由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

LGBT理解増進法 誰のため? 何のため?

2023年11月29日 | 近現代史

「理解増進ではなく差別禁止法を」LGBTQ当事者団体が声明(『毎日新聞』令和5年2月14日)

 本年の6月に成立・公布されたいわゆるLGBT法、正式名称は「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」については、私は、昨年までほとんど知識・関心がなく、今年になって法案が大きく取り上げられるようになってから、「これはなんだ?」「なんで今頃こんなのが出てくるんだ?」と、疑問を持つようになった。こういう人は決して少なくないと思う。
 だいたい、なぜ私がLGBTなどの性的嗜好、じゃなくて指向か、を理解せねばならんのか、いやそれより、理解せよと上から(直接には法律を作った国会から)命令されねばならんのか、なんとも不審で、なにか不快だった。
 最近、旧知のLGBT当事者(G)にこの問題を訊く機会があった。彼は大企業勤務で、もう公私ともにカミングアウト済みのうえ、長年のパートナーである男性ときわめて幸せに暮らしているそうで、個人的には法律の必要性など感じない。しかし、この法律制定には外部から協力した、その理由は以下の二つ。

(1)欧米を初めとする自由主義諸国は、たいてい同性婚まで認める段階に至っており、そことの外交・貿易のためには、LGBT問題に対して日本が国として無関心ではないことを示したほうが有利。
(2)「人権擁護法案」(平成14年)や、これに近い理念を掲げる野党や人権派諸団体が推進しようとする法制度は、人権侵害=差別に関する定義が曖昧なままに、規制だけを強める非常に危険なものである。今回の理念法は、その先手をうって彼らを黙らせるカウンターとしての効果を持つ。

 別に彼のせいではないが、なんだかさらに萎える気分になった。これが本当に立法者たちの動機なのだとしたら、LGBTそのものは二の次の、口実のようなものだということになりはしないか。
 特に(1)は、いつまで後進国意識を持ち続ける気なのか、と言いたくなる。
 関連して、5月にラーマ・エマニュエル駐日米国大使が、EU、欧州10ヵ国、オーストラリア、アルゼンチンなど合わせて15の在外公館の大使らを語らって、X(旧ツイッター)を通じてビデオメッセージを発表し、差別の根絶を訴えた。もちろん法の制定を促すためのものだが、ここには日本における差別の実態についての言及は、従ってそれへの対策としての法律の実際的な必要性を指摘した言葉は全くない。
 たぶんエマニュエルにとっても、他の大使たちも、日本のことなどよく知りもしないし、そもそもどうでもよかっただろう。彼らは「差別反対」のリベラルの代表として、自国内でも決して少なくないアンチLGBT派に対するカウンター活動の一環としてやっただけなのではないか。
 そうでないとしても、diversity(多様性)の尊重を言いながら、各国・各地域の歴史や文化の相違に対する配慮がないのは明らかである。宗教(キリスト教)によって長年同性愛が明確に禁じられた西欧諸国と、明治5年に「鶏姦律条例」が発令され、明治15年から施行された旧刑法からは消去された10年を除いて、同性愛が公に禁じられたことのない日本が、この問題に対してなぜ同じように振る舞わなければならぬのか。

 やはり付け加えておくべきだろうが、私はこの国にLGBT関連問題が全くない、と言うのではない。この性的指向のために苦しんでいる人はいるだろう。その人たちの自殺率は、彼らからはノンケと呼ばれるいわゆる普通の異性愛指向の人々の倍に及ぶそうで(どこにどのような統計があるのかは知らない)、だからこれは命に関わる問題だ、と言った人もいる。
 そうだとして、ではこの法律が、どのようにこの問題の解決あるいは改善の役に立つのか。
 この問題は、直接(2)にかかわる。少し細かく見ていこう。

 小泉内閣によって提出された前出「人権擁護法案」以後も、平成17年には民主党による「人権救済法案」が出され、平成24年には野田内閣が「人権委員会設置法案」を閣議決定している(いずれも審議未了のため廃案)。ここまでの中心課題は、一貫して人権委員会の設置だった。
 上のうち最後の「人権委員会設置法案」は「人権擁護委員法の一部を改正する法律案」とセットになっている。周知、と言えるかどうかはわからないが、人権擁護委員会は既にある。昭和23年,人権擁護委員令に基づき発足し、翌昭和24年には人権擁護委員法が成立し,全国の市町村に置くことになった。それを「一部改正する」とは、大きく改廃するというわけではなく、委員は「法務大臣が委嘱する」から「人権委員会が委嘱する」としたのが最大の眼目。
 つまり、人権擁護委員会の上に、国家の機関である人権委員会を置く、ということ。その組織の行政機関上の位置づけや構成については、「人権擁護法案」から「人権委員会設置法案」まで変わらず、法務省の外局扱い、委員長と四人の委員から成り、委員のうち三人は非常勤、ただ、「人権委員会設置法案」では「委員長及び委員のうち、男女のいずれか一方の数が二名未満とならないよう努める」(第九条の2)ことになった。男女の構成比を3:2か2:3と決めて、「多様性」に配慮したわけだが、ここにLGBTの人が入ったらどうなるのか、などとつい不謹慎に考えてしまう。
 委員の要件は「人格が高潔で人権に関して高い識見を有する者であって、法律又は社会に関する学識経験のあるもののうちから、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する」(「人権擁護法案」「人権委員会設置法案」ともに第九条)
 ここまでで、差別撤廃制度を推進する側(以下「人権派」と呼ぶ)の不満が出てくる。「人権委員会設置法案」では男女の比率こそ偏らないようにしたものの、相変わらず全部で五人の構成では、社会階層や出身地、人種その他の多様性を繰り込むことが出来ない、というのもあるが、最大なのは、委員長・委員は総理大臣の任命により、委員会は法務省の外局とされるなら、結局は行政の一部であり、行政機関によって行われた差別的な人権侵害行為には手心が加わるのではないか、というものだ。「人権擁護法案」以来ずっと「人権委員会の委員長及び委員は、独立してその職権を行う」(第七条)とあるが、それだけでは不満は消えない。人権派は元来反権力・反政府の立場の人が多いので、そうなりがちなのだ。
 そうでない立場はマスコミでは「保守派」などと呼ばれることがあるが、実際は行き過ぎた差別糾弾によって阻害される怖れのある側の人権を配慮しようというのだから、これは適当ではない。ここでは仮に「逆人権派」と呼んでおくが、そこからの反対意見もある。
 既に民主党政権下の平成21年の参議院に、「人権擁護法の成立に反対することに関する請願」が出ている。

 包括的な人権擁護を目的としたいわゆる人権擁護法が成立すると、正当な言動まで差別的言動として規制され、憲法第二一条で保障された表現の自由が侵されるおそれがある。また、特別救済措置の下に申告だけで令状なしに捜査が行われるという人権侵害が起こる危険性がある。

 現行の人権擁護委員は無給のボランティアで、人権侵犯事件の調査や救済を実行するための権限はほとんど与えられていないとされる。やるのはせいぜい報告であって、あとは法務局の人権擁護部か人権擁護課(地方法務局に置かれている)の仕事になる。
 そこで人権擁護法案以下で新設が提唱されている人権委員は、どれだけのことができるようになるのか。実際にはまだないものだし、法文を読んだだけではよくわからないが、だいたいの仕事はこんなふうになるようだ。
 ある人から不当な差別による人権侵害を受けた、という申し出があったら、調査を開始する。犯罪捜査ではないのだから、これはあくまで任意である。とはいえ、警察の任意同行を断れる人はそんなにいないだろうと思うので、実際の威力は計り知れない。
 そして、この調査によってわかった事実に基づき、要請や指導、関係調整を行って、双方合意の元に事案を解決に導くのが理想。それですまなければ、人権侵害を行った側に勧告し、関係行政機関に通告もし、犯罪に当たると思料された場合には被害者に代って告発もできる。
 また、人権侵害者が公務員の場合には、本人のみならず、その者が所属する機関等に対し、被害の救済又は予防に必要な措置をとるべきだと勧告をすることにもなっている。公立学校の教員に生徒や父母に対して差別的なふるまいがあったとされたら、教育委員会に処分を勧告されるわけだ。
 あるとき何気なく口にした一言のために、突然捜査されたり捕まったりということまではなさそうである。もっとも、「人権擁護法案」の第三条「何人も、他人に対し、次に掲げる行為その他の人権侵害をしてはならない」二のイに「特定の者に対し、その者の有する人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動」というのも入っているから、そんなに軽く見てばかりもいられない。
 最大の問題は、何が「不当な差別的言動」に当たるのか、なんとなく常識ではわかるような気になっているが、ギリギリの線引きは時と場所と人によって変わってくるものである。それを人権委員会が一方的に決定してよいものだろうか。そのうえで、「勧告」ではあったとしても、個人の社会的評価を下げるような処置が公に認められるべきなのだろうか。
 危険性の一部は、前出の請願にあったように、これらの法案が擁護しようとする人権が包括的であって、やたらに範囲が広いために、深刻に扱うべき差別とそうでもないものの区別がつけづらくなるところから来ているだろう。
 何しろ、「人権委員会設置法」第二条で、差別的な取り扱いそのものはもちろんのこと、それを助長・誘発することも禁じられるべき社会的な属性は、「人種、民族、信条、性別、社会的身分(出生により決定される社会的な地位をいう。)、門地、障害(身体障害、知的障害、精神障害その他の心身の機能の障害をいう。)、疾病又は性的指向」までが挙げられていて、これでもまだ足りないという意見もある。それでは、いろんなところに「差別者」のレッテルを貼られかねない地雷が、仕掛けられているような気になってしまいかねない。
 それかあらぬか、平成24年に行われた衆議院議員選挙において、安倍晋三が総裁となった自民党は、「人権委員会設置法案」には反対した上で「個別法によるきめ細かな人権救済を推進」することを公約にしている。この言葉はその後、政府側の機関によって何度か繰り返された。そして、具体的な個別法の最初が、先のリストの末尾にある「性的指向」を対象としたLGBT理解増進法であった、ようにも見える。
 もっとも安倍は、LGBT関連の立法には反対だったようだが……。そして、人権委員会設置のほうは、見事に消え去った。
 してみると、やっぱり、LGBTそのものははなから問題ではなく、本丸は別のところにあったように思えてこないだろうか。
 もっとある。LGBT理解増進法には元来逆人権派や保守派からの反対が根強い。そのうち一番大きな理由は、この指向を「権利」として認めるなら、「体は男だが心は女」を自称する者が、実際は猥褻目的で、女子トイレ・女子更衣室・女風呂、などのいわゆる女性スペースに侵入するのを防ぎづらくなる、即ち結果として、女性の権利が侵される、というもので、実際にそのケースはもう発生した。
 これだと、同種の人権擁護法にも疑惑の目が向けられるようになるので、もはやその方針も消えるかも知れない。そこまで見越して……というのは、我ながら穿ち過ぎだと思うが、何しろ、さまざまな思いが交錯するこのような事態を一挙に解決しようとすると、およそ正反対の結果を招くことになりかねない。もっと慎重な配慮が必要であることは明らかであろう。

 この機会に、あと二つ、自分の主張を言っておきたい。
 第一に、前述のようなことがあっても、差別撤廃を目指す人権派は今後も陰にも陽にも運動をやめないだろう。それ自体は思想信条の自由に属することなので、文句をつける筋合いはないが、ただ、同じ観点からして、次のことは心得ておいていただきたい。
 それは、法や制度は人間の内面に直接立ち入ってはならない、という近代の大原則である。だから、差別感情そのものを外からどうこうしようとしてはならない。
 ある人が他の人に殺意を抱いたからという理由で、殺人予備罪にも問うことはできない。問うためには、実際の計画に着手するなどの行為が必要となる。差別による人権侵害も同じこと。新たな罰則規定は、前述のような属性を理由にして、ある人の意欲・能力・適性などを無視して、その人がある社会的な地位に就くことを妨害した、などのケースに限るべきだ。
 その他、その人を面と向かって罵倒するのは、理由にかかわらず侮辱罪だし、悪い評判を余所に流すのは名誉毀損罪になる。このような既存の法の適正な運用で解決を図るべきところに、新たな法律を作るのは往々にして害のほうが大きくなる。
 第二に、LGBT理解増進法そのものについて、元教師として最も気になるのは、やはり学校教育に関する第六条の2と第十条の3の条文である。「学校は、当該学校の児童等に対し、性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する理解を深めるため、(中略)教育又は啓発、教育環境に関する相談体制の整備その他の必要な措置を講ずるよう努めるものとする」(第十条の3)という。
 事実LGBTである教師、についてはどうだかわからないが、生徒については、制服や更衣室について配慮した、という学校の例は最近聴いた。それを基にした差別的な言動への対処まで含めたら、たいへんだろうな、とは同情されるが、原則として公的な機関が配慮すべき事案であろうとは思う。
 しかし、「教育又は啓発」はどうか。これまで触れなかったが、LGBTは現在ではLGBTQとかLGBTQ+などと言われるのが普通で、従来言われている範囲より多様性ははるかに広がっている。さらにはBDSM、ペドフィリア、ネクロフィリアなどまで含めて、教えることができるか、教えるべきか。単に知識の問題ではない、まだ性に関するものを含めてアイデンティティが固まっていない青少年を相手にしての話なのである。
 実際は、「世の中にはいろんな人がいる」ぐらいに止めるしかないだろうし、また、それ以上を期待すべきではない。それが昔からある大人の健全な常識というものであり、現代日本のLGBT問題にはそれを覆さねばならないほどの重要性は見出せないのである。

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2 コメント

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一応、推せます (hironaka)
2023-12-01 15:44:09
お邪魔します。まずはあの日の勉強会は、宙みつきさんのお人柄もありましたが、たいへん楽しくわかりやすい会になったことに感謝します。また宙さんが「理解増進法」を推す理由なども内容に賛成できるかどうかは別として極めて明快で理解しやすいものでした。ただ、それが良いかどうかは別として、この保守派による法案は、LGBTを体制打破などのツールに使おうとする左翼活動家への牽制球という色彩が強いなとは、私も思います。

>(1)欧米を初めとする自由主義諸国は、たいてい同性婚まで認める段階に至っており、そことの外交・貿易のためには、LGBT問題に対して日本が国として無関心ではないことを示したほうが有利。
>(2)「人権擁護法案」(平成14年)や、これに近い理念を掲げる野党や人権派諸団体が推進しようとする法制度は、人権侵害=差別に関する定義が曖昧なままに、規制だけを強める非常に危険なものである。今回の理念法は、その先手をうって彼らを黙らせるカウンターとしての効果を持つ。
>別に彼のせいではないが、なんだかさらに萎える気分になった。これが本当に立法者たちの動機なのだとしたら、LGBTそのものは二の次の、口実のようなものだということになりはしないか。

(2)が何とも…ノンケの人権派諸団体の構成メンバーや野党議員にとっても「LGBT」は口実にすぎないことは強く感じます。あれこれ左の方のSNSやらニュース番組で発言する左翼系論者の発言はチェックしていますが、まさに「自分たちの設定」たる「自民党体制はLGBTが嫌いだ」に微妙に反することをされているようで、不快なようです。ある左翼ジャーナリストが「当事者がない人が作った空虚な法案」などと、(まとめ役でG当事者の)繁内さんや宙さんの存在を無視して発言していたのを観て唖然としたことも覚えています。

(1)も左翼が大好きな「日本は人権侵害大国だ」みたいな話、外国の人権団体などにも大いに吹聴しているらしい話、その影響力も無視はできません。真に受ける外国人政治家も出てきます。そこでせめてもの反論の材料としては、この法案も不完全かもしれませんが通用するとも考えられます。

ですので万人を納得させられるものでもないし、LGBTの当事者にとっても満足できるものではないにしろ、一応この法案の存在はそれなりの意味はあると思うのです。私は当事者では(おそらく)ありませんし、本来どうでもいいことなのですが、この法案は一応は「推せる」ものと考えております。
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hitonaka様へ (由紀草一)
2023-12-01 23:00:32
ありがとうございます。
 感じ方は私とほぼ同様なのに、最後の出口のところで食い違いが出るようですね。
 外国向け(実際はいわいる自由主義の、先進国だけですが)についてだけ言います。私の考えは素朴にすぎるかも知れませんが。
 これが経済など、実際的なところなら、「損して得取れ」とかあるでしょう。
 しかし、精神的な、倫理に関する部分では。
「ウチはLGBT問題に関しては、新たな法律や制度で対応する必要性はありませんので。どうぞご心配なく」
ですませてはいかんのですか?
 心は譲れない。そういう態度の方が、長い目で見れば国益にも資する、と私は思っています。
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