由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

ゴミ製のネバーランド

2014年12月31日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
メインワーク:黒澤明監督「どですかでん」(昭和45年)

サブテキスト:山本周五郎『季節のない街』(昭和37年『朝日新聞』連載。新潮文庫版より引用)

 
 最近ふとした気まぐれで、黒澤明の未見の映画をまとめてツタヤから借りてきて視聴した。やっぱり、いいですね。「一番美しく」(昭和19年)にも「わが青春に悔なし」(21年)にも「素晴らしき日曜日」(22年)にも、文句なく感服した。しかし、ずっと後年の「どですかでん」は……? 黒澤五年ぶりの、また初のカラー作品である以外にもいろいろと曰くがあり、また評価の分かれる作品であることは聞きかじっていた。たぶん私の「?」は本作公開当時多くの観客の感じた戸惑いと同じものだったろう。
 これは黒澤の心象風景を映したものなのだろうか。「夢」(平成1。これは公開当初映画館で見た)がそうであるように。だとすると、その種の作品には私はめったに感応することはなく、批評の言葉も持たない。縁なき衆生だとあきらめるしかない。しかし、そうでもないような。二度繰り返して見て、少しも退屈は感じなかったのだから。
 
 あるいは私は、山本周五郎の原作小説を愛しすぎているのかも知れない。黒澤の前作で、名作の誉れ高い「赤ひげ」(昭和40年)にも少し不満を抱いた。この映画の後半には、原作(「赤ひげ診療譚」)にはないエピソード(二木てるみと頭師佳孝という二人の名子役を主としたところ)が大幅に入っている。これもいいが、どうも映画の他の部分と整合性が取れなくなっているような気がした。山周の世界はあれで完成しているのだから、余計なものをつけ加えるな、なんて言いたくなったのだ。
 「どですかでん」には、原作にないシーンやセリフはほとんどない。ただ、原作から八つの短編を選び、これを細切れにして、順次入れ替わりに進める構成をしている。それで話がこんがらがるのを防ぐために、乞食親子の過剰なメークやら、スワッピングをする夫婦の赤と黄の色分けなど、視覚的な記号を幼稚なまでにわかりやすく使っているのかな、と思う。
 それにしても、グランドホテル形式というのは知っているが、中心になる大事件もなく、大多数の登場人物が、同じ場所(「街」)にいるというだけで、終始顔を合わせもしない、という例は私は他に思いつかない。「大空港」でも「愚か者の船」でも、もうちょっと登場人物間のからみがあったように思う。だいたい、時間の進み方も各エピソード毎にまちまちなのである。この独特の構成法に、脚本(黒澤明・小国英雄・橋本忍)の工夫の第一があるのだろう。それはどんなものか。三度目にノートを取りながら見て、考えてみた。【こういうことができるのはビデオがあるからで、映画のまっとうな見方とは違うかも知れないのだが、できるようになってしまったものはしかたないでしょう?】

 その前に私が敬愛してやまない山本周五郎の作品について述べておこう。
 「季節のない街」は前年の「青べか物語」と同じ現代もので、貧しい庶民の日常を描いた短編連作というところまで共通する。【「青べか物語」は川島雄三がこの37年に映画にしている。You Tubeにアップしてくれた人がいて、やれありがたや、と思って見始め、あの川島がずいぶん端正な画面作りと編集をしたものだな、と感心しているうちに、途中で切れてしまっていた。早くDVD化されないかな。】
 しかし、「青べか」よりは、「季節のない街」の、「街へゆく電車」で始まり「たんばさん」で終わる全部で十五の短編は独立性が高いし、何よりすべてのエピソードを見聞きして語る「私」(「浦粕」という漁師町にやってきて「青べか」と呼ばれる中古のボートを買った三文文士)がいない。話の中身は、「登場する人物、出来事、情景など、すべて私の目で見、耳で聞き、実際に接触したものばかり」と「あとがき」にはあるけれど、ここでは作者は時折論評的なことを書きつける以外は作品の背後に隠れている。そこは近代三人称小説の王道に則っているが、大枠では、それに収まりきらない世界を扱っている。
 まず冒頭の、「街へゆく電車」の主人公六ちゃんは、この「街」の住人ではない。「街」へ行く唯一の市電の運転手、と言っても、電車自体は彼の頭の中にしかない。それは時々荒地のどぶ川を飛び越して「街」中へ入る。狭いどぶ川が境界なのである。東側の繁華街と、西側の極めて貧しい「季節のない街」との。「東側の人たちにとって、その「街」も住人も別世界のもの、現実には存在しないもの、というふうに感じられている」(「街へゆく電車」)。読者は六ちゃんの見えない電車に乗って別世界へと誘(いざな)われるわけだ。この導入部は映画「どですかでん」でも忠実に踏まえられている(どぶ川はなかったように思うが)。
 どんな別世界なのか? 名づければ、「逆ユートピア」というのが相応しい。あまりにむきつけに人間の基本的な欲望が露出しているので、かえって現実感が失われる、といったような。
 住民たちは皆、その日暮らし、英語のfrom hand to mouthの生活を送る者たちであって、社会的栄達の見込みはないし、大多数がそんなものは望んでいない。昨日のことも明日のことも知らない、今しかない、という有様でいる。例外は二つあって、夜学で英語を習いながら、亡父の忠告通りこっそり貯金をしている少年は、それがエゴイスティックだと母から詰られる(「親思い」)し、できるだけ倹約をして貯蓄を心がけた主婦は、栄養不足が主因で三人の娘を次々に亡くし、自身も「自分のいのちまで倹約するように」早死にする(「倹約について」)。通常の美徳や前向きの夢はこの世界では決してよい結果をもたらさないのである。因みにこの両エピソードは映画では取り上げられていない。
 では、いかなる夢も望みもないのかと言えば、そういう生き方も人間にはけっこう難しいようだ。現実離れした「夢」、というか法螺話は、多くの登場人物の口から語られる。それは見栄からではない。いや、それもなくはないが、「虚飾で人の眼をくらましたり自分を偽ったりする暇も金もない」(「あとがき」)彼らの語りには、あるのっぴきならない響きがある。あたかも、世界が終った後で人がまだ何か夢を見るとしたら、こんなふうになろうかというような。もちろんそれは話の内容そのものより、言っている彼らの人間性が滲み出る部分に依る。「肝心なのは何を言うかじゃなくて、なぜ言うか、なんだ」とゴーリキイ「どん底」のルカが言っている通り。
 海外の作品では、この「どん底」(黒澤が昭和32年に翻案して映画化している)が「季節のない街」に一番近いかも知れない。同じような人物やエピソードなら山周は、「赤ひげ診療譚」や「寝ぼけ署長」でも描いているが、新出去定や五道三省はここにはいない。彼らは医者と警察署長であって、制度的にも人間的にも、作品世界の住人達より上にいるからこそ、救いらしきものをもたらすこともできる。「季節のない街」に時折登場する老賢人たんばさんは、自身が街の住人で、他の住人のありのままを肯定する。決して裁くようなことは言わないが、救いもしない。そこがルカに似ている。が、ルカは警察が来ると逃げ出す、いかがわしいところのある人物なのに、たんばさんにはそれもなく、あまり目立たず、さりげない印象を残す。

 これから映画の分析に移るが、インデックスとしては各短編の題名を使うのが一番いいだろう。取り上げられたのは以下の八編。
 ①街へゆく電車②たんばさん③牧歌調④僕のワイフ⑤とうちゃん⑥がんもどき⑦枯れた木⑧プールのある家。
 番号は映画の登場順につけた。以下それでエピソードを示す。
 
 ①最初のタイトルバックは電車で、その各部や吊革広告らしきところにキャストとスタッフ名が書かれている。これは市電らしい。六ちゃん(頭師佳孝)がガラス戸を開けて見ていると、そのガラスに市電が通って行くのが映る。戸を閉めて家の中へ入ると、至るところに極彩色で、電車の絵が描かれている。そこで六ちゃんの母(菅井きん)が、拍子木を叩きながら、一心に「南無妙法蓮華経」と御題目を唱えている。隣に座った六ちゃんも、同じように唱える。やがて彼は平頭すると、「おそっさま、毎度のことですが、どうか母ちゃんの頭がよくなるように、お願いします」(せりふは基本的に原作で引用する。下線部は原文傍点。以下同じ)と祈る。母のほうは疲れたような、諦めたような顔をしている。
 もちろん普通の意味で頭がおかしいのは六ちゃんであり、母は彼が正常になることを祈って御題目を唱えているのだ。家を出た六ちゃんは、ゴミの山の前から空想上の電車の運転を始める。最初だけは、六ちゃんの正確無比なパントマイムに列車に動力が入るときの音や汽笛を重ねるサービス(か?)をこの映画はやるのだが、「どですかでん」という進行音は六ちゃんの口から出る。川辺を走るときには橋から子どもたちに「電車ばか」と囃されながら石を投げられる。六ちゃんは意に介さない。
 やがて空想の列車はトタン屋根のバラックのような家が立ち並ぶ「街」の中へ。おかみさんたちが井戸端会議をする共同水道場の横を通って②たんばさん(渡辺篤)の家に立ち寄り、③のアニキ(井川比佐志)に危うくぶつかりそうになりながら去っていく。
 ここから水道場を中心としたシークエンスとなる。黄色い家から黄色いTシャツを着たかみさん(吉村実子)に見送られて出てきたアニキは、六ちゃんの異様な行動を気にする様子もなく、洗い物をするかみさんたちの横を通って相棒の初つぁん(田中邦衛)の家へ。こちらは赤と青の建物で、かみさん(沖山秀子)は青いシャツに朱色のスカートを履いている。因みにアニキは黄色い鉢巻でオレンジ色のベスト、初つぁんは赤い鉢巻に赤いズボン。彼らはかみさんからもう飲むなと言われているのに、仕事帰りに一杯やる相談をしながら去る。次に④の障害のある礼儀正しい島さん(伴淳三郎)と、咥えたばこで迫力のある彼のかみさん(丹下キヨ子)が順に通り過ぎる。かみさんはキャベツのことで八百屋(谷村昌彦)と悶着を起こすが、八百屋は全く歯が立たない。
 場面が切り替わって、⑤の人のいいブラシ職人沢上(南伸介)の家から五人の子どもたちが走る出る。腹の大きな彼のかみさん(楠侑子)はビッチで、外で五人の男たちに声をかけられる。
 また替って⑥酒を飲んでいる綿中(松村達雄)の傍で黙って造花を作っている姪のかつ子(山崎知子)。この女優はその後どうなったのかさっぱりわからないのだが、決して醜くはない。しかし叔父は彼女が不器量だと罵る。そういう設定なのである。酒屋の御用聞きの岡部少年(亀屋雅彦)は、そんな彼女に同情し、名ばかり父親代わりで、かみさんとかつ子にばかり働かせている叔父を非難する。
 再び水道場にもどって、⑦の、不気味に無表情な平さん(芥川比呂志)が通る。吉つぁん(ジュリー藤尾)が話しかけるが、完全に無視。吉つぁんは怒るものの、平さんの氷のような目に射すくめられて、動けなくなる。
 最後が、⑧の乞食親子(三谷昇、川瀬裕之)で、壊れた自動車の前に座って、これから建てるべきべき家について話し合っている。現実にそんな家ができるわけがないことは彼らのゾンビじみた扮装とメイクですぐにわかる。そして①鮮やかな色彩で夕焼けから夜空までが描かれ、その下を六ちゃんの「どですかでん」が走り、プロローグ、というか、芝居なら第一幕が終わる。
 この部分では人物紹介以外にも彼らの住居の位置関係もおおよそわかるようになっている。③アニキと初つぁんの家④島さんの家⑦平さんの家は、水道場の周りにある。②たんばさんの家はほんの少し離れているらしい。⑤沢上と⑥かつ子はどこに住んでいるのかわからない。彼らの家には(警察官を例外として)家族以外の誰かが来るということはなく、家庭内でドラマが完結するからだ。逆に言うと③④⑦では誰かがやってきて、それを水道場にいるかみさん連中に見られ、噂されることで、一応の小社会が形成される。そして「客」によってもたらされた多少の波瀾は、何かを決定的に変えることはなく、街の小社会は映画が始まったときのように明日からも続くであろうことも暗示されている。
 ⑧の乞食親子は(職業柄?)いろんなところを徘徊するが、彼らの寝所である廃棄自動車は実は水道場から見えるところにあることが最後のほうでわかり、子どもの死の前後にたんばさんが関わる。
 そして一番外側に①六ちゃんの「どですかでん」がある。


 これ以後のすべてのエピソードを記述する要はないだろう。それなら、実物を見てもらえばいいのだし。私なりに最も肝要だと思えたところをまとめて言うと。
 普通の意味で一番ドラマチックなのは⑥と⑧である。何しろ、人が死んだり、誰かを殺しかかったりするのだ。そして映画全体のしめくくりにされているのもこの両エピソードの結末なのである。
 ⑧から述べる。ばらばらにされ、途中に他のエピソードが挟まることは、当然各カットとシークエンスの独立性を強める。これはなかなか映画的なようにも思える。
 前半までは、かつ子の疲れ果てた様子が短いカットで描写される(→のところには別のエピソードが挟まることを示す)。夜中に青い造花を作っていて、つい突っ伏して眠ってしまう。→また起きて作り始める。→朝、買い物に行き、途中で出会った岡部少年から食べかけのお菓子をもらう。→(かなり後に)赤い造花を敷き詰めた上に、太腿を丸出しにして眠っているかつ子の姿に、叔父が劣情を催し、のしかかる。「事件」はこのようにして起き、何も起きない、起きてもその意味など深く考えられないこの映画の中で、こればかりはある結末を迎えることになる。
 →叔父も、自分のしたことをなんとも思っていないわけではないことは、家の外で飲みながら、酒場の親父に、「女は魔物だよ」なんぞと言うカットでわかる。→病気で入院していた叔母(かつ子の母の妹)(辻伊万里)が帰ってくる。彼女はかつ子が異様に窶れたことを気にする。→病院からの帰り。かつ子の妊娠がわかる。相手は誰か、叔母に聞かれてもかつ子は何も言わない。これ以後かつ子はしばらく登場せず、主に叔父夫婦の会話のみでドラマが進行する。
 →産ませるか中絶させるかについて叔父夫婦の話し合い。そこへ警官が来て、かつ子が岡部少年を刺したことを告げる。→かつ子の相手は岡部少年なのだろうと、罪をなすりつけようとする叔父。警察に呼ばれても、叔父は行こうとしない。→岡部は助かり、かえってかつ子をかばう。かつ子のおなかの子について、警察は叔父に出頭を求めている、と叔母は言う。叔父は慌てて荷物をまとめ、逃げ出す。叔母は無関心な様子でそれを眺めている。
 →最後に、外で、かつ子は岡部少年と出会い、このとき初めて口をきく。「死んでしまうつもりだった」と。「いま考えてみると自分でもよくわからない。ただ死んでしまいたいと思ったとき、あんたに忘れられてしまうのがこわかった。自分が死んだあと、すぐに忘れられてしまうだろうと思うと、こわくてたまらなくなった」。これは立派な愛の告白であろう。同時に、他人に認めてもらえず、自分にもよくわかっていなかった生の意味が、意思的な死を目の前にして痛烈に問われてくる、そのことはたいへん説得的に描かれている。

 ⑧には⑥ほど目立った曲折はなく、一直線に話が進む。エピソードのとびとびの進行は、ここでは単調さを救うための技法になっているようだ。
 乞食の父親は、⑥の叔父同様、この街ではインテリに属するだろう。生半可な知識はあるが、生活力はまるでなく、結果、身近な弱い者を犠牲にしてしまうことまで共通する。繁華街の「のんべえ横町」から残飯をもらって来るのも幼い息子の役目である。父親のほうは、ローストビーフはどうたらなどの蘊蓄を垂れながらそれを食べると、後はひたすら、「きみ」と呼んでいる息子に「家」の話ばかりする。
 最初の頃のカット割は、彼らの居場所の移動のみを示す。もう一つ、門から塀、ベランダへと、父の想像の赴くままに、画面には丘の上の瀟洒な家の模型が一瞬づつ映し出される。その是非については、意見が分かれると思うが、映画でしかできない技法であることは確かであろう。
 夢想の家はしょせん現実逃避にしかすぎない、とは言える。そうであっても、父にとってそれが生きることのすべてなのである。息子もそれを感覚的に理解しているので、父の話に相槌を打ちながら聞き入り、死ぬ直前に、「プールが欲しい」とだけ要求する。
 息子はたぶん食当たりが原因で死ぬのだが、映画の終りに近いその前後の場面は、ホリゾントを使った夕焼けと、スチロール製らしく見える廃墟のセットのおかげで、まるで舞台のような、現実とも違う禍々しさを醸し出している。パニック映画か、と一瞬錯覚されるほどだが、むろんパニックに陥っているのは父だけである。
 以下の場面は、前述⑥の最後の、かつ子と岡部の会話の後に置かれている。たんばさんが懐中電灯で照らす中、父は寺の境内に子どもを埋める穴を掘る(死体遺棄罪になると思うが、気にしちゃいけませんよね)。と、父がこちらを向いて、両手を広げて、「きみ、プールができたよ」と言うと、穴のあったところに、きれいな青いプールが現れ、画面いっぱいに広がる。
 この後④島さんが挨拶しながら水道場の傍を通り、①六ちゃんも家にもどって、映画「どですかでん」は終わる。
 プールの美しさは、「現実」のグロテスクさを反転させたものであることは言うまでもないだろう。「どですかでん」が全体として提出しようとしたのは、どんなに美しく装おうとしても醜いところを捨てきれないのと同様、どれほど醜くなっても美しいものと縁が切れない人間存在の根本的なあり方だったと思う。成功しているかどうか疑問の余地はあるが、映画で、映画独自の表現方法でそれを描こうとした志は、壮とすべきであろう。
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