由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

そろそろいじめへの本格的な対策を その2(その1の補足)

2012年08月12日 | 教育
 前回の記事は、あのままでは少しわかりづらいと知り合いに言われましたので、ちょっと補足します。
 まず、教育委員会をどう改革すればいいのかということ。
 実態はあまり知られていないようだ。保護者が、「教育委員会に言うぞ」という場合の「教育委員会」というのは、たいてい「教育委員会事務局」を指している。実際に、電話番号を調べて、かけると、出るのは事務局の人間である。これは行政府の一部で、都道府県では普通「教育庁」と呼ばれている。ここのトップが「教育長」。我々教員を実質的に統括しているのはこちらである。
 いや、名目上は、それとは別に首長によって選ばれる三~五人の「教育委員」に決定権があり、「教育庁」あるいは「教育委員会事務局」はその決定を実行に移すのが役割だ、ということになっている。しかし、前回述べたように、教員の人事配置の仕事で忙しい2、3月を除けば、せいぜい月に一度ぐらい集まるだけの者たちに、教育行政をコントロールするなんて、できない話である。勢い、委員たちは、事務局からあがってきた案件にお墨付きを与えることが主な仕事になる。例外はあるが、全国的に、だいたいがそういう有様であると考えてよい。

 この不思議な組織については、もう少し細かく説明しておいたほうがいいかも知れない。
 昭和二十三年、日本の各分野の民主化を要求したアメリカ占領軍の意向に沿って、「教育委員会法」が成立する。当然ながら、あちらのschool boardの制度をそっくり真似したものだ。そこでできた組織の特徴は、①市町村の行政単位ごとに設置されること②しかし行政の首長からは相対的に独立した機関であること③決定は合議制によること④命令ではなく指導助言を主に行うべきであること、などがあり、今も原則は変っていない。
 しかし、議会が推薦する一名を除いた委員は公選によって選ばれていたものが、昭和三十一年の地方教育行政法の改正と教育委員会法の廃止によって、現行の首長による任命制に変わった。何が問題だったのかというと、右のうち②だ。具体的には、教育関係予算案の作成権と、教員・校長の他に教育長の任命権があった(現行と同じく、議会の承認は必要)。
 前者の場合、教育委員会が作成したものが無条件に予算案として議会に提出されるというわけではなく、首長が変えてもいいのだが、その場合にはその理由を添えて、教育委員会案といっしょに議会に提出しなければならない。
 これもけっこうやっかいだが、一番の問題はやはり後者の、人事だったろう。首長に政治的に反対の立場の人が多く教育委員になったら、教育長・校長から一般教員まで、すべて反首長派で固めることもできる。現職教員から委員になった場合も多かったようで、すると、教育委員会は教職員組合の活動の拠点になる。首長からみたら、目の上のたんこぶだったわけだ。それで三十一年の改正時、予算案の作成権も教育長の任命権も取り上げられた。
 これだけなら、権力の一本化の一例と見られる。また、そうに違いない。しかし、保守合同によって発足したばかりの自由民主党が改正の理由の一つとしたものに、教育委員選挙の投票率の低さがある。
 この選挙は全国一斉に三回行われている。第一回目が昭和二十三年で、その後は二十五年と二十七年。投票率は最初が全国平均で五六・五%、次からはなぜか都道府県平均しか示されていないのだが、順に五二・八%、五九・八%(安田隆子「教育委員会 その沿革と今後の課題に向けて」『調査と情報』第五六六号)。
 いや、案外高かったじゃないか、というのがこの数値を見たときの私の第一印象だった。例えば二十二年の都道府県議会選挙時の八一・六%に比べれば低いが、五〇%台なら十分なんじゃないかなあ。
 その後、例外として有名なものに、中野区の準公選制がある。最初の区民投票があった昭和五十六年には四三・〇%だったが、その後昭和六十年、平成元年、平成五年の投票率はすべて二〇%台で、しかも後になるほど低下している(文部省主催平成六年度公立小・中学校事務職員研修会受講記録中の、中澤貴生のレジュメ)。これは本家であるアメリカでも似たようなもので、教育委員選挙の投票率はだいたい二五%から五%の間だそうだ(中教審教育制度分科会地方行政部会での小川正夫の説明資料)。
 結局、一般の人が学校にどれくらい興味を持っているのかが問題である。自分の子どもが学校に通ってなければ、いや、通っていたって、特に問題がなければ、あんまり興味はない、というのが実態ではないか? ここが民主主義の最大の泣き所で、住民が全体としてそんなに興味がないことなら、わざわざ選挙なんてすることもないんじゃないかと、自然に思えてくる。
 私としては、たとえ五%であったとしても、政争のために使おうというんじゃなくて、学校教育に興味がある人の意思が汲み取れるなら、それでいいじゃないかとも思う。しかし、投票率の低い選挙ほど、特定団体の組織票をあてにできる候補者が有利だという事実も歴然としてあるから、それでいいとも言いきれない。
 結局一番手っとり早い改革案としては、多くの人の思い込み通りに、また現状通りに、「教育庁」を学校に関する最高決定機関にする。「教育委員会」は、「国家公安委員会」のような、そのお目付け役に徹する、というのがいいようである。わざわざ一般人から選ばなくても、「予算委員会」のように、議会の中に作ってもよいと思う。住民からの苦情もちゃんと受け付けて、きちんと監視さえしてくれたなら、なんでもよい。それこそ、最大の問題であるわけだが…。

 「教育庁」が統括する、学校とは別組織の、「学校問題解決支援グループ」とか、名称はなんでもよいが、いじめ問題などに取り組む組織ができたとして、最大の困難と考えられることを書いておこう。それは、本格的な調査が本当に必要かどうか、見極めるのが難しいことだ。
 現代でも、教育庁には、多い時には日に十件を超える苦情の電話があるそうだ。もちろん、教師へのクレームである。そのうち九割は、ただ聞き流すしかないような案件だ、とある人から聞いたのも、全くその通りだろうと、教師として納得できる。そのために、なんらかの対応が必要な一割まで聞き流されがちになるのこそ大問題だが、たとえ言うだけにしても何か言いたい、という人間の気持ちがある以上、どうしようもない。
 いじめもそうである。「いじめられた」との通報で、この組織が出向いたら、実際はちょっとしたいざこざであって、もう収まっていた、なんてことも多いかな、と思える。それでは人員がいくらいても足りないことも考えられるので、まず。学校に調査させ、なんらかの強制手段でやめさせるしかないことが起こっているようだ、と報告されたら、動く、というような手順にならざるを得ないであろう。そうすると、学校の調査能力不足や、隠蔽しがちになる、などの問題が再び起こってくるわけだが…。
 もっとも、対応が追いつかないほど多くの訴えがあればむしろいいほうかも知れない。近所のトラブルでも、警察に訴える、などはためらうのが一般の日本人である。裁判はたいへんだ、ということ以外に、ことを大きく、「公」にしたのでは、それだけで近所にいづらくなる、という感覚が働く。
 学校も同じこと。そんなことはなんとも思わない、という人も最近では増えたが、それは多くの場合モンスター・ペアレンツと呼ばれような人で、この現状だと、学校に好んで文句をつける親がちょっとしたことでいじめ被害を訴え、おとなしい親とその子どもは何もせずにじっと耐えている、ということになるかも知れない。
 などなど、いろいろと難しいことは予測できるが、それでも私は、大人が本当に、いじめを代表とする学校問題に取り組む気があるなら、この方面に考えをすすめるしかない、と確信している。とりあえず、大人の側の「本気」を子どもに見せるのだ。本気でもないのに、深刻に考えているような顔だけしたって、ナメられるだけなんだから、もうやめていただきたいのである。

 それから、現代のいじめの実態につきましては、美津島明さんがのってくださいましたので、彼との議論の形ですすめようと思っています。
 とりあえず、こちらをどうぞ。

 次に「民主主義・正義・教育教」という記事を掲載してもらいましたので、よければどうぞ。
コメント
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