由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

書評風に その6(夢野久作、スティーヴン・キング、アイラ・レヴィン)

2023年12月28日 | 文学
 極私的怪奇小説ベスト3を挙げます。今はホラーと言ったほうが普通なんでしょうが、後に「小説」をつけると、個人的には「怪奇」のほうがしっくりします。ともかく、超自然の要素(らしきもの、を含む)がある小説の中から、比較的強く記憶に残っている長編三作品、並べてみると、改めて、三作とも、作風というか、主題あるいは中心の思想というか、はまるで違うことがわかりました。そこがまた面白い、とこれまた個人的に思っています。ネタバレを含むことは了承してお読み下さい。

◎夢野久作「ドグラ・マグラ」

「ドグラ・マグラ」 松本俊夫監督 昭和63年

 おそらく世界一奇妙な小説です。わけがわからないということなら、私が若い頃文学オタクの間では流行っていたヌーボー・ロマンとか、たくさんあるんですけど、これは一応わけはわかるのに、奇妙なんです。読んだ人は気が狂う、と言われているようですが、私は(たぶん)大丈夫だったので、大丈夫でしょう。
 何が変なのかって、まず時間感覚。分量はドストエフスキー「罪と罰」と同じぐらい。こちらはエピロローグを除いて、作中で〈現在〉として進行する時間は二週間、そこに折々過去の回想がはさまる。「ドグラ・マグラ」の語り手は記憶喪失者で、彼が体験する〈現在〉は一晩、あるいは一瞬かも知れない。それでいて千年以上前の歴史も絡んでくる。それに、これだけ長い小説なのに、章立てがなく、時間は連続しているが、最初と最後はぴたりと重なって、円環を成す。
 ただし、中ほどには、変人の精神医学者・正木博士が、畢生の大論文「脳髄論」の内容をさまざまな形式で書き遺したという「絶対探偵小説 脳髄は物を考える処に非ず」など六種の文書が、〈私〉に示され、その中身が本作の三分の一ほどの部分を占める。ここで示される脳の機能論(脳はすべての細胞に貯蔵されている記憶をまとめる、オーケストラの指揮者の働きをする)も、全体の時間概念も、一度だけ名前が出てくるベルクソンを思わせるが、もちろん科学的な真相が問題であるわけはない。また、人間は胎児のうちに、細胞中の記憶を夢に見ている、というユングを思わせる説が、重要なプロットとして使われているが、ユングの名は登場せず、作者がどれくらい本気でこれを信じていたかも明らかではない。
 六種中の他の文書の中には、「ドグラ・マグラ」という題名の、大学の付属病院に入院していた学生(それが〈私〉であることは推測できるが、明確にされない)が書いたとされるものもあって、「超常識的な科学物語」か、などと評されている。中身はもちろんこの小説全体ということになるのだろう。こうして作品の〈内〉と〈外〉もメビウスの輪のようにつながっている。
 ここまで凝った構成なのに、〈私〉の語りは平易で、緊張の糸が途切れることなく持続していて、読み終ると、「とても長い短編小説」だな、という気がします。そこが一番すごい。テーマを一言で表現すると、「時間と記憶の鬼ごっこ」というところでしょうか。それがこんな構成を必要としたのだな、ともよく納得されます。
【↑の映画は、原作小説の一つの解釈を軸にして、迷宮のような世界をうまくまとめた名作です。この中で正木博士を好演した桂枝雀がその後鬱病で自殺したのは、多少因縁めいて感じます。】

◎スティーヴン・キング「It」

It, directed by Andy Muschiett, 2017

 一番根幹のはずの、怪物イット〈それ〉の設定が、ちょっとどうかなあ、と思えます。宇宙の誕生時に既にいた、悪の根源なんだとされるんですが、そんな究極的にすごいものが、アメリカの小さな田舎町の地下に潜んで、子どもの恐怖心を餌にしている、というのは、スケール感がちぐはぐじゃないか、と。
 だいたい、〈それ〉の本当に本当の正体なら、小説の最初の頃に、簡潔に言われている。「あいつはこの町そのものなのよ」と。至って平凡な町なのだが、その底には人々の集合無意識と呼ぶべき悪意が淀んでいる。七人の主人公たちは最初ローティーンとして登場し、虐待、喘息、肥満、などが原因で、それぞれトラウマがある。前々回述べたことだが、子どもにとって我が身に降りかかる悲惨は、不条理で、悪意そのもに見えるものだ。彼らが「負け組クラブ」を結成して、悪意の象徴である〈それ〉と戦うことでトラウマを乗り越えようとする、それが本作のプロット。
 しかし子どもの頃には〈それ〉を倒しきることはできず、27年後、町からは再び子どもが消えるようになる。かつての戦いを通じて固い絆で結ばれた七人は、黒人の子一人を除いて、町を出て皆けっこう社会的な成功者になっているのだが、このときの戦い後に交わした約束を思い出し、故郷に戻る。ただし、そのうちの一人は、おぞましい体験が再び甦ってくることに耐えきれず、自殺してしまう。残る六人が、町の不潔な地下道を辿り、再び〈それ〉と巡り会う。
 本作は成長物語です。大人になるためには、発達課題をクリアしなければならない。しかしそれが成し遂げられたとき、辛かったけれど懐かしくもある子ども時代は失われる。その端的な象徴として、成長した元「負け組クラブ」の誰にも子どもはいないし、〈それ〉の消滅とともに、幼い頃の記憶は失われる。後には達成感と裏腹な哀切感が残される。奇怪な冒険物語を借りて、そのような心の過程を痛切に描き出した、そこに本作の真価があります。
【最近できた映画は、けっこうヒットしたようですが、どうも少し……。主人公たちの子ども時代を描いた前編はいいのですが、後編の「End」は(原作では子ども時代編と大人編が交互に、ないまぜに進行するのですが、それを映画でやってはエンタメとしてはあるまじきほどにわかりづらくなるから、時代別に二つに分けた配慮は、しかたないことでしょう)。風船に結ばれて宙に浮いている子どもたちの画像は怖いですけど、ペニーワイズが蜘蛛の格好になって暴れるのは、「これが恐怖の本体だっていうなら、結局全部冗談かよ」という気分になってしまいました。】

◎アイラ・レヴィン「ローズマリーの赤ちゃん」

Rosemary's Baby, directed by Roman Polanski, 1968

 揺るぎない構成が冴え渡っています。題材は「悪魔の花嫁」とでも言うべき、いかにも古いゴシック・ロマンそのものなんですが、それを1960年代のアメリカに完全に生かしきっています。
 夫は駆け出しの俳優で妻は専業主婦の若夫婦が、ニューヨークの近代的なアパート(ジョン・レノンが住んでいて、その前で射殺されたダコタがモデルだという話を聞いたことがある。でもあれ、高級アパートのはずで、売れてない俳優の稼ぎだけで借りられるのか? と少し疑問)に引っ越すことになった夫婦の、日常的な生活の、トリビアに渉る描写から、周到に伏線をはりめぐらせていって、ついに完全に異常な世界にまで違和感を抱かせることなく話を運ぶ。そのために、話の途中で妊娠する(これがキー・ポイント)妻の不安定な心理状態も非常に効果的に使われていて、作者は男性なんですが、よく勉強しているなあ、と思えます。
 そしてまた、母性の強さによって、強大な悪と戦うヒロインの姿は、非常に感動的です。
【こちらの映画は、今日まで名画として知られていますね。ミア・ファローのスクリーン・デヴュー作で、若妻を初々しく演じているのも好感度が高いですし、原作の本質を生かして、さりげなく恐怖感を高めていく演出も見事です。先に小説を読まずに見たら、きっと怖い思いをしたでしょう。】

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