由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

近代という隘路Ⅱ その2(「平和」への長く曲がりくねった道の端で)

2021年06月30日 | 近現代史
Wilson's Fourteen Points as the only way to peace for German government, American political cartoon, 1918.

メインテキスト:篠原初枝『国際連盟 世界平和への夢と挫折』(中公新書平成22年)
サブテキスト:臼井勝美『満州事変 戦争と外交と』(昭和49年初版、講談社学術文庫令和2年)/山室信一『複合戦争と総力戦の断層 日本にとっての第一次世界大戦』(人文書院平成23年)

 今さらではあるけれど、20世紀とは戦争の時代だった。第一次(1914―1918)と第二次(1939―1945)の両大戦を初め、地球上のどこにも戦争がない時期はなかった。その過程で戦争の様相が変わり、それにつれて社会のありかたも変わった。その結果が我々を取り巻き、誰の目にも見えてきた時代を「現代」と呼ぶ。
 前のほうの大戦中に、飛行機や潜水艦や戦車が武器として使われるようになった(毒ガスもあったが、その後の戦争では歩兵戦が主ではなくなったので、使われなくなった)。それ以上に、一般庶民が「国民」となり、戦闘の前面に出てきたのが大きい。
 壮年男性が原則としてすべて兵士となる国民皆兵、そのための制度である徴兵制は、部分的には中世からあったが、本格化したのはフランス革命(1789―)からだ。「武器を取れ 市民よ/隊列を組め/進もう 進もう!/不浄な血が/我らの耕地を満たすまで!」(「不浄な血」とは、革命時にフランスに侵入したプロイセン軍を指す)という、この頃出来たフランス国歌がこの間の事情をよく示している。
 このような事実は意外に感じられるかも知れない。戦後日本では、一般庶民は戦争の犠牲者とのみ捉えられる。それは、兵器の進歩に伴って戦争の悲惨が増し、また映像など記録手段の進歩でそれが生々しく伝えられるようになったからだが、さらにそれ以前に、戦争の大規模化があった。
 国民との関わりから見ると、以下のようにまとめられだろう。

 第一に、兵士の補充が続くので、戦争がなかなか終わらなくなる。第一次世界大戦は正にそうだった。この時代を描いたマルゼル・プルーストの小説「見出された時」(1927年刊。「失われた時を求めて」最終巻)中のフランスのサロンでは、最初のうち、多くの人が「こんな戦争、すぐに終わる」と言っている。4年以上も続くとは思われていなかったのだ。それというのも、社交界を形成する上流の貴顕紳士には、一般民衆の姿は具体的に映じてはいなかったからだ。

 第二に、上の反面、一般庶民が戦闘員となり、命がけで国を守る責務を負うようになると、それに伴う権利を当然のこととして要求するようになる。普通選挙(これも最初はフランス革命時)前から、民衆は直接行動でこれを示すことがあった。日本では、明治38年(1905)の日比谷焼討事件が目に見える最初の例であろう。
 十年前の、日清戦争の結果得た遼東半島の権益を、三国干渉の結果手放さねばならなかった時には、政府の「臥薪嘗胆」の呼びかけが功を奏したものかどうか、目立った反対運動はなかった。しかし、こんな呼びかけがなされたこと自体が、政府が一般民衆の心事に気を配らねばならなくなった、少なくともそのポーズはつけねばならぬと感じられるようになっていた証左であろう。幕末の諸外国との不平等条約締結時にも、反対はあったが、それは志士と呼ばれる武家階級からに限られていた。農工商の身分の者が、自分たちの生活、いな生存が直接脅かされることに対する、いわゆる一揆(大正年間の米騒動はそれに近い)とは違う、政府の国外政策に抗議する、なんぞということは、封建時代には考えられないことだった(幕府老中阿部正弘が、来航したペリーを如何に扱うか、広い範囲に意見を徴したのに対して、武家以外の者の回答まであったのは、言わば例外だが、この頃までにけっこう高い見識を持つ者が下の階級にも現れていたことを示している)。
 政府によって愛国心を煽られ、家族が兵士として戦地に引っ張り出された庶民は、戦争の成果にも黙っていなくなる。ロシアとの戦争には勝ったはずだ。それなのに、なぜ賠償金を取れないか。理由ははっきりしていて、日本にはもうこれ以上戦う力が残っていなかったからだが、それは説明しづらい。大東亜戦争時の「大本営発表」はこういう場合の公式発表の代名詞になったくらいで、民衆、に限らず人間一般は、自分にとって都合の悪い情報は聞きたがらないものだし、聞いてしまったらすぐに「ではその責任者は誰だ」とくる。そのうえ、おおっぴらに自分の弱みを認めたりしたら、敵国との停戦交渉の際にもそれは相手にとって有利な、即ちこちらにとって不利なカードとして働く可能性大である。
 かくて、戦果に不満を抱く民衆を宥める手段は日露戦時の日本政府にはなく、ポーツマス条約に反対する国民集会はすぐに暴動となり、全権大使の小村寿太郎は条約締結後約1カ月米国で病気療養した後、ひっそりと横浜から帰国した。
 似たようなことはこの前後各国の常態になった。国の指導者が自分の都合と感情だけで戦争をやめるわけにはいかなくなった、ということであり、これも戦争の長期化を招く。total war(全体/総合戦争)とはそういうことである。

 戦争がこのように、万人にとってのっぴきならないものになるにつれて、平和への模索も真剣になった。そのうち最も目立つ里程標としては、第一次大戦後の国際連盟(1920-1946)とパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約とも。1928)がある。戦争の非合法化への取り組みであり、決してまやかしとも、無駄な努力とも思わない。が、人類は結局第二次世界大戦を防ぐことができなかったのは厳然たる事実である。
 なぜか? これはもとより難問中の難問である。このシリーズを通じて省察したい。今回は、20世紀初頭に現れてきたところを瞥見しておこう。

 1918年1月、第28代米合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは第一次世界大戦を恒久平和に向けて有意義に終わらせるべく、議会での演説でfourteen points(十四箇条の平和原則)と呼ばれるものを示した。今後の拙論の展開にも密接に関わるので、以下にやや詳しく内容を紹介する。

第一条 国際条約公開の原則。国家間の取り決め(条約)は、秘密の協定によるものではなく、自国民にも他国にも明らかにすること。いわゆる裏取引は禁じられる。
第二条 公海航行自由の原則。
第三条 国家間の経済障壁はできる限りなくし、また貿易の条件は平等であるべきこと。
第四条 軍備は、防衛の必要上最低限のレベルまで縮減すること。それには国家間相互の保証が伴わなければならない。

第五条 いわゆる民族自決原則。ただし現在イメージされるもとは大きく違うところがあるので、全文を拙訳で掲げる、
 「すべての植民地の要求は、あらゆる主権問題の決定において、関係する住民の利益が、その権利が認められている公正な政府と等しく重視すべきだという厳密な原則に基づき、自由で寛大で絶対に中立な立場で調整する
 わかりずらいですか? これは要するに、植民地の住民の利益(the interests of the populations concerned)は、権利が認められている公正な政府(the equitable government whose title is to be determined)、即ちその地を支配しているいわゆる宗主国と同等のものとして扱われなければならない、ということ。植民地を放棄する、という意味ではないけれど、宗主国に植民地住民の人権を蹂躙するのは明確に禁じている分は、進歩と言える。当時の人権意識は、理想家と言われたウィルソンにして、ここまでだった。これについては後述。

第六条。ロシア駐留中の各国軍の完全撤退。ロシア国内の政治決定権(国家主権)の承認。また、ロシアへの援助の約束。
 ロシアでは1917年のボリシェヴィキによるいわゆる十月革命の結果、世界初の社会主義国家となっていた。ウィルソンは公的なスピーチで最も早くソビエト政権を認めた西側指導者だった。
 もっとも、それは欺瞞的としか言いようのない結末になる。レーニンの指導するボルシェヴィキ政権は同年12月に、「平和に関する布告」として無併合・無賠償・民族自決を骨子とする第一次世界大戦終結のための講和案を発表したが、連合国(英仏中心)側で応じる国はなかった。結果ロシアは単独でドイツと講話を結び、戦線を離脱する。しかし、ウィルソンの十四箇条には「布告」と明らかな共通点があり、これを意識したのは確かだった。
 一方で社会主義・共産主義革命運動の高まりが自国に波及する(実際、レーニンとトロッキーの思想の中には世界革命論があった)ことを恐れた西欧諸国は、密かに革命政権の弱体化を企てたが、英仏は、背後のロシアの脅威が無くなったドイツの、全力の猛攻を防ぐのに精一杯で、遙か東方まで兵力を裂く余裕はなかった。その役割を引き受けたのが日本と、17年4月に新たに英仏側で参戦した米国だった。こうして、ロシア内に取り残されていたチェコスロバキア義勇軍(独からの独立を目指して組織されていた)救援を表向きの理由として、世に言うシベリア出兵が始まる。
 山室信一(pp.126~139)によると、日本軍にとってロシア革命の成功は危機であると同時に好機と捉えられていた。体制変革の混乱に乗じて、満州をも飛び越えて、はるか北方の地の権益を得ようという思惑が生じたのだ。一方英仏側は、最低でもソ連がドイツと組んだりしないように牽制はしてもらいたいが、そのためにアジア東北部で日本の勢力が大きくなり過ぎるのも警戒していた。
 後の懸念は、この地の利権に関心を持ち始めた米国にもあり、日本を監視するためにも、あまり気乗りしない派兵に応じたのだった。このへんの強国同士の虚々実々の駆け引きこそ、大東亜戦争終結時までの日本の歴史=物語の動因となったものだ。次回からじっくり眺めよう。

第七条 ベルギーの完全な復興。
第八条 フランスの領土回復。大戦前の状態への復帰はもとより、1871年のプロイセンによるアルザス・ロレーヌ地方の編入(アルフォンス・ドーデ「最後の授業」に描かれている)は「不正」であったとして、この地は再びフランス領とする。
第九条 曖昧だったイタリア国境の再調整。
第十条 オーストリア=ハンガリー帝国治下の諸国民に、自由な機会を保証する。具体的には、オーストリアとハンガリーの分離を初め、帝国内の諸民族を独立させ、ハプスブルグ王家最後の帝国を解体させること。
第十一条 ルーマニア、セルビア、モンテネグロなど、バルカン半島諸国の完全な独立。
第十二条 オスマン帝国のトルコ人の主権は認めるが、帝国治下の諸民族は独立させる。ダーダネルス海峡は各国の自由な通路として開放する。
第十三条 1814年のウィーン会議(ナポレオン戦争の後始末)以後オーストリア・プロイセン・ロシアによって分割統治されていたポーランドの再統一・独立。
第十四条 「国の大小に関わらず、政治的独立と領土保全を相互に保証する目的で、特定の規約に基づいた国家の一般的な連合体を形成しなければならない」。これが即ち国際連盟設立の最初の理念である。

 改めて全体を眺めると、第七~十三条によって、バルカン半島を含むヨーロッパの支配―被支配関係は否定され、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルグ家)、ドイツ帝国(ホーエンツォルレン家)、トルコのオスマン朝は瓦解することになる。第一次世界大戦の後始末であるパリ講和会議(1919)はほぼこの方向に進み、2年前に既に革命によって命脈が絶たれていたロシアのロマノフ家を含めると、中世期からずっとヨーロッパ・中近東・北アフリカで覇を競った帝国群のうち四つは消滅した。
 しかし、大英帝国はまだ残っていて、この時点で地球の約四分の一を領有していた。その他、アジア・アフリカのほとんどが、ヨーロッパの七つほどの国によって支配されていた。その西欧諸国が王制だろうと共和制だろうと関係ない、植民地とは、自国のものなのである。それが当り前なのであって、戦争に負けてもいないのに、どうして手放さなくてはならないのか、当時はほとんど誰にも答えられなかったろう。従って、民衆もそんなことは許さなかったろう。日露戦争後の日本人について見たように、戦争に勝ったのにご褒美が足りないだけでも怒るのだから。それにまた、アジア・アフリカは未開の地であって、そこの民衆に国を治めるなんてことはできない、と思われていた。
 第五条は、前述のように、そんな状況下でせめてもの一歩を進めたとは言えるだろう。ただ、パリ講和会議で、日本は人種差別撤廃条項を国際連盟規約に入れようと提案したが、この時ウィルソンは、かかる重要な事案は参加国全体の賛成を得なければならない、として、事実上葬り去っている(全員が賛成するわけはない。それはウィルソンも百も承知だったろう)。人種差別問題は今日でも残っていることは周知だが、植民地だけでも、世界が一応の解消に向けて動き出すのは、第二次世界大戦後まで待たねばならなかったのである。

 その日本からして、領土的野心とは無縁だったとはとうてい言えない。日清・日露戦争後の有様やシベリア出兵時のことは略述したが、第一次大戦開始時にも、元老井上馨が、「大正新時代の天佑」と言い, 政友会の代議士(後に原敬内閣の内務大臣)床次竹二郎の「日本ガ東洋ニ於テ優越権ヲ確保スベキ千載一遇ノ好機」など、類似の発言は数多い。
 大陸進出を狙う日本にとって、最大の難敵は支那人より、同じくこの地から利権を貪ろうとする欧米列強だった。それが自分たちのところで喧嘩を始めてくれて、遠隔地である支那大陸までは容易に手が回らなくなったのが、つまり天佑の好機で、正に確保すべきと感じられたのだ。
 日英同盟を口実にして大正3年(1914)にドイツに宣戦布告し、同国の租借地だった山東省膠州湾(青島)を占領した。この地は中華民国に還付すべきである、と表向きは唱えていたが、初手からそんなつもりはなかったろう。翌年には、その山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐことも含む「対支二十一箇条の要求」を中華民国政府に突きつけた。
 日本の要求はその後諸外国から抗議を受けて縮小したが、山東省や満州での特殊権益、旅順・大連の租借権期限延長などを中華民国大総統袁世凱に認めさせた。その代わり袁は、地位を守るために日本の横暴を内外に宣伝し、諸外国からは我が国への疑惑と非難を招き、支那国内では要求を受諾した日(5月9日)を「国恥記念日」と名付け、抗日運動が盛んになった。
 当時の大国のやり口からして、日本はさほど非道なことをしたとは言えないかも知れない。だいたい「やらねば、やられる」時代だった。例えば満州の利権や、さらには支配権など、日本が握らなければロシアのものになった可能性は大きい。ただ、同じようなことをやるにしても、日本のやり方は露骨で、今日まで続く「アジアの侵略者」の汚名の元になったことは否めない。

 これに関連して、次のエピソードが思い出される。ずっと後のことになるが、昭和7年(1932)、柳条湖事件(満州事変の最初)調査のために組織されたリットン調査団が来日して、芳澤謙吉外相などと会談した中で、3月5日、三井の團琢磨が血盟団員によって暗殺されたちょうどその日に、荒木貞夫陸相の話も聞いている。
 荒木は、「日本の貧弱な国土が増大する人口を養い得ず、また世界の門戸が閉鎖されているため、日本はアジア大陸に資源を求めなければならないという現実」を説いた。そしてまた「中国には真の政府が存在しているかどうか疑問である。中国を統一された文明国とみなすことはできないと私には思われる」(臼井p.212)とも。
 政情不安だからと言って「文明国」ではないかどうかはさておき、支那は統一された国家とは言えないというのは、荒木一人の考えではなかった。同年1月に開かれた国際連盟通常理事会の席上、佐藤尚武代表は、十年以上にわたるかの国の無秩序状態こそ事変(直接には上海事変)の根本的な原因だ、と主張した。これに対して国民党の顔恵慶代表が、「日本の陸海軍は政府のコントロールに服さず、日本の外交官が理事会の席上で真面目に約束することが、次の日、軍によって破壊されるという事態は、よく組織された国家の行為といえようか」(臼井p.185)と反論しているのも面白い。
 百歩譲って「文明国」ではないとしても、荒木は、自国ではない場所へ、自国の発展のために軍事的に進出するのだ、と公言している。言っている相手は、その場所での自国軍の謀略を調査に来ている公人である。これまた、現在の感覚とはかけ離れているだろう。逆に見れば、20世紀初頭の世界とは、そんな場所だった。日本は時代のルール、と感じられるものに則って大陸へと赴き、そこで本格的に「世界」と対峙した。この大前提をまず確認したかった。
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学校は黄金の卵を産まない

2021年05月28日 | 教育

The Goose that laid the Golden Eggs - Fairy tale - English Stories

メインテキスト:小松光/ジェルミー・ラブリー『日本の教育はダメじゃないー国際比較データで問い直す』(ちくま新書令和3年)
 本書を読んで、驚いた。今までこういう言説が出てこなかったのがまず驚きだが、本書発行以後でも、たとえ反論であっても、これを踏まえた論は、管見の限りでは、全くない。「日本の学校教育は全体としていいほうで、教師はよくやっている」などとは、意地でも言わない、言ってはならない、とかなりの人が決意しているようだ。
 以下に、本書が挙げているポイントのうちいくつかを、箇条書きにして、多少の注釈を加える。「国際比較」のための主な資料はご存知のPISAの調査である。

(1)2015年度中2生対象のテストで、日本は数学で5位、理科で2位(1位は両分野ともシンガポール)。
 これはピザではなく、TIMSS(国際数学・理科教育動向調査。中学校だと40の国と地域で、約25万人が参加)による国際比較。この調査は数理の分野で「学校で習ったことをどれくらいきちんと覚えていて使えるか」に重点をおいたもの。対してピザは「知識を創造的に使えるか」を調べるのだそうだ。前者を「20世紀型学力」、後者を「21世紀型」、と呼ぶらしい。

(2)そのピザの調査(2018年)では、日本は数学的リテラシーの分野で6位、科学的リテラシーで5位、読解で15位(1位は3分野とも中国)。
 一番下位の読解の分野でも、参加79カ国中ではもちろん、OECD37カ国の中でも真ん中より上ではあるのだが、以前よりは下がっている。これに関する報道と論説はいくつか見た。今の若者・子どもの多くが本を読まなくなったことが最大の原因だろうが、それを踏まえた上で、今後の日本の学校で課題とすべきことの一つ、と言われれば、その通りであろう。

(3)しかしピザには「創造的問題解決」に関するテストが別にあって、そこで日本は参加した40カ国中3位。また、2015年度には「協同的問題解決」についても調査され、日本は2位。前者は意外でも、後者は納得しやすいかも知れない。日本という国は同調圧力が強く、そのためチームであるプロジェクトに取り組むことは得意である、と思われているから。
 むしろ不審なのは、日本人が、ならったことをただ覚えるだけではなく、それを能動的に問題解決に生かす点でも、世界でトップクラスという調査結果は、マスコミに取り上げられることもあまりなく(取り上げた人も何人かはいるが)、従ってあまり知られていないことの方であろう。
 この部分にはもう一つ注目すべきことが書かれている。ティムズでもピザでも、上位にはだいたい同じ、東アジア諸国が並ぶ。これには、様々な国情が関係しているであろうが、それとは別に、「20世紀型」から「21世紀型」とか、「知識から創造へ」などと言うときには、この事実は考慮すべきであろう。創造的な能力を高めるためには、まず知識を習得しなければ始まらないのではないか、と。

(4)OECDは近年、15歳を対象としたピザの他に、大人を対象としたPIAAC(ピアック、国際成人力調査)という調査を行っている。これについては本書記載の実施年などが、なぜか、私がネット上で見たものとは違うので、後者に基づいて述べる。
 調査対象年齢は16~65歳で、実施年は2011~12年。三分野でテスト形式の調査が行われ、数理的能力・読解力の二分野の平均点で、日本は参加24カ国中1位だった(もう一つの「ITを活用した問題解決能力」の分野は、問題形式も結果の集計法も他の二分野とは違うのだが、それで日本は10位。三分野総合では1位)。日本の大学生が勉強しないのは有名だが、だからと言ってその後の学力が落ちているわけではない、とは言えそうだ。

(5)日本の子どもは世界的にみて勉強し過ぎだなどとは言えない。ピザはアンケート形式で勉強時間の調査もしている。学習時間が週に60時間以上(学校の授業時間を含む。その時間は1日6時間×週5日として30時間。つまり、それ以外に30時間以上勉強するということ。塾での学習時間も含まれている)の子どもの割合は、調査に参加した25カ国のうち19位(1位はトルコ)。逆に週40時間以下しか勉強しない者は過半数を占め、その順位は6位。アメリカの子ども(前者で3位、後者で22位)に比べてもずっと勉強していない。そして東アジア諸国の中では最低である。
 このことには別の資料がある。国立青少年教育振興機構が2016年、日本と米・中・韓の、全学年の高校生を対象とした学校以外の勉強の時間の調査をしている。これでも日本は、学校の宿題をやる時間を含めても平均1日2時間に届かず、4カ国の中で最低の勉強時間だという結果が出ている(最高は中国)。
 それでいて、(1)~(3)で見たように、日本の子どもの学力は決して低くはないのだから、大したものだ、と言えるだろう。学校の授業がいいのか、学習塾通いのおかげか。
 後者については、反証が二つ挙げられている。①ティムズは中二以外に小四の学力調査もしている。文科省の調べによると日本の子どものうち塾通いをしているのは、小四で26%、中二で50%超。つまり、倍の割合になっているのだが、これによる学力の伸びは看取されない。②1990年代から2000年代にかけて小学校低学年の塾通いは増えているのだが、その期間、小四対象のティムズの点数は上がっていない。
 学校の授業については、このように数値化された資料はない。ただ、アメリカの教育学者ジェームズ・スティグラーの見解が紹介されている。彼は、日本の数学の授業では、アメリカやドイツと違って、答えを与えるだけではなく、「より多くの時間を子どもたちに与え、数学の別解(別の解答法)について発表させている」と報告しているそうだ。「別解を考えることは物事を別の角度から見る訓練ですので、これは発見的・思考的な課題と言えます」。
 このときスティグラーが参照した授業のビデオは1994~95年のものである。ゆとり教育とその双子の兄弟みたいな新学力観、そしてアクティブラーニングへと続く現在の「教育改革」の流れが本格的に始まったのは2000年以降のこと。日本の授業は、それ以前から生徒の創造性を伸ばすことに適した、質の高いものであったと評価するアメリカの研究者がいたのである。
 そしてまた、前述のピアックの受検者は、この古い時代の授業を受けて成長した人(2000年に18歳以上だったなら、ほぼ30歳以上)が半分以上で、それが総合的に世界一の成績を収めている事実もある。

(6)日本の子どもはだいたいにおいて、学校で楽しく過ごしている。少なくともアンケート調査などではそう答えている。例えば前出国立青少年教育振興機構の調査では、「今の学校生活は楽しいか」の設問に「とても楽しい」「まあ楽しい」と答えた者が78.8%で、その割合は4か国中最も高い。苅谷剛彦氏などによって、ずっと前から報告されている事実なのだが、例えば悲惨ないじめのニュースが大きく報道されると、そちらの印象が強いからだろう、どうしても一般的な認識にならない。
 もっとも、上のような設問と回答が、どの程度に子どもの内面を伝えているか、私も、文学愛好者として、大いに疑問がある。しかし、逆に、日本の学校を概括的に語ろうとするときにこれを無視するのでは、全く恣意的だということになるだろう。
 本書の資料にもどると、ティムズの中二生対象の調査では、「ほとんどいじめられたことがない」と答えた者は日本は80%で、38カ国中5位(1位は台湾)。欧米諸国はすべてより下位に来る、即ち、いじめられたことがあると答えた者の割合が高い。
 そして高校卒業率、つまり高校入学して、途中でドロップアウト(中退)せずに卒業までいった者の割合は97.6%で、31カ国中2位(1位はフィンランド)。
 最後に、十代の子どもの自殺率は、著者達の計算で、29カ国中高い方から数えて14位(1位はニュージーランド)。ちょうど真ん中ぐらいということだから、この点で日本はいい国だ、とは言えない。もちろん、自殺の理由が学校にあるとは限らないにしても。

 以上いろいろ紹介してきたが、本書の著者達も、私も、日本の学校教育は非常にすばらしいのだから、何も改める必要はない、などと言いたいのではない。元来不完全な人間が作って運営している制度が完全なはずはなく、改善すべきところは必ずある。問題は、日本の現在の学校の長所と短所をきちんと見定めた上で、改革を進めようという、当り前の、現実的な姿勢がほとんど見られないことだ。
 現状認識としては、教師はダメなんだ、とひたすら言われる。教師の能力の国際的な比較は、資料もあまりなく、難しい。ただ、ピアックは、受検者の職業もデータとして挙げているので、これに基づいて著者達が計算したところ、日本の教師は数理的能力と読解力の両分野とも、参加18カ国中トップだった
 これにはびっくりしますか? 正直なところ、私も少し意外だった。ただし、ピアックのどの資料をどのように使ったのか、わからなかったので、鵜呑みにはできないと思う。
 しかしその反面、「日本の教師は能なしで、当然やるべきことをやっていない」という観測にはどのような根拠があるのだろう。TVでも、世間話でも。教師の中にすら、そう言う人は珍しくない。もちろん、自分以外の教師は、ということだが。いわゆるマウンティングというやつだ。人を罵るのは気分がいいのだろうが、それだけの話なら、現状をよくするためにはなんの役にも立たないのはもちろんである。
 困るのは、実際の教育改革を主導する文科省とその周辺も、この段階をほとんど超えていないことだ。さすがに日本の子どもの学力は世界的に見て高いことは認めても(認めないんだったらピザやティムズなんてやる意味はない)、それは「古い学力」であって、今後はそれでは、あるいはそれだけでは、足りないんだ、などと言って、教師の尻を叩く。
 教育は「理想」を追求すべきなんだと言い続けるのが、文部行政の第一の仕事であるらしい。そんなことばかりやっていられるのは、教師たちが、古かろうがなんだろうが、学力と呼ばれ得るものを生徒に与えるために、それなりの工夫と努力を積み重ねてきて、おかげで日本の学校は、上で見たように、そこそこうまくいっているからなのだ。これがこの場合の最大の皮肉であろう。
 理想が理想通り達成されることなどない。達成できないものを理想と呼ぶ、と言ってもよい。しかし教育界の偉いさんたちは、世間の力も借りて(実は両者が望むところは根本的に違うのだが、表層的な部分、というか、「教師はダメだ」のところで一致する)、理想が達成できないのは教師のせいにして、かつまた「それはできない」と教師が言うのは即ち教師失格を自ら認めたのと同様だ、という通念を作り上げることには成功した。おかげで、教師たちは、最低限、必死に努力していることは示さなくてはならない、と感じる。それで文字通り死ぬほど忙しくなるとは、およそ滑稽で、もの悲しい話ではないか。こういう点で教師はバカだと言われるなら、返す言葉はない。これについて具体的なことは、拙ブログの「今の先生は年中走っている その2 その3」その他をご参照ください。
 イソップのお伽噺に出てくるガチョウは、一日一個づつ黄金の卵を産んだがために、本当はもっとあるんじゃないかと疑った欲張りの農夫に、腹を裂かれて死んでしまった。日本の学校は、「お前たちの産んでいるのは平凡な卵で、黄金じゃない。努力が足りないからだ」と首を絞められ続けていて、このままではやがて窒息死してしまうだろう。
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権力はどんな味がするか その8(完全な支配)

2021年04月30日 | 倫理
 
1984, 1984, directed by Michael Radford

メインテキスト:ジョージ・オーウェル 田内志文訳『1984』(原著の出版年は1949年。角川文庫令和3年)
サブテキスト:ジョージ・オーウェル 井上摩耶子訳「象を撃つ」(1936年作、川端康雄編『オーウェル評論集 1』平凡社ライブラリー平成21年所収)

 今度の新訳は、評判通り読みやすかった。おかげで、学生時分に卒読したときには自分が「何もわかっていなかったのだな」とよく納得された。
 この小説は、全体主義・監視社会の恐怖をプロットにしており、その一部は、今も、おそらくは執筆当時も、実現している。しかしその中でオーウェルは、全体主義の原理を精緻に語り、結果、それが完全な形では実現不可能であることまで暗示し得ていると思う。ちょうど、人間が完全に自由になる世界は原理的に決して来ないように。

 作中で語られる、(執筆・発表当時では)未来社会についてまず略述する。
 1950年の大戦争を経て、地球は三つの超大国によって分割統治されている。ユーラシア・イースタシア・オセアニアがそれで、主人公ウィンストンが棲むロンドンはその最後のものに属する。なんでロンドンがオセアニア? と一瞬戸惑うが、アメリカがイギリスを併合し、ここを含む大西洋の島々、南アフリカ、オーストラリアとその近隣から成る、つまり、大雑把にかつての大英帝国の版図が意識されているようだ。
 この地を統治しているのは〈党〉であり、その指導者はビッグ・ブラザー(B・B)と呼ばれる。実際に会った者はほとんどいないが、顔は誰でも知っている。テレスクリーン(東京都内の主要地にある街頭大型テレビのようなもの)に大きく映し出されているからだ。それは動画ではなく画像だが、移動してもこちらから見える限りは向こうがこちらを見ているような印象になるように描かれている。顔の下には《ビッグ・ブラザーはあなたを見ている》の文字。18世紀にジェレミー・ベンサムが考案したパノプティコンは、ミシェル・フーコーによって権力の象徴として取り上げられる前に、このように可視化されていた。
 この視線の下で、ウィンストンは〈真理省〉と呼ばれる役所の〈記録局〉という部局に勤め、記録改訂の仕事に従事している。訂正すべき重要案件がこの世界には多いのだ。オセアニアは今イースタシアと同盟してユーラシアと戦争しているのだが、少し前には戦争相手はイースタシアであったような記憶がある。そんな記憶は間違いだ。また、昨年発表された各種生産物増加の予測は大幅に下回ったが、それなら、そんな予測はなかったのだ。党が今正しいと言っていることは、ずっと正しかったのであり、そうではないという記録や記憶は改変あるいは抹消されなければならない。
 それなのにあるとき、ウィンストンは決定的な証拠を目にしてしまう。党の草創期には活躍したが、やがて裏切ったとして処刑された三人の男が、重大な背信行為をしたとされるその日に、別の場所にいたことを示す報道写真だ。それはウィンストン自身の手ですぐに棄却されたのだが、彼の記憶には残ってしまう。この世界は欺瞞に基づいて成立している。そこで内面の自由を保つために、ウィンストンは密かに日記をつけ始める。
 用心の上にも用心をしなければならない。監視の目は至るところに光っている。子どもたちは、相変わらず両親の手で育てられているが、親子の情愛より党の〈正義〉を優先するように教育されていて、両親に怪しい言動があった場合には、すぐに密告するまでになっている。
 怪しい、と言っても違法行為というわけではない。だいたい、法律なんて、もうない。当人にもよくわからぬうちにであっても、党の正しさに疑問を付したような場合には、〈思想警察〉に捕らえられ、多くの場合、その後どうなったかはわからなくなる。その恐怖こそ、党の統治手段なのだった。

 しかしウィンストンと同じ省の〈調査局〉で働くサイムによると、こんなのはほんの序の口なのだ。
 彼は文献学者で、『ニュースピーク辞典第十一版』の編集に携わっている。これによって新しい言語・ニュースピークは完成するはずだ。最大のポイントは、新しい単語を作り出すのではなく、むしろ古い言語(現在の英語)を削減するところにある。
 この原理は、作者が巻末にわざわざ「付録」をつけて詳述するぐらい力を入れており、優れた考察が示されている。以下では、付録中、日常言語に関する「A語彙群」での例を紹介する。一言で、大雑把に言うと、「必要性」からみた単語の整理統合である。
 例えばgood(善/よい)に対してungoodという言葉を発明すれば、bad(悪/わるい)は不要になり、捨てることができる。「とてもいい」はplusgoodと言えばよく、「とてもとてもいい」はdoubleplusgoodと言うことにする。逆に、「とてもよくない」はplusungood、「とてもとてもよくない」はdoubleplusungood。すべての名詞・形容詞にこの接頭辞を適応し、副詞形語尾は一つとする。
 これで英語はどれくらい簡便になることか。善悪に関する全概念はたった六語で現わされ、しかも元は一語で、あとはその変化、というか、接頭辞か接尾辞を付け加えて、しかも常に同じ辞で作られるるのだ。
 別にいいんじゃない? 簡単で、便利になるんでしょ? とおっしゃいますか。考えてもみよう。この原則では、nice, fine, virtue, vice, evil, wonderful, excellentなどの類義語が削られることが予想される。そのうちにはkind/kindness, beauty/beautiful, cruel/crueltyのような、けっこう違う意味の単語でも、要するに「いいこと/悪いこと」のうちなんだろ、ということで葬られるかも知れない。
【福田恆存の戦いがどうしても心に浮かぶ。例えば、戦後の国語国字改革の流れの中で、「狼狽した」が読めなかった、どうして「あわてた」と書いてくれなかったのか、と思ったなどと言う者がいた。それに対して福田は、「狼狽」の語を使ってはいけないということは、「さすがに狼狽の色は隠せなかつた」という文体の死を意味する。そんなことを要求する権利が誰にあるのか、と批判した。『私の國語教室』所収「陪審員に訴ふ」による】
 これによって、複雑な表現はほぼ不可能になる。ならば、まず文学が、次に思想が死滅する。言うまでもなく、人間は言葉によって思考する者だからだ。それはサイムにもよくわかっており、むしろそれこそがニュースピークの本当の狙いなのだ、と誇らかに言う。

ニュースピークの目的は総じて、思考の範囲を狭めることにあるというのが分からないか? 最終的には思想を表現する言葉がなくなるわけだから、従って〈思想犯罪〉を犯すのも文字通り不可能になる。

 思想警察や監視なんてことが必要なのは、まだまだ支配が完璧ではない証拠だ、というわけだ。
 しかしここには、ウィンストンやサイムが、インテリであるがゆえについ見逃してしまう要素がある。それは人間存在のどうしようもない猥雑さであり、いいかげんさである。

 ジュリアという〈創作局〉に勤める若い女性を、ウィンストンは最初嫌う。女としての魅力に溢れていながら、党是を心から信奉し、例えば〈二分間ヘイト〉(党の敵とされた人物への憎悪を集団で示す集会)のときには熱狂的な怒りをスクリーン上の〈人民の敵〉にぶつける。もし自分の内心を知られでもしたら、たちまち密告されてしまうだろう、と思うから。
 ところが思いもかけず、彼女から「愛しています」というメモをもらう。罠ではないかと疑いながらも、会ってみると、向こうの気持は本物で、彼らは逢瀬を重ねるようになる。
 ジュリアの行動原理は簡単明瞭、人生を楽しむことだ。ウィンストンのように、党のあり方に論理的に疑惑を抱く、なんてことはない。ただ、面白くもないことを押しつけられて、面白いことを禁じられるのは我慢ならない。それでも、正面切って反抗する、なんてしない。最も面白くない結果を招くことは明らかだから。党の目を盗んで楽しいこと、例えば気に入った男と楽しいひとときを過ごすのが一番だわ。
 他と同様、享楽も表だって禁じられているわけではない。現にジュリアは、プロレ(←プロレタリアート、実質的には下層民)向けの三流ポルノの制作に携わっている。その程度の性的放縦は許される、いやむしろ推奨されているに近いことは、何しろお役所が作って配布しているところからわかる。売春も、こっそりチマチマやるならOK。労働者階級は全人口の85%に及ぶが、どうせ何もわからず、何もできないのだから、放っておいてもよい、と考えられているのだ。サイムも、「プロレどもは人間じゃない」と言う。
 党に属している者たちには、禁欲主義が押しつけられている。もちろんジュリアはそんなものを信じていないし、厳格に守る気もさらさらない。性的なことだけではなく、食物や嗜好品についても。酒も煙草もチョコレートも、配給されるのはすべて不味いまがいものなのだが、彼女はあるとき本物の砂糖やパンやジャムやミルクやコーヒーや紅茶を持ってくる。
 どこにあった? 党の内局、つまり幹部連中ならみんな持っていて、自分たちだけで楽しんでいる。どうやって手に入れた? についてははっきりとは説明しないが、たぶん、彼女の性的な魅力を使ったのだろう。お偉いさん達のお楽しみが、食の分野にのみ限定されているとは思えないから。
 実際の社会主義国でざらにあったし、今もある党中枢の堕落だ。そもそもこんな快楽は、〈ブルジョワ的〉と呼ばれ、否定されたのではなかったか? しかし、せっかく苦労して革命を成し遂げたのに、ささやかな楽しみさえダメというのは、あんまりではないか? 下の者への示しをつけるためなら、こっそりやればいいのだろう? と言って、どんなにうまく秘匿しようとしても、この〈堕落〉はやがて、例えばジュリアがやったであろうような手段で、外部に漏れ、党の〈正義〉を疑わせ、ひいては体制の崩壊をもたらす。
 だから、党の綱紀を引き締めなければならない、などと言うのは簡単だが、実際にうまくいったためしはない。そんなんでは、人生が、少しも面白くないからだ。
 この実例として、ウィンストンの結婚生活が描かれる。

 妻の名はキャサリンという。すらりとした美人だが、頭はからっぽで、党の言うことしか入っていない。セックスは嫌い、なのに、党は子どもを作れ、と要求するので、週に一度、よほどのことがない限り、ウィンストンを強制して、やる。ウィンストンにとって、他のすべてには我慢できても、これには耐えられなかった。離婚は許されていなかったので、すぐに別居した。
 いやなのに、義務としてだけ行うセックス。労苦というよりは拷問に近い。男女の立場が変わっても、同じ事だろう。
【オルダス・ハックスリー「すばらしき新世界」は、「1984」より前の1932年に書かれているのに、試験管ベイビーの発明によって、この問題を理論的に解決している。この世界ではセックスは、まるでスポーツのような、純粋な娯楽になっている。それですべてうまくいくかと言うと……、については、この作品に直接あたってください。】
 話は個人的なところでは終わらない。サイムの理想は、すべての人間をキャサリン化することだ。いや、それ以上だ。党が正しいということ以外は、想像もできない、思いつくことさえない人間にしようとするのだから。
 人間が快楽を知り、快楽を求める以上、決して完全に実現することはないと思うが、もし実現したら、そこにいるのはもはや人間とは言えない。ロボットだ。
 即ち、完璧な支配とは、支配される側をロボット化してその上に君臨することだ。
 しかし、そんな支配になんの喜びがあるのだろう? 
これが、私が以前に述べた「ピグマリオンのジレンマ」である。
 作中のラスボスである党の指導者(B・Bよりは下)は、「いかなる瞬間であろうと、そこには勝利の興奮が、無力な敵を踏みにじる愉悦がある」と言うのだが、これは相手が無力ではあっても人間だからではないか。子どもがおもちゃを壊す快楽もあるにはあるが、そんなに長続きするものではない。
 それだけではない。完璧な支配が実現したら、支配者、即ち「踏みにじる」側も、人間である必要はなくなる。いやむしろ、そうでなかったら完璧ではない。現に、このラスボス氏も執筆者の一人であるという文書には、こう書いてある。

 ヒエラルキー的構造が不変のままであれば、誰が権力を掌握しようが問題ではないのである。

 支配―被支配のシステムの作り出すヒエラルキーがあれば、権力者という〈個人〉は、むしろいないほうがいい。これがパノプティコンの要諦なのである(フーコーの言う、「権力の没個人化」)。現に、B・Bという最高指導者は、画像だけで、たぶん実体はこの世にない。
 生きている人間も似たようなものだ。ウィンストンが捕らえられ、ラスボス氏と対面して、「あなたも捕まったのか!」と問うと、彼は正体を現し、「捕まったのはずいぶんと昔の話だよ」と言う。これは、彼がシステムにほぼ完全に絡めとられていることを暗示している。
 ただ、「ほぼ」であって、完全に「完全」なのではない。「無力な敵を踏みにじる愉悦」に浸る変態性という、かろうじて人間的な部分を残している。彼はウィンストンを、いわゆる人間性へのこだわりを抱いているという意味で、「最後の人間」と呼び、その部分の抹殺を図る。拷問を使って、それには成功するのだが、本当に完全を目指すなら、自分自身がヒエラルキーの最上位というシステムの純粋な一部になりおせなくてはならない。憎しみも、変態的な喜びも、感情はすべて、余計な夾雑物なのだ。
 
 ところで、支配がこんなものだとしたら、古今東西繰り返された血みどろの権力闘争はなんのためか、そんなつまらない地位を得て、維持するために、どうしてそんなに人を殺さねばならなかったのか、と疑問が生じるかも知れない。
 その理由は、既に15世紀、シェイクスピアが「マクベス」や「リチャード三世」で余すところなく描いている。一度「やるかやられるか」の闘争の世界に入ったら、もう止まることはできなくなる。止まれば、弱気を見せたとみなされ、やられるからだ。実際はどうでも、自己の恐怖心からは逃れられない。何より、自分が今まで、反対側で、さんざんやってきたことなのだから。
 恐怖そのものは人間的な感情だと言える。しかし、まちがいなく惨めなものだろう。このため、時代が下るに従って、殺人も圧迫も、強制収容所(≒パノプティコン)などを使ったシステマティックなものになっていった。「1984」では〈愛情省〉という役所がそれだ。
 もっと大きな矛盾がある。闘争を止めるためには、ホッブスが「リヴァイアサン」で説いたように、大きな力による支配が必要になるところ。権力を完全に否定することはできない。「1984」の世界はすぐ隣にある。人間世界に、「正/不正」(good/ungood?)の概念しかないなら、だが。

 元に戻って、支配システムの本当の怖さを、オーウェルは支配する側として体験していた。彼の数あるエッセイの中でも特に名高い「象を撃つ」は、極めて簡潔に、これを伝えている。
 1920年代前半、オーウェルはイギリスの植民地だったビルマで警官をしていた。「南(ロワー)ビルマのモールメインでは、私はたくさんの人々に憎まれていた――たくさんの人々に憎まれるほど重要な存在となったことは、私の生涯でこの時だけである」。まずこのアイロニーに満ちた書き出し、doubleplusgoodですな。
 話はいたって単純で、どこからか逃げ出した象が市場であばれているので、なんとかしてくれないか、という依頼を受けたオーウェルが、古いウィンチェスター銃を持って現場に赴き、この象を撃ち殺す。以上。
 問題はこの過程での彼の心理にある。オーウェルは象を殺したくなどなかったのだし、その必要もなかった。最初のうちこそ暴れまくって、店を壊し、人も一人ふんずけて死なせていたが、彼が着いたときにはもう弱っていて、危険はなかった。象の持ち主が来るのを待って、引き渡せばよかった。
 しかし、この一番簡単なことができなかった。なぜなら、少なくとも二千人はいる野次馬のビルマ人のうち、誰一人それを望んでいなかったからだ。

この時私は悟った。白人が暴君と化すとき、彼は自らの自由を破壊するのだと。彼は、見せかけだけの、ポーズをとったかかし(ダミー)の一種、型にはまった旦那(サーヒブ)となってしまう。なぜなら、白人が「土民たち」を感服させようと努めながら一生を費やすことこそ、白人支配の条件であり、それゆえ重大な場面ではつねに、白人は「土民たち」の期待に応えるようにふるまわねばならないからである。彼は仮面をかぶる。すると、しだいに顔のほうが仮面に合うようになってくる。

 この事件の前から、オーウェルは帝国主義はまちがっているという確信を抱くようになっており、一日も早く仕事を辞めてイギリスへ帰ろうと考えている。心情的には、ビルマ人の味方だった。しかし、そんなのは問題ではない。彼は支配者としてそこにいる。実態は支配機構の端くれなのだが、そうであればなおのこと、支配者として相応しく振る舞わねばならない。そうでなければ、彼の存在価値は、ゼロというよりマイナスになってしまう。
 冒頭の一文にあったように、支配者はこの国の人々に嫌われている。そりゃ、力で無理矢理支配しているんだから、当然だ。支配者らしい振る舞いをすれば、一時は「感服させ」られても、結局はますます嫌われるだろう。そうかと言って、相応しくない振る舞いをするなら、そこに「変な、だらしない奴」という軽蔑がつけ加わるだけなのだ。支配―被支配のシステムの外へ出ることは決して出来ない。これがオーウェルの実感した「帝国主義の本性――専制政府を動かしている真の動機」なのだった。
 植民地から収奪する富は大きいに違いない。しかしそれも所詮は抽象物で、支配者と被支配者が顔をつき合わせている具体的な場では口実以上の意味はない。儲ける奴は他所にいるのだから、「具体的な場」にいるのは双方とも犠牲者だ、というのも、そのレベルの正しさだ。そういうものは個人の究極的な支えにはならない。ウィンストンは「1984」の最後に、それをとことん思い知らされる。

 「希望があるとするならば……それはプロレたちの中にある」とウィンストンは秘密の日記に書く。それは正しいのだが、やっぱり少し方向がズレている。現在の党の支配は欺瞞に満ちた不当なものであり、やがてはそれに気づいた大衆の手で打倒されるだろう、というお馴染みの希望がそれで、そういうことは、絶無ではないにしろ、めったに起こらないものだ。ボルシェヴィキでも中国共産党でも、民衆そのものとも、民衆の代表とも、すんなりとは呼べないでしょう? ここをよく見定めないから、各国の革命運動は成功してもしなくても、おかしなことになってしまうのだし、「1984」はその事態の究極を描いているのである。
 最大のポイントはやはり言語の統制だ。本当にそれができるだろうか? プロレたちは、貧しくてもそれなりに生き生きと生きていることは少しだが描写されている。もちろんそこには淫行もあれば犯罪的なこともあるだろうが、それをも含めて。
 日常言語とは、我々庶民が生活の中で抱く、あまりにも種々雑多で、完全にはまとめようもとらえようもない感情の表象なのだ。そこで、古いとか、めんどうくさいとか、なんとなく気分にそぐわないとか、誰にもよくはわからない理由で使われなくなる言葉がある。一方、狭い共同体や、若者階層でのみ流通する言葉があって、後者は今はSNSのおかげですぐに全国的に広まる。それを使えば、いわゆる大人とは一線を画した若者の世界ができるような気がするので、あるものは一時期好んで使われ、大人たちは「言葉の乱れ」に眉をしかめる。
 私も眉をしかめる側だが、こういうものを完全になくすことなどできないぐらいは知っている。いいも悪いもない。人間が生きている限り、自然に歳をとるように、自然に変わるというだけの話だ。そしてこの「自然」が完全に破壊されないなら、どのように整備されたシステムも、内部から相対化され、揺らいでいくことは免れない。人間の生活実感は、必ずシステムをはみ出してしまう、と言ってもよい。
 ただし、これだけだったら人の世は完全な無秩序状態になってしまうので、箍(≒システム)をはめるための権力が必要になる、というところで話はくるくる回ってしまい、決着はつかない。それでも、元来、正義も、法も、人間が生きて行くために必要とされるのだ。今後どのような世の中になろうと、この基本だけは忘れてはならないと思う。
コメント

近代という隘路Ⅱ その1(帝国主義の末期にひと踊り)

2021年03月31日 | 近現代史

列強クラブの仲間入り ジョルジュ・ビゴー画 明治30年

メインテキスト:原田敬一『シリーズ日本近現代史③ 日清・日露戦争』(岩波新書平成19年)
サブテキスト:山室信一『日露戦争の世紀―連鎖視点から見る日本と世界―』(岩波新書平成17年)

 天皇中心とはちょっと別に、ずっと昔やっていた、戦争中心の日本近現代史について大雑把に述べるシリーズを再開します。以前は加藤陽子が高校生にした特別授業に基づいた本をメインテキスト使い、年代順に、日露戦争時まで辿りましたが、よりノンシャランに、思いついたことを書いていきます。こんなこと、誰も気にしてはいないと思いますが、一応のお断り。

 のっけに文句を言うことになるが、原田敬一の著書は読みづらかった。長い期間を駆け足で説明しているのだから舌足らずになるのはしかたない、とは言えるが、それ以上に誤記が多いし、文章が練れていない。
 それは棚上げにしても、この人の歴史観は、「なるほど、これが岩波文化人だな」と納得されるていのものだ。以下に、特にひっかかったところを挙げて、なぜひっかかったを説明する形で、愚考を述べる。【  】内は引用者による付け加え。

(1)こうした過程からすると、日本が積極的進出を計らないかぎりは、日清開戦の可能性は低かったのである。(P.53~54。これは高橋秀直『日清戦争への道』に拠ると注記されている)。
 「こうした過程」とは、主に、明治18年(1885)の天津条約によって、朝鮮における壬午事変(明15)以降の日清両軍の軍事的緊張が解かれ、さらに両国とも、将来再び出兵するときには必ず相手国に通知(行文知照)し、また所期の目的を達した場合は駐留したりせずに直ちに撤兵する、と定められたことを指す。
 現在の目からは、複数の他国の軍隊が、自由に領土に入ってきて、一触即発の状態になる、なんぞというだけで充分に異常に見えるだろう。帝国主義の最盛期の、第二次英仏百年戦争(1689―1815年)を初めとする植民地争奪戦では、特に珍しいことではなかった。因みに日露戦争では、陸地の戦場は朝鮮と清国のみになったが、これはこの戦いが、帝国同士が直接ぶつかる、最後の(広義の)植民地争奪戦争であったことを示すものだ。
 話を戻すと、当時の朝鮮には軍民の叛乱(これが壬午事変)を押さえることはできず、従って国内の、他国から来ていた居留民を保護することも出来ず、従ってまた、それを保護するという名目でその他国の軍隊が入ってくるのを阻止することも出来なかった。
 こういう国が二つの強国に挟まれた場合、どちらかの言いなりにはならず、最低限の独立を保つためには、片方が手を出しそうになったら、もう一方が絶対に黙っていない、という状態にしておくことは確かに有効ではあるだろう。それでも、戦争よりはましだろうか? だいたい、この「平和」は、あからさまに、軍事力の抑止効果の上に成り立っているのだ。それこそ、「冷たい戦争」と言うに相応しい。
 そのうえ、睨み合っている国々にしてみれば、中にあるのが自国内の動乱も鎮められないような国なのでは、風向き次第でどう転ぶかわかったものではない、という不安定は決して拭えない。自国の利益保全のためには、この弱体な国の外交と軍事のヘゲモニーを握るに如くはない。その切迫感は日本が最も強く、だから「積極的」に出たのである。これについては後述。

(2)その【清仏戦争】後日清戦争までの一○年間アジアはほとんど平和であった。一八五○年前後、清が混乱した状況を利用した列強の弾圧はいったん収まり、列強の新たな攻撃によるアジア分割という危機はまだ始まっていなかった。/だが、日清戦争は、清の軍事力が弱体だと世界に暴露し、列強諸国に対抗する軍事力がアジアに存在しないことを伝えてしまった。以後、列強はアジアへの侵略を再始動する。植民地台湾を確保し、「大日本帝国」としてアジアに登場した日本も、連動して帝国主義のアジア侵略を拡大していく。一九世紀末以降のアジアの危機は、日清戦争によって生み出されたのである。(P.87)
 「眠れる獅子」と呼ばれていた国が、実は「眠れる××(自主規制)」だった。それを暴いたのが日本だったというわけだが、西洋列強とは、相手に「列強諸国に対抗する軍事力」がない、つまり弱い、とみたら、かさにかかって襲いかかってくる、そういうハイエナみたいな(ハイエナに失礼かな?)連中だということは初手から明らかだったろう。
 具体名を出せば、英仏独及び露に加えて、1898年にスペインとの戦争に勝って大西洋方面の安定を得た結果、改めて太平洋からアジアまで目を向けるようになった米が、おのおの合従連衡を繰り返しつつ、清国からの略奪レースに参加する。
 しかし、いきなり兵を出して占領、ということはなかった。租借地という名で土地を借り(と言っても施政権は借りた側に属する)、鉄道敷設や鉱山採掘の権利をもらって金を吸い上げる方法を用いた。帝国主義的収奪を4世紀以上も繰り返して、スマートなやり方をするようになった、と言えないこともないが、それより、あんまり露骨に強引なやり方をして、他の強国の反発を買うのはできれば避けたい気持のほうが大きいであろう。言わば、上記天津条約における日清のにらみ合い(相互監視状態)を、ずっと国土の広い清に舞台を移して、多数の国家間でやるようになったのだ。それでも、ドンパチは少ないだけ、全面戦争よりはましであろうか?

 ここは本シリーズの要とも言うべき部分なので、少々の脱線は看過していただくことにして、敷衍して述べておきたい。
 日本はいかにも、新たな侵略のきっかけを作り、また自身も侵略プレイヤーの一員として振る舞った。それについて、単純に日本を批判するような口吻はどうなのか、と思う。上のような状況では、国際社会では力がすべて、とまでは言わなくても、力がすべてに優先する、と考えるのは当然ではないだろうか。弱肉強食のサバンナのような世界に遅れて参加した日本は、この論理を、いささか過激に進めたきらいはあるにしても、だ。
 だいたい、英仏独米などは、本国から遠いところで利権漁りをしていたのだし、近隣国の清と露は元来大国であった。両国とも、日本との戦争を遠因の一つとして、革命によって体制がひっくり返るのだが、その危機が目前に迫るまでは、比較的鷹揚なものだった。新参者の日本が一番、文字通り国の命運を賭けて、必死にやらざるを得なかったのである。
 他方、支那の属国と位置づけられていた朝鮮は、宗主国の国是である事大主義を、過大に、言わば純粋形で取り入れ、具体的には厳しい身分秩序と(最広義の)生産業蔑視を堅持し、近代化は長い間頑なに拒否していた。ここをなんとかしない限り、朝鮮の独立は難しい。それは当時、一進会の政客など、朝鮮人の一部の認識でもあった。
 断っておかねばならないだろうが、だからと言って私は、逆に、一部の保守派が主張しているような、日本の朝鮮統治が正しくもあれば良いことでもあった、とする者ではない。インフラ整備をしようと賎民(両班と呼ばれる特権階級以外の、一般庶民)のための小学校を作ろうと、すべて日本自身のためにしたことである。かの国人への差別も圧迫も相当にあったに違いない。朝鮮半島の人々が日本に恨みを抱くのも、ある程度は仕方がないと思う。
 しかし、もっと遡ると、支那の冊封体制からしたら、中原(支那の中心)から離れるに従って野蛮な国となるので、その意味では日本は朝鮮より下位の国である。その手によってしか近代化が成し遂げられなかったこと自体、屈辱ではあるだろう。そんな華夷秩序を引きずった感情が、反日の根底にあるとしたら、つける薬はない。ならば、解消に向けた努力をするなんて、無駄ではないか、と個人的には考える。ただ、何故かはよくわからないが、日本を押さえつける手段としてこれを使おうとする勢力が世界各国にあるので、対抗上、ずっと反論を発信し続ける必要はある。
 韓国自体にについては、日本への恨みそのものが民族アイデンティティの核になっているのだとしたら、誰よりも、韓国人自身にとって不幸ではないかと、いらぬ斟酌をしてしまいがちになる。

 ここまで言ったからには、「日本のため」の内実についても、もう少し詳しく述べておくべきだろう。
 この時期の日本が採った対外戦略の基本は、よく、主権線と利益線という言葉で説明される。山縣有朋が、明治21(1888)―22年に欧州を視察したとき、かつて(明治15年)伊藤博文に憲法学の講義をしたローレンツ・フォン・シュタインから聴いた概念を、翻案したものである。
 国家主権の存する領土(領空・領海の概念はこの頃はまだ曖昧)を他国の侵略から防衛するには、国境線(これを主権線と言い換える)を守るだけでは不足で、その外側に、自国に味方してくれる国か、こちらが軍を遅滞なく進めて戦場にすることができるような地域を確保しておくべき。その境界が利益線で、ここを敵に突破されても、まだ主権線が残っているという二段構えにしておいたほうが、なるほど、国防にはより有効であるな、と納得される。もちろん、現実にある諸条件を度外視すればだが。
 山縣は明治23(1890)年国会開設時の内閣総理大臣で、同年12月6日に日本初の施政方針演説をしている。その中にこの言葉が出ていて、軍事予算の増加を求めているが、それより早く3月の演説「外交政略論」(後に『山縣有朋意見書』中に入った)でもこれに基づき、相当突っ込んだ提言をしている。一部の現代語訳を拙訳で以下に掲げる。

 利益線の観点から我が国にとって最も緊要なのは朝鮮の独立である。(中略)しかし朝鮮の独立はシベリア鉄道開通【モスクワーウラジオストクをつなぐ世界一長いこの鉄道が一応の完成を見たのは日露戦争中の1904年だが、計画段階から、これによってロシアは首都からアジア東北部まで短期間で兵力を送れる、ということで、日清両国に恐れられていた。】の暁には薄氷の危うさに迫るだろう。朝鮮が独立を保てず、ベトナムやビルマ【共にフランスの植民地になっていた。】と同じ轍を踏むならば、東洋の北部は他国【ロシア】の占有するところとなり、直接の危険が日清両国に及び、主権線の対馬は頭上に刃を振り上げられたような状態に陥る。(中略)将来のための良策は天津条約を維持するところにあるのか、それとも一歩を進めて朝鮮と連合し保護して、国際法上恒久的な独立国の地位を与えるべきか、これが今日の問題である。

 朝鮮を本当の意味で独立させたい、という言葉が、本気だったのか、それとも陸奥宗光外相のように、方便であることは百も承知しながら言うだけは言ったものか、はわからない。いずれにしても、後の経緯からしたら、インチキと言われてもしかたない。戦前の日本でも、安部磯雄などは明治37年に次のように言っているそうだ。(山室、P.134より孫引き)

 日清戦争といい、日露戦争といい、その裏面にはいかなる野心の包蔵せられあるにせよ、その表面の主張は韓国の独立扶植【援助】であったではないか。しからば戦勝の余威を借りて韓国を属国化し、その農民を小作人化せんとするが如きは、ただに中外に信を失うのみならず、また我が日本の利益という点より見るも大いなる失策である。

 その通りだろう。だいたい、日本一国で、韓国を他国の干渉から守り切り、近代化に導く、なんてことはできるはずがなかったのだ。それをやるためには、野心の有無は別として、現実の何倍もの国力が要ったろう。
 それより、利益線の危険性は、夙に指摘されている。利益線としての韓国を日本に編入したら、主権線が延びる。新たな主権線を守る新たな利益線として、具体的には支那東北部、即ち満州が必要になる。その満州を守るためには、内モンゴルを、さらにできれば支那全体を手中にしたい……、云々と、どこまでも版図を拡大しなければならないように感じられてくる。その果てに、大東亜戦争の破局にまで行き着いたのである。
 この道筋は、他国から見たら侵略でも、日本にしてみれば防衛だった、という感覚の齟齬は今でも深いところに残っていて、時々現実の問題になる。心得ておいたほうがいい。

(3)日清戦争は、一八八〇年代にはアフリカ分割を終えた欧米諸列強の目を再びアジアに向けさせることになった。(P.186)
 結局私は、今回は一つのことにこだわっていたのだな、と改めて気づかされた一文である。
 原田敬一らの歴史観は、つまるところ、アジア・アフリカで、欧米列強の支配が一応完成して、「平和」であったのに、日本が跳ね上がって余計なことをしたために戦乱を招いた、というものだ。現にはっきりそう言った人もいる。これには呆れた。
 この言い方は、非西欧諸国にとって、欧米に支配されているのと、血を流しても独立するのと、どちらがいいのか、なんぞという不埒な問いを呼び起こす、それには無自覚なようなので。
 不埒な問いにはやや斜めから応えよう。他国間であれ自国内であれ、不当な支配があると感じられたら、体制変革(レジーム・チェンジ)を求めることになり、要求が大きくなれば抵抗運動の形を採って国際社会あるいは国内に動乱をもたらす。どういうことを不当と感じ、どうやって、またどの程度に抵抗するかは当事国の人々次第だが、一般に、抵抗が大きければ圧迫もそれだけ大きくなり、それがさらに大きな抵抗を呼ぶ、という循環で、しばしば流血を伴う戦闘にまで至る。
 戦闘が一国内ならクーデターあるいは革命と呼ばれ、二国以上の場合は戦争と呼ばれる。各個別の正義不正義の判断とは別に、体制が広い範囲に及べば及ぶほど、そして歴史が古くなればなるほど、有形力(暴力の上品な言い方)なしで変えるのは難しくなる。
 1688-1689年の名誉革命は、例外的に流血がなかったところが稀な「名誉」なのだが、それはイングランドの話で、スコットランドと北アイルランドでは、新王ウィリアム三世に反対するカトリック教徒たちが蜂起し、1年余り戦闘が続いたのだった。
 今後もそんなものだろうか。現在のミャンマー(旧ビルマ)で起きていることを見れば、少なくともそう簡単には改まりそうにない。逆から言えば、あくまで平和を求めるとしたら、ほとんどの場合、現在の体制が、どんなものであれ、維持されるのを認めなくてはならないようなのである。こちらはもっとやっかいな、人類の永遠の課題かも知れないが、それだけに、忘れてはならないことだろう。
 
 そこで改めてこの頃の日本のしたことを考える。山室信一は、大略次のように指摘している。まず清国や朝鮮の旧弊がアジアにとって危険だからという名目で戦い、次に一番近いところにある白人の大国とアジアを防衛するのだと言って戦い、しまいには欧米からの「アジアの解放」をスローガンとした、と。日本は、恐らく史上最も大規模なレジーム・チェンジを企て、やり方はインチキと呼ばれ得るものだったにもせよ、果敢に戦い、結果として東洋での帝国主義を終わらせるのに貢献した。良し悪しを言う前に、この巨大な悲劇と裏返しの喜劇の相貌を、もう少し虚心にたどったほうが、面白くないですか?
コメント

立憲君主の座について その17(祀られると共に祀る神)

2021年02月28日 | 近現代史
大日本名将鑑神功皇后武内宿弥 月岡芳年画 明治10年頃

メインテキスト:和辻哲郎『日本倫理思想史 上巻』(岩波書店昭和27年、28年第3刷)

 このシリーズもだいぶ間が開いてしまったので、天皇の特質について改めて考えます。
 天皇とは神を祀ることを主な役割とする祭祀王(priest king)である。これが(ある意味で)国家の中枢というのも現代では珍しいが、そもそもどうして神聖不可侵な存在と感じられるのか、よくわからないところがある。
 例えば福田恆存は昭和32年にこう書いている。

 私自身はもちろん「天皇制」には反対です。が、その理由は、天皇のために人民が戦場で死んだからといふことではありません。私と同じ人間を絶対なるものとして認めることができないからです。だからといつて、天皇を絶対視する「愚衆」を、私は単純に軽蔑しきれません。少なくとも、絶対主義を否定し、相対の世界だけで事足れりとしてゐる唯物的な知識階級よりは、たとへ相対の世界にでも絶対的なものを求めようとしてゐる「愚衆」のはうが信頼できます。(「西欧精神について」、『福田恆存全集 四巻』P.221)

 福田にとって、天皇とは絶対者の代用なのだった。ただ、「非合理なものは認めない」なんぞというインテリの浅薄な現世主義(福田の言葉からは相対主義とか唯物論とかに近いようだが、私にはそんな立派なもんじゃないと思える)よりは、どんな形であれ、日常生活の次元を越えたものを求め、それに仮にもせよ形を与えずにはいられない一般民衆の方が信頼に値する、と。
 こういう福田の「絶対者」観は当ブログで既に述べたが、簡単におさらいすると、「個人」が立ち上がるためにこそそれを超えた存在が必要とされるのである。だから、ある絶対の者に完全に帰依する、ということを求めるのではない。どちらかと言うとむしろ反逆者のほうがいい。「神への反逆者」は、強烈な自意識を内に抱かざるを得ないだろうから。
 そこまではいかずとも、「完全なもの」に比べて一個の人間とはいかに不完全か、それを思い知ることが「個人」の、明確な「個人意識」が生じる第一歩なのである。不完全であるところは誰もが同じでも、なぜ、そしてどのように不完全であるのかは、各人によって違うからだ。そしてまた、国家を初めとする組織や共同体もまた、もちろん物理的には個人よりはるかに強力だが、価値からしたらいずれも相対的でしかないので、従わなくても良心の問題にはならない。
 言い換えると、国家・社会・家庭などの共同体に埋没しない個人が見出される契機が絶対者なのであり、それは文字通り不変不動、永遠に何も足せず、何も引けないものでなくてはならない。また、人間の目に触れるようなものであってはならない。天皇は、人間の姿をしていて、代替わりという目に見える変化もする。政治的にも、時代によって、権力があったりなかったり、近代だと帝王になったり象徴になったり。さまざまな形態をとり、しかも、どうも、それがそんなに大きい問題だとは、一般に思われていないようだ。そういうところこそ日本人の特質と言えそうだが、福田が求めるような絶対者とはまるで違う。
 これ以上は、主にこちらこちらをご参照ください。

 もちろん、絶対者の観念がちゃんとしていないから、日本人はダメだ、なんぞという話ではない。だいたい、そうだとしても、例えば今後日本人全員がキリスト教信者になる、なんて、あるわけがない。つまり、どうにもならないのだから、言っても仕方ないのだ。
 見方を変えて、天皇とは摩訶不思議な存在であり、2,000年以上にわたってそのような存在を戴いて国家を運営してきた日本人もまた、不思議な民族である、ならば、その不思議の中枢部はどうなっているか、神代史から深く考究した文章に基づいて、いつものように勝手な考えを述べよう。

 和辻哲郎は、天皇の独特の神聖性を示す例として、記紀にある神功皇后のエピソードを取り上げている。
 皇后は、熊襲征伐のため、夫である第十四代仲哀天皇とともに九州に赴いた時、神懸かりする。それをきちんと聴くための儀式は、天皇が琴を弾き、重臣・武内宿禰が審神者(さには。神の言葉を解釈する者)となって行われた。神託は、「西方にたくさんの宝物がある國がある。それを与えよう」というもので、天皇はそれを信じず、琴を弾くことやめた。するとやがて死んでしまった。そこで皆大いに恐れかしこみ、大がかりな祓い清めを実行した後、皇后が神主となって再び神の御言葉をうかがうと、やはり海の向こうの国に赴け、と、また「この国は皇后のお腹の中にいる子(應神天皇)が治めるべきだ」ともご託宣があった。そこでその神の御名を尋ねると、「天照大神の御心であり、また住吉三神である」とのお答えであった。そして、かの国を求めるなら、我が御霊を御船の上に祭り、のみならず天神地紙、山神及び河海の諸神に幣帛を奉れ、云々とも命じられた。
 和辻が注目するのは、ここで、神降ろしの儀式はちゃんと形式が整っているのに、降りてくる神のほうが曖昧に描かれている点だ。問われない限り名も告げない。だから仲哀天皇も信じない。それで神罰で命を落とすのだから気の毒だ。【そう言えばこの帝の父である日本武尊も、伊吹山の神の化身(「古事記」では猪、「日本書紀」では大蛇)を単なる使いだとみなして軽んじ、ために怒りを買って失神し、このとき得た病によって命を落とすのである。】
 因みに、上の叙述は「古事記」に基づくが、「日本書紀」では、この神はまず撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)、というのは天照大神の荒魂(暗黒面?)らしいが、そう名乗り、審神者(このときはイカツノオミ)に「まだこの他に神は有りや」と問われて二柱の神の名が挙り、「また有りや」→「有るとも無しとも知らず」→「今は答へず、後に言はれることありや」→住吉三神の名が挙る→「また有りや」→「有るとも無しとも知らず」、という具合に進行する。神が複数いて、しかもその御名が顕れるまでに、ずいぶん手数がかかる。訝しいので、印象的である。

 一般に、宗教心は、まず台風や雷、地震など大きな厄災をひきおこす自然力への畏怖が、その背後にある大いなる力を想像させ、また変転極まりない人間の運命を思うとき、それを司る力の存在を考えるところから生じるものだろう。このとき既に、かなり明確な人間の自己意識あり、一方で超自然力が「神」として擬人化される契機があるはずだ。
 次の段階では、この「神」に関わるための儀式が整備され、これに応じて、あるいはこれと共に、その他の日常生活上の倫理も整えられていく。儀式を司る者が倫理を教導する者でもあり、これを中心として、神についても人のありかたについても多くのことが語られる。
 一定の語りが広い範囲に浸透し共有されると、それが民族の内実を形成する。ユダヤ教やヒンズー教(インド教)がそうである。やがてその中からナザレのイエスとかゴータマ・シッダールタというような優れた人が出て、説得力豊かで論理的にも整った言葉を語ると、抽象性も高まるから、民族・国家をも超えた世界宗教になっていく。
 この最終段階にまで至る例は稀だが、どの段階でどのように留まったかは、外部から見たその宗教の特徴となる。日本の場合、前述のように、神と交流するための方法はあっても、その神の言葉≒神を語る言葉は、さほど詳細にならないところがそれである。

究極者は一切の有るところの神々の根源でありつゝ、それ自身いかなる神でもない。云ひかへれば神々の根源は決して有るものにはならないところのもの、即ち神聖なる「無」である。それは根源的な一者を対象的に把捉しなかつたといふことを意味する。それは宗教的な発展段階としては未だ原始的であることを免れないが、しかし絶対者に対する態度としてはまことに正しいのである。絶対者を一定の神として対象化することは、実は絶対者を限定することに他ならない。それに反して絶対者をあくまでも無限定に留めたところに、原始人の素直な、私のない、天真の大きさがある。(P.76-77、下線部は原文傍点、以下同じ)

 日本に限らず東洋について語る文脈で、「無」とか「空」とか言われると、なんだかいかがわしくなるような気が、私にはする。和辻哲郎のような碩学の文でも、例外ではない。ただ、要は、神は「有るとも無しとも知らず」、それについて直接語ろうとするのは抑制的であるべきだ、ということであろう。人間の身の丈をはるかに超えたはずの者を、対象化して、人間の言葉であれこれ語る、というのは、人間の認識の中に入れて、限定する、ということだからだ。
 無限のものを限定する、とは、端的に矛盾ではないだろうか。これは私も、(すすんだ?)宗教に接する度に、なんとなく感じてきた疑問である。因みに、それだからだろうか、福田恆存も、絶対者という観念の重要性は説いたが、その絶対者の内実は何か、については決して語ろうとしなかった。

 さて、そういうわけで、超自然的な神々は、存在が疑われはしないものの、正体が明らかになることはなかった。そもそも、「正体」なんぞないのかも知れない。人は、そういうものには畏怖は感じても、敬愛はしない。愛されもするのは、この神を祀ることで人の世に恵みをもたらそうと能動的に活動する者である。

神代史において最も活躍してゐる人格的な神々は、後に一定の神社において祀られる神であるに拘はらず、不定の神に対する媒介者、即ち神命の通路、としての性格を持つてゐる。それらは祀られると共にまた自ら祀る神なのである。(P.66)

 人智・人力をはるかに超えた存在に対して人間にできることは、怒らせないように(神罰がくだらないように)、正しい態度とやり方で臨むことぐらい。その正しい態度・やり方を祭儀として示し、執行する者こそ、普通人から見て最も有り難い。「祭り事の統一者としての天皇が、超人間的超自然的な能力を全然持たないにかゝはらず、現神として理解せられてゐた所以」である。そしてまた、その祭儀が正当で正統なものと認められたところに、日本の国家と民族の内実が自覚されたとしてよいのであろう。「天皇の権威は、日本の民族的統一が祭祀的団体といふ形で成立したときに既に承認せられてゐるのであつて、政治的統一の形成よりも遙かに古いのである」(以上P.84)

 改めて考えると、現存する西洋世界の祭祀王であるローマ法王と比べても、天皇はずっと人間的である。共通するのは、超越的なものへの通路、ということぐらい。天皇は、ローマ法王がそうあるような、「神の代理人」とも言えない。何しろ代理すべき主が不定にして不明なのだから。
 また、天皇は神の声を直接伝えるシャーマンでもない。身近な女性がシャーマンになった例が記紀には二つあり、一人は上記神功皇后、もう一人は第十代崇神天皇の叔母である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)で、災害が多く国が治まらないわけを八百万の神々に尋ねた時、「自分をちゃんと敬い祀れ」とのご託宣を伝える。ここでも、天皇に「そのように教えて下さるのはなんという神様ですか」と問われてから、「大物主神(大国主神の別名ともいわれる)である」と名乗る。
 もっとも、このときは、言われるままにしたのに霊験がなかったので、天皇が改めて祈り、夢で祭祀の詳細を聞いて、やっと無事に解決を得たことになっている。神は、一時でも人間の肉体に宿るより、人の祈りに応じて夢かうつつか定かならぬうちに意向を伝えるほうが、日本では正統的なのである。
 このように、祈るのが主な仕事である天皇が、天照大神の血統を継ぐものだというのは、後から付け加えられた話ではないだろうか。これは、和辻は書いていない、私一個の想像である。それというのも、これも神功皇后の逸話にある通り、先祖であるはずの大神に祟られて死んでしまうことさえあるのだから。
 逆に考えると、そのような頼りない存在だからこそ、神聖性を付与するために血統神話が必要とされたのかも知れない。ローマ法王は、独身でなくてはならないのだから、このような権威付けは使えず、みんな元はタダの人でも、何しろ後ろ盾が唯一絶対神という最強者なんで、誰も文句は言えないのだろう。

 そして、こちらは和辻も書いているが、天皇のような存在がもたらす最大の徳目は、「清く赤き心」とか「清明心」とか呼ばれる、素直でまっすぐな心であろう。実際、神に相対するときには、そうでなければならぬはずである。ただし、神が必ずそれに応えてくれるかどうかはわからない。だいたい、そんなことを期待して祈るとしたら、取引のようになり、汚れた心だとみなされるのではないだろうか。
 では結局、天皇の祈りはなんにもならぬのか? そう言ったもんでもない。例えば、最近ではほとんどなくなってしまったろうが、日本には「お百度参り」という宗教行為がある。同じ寺社に百日間欠かさずお参りする、というもので、それによって心願が適うとは限らないのだが、神ではなく人間のほうとしては、その願い祈る心の強さにうたれずにはいられない。
 そんなふうに、毎日くにたみの安寧を願っておられる者が、この日本にはずっとおわします、と思うと、いささか心が洗われるような気がする。そういう存在として、天皇は尊貴なのであり、また、そのような存在をずっと保ってきたところに、我々日本人の、かけがえのない美質がある、と考えられる。
 しかし、こういう存在を俗世の「中心」ともするのは、やむを得ぬこととはいえ、問題が多いのは当然である。次回からまた、それを見ていこう。
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