は生産的ではない。

 こんな譬えはどうだろう。野球の試合で、「バッター全員がホームランを打てば、勝てる」というのは。プロ同士の試合であっても、絶対にあり得ないとは言えない。第一、ホームランを打つバッターは現にいる。他の選手だって、努力してできないはずはない、……などとばかり言っている人は監督やコーチにはなり得ない。ホームランを打つ者も打てない者もいて、有名なホームランバッターであってもいつも打つとは限らない。総じて言えば、打てないことのほうが多い。これを動かしがたい条件として、その上で、なんとか勝てるように作戦を立てるのがプロの仕事というものだ。
 「何を当り前のことを」と言われるかも知れない。が、教育論議の世界では上の類の「理想論」は決して珍しくない。「先生方がもっともっとちゃんとやれば教育はよくなるはずだ。現にすばらしい成果を挙げている先生はいるのだから」という具合に。もっとも、それはあくまで「理想」であって、現実はなかなかそうはいかないのだから、別に、地味に考えよう、というのなら、大人の態度であって、何も文句はない。
 困るのは、かなり本気で「理想」ばかり言い立て、それこそが「教育論」だと思い込んでいる人が多いように見受けることだ。何が困るのかと言うと、二つあって、
(1)現実の困難には、解決策を考えるより、むしろ積極的に目をつぶってしまいがちになること。
(2)「それはできない」ということが、言葉や現実で突きつけられると、「ではもう絶望だ」となって話が終わってしまう。
 後者こそ、絶望的な事態と呼ばれるべきであろう。夢のような理想論は、言葉は美しいが、実際にはすぐにニヒリズムに結びつくのである。

 著者を夢想家というわけではない。彼は一方的な「理想」と「善意」だけで実施された制度改革がひどい結果を招いた例として、「公立高校の学校群制度」と「ゆとり教育」を挙げている。前者は、高校間の学力格差を目立たなくしたが、その規制外にある私立学校の隆盛を招いただけだし、後者は「ゆとり」即ち各家庭・生徒の自由時間を増やしたことで、塾や家庭教師などの教育手段を自力で与えやすいSES上位家庭を有利にした。【後者については、もっと大きな問題を、以前このブログに載せた夏木智の文章が指摘している。ご参照ください。】

 ここで、この問題のための現実の条件の一つを明らかにしておこう。教育社会学以前に、多くの人が教育格差が将来の希望実現と密接に結びついていることを実感として知っているから、むしろ学校在学中に格差が示されることこそ望んでいる。特に、これによってよい結果を得ることを「前向きに」期待しているSES上位家庭はそうである。学校が生徒個々の格差を隠そうとするなら(日本の公立学校はその傾向が強い)、別の手段で知ろうとする。教育行政はこれを無視し、学校群制度の他に、公立中学校から都道府県全体を母集団とした偏差値を追放した。その結果は、公立学校とは生徒と親に有用な指標を与えようとしない、役立たずの制度・組織だという印象だけを残した。
 この点でも、この著書は示唆に富む。上の二例を挙げ、トレード・オフのような「重い」要素を考慮するのをいやがるような改革案は、無益というより有害であることをちゃんと指摘している。「教育に万能薬はない」(There is no panacea in education.)という言葉もこの本で初めて知った。それでも、改革を語る段になると(第7章「わたしたちはどんな社会を生きたいのか」)、とたんに情熱的な語り口になる。それが問題への取り組みの真摯さを示す尺度になる、というのはよくある錯覚だが、著者がそれに陥っていないことを願う。

 本書の前口上(prologue P.015)は「人には無限の可能性がある」なる、私などの若い自分にはまだよく聞いたが(「人には~」よりは「子どもには~」の形が普通だったが)、近頃では滅多に聞かれなくなった揚言から始まる。敢えて言うが、これは端的にまちがい。人間とは、時間的にも空間的にも限界がある生き物だ。最低でも、寿命という時間的限界から自由な人間などいない。
 それから、これもいただけない。「前例がないこと(引用者註、社会から格差をなくすこと)を達成するなんて無理だと諦めるのであれば、目の前にあるのは茫漠な暗闇の中に漂いながらわたしたちをせせら笑う虚無だけである」――これは宮崎駿『風の谷のナウシカ』漫画版からの言葉らしい(私もこの本は読んでいるが、こういうのがあったかどうか忘れた)が、漫画やアニメとは違って、世知辛い浮世=憂き世を生きている大人が口にするような言葉ではない。人間社会である限り、常に格差はあったし、今もある。これからも、とは、100パーセントの確信をもっては言えないが、明日明後日なくなることはない、とは言える、と威張るほどもなく自然に言える。
 それだと絶望だ、などと言われることには、今は怒りを感じるようになった。「何様のつもりだ?」。人間はいつでもどこでも、与えられた条件の中で、「こちらのほうが幾分かはマシか」を目指してシコシコ努力するしかない。「身の程」がそういう意味だとすれば、萩生田は全く当然のことを言ったまでである。
 著者だってそんなことはわかっているだろう。しかし、こと教育となると、内容空疎な大言壮語を言わねばならないという暗黙のルールでもあるのだろうか、あまりに多く、それだけで過ぎていく印象がある。もうやめませんか、この風習だか癖だかは。

 それから、フェアではないことは承知で言うと、著者たち学者はなんといってもデータ上の数値を見ていろんなことを言うのが仕事なので、実際の子どもを知らない。で、以下、参考までに。
 底辺校(偏差値的に下位)教師として目に映じたことで言うしかないが、彼らは、「格差社会」なんて観念の中を生きているわけではない。喧嘩したり失恋したりバイトしたりして、できるだけ楽しく日々を送ろうとしている。勉強はしない。一般試験で大学へ進学する者は皆無だが、家が金を出してくれさえすれば、AO入試や推薦で入るのはけっこう簡単なので、どこの学校でも年に十人ぐらいはいる。それでも、勉強はしない。その習慣もなく、意欲もない。
 その理由は、著書にも書いてある。生徒本人だけではなく、親を初め周囲の大人も、学習で成功した体験に乏しく、これに関してあまりよい思いはしていないので、積極的な興味の持ちようがないのである。もちろん、勉強ができたおかげで社会的に成功する人物がいるのは知っているが、それは別世界の話、と言っても大げさではない。生徒が悪いわけではなく、潜在的な能力の有無もわからないが、何しろ、彼らの生活意識の中に、五教科の学習習慣を植え付けるのは、口で言うほど簡単ではない。
【それに、さすがに大きな声で言うのは憚られるが、そうしたほうがいいのかどうか、彼ら自身のため及び世の中のためになるのかどうか、どうも確信がない。大学へ行くのは、行かないよりは必ず幸せだと、100パーセントの確信を持って言える人、いますか?】

 それでも、これに関してやるべきことはある。いや、残念ながら私などにはただこのような場所で細々と訴えるしか出来ないのだが、できれば、社会全体で取り組むべきことはある、と訴えたいことはある。
 それは、金の問題である。能力も意欲もあるのに、家の経済状態が悪くて進学を断念する中高生は今も存在する。まず何から手を着けるべきかと言えば、まちがいなく彼らであろう。
 現在、七人に一人が貧困児童だと言われている。そうなったのは、政府の経済政策の失敗に因るところが大きい。これについては、私もまだ勉強中なので、小浜逸郎のブログ「ことばの闘い」中の関連記事などを参照して考えていってもらいたい。
 学校に直接関係することで言うと、奨学金の充実を期すべきだろう。現在の主流である貸与型だと、貸すほうも、借りた方も、破綻することが多い(金を返さない者も返せない者もいる)、というニュースは、悲惨だし、なんかケチ臭い。経済大国としては恥ずかしいような話ではないか。給付型にしても、百億もあれば、かなりの数の低SES出身者の修学を有効に支援できるのだから、教育格差は問題だと本当に思うのなら、やるべきなのである。

 こういうと、すべて学校以外でやることで、教師は何もしないのか、それは責任逃れではないか、なんて声が聞こえてきそうで、うんざりすると同時に腹立たしい。逆に問いたい。学校にすべてを押しつけておいて、自分は夢物語を語るか悲憤慷慨して見せるだけなら、結局あなたにとって教育なんてどうでもいいのではないか。それなら、そう認めたらよい。
 学校には特に関心のない人はたくさんいるし、それもまた我々がぶつからねばならない現実の条件の一つである。また、空疎な大言壮語を吹くぐらいなら、どう考えても自力だけでは出来ないことは出来ないと認めるべきなのだ。そのほうが結局は建設的なのだから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今の先生は年中走っている その3

2018年12月27日 | 教育


メインテキスト:「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について」

 標記の文書は、平成29年12月に、つまりちょうど一年前に出た中教審の「中間まとめ」である(以下、「まとめ」と略記する)。そのうち「答申」がでるのだろうが、現在のところ学校の「働き方改革」に関連して中教審から出てきた唯一の公式文書であるので、これを紹介・検討してみる。
 もっとも、ここに出ている方針は、以前から、例えば平成27年中教審答申「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について~学び合い,高め合う教員育成コミュニティの構築に向けて~」(以下、「答申」と略記する)などに記されている路線上にあると言える。
 それは、学校の構造を根本的に変える、ということである。これも以前からチョロチョロ見え隠れしていた構想、のそのまた素案のようなものだが、さすがに日本の教師が忙しいことが知れ渡り、「教師に汗をかかせる」路線を表に出しづらくなったので、代って大きく迫り出したものらしい。
 どう変えるのか、というと、パッとでいいので、上の図を見ていただきたい。これは「答申」中のものだが、なんだかタダゴトではないなあ、という感じになるんじゃないですか。学校と言えば、単独の、「子どもの園」、というか、昼間子どもを隔離しておく場所かと思われていたのに、社会の協力を仰いで、より大掛かりで開かれた「チーム学校」にしようというらしい。
 もっとも、このような案だけなら、これまたもっとずっと以前にまで遡ることができる。①生徒の側が自分から動くようにしよう、②授業内容を実際社会で使えるものにしよう、という案なら、それこそ戦後すぐの「社会科」の開設からしてそうだった。その後、たぶん1970年代の、高度経済成長が達成された頃、閉ざされた教室内でのいわゆる一斉授業方式は、もはや時代遅れではないか、という観測が加わる。さらにまた、上の①の観点から、「ゆとり教育」の「自ら学ぶ力」が出て、近年アクティブ・ラーニングなる呼称に変わったと思ったら、それも最近あまり言われなくなった。それは2020年度より施行予定の新学習指導要領からこの言葉が消えたからで、代わりに「主体的・対話的で深い学び」と言われるようになったからだ。中身は同じことです。
 このように、装いを変えながら何度も何度も登場するのは、全体としてはそういう方向へは行っていない、ということを何よりも証するものであろう。それについては、もう一度、夏木智の論考を見ていただくことにして、今回は②の分野に関連する部分を考えたい。今次の中教審の、答申前の「まとめ」ではあっても、画期的なのは、この点で教員だけ力の限界を認め、「外部の力」を学校に導入しようとするところだ。
 ただし、と、最初に、身も蓋もなく言ってしまおう。なんとも心ない振舞いだと見えるとしても、これを心得ておかないと、事態が今よりもっとひどいものになる可能性もあるのだから。実際、戦後の教育改革は、九割以上、そうなった。
 つまり、理念として画期的であればあるほど、実現は難しくなる。単純に、これだけの改革をちゃんとやろうとしたら、それなりの金がかかる。「答申」も「まとめ」もそれには触れていない。それもそのはず、予算化の作業は、中教審や文科省の権限の内にはない。まして、個々の学校に何かできるわけはない。行政の仕事なのだ。そして、どの自治体でも、現在の諸悪の根源である緊縮財政の方針下で、学校なんぞにそんなに金をまわすわけはないのである。
 これで実際問題の話は終わり。後は理念上で、図らずも「学校」の根本的な問題をあぶり出したように見えるところを紹介しておこう。

 「まとめ」の第一章は「「学校における働き方改革」の背景・意義」と題されている。例えば、こうある。

 世界的にも評価が高い,我が国の教師が児童生徒に対して総合的な指導を担う「日本型学校教育」の良さを維持し,新学習指導要領を着実に実施することで,質の高い学校教育を持続発展させるためには,政府の動向も踏まえつつ,教師の業務負担の軽減を図ることが喫緊の課題である。

 「日本型学校教育」とは、子どものすべてを学校が抱え込むが如き顔をする「全人格的教育」のことで、世界的に評価が高い、とは知らなかった。
 これが教師を忙しくした根源なのだが、それ自体は解消しない。それでいて、さらに、新学習指導要領の、アクティブ・ラーニング→「主体的・対話的で深い学び」も着実に実施する、とした上で、「教師の業務負担の軽減を図る」としたら、誰が考えても答えは一つしかないだろう。生徒に関わる人員を増やすことだ。そして、教師がやる必要のない仕事から、教師を開放することだ。
 以下に、「まとめ」から、現在学校がやっている仕事の中から、<基本的には学校以外が担うべき業務><学校の業務だが,必ずしも教師が担う必要のない業務><教師の業務だが,負担軽減が可能な業務>の三つに分けたところを引用する。長くなるが、現在教員がやっている仕事はどんなものか、見通すためにも便利なので。

<基本的には学校以外(地方公共団体,教育委員会,保護者,地域ボランティア等) が担うべき業務> ①登下校に関する対応,②放課後から夜間などにおける見回り,児童生徒が補導されたときの対応,③学校徴収金の徴収・管理,④地域ボランティアとの連絡調整については,基本的には「学校以外が担うべき業務」であり,その業務の内容に応じて, 地方公共団体や教育委員会,保護者,地域学校協働活動推進員や地域ボランティア等が担うべきものと考える。

<学校の業務だが,必ずしも教師が担う必要のない業務> ⑤調査・統計等への回答等,⑥児童生徒の休み時間における対応,⑦校内清掃については学校の業務である。⑧部活動については,学校の判断により実施しない場合もあり得るが,実施する場合には,学校教育の一環であることから,学校の業務として行うこととなる。これらの業務は,学校の業務として行う場合であっても,必ずしも教師が担わなければならない業務ではない。地域や学校の実情を踏まえ,⑤調査・統計等については事務職員等,⑥児童生徒の休み時間における対応や⑦校内清掃については地域ボランティア等,⑧部活動については部活動指導員をはじめとした外部人材,というように教師以外の者が担うことも積極的に検討すべきである。

<教師の業務だが,負担軽減が可能な業務> ⑨給食時の対応,⑩授業準備,⑪学習評価や成績処理,⑫学校行事の準備・運営,⑬進路指導,⑭支援が必要な児童生徒・家庭への対応については,基本的には学校・教師の業務である。⑩授業準備や⑪学習評価や成績処理における補助的な業務についてはサポートスタッフ等が担い,⑫学校行事の準備・運営のうち,児童生徒の指導に直接的に関わらない業務については,事務職員や民間委託等の外部人材等が担うことで,当該業務の本質的な業務について教師が集中できるようになる。また,⑨給食時の対応については学級担任と栄養教諭等との連携による工夫等が考えられるほか,⑬進路指導については事務職員や民間企業経験者などの外部人材等,⑭支援が必要な児童生徒・家庭への対応はスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーなどの専門スタッフが,当該業務の一部について担う方が児童生徒に効果的な対応ができる場合もある。


 このうち「③学校徴収金の徴収・管理」については、小中校で代表的なのは給食費である。この徴収業務は学校がやっている、と言うと、当たり前だと思うだろうか、あるいは意外だと感じるだろうか。たぶん、前者が多いだろう。そうだとしても、平均して小学校で月4,000円、中学校で月5,000円の金額で、ほとんどが銀行口座からの引き落としで行われているので、別に問題あるまい、と思われるかも知れない。
 そう、普通は問題ない、未納者への対応を除いては。文科省が平成25年度に実施した調査から、未納者は0.9%、未納額は全国で推計22億円に上るとされている。
 貧窮家庭で、払う能力がないなら、修学援助と呼ばれる救済措置が用意されている。払うだけの経済力がありながら払わない場合には、無銭飲食と同じなのだから、法的措置に訴えることになるだろう。しかし、この手続きは、どちらにしてもけっこう面倒である。それも学校の仕事とされている、と言うと、今度は驚くでしょうか、当然だと思うでしょうか。……まあ、学校外では、考えたことはない、という人が大部分であろう。
 これを市町村役所・役場やら民生委員やらの仕事にして、学校の業務からは切り離せ、というのがつまり「まとめ」の提言なわけである。特別な予算措置などは必要ないだろうから、すぐにもできそうではあるし(現に既にやっている自治体もある)、実現すればその分確実に教師は楽になる。ということは、面倒な仕事を他の人が受け持つ、ということになり、これは嫌に決まっている。だから実現しない、ということもけっこうありそう。しかしまあ、この程度のこともできないのなら、学校の働き方改革は到底無理、と言わねばならない。
 本当はこの問題を完全になくす方法はある。給食という、日本独特の制度をやめるか、完全無償化すること。後者は、予算が必要、つまり、学校に通う子供がいない人の税金も、そこで使われることが承認されねばならない。前者は、それでは現在給食センターで働いている人々をどうするか、及び、各家庭が子どもの昼食、普通はお弁当だろう、を週日は毎日用意する手間とお金がかかる、という問題が生じる。そのため、とは誰も言わないけれど、近年、知育・徳育・体育と並ぶ「食育」なる言葉が登場し、これも学校が請け負うべき教育活動の一つとされた(そこで「学級担任と栄養教諭等との連携」も必要、ということにもなる)。

【もっとも地域差は既にある。神奈川県では、例外的に、中学校の給食実施率は24%に留まっている(全国平均は88%)だそうで、共産党推薦の横浜市長候補が、中学校給食の完全実施を公約に掲げたというニュースを見たことがある。】

 給食だけにずいぶん字数を費やしたようだが、これは、解決策は比較的簡単に見つかる問題のようでも、これだけの手間が予想されることを訴えるためである。できたら、こういうことを学校に丸投げするのではなく、自分たち自身の問題として捉えてほしい。そうではなく、「そんなのは教員がなんとかすべきなのだ」と言ってすませるなら、教員に過剰労働を強いることになり、それは結局は(教育活動全般の)サービス低下を招くことになる。

 その他については、言うまでもない、という気分なのだが、どうですか? 上の一覧で教師がやっている仕事を代って担うべきとされる者として複数回出てくる(1)事務員、と(2)ボランティア、に即して略述しよう。
 (1)に関しては、そもそも日本では学校事務員の数が世界的に見て非常に少ないことを知っておいていただきたい。高校にはそれでも、事務長という管理職を初め四、五人はいるのだが、小中学校では一人、あるいは〇人というところもある。
 そして現在は、学校に配分される予算の管理・執行が仕事なので、調査・統計、学校行事の運営、(なぜか)進路指導までやるとなると、それだけでもかなりの意識改革が必要になるだろう、なんていう前に。
 何しろ、人員を増やすことが肝心だ。こういうことはもっとずっと前に問題にされ、改良されねばならなかったのだが。平成も終わろうとしている今、その見込みはあるのか?

 (2)児童生徒のためのボランティアは、今は珍しくない。私自身の子どもが通った小学校でも、通学路や校門に立って児童を見守るボランティアの人がいて、ありがたいことだと思う。それというのも、仕事としてやる義務はないのに、やってくれるからだ。
 ここを間違えてはいけない。ボランティアとは元来「自発的な(大元は軍隊への)志願者」という意味だ。やる側の好意に頼ってやるしかないのだから、いくらこちら側が「これが必要だ」と思っても、「やる気がなくなった」と言われればそれで終わり。「できればやったほうがいい」ことならともかく、「やる必要がある」ことなら、補助にしか使えない、ということである。
 だから例えば⑦の校内清掃の指導をボランティアに任せるのはいいのだが、「もうやめます」と言われた場合、「じゃあ、残念ながら、清掃そのものをやめよう」と言えるのか。そうではない、とすれば、無給で善意の第三者に任せらる、だけですませられるわけはない。
 それにつけても、④地域ボランティアとの連絡調整については,基本的には「学校以外が担うべき業務」、というのは気になる。清掃監督もそうだが、登下校指導も児童生徒の問題行動に対する初期対応も、すべて学校の仕事のうちと考えられ、当然のように教師がやっているのだが、これを外部のボランティアでもサポートスタッフでもやるとなると、なるほど、学校との連携は必要だ。学校に何の連絡もなく、勝手にやられたりしたらはなはだ迷惑、だいたい、責任の所在が明らかにならない、とたいていの校長は思うに違いない。
 その連絡調整を外部者がやるとは? 学校の仕事の現状にも、ボランティアなど学校外の人員の組織にも通暁すべき人を、教育委員会事務局に置くということか。今までは教員に指図するのが仕事だったのに、学校運営の実際に、校長以上の関りを持たされるとは。「安給料で、そんなことやってられるか」という気持ちになっても不思議はない。今まで通り教員にやらせりゃいいじゃないか、と
 おそらく、どういう名前でも、学校に教員以外の人員が入り、今教員がやっている仕事をやるというと、予算の点はクリアーしたとしても、その部外者を見つけ、選び、仕事の段取りをつける業務は、やっぱり教員がやるしかないのではないか。そうであれば、多少の仕事の軽減はあるとしても、「仕事を減らすための仕事」が新たに加わることになる。それが現在の仕事より過重ではない、という保証は、残念ながらないのである。

 最後に⑧部活動について一言しよう。普通にイメージされるのは運動部で、野球部とか、サッカー部とか、あるのは知っているでしょう? 中には休みは一年中で元旦だけで、あとの364日は練習に励んでいるような部もあることも、知っている人は知っている。もっとも、近年では、公立学校では一般的にはだいぶ下火になっている実情もあるが。
 それでも、「学校の働き方改革」のために、特に高等学校で、さしあたり最大の障害になるのはこれであることは、ある私立高校の教頭から聴く機会があった。何しろ、部活動が生きがいになっている生徒もいれば、教師もいる。教師の勤務時間を5時として、そこまでで部活動は終わり、とするのも、「そういうもんだ」と慣れてしまえばいいかも知れないが、それまでがたいへんである。
 断っておこう。部活動内部だって、別に天国なのではない。授業などの他の活動以上に人間関係が密になるので、桎梏も大きくなり得る。映画「桐島、部活やめるってよ」に描かれていたように、「いっしょにがんばろう」と励ましあい、この点で心が通じ合っていると思っていた者に、あっさり抜けられ、激しく落ち込み、怒る教師も生徒もこれまで何人も見た。
 それでも部活には、他では容易に得られない魅力がある。教師側から言うと、自分の得意なことを、(何しろ強制ではないのだから)勉強と違って多少は興味があることが前提の子どもに教える。うまく教えられなくても、技術的には生徒より上なのだから、指導者としての地位は揺らがない、ような気になる。しかも、活動内容について、管理職教師や外部からの口出しは、原則としてない。一言でいえば、ガキ大将の愉悦を、いつまでも感じていられる。
 以上を踏まえて「働き方改革」を考えると、部活は、休日を含めた勤務時間外にやっても、学校の業務とするしかない。そうでなければ、厳密には、学校の施設を使うのもおかしいだろうし、顧問教師や生徒が練習で怪我をしたとき、保険がでるかどうかも怪しくなる。一方、前回述べた規定により、管理職がこれを「残業」として命じることはできない。また、指導者を外部から呼んでいる例も、現にあるが、前述したように、いつも見つかるものではない。すると?
 教員がやる場合には、勤務時間外は、ボランティア的な業務(我ながら、なんだかわけがわからないのだが)、とでも考えてやるしかないようだ。いやなら、やらなくてもいいんだ、が徹底すれば、それでよい。
 が、これもなかなか、実現し難い。ある部活の熱心な顧問が転勤して抜けた後に、新たに転勤して来たので、タナボタ式に、いや、この場合はむしろ棚からクソ式に、経験も興味もない部の顧問をやらされるということは、私も経験した。それでも、部員はいるので、潰すわけにはいかず、また、今まで少なくとも公式試合前は夜遅くまで練習していたものを、今年からは必ず5時で終える、とも、日本人としてはなかなか言えず、結果……。
 これ以上は、個々の教員がなんとかするしかないのに、力がなくてなんともできないことを嘆く、愚痴にしかならないようなので、もうやめる。ただ全体として、日本的な学校観の中で、「生徒のために」と言われたら「イヤとは言えない教員」のありかたが、つまり今日の事態を招いたのである。これだけは、多少とも、ご理解願えると有難い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今の先生は年中走っている その2

2018年11月22日 | 教育
テレビ東京ドラマ「鈴木先生」2011

 これからが本題。なぜ、教師の仕事量は近年著しく増えたのか。これを明らかにしないことには、改善もできない。
 答えを一番簡単に言うと、「教育」という営みには限りがない、からだ。この言い方に何やらロマンチックな響きが感じられるとしたら、そこにこそ、恐るべき罠がある。
 そこでロマンチックをできるだけ抜いた言い換えを考えると、教育には、「もうこれで十分。これ以上やらなくてもいい」という限度が一般にない。
 授業をやる。一度の授業で全生徒が内容を理解し、覚える、なんてことはまずあり得ない。あるとしたら、それはもう既に生徒全員が知っていることを、つまり改めて教える価値はないことを教えた時ぐらいであろう。
 新しいことを教え、理解させるためには、まず、教えられる側に「理解しよう」という最低限の意欲がなくてはならないのだが、それは今は言わない。教える側だけに絞って言うと、もちろん事前に十分な工夫が必要だ。事後には、全員が理解したか、その時は理解したとしても定着したか(少なくともしばらくの間は覚えているか)、確認するためには、テストをやらなければならない。
 いや、それ以前に、ただ話を聞いただけで知識が「自分のもの」になるなんてことはほとんど期待できないのだから、何度か練習問題をやらせる必要がある。授業時間だけではそこまでは十分にはできないので、宿題を出す。出した以上は、ちゃんとやったかどうか、チェックする必要がある。
 小テストも宿題ももちろん昔からあった。しかし、どうも今までのでは足りなかったのではないか。現に、中一で習ったことを中三では覚えていない生徒はたくさんいる(いや、それは、私を初めとして、大人になってから中学校の学習内容をすべて理解し、覚えている人のほうが稀なんですが……)。完璧は期し難いとしても、改善ならできるはずなので、「生徒のため」を思えば、もっとやったほうがいい。やるべきだ。ということで、宿題は、次第に増えていき、ほぼ毎回の授業ごとに出す教師も出てくる。
 30人のクラスで、1時限50分の授業を1日に4時限やり、毎回宿題を出して、それをチェックする。「生徒のため」を思えば、このチェックも、おざなりではなく、できるだけ丁寧にやらなければならない。と、したら、これだけでも、1日8時間では絶対に足りない。さらに、担任を持ったら、「連絡帳」に学校での生徒の様子をほぼ毎日書いて保護者に報告したり(中学生の保護者としての私の感想を言えば、あれば確かにありがたい)、「学級通信」をこれまたほぼ毎日出している教師もいる。時間というより、体が二つあっても足りないじゃないかなあ。
 さらに、宿題に話を戻すと、大勢(1クラスほぼ30人だから、4クラスとして120人)の中には、必ずやってこない子もいる。それはなぜか。家庭に問題があるのかも知れないし、本人に理由があるのかも知れない。それは個別に、きちんと対応すべきである。対応のためには、彼らの事情をきちんと把握しなければならない。把握のためには、生徒と個別面談をし、できれば親とも会い(生徒はたいがいいやがるけどね)、時には、家庭訪問もせねばならぬだろう。
 生徒が抱えているものが深刻であればあるほど、一回や二回の調査・対応ではほとんど何もわからず、「教育」は進まない。これはもちろん、「宿題をやらない」というようなものよりもっと重大な、いじめなどに関連しそうな、生徒の生活上の問題についてこそ、言えることである。どれほどやっても、いっこうに先が見えず、立ち竦むような思いをする教師も多い。でも、いじめなどの問題が見えたら、やらない、なんてことは言えない。それは誰も認めない。

【しかし、実際には誰にでも時間的物理的な限界は自ずとあるのだから、「いじめ」などが重大な結果を招いてから検討したら、教師が「手を抜いている」と言えるところも必ず見つかる。そこを、マスコミに叩かれるのである。】

 この状況になったら、「宿題をやってこない」ぐらいにかまっている余裕はなくなる。しかし、「それでいいんだ」とは、誰も、教師もそうでない人も、言わない。「言わせない」圧力が働く。すべての結果、真面目な教師ほど、苦しみ、ストレスを抱えることになる。
 そのうえに、いわゆる学校行事、入学式・卒業式・体育祭・文化祭・校内合唱コンクール・修学旅行・保護者会、などなどの準備と後片付けが加わる。よく話題にのぼる部活動をのぞいても、ざっとこれだけの仕事がある。毎日のように家に仕事を持ち帰る教師がいるのも、全く当然の話なのである。

 このような教師の労働の状況を改善しようとしてぶつかる壁もまた、上述の事情そのものの中にある。
 つまり、教育は無限である。どんなにやっても完璧ということはない。必ず不十分なところが残る。と、いうことは……。
 逆に言えば、手を抜いたところで、さほど致命的な事態にはならない、ということ? だって、どのみち、「不十分」なんでしょう?
 個人的に話で恐縮ながら、私が今よりたくさん学校教育について語っていたとき、よくであった批判が、「それじゃ教師は何もしなくてよいということか」「そんなんじゃ若い教師に悪影響を与えるぞ」というものだった。
 「どういうふうに教えようと、比較相対上で、できる子とできない子が出てくるのは当たり前でしかない」と、自分が言ったかどうかよく覚えていないが(笑)、そうは思っているので、問わず語らずのうちに伝わったことはあるだろう。と言うか、こんなことは、私如きが言挙げする以前に、世の中の大半が知っている。にもかかわらず、ではなくてそうであるからこそ、教師がそれを言うのは許さない、という雰囲気が、教育について語ろうとする人々の中にはある。
 言われてしまったのでは、できない子が可哀そうだ、という以上に、だいたい、そんなことを認めたら、教師は、できない子は放っておくだろう。できる子は、実は放っておいてもできるのだから、やっぱり放っておくだろう。結果、教師は通り一遍の授業以外何もしない、ということになってしまうのではないか。これが私への批判の内容であった。
 率直に認めておこう。この批判には根拠がある。論より証拠、最近はともかく、私ぐらいの年代の人に思い起こしていただきたいのだが、小中高時代、淡々としゃべるだけで板書もろくにせず、生徒が理解したかどうかなんてまるっきり度外視している先生はいなかったろうか? いや、そもそも、音声上で、何を言っているのか、ほとんど聞き取れない教師もいた。
 いやいや、そんなのはまだまだ甘い(?)。戦後も間もない頃には、こんなことがあった。授業時間になっても教師が教室へ来ない。生徒の代表が呼びに行くと、「私、今日は体調が悪いから、皆さん自習しててちょうだい」と言って、どうやら一年間ずっと体調が悪かったらしく、とうとう一度も授業をしなかった。これはさる有名人女性に聞いた、さる名門公立女子高での話である。それでも成績がついたとなると、もう犯罪と呼びたくなりますね。
 急いで付け加えておかねばならないが、この時代でも、どの時代でも、自分なりに学び、工夫して、きちんと授業をやっていた教師のほうがもちろん普通だった。しかし、そうはしなくても、それほど非難はされないほどに、昔の教師はエラかったのである。
 一番恐るべきなのは、それでも別に、社会的に、というか、この学生たちの将来に、さして大きな影響はなかったらしいところだろう。では、学校の、授業の意味は……、教師の意味は……。それでもやっぱりあるんだ、と、教師であり中学生の親でもある私は思っているが、ふと不安になる気持ちはわかる。
 そこで、こういうことがないように、文科省(旧文部省)も、保護者も、「心ある」教員も、締め付けをきつくした結果、今度はシーソーが反対側にブレ過ぎた、そういう面はある。こうなった原因の半ば以上は教員自身にある、と言われてもしかたない面もある、ということだ。
 特別に何かをやる必要はなかった。教員が、普通に文句を言われるぐらい、エラくなくなればいいのである。小中高の教師は、これまた私自身を含め、さほど優秀ではないが、真面目な小心者が多いから、実際に文句を言われる前に、言われるかも知れない、と思うだけでも十分だった。教師は、ごく一部の例外を除き、ちゃんと仕事を、つまり「教育」を、最低でも授業を、やり始めた。
 それはいい、というか当然の話であろう。が、この「仕事」をすぐに過剰なものにする要因がいくつかあった。それもすべては「教育には限りがない」に淵源がある。簡単には、上で述べた通りだが、この機会に、もっと具体的に細かく、いくつかの局面に分けて考究しよう。少々長くなるが、できればおつき合い願いたい。

 まず第一に、日本特有、ではないだろうが、日本では特に強い同調圧力、による競争。
 A先生は宿題を毎日出す。B先生は週に一度出す。C先生はほとんど出さない。この中で一番熱心な先生は誰で、一番不熱心な先生は誰でしょう? 
 それは、たった一つのことがらだけではわからない。C先生は、宿題などやる必要がないくらい、密度の高いよい授業をしていたのかも知れないから。
 まあしかし、その可能性はそう高くはない、と私も思う。A先生こそ最も熱心な教師で、C先生が一番不熱心、と学校内外の人がみなすのは、無理がない。それで、実際に文句を言われる前に、「不熱心な教師」だとみなされるのは悔しいのだから、B先生もC先生も、A先生と同じく、毎日宿題を出すようになるだろう。
 かくしてそれがその学校の「当たり前」になれば、新たに赴任してきたD先生もE先生も、同じようにせざるを得ない。授業の宿題だけではなく、クラス通信でも他の活動でも同じようになり、かなりの過剰負担であっても、「当たり前」にやらなくてはならなくなる。
 そしてまた、教師がやればやるほど、世間の期待も高まって、「もっとやってもらえるのではないか」から「やるのが当然だ」へと進化していく。つまり、最初のうちはやってもらったことに感謝するのだが、そのうちに、やってもらえないことに不満を言うようになる。そういうものなのか。そういうものなのだ。今頃気づいたこっちが間抜け、というだけの話。いや、立ち止まって反省している暇なんてない。最低でも、言い訳はできるぐらいには、やらなきゃ。

【先回りして言っておく。こういう熱心な教師は、感謝されないどころではなく、迷惑がれている場合も決して少なくない。なんせ、宿題が多すぎて、子どもが根をあげて、保護者のほうも、見て、こりゃ過剰だ、と思うことがある。教師のほうでは、自分だってかなり苦労してやっているのだから、そんなふうに思われているとは心外、という以前にあまり気づかない。こういうことも、世の中にはけっこうある。】

 今の教師は、こうした学校内外からの「当たり前」に押しまくられて、馬車馬のように走っている。大量の残業も、教育委員会や管理職教師に命じられたものではない、「自発的」としか言えない、と文科省の役人が言うのを、前出内田良の「教員の残業」では、その冷酷さを憤っている。それは当然でもあれば、ありがたいとも思うけれど、形式的にはお役人がまちがっているわけではない。

【残業を命じることができる活動は給特法で決まっている。臨時または緊急時における、校外実習などの実習、修学旅行などの学校行事、職員会議、非常災害、の4項目で、これ以外の理由で時間外勤務を命じることはできない。】

 私も、生徒会の仕事などで、半月ぐらいの間、10時過ぎまで学校にいたことはあるが、その時、校長・教頭からそう命令されたわけではない。そんなことは気にもかけなかった、と言うのが実際のところ。時間の長さより、この時、非常に気を使わねばならない仕事があったおかげで、ストレスを溜め、一週間ほど入院する羽目になったのは、我ながら一生の不覚である。これはよく取り上げられる部活動の問題に関連するので、後述する。
 管理職は、「自発的」にやるように、巧妙に教師を誘導するのだろう、と思う人もいるかも知れないが、次に述べることがあるので、それはないだろう。ただし彼らが、教師の労働条件の整備・改善など、今までほとんど頭になかったことは確かだが。これも彼らのせいとは言えない。そんな暇もなければ、そんなことを望まれているとも思えなかったのだから。

 さてしかし、特に何もしなくても大過ないので、逆に「何もしていない」の汚名を返上するために、やらなくてもいいこと、やらないほうがいいこと、までやるのは、文科省や教育委員会のほうが上かも知れない。なんせ、何かといえば「改革」を現場へ押し付けてくるのだ。
 そんなに「改革」すべきことがあるのか。それはあるだろう。何しろ、教育は無限であり、「これでいい」ということはない。どこまでも、進歩を目指していくべきものだ。この高邁な理想を維持することが、つまり文部行政の第一の目的であるらしい。現実は決して理想通りにはいかない。だからこそ、理想の追求は尽きることはない。おかげさまで、学校にハッパをかける仕事も、尽きることはない。
 具体的には、中央教育審議会、略して中教審、というのを組織し、いわゆる有識者に、教育のあるべき姿を議論させ、これをまとめて、教員たちの指針とする。そして、高校は都道府県、小中は市町村の教育委員会は、それに沿って教師を動かすべく仕事をするように求められている。
 かくして、「改革」は最終的には必ず教師の仕事を増やす。当然だろう。どんなに高邁な理想を唱えようと、文科省も教育委員会も、教師をいじる以外の権限はないのだから。

【ちょっと注記。例外はあるけれど、教育委員会とは多くは、自治体の首長に任命される名誉職と考えてよい。1、2年の任期で、最大の仕事である人事=教員の移動を扱う3月を除いて、それともう一つ、いじめ自殺などの大事件が起こった時を除いて、月に一度ぐらい会合を開くのみで、報酬もそれなり、月額一万円以下ぐらいしかもらっていない。モンスターペアレンツが教師を脅すために使う「教育委員会に言うぞ」という場合の教育委員会とは、形式上はここに属している教育委員会事務局で、その中には教師を指導する立場の指導主事という人もいて、実際的に学校を監督してる。以下では、世間一般の用法に準じて、こちらを「教育委員会」と言う。】

 思い起こせば、第一次安倍内閣(平成18~19)が中教審とは別に組織した教育再生会議の頃から、いや、その少し前あたりからか、「教員に汗をかいてもらいたい」なる言葉がよく聞かれるようになった。つまり、この頃まで、委員になる有識者のお歴々も、一般世間も、「教員は汗をかいていない=働いていない」なる認識が普通だったのだ。それというのも、「教員はエラくない」という内容のキャンペーンが政府側から始まり、それは、マスコミの助力のおかげで、全国通津浦々にまで広まった結果である。
 けっこうなことだと思う人もいるかも知れないが、ここでのタイムラグによる現状認識のズレには相当のものがある。「まじめに仕事をする」という点では、前述のように、私が学生だった時代に比べて、今の教師のほうが一般的に確実にエラくなっている。しかし、学校・教師への要求水準はより高まってしまったので、「昔の先生はエラかったが」なんて「昔はよかった節」ばかりがいつまでも流れる。
 本当は、昔の教師がエラかったのは、教師はエラいことにしておこうという世間一般の暗黙の共通了解事項があったからだ。「王様は裸だ!」と、言われてしまえば、それでおしまい。
 しかし教育の本家本元としては、それでおしまいにするわけにはいかない。それでは、自分も終わってしまうから。教師をエラくするために、大いに努めなくてはならない。しかし、そんな努力が必要だということは、今の教師はエラくない何よりの証拠ではないか。これはマズい、ますますやらなくては……。
 この悪(でしょう?)循環のおかげで、例えば教員免許更新制ができ(平成21年度より)、教師たちは十年に一度、30時間講習を受け、試験なりレポートで修了証をもらい、教育委員会へ提出せねばならなくなった。やらねば失職するのだから、これはもう仕事と言うしかない。しかし教員免許は「私的資格」だからと、費用は個人負担、講習へは年次休暇を使って、交通費も自前で、行かねばならない。つまり、実質的に仕事が増えて、給与は減った。こんな仕打ちに唯々諾々と甘んじている教師はエラいのか。「だらしない奴らだ」と嘲笑されるのがオチではないだろうか。
 関連してもう一つある。従来からの官製研修の中に、教師になった最初の年にやる初任者研修と、なってから十年目にやる十年次研修があった。後のほうは、大学から教職までストレートに進んだとすると、三十三歳になる年にやることになる。最初の教員免許更新の齢は三十五歳。講習は二年前から受けられるので、ちょうどこの二つが重なるのである。
 この状況に鑑みて、十年次研修のほうは廃止しようか、という声も少しはあった。が、今は全くない。何しろ、例えばアクティブラーニングを軌道に載せるために、研修はたくさんやらなくてはならない、というのが今の教育行政の大方針なのだ。

【アクティブラーニングとは、生徒が主体的能動的に学習に取り組む、というもので、実は、「自ら学ぶ力」として、「ゆとり教育」の中核にあった考えでもある。そのバカらしさは、当ブログでかつて夏木智が簡にして要をえた解説をしているので、そちらをみてもらいたい。】

 中教審の言うことなど、雲の上の立派なお題目であって、雲の下で生身の人間(生徒)とかかずらうのが仕事の学校とは関係ない、と言えないことはない。でも、これによって学習指導要領が改定されたら、もう無視する、なんてわけにはいかない。
 例えば「総合的な学習の時間」は時間割に組み込まれた(平成12年)。そうである以上、やることを考え出さねばならない。と言って、大した予算はつかないのだから、そうたいしたことができるわけはない。いや、けっこうまとまった金額が下りて、「研究指定校」になどなったらそれこそたいへん、ちゃんとした計画のもとにきちんと実行し、一定の成果を挙げたというストーリーの報告書を作成せねばならなくなる。この作業は「作文」と呼ばれている。しかし、机上だけですむものではない。指導主事が訪問して監視、いや、観察・助言することもあるんだし。
 この計画・実行から文書化までをやらせ、チェックするのは、主に、教頭・副校長、それに最近は主幹教諭というのもできた(私は実物を見たことはないが、いることはいるらしい)、全部まとめて中間管理職の仕事になる。研究指定校はうまく免れたとしても、上から降りてきた改革・改良案に沿ってどれくらいちゃんと仕事をしているものか、調査し、結果をまとめて報告する仕事は、近年増える一方で、これも中間管理職が中心になってやらねばならず、結果彼らの勤務時間は増える一方。もっとも、文科省の理念にどれくらいまともに取り組むか、各教育委員会によって温度差があるので、ここでの仕事量の多寡には地域差は大きい。
 ところで、ゆとり教育はさんざん批判されたのに、その特産物だった総合的な学習の時間は、週に一時間は残ってしまった(従来、小中ではほぼ週に二時間)。これは、学校というところは、一度始めたものはなかなか無くせない、ということの実例である。理由は、すぐにすっかりやめてしまったのでは、それまでの努力も、金も、すべて無駄だったとあからさまに示すことになるので、それはどうも忍びない、という、まことに日本的な心性に依るものらしい。
 現場としては、これまた迷惑な話だ。まさかもう「研究」を命じられることはないだろうが、無駄な時間とはっきりわかってしまったものを、なんとか扱わねばならないのだから。
 ただ、「ゆとり教育」にはまだしもマシな点があった。「円周率はおおむね3、と教えてもよい」と、「主体的に学ぶ」ように導く代わりに、教える知識量は、3割がた減らしてもよい、と、バーターも視野に入れていたから。おかげでこの方針は非常に評判を落として、短期間で挫折したのも、象徴的だ。教える側の手間や時間など、考慮するのは本末転倒。自然にそう感じられている。
 その後の平成20年の答申では、知識も、自ら学ぶ力も大事だ、としていることは以前に述べた。それは、どっちも身につけられるるなら、それに越したことはない。あくまで、教える側の労力を度外視すれば、だが。度外視するのが当たり前だ、というのが、今に至るまでの教育言説の大本であり、主流なのである。
 この主流は、「働き方改革」が国会で議論され、現に法律もできた現在、変わったろうか。変わったとして、どういう方向で? これが私から見ると、けっこう怪しい。それは次回に述べます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今の先生は年中走っている その1

2018年10月30日 | 教育


メインテキスツ:内田良氏の各種のネット記事

 「教員は忙しい」と言うと、「何がそんなに忙しいんだ?」とよく問われた。今も問われるだろう。問われてみると、これはなかなか難問であるような気がしてくる。なぜ難問か。個人的な事情はある。私は高校教諭だが、本当に、アブないくらい忙しいのは小中の教師だ。また高校教諭としての私自身は、還暦を過ぎて再任用という立場になった今は、そんなに忙しくない。こういう立場の私が言っても、実感は伴っていないから、あまり迫力も説得力もないのは仕方ない。
 しかし、以前のことを思い出し、また現に学校のありさまを毎日見ている者として言える、もっと普遍的で根本的な問題もある。これをできるだけ、他の職業・立場の人にもわかりやすく説明してみよう。今多忙の真っただ中にいる人々は、こんな文章を綴る時間もないことだし。どれだけ伝わるかはわからないが、35年以上学校にいた者の義務のようにも感じるので。

 教員は忙しい。もうけっこう普通に言われるようになった。しかし、世間の常識にまではなっていない。まず、現状を端的に示す指標を挙げよう。

(1)今年9月27日に公表された文科省の「教員勤務実態調査(平成 28 年度)集計 【確定】値 】」中の「教員の1週間当たりの学内勤務時間(持ち帰り時間、及び土日の出勤分は含まない。)」によると、教諭の平均週当たり勤務時間は小学校で57時間29分、中学校では63時間20分。公立学校の勤務時間は1日7時間45分、1週38時間45分だが、労災の認定に使われる法定労働時間1日8時間、週40時間を基にしても、中学校教諭は23時間20分の超過勤務をしていることになる。
 過労死の認定基準として使われる月80時間の超過勤務時間は、月4週間と考えるから週に20時間、中学校教師は平均でこの数値を軽く超えている、ということである。月にすると93時間20分。「働き方改革関連法案」の時に争点になった「繁忙期」の限度月100時間(1日につき5時間の超過勤務)に近い。
 というか、上の数値は平均なのだから、中には月100時間を超える超過勤務を、何か月もこなしている人はたくさんいる。「いつ過労死してもおかしくないんだが、ちゃんとそう認定されるかな」なんて軽口を叩く元気があるうちはまだいい、という感じで。もちろんそういう人は小学校にも、高校にもいるし、副校長・教頭という中間管理職は、小中双方とも週当たり勤務時間で63時間を超えている。しかもどの場合にも、持ち帰ってやる仕事の分や休日分は含まれていない。
 またこの調査をした対象期間は10~11月なので、「教師には夏休みがあるはず、その時期は、休みではないにしても、何しろ通常の授業はないのだから、もっとずっと暇なんだろう」と思う向きもあるかと思う。しかし、そんなこともない。
 少し古い資料になるが、平成18年(2006)度で、教師の8月の勤務時間は、確かに他の月よりは短いが、それでも8時間を超えている(内田良「夏休みも残業 教員の働き方における「閑散期」という危うい想定」)。そして後の9月~翌7月の間は、過労死ラインとして厚労省も認める「1カ月100時間超または2~6カ月の月平均80時間超の勤務外労働」を軽く超えて働いているのだ。
 さらに特筆すべきなのは、前回の調査時平成18年度に比べて、小・中、校長・教頭(副校長)・教諭のすべての立場で、勤務時間が増えていることだろう。ここでも中学校教諭が週当たり5時間14分増、つまり1日1時間強の増加、とダントツの増え方をしている。
 この10年の、マスコミを賑した、というよりは他にネタがないときには穴埋めとしては重宝に使われた教員バッシングやら、平成12年の東京都を皮切りに暫時全国で実施されるようになった教員評価の成果(!?)をここに見ることができるかも知れない。しかしそれも含めて、もともと学校というところは、仕事を減らすのが難しいところなのだ。それこそ問題の根幹なので、後述する。
【ここへきて不安になってきたので、付け加える。教師はいくら働いても、残業手当がつかないことはご存知ですか? 昭和46年制定のいわゆる給特法によって、「教員の勤務態様の特殊性をふまえて」、公立学校の教員については、時間外勤務手当や休日勤務手当を支給しない代わりに、地方公務員の給料月額の4パーセントを教職調整額として支給する、と定められているからだ。
 これは不合理ではないか、一律4%の増額はやめて、他の公務員のように、時間外勤務手当、いわゆる残業手当を払うべきではないか、という議論も、平成19年度の中央教育審議会答申「今後の教員給与の在り方について」がまとめられた時などにはあった。しかし、上のような状況でそんなことをしたら、全国総額で年額兆に達する金額が必要になることが察せられて、すぐに沙汰止みになった。
 つまり、大雑把には、小中高の教員約100万人が、平均で1人当たり年100万円分の残業を無給でやっている、ということである。と、すると、大した金額ではない、むしろ安いくらいだ、と私は思うが、そう思う人は世間にはそう多くない。
 現在のところは、上述の教員評価に依って、上位の教員の昇給率や勤勉手当(ボーナス)を増やし、下位の教員のを減らす、というような措置が東京都や大阪府などで実施されているのがせいぜいである。】

(2)教員と他の労働者の比較は簡単にはできない。「月100時間以上の残業なんて当たり前だ」という業界・業種もあるだろう。しかし、それが世の勤労者一般的な姿であるとしたら、それこそ喫緊に改革すべき事態だということになる。が、教師以外のサラリーマ一般は、幸いにして、そういうことはないようだ。
 本年の7月10日、総務省統計局が「我が国における勤務時間インターバルの状況-ホワイトカラー労働者について-(社会生活基本調査の結果から)」という調査研究結果を公表している。【この場合のインターバルとは、ひと続きの勤務時間から次の勤務時間の「間」を意味する。勤め人にとっての、睡眠を含めた余暇・休息時間全体のこと。1時間の休憩時間を挟む9時から18時までの8時間勤務なら、就業終了時刻の18時から翌日の就業開始時刻の9時までの15時間が勤務間インターバルとなる。】その冒頭近くの「要約」にはこうある。

平成28年の勤務間インターバルの状況
・「14時間以上15時間未満」の人が21.7%と最も多い
・「11時間未満」の人は10.4%
・「教員」では「11時間未満」の人が26.3%と多く,ホワイトカラー労働者全体の約2.5倍の割合
5年前と比較した勤務間インターバルの状況
・「11時間未満」の割合は0.4ポイント上昇
・「教員」では「11時間未満」の割合が8.1ポイント上昇


 これを言い換えると、教師(とはどの範囲かはわからないが、義務教育年限中の教師は確実に入っているだろう)は4人に1人の割合で1日に13時間以上(8時間+5時間)勤務していることになり、それは割合からして他のホワイトカラーの2.5倍になっているし、また近年急速に増加している。「教員は他のサラリーマンに比べたらヒマだ」とは到底言えないことは明らかであろう。

(3)「教師は、学校にいることはいても、実は仕事をしていないんじゃないの」とまで言う人もいる。ここまで言われるのも教員という仕事の特質かも知れず、また、なんとしても「教師はちゃんとやっていない」と思いたい人もいて、その場合にはどんな説得の言葉も役に立たない。それは承知のうえで、反証は挙げておこう。
 昨年の3月26日、内田良が『Yahooニュース 個人』に「「休憩できない教師」の一日」という記事を書いている。実は、これを読んで私もやっと思い出したのだが、6時間以上8時間未満の労働時間なら、中途に最短45分の休憩時間を入れなくてはならないことは、労働基準法に明記されている。公立学校の勤務時間が7時間45分になっているのは、中途に1時間も休憩を与えたくないから、というのも理由の一つだろう。
労働基準法第三十四条 使用者は、労働時間が六時間を超える場合においては少くとも四十五分、八時間を超える場合においては少くとも一時間の休憩時間を労働時間の途中に与えなければならない。
2 前項の休憩時間は、一斉に与えなければならない。(後略)
3 使用者は、第一項の休憩時間を自由に利用させなければならない。】

 高等学校では、この45分はいわゆる昼休みが充てられている。と言っても、この時間、生徒が喫煙その他の悪さをしないように、週に一度ぐらいの巡回当番が義務付けられている学校も多い。
 それくらいは何でもない、と私ともあろう者が思わず考えてしまいそうになるのは、小中の教員で、学級担任となったら、この時間は給食指導、つまり教室で児童生徒といっしょに給食を食べる時間なのだ。これも、「子どもと一緒にご飯を食うなんての、仕事じゃねえよ」と言う人がいそうだ。30人のぐらいの子どもにおとなしくご飯を食べさせるのは、「おとなしく食べさせる」が義務化されている以上仕事なのであり、しかも場合によってはけっこうむずかしい仕事だ、と言っても理解も想像もしようとしない人は、もうこれ以上読まないでください。
 小中学校ではもちろん仕事だとされている。しかし、そうすると、休憩時間はどうなる? 授業の後の、いわゆる放課後の、3~4時代に充てられることが多いようだ。終業時間は5時前後なのだから、中途休憩にしては後に寄りすぎているきらいがあるが、そんなことより、ほとんどの場合、この休憩時間に休憩している教員はいない。有名無実と言いたいところだが、そもそもこの「休憩時間」の存在を知らない教員も多く、そうなると「有名」ですらない。ごく普通に、部活動やら、下校指導(児童生徒が安全に帰るように、時には学校外で、見守る)、宿題の点検などの仕事をする。即ち、法律違反の状態が、ごく一部ではなく、大半の公立小中学校の現状なのである。
 内田によると、事態はさらにもっと深刻で、昼食は5分か10分で済ませ、トイレへ行く時間も満足に取れない教員も決して珍しくはないそうだ。
 彼の別の記事「教員の残業 文科省「自発的なもの」 過労死事案から教員特有の厳しい労働状況を明らかにする」に、一昨年度、富山県の中学教師がくも膜下出血で亡くなった事件が出ている。この人が特別に過剰な仕事を抱えていたわけではない、と同僚の教師たちは言っているそうだ。「教員の過労死については、公立校に関して10年間の認定者数が63名であること(4/21 毎日新聞)が、今年4月に明らかになったばかりである。それ以外には、過労死の実態はほとんどわかっていない」。過労死の認定にはいくつかの基準があり、例えば長年の持病があったりすると認められなくなったりする。この63人以外にも、学校の仕事の忙しさが主因で亡くなった人は、たぶん少なからずいるだろう。

 するとどうなるか。何より、教員志望者が減る。「公立小学校の教員採用試験の倍率は2000年度は12.5倍で、2017年度は3.5倍に激減。一般に倍率が3倍を切ると合格者の質が担保できないといわれているという」(『週刊ポスト」本年8月10日号)。それは、こんな過酷な労働環境に好んで飛び込む人なんて、そんなにはいないだろうとたやすく予想される。他に職が見つかる気の利いた人から逃げ、残るのは私のような気の利かない者だけになることだって、十分にあり得る。公立学校に(実は私立でも、ブラック企業化しているところがたくさんあるようだ)子どもを進学させる予定の親御さんにとって、それは困ったことではありませんか?

 さて、それでは教師はなぜそんなに忙しいのかを考察することで、問題解決のヒントだけでもつかむのが今回の眼目だったのだが、また悪い癖で、その部分はだいぶ長くなりそうなので、それは次回に回すことにします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

迷路の中の学校

2018年07月26日 | 教育
メインテキスト:滝川一廣『子どものための精神医学』(医学書院平成29年)


 本年7月15日、著者を招いて本書の読書会を開いた。レポーターを引き受けてくださった学習院大学教授伊藤研一氏が呼び掛けて下さったこともあって、この会としては異例の参加者数となり、内容も、たいへん充実していた、と少なくとも私には思われた。
 私が滝川氏を知ったのはけっこう古く、小浜逸郎氏を介してだった。1980年代後半、即ち昭和末期頃から、臨時教育審議会(昭和59年)を筆頭に公的な教育の改革が叫ばれたのだが、それにも、世間一般の教育言説にも違和を表明するいくつかの学校論が出た、滝川氏はその最後のあたりに、精神医学の分野からここに加わった(と、またしても、私には思われた)。
 因みに、この時期に出た上に属すると思しき書籍を列挙しておく。自分のも入れるのは、図々しいと思われるだろうが、ご容赦ください。

 昭和58年 佐藤通雅『<教育>の現在』(砂子屋書房)
 昭和59年 佐々木賢『学校を疑う―学校化社会と生徒たち』(三一書房)
 昭和60年 小浜逸郎『学校の現象学のために』(大和書房)
 平成元年 由紀草一・夏木智『学校の現在』(大和書房)
 平成2年 諏訪哲二『反動的! 学校、この民主主義パラダイス』(JICC出版局)
 平成6年 滝川一廣『家庭のなかの子ども 学校のなかの子ども』(岩波書店)

 これらはバブル期に露わになった学校関連問題、不登校・いじめ・家庭内暴力・校内暴力、などを考察し、日本社会及び意識の構造的な変化に突き当たった、という共通点がある。高度産業社会の到来とか、個人化の進展とか、人によって呼び方はまちまちだったが、一番簡単に言うと、日本人はお金持ちになった。金満家に相応しい資質やら行動様式は、貧乏だったときとは当然違う。それはそのまま、「子どもはどのように成長する(ことが期待される)か」の課題に影響し、当の子ども自身の発達の方向(とされるもの)にバイアスをかける。そこで何かが起き、前掲のような問題として現出した。
 以下、敬称は略します。

 当ブログでは既に、滝川の前著『学校へ行く意味・休む意味 不登校ってなんだろう?』(日本図書センター平成24年)を取り上げて、次のことは述べた(「子どもはどこにいるのか その6」)。
 特徴的な指標は二つ。
①高校進学率。戦後一貫して伸びてきたが、昭和50年に90%を越え、以後漸増、というか、現在まで下がることはなかった。
②長欠率。【文科省は、経済上あるいは健康上の問題など以外の、あまり理由が明確でないままに学校を年間50日以上休む児童生徒を「学校ぎらい」と名付けて、昭和41年~平成2年の間学校基本調査で統計をとっている。その後は年間30日以上が指標となり、また平成10年以降は「学校ぎらい」に代わって「不登校」と言われるようになった。】長欠率は小中学校合わせて昭和41年度の0.11%から年々減り続けて昭和47年度の0.07%で底を打つ。その後52年度から上昇に転じ、平成10年度の0.89%に到達して、不登校は大きな学校問題と考えられるようになった。
 この二つを見れば、高校進学率が上限に達したのと同じ時期に、不登校(←学校嫌い)の増加が始まっていることはすぐにわかる。ただ、統計はないけれど、戦後すぐの長欠児童・生徒数は、今より多かったろう。それは主に、貧しさのため、子どもを学校にやる余裕がないことに因っていただろう。52年以降の不登校には、もっと別の要因が働いているはずである。
 一番根本まで遡って考えると、子どもが学校へ行くのは決して「当たり前」のことではない。もっとも、フィリップ・アリエス風に、「子ども」とは近代の産物だと考えるならば、それは学校とともに生まれた人工的な期間であり、学校なしにはあり得ない、とも言える。「学校」とは、社会に出る前の準備期間としての「子ども時代」を確定する制度なのである。
 必ずしも個々の子どもの自然な性向に即したものではないから、「学校嫌い」が一定程度出るのは、それこそ自然なことでしかない。多くの男子は野球が好きだが、中には嫌いな子もいる、というふうに。【大部分の「教育学」はここを認めない。認めないために存在する、と言っても過言ではない。だから、現実に対応することは決してできない。】
 では、昭和52年以降、それが、1%以下ではあっても、目に見えて増加したのはなぜか。
 まず、ほぼすべての子どもが高校まで行くのが当たり前になった時代、学校へ行くことの特別な意味など感じられなくなった。「学校へ行かないと将来困る」と大人は言うけれど、具体的にどう困るのかまでは誰にも言えない。いや、言える? 「学校へ行ってないと馬鹿にされるばかりだ」、と? そうかも知れない。しかしそれは、「子どもは学校へ行くのが当たり前」になった結果なのだ。なぜ当たり前になったのか。それが当たり前でなかったとしたら、世の中は困るのか? どんなふうに? これを個々の子どもに納得させるのは容易ではない。
 現在でも、大半の大人は、学力ということなら、「読み・書き・そろばん」(新聞記事程度の文書の読み書きと四則計算)ができれば十分なのである。むろんそれだって、学校なしで、ほぼ全員ができるようになるかは(ならない、とも言い切れないが)、疑問ではある。しかしそのためだけなら、小学校過程までで十分。その後、中学・高校の六年間はいったいなんのためのものなのか。
 世の中の側から見れば、高等数学ができる者も英語が理解できる者も、一定はいないと困るけれど、全員にそれは期待できないし、現に期待していない。すると、この一定程度以外の、半数以上の子どもが中学校以上の学習をする意味はなんだろう。それはわからない。わからない以上、無理をして、いやな思いをこらえながら学校へ行くなんて、理不尽と感じられても不思議はない。
 急いで言わねばならないが、現在の学校でもよく聞かれる上記の疑問は、生徒にとって悪く働くだけとは限らない。例えば将来の職業は大工、と決まった青少年が、釘を打ったり鋸を引く訓練をするのは、将来確実に役に立つ。もちろんそれは大工になるなら、の話であって、他の職業については全くそうではない。「いや、人間身に付けた技能は、いつなんどき役に立つかわからないものだ」とは言えるけれど、それは学校の勉強も同じことだ。むしろ、さしあたりなんの役に立つのかわからない知識だからこそ、応用範囲は広い、ような気がする。さらに、大人とは別次元に生きる「子ども」にとっては、将来の職能とは直接結びつかないところが相応しい、ようにも見える。
 従って、学校のカリキュラムを、部分的にいじろうとする試みは、昔から今まで絶えることなく続いているが、リベラルアーツに由来するいわゆる主要五教科(国数理社英)は基本的に不動である。それは、「子ども時代」を楽しもうとする子どもにとっても有利なのだ。学校の勉強なんておよそつまらない、と思いながらも、気楽な学生生活を送り、学校が要求する学力の水準(多くの学校で、文科省の学習指導要領の水準をはるかに下回っている)は、その場限りでも(テストの時だけでも)一応クリアできる子どもにとっては。
 このような意味・価値の二重性は、この種の話をしようとするときには至るところに現れる。面倒くさいでしょうが、できるだけつき合ってください。

 より深く、現在特有の学校問題を理解するために、滝川の発達理論はたいへん役に立つ。下記の図は、本書の心臓と言うべきグラフで、成人千人の精神発達の分布状況を座標上にプロットしたもの。

(本書P.169)

 まず、発達の指標として「認識」(Y軸)と「関係」(X軸)を取り上げる。前者に関する代表的理論家はピアジュ、後者はフロイト。この二人の説をこんなふうに関連付けて使うことは、精神科医にとって驚くほど大胆な発想であるらしい。
 この相違は次のように考えて大過なさそうだ。「認識」とは、この人物が「ママ」であり、こちらは「パパ」である、と知ること。「関係」は、もっと進んで、この人は自分にとっては「ママ」だが、「パパ」にとっては他の何か、「妻」というような存在であることまで知ること。言わば人間関係の網の目の中に「自分」を含めた世界を位置づけること。実際は、これができて初めて「自分」というのもまた理解されたことになる。
 人間はこのX,Y両極の間のベクトルZ軸に沿って発達するものであろう。この二分野は互いに支え合っているので、どちらかの分野だけが突出して高くなったり低くなったりということはあまりない。しかし、より重大なのは、各人の発達段階は、Z軸を縦の中心線とした楕円形にほぼ散らばること。その中心点Tは、X軸とY軸のちょうど中心にも位置し、ここに近い者が「定型発達」、いわゆる「普通の人」で、当然ながら数が多い。右上に行くほどまばらになり、これは「優秀な人」である。
 問題は左下のほうだ。発達に遅れがある、ということになる。それは、「認識」の分野より、「関係」の分野のほうがより深刻である。滝川によると、この部分に質的にも量的にも最も重大な発達障害があり、症状名としては「自閉症スぺクトラム」とか「広汎性発達障害(PDT)」と名づけられている。図中のA,B,Cの領域にはより細かい診断名がついている。
A→高機能自閉症。もう少し認識・関係両分野が発達すれば普通の人。
B→自閉症。
C→アスペルガー症候群。認識能力はけっこう高いのに(知能テストではよい点数を取ったりする)、関係、中でも一番複雑で一番重大な人間関係は苦手。時に天才的な能力を発揮すると言われ、アインシュタインはアスペルガーだった、なんぞという話を聞くと救われる思いをする人もいるだろう。が、もちろん、アスペルガー症候群の人がすべてアインシュタインになれるわけではない。

 障害そのもののことはしばらくおいて、私の主たる関心領域である学校問題に引きつけて述べる。本書では最後の部分で集中して論じられている。
 現在の二大問題、不登校といじめとは、いずれも人間関係上の病と捉えてよい。端的に言って、学校内の人間関係をうまく処理できないと、周囲から感じられた者が、しつこいからかい・いじめの対象になる。そして、その結果か、あるいは周囲が何かする前に学校での居場所がないと当人が感じた場合、不登校になる。後者が増加したのは、人間関係に関する能力が重要性を増し、その分難しさも増えたことの直接の結果なのである。
 これまた今まで何度も述べてきたことだが、この際もう一つ重大な指標がある。戦後日本の産業構造の変化。具体的には、第一次産業(農林水産など)から第三次産業(最広義のサービス業)への就業人口のシフトが挙げられる。昭和25年(1950)には第一次産業が人口比48.6%、第三次産業が29.7%であったものが、35年(1960)には第一次32.7%、第三次38.2%と逆転している。その後もこの増減の傾向はずっと続き、平成27年(2015)には第一次4%に対して第三次は71%に達している(国勢調査に依る)。
 産業別人口割合の中で第三次産業が急激に伸びて行った昭和40年代こそ、高校進学率も併せて伸び、不登校率は下がっていった学校の黄金期だった。サラリーマンになり、かつそこで成功するためには、学校へ行くことが不可欠と感じられたから。しかし、誰もが高校までは行くことも、サラリーマンになるのも当たり前になれば、学校なんてそんなにありがたい場所とは感じられなくなる。これが前述した、昭和50年以降に起きたことである。
 ただしかし、それでも、第三次産業においては、人間関係の処理能力こそ最も一般的に、多大に求められる事実も一方にはある。これは日本の学校の得意技と言える。2015年に実施されたPISA(OECDによる学習到達度調査。十五歳児を対象として、3年に一度実施)で新設された「協力して問題解決する力」(2017年発表)では、日本は二位、OECD加盟国の中では一位になっている(全体の一位はシンガポール)。
 これについてはいろいろなことが言われているが、次の二つと関連があることは否定できないところだろう。
①日本人は「和を以て尊しと為す」。元来、個人の突出した能力より、集団で何かを成し遂げることを喜ぶ。
②日本の学校では主に学校行事(体育祭、文化祭、など)を通じて、生徒同士で協力して何かを成し遂げる機会を伝統的に保持している。
 それならめでたいだけの話かと言えば、そうはいかない。②の部分で他の生徒とうまくやれず、葛藤と挫折を体験する子は必ずいる。それが一過性で済むなら、成長のための苦い薬と言えるかも知れない。
 より問題なのは、普段の、「皆で一緒に」何かする目的など特にない、普段の学校の日常なのである。グループ学習の手法で、学習に共同性を持たせようとする試みは昔からあり、一定の成果を収めることもあるが、学習とは所詮、個々人の生徒が何をどれくらい理解したかにポイントがある。そのうえ、前述のように、学習内容そのものにはたいした意味は見出せなくなるとしたら?
 それでも、教室内の人間関係は残る。日本はおそらく、小学校から高校まで、基本的にずっと同じ教室内で同じ集団で過ごす時間については、先進国中随一であろう。今学校で求められている人間関係の処理能力とは、同じ地域の、同じ年齢の者が集められているという意味で同質性は高いが、その中にいる積極的な意味など容易に見つからない場で、「他人と適切な距離を保つ」ことで「うまくやり過ごす」ためのものなのである。
 この能力は、将来の企業や近隣との付き合いの上でも生かせるだろう。が、誰もがうまくやれるわけではなく、(例えば私のように)不得手な人間もいて、その数は決して多くはないのだが、けっこう辛い学校生活を送らざるを得なくなる。女子に多い例として、しょっちゅういっしょにくっついていた子と些細なことで揉めただけで、学校に来れなくなる生徒は、たいていの学校に年に一人か二人いる。
 もちろん「些細」というのはこちら(教師)の見方ではある。が、そう反省してみてもたいてい解決策は見出せない。

 学校は変わるべきなのだろうか。
 学校のエートスは近代的な勤労者のそれと連動していて、少なくとも日本では、近代化のために大きな役割を果たした。それを簡単に、具体的言うと、「人工的に決められた時間に決められた場所へ行って決められたことをする」というもので、自然の天候などによって労働の質や時間を変えざるを得ない第一次産業で必要とされるものとは微妙だが決定的に違う。このエートス、というか、「サラリーマンとしての勤労」一般に魅力がなくなると、学校の重要性も薄れて見える。これは滝川その他、最初に述べた学校論の著者たちも夙に指摘していたことで、前述した学校の有難味低下の言い換え。
 だからと言って、ここを変えられるだろうか? 「働き方改革」で「自由裁量制」の労働とやら、言われ出しているようだが、そこでもタイムカードを使おうか、なんぞという話も聞かれ、勤務時間を多様にする、という以上の変革は今のところほとんどないようである。おそらく、ここ当分の間は、大半の人が「企業や役所によって決められた時間に決められた場所へ行って決められたことをする」形態で働くしかないのだろう。ただ、仕事の中身が、人間関係の重要性が高まったものになっただけで。
 だとしたら、学校もまたその形態で生徒を来させるしかないのではないか。つまり、一定の登下校時間とクラスとカリキュラムを児童生徒に「押しつける」以外にはないのではないか。それに従う類の「真面目さ」なら、世間でまだまだ高く評価されているのだし。
 ここにもまた学校に要求されるもの/学校が要求するもの、の意味の二重性がある。服装や化粧で「個性」を出そうとする青少年を、多くの大人が実際は嫌っている。ただ、そういう人はなぜかTVの教育番組などでは発言しない。だけでなく、青少年を直接叱ったりもせず(できず?)、それはすべて学校に預けて、「もっとちゃんとやれ」と文句を言う。さらに、その同じ人が「教師ってのは頭が固いな」などと嘲笑したりする。そんなふうに扱われるまでが教員の仕事なのかも知れない、と思わないでもないけれど、こんな「仕事」ではなかなか成果は出ず、フラストレーションだけが溜まっていくのもまた確かである。
 学習面だけを考えたら、それは、一人一人の子どもに応じた学習法を考えてやった方が、全体として伸びるだろう。しかし、それを充分にやるためには、金が要る。教員を今の十倍にするぐらいの。大人の方々、そんなもん、出す気がありますか?
 そんな気がないなら、学校に、「個性」だの「自ら学ぶ力」だのと、途方もないことを要求するのはやめたほうがよい。その詳細はかつて当ブログで夏木智がきちんと説明している。この時直接槍玉にあげたのは「ゆとり教育」=「新学力観」だが、「個性重視」を明確に掲げた臨教審(昭和59年)以来の改革という名の改悪はすべてやめたらいい。投げやりになっているわけでも、悪態をつきたいわけでもなく、それが現在有効な唯一の「教育改革」だ、と私は信じている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする