由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その15(幕間狂言、西と東のフーガ 下)

2018年03月18日 | 近現代史
メインテキスト:慈圓・大隅和雄訳「愚管抄」/北畠親房・永原慶二 笠松宏至訳「神皇正統記」(永原慶二責任編集『日本の名著9 慈円 北畠親房』中央公論社昭和46年)

サブテキスト:日本史史料研究会監修、呉座勇一編『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(洋泉社歴史新書y 平成28年)



(12)源義時の長男である頼朝を、殺さなかったまではよいとしても、河内源氏一統に信服していた武者の多い東国の、伊豆へ流したことは清盛の一代の失敗だったようだ。
 西の支配に大なり小なり不満を持っていた東国人にとって、軍事力はほとんど問題ではなかった。この頃までに坂東武者の精強さは半ば伝説となっていた。それは逆に、都に住んで、戦闘に慣れていない武家たちは、半ば以上公家化していたことを示す。
 平家方についた武将齋藤實盛が、叛乱追討軍の総大将平維盛(清盛の孫)に、「汝ほどの射手【関東】八箇國にいかほどあるぞ」と問われて、「實盛ほど射候ふ者は八箇國に幾らも居候ふ」云々と、誇大に伝えて覚悟のほどを促した。これが裏目に出て、恐怖心にかられた維盛が、富士川の合戦(1180)で、水鳥の羽音を夜襲と聞き違えて、戦わずして敗走した逸話にそのへんの事情はよく出ている。
 それほどの武力を誇る東の者たちでも、王城の地である都へ攻め上る心理的な圧力は相当のものだった。①正当性には疑いがあるが、ともかく朝廷側から出た令旨(本来は皇太子が出すもの)のおかげで、敵は朝廷ではなく平家だというお墨付きを得た。②将門に比べると天皇との血脈はずいぶん遠いが、名門の貴種ではある頼朝という中心を得た。この二つがあってもなお払拭できないぐらいに。
 富士川合戦の後、敗走する平家を追って上洛を果たそうとする頼朝を、上総介廣常(桓武平氏の支脈)たちが反対して止めている。このときは、常陸の佐竹氏がまだこちらについておらず、足元が万全ではない、という理由があった。しかしこの問題は、単なる情勢論ではなかった。頼朝が初めて上洛したのは(もっとも、少年期は父とともに都で過ごしたのだが)、これから10年後、平家滅亡からでも5年後のことになる。
 廣常は寿永二年(1183)に謀殺されている。これを頼朝は都で後白河法皇に次のように説明している。石橋山の戦いで敗走してから、安房で再び挙兵したとき、廣常が大軍を率いて味方に馳せ参じたので、平家方に勝つことができた。大功ある者ではあるが、「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。タダ坂東ニカクテアランニ。誰カハ引ハタラカサン」などと言っていた。謀反の心があるのは明らかなので、殺したのだ、と。
 この廣常の言葉中、「身グルシク」がどうも気になる。今日の「見苦しく」と同じだとすると、かつては北面の武士の一人として、保元・平治の乱を義時と伴に戦ったとされる者が、朝廷への慮りに、反対はしても、そのようにまで評するものだろうか。
 これは、京に上って平家に取って代わろうとする野心を、頼朝に認めたからではないだろうか。それでは朝家の争いを中心とした、古来の権門・寺社勢力の軋轢にまで否応なく巻き込まれ、結局平家と同じ末路をたどるだけではないか。それよりは、あくまで武家として関東に留まり、この地を守っていれば、誰にも手出し出来ないだろう、と言いたかったのではないだろうか。
 佐藤進一の言う「東国独立国家」構想(『日本の中世国家』岩波現代文庫)は、平将門から受継がれたものだろう。しかし、そこを一歩進めて、もう朝廷は無視して、関東は自分たちで勝手に統治しよう、とまで言えば、それこそ将門と同じ、謀反になってしまう。そうなったら、求心力を欠いた「独立国家」は分裂してしまうかも知れない。
 言わば間接的に、独立せねばならぬのだ。廣常たちにそこまでの深い考えがあったとは思えない。対平氏の挙兵を成功に導きながら、騙し討ちで殺された【梶原景時と双六をやっているときに、突然首を落とされた】のは気の毒だが、大化の改新や明治維新に比肩し得る我が国の大改革である鎌倉幕府の創設には、頼朝と大江廣元たち幕僚の、慎重の上に慎重な熟慮と、粘り強い交渉が必要だったのである。

(13)最近鎌倉幕府の成立時について、従来の1192(いい国。頼朝が征夷大将軍に任じられた)から1185(いい箱? うまい語呂合わせにならないなあ)のほうが有力視されている、という歴史学会中の話が、大学入試ではどうなるのかな? という絡みでニュースになっている。実際はこれには決定的な答えはない。だいたい、「幕府」という呼称自体、ずいぶん後、江戸時代後期になって一般的に用いられたものらしいので、「鎌倉幕府の成立はいつか」に対しては、「鎌倉幕府という政庁なり政府組織は存在しないので、答えはない」が正解、ということになるかも知れない。
 それでもとりあえず、なぜ文治元年(1185)とも考えられるのか。この年平家一門が壇ノ浦で滅んだ、からではなく、頼朝に、全国に守護・地頭を置く権限が認められたからである。地頭とは各荘園で警察や徴税の権限を持つ者、守護とは国単位で地頭を監督する者。旧来の国司も廃止されたわけではないので、当然ぶつかる。守護・地頭には頼朝の御家人(家人に丁寧語の御をつけたものだから、要するに家来)が選ばれた。これによる全国の統率が、鎌倉幕府と後に呼ばれたものの、支配の根幹だった。
 公式に律令制、即ち朝廷の支配が無視されたわけではない。このへんもまあ日本的、と呼ばれてもいいかもしれない。
 もっと細かく言うと、この年、現場の軍司令官として平家を滅ぼし、その後も都に留まって頼朝と対立するようになった源義経に、後白河法皇が頼朝追討の院宣を出してしまっていたために、それはすぐに取り消されたとは言え、頼朝に対して負い目があった。義経を捕らえるためには、各地の警察組織を手中にしなければならない、と言われると、断り切れなかったのである。だから当初は守護、あるいはその前身である惣追捕使というのも臨時職だという意識が、朝廷側にはあったようだ。また西国まではまだまだ頼朝の威勢が及んでいなかったので、文字通り全国に御家人による国司・地頭が派遣されたわけではない。
 これが一応全国制度として完成するのは、頼朝の死後、承久の乱(1221年)で、朝廷権威の失墜・幕府権威の確立がなされてからであり、さらに九州まで含めたすべての武士に動員をかけられるようになったのは元寇以降だと言う。
 以上をまとめると、①朝廷は公の位と職を与える。②幕府は武家を統率する。この二元体制が鎌倉時代に確立した。では、ほとんど唯一の収入源だった土地の、実質的な所有権は誰にあるのか。このアポリアについては、目立たぬように、ゆっくり武家への委譲が進んだ。
 変革は緩やかなほうが、犠牲は少なくてすむ、でなくても、目立たなくてすむ。もっとも鎌倉幕府の場合、頼朝の息子で第二・三代目の将軍がいずれも横死するなど、内部の紛争が激しいから、外向きの大規模な権力の拡張はやりづらかった事情もあるだろう。三代将軍実朝の死から7年間、実質的な将軍として御家人をまとめた北條政子と、親房が絶賛している三代目執権・北條泰時がいなければ、鎌倉幕府の機構そのものが早くに分裂・分解していた可能性は高い。
 しかし朝廷と幕府、西と東の関係がこれだけで収まったわけではない。頼朝は上記の上洛の際、権大納言と右近衛大将(武官の最高位)に任官され、すぐに辞任はしているが、この後もけっこう「前右大将」の肩書きは使ったようだ。それでも、令外官だから、より自由な征夷大将軍の地位を当初から望んでいたが、これは後白河院が許さず、その死後、いいくに、の年にやっと与えられた。後白河院とその側近たちは、頼朝を宮中の位階秩序の中に組み込むことを望んでいたらしい。
 頼朝の側ではこういうことに無関心あるいは警戒していたかというと、そうとも言い切れない。政子との間の長女・大姫を第八十二代後鳥羽天皇の妃として入内させようとする話があり、頼朝もこれには乗り気だった。建久6年(1195)の二度目の上洛は、東大寺供養を名目にしていたが、宮中でのかけがえのない協力者であり、将軍宣下のために尽力してくれた九条兼実(慈圓の兄。娘を後鳥羽帝の中宮として入内させていた)の失脚を黙認してまで、これを実現しようとした。しかし肝心の大姫が病気がちであり、2年後に亡くなると、今度は次女の乙姫を入内させ、女御にはしたが、こちらもまた、頼朝の死後に、十四歳で亡くなった。
 つまり頼朝も、藤原摂関家や平清盛と同じく、天皇家の姻戚になることによって、自らの権威を強固なものにしようとしたのである。清盛の例からすると、権力の強化という面で、それにどの程度の効果があったかは疑問なのだが、ともかく、高貴なものへの憧れは熾烈であったのだ。【清盛の孫である安徳帝は八歳で平家一門と共に壇ノ浦に入水している。頼朝は天皇を殺したことになるこのような結果を喜ばず、義経との不和の一因になった。】

(14)鎌倉幕府の執権統治を本格的に始めた泰時は、高位高官を望まなかった(死んだ時点で正四位下左京権太夫)。桓武平氏の流れではあっても、家挌が低いことにより、遠慮して将軍にもならなかった。もっともこれは、簒奪者の汚名を着るのを嫌ったからかも知れない。實朝はともかく、二代将軍頼家を謀殺したのは北條だったことは、天下周知であったのだから。
 頼朝の血統が途絶えた後の将軍として、親王を依頼したのは泰時ではなく、父・義時と伯母の政子であったが、後鳥羽帝が許さず、やむなく源家と縁つづきだった九條家から、藤原(九條)頼経(兼実の曾孫に当たる)、次いでその子の頼嗣を迎えた。鎌倉幕府が親王を将軍とすることができたのは、泰時の死後、五代目執権時頼の代である。この措置によって北條家は、幕府の権威付けと朝廷との和親を図った、と言われるが、ことによると西からの人質の意味もあったのかも知れない。
 武力や血統以外の統治原理を建てようとしたためか、泰時は御成敗式目(貞永式目)を制定する(1232)。史上初の武家用法令であり、これから日本が法治国家になった、とは言えないが、泰時はわりあいと近代的な考え方をする人だったとは言えそうだ。
 これについて、六波羅探題(京都の治安維持及び朝廷の監視が役目)をしていた弟の重時に宛てた「消息文」は有名。そこに謂う(大意)、「この式目はただ道理のしからしむるところにより、公平な裁きができるようにしたものだ。法令としては律令があるけれど、漢字も知らない武士や庶民の中に、これを理解できる者は百人千人に一人もいない。この式目は律令をいささかも変更しようというわけではないけれど、仮名しか知らない者にも世の中の決まり事をきちんと知らせて、役人の裁きが恣意的にならないようにするものである。京の人に難詰されたら、そう答えておいてくれ」。
 これを読むと、なるほど、泰時の優れた人柄が偲ばれる。それにつけても、五百年も前にできた、それも、たぶん言われているとおり、人口の1パーセントも知らないし理解していない法令に、ずいぶん気を使うものだな、と誰もが感心するだろう。しかしなんであれ、あずまえびすがそれを変えようなんぞとしてはならない。それは烏滸の沙汰というべきものだ。この時代に至ってもなお、そのような意識は強固に残っていた。
 そういう泰時も、皇位継承に介入している。幕府は、承久の乱の首謀者である後鳥羽院の近親者が帝位につくことは許さなかった。その孫である第八十五代仲恭天皇を廃すると、第八十代高倉天皇まで遡り、安徳帝の弟の子を後堀川天皇として立てた。しかしこの系統が次の四條天皇で絶えると、第八十三代土御門天皇の子・後嵯峨天皇が即位する。土御門院は後鳥羽院の子だが、倒幕の企てには参加していなかった。しかし、父が隠岐へ流されたのに、自分だけ安閑としてはいられないと、自ら申し出てまず土佐に、次に阿波に流された。そういう人の子ならよかろう、と泰時が決めたのである。
 親房は、これこそ天道・正理に適うもの、と言うのだが、たとえそうだとしても、この後、幕府が皇位継承に当然のように口を出す事態は、長い目で見れば危険なものであった。幕府に都合のいい天皇を選べるという利点はあるものの、選ばれなかった側から深刻な恨みを買うからである。実際、後醍醐帝が倒幕を決意した動機の一つは、自分の息子を次期天皇にすることにあった。

(15)北畠親房によると、建武の新政は承久の変のやり直しなのだった。日本は天皇が統治するのが当然ではあるけれど、また天皇には徳がなくてはならない。「君は尊くましませど、一人(いちにん)をたのしましめ万民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬいはれなれば、政(まつりこと)の可否にしたがひて御運の通塞(とうそく、運の善し悪し)あるべしとぞおぼえ侍る」。その言や良し、だが、実際の歴史にあてはめると、どうなるか。
 後鳥羽院や順徳院には徳が欠けており、この時は幕府の側にそれがあった。今は後醍醐帝と言う有徳でもあれば英邁でもある君主がいる以上、清和源氏の流れを名乗っているが、鎌倉幕府の御家人の一人に過ぎなかった足利尊氏などがしゃしゃり出て来る余地は本来ない、と。【親房はずっと「高氏」と表記している。「尊氏」は御醍醐帝の名「尊治」から一字もらったいわゆる偏諱(へんき/かたいみな)だからである。】
 果たしてどうか。始まりは後嵯峨院からだった。この院は皇子の一人・宗尊親王を将軍として関東へ送り、宮将軍の初めとした他、第二皇子を次の第八十九代後深草天皇、次いで第三皇子を亀山天皇とした。後嵯峨院が崩御された時点で、後深草院・亀山帝ともに健在で、皇子もいたが、それより先に後嵯峨院の意思で、亀山帝の皇子を皇太子(後の後宇多天皇)としていたのだから、前述の崇徳・後白河院の時と同様、後深草院側の不満は当然あり、もしここに藤原仲麻呂やら藤原頼長のような権勢のある公家やら武家やらが同心するようなことがあったら、乱が起きていたかも知れない。
 それはなかった代わりに、この後皇統は二つに分かれ、後深草帝側の持明院統と亀山帝側の大覚寺統は長く角逐を続けた。権威だけの問題ではない。前述した守護・地頭職の武家から荘園の権利を守るためには、幕府とうまくやれる天皇を擁して、その側近になるのが近道であったのだから、公家たちにとっても「誰が天皇となるか」は熾烈な経済戦でもあったのである。
 後嵯峨院は自分が幕府の力で皇位に就くことができたからでもあろう、治天の君(宮中の政治のトップ、つまり形式的には日本のトップ。天皇自身より、その父か祖父がそうなることが多かったことは既述の通り)の選定には幕府の意向を聴くようにとも言っていた。その幕府は、後深草・亀山両帝の母である西園寺姞子(さいおんじきっし。出家後大宮院と称された)に後嵯峨院の遺志を確かめ、亀山帝を治天の君とした。
 建武の新政までにはもう一波瀾あった。後醍醐帝は後宇多帝の子だが、すんなりと譲位が行われたわけではなかったのである。亀山院は、幕府との関係を良好に保つことはできなかった。後宇多帝の後は後深草帝の子・伏見帝が継ぎ、後深草院は治天の君として復活する。その後は後伏見天皇(伏見帝の子)→後二條天皇(後宇多帝の子)→花園天皇(伏見帝の子)→後醍醐天皇と、交互に、いわゆる両統迭立によって皇位は受け継がれていく。それができたのも、幕府が監視していたうえに、長くても十年ほどの期間で、兄弟間で譲位が行われたからもある。
 そのための問題もあった。後二條帝は二十三歳で早世したが、皇子として邦良親王がいた。まだ幼いので、叔父にあたる後醍醐帝が大覚寺統の天皇となったのだが、父後宇多院は、後二條帝の血統に大覚寺統の将来の望みをかけていた。しかし邦良親王は父帝同様健康面で不安があったため、その跡が途絶えた場合には後醍醐帝の血統で皇位継承がされるように、と書き残している。これでは後醍醐帝は予備のスペアみたいな扱いである。
 「正統記」には、上の事情もさらりと記載されている上で、和漢の学に造詣が深い後醍醐帝の才に、祖父・亀山院も父・後宇多院も期待していたと言うのだが、現に邦良親王を皇太子とするように強要されたのであれば、後醍醐帝の立場は崇徳院や後深草院と同じようなものとしか見えない。
 このため、だろう、後宇多院の崩御後も後醍醐帝は譲位せず、天皇親政を続けた。それが我が国の本来あるべき姿であるとして、親房は称揚する。しかし、これでは邦良親王側は穏やかではいられず、譲位を急がせるようしきりに幕府に働きかけるし、鎌倉にもこれに呼応する動きがあったから、明確に敵は幕府、ということになったのである。
 後醍醐帝側は、まず土岐頼貞・頼兼親子を味方にして、幕府の京お目付機関である六波羅探題を襲う計画を立てたが、事前に発覚した(正中の変、1324年)。その後ほどなく邦良親王は亡くなるが、今度は後伏見院の第一皇子が皇太子となった。つまり、大覚寺統・持明院統の交代制度は続いていた。幕府がそれを認めていたからだ。かくして、後醍醐帝の討幕の志もまた、続いた。

(16)後醍醐帝は従来言われてきたほど公家に手厚く武家を軽んじたわけではないし、また網野善彦の言うほど異形の王でもなかったと、『南北朝研究の最前線』に論考を寄せた最近の研究者たちは説いている。院政中は停止されていた行政と訴訟を司る記録所を再建し、帝自ら毎日、一日中精勤していたことは「正統記」にも記されている。
 それなのになぜ、建武の新政は三年しか保たなかったのか。
 一番大雑把に言うと、結局のところ、武士たちは天皇による直接統治を現実面では認めることができなかったからであろう。古代の阿倍比羅夫や坂上田村麻呂は武官であって、朝廷に仕える者たちであった。平安期以降の武家は、所領を先祖と自分が勝ち取り、また守ってきた者達だ。後醍醐帝が出す綸旨などは、内容の適否に関わらず、自分たちと直接関わりのないところから降ってきたよくわからぬ御宣託である。このような意識が、鎌倉時代150年の間に芽生えていたのであろう。だいたいその朝廷には、所領を不当に脅かされたとしても、それを守る兵力はなく、それは他の武士に依頼するのである。中央集権政治を行うにしても、実のないものに見えても不思議はない。
 因みに、明治維新では、天皇の権威の元に、武士そのものの廃絶まで突き進むことができたのは、その前段階で、260年にわたる徳川幕府による強力な支配で、大規模な土地争いは根絶されたことも大きい。江戸時代の政体である幕藩体制とは、形式上あくまで幕府をトップとした武家の連合体ではあるが、この幕府は前の二つと比べてもずば抜けて強力で、おかげで中央集権のための地ならしはできていた。
 14世紀ではまだ、いかにも時期尚早であった。しかも、朝廷のくださる正当性とは関わりなく、鎌倉が、武士にとっての中心地、いわば武家の「都」とみなされていたらしいことは、中先代の乱(「太平記」の表記では「中前代」。1335年)で明らかになっている。先代あるいは前代とは北條家、次に武家の棟梁となったのが足利家、その間に、北條家最後の得宗高時の子時行が、幕府再興の兵を挙げて鎌倉を占拠した。それも20日ほどしか続かなかったのだが、足利家の当代に比して時行を中先代/中前代と呼ぶ。この呼称は「正統記」などにはなく、武士たちの間で、古くから言われていたものらしい。武家の治世は続いていたのだし、続けなくてはいけないという意識があったからに違いない。
 むしろ不思議なのは、「当代」であるはずの足利尊氏が、「身ぐるし」いまでに朝廷にこだわったことだ。征夷大将軍の職を望んだのに後醍醐帝から許されず、勅許も得ずに勝手に鎌倉へ攻め入り、時行を逐って鎌倉を占拠した後は、これまた勝手に武士たちへ恩賞を与えた。幕府を開くつもりだな、と当然誰もが思うのに、足利討伐の勅許を受けて新田義貞が攻めて来ると、朝敵になるつもりはなかったと寺へ引き籠もってしまう。天下人としてこのへんの首尾一貫性の欠如はとても不思議で、よく話題になる。その心事は測り難いが、結果からすれば、尊氏は、古来の権威と新たな武家階層からの要請を一身に受け、引き裂かれた人物ではあった。
 まちがいなく、名将ではあったのだろう。代って指揮を執った弟の直義が敗北しそうになると、「直義が死んだのでは自分が生きている甲斐もない」と参戦し、たちまち新田の軍を蹴散らしてしまう。その後、楠木正成や奥州から駆け付けた北畠顕家(親房の子)に敗北し、九州まで逃れるが、捲土重来を果たし、京を占拠する。
 天皇位は、鎌倉幕府によって後醍醐帝が壱岐に流されていたときに即位し、建武の新政中は上皇となっていた持明院統の光厳院(後伏見帝の子)から、弟の光明帝にと受け継がれた。【尊氏は京都攻めの際、光厳院から院宣を得ていたので、決定的な朝敵の汚名は回避できた。】後醍醐帝は息子の成良親王(尊氏の前に、短期間だが征夷大将軍になったことがある)を皇太子とすることを条件に三種の神器を光明帝に渡し、つまり正式な皇位であることを認めた。が、翌年、京都を脱出して吉野に行宮を建て、先の神器は偽物である、と宣言した。そして改めて、第一皇子の尊良親王を皇太子としたため、ここにいわゆる南北朝時代が始まった。
【現皇室は北朝の子孫であるにも関わらず、明治以降南朝が正閨とされたのは、幕末維新の志士たちに多大な影響を与えた水戸学に依る。】
 このへんの御醍醐帝の粘り強さには確かに異例である。おかげで室町幕府は不安定な二元体制を採ることになった。正当性の根源である皇室が二つある上に、その片方の、南朝=吉野朝への警戒の必要があって、幕府は京都を離れることができず、ために武士の都である鎌倉には鎌倉府が置かれ、関東十か国を統治する強い権限が与えられた。その長は「鎌倉公方」と称し、最初尊氏の四男基氏が就き、以後この家系で継承されていった。つまり、武家社会の中でも二つの中心ができたわけで、「東国の独立」の名に相応しい事態は、室町時代に一番はっきり現出したと言える。
 もちろんこれでは社会は不安定にならざるを得ない。室町幕府は三代将軍義満の時代に体制固めをすることができた。義満は、南朝を飲み込む形で、半ば強引に両朝の統一を成し遂げたが、自身が朝廷での高い官位を望む人でもあり、武家としては平清盛に次ぐ二人目の、太政大臣にまでなっている。また、鹿苑寺金閣に象徴される北山文化を築いた文化人でもあった。関東にはあまり興味はなく、西の大内氏は討伐したものの、鎌倉公方の存在はそのままにした。
 四代将軍義持の時に鎌倉公方・持氏との角逐が顕在化し、東の享徳の乱(1455年発端)から西の応仁の乱(1467年発端)を経て、日本はいわゆる戦国時代を迎える。実際は、室町時代の全体が、義満時代の後半を小休止とした日本社会の地殻変動期だったという見方もできると思う。なにせ、ほとんど絶えることなくどこかで戦乱が起き、いわゆる下剋上によって、武家では鎌倉以来の名家のほとんどが衰亡したのだ。

(17)最近研究会で読んだ小林正信『明智光秀の乱~天正十年六月政変・織田政権の成立と崩壊』(里文出版)によると、明智光秀の前身は室町幕府の武家官僚たる奉公衆であり、彼のおかげで田舎大名の織田信長でも近畿地方の統治ができたのだと言う。
 つまり、織田政権は室町幕府の機構をそのまま継承したのであり、信長が十五代将軍義昭を奉じている以上、足利将軍家も滅びていない。実際義昭が征夷大将軍の職を解かれたのは天正16年(1588年)で、豊臣秀吉が太政大臣となったさらに後のことになる。信長が甲斐の名族にして強豪の武田氏を滅ぼした後、幕府を倒す意思が露わになったので、光秀は誅殺を決意したのだ、と。
 そうかも知れない。しかし、信長の政権構想として、享徳の乱の結果既に名目だけのものになっていた鎌倉公方(末期には古河公方になった)の職に徳川家康を就け、お目付け役の関東管領職には家臣の瀧川一益を当てようと考えていた、と言うのはどうだろうか。室町政権の弱体を招いた東西二元構造まで受け継ぐ、どころか再構築する必要はあったのか。
 いずれにしろこれは可能性に止まる。信長の死後、臣下だった秀吉は、まず関白近衛前久の養子として藤原姓となった。次いで第百六代正親町天皇から豊臣の姓が与えられ、征夷大将軍ではなく、関白太政大臣として天下人になった。つまり、名流ではないが、武力と経済力によって権力を得、天皇と直接結びつくことによって権威を得た。それができる時代になっていた、ということである。
【因みに、信長は平維盛の子孫、家康は新田義貞の子孫を称していたが、本人を初めとして誰も信じていなかったのではないかと思う。ただ、天皇を頂点とした古来からの位階秩序は一応尊重しようとする姿勢を、ここには見るべきではないだろうか。】
 そして検地・刀狩によって、土地所有と身分秩序の整理を進め、日本を中央集権に近づけた。しかし、秀吉の死の時点で、徳川家康は二百五十五万石の東国の大大名として存在していた。これは秀吉一代の失敗だったろうか。いずれにしろ結果として、東国武士によるほぼ完全な日本支配にも道を拓いたことになった。
 その約260年後、主に西国の毛利・島津、というよりはその家臣たちによるクーデターが成功し、その結果天皇が東国に遷った。江戸→東京がここに名実ともに日本の中心となったのである。ここには象徴的以上の意味がありそうに思う。
 ただ、私の関心は、その後の、このような存在である天皇を、立憲君主に仕立て上げようとする、現在まで続く努力にある。もっと勉強してから、ここにもどります。

【「将門記」「平家物語」「愚管抄」「神皇正統記」「東鑑」「太平記」などの原文や書き下し文をネット上にアップしてくださった方々には、感嘆おく能わず、またたいへんお世話になりました。深く御礼申し上げます。】
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