由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

福田恆存に関するいくつかの疑問 その5(暗渠で通じるということ)

2017年08月20日 | 文学
 松乃茶屋

メインテキスト:会田雄次・大島康正・鯖田豊之・西義之・林健太郎・福田恆存・福田信之・三島由紀夫・村松剛『国民講座・日本人の再建1 現代日本人の思想』(原書房昭和43年)
サブテキスト: 福田逸『父・福田恆存』(文藝春秋平成29年)

 福田恆存の御次男・逸氏の近著(以下、『父』と略記する)を読んで、何回か垣間見た恆存先生の晩年のお姿が思い出され、感慨深いものがあった。
 それはそうと、やや個人的な事情もあって、これは自分でも愚考をまとめておきたいな、と思えるところがあった。福田恆存が晩年までこだわった、三島に言われたという言葉「福田さんは暗渠で西洋に通じてゐる」についてである。
 以下、敬称は略します。
 事の起こりは、『現代日本人の思想』(以下、『思想』と略記する)に収められた座談会の時に起きた。これは、巻末のはしがきによると、出版年の1月14日から15日にかけて、箱根湯本の旅館『松乃茶屋』で泊りがけで行われたもので、出席者は標記の九人、うち村松剛が司会を務めている。この大がかりな座談会は、最初から本にするために行われたものだ。
 この中で、『思想』の目次に従えば、「Ⅱ 国家と伝統」の部分で、二人の対立が生じた。活字で読んでもけっこう激しいやりとりになっている。さらにその折の、座談ではなく、おそらく食事の時に、福田は三島から、「福田さんは暗渠で西洋に通じてゐるでせう」と、「まるで不義密通を質すかのやうな調子で極め附けられた」のだという。以下、昭和62年に書かれた「覺書 六」(『福田恆存全集 六巻』文藝春秋昭和62年刊所収)から引用する。

(前略)どう考へても三島はそれを良い意味で言つたのではなく、未だに西洋の亡靈と縁を切れずにゐる男といふ意味合ひで言つたのに相違ない。それに對してどう答へたか、それも全く記憶にないが、私には三島の「國粋主義」こそ、彼の譬喩を借りれば、「暗渠で日本に通じてゐる」としか思へない。ここは「批評」の場ではないので、詳しくは論じないが、文化は人の生き方のうちにおのづから現れるものであり、生きて動いてゐるものであつて、囲ひを施して守らなければならないものではない。人はよく文化と文化遺産とを混同する。私たちは具體的に「能」を守るとか、「朱鷺」を守るとか、さういふことは言へても、一般的に「文化」を守るとは言へぬはずである。(下線部は原文では傍点部)

 「暗渠で西洋に通じてゐる」という評言(というより、悪口)と、約二十年後の「(お前こそ)暗渠で日本に通じてゐる」という返し。この応酬について、まず疑義を挟んだのは、活字になっているものだと、佐藤松男である。故持丸博との対談本『証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』(文藝春秋平成22年刊)で、「これは、三島の国粋主義こそ彼の譬喩を借りれば「暗渠で西洋に通じている」の間違いではないか」としている。
 言葉の辞書的な意味からすると、「暗渠」とは下水や、蓋をした用水路のことである。対義語は開渠あるいは明渠。普段は目に見えないようにされた水路だから、福田の「不義密通」という言葉も併せて考えると、当然、正々堂々としたものではない、こっそりとした繋がりの譬喩、ということになるだろう。三島の「国粋主義」とは「日本主義」ということで、日本を前面に出している。暗渠も何もない。むしろ、そこに密かに、西洋的なものが混じっているとしたら、それこそ「暗渠で通じてゐる」と言うに相応しい、というわけだ。
 対談相手の持丸博は、佐藤の推察に賛成したうえで、しかし、「私はどちらの先生【福田と三島】もそう【暗渠で西洋と通じている】は思いません」と言っている。「三島先生は福田さんと同様に西洋的な知性は十分に備えており、むしろ西洋を知りぬいた上で日本に回帰したというべき」であり、「あえてつながっていると言えば、西洋的思考の残滓、もしくは西洋志向の生活様式があちこちに残っているというべきでしょう」と。なるほど、そういうことなら、「残滓」から「不義密通」というような軽蔑的なニュアンスを除けるとしたら、「西洋に通じている」も相応しい評と言えそうだ。もちろん前提として、福田の文中の「日本」が、「西洋」のまちがいだとすれば、だが。
 一方、前掲書と同年に出た故遠藤浩一『福田恆存と三島由紀夫 1945~1970』(上下巻、麗澤大学出版会)は、福田の言葉を次の二通りに解読している。
 上巻では、「三島こそ、暗渠で通じてゐたのは、「近代」ではなかったのか、日本人として「近代」に通じようとしてゐたのではなかつたのか、その葛藤の先に、あの最期があったのではないか」。日本では「近代」≒「西洋」ということになるから、ここでは上の佐藤の見方と重なる。
 一方下巻では「他者との交流を排して自己に内向するのも、所詮低いところでの自己満足でしかあるまい」。「他者」とは西洋、「自己」とは日本のことである。ここでは「暗渠」とは「内向」、とされている。
 『父』では、この二者(遠藤著からは後者のみ)が紹介された上で、次のように解読する。「お前さん、日本日本といふが、傍目には実に西洋的だよ、西洋文化の落し子だよ、でも暗い下水道で日本にも繋がらうともがいてゐるぢやないか」。なるほど、「暗渠」から「隠されている」という意味を取り除き、正道ではない、邪道、ということにのみとるなら、福田の三島評として不思議はない。

 上記を踏まえて『思想』の舌戦を整理してみたい。まず三島のナショナリズム観。座談会なので福田その他から半畳が入って揺れ動くのだが、だいたいは次のように展開されている。【  】内は、愚考による補足。
(1)ナショナリズムにはパッシヴ(受動的)なものとポジティヴ(能動的)なものがある。前者が、一番普通に言われる民族主義で、「外」からの有形無形の働きかけを脅威とみなして己を守ろうとするもの。この心性は本能的なもので、戦後日本では表向き否定的に言及されることが多かったが、実際は左翼にも利用されている。【例えば六十年安保闘争は、日本を打ち負かし、七年にわたって占領し、現在も実質的に支配しているアメリカに対する、隠微なナショナリスティックな反感が底流にあったからこそ、空前の盛り上がりを見せたのだと思われる。】これに対してポジティヴ・ナショナリズムは、より創造的な、ものを生み出す源泉であり、今後はそれをつくっていかなければ左翼にやられてしまうだろう。
(2)日本文化の本質は創造的なものである。「生む」「成る」が中核にあって、生活の中でもいつも創造している。これに対して西洋文化は「作る」ものであって、これは本当の意味で創造的とは言えない。
【ここで丸山真男が昭和47年に発表した「歴史意識の「古層」」(現在『忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相』ちくま学芸文庫平成10年刊所収)を思い出す人は多いだろう。丸山は世界創造神話中の三つの基本動詞、「つくる」(創造者と被創造者が分離する)「生む」(分離するが連続性は意識されている)「なる」(分離しない)のうち、記紀で語られる日本のそれでは最後のものが圧倒的に多いことに着目し、これと他の重要な語―「基底範疇」と呼ばれる―「つぎ(=次・継ぎ)」と「いきおひ」を合わせて「つぎつぎと・なりゆく・いきおひ」こそが日本的歴史意識の最古の層、即ち根底であるとした。三島はこの着想をどこから得たか。丸山の注記によると、江戸時代の神道系思想家から昭和の日本精神論者まで、「なる」と「うむ」とを基本範疇とした日本主義の哲学あるいは解釈学は多数あるそうだから、そのうちのどれかであろう。篤学の士の教えを請う。】
 具体的に言うと(というより少し飛躍・発展しているようだが)、例えば伊勢神宮の式年遷宮。二十年ごとに隣の用地に新たな社を建て、御本体を移動する、これが、中断の時期はあったが、原則として天武天皇以来連綿と続けられてきた。新たにできた社殿は、元の通りに作られるが、模したものとはされない。すべてオリジナルである。つまり、オリジナルとそのコピーという区分がない。天皇にしてもそうで、百二十四代あっても、その時々の天皇は神武天皇と同一でもある。【折口信夫によれば、代々の天皇に天皇霊が宿る。】現にあるものが新たなものであり、また現にある姿を保ちながら新たなものへと繋がっていく。この時間観念は、マルクス主義を代表とする進歩史観と決定的に相容れない。後者は現にあるものを古いものとして破壊し、その上で新たなものを作る、と考えるから。
(3)日本文化を考えるとき、普遍性はあきらめるしかない。普遍というのは「方法」から出てくる、それ自体すぐれて西洋的なものである。
 それというのも、方法論こそが西洋文明の本質なのであって、これはいわば二階へ行くためのハシゴである。日本では二階はあってもハシゴはなく、ある直感を持った人間だけが上に行ける。西洋人はどんなものもはしごをかけて、誰でも二階まで行けるようにする。例えば、現在までで最も詳細な柔道の理論を書いたのは、オランダのヘーシンクである。【しかしそれを読んだからと言って誰もが柔道の達人になれるわけではない。ここでは、日本人が例えば「会得すべき奥義」などと言うところを、理論化しマニュアル化する西洋の傾向を言っているのだろう。つまり、理論的には誰もが到達可能な道筋を示したうえでの普遍なのだから、日本にこだわる以上は諦めなくてはならない、ということ。】

 次に、『思想』で上に続けて行われた三島と福田恆存のやりとりの、ダイジェストを挙げる。長くなるが、本書は現在古書でしか入手できないのだから、このような引用にも意味はあるだろう。ただし、間に入る他の出席者の発言はすべて除き、両人の発言も適宜削って繋げている。最小限こちらで付け加えたところは【  】で示す。

福田 三島さんはやっぱり日本【と西洋】の差は絶対的なものだと思う?
三島 絶対的なものだけれども、相対的な世界といくらでも交流はできると思うし、その点ではいくらでもインターナショナルになりうると思う。だけど、差は絶対的なものだと思う。
福田 しかし【絶対に違うと言えば言える】個人同士でも国家を形成することができると同じように、日本と欧米とそう差を立てて考える必要はない。
三島 つまり福田さん、欧米と日本との差が相対的であるためには、もう一つその上に絶対的なものがなければ相対性というものは生じないのだから、そうしたら、福田さんがそれを相対的だとおっしゃるときには、すでにその両方を相対化するところの絶対性というものをあなたは考えていらっしゃるわけだ。それは何というわけです。あなたのお考えになる場合には。
福田 それはだから本能ですよ。初めからそういうものだと思っている。いいかえれば、自然といってもいいですよ。
三島 それは人類の自然、つまりあなたは人類というものを信ずるわけね。
福田 いや、自然を信ずる。日本人も、ぼくもその分岐にすぎないという実感だよ。
三島 自然という観念だよ。全部違うよ。この自然、フランスの自然、ドイツの自然、みんな観念だよ。
福田 そんなことはないだろう。やはり根源だよ。生命力の根源みたいなものだ。
三島 ぼくはそうは思わないね。生命主義という側からみると自然は生命かもしれないけれど、人間の歴史からみた場合自然は生命じゃない、観念だよ。歴史の表象だよ。
福田 観念という点では同じだと思うのだよ。それを信じるか信じないかという問題だ。
三島 結局それだけの問題なの。あなたはそれを信じるの――生命、あるいは自然、あるいは人間。
福田 ウン。
三島 たとえば、国際会議をやっていて、国際会議であいつはおれの顏を見てちょっと変な顏をしたな、何か感情を害しているのじゃないだろうか。そうするといま論じている問題どうとるんじゃないだろうか──ドイツ人と日本人でもわかる。アメリカ人と話していても、顏を見ればわかりますよね。そういうことは共通性があると思う。それはごく低い次元では共通性を信じるけれど、それを相対化するところの絶対的価値と言う意味ではぼくは何も信じない。人類なんていうものは全然信じない。人間性というのも信じない。
福田 日本人だけは交流を感じるのかね。日本人だって全然だめなのがいるもの。(笑)ごく素朴ないい方をすると、もう一度生まれてくるとすればどこに生まれてきたいかということになれば、ぼくは日本に生まれてきたいといえばもうそれでいいと思うのだ。――愛国心の問題、ナショナリズムの問題はそういう単純なことでかたがつくと思うがね。
三島 福田さん、こう考えたらどうだ。つまり、お前はそんなことを信ずるなら、日本人ならどんないやなやつでも話が通ずるか、西洋人との間には絶対のサクを置くのかという質問があるでしょう。そうすると、ぼくは日本人との間にも正直いって通じないよね。そうすると、自分の考えている価値というものがどんどん求心的になっていくわね。あなたが遠心的になるのと反対に。求心的なものと自分とを同一化してしまえば、どんなにラディカルになるかわからないわね。しかし、ラディカルにならないまでも、その求心的なものの価値と、日本人だからそういうものをキャッチできるプリヴィリッジがあるので、もしぼくがアメリカ人だったら、ぼくが信じる価値へ到達できないだろうと思うのだ。
福田 それはおもしろいよ。それならぼくも同じだ。
三島 それは一つのインターナショナルな立体面を考えると、その上のほうにかじりつくか下のほうにかじりつくかの問題の差だよ。人類の人間性というのは下のほうにあるんだよ。下水だよ。おれの考えるのは上のほうにあるんだよ。(笑)
福田 おれにほうを下にしたわけだな。上水道と下水道か。(笑)
三島 下水道が人類の人間性だよ。上水道がおれの考えるサムシングだよ。
福田 上でも下でもいいけれども。
三島 それはひっくり返せば上と下と逆になるからな。


 この最後の「下水道」が即ち「暗渠」だとすれば、三島の「福田さんは暗渠で西洋に通じてゐる」なる言葉の意味はかなり明らかであろう。あなたの言う西洋、いや普遍とは、所詮低いところ(下水道=暗渠)での繋がりに過ぎない。自分は、ごく狭い範囲にしか通じないかも知れないが、より高い価値(上水道)を信じて追及しているのだ、と。
 現在、文学者同士でも、こんな言葉の空中戦はめったにない。どれくらいの人が興味を持ってくれるか、心もとないのだが、乗りかかった船なのでもう少し考究しよう。
 三島から見てなぜ普遍性が、程度の低い、下水道の価値なのか。国際会議の例に重ねれば、それこそ本能、つまり食欲・性欲・睡眠欲の三大欲望やら、社会的に他人から承認、さらにできれば称賛されたいという欲求などなどは、プリミティヴであって、人種国籍を問わず、万人に共通すると言える。それを「自然」「生命力の根源」と観念的な言葉で飾ってみても、しょせんは動物的な次元であり、人間的な価値とは言えない、ということであろう。
 現在の私自身が、福田がD.H.ロレンスから得たと思しき「生命力の根源」という発想は、いまいちピンとこない段階にいる。信じるか信じないか、というところからすれば、それは宗教だということになる。「そこをうまく語れるなら、私も教祖になれるのだがな」と、福田恆存が言っていた、という話は聞いたことがある。たぶん幸いなことに、彼はそうはならず、文学者の段階にとどまった。ならば、いかにも三島由紀夫の言う通り、これは観念だということになるだろう。
 しかし、三島の側の「日本主義」も、同じことなのである。日本の「成る」力とやらに実感が持てないとしたら、それは単なる言葉であり、観念だ。ただ、西洋という、「そうではないもの」≒アンチテーゼを措定して、いつもそれを意識せざるを得ないために、どうしても求心的にして急進的になり、そのスリリングさ、激しさは、時に人を惹きつける要素にもなる。その分の危険も、ある。
 それ以前に、三島の論理の破綻なら、至るところに見つけられる。西洋の「作る文化」に対して日本のは「成る文化」だと言いながら、今後「ポジティヴ・ナショナリズム」(しかし、この日本主義者、なんでこう英語を使うかね、というところでもツッこみたくなりますね)のために「成る文化」を「作って」いかなければならない、なんぞと言う。この言葉遣いには初読の時から引っかかったが、それは些末な揚げ足にすぎないかと思った。しかし実際は、もっと致命的なところに繋がっているようだ。
 もっともこの程度の破綻なら、三島にも意識されていた。先ほどのやりとりの少し後を挙げる。

福田 それはいま三島さんが、この場において一つの【日本対西洋の】強調をしただけだといったんだけれども、さかねじをくわすようだけれど、三島さんの文学は最も西洋的なんだな。
三島 それは日本人だからだよ。西洋的であることこそ、また日本的なんだ。
福田 それから、日本は絶対であって、外国と相いれないという、これはやっぱり日本と西洋との間にハシゴをかけているんだよ。方法論を用いているんだと思うのだ。
三島 だからやっぱり西洋のハシゴを借りているよ。
福田 だけど、生む文化であり、なる文化であって、向こうはつくる文化であるという、こういう対立概念でものを考えるというのは、もう西洋的なんだよ。
三島 対立概念を使うのはもう西洋的だね。
福田 だから、もしそうでないなら、日本人は無意識にもっと上代、古代にさかのぼって、のんびり暮らしておればだけれども、もう西洋を意識したんだから西洋的だよ。あきらめなさいよ。(笑)
三島 つまり、福田さんと話する【ママ】のも、ほんとうは話す必要はなくて、目で見てわかるはずなんだ。やっぱりあなたも西洋化されちゃったから、ぼくも西洋的な方法を使わなければわからないんだ。(笑)


 ここでの話は和やかに進んでいるが、読めば読むほど奇妙な気になってくる。西洋を他者として自己=日本を建てようとする方法論はすぐれて西洋的であり、このようなところで過度に西洋的なのがまた、とても近代日本的だ、と。もちろん、低い、「下水道」的な意味で、だが――なんぞと、言葉がくるくる回転するので、目まいがしそうになる。
 整理すればこういうことか。上の翌日の座談会(なぜか三島は出席していない)で福田は、「ぼくはきのうからその問題一番気になっていたんだが、彼我【西洋と日本】の差はいってもいいけれども、それが優劣の問題にいつでも転化するというのが気になるのだ」と言っている。先の三島の発言からも、三島は日本の思想的な優位を確立したいのだな、ということは明らかであろう。
 遅れて近代化の道を歩み始めた日本は、先輩の西洋に対してことごとにコンプレックスを抱かざるを得ない。これは元よりいいことではないが、逆に、西洋に対する日本の優位を言い立てるのも、それ自体が裏返したコンプレックスの現われであり、また福田の言葉を借りれば、近代への適応異常から来る自意識過剰がしからしめるものであろう。低い、とは言わないまでも、あまり健康ではない。
 「覺書 六」を書いた頃の福田は「暗渠で西洋に」が出て来た前後の状況も、座談会で話した内容も忘れてしまったそうだが、その三年後の三島の死を想うにつけ、上の座談に見える彼の「日本」へのこだわりが、すでに淀んだ、「暗渠」を思わせるものだった、と回想されたのだろう。
 ならば、「三島の「國粋主義」こそ、「暗渠で日本に通じてゐる」」という評言は、まちがいではない。「暗渠」という言葉に、不適当なところはあるが、それは初めの、三島の使い方からしてそうだったのだ。
 そうするとまた、最初の引用文の「ここは「批評」の場ではないので」以下の意味もはっきりする。文化とは人の生き方のうちに現れる、というより、生き方そのものであって、意識的に「守る」ことなどできない。そうなったら文化は自己と切り離された対象物ということになる。さらにそれを、「日本主義」「伝統主義」などと、主義(プリンシプル)として追及するなら、人間の生の自然から離れた、非常にグロテスクなものにならざるを得ない。それこそが三島の死であり、「暗渠で日本に通じる」ことだ、と福田は感じたわけだ。
 ただ、三島自身が、かなりの程度理解して、わかったうえでやったのだとすれば、どういうことになるのか。それはつまり、彼の言う「日本的なもの」を、本当はどれくらい、どんなふうに尊重していたのか、と問うことになる。
 そもそも彼は、どこから日本主義に入ったのか。福田が言った、「三島さんの文学は最も西洋的」だというのはお世辞でも皮肉でもない。一番顕著な例だと、「サド侯爵夫人」(昭和40年作)は、日本の戯曲中西欧で最もよく知られ、現に翻訳され、各国で上演されている。【『父』によると福田は、「近代能楽集」以外の三島の戯曲は認めていなかったらしいが。】何しろ、登場するのがすべてフランス人というだけでも日本の戯曲・脚本では珍しい。決してオリエンタリズム(西洋人の東洋趣味)に依るものではなく、正統的な近代戯曲として評価されているのだ。この点で三島は、西洋で作られたハシゴを一番上までちゃんと登ったということである。それでいてなぜそこからの脱却を目指そうとするのか。そこまで「批評」する用意は、今はない。
 因みに、「覺書 六」の後のほうでは、福田は三島の死について次のように言っている。

自衛隊員を前にして自分の所信を披瀝しても、つひに誰一人立たうとする者もゐなかつた、もちろん、それも彼の豫想のうちには入つてゐた、といふより、彼の豫定どほりと言ふべきであらう、あとは死ぬことだけだ、さうなつたときの三島の心中を思ふと、今でも目に涙を禁じえない。

 これは『父』にも遠藤の著にも引用されている部分だが、その後の「が、さうかといつて、彼の死を「憂國」と結びつける考へ方は、私は採らない」については、両著書ともに言及していない。涙は涙として、福田は結局三島の死に方を認めなかったのである。「批評」としては短いが、この節の最後の文を、最後に引用する。

恐らく彼は自分の営爲を「失敗」として死んで行つたのに違ひない。エリオットが「オセロー」について言つてゐるやうに、その死は自分の「失敗」を美化するための「自己劇化」だつたと言へよう。

【ここまで読んでくださった人のために、付録として、福田・三島間の交流の背景を概説的に記しておく。
 終戦直後に最もブリリアントな文芸評論家と小説家に数えられたこの二人の交流は、目立つものだと、昭和22年に福田が中村光夫・吉田健一と三人で作った懇親会「鉢木會」に三島も参加した時に始まったと思しい。
 昭和25年、文学座の創設者の一人岸田國士を中心に「文學立體化運動」(文学と演劇との関係をより密にすることを目指す)のための「雲の會」ができると、二人とも参加している。福田は昭和27年に、三島は31年に文学座に正式入団したのは、この運動の最も顕著な成果であったかもしれないが、文学座から見ると、最大の厄災の種にもなった。
 38年1月、福田が芥川比呂志たち中堅俳優と文学座を脱退、劇団雲を設立した時、三島にはなんらの話もなく、これは両人に、確執とまでは言わないが、しこりを残した。因みにこの時は文学座再建のために理事に就任した三島だったが、翌年自作の戯曲「喜びの琴」が「思想的な理由で」上演中止にされると、同じく退団、新劇団NLT(新文学座の意)を創っている。
 このようにして疎遠になった両人に対談の機会を与えたのは、民族派の学生、のうちでも平泉澄門下生たちが創刊した『論争ジャーナル』誌で、三島は最初から相談に応じ、創刊号の表紙に自分の写真を使うのを許して、すぐに実質的な主催者のようになった。42年の11月、同誌に掲載された「文武両道と死の哲学」は、既に本シリーズ「その2」で取り上げた。『思想』の座談会はその約3か月後に行われたのだが、対談のほうの三島は、左翼への警戒・恐れは座談会時と共通するが、「幻の南朝に忠勤を励」むというような独特の天皇観が主で、今回見たような日本文化論は語っていない。
 一方でこの時期の三島が思想・言論のみならず実際の行動面でも急速に過激化していったのは、よく知られているが、改めて注目に値するだろう。『論争ジャーナル』スタッフの青年たちとの関係が密になるにつれて、自衛隊への体験入隊などを通じ、「楯の會」、その前身である「祖國防衛隊」の構想も具体的になっていった。ただし44年の夏には、資金面での問題などが生じて、「楯の會」で学生長を務めていた持丸博を初めとして、同誌以来のメンバーは全員辞めている。持丸の後任になったのが、日本学生同盟(日学同)での彼の後輩だった森田必勝だった。】
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