由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

小浜逸郎論ノート その5(共同態・下)

2024年06月13日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『倫理の起源』(ポット出版プラス令和元年)
サブテキスト:ジョン・スチュアート・ミル/関口正司訳『功利主義』(原著の出版年は1861年、岩波文庫令和3年)

Ⅵ 理と情
 この人間の二大行動原理については、『倫理の起源』(以下、本書、と呼ぶ)では二つの、典型的な、ある意味で極論が紹介されている。それ自体非常に面白いので、以下にまた自分の言葉で述べる。
 まず当ブログでずいぶん以前に述べたカントの嘘に関する考え。通称「ウソ論文」、正式名称は「人間愛から嘘をつく権利という、誤った考えについて」には次のような例が出ている。
 Aの家に殺し屋Cに追われた友人Bが来て、匿ってくれるように頼む。Bを家に入れてから、Cが来て、Bは来なかったか、と訪ねる。この時AがCに、「Bは来なかった」と言ってはいけないか?
 いけない。なぜなら、それはウソだから。
【上記の例はカントを批判したフランスの哲学者バンジャマン・コンスタンが、「カントたちの説だと、こういうバカなことになるよ」、と例示するために拵えたもので、「ウソ論文」はコンスタンに対する再批判として書かれている。しかし、カントは「自分はこういうことを言った覚えはないが、自分の考えとしてもさしつかえない」としている。などなどの細かいことは、以下では省いて大雑把なことだけ記すので、そのへんの詳細は最近出た『カントの「嘘論文」を読む』(令和6年白澤社発行/現代書館発売)などに当って下さい。】
 「なんだよ、それは」とたいていの人が言うだろう。小浜が言うように、「カントという哲学者はなんてバカなやつなんだと直感的に思」(P.192)う人も多いと思う。
 より軽い、日常的な場面を考えよう。ある女性が男にデートに誘われた。行きたくなかった。「その日は用事がありますから」と言って断った。その実、用事がなかったら、それはウソということで、悪なのか。「あなたが嫌いだから、行きません」というような、いわゆるホンネをいつもぶつけ合わねばならないのか。
 そもそも、「あなたが嫌い」という感情は、「事実」と呼ぶに相応しいのだろうか。そのときの「本心」ではあったとしても、男心も女心も、変りやすい。明日はどうなるのか、本人にもわからない、その場限りかも知れないものを、いちいち明らかにして、どうなるというのか。
 というような考えこそ、カント先生からしたら、最も忌むべきものだったようだ。人間は理性的な存在であり、自分の言動すべてに責任を持つ、持てる……少なくともそうなるべく努力すべき者なのだ。
 この場合の「責任」とは、結果に関するものではない。上の例で「Bはいる」といっても、BがAもCも気づかないうちに家から去っていたら、殺害を免れるかも知れない。同じ状況でAが嘘をついても、BはCと外で出くわし、殺されるかも知れない(やや強引な例のようだが、これはカント先生自身が書いていること)。
 つまり、未来を完全に予測できない人間が、結末について責任を問われるべきではないが、真実や信念について忠実であることなら、できるはずだ。だから、すべきなのだ。
 もう一つ、人間関係で一番大事なのは、他人を、自分の欲望を達成するための道具扱いしてはならない、ということだ。ウソをつくのは、結局は、相手を自分の都合のいいように動かそうとしてのことだろう。その「都合」が正しいものであっても、「相手」が悪人であっても、そのことに変わりはない。だから、誰も、どんなウソでも、つく権利はない……。
 この理念が他にもまして重要かどうかも、議論が分かれるだろう。たとえそう認めたとしても、現実にはやっぱり無理な話ではありそうだ。
 第一に、カント先生自身は例外だったかも知れないが、普通の人間にいつも「正しくあれ」などと要求するところ、いやそれ以前に、いつも「正しさ」を気にかけるように要求するところが無理だ。誰しも、普段あまり深く考えないでふるまい、後からその理由を問われた時に、改めて首尾一貫した動機を考え出す、というのが実情に近い。「自由意志から行為へと言ういう因果関係は、じつは逆なのである」(P.193)と小浜が言う通り。
 カント風の「自由で自律的な個人」の観念に基づいている近代刑法(だから、良い・悪いの判断がつかないとされる心神喪失状態の犯罪は罰せられない。刑法第三九条一項)にも、「嘘つき罪」はない。嘘は、それによって不当な利益を得ようとする動機が明らかなとき、罰の対象になる(詐欺罪)。
 そもそも、いわゆる社交辞令もダメなのだとすれば、どんな共同体も保たれないだろう。コンスタンの批判の要点もそこにあった。
 そんなことを、いかに象牙の塔に籠もった哲学者先生とはいえ、全く知らなかったはずはない。むしろ、だからこそ、人倫と、ひいては人格を、なし崩しの後退から守るために、「嘘はいけない」という道徳律を強く言わなければならない必要性を感じたのだろう。
 事実、それは、子どもを教育する時などに、絶えず言われ続けている。そのことはまた、人の世から嘘は決して消えないことの証左でもある。

 上は友情という「情」と、正直という「理」が対立した場合には、後者のほうを優先すべき、としたものだが、世の中にはこれと反対の主張もある。「論語」の次の箇所。

葉公(しょうこう)孔子に語(つ)げて曰く、吾が党に直躬(ちょっきゅう)なる者有り。その父、羊を攘(ぬす)みて、子これを証せり、と。孔子曰く、吾が党の直なる者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直は其の中に在り、と。(子路十八)

 親や子が悪事を働いたとしても、それは匿す。それこそ、正しく、まっすぐ(直)な道である、と言う。人情の自然のようだが、こう断言されると、それはそれでまた、不安になってこないだろうか。子が悪いことをしたときには、親はむしろ世間ではそれがどういう扱いを受けるか、実地に教えてやるべきではないだろうか、など。
 予め結論を言うと、こういう場合にいつも当てはまる普遍妥当な解答はない。一口に親子と言っても、同じ人間は二人といないのだから、同じ親子関係も二つはない。当然その間に流れる感情も独自のもの。また、匿すべきものも、盗みから殺人から過失犯から信用失墜行為まで、千差万別にある。
 ただ、一般に、親子の情と呼ばれ得るような感情は人間社会に広くあることは認められているから、それを頭から無視することはしづらい、という事情があるだけだ。それで現在日本の刑法にも、それを汲んだ規定がある。第百五条(親族による犯罪に関する特例)「前二条の罪については、犯人又は逃走した者の親族がこれらの者の利益のために犯したときは、その刑を免除することができる」。
 「前二条」とは、第百三条犯人蔵匿等、第百四条証拠隠滅等。犯人を匿したり逃がしたり、証拠を隠したり破損したりして、犯罪者の発見を、したがって処罰を困難にしても、その犯罪者の親族である場合には、罪に問われないことがあり得る、ということである。
 ここで親族というのが、民法の定める六親等の血族(姻族なら三親等)だとすると、はとこ(あるいは、またいとこ。祖父母の兄弟の孫)まで、あるいは従姉妹の孫までだから、ずいぶん広い。顔を見たこともない、という場合も多いだろう。
 ただ、たとえ一親等の親子でも、必ず免責されるわけではない。そうなるかどうかは、裁判官の判断次第。犯罪があまりに凶悪だとか、親愛の情からと言うより、金をもらって逃亡を手伝ったような場合は、危うい。逆に、どれほど親愛や恩義を感じていたとしても、また、罪を犯した者にどれほど同情の余地があろうと、親族でなければこの規定は関係ない。
 こういうことを文字の上で眺めているときは、せいぜい、まあそんなものかな、で終わりになる。その程度の納得でも、なかったとしたら、こういう規定は定着しない。しかし、具体的な場面にぶつかったら、このような区別が合理的なものだと思えるかどうかは別問題になる。
 六親等までならよくて、七親等以上はダメ、親類ならよくて、親友ではダメ、などという線引きに明確な理由があるか、と言われるなら、そんなものはない。ただ、一元的な正義の観念をどこまでも押し通そうとするのも、人情だけで世の中を治めようとするのも、どちらも無理で、どこかに制限を設けねばならない必要性があるだけだ。
 つまりこれらの原理は、一方が一方を制限するところに存在意義がある。前述した小浜の「私的・公的という対概念は、互いに他方の「否定態」としてしか成立しない」という言葉は、そういう意味であろう。
 その限度自体も、絶えず揺れ動くから、いつでもどこでも誰でもを完全に納得させることは原理的に不可能。すべては、不完全な人間同士が作る「世の中」を成り立たせるための工夫であり、それ以上ではない。

Ⅶ 公と私
 上の問題もまた、共同態の中で自己意識を持って生きる人間が必然的に直面する矛盾の一種である。ここまで拙論につきあってくださった人にはもうおわかりのことと思うが、私が本書を読みながら終始気になったのはこの一点だ。
 理と情もそうであるように、公と私なら、公の方が高級であり、価値が高い、となんとなく考えられている。また、男女だと、男が主に担うの前者、女は後者で、これは「女・子ども」を軽んじる理由になっている。
 このような見方の修正を図ることが本書の主要な目的の一つであり、そのことには私も基本的に同意する。ただ、その理念上の、また実際上の困難は、小浜以上に気にかかってしまうのである。それについては充分に、ではなくても繰り返し述べたから、もう控えよう。
 本シリーズの最後にあたって、「公共性」の概念を中心として、既述との重複は気にせずに、小浜倫理学の核心と考えられるものを改めて略述しておく。

 小浜は最初に、良心の起源を、幼児が家庭内かその代わりになる場所で、多くは親から受ける叱責だとしている。このとき明示的に「出て行け」とは言われなくても、年長者の怒りは、当の子どもが現にいる共同体=家庭から放逐される恐怖を呼ぶ。それは文字通り死活問題なので、やがて成長して、自分の親を他人の親と比較して客観視・相対化できるようになり、反抗もできるようになっても、深層心理に刷り込まれた恐怖心は消えない。悪いことは、共同体を失う恐怖を呼び起こすから、ブレーキになる。そうならないときもあるが、まあ、だいたいは。
 つまり、良心は一定の共同体の人間関係から身につくものであり、それは他の、思いやり・勇気・正直、などの徳目も、必ずしも親だけではなく、友人や教師などの他の大人との関わりの中で身につけていくものだろう。だから、倫理は共同態から生まれる、と言えるのである。

 しかし、倫理、と改めて言われると、具体的な人間関係とは別次元にあるような気がしないだろうか。それは言葉の抽象性によるところが大きい。「人に迷惑をかけてはならない」と言われる場合の人(他人)の範囲は、無限定である。実際には、バタフライ効果とやらを最大限考えて、「風が吹けば桶屋が儲かる」式のこじつけ連鎖反応まで入れるのでなければ、世界中の全人間に迷惑をかけられる人などめったにいないわけだが、そんなことをわざわざことわる要もない。
 とは言え、抽象化され一般化された徳目は、その分人間の現実を離れる。よい例が前述の、カントの嘘に関する要求だ。繰り返すことになるが、どんな時にも嘘はいけない、ということを実行したら、身辺の共同態を壊してしまいかねない。それでもよい。カントは、時に嘘をつかなくてはやっていけない弱い人間が、自分たちを守るために作り出したような共同態に価値を認めなかったのだから。
 人間は個人として、常に正義と公正を気にかけるべき存在だ。……いや、そう言われても、そんな人間こそ、現実にはめったにいないのだから、観念的ではないかと思えるのだが……。いやいや、ここで「弱いのは仕方ない」などと認めてしまったら、弱いからこそ、人間はどこまでも堕落してしまいかねない。道徳律は、自分の行いを反省するための鑑(かがみ)としてこそ必要なのではないか?
 と、いうような道徳観は、昔から今まで、人間世界に普通にある。おかげで、道徳というと、高いところから一方的に降りてくるお説教のことだという感覚も、普通にある。

 倫理道徳を現にある人間から離れた理念として考えられがちな理由は他にもある。例えば、「人に迷惑をかけてはならない」を一歩進めて、「人には親切にしなければならない」とした場合。これまたいつも、完全にできるものではないが、できるだけそうしましょう、ぐらいには納得できる。それでもなお。
 親切にする対象は、遠くの人より身近な人が、身近な中でもいっしょに生活している家族が優先されることになるだろう。単純に親切な行いをする機会の多さからしても、親愛の情の深さからしても、それがごく自然であり、正しい、とも考えられている。孔子の言葉はそれを踏まえている。
 それでよくない場合はあるか? 次の例を考えよう。川で二人の子どもが溺れていた。Aは自分の子どもで、Bはそうではなかった。この場合、Aを優先して助けるのは正しいのか? この問いはかつてベストセラーになったマイケル・サンデル『これからの正義の話をしよう』(原題は『Justice』)に載っていて、正しい、とされている。西洋でも、そう思われている場合が少なくない。ということだ。
 だがしかし、結果として、Bが救ってもらえないことになったとしたら、Bの親にしたら、素直に「それが正しい」とは感じないだろう。その人の置かれた立場によって、価値観が一八〇度変ってくることもあり得る。情とはそういうものだ。
 では、人の世の価値はついに相対的であるしかないか? 人間の実感に即する限り、そうとしか言えない。ならば、結局のところ、人間の世界から殺人がすっかりなくなることはないだろう。ある人間は、自分の置かれた状況に応じて、他の人間を殺してもよい、あるいは殺さねばならない理由を考え出すだろうから。
 それでも、ではなく、それだからこそ、「人命は大事だ」と言い続ける必要があるのではないか、という考え方も出てくる。そうでないと、人の世は殺人が日常的に横行するような場になってしまいかねない、という心配から。これまた、用心のために、上から降りてくるお説教としての道徳であり、公的に正しいとされる。

 最大の問題点は、以上のような道徳はタテマエというのに非常に近く、身勝手な本心を隠し、自分にとって都合のいいように使い回される可能性が常にあるところだ。いわゆる、偽善というやつ。
 前回言ったように、「愛国心は悪党の最後の逃げ場」になり得るのだし、「世間」という日本特有とも言われる観念については、太宰治が次のように言っている。

 世間とは、いつたい、何の事でせう。人間の複数でせうか。どこに、その世間といふものの実体があるのでせう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こはいもの、とばかり思つてこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言はれて、ふと、
「世間といふのは、君ぢやないか」
 といふ言葉が、舌の先まで出かかつて、堀木を怒らせるのがイヤで、ひつこめました。
(「人間失格」)

 上の文中の堀木とは、一時は太宰が師と仰いだ井伏鱒二のことらしいが、そうであってもなくても、小説中のこの人物が「世間が許さない」と言うのには特別の悪意はない。だいたい、それこそ世間にありふれた道徳を説いているなら、文学者にしてもなお、自分の内面を見つめる必要などめったに感じないものだろう。それが一番やっかいなところかも知れない。
 もっと言えば、権力者など、社会的な上位者こそこういうタテマエを振り回しがちなのも当然であろう。それこそが「教育」だと思い込んでいる人も少なくない。この場合、言われていることの内容より、それを「言い聞かせる」行為が即ち相手に対する上位の証であり、そこで証される上下関係こそ社会秩序を作るようにも感じられる
 最悪の場合、権力者とその側近たちが、抽象的な徳目に自分勝手な内容を盛り込み、それを「正しい善」であるとか「公共」であると言い立てて、国民を抑圧して誤った方向へ導く、なんぞということも、歴史上決して珍しくなかった。

 小浜は、上のような行き方を、そもそもの最初から、人間性の本質を不当に軽んじた一種の転倒であるとする。そして、その端的な例として、プラトン/カントを初めとした西洋の大思想家を批判するのだが、最後には、その弊を脱したものとして、功利主義に、とりわけJ・S・ミルには共感を示している。
 ミルと言えば、私などには馴染み深い徹底した自由主義・個人主義ではなく、『功利主義』の、次の言葉が引き合いに出される。「功利主義が正しい行為の基準とするのは、行為者個人の幸福ではなく、関係者全部の幸福なのである」。
 ここだけみると、これは例えばカントの、「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と同じような「命令」に見えるが、少し違う。
 功利主義の格率から出てくる「命令」(なんて言葉を使うのがカントの悪影響かも知れない。ここは、当為、正しい方向、ぐらいの意味)は二つ挙げられている。その二つ目には、教育や世論の力で「各個人に、自分の幸福と社会全体の善とは切っても切れない関係があると思わせるようにすること」とある。またしても、「思わせるようにする」という言い方だと、実際はそうでもないのに空想的なキレイゴトを刷り込む、というふうに見えるが、よく考えてみれば、個人の幸福が社会と密接な繋がりがあるのは当然至極なのだ。
 小浜は次のように言っている。

しかしいずれにしても、ここでミルが言いたいことは、「社会的諸関係のアンサンブル」(マルクス)としての本性をもつ人間は、その社会的諸関係を時間的・空間的に拡大して自分の視野の中に収めるようになればなるほど、その全体の「幸福」に配慮せざるを得なくなるということである。できるだけ広範囲の人々の利益や幸福に気配りすることが、結局は身のためでもあることがわかってくる。文明がよりよく発展することは、健全な公共精神が育つための条件の一つである、ということであろう。(P.281-282)

 私の言葉でなるべく平易に言うとこうなる。
 人間は必ず共同態の、人間関係の中で生きていくものだ。それなら、範囲の違いはあっても、誰か他の人といっしょに幸福になるしかない。よほどのサイコパスでもなければ、周りの人全員が不幸で苦しんでいるのに、自分だけ満足して喜んでいる、などということはあり得ない。非常に自己中心的な、自分大好き人間であっても、否むしろそういう者こそ、被自己承認欲求を満たすこと、つまり他人から認められ称賛されることを強く望んでいる。そのためには、他人にとって有益な何かを成し遂げなくてはならない。
 そして、ここがいかにも功利主義なのだが、幸福とは各種の欲求が満たされた状態を言う。この点で、ミルはそうではないが(「満足した豚であるより……不満足なソクラテスであるほうがよい」は『功利主義中』の言葉)、小浜は欲求の対象に上下の区別をつける必要は認めない。優れた芸術作品に接したときのいわゆる精神的な喜びも、おいしい食物を食べたときの快楽も、人に満足をもたらし、幸福な状態に導く点で変わりはない。そしてどちらも、安寧な生活がなければ存分に味わってもいられないことからすれば、人の幸福のためには何が一番重要であるかは、自ずとわかろうというものだ。
 この認識が充分に広く・深く行き渡るならば、「法律と社会の仕組みが、各人の幸福や〔もっと実際的にいえば〕利益を、できるだけ全体の利益と調和するように組み立て」ることも可能であろう。これは、先ほどの引用では省いた功利主義の「格率」から出てくる「命令」の第一である。
 もちろんこの実現は簡単なことではない。「社会的諸関係を時間的・空間的に拡大して自分の視野の中に収める」ことが充分にできるために、人類はどれほどの知見と思慮を重ねていかねばならないことか。20世紀からこっちの世界の歴史を少し見ただけでも、ミルや小浜の言うところは単なる夢物語に過ぎないように思えてくるだろう
 「けれども」と小浜は言う「非常に長い目で見れば、これらの数多い失敗の経験こそが「相互にうまくやる」交渉の技術と叡智とをゆっくりと培っていくはずである」(P.282)。「非常に長い目」とは、1000年単位のスケールだとも。
 1000年先の未来など想像することもできないし、今まで当の小浜の言葉も援用して縷々述べてきた〈公〉と〈私〉のアポリアがどういう形で解けるのか、さっぱりわからないので、小浜に完全に同意することはできない。いや、同意も何も、「この課題の具体的な追究はすでに個別学としての倫理学の範疇を越えている」(P.468)というのが本書の最後の文なので、それはこちらで考えていくしかないとされているのである。
 それでも、個人のささやかな幸福を犠牲にしてでも実現・実行すべき「公」や「正義」の概念が、この世にどれほどの悲惨をもたらしてきたかを考えただけでも、日々の幸福な営みをこそ第一として、そこから公共性を編み上げていくという方向性には、賛成せざるを得ない。人間の不幸をすっかりなくしてしまうことなど不可能だとは思うが、多少はましな未来を目指すためには、これを第一原則とするしかないであろう。
 ……と、思いながら、やはり気になってしまう。人は安寧な暮らしだけで満足できるのだろうか? そうでないとしたら、真理だの正義だの、神聖なものだの民族のアイデンティティだのといった、観念的な、「自分を超えたもの」→「自分をより高く大きな世界へ導いてくれそうなもの」への希求は消えない。それはどういう形になるのか? それもまた、政治や倫理学の範囲の問題ではない、と言われればその通りかも知れないので、それまたこちらで独自に考えていくしかないのだろう。
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半世紀前、大学で

2024年05月27日 | 近現代史


メインワークス:樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋社令和3年、文春文庫令和6年)
代島治彦監督「ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ」(令和6年)

 ポット出版社長沢辺均氏が標記の映画をプロデュースなさり、ご案内をいただいたので、まず基になった樋田氏の本を読んだ。
 これは昭和47(1972)年11月9日、早大文学部で起きた革マル派(正式名称は「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」)という新左翼のセクト(党派)による川口大三郎君リンチ殺人事件について書かれたものだ。私はその後にこの大学に入ったが、直接には何も知らない。「へえ、そんなことがあったんだ」と思うばかりで。
 だから、何があってその結果どうなったかについては、本書に直接あたってもらうに如くはない。私は思想の部分に最も興味を惹かれたので、それについて書き付けておく。
 樋田氏が依拠したのは、渡邊一夫「寛容は自らを守るために不寛容になるべきか」(現在岩波文庫『狂気について』平成5年に収録)に基づく非暴力主義というべきものだ。私も若い時分にこのエッセイを一読し、少しだけイラッとした覚えがある。
 革マル派に対抗するのに「寛容」の精神で、具体的には非暴力でやる。これはたいへん理にかなってはいる。当時の革マル派は、自分たちに反対の立場の者たちには容赦なく暴力を揮う、非寛容の固まりのようだったから。
 しかしこの理念を実行に移すとなると、渡邊の文章では触れていない困難に直面することになる。
 当時の早大のほとんどの学部には、学生自治会というものは、形式上あったが、革マル派によって占められていた。そして革マル派にとっては、学生の自治なんてものより、自分たちが進めている革命運動のほうが大事だった。
 一番のうまみは、大学当局が徴収して渡してくれる自治会費やら、早稲田祭時のテラ銭(大学からの援助に、入場券代わりにパンフレットを売っていて、それがなければ学生でさえ、構内に入ることはできなかった。おかげで私は、八年ほどここに籍があったのに、一度もこの学園祭を見たことはない)などの、要するに金だったろう。
 それでも、私腹を肥やすのではなく、革命運動の資金に使うのだから、彼らの正義感が傷つくこともなく、この支配に抵抗する者への暴力が控えられることもなかった。

 川口君は、新左翼のいわゆる革命運動については、数回集会に参加して、幻滅を感じただけの、その頃珍しくなかった一般学生だった。それが、革マル派との流血の闘争関係に入っていた中核派(元々は革マル派と同じ日本革命的共産主義者同盟に属していた)のスパイの嫌疑をかけられて、大学構内の自治会室で、八時間に及ぶリンチの末に、死んだのだ。これは要するに、セクトが一般学生に明白に牙を剥いた事象だと捉えられた。
 反革マルの動きは、学生自治会を正常化すること、つまり、普通の選挙で、学生によって、学生の代表として選ばれた者たちによる組織にする方向で目指された。革マル派はこれに当然、暴力で対抗した。自治会正常化運動の中心にいた樋田氏も襲われて、大人数に鉄パイプで殴られ、一ヶ月の入院を経験している。
 たぶんそれより精神的にきつかったろうと思えるのは、先述した「寛容」の信念に直接由来する。革マルの暴力に対して非暴力で戦うという。ために樋田氏は、同じ運動内でも、革マルから身を守るために、ヘルメットと角材で最低限の武装はすべきだ、とするメンバーから批判され、孤立感を味わうようになった。
 この問題は、日本の専守防衛、平和主義を考える場合の補助にもなるだろう。

 人間には、すべてに寛容になる、つまり寛い心ですべて容認する、なんてことは、すべてを否認するのと同様、できるものではない。だいたい、「すべて」なら、暴力も容認するのか、ということになって、文字通り話にならなくなってしまう。
 いわゆる、「罪を憎んで人を憎まず」、暴力そのものは容認しないが、それを揮う人間は、存在は否定しないでおこう、ということなら、原理的にはできないではない。その者が、全く反省せず、これからも暴力を揮うことはほぼ確実な場合でもか? と思うと、非常に難しいが、まあ理屈の上では。

 このときのことに話を戻すと、樋田氏は、次のような現実的な理由も言っている。多少の武器を持ったとしても、日頃から訓練を受けていて、戦闘に慣れている革マル派に勝てるものではない。大学当局や警察を含めた外部からは、革マルと同類だとみなされ、また、革マルのこちらへの暴力に、正当化の口実を与えてしまうばかりだろう。つまり、戦略的に全くメリットはないのだ。
 その通りだ。しかしそれなら、「向こうにただ殴られるだけで黙っていろということか」という反応はすぐに出てくる。また、闘いに勝つことも難しい。
 樋田氏たちは、一時は革マル派を圧倒することができた。身体的な打撃は加えなくても、多くの学生が憤激し、一致団結して立ち向かってこられたら、少数派にまわったほうは引くしかない。「数の暴力」という言葉がある。いや、そこまで厳密になったら、やはり話にならなくなるので、問わないとしても、数もまた、実際的な力になるのは明らかだ。
 ところが「寛容」だと、団結して行動しようがしまいが自由、ということになる。いつでもどこでも、若者は熱しやすくさめやすい。樋田氏たちの周りには次第に人が集まらなくなり、一年も経つ頃には、その活動は全く目立たなくなっていた。革マル派は相変わらず自治会を牛耳り、その正常化の試みは実を結ぶことはなかった。
 それでも、その後革マル派の校内での勢いは、次第に衰えていったことは私も肌で感じた。それは日本全体の、学生運動の退潮による。新左翼を含めた皆が、「革命ごっこ」に飽きてしまった、ということだ。
 では、あれは一過性のお祭り騒ぎだったということか? 現に、少なからぬ人間が命を落としたというのに?
 そうなのだ、としか言い様がない。それにしても?

 本書の最後に、大岩圭之助氏とのインタビュー記事が掲載されている。ここが内容的には本書中一番興味深い、と言える。
 大岩氏は、川口君の事件とは直接関係ないが、革マル派自治会の副委員長で、当時は委員長代行を名乗っていた。体格がよく、威圧的で、彼に殴られた学生も何人かいる。その後早大を退学して米国とカナダを放浪、やがて米国コーネル大学で文化人類学の博士号を取得、帰国後明治学院大学で教えるとともに、「スローライフ」を提唱する思想家・運動家として活動している。辻信一の筆名で、高橋源一郎との対談本もある。
 樋田氏は大岩氏から暴力を受けたことはないが、革マルによる管理支配体制打倒のビラを各クラスに配布しているときに出くわし、「そんな浅はかな理論が通用するか」と言われ、国家権力を含めた管理支配体制を打倒する闘いをしているのは革マル派だけだと、蕩々と説教された。
 しかしそれから約半世紀後に会ってみると、大岩氏はそんなことは覚えていない、と言うのだった。彼は理論的な本はほとんど読まず、マルクス主義がどういうものかもわかっていなかった。ただ、時代状況に乗って高校時代からけっこう学校批判の活動で知られており、ためにオルグされた格好で革マル派に入った。
 その行動原理は、人間関係のある側にどこまでも味方するという、任侠映画のものだった、と自ら言っている。自分たちがまちがっているとみなす人々はたくさんいるのは当然知っており、また自分自身の確信も揺らぐことへの恐怖もあって、暴力に走ったのだ、とも。
 当時、革マル派をはじめとする新左翼の活動家がみんなこうだったとは思わない。中には、黒田寛一(革マル派の理論的指導者)らの理論に心から心酔し、その路線での革命運動に邁進した人だっていたに違いない。
 そういう人もまた、自分や自分たちの組織を何が何でも守りたいという動機から無縁だったはずはなく、それが過激な行動に走るバイアスの一つにはなったろう。人間の弱さの一部であり、そのことを認めるのは、寛容の現われと言えるだろう。

 しかし、大岩氏はここからさらに、当時の責任なんて感じられない、と言う。ある危機的な状況の中で無我夢中で動いていたものを、後で理屈をつけて説明しようとしても、それは必ず嘘になるから、と。彼は、暴力を揮った人たちには「申し訳ない」と言うものの、これでは何に対して謝っているのかもわからない。
 その大岩氏が最後の頃には「でも、僕に責任がないということにはならない。まず、なかったことにはしない。そして、何らかの形で応答していくことを諦めてはいけないと思います」などと言う。「人間が生きていくというのはそういうことだと思っています」と。
 これでは支離滅裂だと感じたが、きっと大岩氏は言葉以外のやり方で責任をとっていこうとしているのだろう。実際、この頃のことを含めて、公にはずっと沈黙を貫いた元活動家も多く、樋田氏はそのうちの一人(革マル派自治会委員長田中敏夫、故人)を紹介するところから本書を始めている。
 それで責任を取ったことになるのかどうか、疑問ではあるけれど、そういう見方もあることはわかる。ただし、言論人でもある大岩氏の場合はどういうことになるのか、私には見当もつかない。

 人間は完全ではない、ということを大岩氏はカナダの大学で鶴見俊輔から学んだと言う。そのことは、自己についても他者についても、認めざるを得ない。
 そのうえで、言葉を諦めてはならないと思う。全部嘘だ、というのは厳密には正しいが、そんなに厳格にはならないところにこそ、寛容さは発揮されるべきだと思う。
 すべては嘘、別言すればフィクションでも、そこに筋を通そうとする努力ならできる。それこそがつまり、人間が生きていくということなのではないだろうか。

 次に映画に関連して。
 5月5日に早稲田奉仕園の、先行上映会+シンポジウムに出席した。
 シンポジウムは代島監督・原作者の樋田毅氏・映画中劇パートの演出を担当した鴻上尚史氏、の三人の話、それから会場にいた関係者四、五人からの発言があった後、インタビュー(因みに前述の大岩氏にもインタビューを依頼したが、「自分の証言は自由に使ってもらってかまわないが、映画に顔出しするのは勘弁してくれ」と断られたそうだ)+映画中劇+当時の資料紹介、で構成された映画が始まった。
 すべてを通して、昭和47(1972)年11月8日、どうして早大文学部構内で川口大三郎君が殺されたのか、いくつかの背景はわかったような気がしたので、それを書き付けておく。

(1)劇パートから
 無理矢理連れ去られた川口君の友人三人が心配して自治会室前へ行った。ドアの前には見張りの、革マル派の男二人。「友だちが連れ込まれたという話があるんだけど、出してくれないかな」と頼んでも「ダメだ」と言われる。「お前ら、関係ないから帰れ」とも。「関係ないわけないじゃん。だって川口は友だちなんだ」。
 押し問答をしている最中に、他の学生からの通報を受けた教員が二人やってきたが、ドア前の革マル派学生とちょっと言葉を交わしただけで、帰ってしまった。
 次に女性活動家が部屋から出てきて、血走った目で「私たちは革命をやってるんだ。お前たちは、その邪魔をするのか」とこちらを詰り始めた。「そんな話じゃないだろ。友だちの川口を返してほしいと言っているだけなんだから」と言い返すと、「私たちはこれから革命をやる。お前らはそれに刃向かうのか」と一方的にまくしたてて、部屋へ戻ってしまった。
 以上の科白は樋田毅氏の原作本から引用していて、映画では少し違っていたような気がするが、それは大きな問題ではないだろう。ここで注目すべきなのは、川口君の友人たちと、革マル派学生たちのチグハグさだ。
 このときの革マル派の論理とはこうだ。自分たちは革命運動に従事している。これは何よりも最優先されるべきものである。友情がどうたらは、それに比べたらものの数ではない。そんなものをあくまで押し立てて、自分たちの崇高な運動を邪魔するなら、粉砕してもかまわない、否むしろそうすべきだ……、とまでは言っていないし、思ってもいなかったかも知れないが、彼らの論理を押し詰めればそうなる。現に、そういうことをやっていたし、この時もそういう結果になった。
 ここで、第一、カクメイなんてものになんでそんな価値があるんだ、自分たちが入れあげるのは勝手だが、「そんなの知らねえ」と言っている者にまで押しつけてもいいと、どうして思えるんだ、と、不思議に感じる人も、今の若者の中にはいるかも知れない。
 これにちゃんと答えるのは難しいので、他日を期すことにして、ここでは関連したことに以下で軽く触れるだけにする。

(2)シンポジウム最後の、川口君の同級性の発言から
 この人はシンポジウムの出席者まですべて含めたこの日の発言者全員の中で、一番通る声で口跡もよく、二階席にいた我々にも最初から最後まで聞き取れた。
川口は早稲田で死んだんじゃない、早稲田に殺されたんだ」と言うと、「そうだ!」という合いの手と拍手が起こり、かつての学生の集会みたいな雰囲気だ、と感じた。
 なんで「殺された」のかと言うと、そもそも、学内の革マル派支配に対して何もしなかった大学当局の責任があるではないか、ということ。
 この両者は裏取引をしていた、少なくとも紳士協定は結んでいて、学生に対する革マル派の専横はほぼ見過ごされていた。彼らが仕切っている限り、他の新左翼の、もっと剣呑かもしれないセクトは入って来れないから。
 しかし、事件の大前提であるこのような状況についても、事件そのものについても、土台となる当時の「常識」があった。
 前述のように、教職員が二人来ているが、「なんでもありません」と言われたら大人しく引き上げている。
 さらにキャンパスは夜中の9時にはロックアウトされるので、彼らは8時ぐらいと9時ぐらいに見回りに来て、見張りの革マル派学生に下校するように促している。
 この頃川口君は死線を彷徨っていたろうが、「僕らもすぐに帰りますから」と言われ、またしても、部屋の中をあらためることなく、去ってしまった。
 後の糾弾集会で、このうちの一人の、学生担当副主任(そういう役職があることを、今回初めて知った)が吊し上げられる記録映像が本映画中に採用されている。
 彼は学生たちの非難に対して、「様子を見に行って特に何もなかったら帰るしかないじゃないか」と言った。「機動隊の導入には教授会の承認が必要なんだよ」とも。
 単なる言い逃れだと断ずることはできない。革マル派学生十数人、それも鉄パイプや角材や金属バットを持っている中へ、二入で乗り込んでいったとしても、被害者が増えただけの話ではないだろうか。
 先生だろうが教授だろうが、革命運動に携わっていない者は軽侮の対象、邪魔をするなら嫌悪の、そして「粉砕」の対象になるしかない。
 じゃあせめて、警察を呼べば?
 件の川口君の元同級生氏は、その点非常に率直に、「川口のために警察を呼ぶことは、その当時の常識に囚われてできなかったんです」と認めた。
 川口君の場合のように死亡にまで至れば、さすがに犯人は指名手配され、何人かは逮捕もされたが、その後反革マル運動をして学内で革マル派に襲われ、殺されるまではいかなくても半殺しの目に合った人たちは、樋田氏を初めとして、誰も被害届を出していない。
 なんの常識か? 革マル派の推進している革命運動は疑わしいとしても、革命そのものは正しい。革命とまではいかなくても、若者(本当は、大学生)なら「反権力」「反体制」が当り前なのだ。
 デモなどで機動隊とぶつかった経験のあるセクト内の者はもちろん、ノンポリ(ノンポリティカル。政治には無関心な、意識が低い者、というニュアンスの軽蔑語)で、「革命(運動)には関係ない」学生にしても、学校へ警察がずかずか入ってくるのは好ましくない。それでは、「学の独立」が失われる、少なくとも汚されるから。
 このような考え、否むしろ気分は、今でもすっかり消えたわけではないだろう。
 川口君は連行される時、「助けてくれ」と、また「警察に連絡してくれ」とも叫んだ、と『毎日新聞』には書かれていたそうだ(樋田氏の本による)。
 この段階で、教師でなくても学生が、警察に通報しようとすればできた。暴行罪や監禁罪にはなりそうだから。でも、しなかった。そういうことは頭に浮かびもしなかったろう(もっとも、通報しても、大学内での学生同士の殴り合いなら珍しくなかったこの時代、警察がまともに取り合わなかった可能性はあるが、それはまた別の話)。
 これが即ち、当時の「常識」であった。
 加害者である革マルの学生たちも当然、この「常識」の上で行動していた。「お前はブクロ(中核派)のスパイだろう」「他のスパイの名を言え」と、散々殴っておいてから、拘束を解いて、「川口、もう帰っていいぞ」と軽く声をかけている。川口君が床に倒れてからは、人工呼吸までしている。
 彼が生きて帰っても、警察にタレこんだりはしないと確信していたからだ。
 そうなると学校とは、警察力など社会の権力関係がストレートに及ばない子どもの世界、ネバーランドみたいなものだし、そこで、大人になれない、いや、大人になることを拒絶したい者たちが活動していた、ということになりそうだ(私も、左翼ではないが、この気分には浸っていたから、決して馬鹿にしているわけではない)。
 悪い点ばかりではないけれど、そこに、本来あり得べからざるはずの暴力が出てくると、とめどがなくなってしまう場合があることは、昨今のいじめ事件を見るにつけても、心得ておいたほうがよい。

(3)インタビューパートから。
  あくまで非暴力で革マル派に対抗した樋田氏たちと違い、強硬手段で革マル追い出しを目指した人々もいる。そちらのリーダーだった人の言葉(記憶で引用)。
「女子学生の中には、鉄パイプを振れないのを泣いて悔しがる人もいました(ちょっと註記、いや、別に、振れるだろと思う人もいるだろうが、当時は女性はそんなことをするべき存在じゃない、というこれまた「常識」があった、ということだろう)。彼女らは、自分の排泄物をスロープの上から革マルに投げつけて戦いました。私も(武器を?)提供したことがあります」
 楠正成の故事に倣った、わけはない、ベトコンの戦い方を参考にしたかな。
 いや別に、スカトロの話をしたいわけではなく、こういうことを言うときの、70歳を過ぎているであろう人の、なんとも生き生きした表情が印象的だった。
 政治的にどうたら以前に、人間は暴力が好きなのだ。もちろん、自分が犠牲にならない暴力は、だが。それだけに、樋田氏たちの考えは貴重だと言えるが、このことは、今後とも社会運動を展開しようとしたら常に問題になるだろう。これも覚えておくべきだ
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小浜逸郎論ノート その4(共同態・中)

2024年04月26日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『倫理の起源』(ポット出版プラス令和元年)
サブテキスト:和辻哲郎『倫理学』(初版は岩波書店全三巻昭和12~24年。岩波文庫全四巻平成19年)

 前回は、『倫理の起源』の結論部分に即応して愚考を述べました。これはやや性急過ぎて、小浜の論の魅力的なところを取りこぼしてしまったようです。今回と次回、改めて、各種共同体の相関・相克関係や、公私の別について、小浜の言説をきちんとお浚いして、自分なりに感じる問題点を提出してみようと思います。

Ⅳ 和辻倫理学の継承と批判 往還の相と信頼
 第一のテーゼと言うべきもの。重要なのは常に共同態なのだ。共同態があるからこそ、善がある。また、ある共同態がまずます平和に、幸福に営まれているなら、そこに善は実現されている。

 では、悪とは何か。その共同態が乱れ、さらには失われること、ということになるだろう。
 共同態のための場所である共同体がほぼ完全に消失する場合、BC1世紀ローマ帝国に滅ぼされたカルタゴとか、16世紀スペインのコンケスタドールに征服されたインカ帝国などの例は、今後も起こらないとは言えないが、倫理は共同体内部の人間の在り方を考えるものだ。
 人は共同態の中で生まれ育って初めて人となる、共同態以前にいかなる個人もない、というのは、いわば発生論。元はそうでも、人が太郎とか花子とか固有名を持ち、一個の人格として扱われ、他者とは違う自分を意識したら、それだけで既存の共同性からは微妙に逸れている。
 最も重要なのは、この逸れた個人がもう一度共同態に復帰すること。というよりは、共同性の核(それが何かは少し曖昧だが)を保存したまま、新たに創り上げていく、と言ったほうがいいだろう。

 ある家庭の息子や娘が成長して結婚し、今度は自分が父母になって、子どもを産み育てる。今でも三世帯同居など、大家族はあるけれど、それでもそれは、元の「家」とは別のものになっている。子どもが結婚して嫁さんなり婿さんなりが入ってくるだけでも元とは違う。そこに新たな子どもが誕生すればまた違ってくる。
 それでも、子育てなどの基本的なモデルは代々ずっと受け継がれた部分が大きく、それこそ共同態なのだが、親子が別居した場合でも、そのような無形の部分の継承はなされている。

 小浜が、というより彼が最も影響を受けたと認める和辻哲郎の倫理学は、このような過程を共同態からの「往還」と呼ぶ。
 個人が、反抗期とか何かで、意識的にもせよ無意識的にもせよ、共同態から背き離れるのが「往」、それからまた共同態に復帰するのが「還」、これが人間の、生活の歴史を形成する。
 それで、「往」が悪の過程で、「還」が善の過程なのだが、いつかまた還る運動の過程にあるなら、「往」も全き「悪」とは呼べない。行ったっきりで戻る道が見つからない、あるいは完全に否定するとしたら、それこそが「悪」になる。
 これでもう贅言は要さないかも知れないが、和辻―小浜が最重要と考えたのは、現にある家庭とか国家とかを保ち守ることよりむしろ、個々人が他者と共有し共生できるだけの、精神的なものを含めた場を創ることで、「他人への思いやり」と言えば、ほぼ尽きている。

 小浜が悪の代表と考えるのは、個人の自由を重んじるあまり、「自分が正しいと信ずるなら、人を殺してもいい」なんて思うこと。ドストエフスキー「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフはこの状態に陥ってしまった。
 文学からまた別例を探すなら、ロビンソン・クルーソーは、事故で共同体からは離れてしまったが、それまで同胞とともに生きてきた英国社会の共同性から身につけたマナー(考え方と行動のパターン)は保っているので、共同性を失ったわけではない。それは、食人の習慣がある南米の原住民を野蛮人とみなすprejudice(偏見、だけど、元義は、「前もってする判断」)を含めての話ではあるが。

 別様に表現すると、人間は関係性によって形成される、関係的な存在である。しかし、関係的存在であることを認識するところに自己が現れる。そして、それゆえにまた、人としての正道と言えば、関係性を自ら背負うところにある。つまり、関係性こそが倫理となるのである。【キルケゴールの「自己とは関係がそれ自身に関係する関係である」はそういうことではないかと私は思っている。】
 ここまでなら特に異論はない。しかし実は倫理上の実際の問題は、この次からなのである。

 小浜逸郎は和辻哲郎の倫理学を高く評価し、自分はその後継者を目指す者であることも認めている一方で、その弱点も厳しく指摘している。小浜の倫理学は、この弱点の克服を目的としている、と言っても過言ではない。
 以下、小浜の和辻批判を私なりに言葉をやや変えて紹介すると。

(1)和辻は、共同体の中心核となる感情は信頼だと言う。それはそうで、成員同士に信頼感がなかったらいかなる共同体も成り立たないのは自明。ただ、それだけで共同体が保たれるかと言えば、これまた明らかに違う。
 和辻がそう言っているわけではない。が、共同性こそ人倫の基礎という割には、共同性につきまとう諸問題にはあまり言及していない。
 小浜の言い方だと、和辻は「ザイン」(現にあるもの・現実)と「ゾレン」(あるべき存在・当為)をちゃんと区別していないようだ。別言すれば「倫理学は、生の暗黒面という現実を直視しつつ、しかも最終的には「ゾレン」を追究する学であるという姿勢を一貫するのでなくてはならない」(pp.308~309)とすると、和辻にはその直視が足りないと言わざるを得ない。
 例えば和辻『倫理学』第三章「人倫的組織」中の第4節「地縁共同体」における、村落の共同労働や祝祭における絆の深さについての記述など、現実にはまず存在しない、いいことずくめである。それから、第5節「経済的組織」では、そこでの人倫精神の要は「奉仕」というキーワードで語られてい、これではブラック企業の経営者が喜ぶばかりだろう。

(2)共同体相互の関係。上に一部示したように、和辻は人間社会の「人倫的組織(=共同体)」を、家族・親族・地域共同体・経済的組織(企業など)・文化共同体(ある、一定、と見なし得る文化、例えば日本文化を共有していること)・国家、に分類している。近代人はこの全部、あるいは少なくともいくつかには属しているのが普通である。
 それぞれの共同体には固有の論理と倫理があり、すべて相俟って人間社会を支えている。しかし、すべてが矛盾なく並び立つ、なんてことはない。それはかつての徴兵制があった時代の戦争を考えただけで明らかだろう。
 男たちは基本的に、自分や家庭や地域の都合とは関係なく、国家の命令で戦地に赴き、最悪の場合には命を落とした(これが前回採り上げた「永遠の0」の主題)。今でも、企業人としての激務に追われ、家庭や親族間ではほとんど長期不在状態が続き、最悪その共同体の崩壊に繋がることもある。
 こういう場合、最小のもの(家族)から最大のもの(国家)まで、共同体の範囲が広くなるのは当然だが、その分価値も高くなるように感じられるのは、功罪相半ばする、というか、当然なところと危険なところがある。

Ⅴ 改めて、国家とは何か
 小浜は、現存する最大の共同体である国家については、その幻想性を語るところから始めている。
 国家とは実体ではなく、人々があると思っているからある。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』、吉本隆明『共同幻想論』、古くはカール・マルクス『ドイツ・イデオロギー』にも同じ考えはある。
 一理あるが、殊更に「幻想」と呼ぶと、他所に何か実体があるような印象を与える。「しかし少し考えてみればわかるように、その程度はさまざまであれ、およそ人間が作る共同性は、すべてある意味で「想像」によって成り立ち、「幻想」を媒介としたものであることを免れない」(P.405)
 これは「少し考えてみればわかる」ことではないかも知れない。例えばこういうことだろう。結婚して新たな家庭という共同体を創る場合、自分及び相手に対する幻想、と言って言葉が強すぎるなら、ある種の思い込み、あるいは期待、がなくて結婚生活は始めるケースは稀だろう。前述の〈信頼〉も、結局はこれに基づく。
 だから、他のより小さな共同体に比べて、国家とは単なる幻想であり擬制だ、とは言えないのだが、しかし、その幻想―信頼の質そのものが、他とは決定的に違うものであることなら、誰にでも直感的にわかる。

 小浜は国家を次のように定義している。「近代国民国家とは、人々がさまざまな形で共有する土着的・伝統的な同一性、同質性を基礎にしながら、それらを一つの統治構造によってまとめ上げていこうとする虚構であり、運動なのである」(P.407)
 ポイントは〈運動〉とその〈作用〉というところにある。この着眼と表現は、たいへん秀逸なものだと思う。

第一に、国家は個々の政府機関のような実体なのではなくある統合性をもつ力の作用(はたらき)である。したがって第二に、その作用(はたらき)が有効に機能するために、統合を維持するに足る象徴性を必要とする(たとえば皇室や憲法や国旗や国籍のような)。そうして第三に、メンバー全員の間に、その象徴性に対して、たとえ無意識的にではあれ、同意と承認を与える心のシステムが成立しているのでなくてはならない。(P.410)

 そうである以上、「愛国」という言葉は今もあるけれど、国家への〈愛〉とは、普通に使われるこの言葉の示す心の働きとはずいぶん違う。前回述べたことをもう少し詳しく言うと。
 人は生まれ育った土地、いわゆる故郷に愛着を感じることはある。「忘れ難きふるさと」ということで。しかしそれは、唱歌の中でも、「兎追ひしかの山/小鮒つりしかの川」と歌われているように、風景や、そこで共に過ごした人々の具体的なイメージと結びついている。国全体となると、大きすぎて、各人が各人の想像力を使って思い浮かべるしかない。
 保守派の論客が愛国心教育のためにとよく持ち出す日本文化も、非常に多様で曖昧な諸概念である。他国と比較すると、特徴が際立つようにも思えるのだが、日本国内で普通に暮らしていて、何が「日本的」かなどめったに意識することはないし、もちろんそれでよい。
 逆から見ると、何が国の価値であって、どうすればそれを〈愛する〉ことになるのか、かなり好き勝手に言えることになる。サミュエル・ジョンソンの警句の通り「愛国心は悪党の最後の逃げ場」(もっともこの場合の愛国心はnationalismではなくて、patriotismだから「愛郷心」のほうが適当)になり得る。

 これらを要するに、あらゆる共同体がフィクションではあるが、国家、特に近代国家は、人間が成長するにつれて自然に身につく情感や知見とは最も遠い、という意味で、最も人工性、つまりフィクション性が高い。
 そもそもなぜ人類はこういうものを必要としたのか、小浜の論述から少し離れて、試みに、素朴なモデルを示しておこう。

 例えば老子は、「小国寡民」こそが理想的な社会だとした。一番大事なのは、そこで暮らす人々が、小さな共同体の中で完全に自足し、今ある以上のものは求めないこと。ならば、他所と交通する意欲もなく、他人を羨むことも、争うこともない。すると、文明の進歩はない。文明は、人々に快適をもたらすが、それ以上に不幸をもたらすものだというわけなのだろう。一理ある。が、人類は、西洋でも東洋でも、ほとんどこの道を採らなかった。
 今以上を求めるから、産業も商業も発展するのだが、一方、自分たちにはなくてよそにあるものを妬む心から、争いへとつながることは避けられない。争いはほとんど直ちに暴力に結びつき、他より立ち勝り、できれば支配するために、暴力の手段(兵器)も集団(軍隊)も発達する。これが野放図に横行したりしたら、明らかに安定した生活はない。
 対応策として、ある集団が揮う暴力のみを正当(公的)として、他のすべてを禁ずる、といってもなくすことなどできないので、不当・不法として取り締まる、という方式が選ばれた。そのために国家という機関ができた、とさえ考えられる。
 マックス・ウェーバーの有名な定義「国家とは、ある一定の領域内部で、正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」(「職業としての政治」)はたとえ言い過ぎだとしても、それこそ、つまり暴力の管理こそは国家の枢要な仕事の一つであることはまちがいない。

 ただし、暴力は悪なので、押さえるためには、それを上回る暴力がなくてはならない、というのは、矛盾に見える。そこでその暴力の正当化の根拠として、国家の正当性が宣揚された。先の引用文中の「土着的・伝統的な同一性、同質性」さらにそれを簡明にした「象徴性」が動員される。「この国は、神に選ばれた偉大な民族である我々が建てたのだ」というような。時には、このような神話とも呼ばれるフィクションが新たに創られる場合もある。
 そして、暴力が最大限に発揮される場である対外戦争が仕上げをする。
 ヨーロッパ中世期では、戦争は王侯貴族がやるもので、一般庶民は、無理矢理駆り出されたか、他は金で雇われた傭兵が大部分で、命がけで戦う義理など感じていなかった。戦局が剣呑になれば、すぐに逃げ出した。マキャベリ「君主論」には、合計二万の軍勢が四時間戦いながら、戦死者は一人だけ、それも落馬した時の怪我がもと、という例も書かれている。

 徴兵制はフランス革命の産物だ。革命が自国に飛び火することを恐れたヨーロッパの諸王国は連合してフランスを攻撃した。フランスの国民公会は、これに対抗するために、様々な曲折の後、ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑された年である1793年に「国民総動員令(または、「国民総徴兵法」)」を成立させ、18歳から25歳までの国内青年男子を動員し、百万人規模の軍隊を作った。この〈国民軍〉はその後ナポレオンに引き継がれ、戦時には民兵を指揮し、平時には軍事訓練を事とする専門の軍人によるいわゆる常設軍もできる。
 これはその後すぐに西欧世界全体に広がり、ここに、〈国民〉とナショナリズムが歴史の前面に躍り出た。以前に書いたように、あらゆる共同体が〈内〉と〈外〉を分けるもので、程度の差こそあれ、排他的になる。この力学をさかさまにして、〈外〉の脅威とそれによる危機感を煽って、〈内〉の結束を強めるのもよくある手法である。
 強大な外の脅威に対抗するには全力を挙げて戦わねばならない。戦争はいまや苛烈を極めたものとなり。何人もの人が命を落とす。すると、これまた逆転して、何人もが命懸けで保ち守ろうとしたからこそ、そこには価値がある何かが存在する、とも感じられる。それが即ち、(近代)国家である。

 しかも国家の価値は、根拠は怪しい分だけ、巨大でダイナミックである。その一部として、その存続を懸命に保ち守ろうとすることで、個人の背丈を遙かに超えた歴史の過程に参入した感じになれる。
 幻想だと言って侮る勿れ、その高揚感は、安定した日常生活では得られないものだ。20世紀の多くの若者を捉えた「革命」への熱情も、たとえ旧来の国家の廃絶を唱えたとしても、質的には同じである。いや、民主主義で、一国の政治に責任を感じて主体的に関わるように求められるなら、誰もがこの心性と無縁ではない。

 現代では、欧米のいわゆる先進国の多くは、常設軍はあっても、徴兵制は廃止している。20世紀末に冷戦が終わり、デタント(緊張緩和)が訪れた結果なので、ウクライナ戦争でロシアの脅威が再び高まったので、また導入が検討される場合も稀ではないようだ。
 それでも、成人前の(たいてい)男子に兵役に就く気があるかどうか答えさせるのがせいぜいで、つまり、いやだと言えばそれまで、無理矢理兵士として使役するまではとてもやれないのが実際らしい(六辻彰二「徴兵制はなぜオワコンか――ウクライナ戦争でもほとんど‘復活’しない理由」)。
 個人の意思の尊重をたてまえとする民主主義国ではそれが当然だろう。ただそれも、ヨーロッパの今後の情勢次第ではどうなるかわからない。

 戦後日本は徴兵どころか正式な軍隊もない。そもそも、国家意識に非常に乏しいと言われる。それでいて、国際性がどうのこうのと言っても、その「国際(各国の関係性)」の概念が他国の標準とは合っていないのではないかと思えるのだが、それはここで扱えるような問題ではない。
 小浜も、上の意味の国家意識には乏しいと言えるだろう。国家とはそれ自体が愛憎の対象になる価値なのではなく、機能なのだ、としている。人類が今更小国寡民の原始時代に戻れない以上、現在の生産と流通の状態を維持するために、統括のための巨大組織が必要になる。犯罪の取り締まり。即ち警察力もなくてはすまない。ここに国家の実際的な存在意義もある。

(前略)近代国家の精神は、個人個人の愛国感情によって支えられるよりも、はるかに大きく、そこに属する住民の福祉と安寧とをいかに確保するかという機能的・合理的な目的意識によって支えられているからである。
 このことは軍事・外交・安全保障にかかわる施策や行動においても例外ではない。もちろん実際の戦闘時の士気を維持することにとって参加メンバーの愛国心は大いに寄与しているように見えるが、それはよく個々のメンバーの行動心理に照らしてみれば、個人の愛国の情の力の集積というよりも、大きな目的を合理的に理解した上での、各部署における職業倫理と責任意識であり、同じ目的を追求していることから生じる同朋感情であり仲間意識なのである。これらがうまく機能するとき、「強い・負けない」国家はおのずと現れる。
(pp.417~418、下線部は原文傍点部)

 従ってここでも、何よりも各人が家庭や職場でそれぞれ具体的な責任を果たすことが重要であり、国家サイドからすると「身近な者たちへの愛が損なわれることのないような社会のかたち(秩序)をいかに練り上げるかという理性的な「工夫」」(P.420)こそが肝要と言うことになる。ここから前回掲げた「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する」(p.466)という理念も出てくる。

 私も国家の第一の目的は国民の安寧秩序を守るところにあるのは同意する。そのための国家は、できるだけ理性的・合理的に営まれるべきなのも、そうであろう。しかしその道は幾重にも折れ曲がっている。ナショナリズムというかなり非合理な感情一つとっても、そう簡単には決着がつかない。
 そういうことに拘るのは、私が、小浜よりもっと、人間の暗黒面が気にかかる傾向があるからだ、ということは認めつつ、もう少し歩を進めたい。
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物語作者としての宮澤賢治 下(銀河鉄道の夜)

2024年04月08日 | 文学

杉井ギサブロー監督 「銀河鉄道の夜」(昭和60年)

メインテキスト:宮澤賢治「銀河鉄道の夜」(ちくま文庫『宮沢賢治全集7』昭和60年刊。第一~三次稿も「異稿」として収録されています)

 「銀河鉄道の夜」は大正末にはすでに一定の形にまでなっていましたが、その後賢治にとっては晩年の昭和五、六年まで改訂が続けられたことは比較的よく知られていました。しかし従来全集や作品集を編纂してきた編集者たちは、賢治の生原稿まで見ることはさほどはなかったようで、刊本によってけっこう異同があったのです。私が小学校の頃に初めて読んだのは、たぶん、谷川徹三編で昭和26年に出た岩波文庫『童話集 銀河鉄道の夜 他十四篇』を基にしたもので、以後これを旧版と呼びます。【岩波文庫には現在もこのテキストで入っています。】
 その後昭和46~48年に、入沢康夫と天沢退二郎が、遺されていたすべての生原稿を精査し、用紙やインクや書体などから、作品の生成過程を可能な限り明らかにしました。その成果は、まず『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房全十四巻別巻一)に収められています。
 「銀河鉄道の夜」については、大きな改訂だけでも三回施されています。賢治が生前に手入れした最後のものは、けっこうまとまっているのですが、これを「決定稿」と呼ぶのは入沢・天沢両氏とも反対しています。それでも、この発見以後、「銀河鉄道の夜」と言えば、この第四次稿または新版と呼ばれるものを指すことになり、各種の全集や作品集に入っている他、アニメ映画「銀河鉄道の夜」の原作になったのもこれです。

 第四次稿と第三次以前の原稿は、「風野又三郎」と「風の又三郎」ほど別の話になっているわけではないのですが、かなり重要な変更があります。最大は、第一次稿から登場していて、銀河鉄道の旅を言わば主導していた人物・ブルカニロ博士が消失してしまったことです。
 結論から言うと、これによって、作品のテーマというか、大枠の構造が次のように変化したことが認められます。
 旧版〈少年が宇宙の神秘に目を開かれる〉→新版〈孤独な少年の魂の彷徨〉
 以下、これについて述べます。

 第四次稿=新版ならば、第三次稿=旧版なのかというと、必ずしもそうではありません。
 まず第三次稿には、「一 午后の授業」→「二 活版所」→「三 家」と続く冒頭部分がなく、「ケンタウル祭」から始まります。ジョバンニは街にいて、「ぼくはまるで軽便鉄道の機関車だ」と考えながら元気よく走っているのだが、同級生のザネリとすれちがった時、「どこへ行ったの」と訊き終わる前に「ジョバンニ、お父さんから、らつこの上着が来るよ」と冷たい言葉を投げつけられる。
 そこから主にジョバンニの内面の声によって、
(1)彼の父は遠洋漁業に出て長いこと留守なのだが、実はらっこや海豹の密猟をしていて、そのときのいざこざで人に怪我をさせてどこか遠くの国の牢屋に入っているという噂があること、
(2)彼の母は一家を支えるために農作業に従事していたのだが、無理がたたって体をこわしてしまったこと、
(3)そのためにジョバンニは朝は新聞配達、夜は活版所で働き、せっかくの祭の日なのに、遊びにも行けないこと、などがわかる。そして今彼はおつかさんのために、届かなかった牛乳を取りに来たのだった。
 牛乳は「今日はない」と言われる。金さえあればどこかで買うことが出来るのに。そこから、裕福で、賢くて、誰からも好かれているカムパネルラへ憧れる思いが浮かぶ。歩いていて再びザネリを含む子どもたちの一団とすれ違うと、また「らつこの上着」を囃し立てられる。その中にはカムパネルラもいて「気の毒さうに、だまつて少しわらつて、怒らないだらうかといふやうに」見ていた。
 すっかり悲しくなったジョバンニは、家へは帰らず、川を越えて暗い林を抜けて天気輪の柱のある丘の頂上にまで着く。そこで牛乳の川=milky way=銀河を眺めているうちに、いつの間にか銀河鉄道の中にいる。それも、カムパネルラといっしょに。

 ここから、本作のボディである、魅惑に満ちた銀河の旅が始まるのですが、今回は物語の構成だけを考えます。いきなりブロカニロ博士までいきましょう。もっとも彼は、実際に姿を現すまでに、「セロのやうな声」で「ひかりといふものは、ひとつのエネルギーだよ」など、ジョバンニの心の中に語りかけていろいろ知識を授けるのですが。
 彼が「黒い大きな帽子をかぶつた青白い顔の痩せた」姿を現すのは、旅の終わり、カムパネルラが突然姿を消して、ジョバンニが「はげしく胸をうつて叫びそれからもう咽喉(のど)いつぱい泣きだし」たとき。次のようにジョバンニを教え諭す。

(前略)みんながカムパネルラだ。おまへがあふどんなひとでも、みんな何べんもおまへといつしよに苹果(りんご)をたべたり汽車に乘つたりしたのだ。だからやつぱりおまへはさつき考へたやうに、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなと一しよに早くそこに行くがいい。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいつしよに行けるのだ」

 この次に博士は、一頁が一冊の(地球の各時代の)地歴の本になっている本を開いて、人類の意識の歴史を語り、やがて科学と宗教が一致する真理、人類全体の本当の幸福の時代が訪れる(ということだろうと思います)、そのためにこそ「一しんに勉強しなけあいけない」とジョバンニを励ます。

 やがてジョバンニは元の丘の上にいる。そこにも博士はいて、「私は大へんいい實驗をした。遠くから私の考へを人に傳へる實驗をしたいとさつき考へてゐた」と言うので、銀河鉄道の旅はすべて博士の「考へ」をジョバンニに伝えたものらしい。そして、「僕きつとまつすぐに進みます。きつとほんたうの幸福を求めます」と力強く言うジョバンニに別れを告げ、「さつきの切符です」と、銀河鉄道でズボンのポケットに入っていることを発見した緑色の紙(「こんな不完全な幻想第四次の銀河鐵道なんか、どこまででも行ける」切符だと言われた。曼荼羅ではないかとも言われる)を改めて渡す。林の中を通って家へ帰る途中、ポケットが重いので、調べてみると、緑色の紙の間に金貨が二枚包まれていた。これでおっかさんに牛乳を買える。

 何かいろいろのものが一ぺんにジヨバンニの胸に集つて何とも云へずかなしいやうな親しいやうな氣がするのでした。
 琴の星がずうつと西の方へ移つてそしてまた蕈(きのこ)のやうに足をのばしてゐました。


 以上が、第一次稿から三次稿まで共通した作品の末尾です。

 推測を交えて言うと、旧版は次のようにできあがったのでしょう。
 まず、第四次稿で登場した「一」から「三」まで、つまり、学校の授業で、銀河について説明を求められてうまく応えられないところから、活版所でのアルバイト、家で病気のおっかさんと会話し、彼女のために届かなかった牛乳を取りに出かけるまで、すべてジョバンニの体験として直接描写された部分は活かす。結果として、「四 ケンタウル祭〈第四次稿で「ケンタウル祭の夜」、と改められた〉」で説明過剰になる部分は削る、そこまでは賢治自身がやっています。
 ところで、「三 家」で、おっかさんの直の言葉から新たに与えられた情報があって、ジョバンニの父とカムパネルラの父は小さい頃から仲が良く、その関係で、ジョバンニは、以前はしょっちゅうカムパネルラの家へ行って、いっしょに遊んだ、ということです。
 ここでジョバンニの淋しい生活を描くだけでなく、以前は全く登場していないカムパネルラの父について言及したことは、第三次稿までは宙ぶらりんにされていた二つの〈現実〉の事情、
①カムパネルラはどうなったのか、
②ジョバンニの父は今どういう状態で、これからどうするのか、

をきちんと伝える最初の伏線です。
 実際にここは明らかにされました。カムパネルラは川に落ちたザネリ(ジョバンニを一番苛めていた子)を助けるために自ら川に飛び込み、行方不明になってしまうのです。
 因みに、「三」でジョバンニが外出する直前、おっかさんが「川に入らないでね」と注意します。こういう細かい伏線を張れるのも物語作者としての才能ですね。
 第四次稿初登場のカムパネルラの父は、河原にいて懐中時計を眺めながら「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから」と言い、またジョバンニに、「あなたのお父さんはもう帰つてゐますか」と問いかける。「ぼくには一昨日大へん元気な便りがあつたんだが。今日あたりもう着くころなんだが。船が遅れたんだな」。

 さて、物語の重要な結束点というべき、原稿用紙で五枚ぐらいのこの場面は、第四次稿で初めて登場したわけですが、これは明らかにあったほうがいいですね。最初は確かに生きて活動していたカムパネルラが、銀河鉄道の中からは消えて、現実世界ではどうなったのか、わからないのではどうしてもおちつかない。
 それでまた、作品中のどこに置かれるべきかと言うと、やはり最後に、言わば謎解きのようにあるのが、一番適当なようです。実際作者・賢治も、わかっている限りでは最後に、そのように物語を締めくくることにした。しかし、では、ブロカニロ博士に勇気を与えられる、元の最後の会話はどうなるか。二つの結末はどうしても並び立たないので、賢治はとりあえず、潔く前のを消すことにしたのですね。
 今思いついたのですが、博士はあくまで銀河鉄道の中にいるだけで、そこから目覚めたジョバンニが川へもどって、カンパネルラの現実の死を知る、という筋立てはできそうです。なぜそうしなかったのか、賢治がもう少し長生きしてなお改稿したら、そんなふうにした可能性があるのかどうか、もちろん想像するしかありません。
 因みに新版の最後は次のようになっています。

 ジョバンニはもういろいろなことで胸がいつぱいでなんにも云へずに博士〈これはブロカニロではなく、カムパネルラの父〉の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持つて行つてお父さんの帰ることを知らせやうと思ふともう一目散に河原を街の方へ走りました。

 旧版の最後にある「何とも云へずかなしいやうな親しいやうな氣」のうち、「親しいような」は見当たらなくなります。また、「みんながカンパネルラだ」という言葉もなくなったので、カムパネルラの幻想と現実双方での消失は、ジョバンニにとってどんな象徴的な意味があるのか、よくわかりません。父の帰宅という嬉しいニュースはあるとはいえ、淋しい気分のほうが強く残ります。
 牛乳については、新版では、銀河の旅から目覚めたジョバンニは、川へ行く前にまず再び牛乳屋へ行って無事に手に入れますので、ブロカニロ博士から金貨をもらわなくても、おっかさんに牛乳を持って帰るという外出のミッションを果たすことはできます。それで、新版からは、「セロのやうな声」を含めて、ブロカニロ博士は跡形もなく消されます。
 思うに、旧版の編集者たちは、宮澤賢治の思想を直截に述べていると思えるこの超越的な人物がいなくなることは、どうも了解できなかったのでしょう(単純に、賢治の推敲がちゃんとわからなかっただけの可能性はもちろんありますが)。それで、問題の、カンパネルラの死に関する部分を、銀河鉄道に乗る前にもってきて、その後は第三次稿そのままで完成作としたのでしょう。
 結果として、ジョバンニは、
一度天気輪の丘で眠って→その後川へ行ってカムパネルラの死を知る→その後でなぜかまた丘に戻って→銀河鉄道に乗る、
ということになってしまいました。
 新版が出るまでは気づかなかったのですが、考えてみれば、これは物語としてはけっこう無様、とまでは言わなくても、スマートさには欠けます。賢治という人は、このへんの物語作者としての感覚も、ちゃんと備えていました。

 さて最後に、どうしても暗く淋しい気分が勝る新版、そのために人によっては、旧版のほうがいい、とも言われるこの改変は何に拠るのか。物語の構成をきちんと整えるため、というのは、上で暗示したことで、それは小さな要素ではありません。しかし、それだけではないとすると。
 夢幻譚である「風野又三郎」から「風の又三郎」への改編で、現実の子どもを生き生きと描きながら、その現象の底に潜む奥深い世界をも開示して見せることに成功した賢治が、ここでももっと現実に寄せた物語にしたくなったのでしょうか。それも考えられます。
 もう一つ。旧版では、ジョバンニはブルカニロ博士の実験動物のようです。それで最後に、友を喪う悲哀の意味も、(凡人にはよく理解できないながら)教わり、それが救いになるのです。新版には、ジョバンニを教え導いてくれる大人はもういません。彼はこれから独力で

夢の鐵道の中でなしに本當の世界の火やはげしい波の中を大股にまつすぐに歩いて行かなければいけない〈←旧版の、ブルカニロ博士の言葉〉

のです。その厳しさ。何人かの親友と、最愛の妹とし子を喪った賢治の覚悟と、裏腹の寂寥感が、ここには滲み出ているのかも知れません(これについては以前当ブログ記事「銀河鉄道に乗る前に」で省察を述べました)。
 いや、人間は、さほど厳しい境涯ではなくても、大なり小なり、みんなそうなんじゃないか、とも、今の私の頭の中にはぼんやり浮かびます。
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物語作者としての宮澤賢治 上(風の又三郎)

2024年03月22日 | 文学


メインテキスト:宮澤賢治「風の又三郎」
        同「風野又三郎」
        同「ざしき童子のはなし」
サブテキスト:天沢退二郎『謎解き・風の又三郎』(丸善ライブラリー平成3年)

 別役実さんは、宮澤賢治関連だと、NHK少年ドラマシリーズ「風の又三郎」(昭和51年、上図の引用元)や杉井ギサブロー監督のアニメ映画「銀河鉄道の夜」(昭和60年)のシナリオを手がけています。その彼が、短いエッセイの中で、あるとき「宮澤賢治ってハイカラなんだよね」とふと知人に洩らした話しを書いています。知人からは、怪訝な顔で、「だけど、それだけじゃないよ」と返された、と。そりゃあそうで、そんなことが言いたいわけではないよ、でも、じゃあ、何? というのは言い難い、というところで終わっています(『イーハトーボゆき軽便鉄道』記憶で引用)。

 私もこれは気にかかります。賢治自身は岩手を離れたことはほとんどないのに、明確にこの地を舞台にした童話はほとんどない。それどころか、日本でもない場合が多い。例えばジョバンニとかカンパネルラとかは、イタリア人名です。が、では「銀河鉄道の夜」の舞台はイタリアなのかといえば、どうもそうではない。ケンタウルス祭なんてお祭りは、実際にはどこにもない。
 賢治は、外国かぶれなんてものではないのはもちろんですが、身近な生活感覚を直接描くことは、いくつかの例外を除いて、あまり喜ばなかったようだ。「頭の中でこしらえた観念なんて、しょせんはニセモノだ」なんて信仰が強かった日本では、これ自体が珍しい。

 では、賢治の頭の中にあった場所は? 地名としては、何語ともわからない「イーハトーブ」(あるいはイーハトーボ、イーハトヴ)が有名です。その正体は、『イーハトヴ童話集 注文の多い料理店』(大正13年出版)の広告文の中で「実にこれは著者の心象中にこの様な状景(アリスの辿った鏡の国など)をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である」と彼自身が打ち明けています。実在の岩手が基だが、そこを詩人の精神で転換した心象(イメージ)、しかし〈心象としては実在する〉世界なのだ、と。
 では、ジョバンニたちがいるのはイーハトーブか。銀河鉄道の旅だけならそう言えても、そこへ行くまでの学校やお店や川がある街は、どうも少し違うように感じます。このへん賢治の世界はあまりにも多様で多元的だ、と凡人の私には平凡そのもののことしか言えないのですが、その入口の一つかな、と思えるところを軽く述べてみます。

 例えば、民話という、ある地域の人々の集合無意識というか、むしろ意識上のかな、のイメージに対しても、このような転換は働くようなのです。

 「ざしき童子のはなし」は、賢治の生前に活字になった数少ない童話の一つ(尾形亀之助主催の雑誌『月曜』大正15年2月号に発表。童子はここでは「ぼっこ」と呼ばれます)で、岩手県に伝わる、しかしたぶん賢治のおかげもあって今や全国的に有名になった、童形の妖怪だか神だかのエピソードを四つ並べたものです。ごく短い作品ですが、不気味だったり悲しかったりユーモラスだったりと、賢治童話の様々なテイストを、端的に味わうことができます。

 因みに、賢治の故郷の花巻、現在の花巻市から山を一つ越すと遠野市になります。ここ出身の佐々木喜善(号は鏡石)が、故郷の民話を柳田國男に語ったものを柳田が文章にまとめた『遠野物語』(明治43年)は、現在民俗学の最初期の古典として知られています。この中にも座敷童子(あるいは、座敷童衆)の話は出てきますが、内容はほぼ同じ話でも、軽妙な語り口は賢治独自のものです。
 いや、軽妙と言っていいかどうかはわかりません。「遠野物語」のもの哀しい山人と、賢治童話のとぼけた味わいを備えた山男の違いのようなものがある、ということです。

【その後故郷に戻った佐々木喜善は、座敷童子関連の話を収拾する活動の一環として、賢治の童話に目をとめ、手紙を出し、そこから二人の交流が始まります。実際に宮澤家を訪れたのは昭和七年、賢治は既に病床にありましたが、その後数回会談しています。賢治は喜善より十歳年少で、喜善が信仰していた大本教を痛烈に批判したりしたのですが、喜善は「宮澤さんにはかなはない」「豪いですね、あの人は。全く豪いです」と言っていたそうで、彼は宮澤賢治のすごさを最も早いうちに認めた一人のようです。】

 話自体が際立って印象的なのは、前から二つ目のエピソードです。
 どこかの家のふるまい(お祝い事、でしょう)におよばれした子どもが十人、座敷で輪になってぐるぐる回って遊んでいた。それがいつのまにか十一人になっていた。「ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく」、それでも数えるとどうしても十一人。その増えた一人がざしきぼつこだ、と大人に言われて、「けれどもたれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼつこでないと、一生けん命眼を張つて、きちんとすわつてをりました。/こんなのがざしきぼつこです」。

 ちょっとみると、子どもの悪戯の微笑ましさがありそうで、じっくり考えるととても怖い話です。のみならず、生きている者が神隠しにあったり、死んだ者がこの世に甦ってくる『遠野物語』の世界とは違う種類の不気味さを感じます。
 だいたいの感じだと、異界、あるいは異界の者がこちらに入り込むやりかたが、「ハイカラ」なんです。だからこれは宮澤賢治のオリジナルか、原型はあっても、日本のものではないのではないか、と思えるのですが、確信はなく、とんだ勘違いかも知れません。先行話がここにある、と御存知の方は、教えてください。

 天沢退二郎さんは、このざしきぼつここそ、「風の又三郎」に登場する謎の少年の前身ではないか、という説を述べたことがあるそうです。あるいはそうかも知れません。

 天沢さんは、入沢康夫さんと共に(二人とも仏文学者で詩人という共通点がある)、宮澤賢治の生原稿を徹底的に精査し、それまで刊行されていたテキストは賢治が書き残したものとはかなり違う場合があることを発見し、その成果から筑摩書房の『校本宮澤賢治全集』を編んだ人です。特に「銀河鉄道の夜」の、主に構成上の大変更は、私が大学生の時に遭遇した最大の文学的事件でした。これについては後で書きます。
 「銀河鉄道の夜」と並ぶ二大傑作と呼ぶべき「風の又三郎」(しかしこの二作のテイストはずいぶん違います)についても、新事実を教えてもらいました。

 まず、大正13(1924)年頃に完成したらしい原稿があって、そこには明らかに題名として「風野又三郎」と記されていた。冒頭に「どっどど どどうど どどうど」で始まる歌(これにはシンコペーションを使った洋風のかっこいい曲をつけることを、賢治は希望していたそうです)が置かれ、「谷川の岸に小さな四角な学校がありました」(『四角の』は後に削除)と書き出される。夏休みが終わった九月一日、小学生たち(全学年の児童が同じ教室で学ぶ)が登校して外から教室の中を見ると、そこに奇妙な子どもが座っている。これが物語の導入部です。
 この後の部分は、昭和6~8年頃に大改訂された、というより、新たに書かれたとしか言いようのないものになりました。ただし題名は、原稿でも作品について記された各種のメモでも、一貫して「風野又三郎」なのですが、賢治の死後に出版された文圓堂版全集で初めて活字になった時、編集者の考えで「風の又三郎」とされ、以後それが踏襲されているのです。

 最初期の「風野又三郎」も、これはこれでなかなか魅力的ですので、「風の又三郎〈異稿〉」などとされてある程度は知られていたものが、『校本宮澤賢治全集』以来、「風野又三郎」の題で、各種の全集・童話集に収録されています。本稿でもこの名称に従います。

 「風野又三郎」をあと少したどりますと、このとき教室の中にぽつんと一人で座っていた子どもは「をかしな赤い髪」で、「変てこな鼠いろのマントを着て水晶かガラスか、とにかくきれいなすきとほつた沓をはいてゐました」と、実に怪しい。そして教室内に入った小学生が話しかけても何も応えないので、「外国人だな」とも言われます。ガラスの靴って、シンデレラのあれですかね? まあ、この子は、怪しいだけでなく、〈ハイカラ〉なんです。
 その後原稿が何枚か欠けていて、はっきりとはわからないのですが、どうもこの子どもは先生など、大人には見えないらしい。そして、いつの間にか教室から消えている。あれはなんだったのか? と子どもたちが飽きるほど考えていると、次の日の放課後、そのうちの二人が山で再び巡り会う。そして、「汝(うな)ぁ誰だ」と訊かれて、「風野又三郎」と応える。「ああ風の又三郎だ」とこちらは納得する。

 このやりとりから、〈風の又三郎〉はコロボックルとかドワーフとかホビットとか座敷童子とかいう種族あるいは一族名だと推察されます。実際、新潟から東北にかけて、風三郎・風の三郎・風の又三郎などと呼ばれる風の神を祀る信仰は広く認められるそうで。一方〈風野又三郎〉は、おそらくは大正期の、岩手県の小村に現れた童形の者の固有名なのでしょう。
 もっとも、彼の兄も父も叔父も風野又三郎だと言うのですが……。ともかく、神霊という特別な者が人間の姿で現れるのは特別なことなので、特別に特別を重ねたものが風野又三郎なのです。因みに〈風野又三郎〉の表記は自分で名乗る時だけで、あとは子どもたちの言葉でも地の文でも、ただの〈又三郎〉でなければ〈風の又三郎〉表記です。

 風野又三郎は、前述のように、学校に現れたときには何も言わず、次の日に喋り出したときには、名前も正体も少しも隠しません。そして九月九日までの間、自分が風として世界中で体験したことを生き生きと語ります。活動場所は地球全部なので、扮装は洋風だというわけかな、と少し思いますが、それは語られないまま、十日の風の強い日には村を去って行きます。
 村の子どもたちは話を聴くだけで、自分からは何も行動しません。これは弱点ではなく、そういう作品だというだけです。しかし、では、風野又三郎はなぜ、最初小学校の教室に現れて、子どもたちを驚かせたのかなあ、と思うと、うまい回答は見つかりません。

 そのこともあって、だと思いますが、新版の「風の又三郎」だと、焦点の童形の者の正体は曖昧にされ、格好と標準語を話すところが少し変わっていますが、村の子どもたちといっしょに遊びます。
 登場したときには、元の「風野又三郎」と同じく、夏休み明けの教室に一人でぽつんと座っているのですが、格好は、やはり赤毛で「変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴」と、やはり怪しいけれど、マントはなくなり、また靴も変わっています。その理由は後でわかります。それでやっぱり話が通じず、「外国人だ」と言われ、やはりいつのまにかいなくなっている。

 しかし、その後、先生に連れられて再び姿を現し、お父さんの仕事の都合で「けふからみなさんのお友だちになる」高田三郎くんだ、と紹介される。だけでなく、いつの間にか「白いだぶだぶの麻服を着」た大人が教室の後にいて、学活が終わったとき先生に近づいて「何ぶんどうかよろしくおねがひいたします」と挨拶して、三郎を連れて帰ります。これは三郎のお父さんということで、つまりこの子は家庭まで含めて大人にも存在が認められている、普通の子どもなのです。
 それでも村の子どもたちの間では、少しの言い争いの後、あれは又三郎だということに一決し、以後ずっと「又三郎」と呼びます。当の本人はそう呼ばれても抗議もせず返事をしますが、それ以上自分が又三郎なのかそうでないかについては触れません。因みに地の文では〈三郎〉と表記され、〈風野又三郎〉表記はこちらでは一度も出てきません。

 この後三郎が、一見村の子どもたちと溶け込んで様々な活動するリアルな話が続きます。その筋の運びと描写の手腕は大したものです。しかし一番注目すべきなのは、普通の日常が、異界に接近し、重なる部分の手際のよさです。

 前半のヤマ場は、最初の日の二日後なので九月三日(「風野又三郎」では章題代わりに日付が記されているが、「風の又三郎」ではそれはすべて消えている)。馬が集められている場所へ子どもたちが入り、怖がる様子をからかわれた三郎が口惜しがって競馬をやろうと言い出す。馬は最初なかなか動かなかったが、走り出すと、そのうちの一頭が土手の切れているところから外へ逃げる。三郎と嘉助という少年がそれを追う。土手の向こうはすすきやたかあざみが生い茂って視界が悪く、崖にも接していて危険なので、立ち入りが禁じられている場所だった。嘉助はやがて三郎も馬も見失う。霧も出てきて帰り道がわからなくなり、嘉助はついに草の上の昏倒する。

 そんなことはみんなどこかの遠いできごとのやうでした。
 もう又三郎がすぐ目の前に足を投げだしてだまつて空を見あげてゐるのです。いつかいつものねずみいろの上着の上にガラスのマントを着てゐるのです。それから光るガラスの靴をはいてゐるのです。

(中略)
 又三郎は笑ひもしなければ物も言ひません。ただ小さなくちびるを強さうにきつと結んだまま黙つてそらを見てゐます。いきなり又三郎はひらつとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。

 この前の文に「嘉助はとうとう草の中に倒れてねむつてしまひました」と明らかに書いてあるのに、この時は嘉助は目を覚ますでもなく、まるで以前からそうだったように、又三郎になった三郎がいて、ガラスのマントを光らせて空へ昇ります。いやあ、お洒落ですねえ。

 この時は一人の少年の幻視ですが、やがて村の子どもたち全員の前で、異界が一瞬、口を開きます。

 嘉助は三郎といっしょに救出されて、無事に家に帰ることができ、次の日から普通に皆といっしょに外で遊びます。三郎も、負けん気の強さは折々見せるのですが、まずます無事にその集団に参加しています。その話が続いて最後に、川での〈鬼ごっこ〉の場面になります。
 三郎が〈鬼〉になると、嘉助にからわかれたこともあって、むきになって村の子を川につかまえ、「三郎の髪の毛が赤くてばしやばしやしてゐるのに、あんまり長く水につかつてくちびるもすこし紫いろなので、子どもらはすつかりこわがつてしまひました」と、文字通り〈鬼〉に近い様子になる。すると……、ここは長くなりますがやはり引用しなければならないでしょう。

 そのうちに、いきなり上の野原のあたりで、ごろごろごろと雷が鳴り出しました。と思ふと、まるで山つなみのやうな音がして、一ぺんに夕立がやつて来ました。風までひゆうひゆう吹きだしました。
 淵の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなつてしまひました。
 みんなは河原から着物をかかえて、ねむの木の下へ逃げこみました。すると三郎もなんだかはじめてこはくなつたと見えて、さいかちの木の下からどぼんと水へはいつてみんなのはうへ泳ぎだしました。
 すると、だれともなく、
「雨はざつこざつこ雨三郎、
 風はどつこどつこ又三郎。」と叫んだものがありました。
 みんなもすぐ声をそろへて叫びました。
「雨はざつこざつこ雨三郎、
 風はどつこどつこ又三郎。」
 三郎はまるであわてて、何かに足をひつぱられるやうにして淵からとびあがつて、一目散にみんなのところに走つて来て、がたがたふるへながら、
「いま叫んだのはおまへらだちかい。」とききました。
「そでない、そでない。」みんないつしよに叫びました。
 ぺ吉がまた一人出て来て、
「そでない。」と言ひました。
 三郎は気味悪そうに川のほうを見てゐましたが、色のあせたくちびるを、いつものやうにきつとかんで、「なんだい。」と言ひましたが、からだはやはりがくがくふるへてゐました。


 物語「風の又三郎」はあと少し続き、余韻を残す終わりを迎えますが、転校生高田三郎はもはやどんな姿でも村の子どもたちの前に姿を現すことはなく、お母さんがいるという北海道へ戻ると言われます。

 この物語にはいくつかの解釈が可能ですが、一応自分のを言っておきましょう。
 高田三郎はまず普通の子どもですが、村の子に「風の又三郎だ」と言われ、どういう気持ちでだか、その役を演じているうちに、いつか本物の異界を呼び寄せてしまったのです。
 それは山村の人々の無意識と、一番奥底で繋がっていて、時々「遠野物語」に収められた各種の民話として現出するものです。詩人はこれをさらに〈心象としての実在〉として、地方色を脱したスマートに、しかしやはり怖いものとして、描き出すことに成功しました。
 やっぱり平凡なんですが、戦前の日本の田舎にいて、よくこんなものが書けたなあ、と驚嘆するばかりです。
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