由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

近代という隘路 その4

2011年04月24日 | 近現代史
メインテキスト: 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社 平成20年 平成21年第16刷)

 日本が前回見たような近代化をすすめている時期、中国もまた李鴻章などの主導で次第に華夷秩序からの脱却を試みていた。しかし、朝鮮(当時の正式名称は大朝鮮国)は朝貢国である、というような態度は公式には変えず、この点でまず日本との対立が生じた。
 華夷秩序とはなんであったか。茂木敏夫の定義を加藤が挙げているのを孫引きすると、「世界、そして文明の中心である中国は、周辺地域に対して『徳』を及ぼすものであり、その感化が人々に及ぶ度合いに応じて形成される属人的秩序」(P.90)。
 つまり、皇帝の直轄地である中国大陸の中心部、いわゆる中原が世界と文明の中心で、皇帝の徳が直接及ぶところ。そこから離れるにつれて、徳の感化も薄くなり、民衆は野蛮人と化すが、皇帝への尊崇の念を持つ限り、人間として認められる。その念は皇帝への朝貢(みつぎもの)という形で現される。すると、皇帝はその地の支配者に王の称号が与え、支配を正当化してやる。
 日本もこの体制とまんざら縁がないわけではなかった。卑弥呼が持っていたと言われる「親魏倭王」の金印は、卑弥呼が魏の皇帝に朝貢したので、皇帝のほうは彼女に倭の王たる称号を与えたことを示す(倭が日本全体のことであったとして、卑弥呼が実際に支配権を持っていたかどうかとは無関係)。また、南朝の懐良親王(後醍醐天皇の息子)が明から「日本国王」の称号をもらって、けっこう効果があったらしいので(明側の国書にはなぜか名前が「良懐」と誤記されたので、その後日本側が苦労したというおまけもついている)、北朝側の足利三代将軍義満と六代将軍義教も冊封を受け、「日本国王」の称号を外交文書に用いている。
 ただ、聖徳太子が遣隋使小野妹子に持参させた国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれていたので、煬帝を怒らせた、というエピソードが端的に示すように、日本はどちらかというと華夷秩序の外側に立つ独立国でいたいという望みのほうが強かった。因みに、この場合のキーワードは「天子」である。ある地域の支配者である王は何人いてもかまわないが、天命を受けて、華夷秩序の中心、当時の中国人の感覚では全世界の中心たるべき者こそ天子=皇帝なので、複数いたりしてはならないのだ。
 まあ、途方もないフィクションである。だいたい、天子の家、即ち王朝がたびたび変わったことはよく知られている。卑弥呼が冊封された時代には、「三国志演義」によって日本でも有名なように、中国は魏・呉・蜀の三国に分割され、それぞれ皇帝がいた。中心が三つあったわけだ。もちろん、それぞれが、他の国の皇帝は偽の天子だ、と言っていたのではあるが。
 民族から言うと、現在の中華人民共和国を支配している漢族の範囲は、長い歴史の中で周縁の異民族との混合が進んで曖昧になっているが、文化的にも明らかに違う民族によって支配されたので征服王朝と呼ばれる時期は、遼・金・元・清の四つが数えられている。つまり、明治政府が対手としたのは、北東の女真族(後に満州族)が明を滅ぼして建てた最後の征服王朝であった。
 中原からは遠く離れた化外(徳化が及ばない)の民であるはずの異民族が中心に座ったこともけっこうあったし、現にこの当時もそうであったにもかかわらず、中心から外縁への秩序は変わらない、というご都合主義は、まことにスバラシイ。

 しかし茂木はまた、朝貢体制を「きわめて安価な安全保障のための装置」だとも言っているそうだ。その意味は具体的には何? と高校生に聞かれて、加藤は西欧諸国から見た便利さを答えている(P.91~92)。朝鮮や安南(ベトナム)にとって中国(清)は大家のようなもの、大家に話をつけておけば、店子であるこれらの国との外交もうまくいく、というふうに。これは話の流れでそうなったので、口頭による知識伝達の怖さが現れている。もちろん、「安全保障」と言えば、朝貢体制=冊封体制内部での話である。
 なぜ安上がりなのか? この体制の中の王は、中国の皇帝に形の上だけ臣従すればよかったからだ。そうすれば、皇帝は内政にも外交にも原則として一切口を出してこないから、王の権力は結局安泰なのである。たまに皇帝に叛く者への「征伐」のために駆り出されることはあるものの、自国が侵略されたりしたら、皇帝からの援軍も一応期待できる。果てのない軍拡競争とは縁がない分、「安上がり」になる。
 その他に、朝貢は年に一度やらなくてはならない義務だが、これもタダで取られるというものではなく、皇帝側からは返礼として、貢いだものより価値の高いものが、ときには何倍もの価値のあるものが、「回賜」されるのだから、朝貢国からみてとてもお得な貿易であった。琉球王国が江戸時代、清と薩摩藩の「二重支配」を受けてやっていけたのも、清側の「支配」がこんなものだったからだ。
 このやり方と、西洋が「近代的」なものとして世界に広めた「契約」との違いは、すぐにわかるだろう。契約とは、自由意志を持つ個人が、納得した上で交わす約束には、拘束力がある、ということだ。そのためには、たとえ身分制度は残存していたとしても、少なくとも契約の局面では、各人が平等でなくてはならない。
 一方、華夷秩序の中では、皇帝とそれ以外の人間が平等だなんて、あり得ない。そこでの関係を律する原理は、契約ではなく、礼儀である。王たちは、皇帝の徳を敬慕するからこそ、貢物をするのであり、皇帝のほうでは、その志を愛でて、回賜してやる。尊敬すべき皇帝に対して、ごまかして、例えばまがいものの宝石を贈る、などというのは、最も人の道に外れた行いだし、逆に、徳の根源たる皇帝が臣下の者にゴマカシをする、なんてことがもしあったら、それこそ世界がひっくり返る事態である。

 近代的な契約による交換も、朝貢も、不正が行われた場合には力による報復が用意されている。少なくともそう思われていて、しかしうまくいっている時にはそれには知らん顔をして、平和に交換が行われる、というところは共通している。ここで問題にしたいのは、前者の、自由意志を持つ個人というフィクション=物語独特のきつさである。
 売るモノ(無形のモノを含む)があって売る気のある人がいて、買う金があって買う気のある人がいれば、わざわざ契約書は取り交わさずとも、売買契約はすぐに成立したことになり、交換はできる。それですべて終わり、というわけにはいかないのがこの世の現実であることは、誰でも知っている。
 人は原則として、売り手にも買い手にも自由になれるが、それは人は元来は何者でもない、ということを意味する。自由意志によって、何事かをして、何者かになるべき存在だ。ということは、他者に対して何かしら悪事を企む可能性もまた、ある。ならば、相手がそうであるのかないのか、見極める必要性が出てくる。反面、自分は悪事を企む者ではないと、証拠立てて示す必要もある。すべてひっくるめて、他者との関係が複雑になる分、人は他者をより多く意識せざるを得ず、その半面さまざまな他者にさまざまに見られている「自分」を意識せざるを得ず、つまりは、人間関係に働く意識はやたらに鋭くなる。
 福沢諭吉が前出「学問ノスヽメ」第三篇で唱えた「独立した人間」とは、このような錯綜した人間関係の中の自分を、「自分で選んだもの」として、引き受けることができる人間、とも言い換えられる。けっこう無理がある。自分がやったことのうち、自分でやりたくてやったことが何割で、状況に強いられてしかたなしにやったことが何割か、よくわからない。いやそれ以前に、こんなふうに二分割できるかどうかさえ怪しい。なのに、自分は「自分」に対して全責任が持っている、と言うのは、私の場合で考えると、ずいぶん苦しい。みなさんもそうではないですか?
 で、あるからこそ、こんな無理な自己像を受け入れて、他人から、「お前は何で、何をやってるんだ」などと詰問されるのにもなんとか答えようと、健気に努力する人は、称賛に値する。このような人なら、「日本人であること」も、自分の意思で選んだかのようにみなして、国家の危機は自分自身の危機と全く同じだと感じて、それこそ一身を挙げて取り組むだろう。そのような「主体的」な国家意識を持つ国民に支えられて成立するのが近代国家だ、と福沢は唱えたわけだ。
 けっこうなようだが、関係に関する意識が鋭くなるのは、ここでも変らない。それがどういう方向にいくかで、どのような結果をもたらすかは、ずいぶん変わってくる。日本の「愛国心」は、やがて、自分たちの信じるあるべき「国」のためには邪魔だと思えた、政府の重臣や経済人たちを襲う若者を生んだし、さらには、独立した自己なら、国家からも独立したところまでいけるのではないかとさえ考えられるようにもなった。もちろん、明治六年の時点では、福沢も、他の誰も、そんなことまで予想できなかったのはしかたない。
 中国の古来からの理想は、ここでも全く違う行き方を示す。まあ、当たり前なのだけれど。
 「十八史略」にある「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」とはこんな話である。孔子が理想とした伝説上の皇帝の一人である堯(ぎょう)が、自分の治世がうまくいっているかどうか見たくて、まるで水戸黄門のように、お忍びで町に出た。まず、以下のような童謡を聞いた。
我々民衆が生きていけるのは、すべてあなたのおかげです。みな知らず知らずのうちに、皇帝の法則に従っています
 次に、一人の老人が、食べ物を口に入れ腹鼓をうって、足を踏みならしては次のように歌うのを見た。
日が昇ったら耕作し、日が沈んだら休息する。井戸を掘って水を飲み、田を耕して食べる。皇帝の力が俺になんの関係がある
 これが東洋的な理想の一種である、と考えられている。即ち、統治されていることを意識させない統治が最上である。もう少し言うと、庶民にとっては世界か宇宙並みに広大で、文字通り果てのない帝国のただ中にいると、そもそも「他国」の概念がなく、ひいては「国家」そのものの概念がない。たいていの人が、「世界の成り立ちはどうなっているか」などということに頭を使わないのと同様、今いる皇帝とその統治機構のあり方がどうか、などとは頭に浮かばなくなる。山や川が生まれる以前からそこにあるように、あるのが当たり前。それだけの話なのだ。
 即ち、個人としても国家としても、「他者」を意識することが最も少ない。それは身分秩序の形で人間関係がほぼ固定しているからで、変化に乏しく、「進歩」もあまりない。それでよい、そのほうが多くの人間にとって幸福なのだ、と言われた場合、そんなのは愚かな考えだ、と鎧袖一触にやっつけることはできないように思う。

 それでも、今後人類がこの理想を一国の統治原理とすることはできないだろう。民主主義か、ジョージ・オーウェル「一九八四年」に描かれたような、おおらかさなど全くない全体主義か、どちらかしかないようだ。後者を避けるためには、前者を守るしかない、と私は思っている。が、これは別の話。
 十九世紀末の段階で、鼓腹撃壌の、徳化のフィクションはもう保たれなくなってきた。「徳」から見て全く別種の、西洋人たちが、庶民の視界にも入るようになった以上、当然なのだった。
 清でも軍の近代化は進行していた。一九八一年、新疆イリ地方で独立の動きが起こると、すぐに武力で弾圧し、その後イリ側の後押しをしていたロシアと妥協のための条約を締結した。華夷秩序の常識から言うと、逆のやり方になるはずなのだった(P.92~94)。いきなり武力を使うのは「武化」であって、「文化」でも「徳化」でもないし、秩序感覚からしても、まず大きいところから話を始めるのが当然だ、ということだろう。しかし、そんな悠長なことをしていたら、焦点のイリの情勢は清にとって不都合な方向に進行する可能性が高い。まず、実際の運動を封じることが急務だ、というのは、東洋の大国には似つかわしくない、合理主義だった。
 この清と日本とは、朝鮮をめぐって争ったのだが、日本はまず西洋的合理主義の摂取においてかの国より立ち勝っていた。当時の外務大臣陸奥宗光が回想録「蹇々録」に記した「我政府の廟算は外交にありては被動者の地位を取り、軍事にありては常に機先を制せんとした」の一文を、加藤は「外交では日本は仕方なくこうせざるをえなかったという受け身の形をとります。けれど軍事においては着々と準備しますね」と現代語訳している(P.129)。「機先を制」するを「着々と準備」するとしたのは誤訳というべきではないかと思うが、それはともかく、陸奥のマキャベリストぶりはこの言葉にもよく現れている。
 朝鮮に対して、清がいろいろやってくるので、こちらは対抗上、しかたなしにやる、という顔をしておいて、いざ軍を動かす段になったら、清を出し抜く、と言うのだ。もちろん、その通りにできた日本軍の近代軍隊としての成長ぶりも、見過ごされてはならないであろう。
 陸奥はまた、朝鮮問題はいささかも道義問題ではない、と明言している。この時点ではまだ、かの国を植民地にしよう、とまでの発想はなかったものの、清やロシアの支配下に入ったのでは最悪なので、それを避けるために他に有効な手段がないなら、日本が支配するのもやむを得ない。この見解は、明治二十年代には、政府の高官の間では共有されていた。
 日清戦争前に民間に出現した多くの議論は、結局強き(清)を挫いて弱き(朝鮮)を扶(たす)ける、というような「義侠論」に過ぎない、とも陸奥は言う。問題は日本の国益であって、朝鮮自体がどうなるかは二の次とする、それが近代外交の常識なのである。とはいえ、その国益にとって有利なら、義侠論も悪くない。道具として利用できる。
 まず、他国から一目置かれるだけの国力(軍事力、外交力、経済力、など)を示すこと。道義が世界を支配する、というフィクション=物語から離脱した近代国家にとって、それが第一であることは自明なのである。それでも道義は、利用価値はまだあるのだが、利用すべきものだという視点は、忘れてはならない。
 力こそリアルだ。東洋諸国の中で最も早くこれに目覚め、近代化の道を邁進した日本が、その後辿らねばならぬ運命については、まだ誰にも見えていなかった。
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