由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

福田恆存に関するいくつかの疑問 その7(二元論について)

2019年11月21日 | 文学



【以下に本年11月17日に実施いたしました「福田恆存没後二十五年シンポジアム」での口頭発表に基づき、少し加筆訂正したものを掲げます。当日はまず福田の昭和45年の講演「塹壕の時代」の録音テープを聞いてから、私を含めた四人の講師により発表に進みました。
 以下の記事中の「講演」はこれを指します。この講演録は『文藝春秋』平成7年1月号に発表されていますが、全集未収録です】

 私は最近福田恆存の話をすると、まず、彼は保守主義者ではない、と申します。まして国粋主義者ではない。西洋近代主義者とか、個人主義者とか、言ったほうがまだしも近い。もちろん、「まだしも」であって、そう言ってしまえばやっぱり違うんですけど、それは「~主義」というような固定した呼称が彼には相応しくないからです。それでも敢えて「まだしも」を強調する必要があると感じるのは、福田恆存と言えば戦後日本の保守派の大立者、という思い込みがあって、それがどうもよくない影響をもたらしている、と個人的に思っているからです。
 先ほどの講演中にも、戦時中の御自分を「リベラル」と表現なさったところがありましたが、戦後の福田に関しても、主義、というより、思想的な傾向ということなら、リベラルが多分一番よい。しかし、現在の日本では、個人主義とか以上に、この言葉を使うのはためらわれる。本当に困り者ですからね、今の日本でリベラルと自称している人々は。左翼崩れのことでしょう? 
 それで、福田のような正統的なリベラリストは、リベラルではない、どころか、それに反対の立場のように見えてしまう。ここに、戦後日本の思潮、思想状況の問題点が一番端的に現れているように思います。今回はそれに詳しく立ち入る余裕はないですが、いくらかでも伝わればいいな、と期待しています。

 講演中に「個人の自覚」というものも出てきましたね。日本人には元来これが稀薄である、と。これとか、「自我の確立」とか、私の若い頃にはまだけっこう聞いたような気がするのですが、最近ではどうですか? トンと聞かないなあ、誰かに言ったら、「何、それ?」という反応が返ってきそうな気がするのは、私がもの知らずだからですか?
 そうでないとしたら、それこそ「塹壕の時代」であることの証拠です。右でも左でも、みんな軋轢をいやがる。議論をいやがる。狭い仲間内に立て籠もって、その中でのみ通じる言論を使って、のんびり愉快に過ごせればいい。「それって、本当にそうなのかい?」なんて言い出すのは、その場の雰囲気を壊す、野暮でしかない。
 KYって言葉がちょっと前にありましたね。空気を読まない、っていう。近代的個人というのはKYなんですよ。自分の信念たらいうものがあり、それにあくまでこだわって、敢えて場の空気を読まず、「真実」を追求しようとする。そんな鬱陶しい奴、つきあってらんない、ということに今はなりがちです。
 逆に言えば、他との軋轢、もっと激しくなれば対立、を経験して、個人意識は強くもなり、鋭くもなる。講演中にもこの主旨は言われていたわけですが、もう少し別の角度からこのへんのことに触れられているものを、後年の福田の著作から取り出して、それに即して愚考を述べておこうと思います。昭和55年に発表された「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」の、最後の辺りの文章です。

 (前略)私達はたとへ軍人でなくても、善き国民として「自分を超えたもの」即ち国家への忠誠心を持たなければならない、同時に、善き人間として「自分を超えたもの」即ち、良心への忠誠心をも持たねばならず、その両者の間に対立が生じた時、後者は良心に賭けて前者と対立する自由がある、たとへその自由が許されゐない制度のもとでも。

 できるだけ自分自身に引きつけて、単純に、具体的に考えてみますね。「国家への忠誠心」と言われても、私のような平凡人は、そもそも国家なるものをふだん意識することがめったにありません。せいぜい、税金を納めるとか、交通規則みたいな社会的な決まりは、やっぱり守ったほうがいいな、とかですね。国家なるものを強く意識するとしたら、そういった決まりごとが、どうも当然ではないんではないか、まちがっているんではないか、などと感じられるときです。
 もちろん、その「感じ」が必ず正しいなんていうことはできません。エゴイストというほどではなくても、我々はこの小さな肉体の中に閉じ込められていて、そこから世界を眺めて、いろいろ感じたりやったりするものだ。ごく自然に、自己中心的になる。そして、自分の自己中心性と他人の自己中心性が衝突したとき、その個人同士のレベルですべて解決できる、なんてあるわけがない。ルールを決め、強制力をもってそれに従わせる力、いわゆる権力が必要になります。多数の個人から成るこの社会の安寧秩序を守り、ひいては個人を守るために。そして現在のところ、最も強い権力は国家からくる。国家権力ですね。それも、必要があって存続が認められているものです。
 ごく単純な話ですよ。例えば、皆が自分の気分と都合だけを考えて車を運転したとしたら、これはもう道路状況が滅茶苦茶になって、危なくて運転自体ができなくなる。ここで改めて注目しておきたいのは、権力は個人の得手勝手、つまり自分の気分や都合にのみ従って動こうとするのを制限するものだということ。制限する、とは部分的に否定することです。権力は、個人を否定するものだ。戦後日本では、権力はアプレオリに悪なる、思想、というほどよく考えられたものではないと思いますけど、なんとなくの思い込みがありましたが、一応説得力があるようなのは、これがあるからでしょう。個人と国家とはそもそもの最初から対立の契機を孕んでいるのです。

 一応断っておいたほうがいいでしょう。今のは統治機構としての国家の話であって、国は、それだけの存在ではない。母国、というのは、言語を初めとする文化が、雲散霧消してしまわないように、一定の枠を嵌めて、持続せしめるもので、我々国民はその中で生まれ育って、人となる。そういうものだから忠誠心も湧いてくるのです。このいわば文化としての国家と、政治上の、権力機構としての国家は、意識的にも無意識的にも混同されがちなんですが、なにしろ私たちは、権力には、必要性は認めても、普通の意味での愛着を抱いたりはできない。【私が当ブログで時々開陳している権力―エロス論は、もちろん「普通の意味の愛着」ではありません。】
 できないけれど、必要ではある、のですが、またしかし、権力を行使する側が間違っていることは現実にあります。だって、同じ人間なんですから、先に述べたような限界を完全に免れるはずはないのです。それでも権力は権力として、暴力を含めた強制力を保つ。これは非常に不条理だし、逆の方向から社会を壊してしまうこともあり得る。そう考える自由は個人にはあるし、なければならない。

 ここで注意しなければならないのは、これは「自由」であって、「権利」ではないところです。権利というものは、他人も認めなければ成り立たないんですが、自由は「自らに由る」という字義で、あくまで自分一個の問題なんです。ですから、たいてい無力です。
 例えば、この10月から消費税が10パーセントに上がりましたね。今の時期にそんなことをすべきではない、という人は少数ながら存在していて、私もそう思うんですが、じゃあ「俺は消費税は8パーセントしか払わないぞ」と言って、実行できますか? 残念ながら、私にはできません。できる、という人は、尊敬しますけど、難しいですよね。そういう抵抗が認められる制度はないですから。そんなものがあったら、権力が無効になってしまいますから。言うまでもないことを言いますと、物理的な力からしたら、国家と個人とでは最初から勝負になりませんしね。 
 でも、それくらいなら、個人がどういう批判意識を持とうが無意味ではないか、自由なんてないも同様ではないか、と言いたくなる気持もわかります。

 人間の自由については、さらにもう少し別の困難もあります。先ほど引用した福田の文章の、後の部分を読んでみます。

とはいへ、後者(この場合、国家に対する)の忠誠心は目に見える仲間、同志の集団に支へられてゐるのに反して、前者の(良心に対する)忠誠心は、目の前には見えない、後ろから自分を押して来る生の力の自覚に対する強烈な意識そのものを信ずる以外に法は無い。

 自由を主張すると孤立してしまうんです。KYなんだから、当然なんですけど。

 「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」は、晩年になって右傾化して「戦後を疑う」だの「核の選択」だのを書いた清水幾太郎批判を看板に掲げたものでしたので、ここで例にされているのは、一番先鋭な、戦争の問題です。国家は、危急存亡の時には、国民の中のある者を兵士としてリクルートする権限がある、のでしょう。
 それに対して、この戦争はまちがっているから、【ところで、あらゆる戦争は悪、というのが戦後普通に言われていることでして、その悪をやるのが国家だから、国家は悪なんだ、と言う理路よりは観念連合みたいなものがあるみたいなんですが、理路としてみたら非常に極端な考えであって、そこをあまり深く考えさせないようにするために、平和主義と呼ばれる言論が戦後膨大に積み上げられてきたようです。それはともかく】、この戦争はやらないほうがいいものだから、自分は今回は国家の要請には応じられない、と思ったり言ったりする自由はある。

 と、言っても……ですよねえ。権力からの直接の弾圧はないにしても、いや、あるに決まってるんですが、それは別にしても、周りのあの人もこの人も戦場へ行くのに、自分だけは行かない、と言えるものか。これはよほどの精神の強さが必要になる。他人の目というのも、集団になった場合にはかなり強力な権力として作用するわけでして。
 こういうとき個人を支えるものとしては、「後ろから自分を押して来る生の力の自覚に対する強烈な意識」以外にはない、と福田は言います。ちょっと難解ですね。
 だいたいはこうじゃないでしょうか。我々は、たとえ平凡であったとしても、様々な体験や思索を重ねて今ここにいる。この自分を形成し、未来に向かう力を与えてくれているものは、伝統と言ってはまだ狭すぎる、過去の全体である。それはもちろん自分一個のものではなく、他のとの関わりが不可欠だ。そうであるなら、さっき言った文化としての国全体に、さらには人類全体の巨大な過去に、一筋の細い糸で繋がるものだろう。
 即ち、我々は、今ここの社会の中では孤立するとしても、過去から連綿として続く歴史の中に、連帯を感じることはできる。我々の善悪美醜の価値基準ももちろんそこに根ざしていて、それこそが良心でしょう。だから、

それを信じさえすれば、自己疎外だの、身元証明などと言つて辺りをうろうろ見廻す必要はあるまい。自己欺瞞だと言はれれば、それまでだが、少なくとも、この場合、清水氏の様に過去を振返り辻褄合せをする手数も要らなければ、破綻も起らない、なぜなら、過去と黙契を取交してゐる以上、連続性、一貫性は自づと保たれてゐるからである。

 どうですか? 素直に納得できますか? なぜ「自己欺瞞だと言はれれば、それまで」なのかと言うと、そうではないという証明はできないからです。最初から自分が納得するかどうかだけが問題なんですから。そんなの、インチキか、よくても、自己満足に過ぎない、と言われたら、それはだって、そう思う人には実際そうでしかないんですからね。分かる人にだけ分かる、そういうもんだとしか言えない。
 そういうもんを、敢えてまとめますと、個人というものを成立せしめるためには、ざっと二つのものが必要になる、ということになります。一つには、その個人を縛る制度、もう一つにはその個人を越える価値。普通逆だと考えられているようなんですが、こっちが本道だと、福田恆存は言うのです。納得できますか?

 どうも、こういうことは言葉を重ねれば重ねるほど、「辻褄合せ」のように見えてくるもののように感じます。もっと簡潔に、言える言葉はないものか。
 あるんですね、西洋には。唯一絶対神というやつです。今の社会の全体も、これまでの過去の全体も、すべてを超えるところにある、普遍の、究極の価値。これを信ずるためには、自分という個人は相対的な存在でしかない、と、まずそれを徹底的に知らねばなりません。そう感ずるとき、言わば反対側に、絶対不変なるものが立ち上がるのです。その前では、国家だって畢竟相対的な存在であるしかない。だから個人と国家が対立したとき、国家のほうが必ず正しい、と考える必要はない。
 また、個人は弱いものですから、正しことを知っていたとしても、必ず正しく振舞える、とは限らないのですが、「絶対のもの」を心のどこかで感じていて、そことの距離を気にかけることで、自分とはなんであるか、一番根本のところをはかることができ、また、自らの人格の一貫性を保つよすがになるのです。因みにこういうのが、近代文学が扱うべき近代的個人というものです。

 さてしかし、この日本でこれを言うのは難しい。西洋なら、どんなに信仰心が薄れたとしても、それこそ長い過去から連綿として続いてきたキリスト教の伝統が、生活の中、文化の中に痕跡を留めていますので、一応はピンとくることもあるでしょう。日本は、そんな、絶対不変の唯一神なんて、昔から観念の中になかったですからね。
 ついでに、少しだけ、ついでに言うにしては大きすぎる観念上の問題を申します。
 最近保守派の方々が、キリスト教に対する日本的宗教観の優位をよく言うようです。前者は、あまりにソリッドであって、きついし冷たい。キリスト教徒に非ざれば人に非ずで、奴隷にしてもいいし、殺したっていい。アフリカでもアジアでも南アメリカでも、現実に、そのような考えの西洋諸国による侵略と大量殺戮(ジェノサイド)の被害に合っているわけです。
 それに比べて、多神教の中でも日本は、非常に寛大で柔軟性に富んでいる、と言って喜ぶのもいいが、その代わり、だらしない、というところは意識しておいたほうがいいのじゃないか。この論点は福田恆存に終始ありました。
 先ほど、権力は少なくとも部分的に、個人を否定するものだ、と申しました。一方、個人意識のほうも、権力否定を一つの前提として、ある。そのせめぎ合いのバランスの上に、この世界は常に生成変化しながら、存続し続けているのです。

 福田恆存が最も大きな影響を受けた作家・思想家のD.H.ロレンスのエッセイ「王冠」The Crown(1915年)によると、イギリス王家(と政府)の紋章に描かれている、王冠を乗せた盾の両側に掴っているライオンとユニコーンは、前者が闇と力を、後者は光と純潔を現します(歴史的にはライオンはイングランドを、ユニコーンはスコットランドを示す)。この二者は永遠に対立し、その対立状態において均衡を生み出し、盾の上の王冠を支えているのだ、とロレンスは言います。どちらかがどちらかを滅ぼしてしまうなら、王冠は落ちてしまうでしょう。そして、勝ち残ったほうも、存在意義をなくして、滅んでしまう。

 福田の名訳で知られるロレンス最後の著作「黙示録論」(1930)を参照すると、この両者は集団、それをまとめるための権力、と個人とに読み替えることが可能であることがわかります。二つは相俟って、王冠=人間社会を支えている。ただし、相争うことによって。
 なぜそうなるかと言うと、我々は不完全だからです。不完全なままに、肉体的にも精神的にも、力を拡大していこうとする。しかし力の無限拡大は、結局その肉体なり精神の破滅を招く。そうならないように、相容れないもう一方の力が必要なのだ、とおおよそロレンスは論じています。
 彼によると、西洋でもこれが忘れられ、危うくなっているようですが、我々日本人にはもともとこういう考え方、原理的に妥協不可能な二つのものの、永遠の対立による共存、なんて厳しい思想がどうにも馴染めない。「和をもつて尊しとなす」お国柄ですからね。
 それが直ちに日本の弱点だ、とは言いません。しかしおそらく、前者のような考え方は、個人意識の尖鋭化もたらし、もって近代を生み出したものの一つでしょう。多少は気にかけないと、近代社会がうまく回っていかないんじゃないでしょうか。しかも戦後日本は、ますます「戦い」を意識の表面から消し、そのために各々塹壕の中に立て籠もって、対立する者の姿を見ないようになっているようです。結果、人間は不完全であり、個人は相対的だという観点が曖昧になるため、国家も個人も不定形の、なんだかわけのわからない姿になっている。そう思えます。

 福田恆存は、若い頃の文章では盛んに絶対とか全体とか、言っていたのですが、後年になると、そんなの西洋かぶれにしか見えないと思われたのでしょうか、先ほど見たような、生命とか、自然とか、より抽象的な言葉を使うようになります。
 それとともに、フィクションという言葉もよく使うようになりました。人格も国家もフィクションである、こしらえものなんである、と。こしらえものだからどうでもいい、というのではない、逆に人々は絶えず努力してその一貫性を保つようにするべきなのだ。そうでなければ、すぐに跡形もなく壊れてしまうだろう。
 せめてその自覚からすべてを始めること。これが私が福田恆存から教わったと思える一番大きなことなのです。

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