由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

福田恆存に関するいくつかの疑問 その10(西尾幹二の「不満」から・下)

2020年04月21日 | 文学

戦艦大和1/10スケール模型 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)

メインテキスト:西尾幹二『歴史の真贋』(新潮社令和2年)
サブテキスト:江藤淳『落葉の掃き寄せー敗戦・占領・検閲と文学ー』(文藝春秋昭和56年)

 福田恆存は『中央公論』昭和56年3月号に発表した「問ひ質したき事ども」の一部で江藤淳を批判している。取り上げられているのは、この年の『VOICE』1月号に出た、日本文化会議のパネル・ディスカッション「日本存立の条件と目標」(開催は前年の9月)、その半分以上の分量を占める江藤の「基調報告」。
【日本文化会議は昭和43年田中美知太郎を初代理事長として発足した保守系文化人の研究啓蒙団体(平成6年に解散)。福田恆存は常任理事に名を連ねている、というよりこの年『文藝春秋』に発表された「偽善と感傷の國」の末尾からは、福田こそ中心的な設立メンバーであったことがうかがえる。が、56年当時は実質的な関わりはなくなっていたようだ。】
 順序として、まず「基調報告」の背景を述べる。
 江藤は昭和54年から国際交流基金から資金を得て、ワシントンDCのウッドロー・ウィルソン・センターに赴き、戦後日本のGHQによる検閲の実態について、原資料に当たって調査した。この時、War Guilt Information Programという言葉がある文書を発見した。直訳すると「戦争責任伝達計画」(江藤訳だと「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」、以下WGIPと略記する)で、つまり、大東亜戦争の日本の「責任」を、占領中の日本人に叩き込め、ということである(詳細は江藤『閉ざされた言語空間』文藝春秋平成元年)。これが戦後日本の言論をずっと縛ってきた、とはこの後保守派の一部にずっと言われ続けている。
 しかし上記のディスカッション時に取り上げられたのは日本国憲法である。これについては検閲も何もない、原文は英語で、GHQによって作成されたものだ。江藤はそのうち特に第九条第二項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」は、「いつまでも付いて廻る手かせ、足かせ」であって、「日本を拘束している交戦権不承認案である」と言う。
 そんなことならこの当時でもよく言われていた。江藤はこれについて新しい資料を挙げるでもなく、「翻訳された現在の憲法の言語感覚が、あるいは戦後の文学作品の言語感覚にかなり影響を及ぼして」いると主張する。
 それなら、公平を期すためにも言っておかねばならない。これらの憲法問題について、もっとも端的に指摘したものとしては、福田の「當用憲法論」(『潮』昭和40年8月号)の右に出るものはない。現憲法の翻訳が悪文であるとも書かれているし、江藤と本多秋五の論争で有名になった「日本という国が、大東亜戦争で無条件降伏をしたわけではない(だから、憲法草案をそのまま受け取る必要はなかった)」ことも出ている。
 その福田が、「憲法と文学とは何の関係もない」と断じる。だいたい、文体上の影響を受けるほど現憲法を読み込んだ人など、著述家でもそうでなくても、ほとんどいないだろう。国語表現能力の衰退は、国語国字改悪と、国語教育の授業時間が半減したことが原因だ、と。
 第一、とこれより前に福田は言っている、江藤はなんのためにアメリカへ行ったのか。「検閲の結果が戦後の文学のみならず日本のジャーナリズム一般、ひいてはわれわれの言語表現のはしばしにどのように影響しているか」調べるためだ、と。しかし、GHQの検察など、「誰でも知つてゐる」。
 福田自身が事前検閲のためにCIE(Civil Information & Education)に出向き、そのときの担当官がたまたま高校時代の恩師で、Boys, be ambitious.で有名なクラークの実弟だったが、旧制高校(浦和高校)教授としての颯爽たる姿とはうって変わったみすぼらしさを恥じているらしく、ろくに言葉も交わさず、目も合わさずに別れたことを記している。つまり、検閲といってもその程度の場合もあった、ということである。
 その通りだろう。それでも、「江藤氏は私のところに(引用者註、検閲の実態を)聴きにくればよかつたと思ふ」(『全集七巻』)と言うのは、初読の頃から違和感が持たれた。これでは単なる厭味だ。
 福田のように、終戦直後から文筆家であり、雑誌の編集にも携わっていた人にとっては、戦後の検閲は「誰でも知つてゐる」ことに過ぎないだろうが、戦後生まれの我々は、教科書が墨で塗られた、など以外は、よく知らない。誰もちゃんと教えてもくれなかったし。
 そのでんで、時の過ぎゆくままに、完全に忘れ去られていいことだとは思えない。だから、あちらの資料に基づき、「事実」を明らかにしようとする仕事は、いつかは誰かがやるべきだったのだし、現に江藤の没後も、研究している人はいる。
 しかし、この場合でも、「事実」よりはその「解釈」のほうが肝腎である。
 GHQ、中でも参謀第二部に置かれた機関CCD(Civil Censorship Division)が遂行した検閲のうちでも、昭和20年10月から23年7月まで実施されたものは事前検閲であり、GHQが忌避すべきとした新聞・雑誌の記事は発表前に削除され、他の文章に差し替えられたりした。
 具体例として、復員してまもなく一晩で書き上げたという吉田満「戦艦大和ノ最期」は、小林秀雄を感動させ、編集顧問をしていた創元社の雑誌『創元』創刊号(昭和21年12月。小林の「モオツァルト」が掲載されている)に出る予定だった。GHQの横槍は当然予想されたので、白洲次郎に周旋を依頼したが、実現しなかった。そして、「戦艦大和ノ最期」という作品自体はもちろん、それが発表を禁じられた事実も、長い間秘密とされた。
 つまり、検閲の事実を明らかにすることも検閲に触れた、ということであり、日本に自由と民主主義を与えることを標榜していたアメリカが、言論の自由を制限していることは隠さねばならぬ、と考えられていた証左である。
 いや、それどころではない。自由も民主主義も、決してアメリカから押しつけられたものではなく、日本人自身の中から生まれたことにしなければならない。アメリカは、もはや敵ではなく、友人であり、師匠なのだった。憎むべき敵は、日本国内の旧軍隊や軍国主義者の他にない。
 かくして、戦後日本の公理としての大東亜戦争史観、即ち解釈は出来上がった。「戦艦大和ノ最期」の初稿は「志烈ノ闘魂、志高ノ練度、天下ニ恥ヂザル最期ナリ」と、大和とその護衛艦隊に乗り込んだ兵士たちを讃える詩句で終わっている。しかし、昭和27年にようやく創元社から単行本で出されると、もう検閲はなくなっていたにもかかわらず、この部分は削られ、その後も元に戻ることはなかった。
【「戦艦大和ノ最期」の初稿(その前にさらにけっこう異同の多いノートがあるので、江藤は「初出」と呼んでいる)は、アメリカに滞在中の江藤が手に入れた貴重な資料の一つで、『落葉の掃き寄せ』に全文収録された。】

 以上の江藤淳の指摘する事実、いや解釈、には説得力がある。
 例えば、「大東亜戦争」なる呼称は、八紘一宇などとともに、「日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノ」として「使用スルコトヲ禁止」された。昭和25年12月15日の、いわゆる「神道指令」の一部である。
 もっとも禁止はあくまで「公文書ニ於テ」であって、個人が私的な文書で使うのは自由であるはずなのに、すべての新聞社、雑誌社、出版社がこれに倣った結果、使うのはタブーのようになった。例えば私も、14年前に拙著『軟弱者の戦争論』でこれを使ったときには、右翼だと思われそうなのが恐くて、けっこう勇気が要ったものだ。
 江藤淳や西尾幹二などの、いわゆる戦中派には、それだけではすまない。
 何人かの述懐にあるように、彼らは昭和20年8月15日を境に、世界観・人生観上の完全な価値転倒を味わった。西尾も、吉本隆明などと同じように、成長したら特攻隊になってお国のために死ぬものだとばかり思っていた、と言う(『歴史の真贋』P.215~216)。
 それは軍国主義日本の洗脳によるものだった、と戦後はアメリカに逆洗脳された。逆洗脳もまた、当然、洗脳である。
 例えば新しい憲法では国民主権が「人類普遍の原理」とされている。本当にそうなのか。それだって、皇国史観と同じく、ある日あっさりひっくり返されてしまうのではないか。タテマエとホンネによって織りなされるこの世の実態にまだ馴れていない子ども・若者にとって、この足場の定まらない不安定感は強烈であろう。
 その上、この価値観は他国からもたらされたものだ。それが悪いか? 悪いと思ってたんでしょ。だから隠したんでしょ? 中身がいいなら、それでいいじゃないか、だけで片付く問題ではない。
 戦後生まれの加藤典洋が、平和憲法を力によって押しつけられたねじれ(『敗戦後論』講談社平成9年)と言うのと、意味は同じだが、切迫感はだいぶ違う。ことは、一人前の個人として成熟する途次の里程標たるべきモラルや諸概念が、借り物だったということだから。
 江藤の後半生の仕事は、挙げてこの事情の影響の深さを告発することに費やされたと言ってよい。丸谷才一の小説「裏声で歌へ君が代」(新潮社昭和57年)にことよせて、国家というと、少なくとも自分が現に生きている日本という国家については、ストレートには語れない。斜に構えたような態度で語られた文学を、「裏声文学」と名付けて、批判した(『自由と禁忌』河出書房新社昭和59など)。

 江藤より三歳下の西尾は、この点で、江藤を補完する仕事をした。『GHQ焚書図書開封 第1回』で、彼はそれを自認している。
 GHQが社会から葬った文書は戦後に書かれたものばかりではない。昭和3年から20年までに発行された約二万タイトルのうち最終的に七千八百タイトル強、中には同じものの重複もあって、実質的には七千百ほど、が選ばれ、流通・販売のライン上にあるものはすべて没収され廃棄された。
 その基準を一言で言えば、上記の「過激ナル国家主義」に近い、とされたものの排除だが、中には、なんでこんなものまで、と首をひねるような書籍もあるそうだ。
 それでも、これだけの選定には、英語のできるインテリ日本人の協力が必要であったことは言うまでもない。【福田の話に出てきたクラークは、いわばその変形で、アメリカ人の現地雇いの職員だったろうが、このときの「協力者」の待遇はおしなべてあまりよくなかったらしい。】
 『GHQ焚書図書開封』はチャンネル桜の企画・制作で、これらの書籍のうちから地方の素封家が所有しているものなど約千冊を発掘し、その中でさらに西尾が価値ありと認めたものを紹介・批評した番組。西尾の講義形式で、一回一時間前後で全二百一回、現在もすべて視聴できる(平成19年~。YouTubeに誰かがすべて無料でアップしてくれていたが、最近最初の方が削除され、ニコニコ動画に再々アップされた版で見られる)。内容を精選した書籍は徳間書店から全17巻(平成20年7月~)、文庫では現在まで6巻まで出ている。
 『歴史の真贋』では、この被害にあった著作家の中で、仲小路彰(なかしょうじ あきら)・大川周明・平泉澄・山田孝雄(やまだ よしお)らについて度々言及されている。
 彼らは皆「広角レンズ」の持ち主だ、と言われる(P.340)。視野がうんと広いということ。加えて、「新しい時代へのフレッシュな感覚」「西洋に学んで西洋を超える」「古代復帰への意思」「永遠への視座」もある、と。
 西尾は明治大正の思想家や学者にはあまり興味が持てないそうで、上のように言える著作家は、江戸から時代を飛び越えて主に昭和に出現した。そして、戦後では、小林秀雄・福田恆存に三島由紀夫や坂本太郎らが持つ「昭和のダイナミズム」に惹かれる、と言う。
 その上で、しかし戦後の、いわゆる保守思想家には疑問がある、とも。「戦後的価値観で戦後を批評するこことは盛ん」だが、「戦争に立ち至った日本の運命、国家の選択の止むを得ざる正当さ、自己責任をもって世界を観ていたあの時代の自己認識」(P.344)はない。
 例えば和辻哲郎。忘れられた学者どころではない。戦後岩波書店から全集が出ているし、主著は岩波文庫にたくさん入っている。しかしただ一冊、GHQによる「焚書」の対象とされた本がある。『日本の臣道・アメリカの国民性』(筑摩書房昭和17年)という、二つの講演をまとめたもので、その後『和辻哲郎全集第十七巻』(昭和38)に入った。
 ここで和辻は、西欧の、南アメリカ・アフリカ・アジアに対する悪辣な侵略の歴史を振り返り、近代でもワシントン海軍軍縮条約(1923年効力発生)以降のアメリカのやり口は、平和を唱えながら、日本の軍備を抑え、アジア人の運命を蹂躙し去ろうとする、人倫の破壊である、と断ずる。
 この著作は、戦後隠されたわけではなかった。「しかし戦後の彼の著述にはこの認識は消えてしまいます。福田恆存が戦争責任はアメリカにもあった、とは決して言わなかったのと同じように」(P.306)

 まとめると、恥ずべき戦争を遂行した恥ずべき国民とされた戦後の日本では、国家についてきちんと、「地声」で語れず、結果、世界に向けて責任をもって自主的に、堂々と主張することができなくなってしまった、ということになる。二流の国民からは、二流の言説しか出ない、と。
 そうかも知れない。が、敗戦によって我々が本当に失ったものは何か、具体的に知るのはかなり難しい。まして、ではどうしたら取り戻せるか、になると見当もつかない。今回は私の考えるその困難の一端が伝わればよい。

 福田恆存が晩年に書いた「言論の空しさ」(昭和55年)は、『歴史の真贋』にも引用されている。
 約四半世紀にわたる自分の警世の言論は、この国の現実を少しも変えなかった、と言っているのだが、西尾はこれを小林秀雄の「解釈を拒絶して動かないものだけが美しい」(「無情といふこと」昭和21)を引き合いに出して、「福田さんは「動かないもの」に気がついているのです。そして絶望しているのです。この国の現実は動かない。全然、何をやったって動かない」(P.210)などと言っている。
 なんだかおかしい。だいたい、この現実を「美しい」などとは、小林も福田も夢にも思っていなかったろう。
 それに、福田の言う現実は、言葉によっては変わらないが、言葉と一緒に、コロコロよく変わる。「要するに、言論も政治も外圧によつて動く、といふ事は、いづれも殆ど無益であり、日本は黙つて何もしないでゐるに越した事はないといふ事になる」(『全集第七巻』)。それは戦争中も同じだった。

当時、私は反戦ではなく厭戦であつたと書いた事があるが、それは反戦を進歩主義の象徴とする風潮に対する一種の厭味であつて、実はやはり反戦であつた。勿論、戦争を悪とするが如き単純な反戦ではなく、国家、国民の命運を賭けた戦に対する姿勢、態度の軽佻浮薄にへどが出るほどの反感を覚えたのである。(同前)

 皆が皆「自己責任を持って世界を見ていたあの時代の「一等国民」の認識」を持っていたわけではない、ということだ。埋没した戦前の言論も、戦後の「裏声」も、要するに時代の風潮に合わせただけのものであり、また風潮を形成した一つに過ぎなかった、と言えば、まことに身も蓋もない話になる。
 しかしそう言いながら福田はこの後でも十年以上、言論活動と、言葉を主とする演劇活動を続けた。一般民衆は仕方ないとしても、いろいろな意味で言葉の専門家であるはずの文学者も、学者も、それから政治家も、自分の言葉に一貫性を保たせるように努めるべきなのだ。もしそれができないなら、できない事情を明らかにするように努めるべきだ。そのようなこだわりだけが、すべてがフィクションである人間社会に、秩序と意味を付与することが出来る。これを最も厳しい形で自分にも他者にも要求してきたのが、福田恆存という言論人だった。

 さらにもう一段、そう言いながらも福田恆存は、結局、戦後の日本社会を、「アメリカによって守られている」というこの国の現状は認めていたではないか、と言われるかも知れない。
 確かに福田は「親米保守」知識人の一人に数えられた。昭和40年には、ジョンソン大統領によるヴェトナム北爆を支持した、というより、日本知識人のお気楽なヴェトナム戦争反対声明に反対した「アメリカを孤立させるな」(『文藝春秋』9月号)を書いている。
 これについては、特に弁護の必要もない。日本は軍事外交的には、アメリカとの同盟関係を基軸としてやっていくしかない、その現実はどうしようもないのだから、ごまかすな、と言っている。だからといって、かの国が必ず日本を守ってくれる、などと信じていたわけではない。
 この点では西尾に、誤解というか、認識不足があるように思う。佐藤松男が発掘して「福田恆存、知られざる「日米安保」批判」(『正論』平成25年3月号中)で取り上げた「文筆業者は一人で責任をとる」(『朝日ジャーナル』昭和57年4月)を取り上げて、「最晩年に、アメリカの戦後政策の善意を疑い出す自己認識の訂正が非公式に行われたようです」(P.294)などと言っている。
 これもヘンだ。いかに談話録ではあっても、『朝日ジャーナル』のようなよく知られた雑誌で活字になったものが、「非公式」はないだろう。全集編集者や、ひょっとしたら福田本人も忘れて、埋没してしまっただけだろう。
 それに第一、昭和55年に発表された「人間不在の防衛論議」(後に「防衛論の進め方についての疑問」と改題。『全集七巻』)中の「第三章 アメリカが助けに来てくれる保証はどこにもない」で、既に上の主旨は詳細に語られている。
 さらに56年発表の、前述の「問ひ質したき事ども」でも、短いが、「アメリカは貿易戦争に勝つために、日本に要りもしない金を捨てさせやうというのに外なるまい」などと言われている。「たとえそれ(引用者註、真の日米安保条約=真の日米同盟)が成立しても、アメリカにそれだけの余力がなければ、日本を見捨てるであらう。さうなつたら、さうなつたで仕方がない。が、それだけの覚悟は持つべきだ」(同前)とも。
 アメリカはしょせん他国なのだ。ただ、日本を決して守らない、とも限らないから、防衛政策上の意味はある。たとえ日本が再軍備しようとも、このような、揺れ動く細い綱の上を歩まねばならないのが、国際政治というものであろう。アメリカはまちがっているの、日本は正しいの、などと言ったところで、始まらない。
 福田が衝いているのは、日本の防衛体制はどうにもならないから(本当にどうにかするためには、憲法を変える必要がある)、「イザというときにはアメリカに守ってほしい」、この願望がそのまま「守ってくれるはずだ」にすり替わる心理で、この種のことは実際によく起きる。こんな国防論、いや国防無能論の幼稚さが多くの人の目に見えるようになってきたことが、現代の、せめてもの「進歩」ではあるようだ。それは確かに、言論ではなく、ソ連や、最近では中国や北鮮がいろいろやってくれるおかげではある。

 以上いろいろ述べた私も、福田恆存が絶対だと思っているわけではない。彼が見逃したので、後継者がやるべきことはいくつかある。西尾のおかげで、私なりに、そのうちの二つは明らかになったと思うので、最後にそれを挙げる。

(1)日本という国の連続性を認識するために、戦前の思考を、肯定否定の前に、理解するように努めるべきだろう。それが難しい。例えば、真珠湾攻撃時に表明された感激を想起することは。
 『落葉の掃き寄せ』中の「改竄された経験」という文章では、平野謙が取り上げられている。
 『婦人朝日』昭和17年2月号に発表された平野「戦争と文学者」は、このように書き出されている。「昭和十六年十二月八日は、私ども日本人にとつてながく忘れることが出来ない歴史的な記念日となるだらう。東亜の新たな曙たる大東亜戦争勃発の日として、永へに青史に残るであらう」(原文正漢字・ルビつき)。
 戦後は、この部分のみならず、「戦争と文学者」全体が、けっこう手の込んだやり方で隠されたことを明らかにしたのが江藤の一文である。これは単なる一例であって、開戦当時同種のことを書いていたのは平野以外に大勢いる。江藤は『文學界』同年1月号に出た青野季吉と森山啓の文章を同質のものとして挙げている。因みにこの両人はプロレタリア文学からの転向者。
 ここから彼らの戦後の変身(でしょ?)を見ると、いかにも不誠実だから、現に様々に批判された。今更その驥尾に付そうというのではない。いったい、昭和16年12月8日の、文学者達のこの熱狂はなんだったのか。「戦争犯罪の反省」(そんなものは成り立たない、と福田恆存が言っていることは前述した)の弁はあっても、これを自ら明らかにしようとした試みを、私は寡聞にして知らない。
 福田が言うような、世間に横溢していた好戦気分に乗っかっただけなのか、もっとすすんで、そのような世間やら軍部への阿(おもね)りだったのか。そう見るのは厳しすぎるとしても、江藤のように、「国を思う気持が深かった」からだ、などと言うのは、逆に人が良すぎるだろう。
 その江藤が、戦後の隠蔽・改竄にはめっぽう厳しく、それはWGIPを内面化した「敗北」だ、などと言う。この言葉は直接には、吉田満「戦艦大和ノ最期」に対して言われている。
 それは、作品を世に出したいと努力するうちには、検閲基準をよく理解する必要は感じられたろう。東京裁判その他の機会から、天一号作戦を初めとする日本帝国海軍の作戦の無謀さが、やや強調した形で伝えられたこともあったろう。
 具体的には、「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ、負ケルコトガ最上ノ道ダ、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ハレルカ、今目覚メズシテイツ救ハレルカ、俺達ハソノ先導ダ」という臼淵磐大尉の言葉は初稿からある。決定版になると、これに「日本ハ進歩トイフコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダハツテ、本当ノ進歩ヲ忘レテヰタ」など、たくさんの言葉が加わり、さらにガンルーム(下級士官室)で、「自分たちはなんのために死ぬのか」をめぐる激論があったことも記されている。
 それはいかにも、戦後ではすんなり受け入れられるエピソードである。それだけに、だろうか、臼淵大尉の言葉を含めて、これらの記述が事実であったかどうか、疑問視する向きもある。
 そしてそんな時代になったら、「天下ニ恥ヂザル最期ナリ」などとはどうにも言いづらくなっていたことは、なんとなくわかる。言いたい感情は残っていたとしても、それがストレートに通じるとは、到底思えないからだ。平野謙もまた、大東亜戦争開始は「東亜の新しい暁」だった、とはもう言えなかった。さらにまた、なぜ言えないかも言えないから、結果としてこれらの言葉は隠されることになってしまう。
 これを「敗北」と名付けるのは、酷と言うより、微妙に的を外しているように思う。
 小林秀雄は、前出「政治と文学」で、この微妙さを文章にしようとした数少ない一人だ。昭和24年に初版が出版された学徒兵の遺稿集『きけわだつみのこえ』(東京大学協同組合出版部)について、直ちに気づいたことがあったが、「言へば誤解されるだけだと考へて黙つてゐた」。しかし、小林は結局それを言ってしまう。
 問題は、全国から集められた手記の取捨選択の基準。それは別に秘密ではなく、編集者によって明らかにされていた。「戦争の不幸と無意味を言ひ、死にきれぬ想ひで死んだ学生の手記は採用されたが、戦争を肯定し喜んで死に就いた学生の手記は捨てられた」のだ。その「理由には条理が立つてゐる」が、しかしそういうことになんら文化上の疑念を抱かない、というのはまちがっている。
 ここから、前回挙げた「私達は……正銘の悲劇を演じたのである」という言葉が出てくる。それには納得する。悲劇にいいも悪いもありはしない、というのも、その通りであろう。しかし我々には、その悲劇の始まりの感情は、もうわからなくなっている。
 これを取り返すことはできるのだろうか。それとも、その喪失を含めて「我々の歴史」はある、と観ずるべきなのだろうか?

(2)我々は今「歴史戦」の最中にある。
 この言葉は、阿比留瑠比を中心とした産経新聞の記者たちが命名したものだが、昭和の終わり頃から、中韓からの、日本の戦争犯罪を糾弾する声はいよいよ高まり、世界的に広まっている。
 現在の中心の話題は従軍慰安婦問題で、それ以前からある南京大虐殺問題も同様、実に根拠の怪しい話であるにもかかわらず、例えばマイケル・サンデルのような学者も信じ込み、日本でもベスト・セラーになった『これからの「正義」の話しをしよう』で、「日本はこれを否定すべきではない」などと書いている。日本人が少しでも反論しようものなら、悪罵と嘲笑を投げつけて、それを消し去ってしまおうとする「人権団体」も、世界各地に存在する。
 これは確かに由々しき事態である。いかにも、言論戦、と言うに相応しいが、議論ではない。最初からこちらの言うことに聞く耳は持たない、と決めている相手とは議論にならない。
 こんなところでは、大切なのは「事実」ではなくて「解釈」だ、なんぞと決して言ってはならない。たった一つの「事実」はあり、それは立証可能であるという前提で語られるしかない。
 裁判の、検察官と弁護人との舌戦に近いわけだが、そのどちらが「事実」に迫り得ているか、判断する(つまり、解釈する)裁判官はいない。全世界の、知性や良心を気にかける習慣のある人々を陪審員に見立てて、気長にやっていくしかない。
 この場合、中島義道が『ウィーン愛憎』(中公新書平成2)で描いたような、こちらの非は絶対に、一寸も認めず、相手側の非だけ言い立てるイギリス人女性に倣うべきなのだろうか。そういう場合もあるのだろう。国際社会とはそのような場であることを明瞭に意識し、文字にしたのは西尾『ヨーロッパの個人主義』(講談社現代新書昭和44)が走りだったと言われている、と本人が自認している(『歴史の真贋』P.265)。
 しかし、これをあまりに強調すれば、重要なのは結局、力(政治力や経済力)のみである、というところに落ち着いてしまう。言葉によって真実(事実ではない)にたどり着くことなど決して出来ない、ならばつまりは、真実などない、ということになる。そこまでのニヒリズムには、人間、そうは徹底できないものだ。たとえそのほうが「事実」には近いとしても。
 それにこれは、その場で、(決裂を含めて)一応の決着をつけねばならない「口喧嘩」ではない。戦後七十五年を閲したのだから、もう充分長すぎる、と言われるかも知れないが、まだまだ続くし、続けなければならない戦いだろう。そこでは、繰り返すが、聞く耳を持たない人には何を言っても無駄。多少はある人に向かって、できるだけ冷静に、公正に、自分の不利も隠さず、理路を尽くして説得に努めるべきだろう。

 ざっとこのようなわけで、現在の、そして将来の日本人が歴史を取り戻すことはますます難しくなっているようだ。小林秀雄や福田恆存の業績は、大きな力にはなるが、我々はそこから、もっと先を目指さなくてはならないのだろう。『歴史の真贋』の結語と言うべき以下の文は、その決意を語っている。

負けたか勝ったかだけの根拠をここで問題にするのなら、これは戦争の論理、政治の論理であって、負けても勝っても立派だったかどうか問わなければいけないわけですから、だったならば、あの時代の日本の運命を、道徳規準で決めるのではなく、国家を襲った歴史の基準によって評価することではないだろうか。(P.347)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする