由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その16(公議輿論の変遷)

2019年01月31日 | 近現代史
「五箇条御誓文之圖」乾南陽画 大正6年

メインテキスト:榎本浩章「「公議輿論」と幕末維新の政治変革

 本シリーズその11で述べた小御所会議の、前の状況をおさらいしたくなった。御誓文の最初の、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」はどのように幕末の政治上に浮上し、どのような変遷をたどったのか。

 最初のきっかけはペリーが浦賀へやってきた嘉永6年(1853)、老中筆頭阿部正弘が、米大統領からの国書を翻訳文つきで公開し、幕府の役人や全国の諸大名に開国問題をいかにすべきか諮問したことであろう。これは徳川幕府二百年の歴史中、きわめて異例のことであった。
 ここに至るまでにはもちろんいろいろあったが、ただ一つだけ挙げる。四年前の嘉永2年(1849)、度重なる外国船の来航に悩んだ阿部は、改めて異国人の扱いについて注意を促す布告を全国の大名に出したが、そこに次のような内容の口達(こうだつ、または、くたつ。口頭命令の意味だが、略式で出された文書もこう呼ばれた)も付されていた。
 曰く、最近異人どもの不逞な振る舞いはますます目に余るようになった。異賊とは西洋諸国の意味だから、こちらも挙国一致で当たらなければ危うい。隣領とも力を合わせ、「貴賤上下となく」武士はもとより、「百姓は百姓だけ、町人は町人だけ」各々の持ち分で、国運に報じようとする心掛けこそ大事である。
 当たり前のことを言っているようだが、これは、身分の別なく日本で暮らす者全員を「国民」として、「国難」に当たるよう呼び掛けた、即ちナショナリズムの自覚を促した、おそらく日本最初の文書である。これが多くの国で、平等、即ち身分制度撤廃の原動力ともなるものだった。
 そこへ、アメリカの意志として、国交を強く要求する国書を持ってペリーがやってきた。向こう側の事情としては、主に、北太平洋で活動する捕鯨船のための、薪炭や食料の補給所として、理由もなく(としか思えなかった)他国との交流を極端に制限していた極東の島国の存在価値が、改めて注目されたのであった。
 そのことは約一年前には、オランダからの情報で、幕閣は知っていた。だからといってどういう手段も思いつかず、まあ古今未曽有の事態なのだから当然なのかも知れないが、「貴賤上下となく」広い範囲の意見を徴したのである。

 当然ながらその影響は大きかった。
 まず思想的に。いくら上下の別はない、と言っても、訊いたほうは武家しか予定していなかっただろうに、七百を越える回答者の中には、懇意の武家から伝え聞いたのであろう町人、遊郭の主人やら材木商もいた。それを含めて、相手の要求を容れて開国すべし、というものはほとんどなかった。国交は断固拒絶すべし、やむを得なければ戦争も辞さず、と勇ましい意見が大半を占めていた。これが当時の「輿論」であった。
 ナショナリズムの勃興期はえてしてこんなものだろう。それに相応しい高圧的なふるまいも、アメリカはしてくれた。米艦隊は引き上げる前に江戸湾に入って水深の測量までしている。日本側はそれを黙って見ているしかなかった。さらにペリーは国書と一緒に、来年再訪したときには(降伏のしるしとして)これを使えと白旗を渡したと言われ、これは伝説か曲解である可能性が高いのだが、そんな話が速やかに伝わるほど、当時の日本人のほとんどが初めて見る異国人(この場合は西欧人)に対する恐れと反発は強かったのである。
 意見書の中で、当時三十歳で小普請組に属していた勝麟太郎のものが出色であり、出世の糸口になった、と当人は言っている。6月に簡単なものを提出し、それについて諮問されたので、7月に改めて詳しく書いたものが、現在「海防意見書」として残っている。
 全部で五箇条から成るうちの第二は、軍艦がなければ国防は不可能であることを訴えている。それに積む武器弾薬も含めて、用意するには当然費用がかかる。その金は、交易をもって稼ぐのがよい。ただし、向こうから来るのは止め、こちらから清・露西亜・朝鮮など近隣諸国へ出かけて行って雑穀・雑貨を有益な品と交換するようにすれば、国益を損じないですむ、と、これは誠にムシのいい考えと言うべきであろう。それでも、これはこれで、開国に違いない。実際、そうしなければ日本を防衛しようがないことは、この後次第に多くの知識人の共通認識になっていった。
 次に、二百年以上続いた幕府の、行政組織上の慣例が変化した。
 幕府のトップと言えばもちろん将軍だが、これが実際に何かを決めることは例外的にしかなかった。その後の天皇制にまで引き継がれる、日本型、あるいは支那まで含めた東洋型大組織の特徴をここに見ることができるも知れない。
 幕府最高の行政官は老中で(その上に、臨時の役職として大老が置かれることもあった)、これには、阿部もそうであるような譜代大名(関ヶ原以前から徳川家に臣従していた家)が就くのが通例だった。しかし、彼らの家柄も禄(収入)も必ずしも高くなかった。血筋からして将軍家に最も近い徳川姓の御三家・御三卿は、将軍の直系が絶えた時のいわばスペアであって、高き所へ祭り上げられていた。その次の、松平姓の親藩(家康の男系男子の家柄)も、伊豆守信綱や白川侯定信のような例外はあっても、ほぼ同様。
 関ヶ原以降に幕藩体制に加わった外様大名は、禄は高い場合があった。徳川将軍家を除く大藩を石高順に記すと、加賀藩前田百万石、薩摩藩島津七十万石、仙台藩伊達六十万石、と、トップ3を外様が占めている。それでも、むしろ取り締まられる対象であって、多少とも国政に参与することなどあり得なかった。【このように、名誉と権力と収入をできる限りバランスよく配分して、不満を抑えたのは、なかなかの知恵だと言えるだろう。】
 これが実質的に変化した。阿部との人間関係もあって、御三家の徳川斉昭、親藩の松平慶永(春嶽。御三卿の一つ田安家の生まれ)、外様の島津斉彬らが発言力を持ち、政治に関与するようになってくる。
 このうち斉昭は、この時は既に家督を嫡子の慶篤に譲っていたが(直接には実弾を使った大規模な軍事訓練を無断で行ったことが幕府の忌避に触れて、強制的に隠居させられた)、水戸学を代表する人物として声望を集めていた。その主張は、うんと単純化すれば「日本は神聖な天皇陛下がおわす神国だ」で、だから「穢れた異人が入ってくるのを許してはならない」と結びつく。少なくとも、ナショナリズムに燃える、後に志士などと呼ばれる人たちからはそうみなされ、時代の有力なイデオロギーになったのである。ここから出た「攘夷」という言葉はすぐに広まり、一般化した。
 この思想、というか流行は、二重の意味で幕府に不利に働いた。まず、強硬に外人を追い払うなどできない幕府の「弱腰」が批判された。次に、偉大なのは天皇陛下なのであって、幕府はただ政権をお預かりしているだけだ、なる形式論が思い出され、幕府の権威は低下した。いわゆる尊王攘夷。
 阿部は政権担当者として、単純な攘夷思想にはまっているはずはなかったが、おそらく前述した「挙国一致」のためには影響力の強い人物を取り込んだほうがよいと考えたからであろう、斉昭をまず海防参与とし、安政2年(1855年)には軍制改革参与とした。現実に責任のある立場になれば、すぐに異人を追い払え、なんぞとは言っていられなくなるはずだ、という目論見もあったかも知れない。
 実際斉昭は、大砲七十四門を鋳造して幕府に献上したり、幕府の命を受けて最初期の洋式軍艦「旭日丸」を建造したりしている。前述の鉄砲の一斉射撃訓練などと合わせて、島津斉彬と並んで、勝の意見書にもあった軍政改革に、最も早く実際に取り組んだ一人であって、その意味では頑迷固陋な日本主義者などではなかった。しかし、こと「尊王」に関しては絶対に譲らなかった。何しろ水戸藩は、二代藩主で水戸学の祖である光圀の「いざというときは(幕府より)朝廷にお味方せよ」という遺訓があった、とされる(たぶん伝説だが)ぐらいだ。これは日本と言うより水戸藩にとって悲劇のもとになった。
 阿部正弘が死に、後任の老中筆頭堀田正睦が失脚した後、大老となった井伊直弼が強力に開国を推し進めたのは、一面幕府の権威失地回復政策であり、明治維新を革命とすれば反革命運動だった。安政5年(1858)、先に堀田が勅許を求めて拒否された日米修好通商条約を、井伊は独断で調印した。井伊も最初から朝廷を無視するつもりはなかったようだが、結果からするとそうなった。と言うか、土台、しばらく前ならこんなことは問題にもならなかったろう。しかしこれは幕府の専横であり、許すべからざる暴挙だとする見解は、斉昭などの考えだけでなく、輿論、と言ってもいいものなっていた。
 言い換えると、「公議」の内容が変わった。「公儀隠密」の公儀とは字も意味も違うけれど、それまでは幕府の決めたことは即ち「公」、でよかった。その「公」の出所がいつのまにか他所に移り、幕府が幕府だけで判断して実行することは「私議」である、とされるようになったのである。
 斉昭は松平慶永、尾張藩主徳川慶勝、実子の一橋慶喜らと江戸城に不意に登城し、幕閣を問責した。この時は老中たちに軽くあしらわれた感じであったが、後日、禁じられていた予定外の登城を強行した廉で、謹慎に追い込まれる。名高い安政の大獄の始まりである。
 その二年後、水戸藩士(薩摩藩士も一名加わっている)によって井伊直弼が斃されると、幕府の権威が旧に復することはなかった。同年、奇しくも斉昭も亡くなっている。

 安政7年は桜田門外の変や江戸城火災など変事の続いたため万延と改元された。その万延は1年も続かず、文久となった頃から、島津久光が政治の表舞台で活躍するようになる。
 私も時々まちがえそうになるのだが、久光が薩摩藩主になったことは一度もない。異母兄の斉彬の死後に、実子の忠義が藩主となったために、藩内では「国父」と呼ばれ、実権を掌握した。しかし藩の外では無位無官のただの人だった。
 それが文久2年(1862年)、挙兵上洛した。これには次の背景がある。幕末きっての賢侯とされる島津斉彬は、井伊の専横を怒り、抗議のために軍勢を率いて京から江戸にまで赴く計画を立て、その実行の直前に急死した(安政5年)。亡兄の遺志を引き継ぐ、ということだったが、情勢は変わっていた。時の孝明天皇は、大の外国嫌いではあったが、幕府をつぶす気はなく、討幕に傾いていた攘夷派にはむしろ嫌悪感を抱いていた。要は幕府が朝廷の意に服するようになればいいので、ここから出た路線は公武合体と呼ばれた。久光はその推進のために働くのだ、と標榜した。
 具体的には幕政改革を促す勅使として大原重富が下向するのに護衛として同行、実質的に幕閣と交渉し、一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永の政事総裁職就任を実現させた。この帰途、現在は横浜に編入されている生麦で英国人と遭遇、行列を乱したので藩士二人が彼らを殺傷する事件が起きたのは、暗に開国を含む公武合体には、かなりの困難があったことを如実に示している。
 それとは別に、幕閣としては強い不快感が残った。公武合体といい、その徴として将軍家茂(いえもち)は皇女和宮を御台所にしていたが(文久元年)、朝廷との結びつきが強くなったからといって、その分幕府の権威が回復したというより、そうでもしなければ権威を保てない幕府の弱体化のほうが強く印象付けられる。
 それに、幕府に代わって朝廷が日本の中心になったと言っても、全公家を含めた朝廷になんらの軍事力も政治力もないことは、一定以上の身分の者なら誰でも知っている。その朝廷の意向とは、畢竟うまくとりいった誰かの意志に他ならない。今回の改革案にしても、元来久光が発案したか、少なくとも取りまとめて、提示してきたものであろう。その久光とは、外様の一大名、ですらないのだ。久光がたとえ心底から幕府のためを思って改革案を出したのだとしても、幕府側から見たら、下克上とも言いたくなる無秩序であり、屈辱であった。
 久光に対する反感はその後長く尾を引く。
 幕府が単独で国政を行ってはならない、としたら、幕府も含む有力諸侯の合議に依るものにしようという案が出てくる。これが「公議政体論」である。一応実現したのは文久3年(1863)の参預会議。薩摩と京都守護職になった会津によって、京から長州藩を筆頭とした攘夷派を一掃された後に発足した。この時も久光の働きが最も大きかった。メンバーは久光(この時初めて官位をもらった)の他、一橋慶喜、松平慶永、前土佐藩主山内豊信(容堂)、前宇和島藩主伊達宗城(むねなり)、会津藩主で京都守護職松平容保(かたもり)の六名。主な議題は、この年の5月、下関で外国商船に砲撃していた長州の処分問題と、横浜鎖港問題だった。
 ここにも奇妙なねじれがあった。この年、やはり久光の改革案に従って、将軍家茂が三代将軍家光以来実に229年ぶりに上洛した。その家茂に、孝明天皇は20日後の攘夷の実行を約束させている。上述の長州による外国船攻撃は、この約定に依るものだ、と長州は主張している。一方幕府は、できぬことは承知の上で、江戸に近い横浜の閉港とこの地に住む外国人の立ち退きを約束し、12月、参預会議発足の直前にその談判のためにフランスへ使節を派遣している(向こうには全く相手にされなかった)。これは天皇を誑かそうとしたものであるとして、後に薩摩に攻撃される理由の一つになった。
 参預会議の時点では、参加者はすべて攘夷など不可能であることを認識しており、横浜鎖港を取りやめる方向で話し合いをまとめようとした。幕府にとって好都合のはずなのに、久光に対する反発と猜疑のほうが勝った。慶喜は本心とは裏腹に、あくまで大御心通り横浜港を閉ざすと言って譲らず、話し合いは膠着した。そのうえ、酒席で、酔った勢いで、あるいは酔ったふりをして、久光・慶永・宗城を「この三人は天下の大愚物、大奸物」であるなどと暴言を吐き、参預会議を崩壊に導いた。この制度は全部で3ヶ月しかもたなかった。
 その焼き直しが慶応3年(1867)の四侯会議で、十五代将軍となった慶喜と、上記から松平容保を除いた四人で、第二次長州征伐以後の長州藩の処遇と兵庫開港問題(朝廷は慶応元年に、兵庫沖に艦船を率いてきた英仏蘭三カ国の脅しに屈する形で通商条約を認める勅許は出していたが、京に近い兵庫の開港だけは認めていなかった)が話し合われた。このときもまた、慶喜は久光の反対にまわり、具体的には久光が兵庫港問題をまず話し合おうというのに長州問題が先だと言って譲らず、またも会議は破綻してしまった。この後慶喜は単独で粘り強く朝廷と交渉し、前年に急死した孝明天皇に代わって即位したばかりの明治天皇から兵庫開港の勅許を得ている。
 ここに至って久光も幕府を見限り、敵対していた長州と組んで、討幕へと路線変更した。
 さてそこで、歴史のif。もし慶喜がもっと柔軟で謙虚になって、合議に依る政治を実のあるものにしていたら、戊辰戦争もなく、日本はゆるやかに平和の裡に近代国家へと移行していたろうか。可能性はなくはないが、私はそれは難しかろうと考える。上で登場した諸侯とは、当然みな大名かそれに準ずるものであって、所領と家臣団を抱え、そこからくる利害関係から自由ではあり得ない。日本の、だけではなく朝鮮・支那まで含めた東洋の有力者とは、だいたいそんなものだ。彼らだけの話し合いで、廃藩置県のような大改革が実現できたとは思えない。
 それに、会議参加者の人選は、結局、恣意的だった、と言われても仕方がないであろう。幕末の四賢侯(松平慶永、山内豊信、 島津斉彬、伊達宗城)などと称されるが、彼らは元来慶永のお友達集団の傾向があり、この時代彼らより賢明な者がいなかったかどうかはわからない。彼らの決めたことが本当に日本の「公議」と言えるのか、たった四、五人の「私議」と呼ぶのが相応しいのではないか、と言われたら、ちゃんと反論するのは難しいだろう。慶喜もまた、つまりはこの論理で彼らに対抗したのであって、正当性の問題からすれば、一理あると言わねばならない。
 慶永の人柄のよさは抜群であったろう。慶喜に何度も煮え湯を飲まされていながら、徳川氏の領地返納まで決まった小御所会議の後でさえ、慶喜を盟主とした諸侯(大名)連合を唱え、ひたすら討幕の道を突き進む薩長を敵視した。実際、身分制度を撤廃するのでない限り、国内最大勢力である徳川氏を除いて政治を行うのは、非現実的だし、また誰をも納得させる理由は見当たらない。もし鳥羽伏見の戦いが起こらなかったとしたら、西郷・大久保・岩倉たちのほうこそ、政局の中心から逐われていたかも知れないのである。

 国民全体の信託を問う形式を踏まえたうえでの国政会議といえば、即ち議会ということになる。ここまで踏み込んだ幕末から明治初めの言説を瞥見しておく。
 知識としては、清末に魏源が著した世界各国の紹介書『海国図志』の抄本などから、西欧諸国には議会というものがあることは早くから少数者には知られていた。日本人では福澤諭吉が慶応2年(1866)『西洋事情』第一篇三巻を出版して、より広い範囲の啓蒙を果たした。
 慶永のブレーンだった横井小楠は、公議政体論の代表的な論客として知られているが、大政奉還の知らせ聞いて、慶永に宛てた書簡に「一大変革の御時節なれば議事院被建候筋尤至当也。上院は公武御一席、下院は広く天下の人才御挙用」と記した。上院と下院の構想である。ただ、小楠は儒者で、「堯舜三代の道」を理想とする。「公共」の語も言われているが、それは厳然としてある/あらねばならぬ「天理」に適うことを言う。だから、上院下院と言っても、有為にして有徳の人材をできるだけ広い範囲から集める、ということ以上の意味はない。
 この時代ではたいていそうであった。「御誓文」の筆者の一人である由利公正は小楠に師事していたのだから、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」にも小楠の考えが反映していると考えられる。短文なので解釈の紛れは出てくると思うが、前半が「できるだけ広い範囲の参加者から成る会議」の意味だとして、そこから出てきたものをただちに「公論」とは呼べないと思う。
 他に、坂本竜馬は小楠と親しく、「船中八策」はその影響を受けて書かれた可能性が高いと言う。その「船中八策」に基づいて後藤象二郎らが書いた「大政奉還建白書」から引くと、「議政所は上下に分け、議員は、上は公卿から下は官吏、庶民まで、正明純良の士を選ぶ」。この場合「選ぶ」主体は誰なのか、がつまり肝心な点である。朝廷、という答えは予想されるけれど、それでは形式論にしかならないことは前述の通り。
 これらより僅かに早い慶応3年5月、赤松小三郎は「御改正之一二端奉申上候口上書」を慶永、島津久光、幕府に建白している。注目すべきなのは、「議事局」に関するところで、
(1)上下二局に分ける。下局は国の大小に応じて諸国より数人ずつを自国及隣国の入札によって、上局は、公家・大名・旗本よりこれまた入札で選ぶ。
(2)国事はすべてこの両局で決議の上、天朝へ建白し、許可を得たら、天朝より国中に布告する。もし許可が得られなかったら、議政局にて改めて議論し、再び決議されたら、もはや天朝も覆すことはできない決議となる。
 つまり、国の重要事を評議し決定するのは選挙によって選ばれた者たちであること、そしてその決議には、最終的には天皇も従わざるを得ないという意味で、議事局は「国権の最高機関」になることが唱えられている。これでも現在から見ればいろいろ足りないところがある。選挙権はどの範囲に与えるのか、上局と下局はどちらが優先されるのか、局内での議決の方法は、たぶん多数決だろうと予想されるが、それは明記されていないこと、など。
 それでもこれがいかに破天荒な議論であったかは、最近まで赤松がほとんど忘れられた存在であった事実に現れている。当時としてはおよそ非現実的で、むしろ空想に近い、と慶永や久光を初めとして、誰しもが思ったからだろう。
 一方、旧幕府でも、大政奉還後に西周らが中心になって、徳川家主導の「公議所」を作る構想があったが、もちろん実現する暇はなかった。
 新政府は明治2年から4年にかけて、御誓文の精神を生かすとして、「公議所」後に「集議院」を開設しており、会議が持たれた。これは、まだ「藩」が存続していたこともあって、旧幕時代の各藩江戸留守居役による藩同士及び幕府との連絡調整機関の役割も引き継いでおり、決議には公的な威力はなかった。
 本格的な議会の開設は、それからさらに二十年を待たなければならなかった。ただ、議会制民主主義は、日本では現在に至るまでいまいち正当に機能していないような気もする。それについては、天皇とのかかわりを通じて、また何度も考えてみたい。
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今の先生は年中走っている その3

2018年12月27日 | 教育


メインテキスト:「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について」

 標記の文書は、平成29年12月に、つまりちょうど一年前に出た中教審の「中間まとめ」である(以下、「まとめ」と略記する)。そのうち「答申」がでるのだろうが、現在のところ学校の「働き方改革」に関連して中教審から出てきた唯一の公式文書であるので、これを紹介・検討してみる。
 もっとも、ここに出ている方針は、以前から、例えば平成27年中教審答申「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について~学び合い,高め合う教員育成コミュニティの構築に向けて~」(以下、「答申」と略記する)などに記されている路線上にあると言える。
 それは、学校の構造を根本的に変える、ということである。これも以前からチョロチョロ見え隠れしていた構想、のそのまた素案のようなものだが、さすがに日本の教師が忙しいことが知れ渡り、「教師に汗をかかせる」路線を表に出しづらくなったので、代って大きく迫り出したものらしい。
 どう変えるのか、というと、パッとでいいので、上の図を見ていただきたい。これは「答申」中のものだが、なんだかタダゴトではないなあ、という感じになるんじゃないですか。学校と言えば、単独の、「子どもの園」、というか、昼間子どもを隔離しておく場所かと思われていたのに、社会の協力を仰いで、より大掛かりで開かれた「チーム学校」にしようというらしい。
 もっとも、このような案だけなら、これまたもっとずっと以前にまで遡ることができる。①生徒の側が自分から動くようにしよう、②授業内容を実際社会で使えるものにしよう、という案なら、それこそ戦後すぐの「社会科」の開設からしてそうだった。その後、たぶん1970年代の、高度経済成長が達成された頃、閉ざされた教室内でのいわゆる一斉授業方式は、もはや時代遅れではないか、という観測が加わる。さらにまた、上の①の観点から、「ゆとり教育」の「自ら学ぶ力」が出て、近年アクティブ・ラーニングなる呼称に変わったと思ったら、それも最近あまり言われなくなった。それは2020年度より施行予定の新学習指導要領からこの言葉が消えたからで、代わりに「主体的・対話的で深い学び」と言われるようになったからだ。中身は同じことです。
 このように、装いを変えながら何度も何度も登場するのは、全体としてはそういう方向へは行っていない、ということを何よりも証するものであろう。それについては、もう一度、夏木智の論考を見ていただくことにして、今回は②の分野に関連する部分を考えたい。今次の中教審の、答申前の「まとめ」ではあっても、画期的なのは、この点で教員だけ力の限界を認め、「外部の力」を学校に導入しようとするところだ。
 ただし、と、最初に、身も蓋もなく言ってしまおう。なんとも心ない振舞いだと見えるとしても、これを心得ておかないと、事態が今よりもっとひどいものになる可能性もあるのだから。実際、戦後の教育改革は、九割以上、そうなった。
 つまり、理念として画期的であればあるほど、実現は難しくなる。単純に、これだけの改革をちゃんとやろうとしたら、それなりの金がかかる。「答申」も「まとめ」もそれには触れていない。それもそのはず、予算化の作業は、中教審や文科省の権限の内にはない。まして、個々の学校に何かできるわけはない。行政の仕事なのだ。そして、どの自治体でも、現在の諸悪の根源である緊縮財政の方針下で、学校なんぞにそんなに金をまわすわけはないのである。
 これで実際問題の話は終わり。後は理念上で、図らずも「学校」の根本的な問題をあぶり出したように見えるところを紹介しておこう。

 「まとめ」の第一章は「「学校における働き方改革」の背景・意義」と題されている。例えば、こうある。

 世界的にも評価が高い,我が国の教師が児童生徒に対して総合的な指導を担う「日本型学校教育」の良さを維持し,新学習指導要領を着実に実施することで,質の高い学校教育を持続発展させるためには,政府の動向も踏まえつつ,教師の業務負担の軽減を図ることが喫緊の課題である。

 「日本型学校教育」とは、子どものすべてを学校が抱え込むが如き顔をする「全人格的教育」のことで、世界的に評価が高い、とは知らなかった。
 これが教師を忙しくした根源なのだが、それ自体は解消しない。それでいて、さらに、新学習指導要領の、アクティブ・ラーニング→「主体的・対話的で深い学び」も着実に実施する、とした上で、「教師の業務負担の軽減を図る」としたら、誰が考えても答えは一つしかないだろう。生徒に関わる人員を増やすことだ。そして、教師がやる必要のない仕事から、教師を開放することだ。
 以下に、「まとめ」から、現在学校がやっている仕事の中から、<基本的には学校以外が担うべき業務><学校の業務だが,必ずしも教師が担う必要のない業務><教師の業務だが,負担軽減が可能な業務>の三つに分けたところを引用する。長くなるが、現在教員がやっている仕事はどんなものか、見通すためにも便利なので。

<基本的には学校以外(地方公共団体,教育委員会,保護者,地域ボランティア等) が担うべき業務> ①登下校に関する対応,②放課後から夜間などにおける見回り,児童生徒が補導されたときの対応,③学校徴収金の徴収・管理,④地域ボランティアとの連絡調整については,基本的には「学校以外が担うべき業務」であり,その業務の内容に応じて, 地方公共団体や教育委員会,保護者,地域学校協働活動推進員や地域ボランティア等が担うべきものと考える。

<学校の業務だが,必ずしも教師が担う必要のない業務> ⑤調査・統計等への回答等,⑥児童生徒の休み時間における対応,⑦校内清掃については学校の業務である。⑧部活動については,学校の判断により実施しない場合もあり得るが,実施する場合には,学校教育の一環であることから,学校の業務として行うこととなる。これらの業務は,学校の業務として行う場合であっても,必ずしも教師が担わなければならない業務ではない。地域や学校の実情を踏まえ,⑤調査・統計等については事務職員等,⑥児童生徒の休み時間における対応や⑦校内清掃については地域ボランティア等,⑧部活動については部活動指導員をはじめとした外部人材,というように教師以外の者が担うことも積極的に検討すべきである。

<教師の業務だが,負担軽減が可能な業務> ⑨給食時の対応,⑩授業準備,⑪学習評価や成績処理,⑫学校行事の準備・運営,⑬進路指導,⑭支援が必要な児童生徒・家庭への対応については,基本的には学校・教師の業務である。⑩授業準備や⑪学習評価や成績処理における補助的な業務についてはサポートスタッフ等が担い,⑫学校行事の準備・運営のうち,児童生徒の指導に直接的に関わらない業務については,事務職員や民間委託等の外部人材等が担うことで,当該業務の本質的な業務について教師が集中できるようになる。また,⑨給食時の対応については学級担任と栄養教諭等との連携による工夫等が考えられるほか,⑬進路指導については事務職員や民間企業経験者などの外部人材等,⑭支援が必要な児童生徒・家庭への対応はスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーなどの専門スタッフが,当該業務の一部について担う方が児童生徒に効果的な対応ができる場合もある。


 このうち「③学校徴収金の徴収・管理」については、小中校で代表的なのは給食費である。この徴収業務は学校がやっている、と言うと、当たり前だと思うだろうか、あるいは意外だと感じるだろうか。たぶん、前者が多いだろう。そうだとしても、平均して小学校で月4,000円、中学校で月5,000円の金額で、ほとんどが銀行口座からの引き落としで行われているので、別に問題あるまい、と思われるかも知れない。
 そう、普通は問題ない、未納者への対応を除いては。文科省が平成25年度に実施した調査から、未納者は0.9%、未納額は全国で推計22億円に上るとされている。
 貧窮家庭で、払う能力がないなら、修学援助と呼ばれる救済措置が用意されている。払うだけの経済力がありながら払わない場合には、無銭飲食と同じなのだから、法的措置に訴えることになるだろう。しかし、この手続きは、どちらにしてもけっこう面倒である。それも学校の仕事とされている、と言うと、今度は驚くでしょうか、当然だと思うでしょうか。……まあ、学校外では、考えたことはない、という人が大部分であろう。
 これを市町村役所・役場やら民生委員やらの仕事にして、学校の業務からは切り離せ、というのがつまり「まとめ」の提言なわけである。特別な予算措置などは必要ないだろうから、すぐにもできそうではあるし(現に既にやっている自治体もある)、実現すればその分確実に教師は楽になる。ということは、面倒な仕事を他の人が受け持つ、ということになり、これは嫌に決まっている。だから実現しない、ということもけっこうありそう。しかしまあ、この程度のこともできないのなら、学校の働き方改革は到底無理、と言わねばならない。
 本当はこの問題を完全になくす方法はある。給食という、日本独特の制度をやめるか、完全無償化すること。後者は、予算が必要、つまり、学校に通う子供がいない人の税金も、そこで使われることが承認されねばならない。前者は、それでは現在給食センターで働いている人々をどうするか、及び、各家庭が子どもの昼食、普通はお弁当だろう、を週日は毎日用意する手間とお金がかかる、という問題が生じる。そのため、とは誰も言わないけれど、近年、知育・徳育・体育と並ぶ「食育」なる言葉が登場し、これも学校が請け負うべき教育活動の一つとされた(そこで「学級担任と栄養教諭等との連携」も必要、ということにもなる)。

【もっとも地域差は既にある。奈川県では、例外的に、中学校の給食実施率は24%に留まっている(全国平均は88%)だそうで、共産党推薦の横浜市長候補が、中学校給食の完全実施を公約に掲げたというニュースを見たことがある。】

 給食だけにずいぶん字数を費やしたようだが、これは、解決策は比較的簡単に見つかる問題のようでも、これだけの手間が予想されることを訴えるためである。できたら、こういうことを学校に丸投げするのではなく、自分たち自身の問題として捉えてほしい。そうではなく、「そんなのは教員がなんとかすべきなのだ」と言ってすませるなら、教員に過剰労働を強いることになり、それは結局は(教育活動全般の)サービス低下を招くことになる。

 その他については、言うまでもない、という気分なのだが、どうですか? 上の一覧で教師がやっている仕事を代って担うべきとされる者として複数回出てくる(1)事務員、と(2)ボランティア、に即して略述しよう。
 (1)に関しては、そもそも日本では学校事務員の数が世界的に見て非常に少ないことを知っておいていただきたい。高校にはそれでも、事務長という管理職を初め四、五人はいるのだが、小中学校では一人、あるいは〇人というところもある。
 そして現在は、学校に配分される予算の管理・執行が仕事なので、調査・統計、学校行事の運営、(なぜか)進路指導までやるとなると、それだけでもかなりの意識改革が必要になるだろう、なんていう前に。
 何しろ、人員を増やすことが肝心だ。こういうことはもっとずっと前に問題にされ、改良されねばならなかったのだが。平成も終わろうとしている今、その見込みはあるのか?

 (2)児童生徒のためのボランティアは、今は珍しくない。私自身の子どもが通った小学校でも、通学路や校門に立って児童を見守るボランティアの人がいて、ありがたいことだと思う。それというのも、仕事としてやる義務はないのに、やってくれるからだ。
 ここを間違えてはいけない。ボランティアとは元来「自発的な(大元は軍隊への)志願者」という意味だ。やる側の好意に頼ってやるしかないのだから、いくらこちら側が「これが必要だ」と思っても、「やる気がなくなった」と言われればそれで終わり。「できればやったほうがいい」ことならともかく、「やる必要がある」ことなら、補助にしか使えない、ということである。
 だから例えば⑦の校内清掃の指導をボランティアに任せるのはいいのだが、「もうやめます」と言われた場合、「じゃあ、残念ながら、清掃そのものをやめよう」と言えるのか。そうではない、とすれば、無給で善意の第三者に任せらる、だけですませられるわけはない。
 それにつけても、④地域ボランティアとの連絡調整については,基本的には「学校以外が担うべき業務」、というのは気になる。清掃監督もそうだが、登下校指導も児童生徒の問題行動に対する初期対応も、すべて学校の仕事のうちと考えられ、当然のように教師がやっているのだが、これを外部のボランティアでもサポートスタッフでもやるとなると、なるほど、学校との連携は必要だ。学校に何の連絡もなく、勝手にやられたりしたらはなはだ迷惑、だいたい、責任の所在が明らかにならない、とたいていの校長は思うに違いない。
 その連絡調整を外部者がやるとは? 学校の仕事の現状にも、ボランティアなど学校外の人員の組織にも通暁すべき人を、教育委員会事務局に置くということか。今までは教員に指図するのが仕事だったのに、学校運営の実際に、校長以上の関りを持たされるとは。「安給料で、そんなことやってられるか」という気持ちになっても不思議はない。今で通り教員にやらせりゃいいじゃないか、と
 おそらく、どういう名前でも、学校に教員以外の人員が入り、今教員がやっている仕事をやるというと、予算の点はクリアーしたとしても、その部外者を見つけ、選び、仕事の段取りをつける業務は、やっぱり教員がやるしかないのではないか。そうであれば、多少の仕事の軽減はあるとしても、「仕事を減らすための仕事」が新たに加わることになる。それが現在の仕事より過重ではない、という保証は、残念ながらないのである。

 最後に⑧部活動について一言しよう。普通にイメージされるのは運動部で、野球部とか、サッカー部とか、あるのは知っているでしょう? 中には休みは一年中で元旦だけで、あとの364日は練習に励んでいるような部もあることも、知っている人は知っている。もっとも、近年では、公立学校では一般的にはだいぶ下火になっている実情もあるが。
 それでも、「学校の働き方改革」のために、特に高等学校で、さしあたり最大の障害になるのはこれであることは、ある私立高校の教頭から聴く機会があった。何しろ、部活動が生きがいになっている生徒もいれば、教師もいる。教師の勤務時間を5時として、そこまでで部活動は終わり、とするのも、「そういうもんだ」と慣れてしまえばいいかも知れないが、それまでがたいへんである。
 断っておこう。部活動内部だって、別に天国なのではない。授業などの他の活動以上に人間関係が密になるので、桎梏も大きくなり得る。映画「桐島、部活やめるってよ」に描かれていたように、「いっしょにがんばろう」と励ましあい、この点で心が通じ合っていると思っていた者に、あっさり抜けられ、激しく落ち込み、怒る教師も生徒もこれまで何人も見た。
 それでも部活には、他では容易に得られない魅力がある。教師側から言うと、自分の得意なことを、(何しろ強制ではないのだから)勉強と違って多少は興味があることが前提の子どもに教える。うまく教えられなくても、技術的には生徒より上なのだから、指導者としての地位は揺らがない、ような気になる。しかも、活動内容について、管理職教師や外部からの口出しは、原則としてない。一言でいえば、ガキ大将の愉悦を、いつまでも感じていられる。
 以上を踏まえて「働き方改革」を考えると、部活は、休日を含めた勤務時間外にやっても、学校の業務とするしかない。そうでなければ、厳密には、学校の施設を使うのもおかしいだろうし、顧問教師や生徒が練習で怪我をしたとき、保険がでるかどうかも怪しくなる。一方、前回述べた規定により、管理職がこれを「残業」として命じることはできない。また、指導者を外部から呼んでいる例も、現にあるが、前述したように、いつも見つかるものではない。すると?
 教員がやる場合には、勤務時間外は、ボランティア的な業務(我ながら、なんだかわけがわからないのだが)、とでも考えてやるしかないようだ。いやなら、やらなくてもいいんだ、が徹底すれば、それでよい。
 が、これもなかなか、実現し難い。ある部活の熱心な顧問が転勤して抜けた後に、新たに転勤して来たので、タナボタ式に、いや、この場合はむしろ棚からクソ式に、経験も興味もない部の顧問をやらされるということは、私も経験した。それでも、部員はいるので、潰すわけにはいかず、また、今まで少なくとも公式試合前は夜遅くまで練習していたものを、今年からは必ず5時で終える、とも、日本人としてはなかなか言えず、結果……。
 これ以上は、個々の教員がなんとかするしかないのに、力がなくてなんともできないことを嘆く、愚痴にしかならないようなので、もうやめる。ただ全体として、日本的な学校観の中で、「生徒のために」と言われたら「イヤとは言えない教員」のありかたが、つまり今日の事態を招いたのである。これだけは、多少とも、ご理解願えると有難い。
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今の先生は年中走っている その2

2018年11月22日 | 教育
テレビ東京ドラマ「鈴木先生」2011

 これからが本題。なぜ、教師の仕事量は近年著しく増えたのか。これを明らかにしないことには、改善もできない。
 答えを一番簡単に言うと、「教育」という営みには限りがない、からだ。この言い方に何やらロマンチックな響きが感じられるとしたら、そこにこそ、恐るべき罠がある。
 そこでロマンチックをできるだけ抜いた言い換えを考えると、教育には、「もうこれで十分。これ以上やらなくてもいい」という限度が一般にない。
 授業をやる。一度の授業で全生徒が内容を理解し、覚える、なんてことはまずあり得ない。あるとしたら、それはもう既に生徒全員が知っていることを、つまり改めて教える価値はないことを教えた時ぐらいであろう。
 新しいことを教え、理解させるためには、まず、教えられる側に「理解しよう」という最低限の意欲がなくてはならないのだが、それは今は言わない。教える側だけに絞って言うと、もちろん事前に十分な工夫が必要だ。事後には、全員が理解したか、その時は理解したとしても定着したか(少なくともしばらくの間は覚えているか)、確認するためには、テストをやらなければならない。
 いや、それ以前に、ただ話を聞いただけで知識が「自分のもの」になるなんてことはほとんど期待できないのだから、何度か練習問題をやらせる必要がある。授業時間だけではそこまでは十分にはできないので、宿題を出す。出した以上は、ちゃんとやったかどうか、チェックする必要がある。
 小テストも宿題ももちろん昔からあった。しかし、どうも今までのでは足りなかったのではないか。現に、中一で習ったことを中三では覚えていない生徒はたくさんいる(いや、それは、私を初めとして、大人になってから中学校の学習内容をすべて理解し、覚えている人のほうが稀なんですが……)。完璧は期し難いとしても、改善ならできるはずなので、「生徒のため」を思えば、もっとやったほうがいい。やるべきだ。ということで、宿題は、次第に増えていき、ほぼ毎回の授業ごとに出す教師も出てくる。
 30人のクラスで、1時限50分の授業を1日に4時限やり、毎回宿題を出して、それをチェックする。「生徒のため」を思えば、このチェックも、おざなりではなく、できるだけ丁寧にやらなければならない。と、したら、これだけでも、1日8時間では絶対に足りない。さらに、担任を持ったら、「連絡帳」に学校での生徒の様子をほぼ毎日書いて保護者に報告したり(中学生の保護者としての私の感想を言えば、あれば確かにありがたい)、「学級通信」をこれまたほぼ毎日出している教師もいる。時間というより、体が二つあっても足りないじゃないかなあ。
 さらに、宿題に話を戻すと、大勢(1クラスほぼ30人だから、4クラスとして120人)の中には、必ずやってこない子もいる。それはなぜか。家庭に問題があるのかも知れないし、本人に理由があるのかも知れない。それは個別に、きちんと対応すべきである。対応のためには、彼らの事情をきちんと把握しなければならない。把握のためには、生徒と個別面談をし、できれば親とも会い(生徒はたいがいいやがるけどね)、時には、家庭訪問もせねばならぬだろう。
 生徒が抱えているものが深刻であればあるほど、一回や二回の調査・対応ではほとんど何もわからず、「教育」は進まない。これはもちろん、「宿題をやらない」というようなものよりもっと重大な、いじめなどに関連しそうな、生徒の生活上の問題についてこそ、言えることである。どれほどやっても、いっこうに先が見えず、立ち竦むような思いをする教師も多い。でも、いじめなどの問題が見えたら、やらない、なんてことは言えない。それは誰も認めない。

【しかし、実際には誰にでも時間的物理的な限界は自ずとあるのだから、「いじめ」などが重大な結果を招いてから検討したら、教師が「手を抜いている」と言えるところも必ず見つかる。そこを、マスコミに叩かれるのである。】

 この状況になったら、「宿題をやってこない」ぐらいにかまっている余裕はなくなる。しかし、「それでいいんだ」とは、誰も、教師もそうでない人も、言わない。「言わせない」圧力が働く。すべての結果、真面目な教師ほど、苦しみ、ストレスを抱えることになる。
 そのうえに、いわゆる学校行事、入学式・卒業式・体育祭・文化祭・校内合唱コンクール・修学旅行・保護者会、などなどの準備と後片付けが加わる。よく話題にのぼる部活動をのぞいても、ざっとこれだけの仕事がある。毎日のように家に仕事を持ち帰る教師がいるのも、全く当然の話なのである。

 このような教師の労働の状況を改善しようとしてぶつかる壁もまた、上述の事情そのものの中にある。
 つまり、教育は無限である。どんなにやっても完璧ということはない。必ず不十分なところが残る。と、いうことは……。
 逆に言えば、手を抜いたところで、さほど致命的な事態にはならない、ということ? だって、どのみち、「不十分」なんでしょう?
 個人的に話で恐縮ながら、私が今よりたくさん学校教育について語っていたとき、よくであった批判が、「それじゃ教師は何もしなくてよいということか」「そんなんじゃ若い教師に悪影響を与えるぞ」というものだった。
 「どういうふうに教えようと、比較相対上で、できる子とできない子が出てくるのは当たり前でしかない」と、自分が言ったかどうかよく覚えていないが(笑)、そうは思っているので、問わず語らずのうちに伝わったことはあるだろう。と言うか、こんなことは、私如きが言挙げする以前に、世の中の大半が知っている。にもかかわらず、ではなくてそうであるからこそ、教師がそれを言うのは許さない、という雰囲気が、教育について語ろうとする人々の中にはある。
 言われてしまったのでは、できない子が可哀そうだ、という以上に、だいたい、そんなことを認めたら、教師は、できない子は放っておくだろう。できる子は、実は放っておいてもできるのだから、やっぱり放っておくだろう。結果、教師は通り一遍の授業以外何もしない、ということになってしまうのではないか。これが私への批判の内容であった。
 率直に認めておこう。この批判には根拠がある。論より証拠、最近はともかく、私ぐらいの年代の人に思い起こしていただきたいのだが、小中高時代、淡々としゃべるだけで板書もろくにせず、生徒が理解したかどうかなんてまるっきり度外視している先生はいなかったろうか? いや、そもそも、音声上で、何を言っているのか、ほとんど聞き取れない教師もいた。
 いやいや、そんなのはまだまだ甘い(?)。戦後も間もない頃には、こんなことがあった。授業時間になっても教師が教室へ来ない。生徒の代表が呼びに行くと、「私、今日は体調が悪いから、皆さん自習しててちょうだい」と言って、どうやら一年間ずっと体調が悪かったらしく、とうとう一度も授業をしなかった。これはさる有名人女性に聞いた、さる名門公立女子高での話である。それでも成績がついたとなると、もう犯罪と呼びたくなりますね。
 急いで付け加えておかねばならないが、この時代でも、どの時代でも、自分なりに学び、工夫して、きちんと授業をやっていた教師のほうがもちろん普通だった。しかし、そうはしなくても、それほど非難はされないほどに、昔の教師はエラかったのである。
 一番恐るべきなのは、それでも別に、社会的に、というか、この学生たちの将来に、さして大きな影響はなかったらしいところだろう。では、学校の、授業の意味は……、教師の意味は……。それでもやっぱりあるんだ、と、教師であり中学生の親でもある私は思っているが、ふと不安になる気持ちはわかる。
 そこで、こういうことがないように、文科省(旧文部省)も、保護者も、「心ある」教員も、締め付けをきつくした結果、今度はシーソーが反対側にブレ過ぎた、そういう面はある。こうなった原因の半ば以上は教員自身にある、と言われてもしかたない面もある、ということだ。
 特別に何かをやる必要はなかった。教員が、普通に文句を言われるぐらい、エラくなくなればいいのである。小中高の教師は、これまた私自身を含め、さほど優秀ではないが、真面目な小心者が多いから、実際に文句を言われる前に、言われるかも知れない、と思うだけでも十分だった。教師は、ごく一部の例外を除き、ちゃんと仕事を、つまり「教育」を、最低でも授業を、やり始めた。
 それはいい、というか当然の話であろう。が、この「仕事」をすぐに過剰なものにする要因がいくつかあった。それもすべては「教育には限りがない」に淵源がある。簡単には、上で述べた通りだが、この機会に、もっと具体的に細かく、いくつかの局面に分けて考究しよう。少々長くなるが、できればおつき合い願いたい。

 まず第一に、日本特有、ではないだろうが、日本では特に強い同調圧力、による競争。
 A先生は宿題を毎日出す。B先生は週に一度出す。C先生はほとんど出さない。この中で一番熱心な先生は誰で、一番不熱心な先生は誰でしょう? 
 それは、たった一つのことがらだけではわからない。C先生は、宿題などやる必要がないくらい、密度の高いよい授業をしていたのかも知れないから。
 まあしかし、その可能性はそう高くはない、と私も思う。A先生こそ最も熱心な教師で、C先生が一番不熱心、と学校内外の人がみなすのは、無理がない。それで、実際に文句を言われる前に、「不熱心な教師」だとみなされるのは悔しいのだから、B先生もC先生も、A先生と同じく、毎日宿題を出すようになるだろう。
 かくしてそれがその学校の「当たり前」になれば、新たに赴任してきたD先生もE先生も、同じようにせざるを得ない。授業の宿題だけではなく、クラス通信でも他の活動でも同じようになり、かなりの過剰負担であっても、「当たり前」にやらなくてはならなくなる。
 そしてまた、教師がやればやるほど、世間の期待も高まって、「もっとやってもらえるのではないか」から「やるのが当然だ」へと進化していく。つまり、最初のうちはやってもらったことに感謝するのだが、そのうちに、やってもらえないことに不満を言うようになる。そういうものなのか。そういうものなのだ。今頃気づいたこっちが間抜け、というだけの話。いや、立ち止まって反省している暇なんてない。最低でも、言い訳はできるぐらいには、やらなきゃ。

【先回りして言っておく。こういう熱心な教師は、感謝されないどころではなく、迷惑がれている場合も決して少なくない。なんせ、宿題が多すぎて、子どもが根をあげて、保護者のほうも、見て、こりゃ過剰だ、と思うことがある。教師のほうでは、自分だってかなり苦労してやっているのだから、そんなふうに思われているとは心外、という以前にあまり気づかない。こういうことも、世の中にはけっこうある。】

 今の教師は、こうした学校内外からの「当たり前」に押しまくられて、馬車馬のように走っている。大量の残業も、教育委員会や管理職教師に命じられたものではない、「自発的」としか言えない、と文科省の役人が言うのを、前出内田良の「教員の残業」では、その冷酷さを憤っている。それは当然でもあれば、ありがたいとも思うけれど、形式的にはお役人がまちがっているわけではない。

【残業を命じることができる活動は給特法で決まっている。臨時または緊急時における、校外実習などの実習、修学旅行などの学校行事、職員会議、非常災害、の4項目で、これ以外の理由で時間外勤務を命じることはできない。】

 私も、生徒会の仕事などで、半月ぐらいの間、10時過ぎまで学校にいたことはあるが、その時、校長・教頭からそう命令されたわけではない。そんなことは気にもかけなかった、と言うのが実際のところ。時間の長さより、この時、非常に気を使わねばならない仕事があったおかげで、ストレスを溜め、一週間ほど入院する羽目になったのは、我ながら一生の不覚である。これはよく取り上げられる部活動の問題に関連するので、後述する。
 管理職は、「自発的」にやるように、巧妙に教師を誘導するのだろう、と思う人もいるかも知れないが、次に述べることがあるので、それはないだろう。ただし彼らが、教師の労働条件の整備・改善など、今までほとんど頭になかったことは確かだが。これも彼らのせいとは言えない。そんな暇もなければ、そんなことを望まれているとも思えなかったのだから。

 さてしかし、特に何もしなくても大過ないので、逆に「何もしていない」の汚名を返上するために、やらなくてもいいこと、やらないほうがいいこと、までやるのは、文科省や教育委員会のほうが上かも知れない。なんせ、何かといえば「改革」を現場へ押し付けてくるのだ。
 そんなに「改革」すべきことがあるのか。それはあるだろう。何しろ、教育は無限であり、「これでいい」ということはない。どこまでも、進歩を目指していくべきものだ。この高邁な理想を維持することが、つまり文部行政の第一の目的であるらしい。現実は決して理想通りにはいかない。だからこそ、理想の追求は尽きることはない。おかげさまで、学校にハッパをかける仕事も、尽きることはない。
 具体的には、中央教育審議会、略して中教審、というのを組織し、いわゆる有識者に、教育のあるべき姿を議論させ、これをまとめて、教員たちの指針とする。そして、高校は都道府県、小中は市町村の教育委員会は、それに沿って教師を動かすべく仕事をするように求められている。
 かくして、「改革」は最終的には必ず教師の仕事を増やす。当然だろう。どんなに高邁な理想を唱えようと、文科省も教育委員会も、教師をいじる以外の権限はないのだから。

【ちょっと注記。例外はあるけれど、教育委員会とは多くは、自治体の首長に任命される名誉職と考えてよい。1、2年の任期で、最大の仕事である人事=教員の移動を扱う3月を除いて、それともう一つ、いじめ自殺などの大事件が起こった時を除いて、月に一度ぐらい会合を開くのみで、報酬もそれなり、月額一万円以下ぐらいしかもらっていない。モンスターペアレンツが教師を脅すために使う「教育委員会に言うぞ」という場合の教育委員会とは、形式上はここに属している教育委員会事務局で、その中には教師を指導する立場の指導主事という人もいて、実際的に学校を監督してる。以下では、世間一般の用法に準じて、こちらを「教育委員会」と言う。】

 思い起こせば、第一次安倍内閣(平成18~19)が中教審とは別に組織した教育再生会議の頃から、いや、その少し前あたりからか、「教員に汗をかいてもらいたい」なる言葉がよく聞かれるようになった。つまり、この頃まで、委員になる有識者のお歴々も、一般世間も、「教員は汗をかいていない=働いていない」なる認識が普通だったのだ。それというのも、「教員はエラくない」という内容のキャンペーンが政府側から始まり、それは、マスコミの助力のおかげで、全国通津浦々にまで広まった結果である。
 けっこうなことだと思う人もいるかも知れないが、ここでのタイムラグによる現状認識のズレには相当のものがある。「まじめに仕事をする」という点では、前述のように、私が学生だった時代に比べて、今の教師のほうが一般的に確実にエラくなっている。しかし、学校・教師への要求水準はより高まってしまったので、「昔の先生はエラかったが」なんて「昔はよかった節」ばかりがいつまでも流れる。
 本当は、昔の教師がエラかったのは、教師はエラいことにしておこうという世間一般の暗黙の共通了解事項があったからだ。「王様は裸だ!」と、言われてしまえば、それでおしまい。
 しかし教育の本家本元としては、それでおしまいにするわけにはいかない。それでは、自分も終わってしまうから。教師をエラくするために、大いに努めなくてはならない。しかし、そんな努力が必要だということは、今の教師はエラくない何よりの証拠ではないか。これはマズい、ますますやらなくては……。
 この悪(でしょう?)循環のおかげで、例えば教員免許更新制ができ(平成21年度より)、教師たちは十年に一度、30時間講習を受け、試験なりレポートで修了証をもらい、教育委員会へ提出せねばならなくなった。やらねば失職するのだから、これはもう仕事と言うしかない。しかし教員免許は「私的資格」だからと、費用は個人負担、講習へは年次休暇を使って、交通費も自前で、行かねばならない。つまり、実質的に仕事が増えて、給与は減った。こんな仕打ちに唯々諾々と甘んじている教師はエラいのか。「だらしない奴らだ」と嘲笑されるのがオチではないだろうか。
 関連してもう一つある。従来からの官製研修の中に、教師になった最初の年にやる初任者研修と、なってから十年目にやる十年次研修があった。後のほうは、大学から教職までストレートに進んだとすると、三十三歳になる年にやることになる。最初の教員免許更新の齢は三十五歳。講習は二年前から受けられるので、ちょうどこの二つが重なるのである。
 この状況に鑑みて、十年次研修のほうは廃止しようか、という声も少しはあった。が、今は全くない。何しろ、例えばアクティブラーニングを軌道に載せるために、研修はたくさんやらなくてはならない、というのが今の教育行政の大方針なのだ。

【アクティブラーニングとは、生徒が主体的能動的に学習に取り組む、というもので、実は、「自ら学ぶ力」として、「ゆとり教育」の中核にあった考えでもある。そのバカらしさは、当ブログでかつて夏木智が簡にして要をえた解説をしているので、そちらをみてもらいたい。】

 中教審の言うことなど、雲の上の立派なお題目であって、雲の下で生身の人間(生徒)とかかずらうのが仕事の学校とは関係ない、と言えないことはない。でも、これによって学習指導要領が改定されたら、もう無視する、なんてわけにはいかない。
 例えば「総合的な学習の時間」は時間割に組み込まれた(平成12年)。そうである以上、やることを考え出さねばならない。と言って、大した予算はつかないのだから、そうたいしたことができるわけはない。いや、けっこうまとまった金額が下りて、「研究指定校」になどなったらそれこそたいへん、ちゃんとした計画のもとにきちんと実行し、一定の成果を挙げたというストーリーの報告書を作成せねばならなくなる。この作業は「作文」と呼ばれている。しかし、机上だけですむものではない。指導主事が訪問して監視、いや、観察・助言することもあるんだし。
 この計画・実行から文書化までをやらせ、チェックするのは、主に、教頭・副校長、それに最近は主幹教諭というのもできた(私は実物を見たことはないが、いることはいるらしい)、全部まとめて中間管理職の仕事になる。研究指定校はうまく免れたとしても、上から降りてきた改革・改良案に沿ってどれくらいちゃんと仕事をしているものか、調査し、結果をまとめて報告する仕事は、近年増える一方で、これも中間管理職が中心になってやらねばならず、結果彼らの勤務時間は増える一方。もっとも、文科省の理念にどれくらいまともに取り組むか、各教育委員会によって温度差があるので、ここでの仕事量の多寡には地域差は大きい。
 ところで、ゆとり教育はさんざん批判されたのに、その特産物だった総合的な学習の時間は、週に一時間は残ってしまった(従来、小中ではほぼ週に二時間)。これは、学校というところは、一度始めたものはなかなか無くせない、ということの実例である。理由は、すぐにすっかりやめてしまったのでは、それまでの努力も、金も、すべて無駄だったとあからさまに示すことになるので、それはどうも忍びない、という、まことに日本的な心性に依るものらしい。
 現場としては、これまた迷惑な話だ。まさかもう「研究」を命じられることはないだろうが、無駄な時間とはっきりわかってしまったものを、なんとか扱わねばならないのだから。
 ただ、「ゆとり教育」にはまだしもマシな点があった。「円周率はおおむね3、と教えてもよい」と、「主体的に学ぶ」ように導く代わりに、教える知識量は、3割がた減らしてもよい、と、バーターも視野に入れていたから。おかげでこの方針は非常に評判を落として、短期間で挫折したのも、象徴的だ。教える側の手間や時間など、考慮するのは本末転倒。自然にそう感じられている。
 その後の平成20年の答申では、知識も、自ら学ぶ力も大事だ、としていることは以前に述べた。それは、どっちも身につけられるるなら、それに越したことはない。あくまで、教える側の労力を度外視すれば、だが。度外視するのが当たり前だ、というのが、今に至るまでの教育言説の大本であり、主流なのである。
 この主流は、「働き方改革」が国会で議論され、現に法律もできた現在、変わったろうか。変わったとして、どういう方向で? これが私から見ると、けっこう怪しい。それは次回に述べます。
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今の先生は年中走っている その1

2018年10月30日 | 教育


メインテキスツ:内田良氏の各種のネット記事

 「教員は忙しい」と言うと、「何がそんなに忙しいんだ?」とよく問われた。今も問われるだろう。問われてみると、これはなかなか難問であるような気がしてくる。なぜ難問か。個人的な事情はある。私は高校教諭だが、本当に、アブないくらい忙しいのは小中の教師だ。また高校教諭としての私自身は、還暦を過ぎて再任用という立場になった今は、そんなに忙しくない。こういう立場の私が言っても、実感は伴っていないから、あまり迫力も説得力もないのは仕方ない。
 しかし、以前のことを思い出し、また現に学校のありさまを毎日見ている者として言える、もっと普遍的で根本的な問題もある。これをできるだけ、他の職業・立場の人にもわかりやすく説明してみよう。今多忙の真っただ中にいる人々は、こんな文章を綴る時間もないことだし。どれだけ伝わるかはわからないが、35年以上学校にいた者の義務のようにも感じるので。

 教員は忙しい。もうけっこう普通に言われるようになった。しかし、世間の常識にまではなっていない。まず、現状を端的に示す指標を挙げよう。

(1)今年9月27日に公表された文科省の「教員勤務実態調査(平成 28 年度)集計 【確定】値 】」中の「教員の1週間当たりの学内勤務時間(持ち帰り時間、及び土日の出勤分は含まない。)」によると、教諭の平均週当たり勤務時間は小学校で57時間29分、中学校では63時間20分。公立学校の勤務時間は1日7時間45分、1週38時間45分だが、労災の認定に使われる法定労働時間1日8時間、週40時間を基にしても、中学校教諭は23時間20分の超過勤務をしていることになる。
 過労死の認定基準として使われる月80時間の超過勤務時間は、月4週間と考えるから週に20時間、中学校教師は平均でこの数値を軽く超えている、ということである。月にすると93時間20分。「働き方改革関連法案」の時に争点になった「繁忙期」の限度月100時間(1日につき5時間の超過勤務)に近い。
 というか、上の数値は平均なのだから、中には月100時間を超える超過勤務を、何か月もこなしている人はたくさんいる。「いつ過労死してもおかしくないんだが、ちゃんとそう認定されるかな」なんて軽口を叩く元気があるうちはまだいい、という感じで。もちろんそういう人は小学校にも、高校にもいるし、副校長・教頭という中間管理職は、小中双方とも週当たり勤務時間で63時間を超えている。しかもどの場合にも、持ち帰ってやる仕事の分や休日分は含まれていない。
 またこの調査をした対象期間は10~11月なので、「教師には夏休みがあるはず、その時期は、休みではないにしても、何しろ通常の授業はないのだから、もっとずっと暇なんだろう」と思う向きもあるかと思う。しかし、そんなこともない。
 少し古い資料になるが、平成18年(2006)度で、教師の8月の勤務時間は、確かに他の月よりは短いが、それでも8時間を超えている(内田良「夏休みも残業 教員の働き方における「閑散期」という危うい想定」)。そして後の9月~翌7月の間は、過労死ラインとして厚労省も認める「1カ月100時間超または2~6カ月の月平均80時間超の勤務外労働」を軽く超えて働いているのだ。
 さらに特筆すべきなのは、前回の調査時平成18年度に比べて、小・中、校長・教頭(副校長)・教諭のすべての立場で、勤務時間が増えていることだろう。ここでも中学校教諭が週当たり5時間14分増、つまり1日1時間強の増加、とダントツの増え方をしている。
 この10年の、マスコミを賑した、というよりは他にネタがないときには穴埋めとしては重宝に使われた教員バッシングやら、平成12年の東京都を皮切りに暫時全国で実施されるようになった教員評価の成果(!?)をここに見ることができるかも知れない。しかしそれも含めて、もともと学校というところは、仕事を減らすのが難しいところなのだ。それこそ問題の根幹なので、後述する。
【ここへきて不安になってきたので、付け加える。教師はいくら働いても、残業手当がつかないことはご存知ですか? 昭和46年制定のいわゆる給特法によって、「教員の勤務態様の特殊性をふまえて」、公立学校の教員については、時間外勤務手当や休日勤務手当を支給しない代わりに、地方公務員の給料月額の4パーセントを教職調整額として支給する、と定められているからだ。
 これは不合理ではないか、一律4%の増額はやめて、他の公務員のように、時間外勤務手当、いわゆる残業手当を払うべきではないか、という議論も、平成19年度の中央教育審議会答申「今後の教員給与の在り方について」がまとめられた時などにはあった。しかし、上のような状況でそんなことをしたら、全国総額で年額兆に達する金額が必要になることが察せられて、すぐに沙汰止みになった。
 つまり、大雑把には、小中高の教員約100万人が、平均で1人当たり年100万円分の残業を無給でやっている、ということである。と、すると、大した金額ではない、むしろ安いくらいだ、と私は思うが、そう思う人は世間にはそう多くない。
 現在のところは、上述の教員評価に依って、上位の教員の昇給率や勤勉手当(ボーナス)を増やし、下位の教員のを減らす、というような措置が東京都や大阪府などで実施されているのがせいぜいである。】

(2)教員と他の労働者の比較は簡単にはできない。「月100時間以上の残業なんて当たり前だ」という業界・業種もあるだろう。しかし、それが世の勤労者一般的な姿であるとしたら、それこそ喫緊に改革すべき事態だということになる。が、教師以外のサラリーマ一般は、幸いにして、そういうことはないようだ。
 本年の7月10日、総務省統計局が「我が国における勤務時間インターバルの状況-ホワイトカラー労働者について-(社会生活基本調査の結果から)」という調査研究結果を公表している。【この場合のインターバルとは、ひと続きの勤務時間から次の勤務時間の「間」を意味する。勤め人にとっての、睡眠を含めた余暇・休息時間全体のこと。1時間の休憩時間を挟む9時から18時までの8時間勤務なら、就業終了時刻の18時から翌日の就業開始時刻の9時までの15時間が勤務間インターバルとなる。】その冒頭近くの「要約」にはこうある。

平成28年の勤務間インターバルの状況
・「14時間以上15時間未満」の人が21.7%と最も多い
・「11時間未満」の人は10.4%
・「教員」では「11時間未満」の人が26.3%と多く,ホワイトカラー労働者全体の約2.5倍の割合
5年前と比較した勤務間インターバルの状況
・「11時間未満」の割合は0.4ポイント上昇
・「教員」では「11時間未満」の割合が8.1ポイント上昇


 これを言い換えると、教師(とはどの範囲かはわからないが、義務教育年限中の教師は確実に入っているだろう)は4人に1人の割合で1日に13時間以上(8時間+5時間)勤務していることになり、それは割合からして他のホワイトカラーの2.5倍になっているし、また近年急速に増加している。「教員は他のサラリーマンに比べたらヒマだ」とは到底言えないことは明らかであろう。

(3)「教師は、学校にいることはいても、実は仕事をしていないんじゃないの」とまで言う人もいる。ここまで言われるのも教員という仕事の特質かも知れず、また、なんとしても「教師はちゃんとやっていない」と思いたい人もいて、その場合にはどんな説得の言葉も役に立たない。それは承知のうえで、反証は挙げておこう。
 昨年の3月26日、内田良が『Yahooニュース 個人』に「「休憩できない教師」の一日」という記事を書いている。実は、これを読んで私もやっと思い出したのだが、6時間以上8時間未満の労働時間なら、中途に最短45分の休憩時間を入れなくてはならないことは、労働基準法に明記されている。公立学校の勤務時間が7時間45分になっているのは、中途に1時間も休憩を与えたくないから、というのも理由の一つだろう。
労働基準法第三十四条 使用者は、労働時間が六時間を超える場合においては少くとも四十五分、八時間を超える場合においては少くとも一時間の休憩時間を労働時間の途中に与えなければならない。
2 前項の休憩時間は、一斉に与えなければならない。(後略)
3 使用者は、第一項の休憩時間を自由に利用させなければならない。】

 高等学校では、この45分はいわゆる昼休みが充てられている。と言っても、この時間、生徒が喫煙その他の悪さをしないように、週に一度ぐらいの巡回当番が義務付けられている学校も多い。
 それくらいは何でもない、と私ともあろう者が思わず考えてしまいそうになるのは、小中の教員で、学級担任となったら、この時間は給食指導、つまり教室で児童生徒といっしょに給食を食べる時間なのだ。これも、「子どもと一緒にご飯を食うなんての、仕事じゃねえよ」と言う人がいそうだ。30人のぐらいの子どもにおとなしくご飯を食べさせるのは、「おとなしく食べさせる」が義務化されている以上仕事なのであり、しかも場合によってはけっこうむずかしい仕事だ、と言っても理解も想像もしようとしない人は、もうこれ以上読まないでください。
 小中学校ではもちろん仕事だとされている。しかし、そうすると、休憩時間はどうなる? 授業の後の、いわゆる放課後の、3~4時代に充てられることが多いようだ。終業時間は5時前後なのだから、中途休憩にしては後に寄りすぎているきらいがあるが、そんなことより、ほとんどの場合、この休憩時間に休憩している教員はいない。有名無実と言いたいところだが、そもそもこの「休憩時間」の存在を知らない教員も多く、そうなると「有名」ですらない。ごく普通に、部活動やら、下校指導(児童生徒が安全に帰るように、時には学校外で、見守る)、宿題の点検などの仕事をする。即ち、法律違反の状態が、ごく一部ではなく、大半の公立小中学校の現状なのである。
 内田によると、事態はさらにもっと深刻で、昼食は5分か10分で済ませ、トイレへ行く時間も満足に取れない教員も決して珍しくはないそうだ。
 彼の別の記事「教員の残業 文科省「自発的なもの」 過労死事案から教員特有の厳しい労働状況を明らかにする」に、一昨年度、富山県の中学教師がくも膜下出血で亡くなった事件が出ている。この人が特別に過剰な仕事を抱えていたわけではない、と同僚の教師たちは言っているそうだ。「教員の過労死については、公立校に関して10年間の認定者数が63名であること(4/21 毎日新聞)が、今年4月に明らかになったばかりである。それ以外には、過労死の実態はほとんどわかっていない」。過労死の認定にはいくつかの基準があり、例えば長年の持病があったりすると認められなくなったりする。この63人以外にも、学校の仕事の忙しさが主因で亡くなった人は、たぶん少なからずいるだろう。

 するとどうなるか。何より、教員志望者が減る。「公立小学校の教員採用試験の倍率は2000年度は12.5倍で、2017年度は3.5倍に激減。一般に倍率が3倍を切ると合格者の質が担保できないといわれているという」(『週刊ポスト」本年8月10日号)。それは、こんな過酷な労働環境に好んで飛び込む人なんて、そんなにはいないだろうとたやすく予想される。他に職が見つかる気の利いた人から逃げ、残るのは私のような気の利かない者だけになることだって、十分にあり得る。公立学校に(実は私立でも、ブラック企業化しているところがたくさんあるようだ)子どもを進学させる予定の親御さんにとって、それは困ったことではありませんか?

 さて、それでは教師はなぜそんなに忙しいのかを考察することで、問題解決のヒントだけでもつかむのが今回の眼目だったのだが、また悪い癖で、その部分はだいぶ長くなりそうなので、それは次回に回すことにします。
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福田恆存に関するいくつかの疑問 その6(一匹に拘る)

2018年09月23日 | 文学

Pastora by Jean-Francois Millet, 1864

 以下の記事は平成27年に美津島明氏のブログ「直言の宴」に掲載させていただいたものです。個人的な事情により、今回採録いたします。表題を含めて最小限の、五か所の改訂以外には何も変えていません。
 
 私淑している福田恆存について、自分のブログで、「福田恆存に関するいくつかの疑問 その1(アポカリプスより出でて)」から4回にわたって書いたのですが、美津島明氏から、「あれではよくわからない、今まで福田なんて全く読んだことのない人にもわかるような、『福田恆存入門』のようなものを書いて欲しかった」、と愛情あふれる文句つけをいただきました。
 そう言われると一応、やってみたくなりました。こう見えて、乗せられやすい体質なもんで。ただ、「唯一の、正確な読解」を示す、なんてことを夢想するわけにはいきません。福田先生も、そういうことは不可能なんだ、と何度か言っていますし。私はただ、凡庸なこの頭で理解し、感動した福田像を示し、それが先生に興味のある人に多少の参考になれば、と願うばかりです。おかげで、そんなに深遠な、難しい話にだけはならないと思いますので。
 福田思想の出発点にして生涯を通じた立脚点は、まず昭和21年の「一匹と九十九匹と」に明瞭に示されました。今回はほぼこれのみに即してお話します。

 これは戦後直後に文壇を賑わせた「政治と文学」論争中に書かれたエッセイです。と言っても、福田はこの論争自体に深入りすることはどうやら意識的に避けています。論ずべきことはもっと別にあるはずだ、というスタンスは明瞭に読み取れ、これはこの後の福田の論争文の多くに引き継がれて、時に「搦め手論法」と呼ばれることもあったようです。
 論争の主流についても一応ざっくり見ておきましょう。この淵源はずっと古く、共産主義が、少なくとも知識人の間ではそれこそ怪物じみた猛威をふるった昭和初期にまで遡ります。
 具体的には、共産主義は正しいと多くの人にみなされた。当然共産主義革命は正しいし、そのための活動は正しい。これに疑問の余地はない。と、すると、芸術は、その中でも社会観を直接的か間接的に含まないわけにはいかない文学は、どういうことになるのか。これがつまり論争のテーマでした。
 模範解答とされたのはこんなんです。文学作品についても、別の「正しさ」があるわけはない。別の、なんてものを認めれば、その分共産主義の正しさは相対化され、革命そのものも、革命運動の価値も貶められることになる。文学でも社会活動でも、単一の物差しで測られなければならない。そんなに難しいことではない。革命運動を鼓吹するか、少なくとも革命の担い手たるプロレタリアートに即した目で現代社会を見つめ、その矛盾を示すような作品ならよい作品、それ以外は悪い、少なくとも無価値な作品。そう判定すればいい……。
「いやあ、そりゃあんまり簡単すぎるだろう」とたいていの人が思うでしょう。と言うか、土台、共産主義が正しいと信じなければ始まらない話ではあるんですが。
 その後の歴史の中で共産主義もずいぶん変わりましたし、また、文学者は知識人であるという思い込みがあった頃までは、彼らは文学の社会的な効用やら責務を気にかけないわけにはいかなかったのです。そこで政治(では何が正しいか)と文学(の価値は何か)をめぐる論争は、少しづつ形を変えてこの後も現れましたし、今後も現れる可能性はあります。これについては加藤典洋「戦後後論」(『敗戦後論』所収)が面白い見取り図を提出しておりますので、興味のある方はご覧おきください。

 さて福田恆存は、「政治上の正しさと文学の価値」という問いの形を変え、「そもそも政治とは、そして文学とは何か」、言い換えると、「人間はなぜ、またどのように、政治を、そして文学を必要とするのか」まで遡及して考えてみせたのです。演繹に代えて帰納的に考える、というわけですが、「かくあるべき」から「かくある」に議論の中心を移すのは、もっと大きな意味があり、前に言った「搦め手論法」というのもそこを指しているようです。それは後ほど述べるとして、「政治と文学」の局面にもどりますと、政治は九十九匹のためにあり、文学は一匹のためにある、これを混同するところから不毛な混乱が起きるのだ、という答えが提出されました。
 「一匹と九十九匹」の譬喩は、キャッチコピーとしてもなかなかいいですよね。人目を惹きやすいし、覚えやすいでしょう? それでけっこう有名なんですが、そのためにかえってたびたび誤解されてきたように思います。解説してみましょう。
 話の出処は聖書のルカ伝第十五章です。

なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたずねざらんや。

 この譬えは、すぐ後の「蕩児の帰宅」の話を見れば明らかなように、悔い改めた一人を得る喜びは、もともと正しかった九十九人がいることより勝る、という意味です。ですからここで言う一匹とは正しい道を踏み外した迷える羊(stray sheep)であり、キリスト教からみた罪人のことです。それぐらいは福田も当然知っており、そう書いてもいますが、この一節から受けたインスピレーションが強烈だったので、正統的な解釈とは別の「意味」を、語らないわけにはいかなかったのです。
 もともとこの話にはちょっとヘンなところがあります。どんな場合でも、九十九匹の羊を野に放っておいていいはずはないのです。狼に襲われたり、羊たちの内部で争いごとがおきたりしたときのために、面倒を見る人が必要です。福田の考えでは、それをやるのが最も広い意味の政治です。宗教者の役割ではないから、イエスはそれについて語らなかった。宗教者は、「失せたるもの」を探し求めずにはいられないのであり、後にこれを引き継いだのが文学者、であるはず。そうであるならば、どんな時代でも、群から迷い出てしまう一匹は必ずいるので、宗教・文学の必要性が絶えることはありません。
 以上は誤解を招く言い方になりました。「なんぢらのうちたれか」と語り出されているところからもわかるように、特定の宗教者、文学者のみが考えられているわけではありません。九十九匹と一匹の領分は、万人の心の中にこそあるのです。そして、迷い出る一匹はそれを探し求める一匹と同一なのでしょう。「かれ(=真の文学者、及びそれに近い心性)は自分自身のうちにその一匹の所在を感じてゐるがゆゑに、これを他のもののうちに見うしなふはずがない」と、福田は言っています。

 改めて、この一匹とは何なのか。たぶん、この時代の文学者やら文学愛好者なら、くどくど言わずともわかる人にはわかったらしく、福田もそれは暗示するにとどめています。文学の権威が一般に失われた今日では、多少の逸脱を恐れず、言葉を重ねておくべきでしょう。
 日本近代文学の中だと、イエスつながりと、もう一つ福田の出世作になった文芸評論(「芥川龍之介」)とのつながりからして、芥川龍之介「西方の人」中の「永遠に超えんとするもの」が、「一匹」に近いように思えます。これはイエスその人、あるいは彼を導く聖霊を指し、聖母マリアが表象する「永遠に守らんとするもの」と対置されています。

天に近い山の上には氷のやうに澄んだ日の光の中に岩むらの聳えてゐるだけである。しかし深い谷の底には柘榴や無花果も匂つてゐたであらう。そこには又家々の煙もかすかに立ち昇つてゐたかも知れない。クリストも亦恐らくはかう云ふ下界の人生に懐しさを感じずにはゐなかつたであらう。しかし彼の道は嫌でも応でも人気(ひとけ)のない天に向つてゐる。彼の誕生を告げた星は――或は彼を生んだ聖霊は彼に平和を与へようとしない。(「西方の人」中「二十五 天に近い山の上の問答」)

 つまり、平和で暖かい生活の場を捨てて、冷厳で孤独な世界へと誘われる性向、芥川が「聖霊」の言葉で呼んだもの、これを福田は「(九十九匹=下界の人生に対する)一匹」と名づけた、と考えて、そんなに的外れではないと思います。
 しかし、では、日本の近代文学者が「永遠に超えんとする一匹」を自分の裡に感じていたかというと、それはちょっと怪しい。根本的に、「永遠に守らんとするもの」が守る身近な平和から、否応なくはみ出してしまう性情は乏しかったように見える。ただ、西洋文学には折々現れるそのような個人の傾向に憧れる気持ちはあったようで、芥川もどうやらその例外ではない。彼が描くイエス像が、上に見られるようにやたらにロマンチックなのはそのせいでしょう。
 上記は日本の近代を考える上で大きなポイントになるところですが、今回はもうちょっと卑近なところで話をしたいと思います。そうすると、福田の論旨の応用、というより多少どころではない逸脱ということになってしまうかも知れませんが、私が福田恆存から学んだつもりでいる最も重要なことの一つですので、恐れも恥も顧みずに申し上げます。

 以前のブログの記事「国家意識をめぐって、小浜逸郎さんとの対話(その1)」に、息子を特攻作戦で失くし、戦後苦難の道を歩まなければならなかった母親について書きました。彼女は極貧のうちに生きて、死ななければならなかったようで、それについて私は、「「国のために死ね」と要求するなら、最低限、遺族の生活の面倒ぐらい、ちゃんとみてあげられなくてどうするのか」と申しました。因みに日本で軍人恩給の復活が議会で認められたのは昭和28年で、支給が開始されたのは翌29年、この母親はその恩恵に浴する直前に亡くなったのです。戦争に負けて軍隊もなくなって、日本中が苦しい時期であったとはいえ、こういう人にはちゃんとお金を上げるべきでした。それは明らかに、政治の役割です。
 ところで問題は、さらにその先にあります。政治がちゃんとしているなら、彼らが生活に困ることはない。それで万々歳かと言えば、そうもいかんでしょう。二十歳そこそこの息子に先立たれた悲しみ、苦しみは残ります。どんな政治がこれを救えるのか? 考えるまでもなく、無理に決まっています。即ち、最良の政治が行われてもなお、すべての人間を必ず幸せにできるわけはないのです。
 戦後思潮のイカンところの一つは、こういうふうに戦争が絡んだ話だとすぐに、「戦争はこんな悲惨をもたらす、最大の悪だ」と言い立て、逆に「だから戦争さえなくなれば万事OKなんだ」をこの場合の解答のように思わせる詐術がはびこったところです。実際には仏教で言う四苦(老病生死)八苦(愛する者と別れる苦しみ、その他)から完全に逃れられる人などいません。早い話が、戦争がなくても、子どもに先立たれる親はいるのです。その苦しみ、悲しみをどうするか? どうしようもない。どうしようもないけれど、宗教と文学のみが、僅かにそこに関われる、いや、関わることを目指すべきだ。それが福田恆存の文学論の根幹なのです。
 どういうふうに関わるのかと言えば、それは、マルクスが喝破したように、また福田も認めたように、麻薬として役立つのです。マルクスが「ヘーゲル法哲学批判序説」中でそう言ったのは、もちろん否定的な意味でです。麻薬(直截には阿片)には、苦しみを和らげる働きはあるが、病気を根治することはできない。根治をあきらめるから、麻薬の需要も出てくる。同じように、現実の苦しみが除去されるならば、宗教の必要性はなくなる。だから、宗教の廃棄を要求することは、そういうものが必要とされる現実社会の、根本的な変革を要求することに等しい、とおおよそマルクスは論じています。
 彼が言い落としているのは、世の中には不治の病があることです。現在でも末期癌患者の鎮痛剤として麻薬が処方されることがあるのは知られているでしょう。その意味で、将来も麻薬の需要が絶えることはないでしょう。同じように、人々の苦しみがすっかり消えることもないから、文学の存在価値も失われないでしょう。
 具体例を出しておきます。子どもを失った母の悲哀を表現したものとして、以下の和泉式部の歌はよく知られています。

とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 
 子はまさるらむ子はまさりけり


「この世に遺す者のうちで誰をあわれと思うのだろう、子どもだろうな、自分も子ども失って(親を失ったときより)あわれに思うのだから」という意味で、感情より理屈を表に出している(と、見せて、同語反復による強調にもなっているのはさすがです)ことが注目されます。これと、何よりも和歌の調べによって、ここでの感情には客観性が付与され、「作品」になっている。子どもに先立たれることは、「戦死」というような社会的な共通項がない限り、個人的なできごとに止まります。それでも、フォルム(形)があることで、同じような経験をしていない人にも心持が伝わる。その全過程をここでは「文学」と名づけます。
 即ち、個人的なことがらがそのまま共同性を得るというマジックが文学であり、人間が集団的な存在(九十九匹)であると同時に個的な存在(一匹)でもあることを証すものです。
 だからと言ってもちろん、ごく普通の意味での公共性がなおざりにされていいわけはありません。政治上の施策や社会改革によって救われる不幸ならちゃんと救うべきですし、まして、人々に不当な悲惨を強いる政治悪はなくすべく努めるべきです。その努力が革命という形をとるなら、正義は明らかにこちらにあることになります。

 ここで、先ほど挙げた、共産主義に対して文学(正確にはプロレタリア文学)から提出された「模範解答」をもう一度見てください。正義は革命にある。ならば、文学もまた革命の正義に専一に仕えるべきだ、とされる。
 結果として、それ以外の正しさ、どころか、この正義の力が及ばない領域は無視されます。例えば、戦争被害者の苦しみは大いに描くべきだ、それは帝国主義の悲惨を訴えるのに役立つから。では、国家のせいにも社会のせいにもできない事故の犠牲者や、その関係者の苦しみは? そんなもの、革命のためにはなんの効果もないんだから、放っておけ、とは誰も言ってませんが、言ったのと同じ効果はあるんです。
 難癖をつけていると思いますか? そう見えるらしいんで、このような言い方は、正攻法ではない、「搦め手論法」と呼ばれたのですが。しかし、広い意味での革命運動がどういう道をたどったかを考えれば、現実的にも決して無視し得ない論点がここにあるのは明らかでしょう。それはどんな道で、どこから始まったのか。「政治と文学」論争のときによく取り上げられた、小林多喜二「党生活者」をこちら側の具体例として出しましょう。
 この小説で最も印象が深いのは、次のような点です。革命運動に従事する主人公が、職場も住居も追われ、親しい女に全面的に生活の面倒をみてもらうことにする。革命が正しいなら、そういうこともしかたないかも知れない。ただ驚くのは、主人公は、どうやら彼との結婚を夢見ている彼女に対して、「申し訳ないけど、我慢してほしい」ではなく、「革命運動の必要性・正当性をなかなか理解しようとしない」と、私も若い頃聞いたことがある言葉で言い換えると「意識が低い」、としか思わない。本気で? どうも、本気らしいです。
 あるいはまた、六十歳になった母親にもう会わない決心をする。母親には辛いことだろうが、それは「母の心に支配階級に対する全生涯的憎悪を(母の一生は事実全くそうであった)抱かせるためにも必要だ」……。いやいやいや、本当にやめましょうよ。何かの事情で肉親と別れる人はいつでも、どこにでも、いる。自分から望んでそうなることもある。それを一概に悪だと言う気はない。けれど、何かの正義を持ってきて、それを正当化することは、とりわけ、自分が思い込むだけではなく、他人もそうであるべきだ、などとするのだけは、是非やめてほしい。
 また、こうも言える。主人公は、厳しい弾圧を受けている。正義は自分にあり、それなら弾圧は不当だ。そこまでは認めてもいいが、さらに、だから弾圧される苦しさを味わうことこそ正当だ、までいったら、明らかな転倒である。そうではありませんか?
 「党生活者」の主人公がそうであるように、小林多喜二もまったき善意の人ではあったのでしょう。だからこそ、あぶない。「正しいこと」はどこまでも押し進めていいはず。ならば、それをどこかで押し止めようとすることこそ悪。正義の論理がこの段階にまで至れば、この正しさはあらゆることを犠牲にするように要求するまでになるでしょう。革命が成功すると、革命前よりもっと激しい弾圧が始まる根本の理由は、ここにあるのです。
 思うに、文学の社会的な効用は、このような事態に対する警告を発するところに求められるのではないでしょうか。一人の人間には、国家・社会を含む他者にはどうすることもできない領域がある。言わば、絶対的な個別性です。もちろん文学にだって、根本的にそれをどうにかできるわけではない。しかし、「どうにもならないこともある」ことを訴えて、この世に完全な正義はあり得ず、ゆえに正義の暴走は何よりも危険だと戒めることについては、少しは期待してもいいのではないでしょうか。

 上がある程度認められたとしても、でもやっぱり「そんなの本当に意味があるの?」と思われることもあるでしょう。文学が宗教ほど(麻薬としての)大きな慰安を与えることなどめったにあるものではなく、その分、依存症の危険などはごく少ない。それというのも、社会に大きな影響を与える宗教ほど、「教団」を作って、革命運動によく似た活動をする、集団的なものになるからです。文学は、あくまで個人にのみ関わろうとするので、純粋ですが、また、まことに無力です。それを残念に思う文学者が、「絶対の正義」を外部に求めようとした結果が、「プロレタリア文学」をもたらしたのでしょう。
 このように無限に循環しそうな問いに対して福田恆存がここで出した診断を、最後に掲げておきます。

かれ(=文学者)のみはなにものにも欺かれない――政治にも、社会にも、科学にも、知性にも、進歩にも、善意にも、その意味において、阿片の常用者であり、またその供給者でもあるかれは、阿片でしか救われぬ一匹の存在にこだはる一介のペシミストでしかない。そのかれのペシミズムがいかなる世の政治といへども最後の一匹を見のがすであらうことを見ぬいてゐるのだが、にもかかはらず阿片を提供しようといふ心において、それによつて百匹の救はれることを信じる心において、かれはまた底ぬけのオプティミストでもあらう。そのかれのオプティミズムが九十九匹に専念する政治の道を是認するのにほかならない。このかれのペシミズムとオプティミズムとの二律背反は、じつはぼくたち人間のうちにひそむ個人的自我と集団的自我との矛盾をそのまま容認し、相互肯定によつて生かさうとするところになりたつのである。

 一匹にこだわり続け、それによって百匹に慰安としての阿片を供給すること、ただしそれは阿片に過ぎないことはわかっているので、九十九匹の救済は甘んじて政治に委ねること。ここには、九十九匹(公共性)の名において一匹(個人)に最小限の犠牲を強いることはどうしてもある、それは認めるしかない、という断念も含まれます。そうでないと、お互いを肯定し合って、ともに生かす、ということにはならない。しかし、何が「最小限」かを見極めることはいつも難しい。
 それから、こちらのほうが大きいのですが、九十九匹の側からの圧迫は特にないのに、群れから迷いでる一匹、「永遠に超えんとするもの」の問題は、提出されたままで終わっています。それは福田の後の文業、特に「人間・この劇的なるもの」で正面から取り上げられることになります。
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