由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

国際教育の後に

2022年11月30日 | 教育

FIFAワールドカップ2022 11月23日 日本対ドイツ

 日本対ドイツ戦での、歴史的な逆転勝利の後、著名人による以下の二つのツイートが、FBF(face book friends)によって紹介されていたのが目についた。

サッカー・ドイツ戦に勝ってよかったけれど、26人のうち19人が海外チームで活躍している選手ということで、グローバルな世界での戦いを心得ていた事実を、今後、鎖国型人事の日本の企業がどこまで学ぶかですね(猪瀬直樹11月24日)
日本のサポーターがスタジアムの清掃をして帰るのを世界が評価しているという報道もあるが、一面的だ。身分制社会などでは、分業が徹底しており、観客が掃除まですると、清掃を業にしている人が失業してしまう。文化や社会構成の違いから来る価値観の相違にも注意したい。日本文明だけが世界ではない(桝添要一11月25日)

 おかげで、かなり突飛なのだが、「国際教育」という言葉を久しぶりに思い出した。高校の英語教師だったので、いくらかは関係があった。しかし、思い出す値打ちもないことだ、という思いにしか残らなかった。

 国内だけではなく、広く海外にも目を向けるべきだ、なる言説は、きっと明治以来のものだろう。江戸時代の二百年以上に渡る鎖国のおかげで、日本はオクレてしまった、という思いが、その根底にはある。その後、文明国である西欧諸国に追い着け追い越せを目標として、近代日本が発展してきたことは事実だろう。
 大東亜戦争後はこれに平和主義が野合した。国家には可能な限りこだわらず、世界人類の視点から物事を考えていくべきだという。それができなかったのはやはり日本がオクレているからだ、という思いは残った。高度経済成長を経て、GDP世界第二位になって、「目標としての西欧」観念は表面からは薄れたが、まだまだ、何かというと「アメリカでは/ヨーロッパでは」とあちらを持ち出して日本を批判する「ではのかみ」は健在である。それがいつもまちがっているというわけではないが。

 直近の曲がり角は、平成になった1990年代に、グローバリズムという言葉が広く使われ出してからだろう。今から見ると、これは、インターネットの発展によって、世界規模で、瞬時に経済取引が可能になった結果、いよいよ国境の壁が邪魔になった国際金融資本の企てであることは明らかだ。しかし、教育関係では、このハードな面は見ないようにして、相も変わらず日本が進むべき目標としての国際化路線を掲げている。
 因みに文科省総合教育政策局国際教育課が作成した「国際教育の意義と今後の在り方」中の「1.いかなる人材を育てるべきかー国際社会で求められる態度・能力」には次のようにある。

・国際化が一層進展している社会においては、国際関係や異文化を単に理解するだけでなく、自らが国際社会の一員としてどのように生きていくかという主体性を一層強く意識することが必要
・初等中等教育段階においては、すべての子どもたちが、
1.異文化や異なる文化をもつ人々を受容し、共生することのできる態度・能力
2.自らの国の伝統・文化に根ざした自己の確立
3.自らの考えや意見を自ら発信し、具体的に行動することのできる態度・能力を身に付けることができるようにすべき

(後略)

 初頭中等教育、つまり小中高の教師でこれをちゃんと知っている者はそんなにいない。雲をつかむような話としか思えないからだ。それは県教委なども同じこと。といって、何もしないというわけにもいかなかったのだろう、とりあえず、英語教育が、つまりは英語教師がいじられた。国際化とは西洋化だ、とは文科省は言わなくても、それがあたりまえだという強固なイメージはあるし、西洋化のためには英語だ、とこれまた自然に結びつく。第一、それならやれることはあるじゃないか。
 かくて、英語の「話す・聞く・読む・書く」四技能が大事だ、などと言われ、「英語の授業は原則として英語で行う」などというお達しがきた。他方、この頃改名された大学や、新設された学部は、「○○国際大学」とか「国際○○学部」というのが多くみられた。講義はすべて英語で行う、などと宣伝したところもあって、へえ、国内でネイティヴの教授をそんなに集められるもんか、と思っていたら、そんなことはなかった。知り合いがそこの講師に雇われて、彼は海外経験はほぼゼロだったので、今は講義の準備より、英会話の特訓で忙しい、と言っていた。
 これらのあれやこれやは、今はどうなったか、少なくとも私が直接知っている人々は、そんなこと、思い出したくもない、という顔をしている。
 極めつけは、かなり手間がかかるので、ずっと遅れて令和二年度からの完全実施になった、小学校での英語が必修化だ。その成果はまだわからない。良きにつけ悪しきにつけ、大した成果はないだろう、と予測している。

 ただし今回は、英語教育よりその前提の、掴み辛い「雲」の部分、「国際化」について考えてみたい。
 ①の猪瀬直樹氏のツイートが当然の前提としているのは、日本国内の基準はグローバル・スタンダード(国際標準)とズレており、それはよくない、ということだ。だいたいビジネスで勝てないし、というわけで。
 嘘だとは言わない。個人でも企業でも、アメリカやチャイナなどで活動しようとしたら、当然日本とは勝手が違うことが多々あるだろう。そこからくる苦労を減らすための教育、ということになると、本当に必要なのだろうか? それも、国民全員に。
 実際のところ、海外で生活する日本人の数は、外務省の統計によると長期滞在者と永住者を足して134万人ほど、だいたい総人口の1%。もちろん日本にいても、日常的に諸外国との交渉に従事している人は多いだろうし、日本国内だけの話でも、国際化に伴う「時代の流れ」というやつで、生活様式や仕事のやり方が変わっていくことはあるだろう。
 それでも、日本人の全員が「国際化」を気にかけて、それに沿って行動しなければならないということになるだろうか。義務教育で目標の一つにされるのは、社会の普遍的な価値と認められる、ということなのだが。
 だいたい、状況が変わったら、それに合わせる必要も出てくるという、平凡とさえ言うまでもない当り前の話に、良い・悪いはない。「郷に入れば郷に従え」というやつ。英語でもWhen in Rome、do as the Romans doという有名な諺があるくらいだから、日本だけの話ではない。しかし、周囲に合わせることを陰に陽に求められる、いわゆる「同調圧力」の強さこそ日本社会の特徴と言われるのは、きっと本当なのだろう。それだと今後は困る、ということで、上述の、国際社会で求められる人材は「自らの考えや意見を自ら発信し」云々ということになるのだろうが、それなら「これからの時代は国際化」なんぞという、同調圧力のテンプレみたいな言い方は使わない方がいい。
 それに、「郷に入れば~」より確実に、日本にあって欧米にはない観念があって、それこそ「国際社会」なのである。「国際化する」internationalizeという動詞はあって、何かを世界的に有名にする、とか、何かを国連などの国際機関の管理下に置く、などの意味で使われる。前者はいいことであり、後者は良くも悪くもないことだが、いずれにしろ、社会全体を国際化しようとか、国際的な人材を育成しよう、なんぞという発想はない。当然のことだ。前述のように、日本で言われている国際化とは、イコール西洋化ということなのだから、西洋はもともと国際的なのである。少なくとも、日本ではそういうことになっている。
 以上は、大前提、という意識もないぐらい当り前になっている前提なので、深く考えられることもなくひょいと出てくる。日本国内でのみ通用する「鎖国人事」などはもうダメだ、グローバルな世界=西欧世界で活躍するには、もっとそこでの戦い方≒西欧的な基準、を知らねばならない、という具合に。もちろんビジネスや外交の、実際上の必要性はあるだろうが、どこまでいっても善悪の問題ではなく、西欧風の基準・やり方に合わせるべき精神的道徳的義務など存在しない

 ②の桝添要一氏のツイートは、欧米では階層意識が強く、公共の場所の掃除は下層の人がやると決まっているのであって、そこで「自分の使ったところは自分がきれいにする」という「日本文明」は奇異に見られるし、実際に迷惑をかけることもあり得る、という「国際標準」を伝えている。サッカーの観客が上層の人たちだけかはわからないが、それはその場では「観客」として、「上」として扱われるべき、でいいのだろう。
 こういうことを心得ておくのはいい。実はこれは欧米だけの話ではなく、日本以外はたいていそんなもののようで、日本のやり方を真似てサウジアラビアの観客も掃除を始めたというニュースもあったが、かの国の階層差、いや身分秩序は現在のたいていの国より強いようだ。2022年度のサッカーWCの開催地であるカタールは、石油のおかげで、国民はたいてい豊に暮らしているが、その代り肉体労働は、苛酷な環境下で外国人労働者がやっている、という話もある。あるいは、階層意識の乏しさ(ないわけではないが)こそ日本社会の特殊性なのかも知れない。だとしたら、国際化時代を迎えて、こういうことは改めていくべきなのだろうか?
 逆に、日本こそ正しいのであって、諸外国はそれに倣うべきだ、と言ったとしたらどうか、から考えてみよう。桝添氏が言うことが現実にどれくらいあるかはわからないが、階層差を当然の前提にした社会で、それを無視したように振る舞って、それで疑いや失笑を買うのはかまわないとしても、誰かの職を奪うような加害行為になるのだとしたら、慎むしかない。自分が持ち込んだゴミを持ち帰らないだけではなく、できるだけ沢山持ち込んで放置するように心掛けるべきなの、か? だからと言って日本国内でもそうすべき? そんな筈ないでしょう。
 もっと大きな例で、イスラム教国では、日本や欧米の基準からしたら女性蔑視としか見えないこともよくあるが、それを不正として一方的に断罪することはできない。
 要するに、世界全体にそのまま通用するような正義はそんなにあるものではない。それを踏まえると、「異文化や異なる文化をもつ人々を受容し、共生する」なんて簡単に言っても、空疎なだけだ。目下では、うまい「棲み分け」を目指すぐらいがせいぜいだろう。それだって、途方もなく高遠な理想のように思える世界の現状はある。

 さらに付け加えると、「鎖国型人事」はよくないということで、外国籍の人を積極的に雇うのは、企業なら自由かも知れないが、公務員はよしてもらいたい。相対的な価値観が乱立する世界の中で、その「標準」からして、あまりに乏しすぎて、実際に危険でもあると思えるのは、日本の国防意識だからだ。よその正義を力づくで押しつけられないようにするためには、国家の力が必要で、グローバル時代で国境の壁が低くなればなるほど、その重要性は増す。
 もちろんそれと、スポーツや学芸など、純粋にその範囲で使われる知識・技術だけが問題になる分野は全然別だ。今度のサッカー日本代表26人のうち19人がふだんは日本ではなく、外国のチームで活動しているということだが、国籍には関係なく、できるだけ好条件のチームと契約するのは、サッカーでは全く普通である。野球ではそれほどではなくても、野茂英雄から松井秀喜からイチローからから大谷翔平まで、アメリカの大リーグでプレイする日本人の例は少しも珍しいことではなくなった。彼らには、日本人だからといって卑下する様子も、逆に「日の丸を背負う」なんて悲壮な決意も見られない。
 かなり以前に、当時はアメリカにいた新庄剛志が、英会話能力について訊かれたとき、「いやあ、英語の勉強のために来たわけじゃないですから」と、例によってヘラヘラ言っているのを見た時には、私は陰キャなのでこのタイプは苦手であるのにかかわらず、かっこいい、と思ってしまった。彼は、「国際化」なんて全く気にしない程度に国際化して、「主体的に」生きている。海外にいる他のアスリートもそうだろう。正直、羨ましい。
 ただし、そういう人たちも、WCやWBCの時には日の丸の元に集まって、ナショナリズムの視線を浴びて戦う。国とは終始無縁、というわけにはいかない。今の世界は、そういう場所なのだ。

コメント
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