由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

語る私と語られる私と その6(中仕切り)

2011年12月31日 | 文学
メインテキスト: 柄谷行人『定本日本近代文学の起源』(岩波現代文庫平成20年、23年第3刷)

 田山花袋が残した奇妙な短編小説の一つに、明治四十四年に発表された「げんげ」がある。げんげとは、漢字では紫雲英と書き、蓮華あるいは蓮華草の別名。「手に取るなやはり野に置けれんげ草」の俳句で有名だが、薄紅色の可憐な花を咲かせ、水田地帯では今もざらに見ることができる。館林出身の花袋にはなじみ深い花だったようで、「縁」にも出てくるし、「田舎教師」では冒頭の風景描写中に登場する。
 しかし、この草花の名が冠された小説の舞台は田舎ではなく、「郊外」と呼ばれる。それは代々木山谷町という地名であると後でわかる。今の代々木三丁目あたり。当時新たに開発された新興住宅地で、有名人もけっこう住み、その一人が花袋だった。明治三十九年、つまり「蒲団」発表の前年、彼はこの地に家を新築して、越して来たのである。
 作中「かれ」とだけ呼ばれる主人公は、花袋とは同一視できない。「子供を生んでもうすつかり色の褪めた細君と二人の子供」がいて、細君のお腹には三人目の子供がいる、というあたりは明治三十六年、岡田美知代と文通を始めた頃の花袋自身を思わせるが、「かれ」は文学などに野心はなく、「濠のなかにある役所」(東京市庁だろう)へ毎日電車で通う官吏である。特徴と言えばお洒落であることが書かれているだけ。
 そんな「かれ」の身の上にある晩起きた事件がこの小説の筋ということになるが、とても簡単なものである。終電で乗り合わせた、妙齢の「何方(どっち)かと言へば綺麗な女」が、「かれ」の近所の家を訪ねて行くのだとわかって、「かれ」は途中まで送る。坂を下りるところで、女は何かにつまずいたように転ぶ。「かれ」が助け起こす。女は「かれ」に寄り添うように立ち上がり、二人の手は固く握り合わされ、縺れ合うようにして坂を下りる。……別れ道に来ると、女は急にそわそわした様子になり、「左様なら」とだけ言って去ってしまう。
 それっきり、「かれ」は女に会うことはなかった。二月経って、女がこれから行くと言っていた家を尋ねてみたが、そんな女は来なかったし、誰だか見当もつかない、と言われ、怪しまれるばかり。あの女は幻だったのか。いや、次の日の朝、「かれ」は上着とズボンに、女を助け起こしたときについた泥を確認している。しかし、それ以外には何も、何一つ、「かれ」が女と出会った証になるものはなかった。
かれはもう以前のやうな快活な気分を失つて了つた。かれには世の中が一種の謎のやうに思はれ出して来た。解すべからざる神秘―意味のない神秘が、突如としてかれを襲つて、平和と平凡とに安んじて居たかれの生活を粉微塵に砕いて行つて了つた
 これで終わりである。題名になっているげんげは、最後の文に「春はげんげが綺麗に咲いた」と言われているばかり。なにかを象徴しているのかな、と思ったが、深く考えてみるべき意味はなさそうだ。
 謎の美女との邂逅、というプロットはどうか? そこから主人公(もちろん男)の運命が急変する。これはたいそう男の浪漫心を刺激するシチュエーションで、数多くの娯楽小説で使われたから、小説好きなら思わず「ゲッ」と言いたくもなるだろう。花袋に近いところで実例を探せば、黒岩涙香が明治三十二~三十三年に発表した翻案小説「幽霊塔」がある。花袋がこれを読んだかどうかは不明ながら、同時代人の誰よりも外国小説を英語で読んでいたのだから、「ゲッ」は共有したに違いない。
 で、新機軸を打ち出した。謎の美女と出合いはするのだが、それによって何も変わらなかった、という。実際の人生なんてそんなもんでしょ、というわけだが、それはつまり「ゲッ」が出てくる背景である。それもまた小説になる、なんぞとは、小説に関するすれっからしでなければ思いつかない。
 ひるがえって考えると、「蒲団」もまた同じ趣向なのだった。中年に達して寂しさを感じる男のところに若い女が「傍に置いてくれ」とやって来る。若い頃のように胸がときめくが、結局は何も起こらない。なまじいな夢を見ただけに寂寞感が増すばかり。
 ただ、ここでは花袋は「そういう小説」を書こうとしたわけではないだろう。「真実の人生」を書こうとして、結果そうなったのだ。それでしばらくしてから、「人生の真実」として改めてこのプロットを押し出すことにしたのである。

 花袋には近代文学の枠を踏み越えようとする意欲はあったろうか? 後年の「再び草の野に」(大正八年、1919年)などを読むと、そのようにも思える。これには特定の筋も一貫した登場人物もなく、寒村であった地域に駅ができて急速に賑い、それが廃止されてまた急速にさびれるまでを、短いエピソードを並べて描いている。実験的というか、珍しい手法の小説ではある。似たようなのを探すと、山本周五郎「青べか物語」などはすぐに連想されたが、これはもちろん戦後の作。花袋以前だと、ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」連作を、全体としてダブリンという街そのものを描こうとしたものだとみれば、まあ近いかも。こちらは1917年の発表。すると、花袋という人も案外「新しい」のだな、とも思える。いや、私が知らないだけで、類似した試みは、西洋には、あるいは日本にも、あったのかも知れない。いずれにもせよ、それは大した問題ではない。
 花袋はジョイスなどと比べて、西洋文藝の内部に生きた人間ではないので、その従来の枠を踏み越えて(「脱構築」して)、新たな要素を加えようというほどの「内的必然性」はたぶんなかった。その一世代後の、太宰治たちの時代になってから、「内的必然性」のほうはどうだかわからないが、「近代文学」がもっと普通に読めるようになり、従って文学についての「すれっからし」も日本国内で増えてから、意識的に「枠を越えよう」としているのだな、と思える作品も数多く見られるようになったのである。
 では、この「枠」はどこから出て来たのか? 簡単に言ってしまおう。それは、「自己」に対するこだわりの強さに由来する。西洋近代文学とは、実生活で露出することはめったにない「自己」を、言葉の上で構築し、定位しようとする試みである、と私は思っている。つまり、個人は、どんなに奇矯に見えようと、逆にどれほど凡庸に見えようと、無視し得ないだけの「意味」はあるのだと示そうとする。「かけがえのない個人」の「かけがえのなさ」を具体的に示そうとすること。それが文学のすべてだとまでは言わないが、非常に大きな要素であることはまちがいないと思う。
 日本の文学者には、どうもこのこだわりは弱い。自分自身に対するこだわり全般はともかく、首尾一貫した「意味」のあるもの(それは文字通り作者自身である必要はないし、単数の場合も複数の場合もある)として押し出す意欲が、いかにも弱い。昔から言われてきたことではあるが、私にもやっぱりそう思える。田山花袋はその一典型である。
 例えば「再び草の野に」には、以下のエピソードがある。結婚に破れた女が、この地方の寺へ赤ん坊を預けに来て、自分もそのままやっかいになって、将来のことなど考えているが、やがて迎えに来た元夫と、焼け木杭に火がついて、逐電してしまう。
 この女とは岡田美知代のことだ。そんなことは知らなくてもいいはずだが、「蒲団」「縁」、それから「幼きもの」(明治四十三年作)などを読み合わせると、自然にわかるように書いてあるのだからしかたがない。ただちょっと困るかな、と思えるのは、作品外の彼女についての知識があると、このエピソードがそれだけ独立したものだと感じられ、「再び草の野に」という作品中で、他との関係がいよいよわからなくなり、浮き上がって見えてくるところだ。
 もともと相互に関連のないエピソードを並べた作品なのだから、そんなことは大した問題ではない、と、作者は安直に考えていたのかな、などと思われたら、花袋にとっても残念なことではないだろうか。この作品では他に文学者夫婦がひと組登場する。冒頭近く、まだ駅ができる前、駆け出しの若い作家が、「昔女優の真似事」をしたこともあるという綺麗な細君といっしょにやってきて、民家を借り、小説の執筆に苦心する。その後彼は成功し、この地域が賑やかになってから、また細君といっしょに、今度は花見客として訪れて、昔のうらさびれた景色とは一変した有様に目を見張る。この作家のモデルも、いろいろに考えられはするが、わからないほうがいいだろう。そのほうが、この地方の変転を証言する「外部の目」として、作中にすっぽりと収まるのだから。
 寺に子どもを預けに来た女の場合、師匠があって、なんぞと短く書かれていると、その師匠とは田山花袋であって、彼女とのかつての葛藤は、なんぞと自然に連想が広がるが、そういうのは「再び草の野に」の世界からすれば、夾雑物でしかないのである。
 それとも花袋は、一つの小説を、ある主題や、雰囲気の基に統一しようとする意志に、「平面描写」などの理念で、意識的に対抗しようとしたのだろうか? そうかも知れない。実は、一貫した「筋」と呼べるほどのものがない中・長編小説を彼が書いたのは、「再び草の野へ」が初めてではない。自伝小説三部作の真ん中の「妻」(明治四十二年発表)が、既にそういう小説だ。前後の二作には、中心となる事柄がある。「生」では母の死、「縁」では永代静雄と岡田美知代の結婚の顛末がそれだ。「妻」にはそういうものが見当たらず、登場人物は一貫しているものの、ある一族の上に起きるできごとを、時間順にただ並べているだけの感じが強い。
 冒頭近くで、題名になっている「妻」であるお光は、旧知の大学生と出会って、胸をときめかせる。彼は実の兄の親友でもあれば、現在の夫の親友でもある。新体詩などを作る文学グループのメンバーだったのだが、「親切で、やさしくツて、そして年寄りのやうな解つた口を利くので、長兄の友達の中でも此人のみには父母も感心して居た。いや、そればかりではない……実際そればかりではない……」。で、この話は終わりである。作中で彼女のこの感情が伏線として働くのは、彼の結婚(ある大家に見込まれて、養子に入るのだ)を祝いに行って、さまざまな感慨が湧きあがるところぐらい。
 めんどうなことは言わなくても、小説では、こういうことは通常あり得ないとわかるだろう。主人公である人妻が、かって思いを寄せた男と出会う、というエピソードが冒頭に置かれたら、必ず不倫にまで至るわけではなくても、この出会いから発展した何かしらがその後出てくるだろう、と読者は自然に思う。言わば普通の小説の基本的な「約束事」である。それをあっさり捨ててみせて、作者は何がしたかったのか?
 因みに、この大学生とは柳田国男のことであるとは、多少とも柳田や田山の伝記を知る者にはすぐに分かるようになっている。すると、この話は「事実」かどうか、柳田と田山の細君の間には、「それだけではない」何があったのか、そしてそれを知った田山は?……などと詮索したくなるのは世の常というものだ。
 文学作品が歴史的な事実のための資料ともなること自体は、別に悪いことではない。「妻」には次のようなエピソードもある。主人公(「妻」の夫)の勉が自宅で義兄、つまりお光の兄と話をしているところへ、件の大学生が久々に訪ねて来る。義兄は、都会を去って、田舎の寺の住職になろうとしている(また因みに。さきほどの「女」が子どもを預けることになる寺の住職は、この人である)。大学生は、もう文学などはよす、と言う。「恋歌(こいか)を作つたツて何になる! その暇があるなら農政学を一頁でも読む方が好い」と。なるほど、そんなところから柳田民俗学が始まったわけか……。ただし、あくまで小説なので、どこまで「事実」であるのかは保証の限りではないという弱点は、どこまでもついてまわるのだが……。
 もともと、「生」「妻」「縁」の三部作は、田山家の記録なのだった。田山花袋研究者なら、作中の実兄田山實彌登や義兄太田玉茗の姿を検証するだけでも、これらを読む意義を認めるであろう。しかし、それだけだとしたら、花袋個人やその一族、また花袋と親交のあった文学者たちに、あらかじめ興味を持っていない人には、これらの作品を読む価値はない、ということになる(実際、だいたいにおいてそういう読まれ方をしているようだ)。いや、価値はある、としたらそれは何か、改めて「妻」に書かれていることを眺めてみる。
 例えば、夫・中村勤とはどういう人物か? 文学に志していくらかは作品を発表し、虚名も得ているが、妻子ある身となり、生活のために気に染まぬ勤めをしている。そういう境遇はわかる。で、どんな考えの持ち主なのか? 西洋思想にかぶれてはいるようだ。ジャン・ジャック・ルソー「コンフェッション(告白)」を読んで「まことなる生活、まことなる戦闘」などと叫んだりする。第二十七回は、「自分は弱かつた。同情は弱者の声だ!」なる「心の叫び」を最初として、まるまる全部、この頃高山樗牛らによって紹介されたニーチェ思想もどきが、勤の内心の声として記されている。それでどうなる? どうにもなりはしない。「妻」をここまで読んだ人なら、このようなエピソードが、後で出来事なり思いなりに結びついて発展していくことは決してない、とわかってくるので、何が言われようと、その「意味」など考えようとしなくなる。すべて心に浮かびゆくよしなしごとであって、それとは無関係に、時は流れていく。
 それが言いたかったのか? 人間が何をし、何を思い、何を言おうとも、すべては無意味だと? それなら、それを内容とした小説を書く、なんてことこそ最も無意味ではないか?
 もしかすると、花袋は復讐をやっていたのかも知れない。西洋思想やら文芸は、「げんげ」に登場したあの女である。意味ありげな媚態で男を惹きつけるが、結局は自分のものにはならないどころか、何ものももたらさない。「人生の神秘」が啓示されたとしても、つまりは無意味だ、と思い知らされるだけ。あとに残るのは、白々とした気分だけ。それが実際の人生というものだよ、と花袋は文学青年たちに教えてやるつもりだったのだろうか?

 我々が文学作品の「深さ」を感じるのは、一種の遠近法的な配置による、と柄谷行人は、主に本書第6章「構成力について」で論じている。近代絵画の遠近法(パースペクティブ)とは、人間の視界を忠実に再現しようとしているというより、幾何学的な計算から生まれた。しかしそれが当たり前になってしまうと、それを取り入れていない絵は、何か「深さ」がないように思われてしまう。しかし、この場合の「深さ」・「奥行き」は、遠近法という人工的な画法によって生み出されたものであって、それ以前にはなかった、と。
 文学も、基本的にこれと同じである。「(近代的?)自己」の物語は、自分にとって世界(社会・他者・神・その他)とはなんであるか、あるいは、裏返して、世界にとって自分とはなんであるかを語る。それに応じて、作中のエピソードは配列される。そのエピソード自体が、実際にあったことか、作者が想像したことか、などは問題ではない。この配列の中心にある「私」がいかに立ち現われてくるか、それだけが問題なのだ。
 柄谷は、文学に関するこのような価値観は、実は迷信か、少なくとも一面的なものだ、とくりかえし言っている。

 明らかなことは、第一に、近代以前の文学に「深さ」がないように感じられるのは、たんにそれを感じさせる配置をもっていないということであり、第二に、しかし、そのような遠近法的配置は、なんら文学的価値を決定しないということである。(P.205)

 そうであるとして、では「文学的価値」を決定するものはなんなのか。それともいっそ、文学における「価値」などという考え方そのものを捨てるべきなのか。そうしたとしたら、どんないいことがあるのか? ポストモダン的な言説に接するたびに、私が聞きたくなったのはそういうことだった。
 田山花袋に引き寄せて、上の問題を改めて考えてみよう。「蒲団」には、本シリーズ「その2」で述べたような、明らかな「構成」がある。愛欲が空回りするだけの、侘しい中年男の姿が明瞭に浮かび上がってくるように、「事実」の取捨選択が行われ(例えば、教え子の女学生がやってきた直後に、花袋が日露戦争に従軍したことなどは捨てられ)、また配置されている。中村光夫は、「蒲団」には島崎藤村「破戒」にはまだしもあった社会性を切り捨ててしまった、と非難したが(「風俗小説論」)、実は「蒲団」が花袋の作中現在まで一番読まれているのは、そんなものをばっさり切り捨てた決断にある。それによってこの作品は、「深さ」はともかく、「見通しのよさ」は獲得しているからだ。
 このような「私語り」、あるいは「私」そのものを、後の花袋や「純文学」作家たちは、「嘘」であると感じて、排斥したのだろうか? そうであるとして、それは西洋の、例えばサミュエル・ベケットやアンチ・ロマンの作家たちとは違う感じ方であったろう。たぶん、「真実」に関する感度が違っているのだろう。それは何度も、具体的に考察するに値する問題である。
 ただし忘れてはならないのは、どのような「真実」であれ、それは「首尾一貫した物語」を持つ「私」の「真実」を通過することで現れてきた、という事実である。だから広い意味ではそれもまた、旧来の「私」の範囲内のある、と言える。柄谷は、そんなうっとうしいものはさっさとうっちゃっちまえ、と言いたげだが、それなしで個人も社会も、どう生きたらいいのか、何も提示されていないのだから、仕方ない。疑えるものはすべて疑ってよいと、私も思うけれど、疑いそのものの外に出ることはできないし、そうしたほうがいいとも思えない現状は、動かし難いものとしてある。

 ここまできて、まだ入り口にも到達できていないようなのに、自分でも呆れている。にもかかわらず、生業もきつくて、いささか疲れた。ちょっと休んで、別のお喋りをしてから、このシリーズは再開します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする