由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

語る私と語られる私と その10(思想と実生活論争の余白に)

2017年04月30日 | 文学
メインテキスツ:「思想と實生活論争」(平野謙・小田切秀雄・山本健吉編『現代日本文學論争史』未來社昭和31年刊所収)
正宗白鳥・小林秀雄「大作家論」(『小林秀雄対話集』講談社昭和41年刊所収)
小林秀雄「正宗白鳥の作について」(『白鳥・宣長・言葉』文藝春秋昭和58年刊所収)



The Last Station, 2009, directed by Michael Lynn Hoffman

【正宗白鳥と小林秀雄の、「トルストイ家出論争」あるいは「思想と實生活論争」と呼ばれる応酬は、昭和11年に行われました。以下に論争文のすべての題目と初出誌を掲げ、本文中では(1)~(6)の番号で表記します。
(1)正宗「トルストイについて」 『讀賣新聞』1月11、12日
(2)小林「作家の顔」 『讀賣新聞』1月25日
(3)正宗「抽象的煩悶」(「文藝時評」の一部) 『中央公論』3月號
(4)小林「思想と實生活」 『文藝春秋』4月號
(5)正宗「思想と新生活」(「文藝時評」の一部) 『中央公論』5月號
(6)小林「文學者の思想と實生活」 『文藝春秋』6月號】

 まず、題材になった事件について略述する。
 1910年11月20日、ロシアの文豪レフ・ニコラーエヴィチ・トルストイが亡くなった。享年82歳。それに先立つ約1ヶ月前の10月28日に彼は領地で自宅もあるヤースナヤ・ポリャーナから出奔している。トルストイ終焉の地はアスターポヴォという村の駅長室だった。ここには現在トルストイ博物館があり、駅はレフ・トルストイ駅と呼ばれている。
 老境に達し、既に世界的な名声を得ていた大作家は、なぜ家出しなければならなかったのか。
 この頃彼は小説家というよりは社会運動の指導者、もっと言えば宗教団体の教祖のようになっていた。自ら望んでそんなものになったわけではない。個人として「人にとって最も大切なものは何か」について思索と研鑽を進めて、ついにすべての真理は福音書にあり、それに反することはすべてダメとする境地に達したのだ。
 『懺悔』(1882年)以降のトルストイの著作にはこの思想が色濃く表現されるようになった。すると、これに賛同する人もけっこうたくさん出てくる。彼らはトルストイ主義者と呼ばれ、その主張を「教え」として忠実に実行しようとする。絶対非暴力主義だから、兵役は拒否する。だけではなく、人民を圧迫するとみられるすべての組織、そのうち最大のものである国家も教会も否定する。一種の無政府主義とも言え、否定した側からは当然弾圧される。トルストイ自身も官憲に監視され、著作はしばしば発禁され、1901年にはロシアの国教であるギリシャ正教会から破門されている。
 このような公権力との争い以上にトルストイその人を悩ませたのは、家族内部の軋轢だった。私有財産否定もこの思想・主義の大きな柱なので、筋としては、伯爵として受け継いだ財産も、「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」などによって得た印税収入も、すべて放棄しなければならなくなる。事実、彼はそうしようとした。
 一方、1862年から連れ添った妻ソフィアには、それは馬鹿げているとしか見えなかった。当然の権利として家族に遺されるべき財産を守ろうとして、夫と対立するに至った。おかげでソフィアは、ソクラテスの妻クサンチッペ、モーツァルトの妻コンスタンツェとともに、世界三大悪妻の一人に数えられている。しかしこの状況では、たいていの奥さんが同じように考えて同じように振る舞うのではないだろうか。
 現代なら離婚と財産分与によってこの関係は終わりになるところだ。離婚は当時のロシアでも、不可能ではないが、かなり面倒だったことは「アンナ・カレーニナ」や「戦争と平和」のピエールとエレンの関係に描かれている。が、それ以上に、トルストイとソフィアの間には、長い年月を経ていて容易に解きほぐせない愛憎のもつれがあった。トルストイ夫妻はこの手段を択ばず、別居さえしなかったので、桎梏はますます激しくなった。
 著作権に関しては1861年以前(ほぼ、「アンナ・カレーニナ」以前)のものは夫人に譲渡し、それ以降の権利はトルストイの自由にするという妥協が成立している(1885年)。しかし91年に夫が自分の手に残った著作権を放棄したことを知ると、ソフィアは怒り狂った。
 毎日顔を合わせる妻が次第にヒステリー染みた言動を亢進させ、自殺を図るのまで見たら、たいていの男は耐えられない。トルストイも、高弟ウラジーミル・チェルトコフらの支えがなかったら、この点での思想実践はあきらめていたかも知れない。
 見方を変えると、ソフィアとチェルトコフとは、トルストイの二つの面を代表し、それぞれの立場での義務を果たすべく迫ってくる存在だった。家長としてのと、社会運動にまで発展してしまった思想の提唱者としての面。彼らのために、個人としてのトルストイは妥協不可能な形で引き裂かれることになった。
 ソフィアはトルストイとチェルトコフとは男色関係ではないかとさえ疑っている。そんな無茶な嫉妬は、トルストイへの愛情がまだ冷めていない証拠ではあっても、事態をいっそう泥沼化させる結果を招いた。トルストイは十年以前からの日記をチェルトコフに預け、それを知ったソフィアは猜疑心に駆られて、夫を攻めたてる、などはその一例である。
 10月27日、自分に隠している文書があるのではないかと疑ったソフィアが書斎を漁っていることを知ったトルストイは、ついに家出を決意したのだった。

 以上の経緯は昭和10年八住利雄・上脇進訳『トルストイ未発表日記・一九一〇年』(ナウカ社)が上梓されて、日本でも広く知られるようになった。これを読んだ正宗白鳥は翌年に(1)の感想を発表した。

廿五年前、トルストイが家出して、田舎の停車場で病死した報道が日本に傳つた時、人生に對する抽象的煩悶に堪へず、救濟を求めるための旅に上つたといふ表面的事實を、日本の文壇人はそのまゝ信じて、甘つたれた感動を起したりしたのだが、實際は細君を怖がつて逃げたのであつた。人生救濟の本家のやうに世界の識者に信頼されてゐたトルストイが、山の神を恐れ、世を恐れ、おどおどと家を抜け出て、孤往獨邁の旅に出て、ついに野垂れ死した徑路を日記で熟讀すると、悲壯でもあり滑稽でもあり、人生の眞相を鏡に掛けて見る如くである。あゝ、我が敬愛するトルストイ翁!

 ここには別に皮肉はないのだろう。白鳥のトルストイに対する「敬愛」は本物であったことは、「文芸はいかに道徳的であるべきか その2」で挙げた、夏目漱石論中の言葉でも明らかだ。彼はここで、思想、殊に西洋思想というと、卑小な日常をはるかに超えたありがたいものと崇める風潮を諷諫したのである。
 しかし、上の一文など、「トルストイのような偉人でも、結局のところ凡夫と変わらない。思想なんて無意味なもんだ」という主旨だと見られる恐れがないとは言えない。
 (2)で、小林秀雄はここに噛みついたのだった。「彼(トルストイ)の心が、「人生に對する抽象的煩悶」で燃えてゐなかつたならば、恐らく彼は山の神を怖れる要もなかつたであらう」。いかにも、ソフィアのヒステリーも、元来トルストイの思想が齎したものだ。
 「偉人英雄にわれら月並なる人間の顔を見付けて喜ぶ趣味が僕にはわからない。リアリズムの假面を被つた感傷癖に過ぎないのである」。これもその通り。偉人の思想というと無暗にありがたがって神棚へ祀り上げるのも、「なに、偉人ったって、俺たちと変わらないのさ」と通人ぶって嘯くのも、同じぐらい幼稚で甘ったれたセンチメンタリズムと言うべきであろう。
 白鳥にもそれはわかっていた。(3)では、「「日記」に對する私の視點を轉ずればさうも云へないことはない」と軽くいなす感じである。
 しかし(2)で小林はまた、次のようにも言っていた。「あらゆる思想は實生活から生れる。併し生れて育つた思想が遂に實生活に訣別する時が來なかつたならば、凡そ思想といふものに何の力があるか」。いかにも小林らしいカッコいいアフォリズムで、この論争中で最も有名な言葉になった、というより、前後の文脈から離れて一人歩きしている観がある。白鳥からして、けっこう簡単に受け取っていたようだ。思想が実生活から訣別してしまってはまずいだろう、「實生活と縁を切つたやうな思想は、幽靈のやうで案外力がないのである」と言っている。
 しかし問題は、思想が先か実生活が先か、というような二分法ではなかったはずである。少なくとも小林には。(4)で「實生活を離れて思想はない。併し、實生活に犠牲を要求しない樣な思想は、動物の頭に宿つてゐるだけである」というのは、先の(3)中の言葉の言い換えであろう。
 つまり、トルストイの悲惨な死こそ、思想によって要求された犠牲の典型例なのである。同様なことは、より小規模で曖昧な形でなら、凡人の身の上にも起きる。人間は食わねば生きられないのと同じぐらい、思想、というよりその前提たる観念なしで生きられる者でもない。そういう厄介な動物なのである。だから一般人でも、離婚もすれば自殺もする。
 さらにまた、トルストイの高邁な理想より、女房のヒステリーが怖くて逃げ出した事実のほうに「人生の真相」を見るというのも、観念の一種であることに変わりはない。

人は生れて苦しんで死ぬだけの事だ、といふ不氣味な思想を、彼が「アンナ・カレエニナ」で實現し、これを捨て去つた事は周知のことだ。(中略)正宗氏が鏡に掛けてみた人生の眞相とは一體何を意味するのか。トルストイは、「戦争と平和」で英雄にまつはる傳説の衣を脱ぎ取つて、凡常なる人間といふその眞相を描いた。然し彼の眞相追及の熱情は、すべての人間は、たゞの人間に過ぎないといふ發見に飽き足りなかつた。(中略)彼の現實暴露は、どんづまりまで行きついてゐるので、夫婦喧嘩が、人生の眞相だなどといふ中途半端なところにまごまごしてはゐなかつたのである。

 理想を実現しようとしても、女房に反対されて、なかなかうまくいかない、そういうところでは所詮誰もが「ただの人」だ。それは「真相」には違いないが、そんなところに留まっているのは、まだ生ぬるいではないか、というわけだ。あらゆる人間は「ただの人」であるが、また、ただの「ただの人」でい続けられるものではない。文学とは、後者の所以にこそ応ずべきものだと思う。が、これを信念として持ち続けるのは日本的風土の中では存外難しいようだ。
 正宗白鳥は、そのニヒリズムの徹底においてかえって、自然主義文学者の中では最もよくこの境地を維持し得た人物だったのではないかと思う。(5)では、自分はト翁の『最後の日記』を読んで、「人生の帰趨」とか「人の運命」とかいう「抽象的煩悶」に思いを致したのを、小林が「トルストイの尻尾を掴へてゐる」などと言うのは、小林こそ自分の言葉の尻尾を掴まえているのだ、と言っている。
 ただし尻尾必ずしも軽んずべからず、とも言われる。妖狐が化身した玉藻前という上臈は、陰陽師阿部晴明(原文のママ)の鏡に照らされて金毛九尾を現し、那須野ヶ原へ飛んで殺生石となった。「ト翁の荘厳な抽象的思想も、『日記』に照らして見ると、殺生石のやうな匂ひがする」。わかりづらい比喩で、後の都合がなかったら引用しないところだが、要するに、思想と実生活が衝突する場こそ、人間臭くて面白いのだ、ということらしい。
 これもまた文学者の観点として真当であろうと思う。戦後の対談で、小林は言っている。「当時、僕にはまだはっきりしていなかったことなんですが、殺生石は正宗さんの憧れだったんですな。あれは正宗さんの思想だ」。これを白鳥は「わからんな。自分のことはわからんな」と返すのみだったが、それには構わず、こう続けている。

 僕は今にしてあの時の論戦の意味がよくわかるんですよ。というのは、あの時のあなたのおっしゃった実生活というものは、一つの言葉、一つの思想なんですな。あなたに非常に大切な……。僕はトルストイの晩年を書ければ書いてみたいと思っているのですけど、書けば、きっと九尾の狐と殺生石を書くでしょうよ。思想なんて書きませんよ。

 小林秀雄は、トルストイの晩年についても、それ以外でも、「殺生石」と言えるような生々しいものは終生書かなかったと思う。題材がドストエフスキーだろうと本居宣長だろうと、彼が描いたのは観念的な思想のドラマであって、例えば下半身の事情のような、いわゆる下世話なところへは、本格的な関心はいかなかったようだ。
 「実生活」の小林は、若いころはたぶん白鳥以上の艶福家で、いわゆる女性体験も豊富だったろうが、それに関しては「女は俺の成熟する場所だつた」云々と、簡潔に抽象的に記すのみだった(「Xへの手紙」)。恋愛小説やら私小説を書く才能ということは別にして考えると、小林は、個々人の実体験には「真実」があり、それをできるだけ正確に言葉にして紙の上に記せば即ち「真実」の記述になる、というような素朴実在論的な立場への反逆を、その文学的営為の最初から抱いていたという事情もここにはありそうだ。
 ただ、では白鳥たち自然主義文学者が「殺生石」の生々しさを迫真性をもって伝える文学を書いたかと言うと、これも疑問である。思うに、実生活の現実は厳然としてあり、なまなかな思想なんて受け付けない、というのは、普遍的な真実(とみなす思想)であるだけに、そこをなんとか踏み越えようとする意思なしに、奥行きをもって描出する、というわけにもいかないのではなかったのではないだろうか。
 論争にもどると、(6)で小林は、正宗白鳥の独特な虚無的思想はわかるし、尊敬もするけれど、「氏の思想には又わが國の自然主義小説氣質といふものが強く現はれてゐるので、さういふ世代の色合ひが露骨に感じられる時には、これに對して反抗の情を禁じ得なくなるのである」と言っている。「思想と文学論争」は、世代間闘争だった、少なくとも小林からはそう見えていた。
 小林最晩年の「正宗白鳥の作について」では、次のように回想されている。
 
【白鳥の最初の引用文のような】言ひ方になつたのも、「文壇的自叙傳」によれば、自分は、鷗外露伴などよりは、一時代新しい文壇人であるといふ意識、自然主義作家と言はれてゐるものの一人として、新しい文學觀を意識して打出さうとしたところに由來してゐる。正宗氏の言葉は、私を強く刺激した。と言ふのは、私は私で、正宗氏より一時代新しい文壇に出たといふ意識があり、それが、正宗氏の言ふところに反撥させたからである。

 近代日本の慌ただしい潮流の中で、文学が樹てるべき「自己」はどこで見出されるべきか。生半可な思想・観念などではどうにもならない人間の現実の中にそれを求めた自然主義に対し、思想の現実と呼ぶべきものもある、としたのが小林たちだった、とまとめてもよい。後者はたぶんうまく伝わっていない。先程「観念的」という言葉を使ったが、これは現代でもどちらかといえば批判的なタームと感じられる、というのはその例証の一つであろう。
 我々はできればもっと先に行くべきなのであろう。思想と実生活と言うが、ある実生活が人の頭の中にある思想を抱かせる、そこから見たら実生活もまた一個の思想である、というところで、この問題はくるくる回転してしまう。もう少しよく聞く言葉だと、理想と現実と言い換えても同じことだ。ただ、このような回転を指摘して見せたのは、戦前の小林の功績としていいだろう。が、ここを超える方途はあるのだろうか。
 超えることはできないのだとしたら、せめて、回転そのものを肉体的な生々しさを備えた人間的な現実として表現するように努めるべきではないだろうか。今の私には、それぐらいしか言えない。
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