由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

日本語及び日本人 その1

2018年04月04日 | 倫理

Buzzfeed News Japan

メインテキスト:鈴木孝夫『【増補新版】閉ざされた言語・日本語の世界』(新潮選書平成29年)
サブテキスト:鈴木孝夫『ことばと文化』(岩波新書昭和48年)

 鈴木孝夫氏の講演会に出るので、久しぶりに標記の二著に目を通した。
 『閉ざされた言語・日本語の世界』(以下、『日本語』と略記する)の旧版は、大学生時分に読んだ。福田恆存先生が推奨していたから。それからずいぶん経って、中身はすっかり忘れていたが、新版で読んで、当時(昭和50年)の感興をまざまざと思い出した。
 あの頃は、カナモジカイや日本ローマ字会の活動がまだ盛ん、でもないけれど、そこに繋がる言語観・文字観は、「日本は遅れている」論の一分野として、まだ見かけた。
 西欧ではアルファベットは26文字ですべての言葉が書けるのに、日本ではかなだけで四十五文字(濁点があるもの等は除いて。また、正かなづかひの「ゐ」と「ゑ」を加えると四十七文字)、カタカナが同数あって、さらにその上で多数の漢字を覚えねばならない。その非合理、学習上の不便はたいへんなものではないか、結果として日本の文明の進歩を阻害しているのではないか、もっと簡素にするべし、なるタワケた論で、ここから生じる日本語破壊に抗して最もよく戦ったのは福田恆存であったことは、彼を知るほどの人なら周知であろう。
 福田はここでもほとんど孤軍奮闘していたのだったが、ようやく比較言語学・言語社会学の分野から、援軍が出てきたのだった。

 以下に『日本語』の所説を私なりにまとめて記すと。
(1)かなについて。日本語は「ん」を除いて単独の子音は使わない。【厳密には使わないわけではない。例えば「しんぶんし」などの場合、後の「し」をshiとはっきり言う人は稀で、たいていshですましているだろう。しかし文字は、実際の発音を写すのではなく、「どう発音していると思っているか」に基づくので、こういうのは問題にしなくてもよい。】
 また音節(語の中で一音として認識される音のまとまり)は「ん」を(と促音の「っ」も一音節とすれば、それも)除いてすべて、母音のみか、子音→母音のいわゆる開音節である。その音節の種類も少なく(鈴木によると百二か百十二)、四十五のかなですべて書き表すことができる。だから「し」は「し」でよく、siあるいはshiなどと書くのは不必要なレベルまで示す過剰表記ということになる。
 一方ヨーロッパ語は子音→母音→子音で一音節になることが多い。英語で、sitとshitはいずれも一音節で、発音も意味ももちろん違う(汚い単語を出してゴメン)。その他sin、sift、singleなどすべて一音節(単語の最後のeは通常発音されない)だから、音節はいったい何種類あるものか、だいたい三千ぐらいというだけで、正確にはわからず、それぞれに文字をあてはめるなど不可能である。ゆえに文字はより細かい、音素に応じたものにならざるを得ない。
(2)漢字について。現在漢字検定というのがあり、その最高位の一級に問題として出るものなど、私は見るのも初めてな字ばかりで、あそこまで習得しなければならないとなったら、それはたいへんなことになる。しかし、戦前と雖も、そんなことは強制されなかった。普段新聞で見る漢字であれば、必ず正確に書けるかと言われると危ないが(ひょっとして私だけ?)、そんなに難しいという意識は一般にあまりないだろう。
 その程度の困難に十分値する効用が漢字にはある。
 まず、表音文字であると同時に意味を示す表意文字でもある、という特性。前述のように日本語は音節の種類が少ない。それで必然的に同音異義語が増える。漢字は、支那の原音が日本風に変えられて読まれ、発語されるため、ますます同音異義語を増やすが、また、そこからくる混乱を防ぐためにも役立つ。
「キシャのキシャがキシャでキシャした」
 これは鈴木ではなく、福田恆存『私の國語敎室』からの例文で、実際にはこんな文は使われないよ、と言われるかも知れない。それにしても、
「貴社の記者が汽車で帰社した」
なら、意味はすぐにわかる。
 加えて、造語力も優れている。明治以後に入ってきた外来の文物を日本に取り入れる上で、漢字の果たした役割は、柳父章などが指摘する翻訳語の問題はあるものの、やはり大きかった。前述の例文中の「記者」や「汽車」は西洋文明の流入以後に実物が現れ、言葉も当然それから出てきたのだが、漢字からのイメージで、すぐに馴染み深いもののように感じられたものだろう。
 普通に使われる漢字はわかりやすいのだ。例えば、「人類学」という文字を見れば、正確には何かは知らなくても、何かしら人類について研究する学問なのだな、ぐらいのイメージは、小学生だって持つことができる。英語のanthropologyでは、ギリシャ語の知識がある特殊な人を除いては、この文字からいかなるイメージも持てない。
 最近新聞でよく見かける文字に「改竄」があり、「竄」は画数の多い制限外漢字なので「改ざん」と書かれるのが普通だが、「改」のおかげで、何かを変えることなんだな、とはすぐわかる。おかげで、同一記事中で出がちな「解散」と紛れることはない。「かいざん/かいさん」やら「kaizan/kaisan」の表記に比べたら、そのわかりやすさは明らかだろう。
 口頭の場合でも、日本人は「改竄/改ざん」や「解散」の文字を意識しながら話し、おかげで混乱を免れている事実は看取される。これを鈴木は「テレビ型言語」と呼ぶ。最近のテレビは話されていることを文字で画面に出すことがあり、むしろサービス過剰で見苦しいとも言われるが、それ以前から我々は、漢字の視覚イメージも使いながら会話をしていた。
 そこでは、漢字の正確な形まで思い描く必要はない。つまり、「改竄」を正確に書ける必要はない。「改」をなんとなく思い浮かべ、あと、「ねずみ(鼠)」みたいな字だったな、ぐらいで、「悪い意味で、変える」という意味もこれまたなんとなく思い浮かぶ。それで十分なのである。
 「証人喚問」も、「承認関門」ではないことは、聞いただけでも、文字のイメージがあるから、すぐにわかるのだ。

 鈴木が言っていないことを付け加えると、分かち書きの問題もある。日本語は膠着語だから「てにをは」は、働きからするとヨーロッパ語の前置詞に当たるとは一応言えても、独立した語だとは意識されていない。さらに活用語尾の変化をどう扱うかの問題もある。
 ぶん の なか の ことば を どう わけ て かいて みて も、かな や ローマじ では りかい する はや さ も やさしさ も いま の より まさって は い ない。そのうえ スペースが ふえる。
 かなの中の漢字が適度なアクセントをつけるため、句読点(だいたい英語のカンマとピリオドに当たる)以外の分かち書きの必要性は感じられないのである。
 すべて含めて、漢字かな混じり文という現行の書記法こそ、日本語を書き表す上で最も合理的なやり方なのだ。これを、文字数やら漢字習得の困難だけを言い立てて変えようとするなんて、浅薄な暴挙でしかない。

 以上に関しては現在さほど強い異論は出ないであろう。日本語と英語などヨーロッパ言語を比較して、どちらが上か下かなんて議論が、そもそも無意味だったのだ。こちらは今も繰り返して言う値打ちが、残念ながらあるようだ。国際化のために英語教育をどうたら言われているうちは。
 それも含めて、元に戻って、「日本はオクレテル」なる思い込みがすべての根源であることは確かであろう。
 なぜそう思い込むのか。明治以来日本国の目標は西洋化だった。何せ、戦争をすれば向こうのほうが圧倒的に強いし、日本の開国当時、西欧諸国はいわゆる帝国主義時代の末期。アジア・アフリカの諸国を侵略しまくった後で、日本だっていつやられるか、わかったものではなかった。早急に西洋並みの力、いわゆる文明、を学ばねばならず、それにはかなり成功した。つまり、西洋の真似をして、世界戦争の主役を張るまでになった。
 しかし残念なことに、最終的にそれには負けてしまった。結果、遅れていたのは外面だけではなく、中身ではないか、いや、精神面こそ第一ではないか、という反省が生じた。
 そこで、精神を構成する最重要な要素、というより精神そのものである言葉が、あらためて問題になる。
 そうであるならば、さらに遡って、日本語の独自性は何に拠るのか、考えるべきだろう。
 まず第一に、日本独特と言えば、外国文明受容の在り方にある。日本は地理的には世界四大文明の一つである黄河文明の発祥地から約千五百キロメートルの距離にあり、その周辺文明と言ってよい。しかし、大陸との間に、泳いで渡ることは不可能な、荒れやすい日本海があって、戦争を含めた直接交流は乏しかった。それでも長い間には相当な人の行き来があり、文書も入っている。
 文書はすべて漢文。つまり日本人が初めて知った文字は漢字だった。音も使われ方(文法)も和語(初期のやまとことば)とはまるで違う。たぶんその影響で和語も少しは変化した。例えば和語にはなかった音も使われるようになった。ただ大半は、前述のように、日本風に変えられた音で読まれたのである。【これはカタガナ書きのヨーロッパ語の場合も同じ。strikeは一音節語だが、「ストライク」または「ストライキ」は五音節。】
 より驚くべきことに、もともとの、いわゆる漢語の意味とは別に、和語を書き表すために音だけのものとして使った。周知のように、これがかなの大元である(真名=漢字に対する仮名。これ自体はもちろん和製の漢語)。こうして漢字かな交じりという独特の書記法が生まれた。
 そこで鈴木が指摘するのは、日本人の他国との接触は大半が「間接的」だったということである。漢人と直接会う日本人はごく僅かで、そうなると言葉は本来の、生活の場で使われる際のいわば「人間臭さ」が脱色された、知識=記号として流通する。それでも日本人の意識や生活様式に変化を及ぼさないわけではないけれど、全体として見ると、自分流に改造した、漢文明とは決定的に違う「日本」が残る。この事情は、西欧文明を大幅に取り入れた現在も変わらない。だからサミュエル・ハンチントンも、現存する世界七大、あるいは八大文明の一つに「日本文明」を数えている(『文明の衝突』)。
 それ自体は誇るべきでも、憂うべきでもない。日本文明・文化の今日を作り上げた、例えば、漢字かな混じり文を作り上げた先人の努力には自然に畏敬の念が持たれるけれど、結局のところ、宿命的にこうなったので、逆に、ある人々の思いだけで今後変わる、なんぞというものではない。
 しかし今日、場合によってはマイナスに働きがちな要因も、日本の文明、いや、(より内面的な生き方に直結した)文化のほうがこの場合適切かと思うが、の中に見出すことができる。それは気に掛ける値打ちがあると思う。

 一番大きいのは、上に述べた事情の結果、日本人には、自分とは決定的に違う「他者」は見えなくなっている、ということだろう。
 これは、「自己」も見えない、ということでもある。「女」がいなければ「男」という観念も意識も生じない。「他国」がないなら、「自国」もなく、ひいては「国」は意識されない。「自己」も同じことだ。日本人は自己主張を嫌うとか、弱いとかはよく言われるが、だいたい、主張すべき「自己」をあまり感じてはいないのである。
 この点に関して、『日本語』中に採り上げられている中で、最も印象的なエピソードは以下である。
 鈴木孝夫がアメリカの大学院で講座を持っていた時分のこと。日本の友人が送ってくれる新聞の切り抜きの中にこんなのがあった。中高生の自殺の原因として「自分の心をすっかり打ちあけてとことんまで話のできる相手が誰もいない悩み」が大きな比率を占めている、と。この話をアメリカ人の学生にすると、何人かが笑い出した。

(前略)私が理由をただすと、一人が次のように答えた。
 私は本当に大切なことは、友人はもちろん、親にも話したことがない。先生や他人と相当深くいろいろ議論はするが、それは自分の心の中にある大事な問題について自分で決定する手がかりを得るためであって、問題そのものを打ちあけることはしないし、ましてその解決を他人から教わろうとは思わない。個人が本当に個人である部分は、他人に言えない部分であって、それを明かすことは自分の存在を危険にさらすようなものだ。だから何もかも心をすっかり打ちあける他人がいないことで自殺するなど愚の骨頂である。
 私【これは著者の鈴木】は少々唖然として他の者の意見をも求めてみた。女子学生の一人は、自分も大体同意見で、本当に自分にとって大切なことは夫にも決して言ったことがないと言う。そして自分以外の人間に、自分の本当の気持など分かるはずがないとつけ加えるのだった。(
P.192)

 こういうのは文字通りにとり過ぎるのは危険であろう。欧米人がみんなこう思っているとは限らないし(個人的に、Nobody understand me!「だれも私のことをわかってくれない!」と泣き叫ぶアメリカ人の女子高校生を見たことがある)、現在の日本の中高生が、「心中を打ち明けられる相手がいない」という悩みを口に出すか、そう表現するか、は少々疑問である。
 しかし、こう言われると、ハッと胸をつかれる思いがする(しない、という人はこれ以下を読む必要はありません)。傾向としては確かにこういうことがある、というより、「自我の弱さ」、平たく言うと、「ちゃんと主張すべき時にできなかった」という思いが、かなり多くの日本人の記憶にある、そのような実感がけっこうある、そういう時代になった、ということである。
 そうであるならば、「弱い自我」を問題にする余地はある。

 言語に直接関連することで、もう一つ例を出すと、『ことばと文化』で詳しく展開されている、人称代名詞の問題がある。鈴木は、日本語では人称代名詞というべきものはない、そう考えたほうがよい、と言っている。
 「日本語に主語はない」なる説は現在でもよく見かけるが、これは問題の立て方としてあまりうまくないのではないかと思う。主語(subject)とはもちろん文法的な概念であって、何語であっても、現に言われるかどうかに関わらず、また明確かどうかの問題はあるにしても、文であるなら、必ずある、と言える。【文の中心はいわゆる述語で、「海だ」「冷たい」「驚いた」など、日本語ではこれだけ言われる時はいかにも多いが、「何がそうなのか/そうするのか」を考えることは常にできるし、またそうでなかったら言語コミュニケーションは成立しない。】
 むしろ、口語で、自分や相手をどう呼ぶかでは、ヨーロッパ語と日本語でははっきりした違いがある。つまり、I とかyouとかいう固定した人称代名詞は日本語にはない。それぞれ、自称詞・対称詞(三人称は他称詞)と言ったほうがいい、と鈴木は提唱している。
 より正確には、「わたし」「あなた」のような、(年齢や性別に関係なく使えるという意味で)わりあいと無色な、I、youに近い言葉はあるが、それはできるだけ使わないようにしている傾向がある、と言う。
 家庭という最も個人的な場を考えよう。子どもが生まれると、父母は、自分のことを「お父さん」「お母さん」と言って子どもと話す。子どもが男子なら、「僕は」というのが対称詞になったりする。つまり、子どもから見た関係性に、自称・対称を合わせるのである。夫婦同士でもお互いに「お父さん/お母さん」「パパ/ママ」などと呼び合うし、自分たちの親のことも「おじいちゃん/おばあちゃん」と呼ぶ場合もある。
 家庭外では、一人の人間が自称詞を使い分けるのは普通だ。「俺/僕/私」のように。対称詞のほうも「君/あなた/お前」などの使い分けがあり、こちらのほうにより圧倒的に気を遣わねばならないだろう。
 使い分けは、学校・会社・地域共同体などの、具体的な場の中での、自分と相手との上下あるいは親疎の関係性によって決まる。どういう集団のどういう相手ならこの言い方、については、けっこう揺れ動き(例えば「御前(おんまえ)→おまえ」「貴様」など、尊敬語だったものがかえって蔑称になるようなことはよくある)、社会秩序の乱れ(「近頃の若い奴らは口のききようを知らない」)とされることもしばしばある。
 それでも、自称・対称には人間同士の関係性が反映する、するのが当然、という意識そのものは、現在に至るまで強固である。
 これらを要するに、日本人とはある具体的な状況や関係の中での自己/他者を第一に考える。文の中の独立した単語という考え方に乏しいように、独立した私=個人という考え方はあまりしっくりこない。
 「個人」はおそらく、地上のすべての状況を越えたところにいる唯一絶対紳という観念が一方にあって、言わば梃子になっていないと、一定以上の強度で立ち上がってこない観念なのである。家族も社会も国家もすっ飛ばして一人の人間と直接結びつく何者か、そのいわば「超関係」が近代的(でもある)個人を生む、と言ったほうがいいかも知れない。
 だから日本人には主体性がなくて、ダメなんだ、などと言うのが「日本は遅れている」論の中身だった。たいていは根源にある唯一絶対神のことなど考えていないので、いいとこ採りの安直なものであった。それを思えば、日本と外国でどちらがよい、などという比較論は、ここでもできないし、第一無意味である。

 ただ、次のようなことはある。我々の自己とはいわば「状況依存型」であって、これはむしろ現実的なのだ。「純粋な自我」なるものは、人間関係の現実に場所を得ることが難しいという意味で、妄想的でさえある。
 しかし一方で、どうしても根本的に相容れないところが残る「他者」との間に、それでも最低限は理解し合わないと実際に困る、というところから発するコミュニケーション技術、普通は論理と呼ばれるものがそうだと思うが、これは不要とは言えない。
 なぜなら、自己とは決定的に違う何者かを予想しないとすれば、他者を意識からすっぽり消ししてしまう心性を招きかねないからだ。それは言い過ぎだとしても、『日本語』に挙げられている多くの西洋人の日本体験談は、日本人が現代でもいかに「他者」と接触することが不得手かを示している。
 まとめて言うと、日本語ができない「ガイジン」なら、行きずりの「部外者」(たまたまやって来てすぐに立ち去るマレビト?)として、それなりに丁寧にもてなしてくれるのだが、日本語が達者な「変なガイジン?」になると、もうどう接していいかわからない、という様子になる場合がしばしば見られる、と言う
 もっとも、この本が出てから40年以上経ち、自由に日本語を操る西洋人をテレビで見る機会が増えたし、主に東南アジアや南米系の人や、それとの混血児を実際に見ることは、田舎でも稀ではなくなった(日本にはもう二百万人からの移民がいる)から、そういう感情は薄れている、と言える。
 むしろ驚くべきなのは、それでもなお、「ガイジン」という言葉に含まれる独特のニュアンスは消えていないことである。
 差別ではない。差別とは、自己ではない「他者」の存在を認めたうえで、それを劣った、あるいは悪しきものと決めつけることを指す。上記の場合は、優劣・善悪の観念はない。ただ、日本語のコミュニケーションは、同じような顔で同じようなことを考えているとみなせる相手、かつまた年齢・立場に基づく上下関係を相互に了解している相手とするものだという、歴史的な大前提があるので、それがないと、どうしたらいいのかわからなくなる、そういう微妙な心理の現れなのである。
 それ自体も悪いとは言えないであろう。ただ、悪く働く場合もなきにしも非ず。他者との違いを前提にしない関りは、相手を完全に無視した、善意の夜郎自大を招く可能性がある。「八紘一宇」(世界中が一家のようになりましょう)というのがそうだった、ということは以前に述べた。
 「国際化時代」がどうたら、なんて関係ない、我々はこの近代という時代をよりよく生きるための、我々自身の問題として、こういうことを少しは考えるべきであろう。後は、鈴木氏の講演を聞いて、もっと言いたいことが出てきたら、言います。
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