由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

今の先生は年中走っている その2

2018年11月22日 | 教育
テレビ東京ドラマ「鈴木先生」2011

 これからが本題。なぜ、教師の仕事量は近年著しく増えたのか。これを明らかにしないことには、改善もできない。
 答えを一番簡単に言うと、「教育」という営みには限りがない、からだ。この言い方に何やらロマンチックな響きが感じられるとしたら、そこにこそ、恐るべき罠がある。
 そこでロマンチックをできるだけ抜いた言い換えを考えると、教育には、「もうこれで十分。これ以上やらなくてもいい」という限度が一般にない。
 授業をやる。一度の授業で全生徒が内容を理解し、覚える、なんてことはまずあり得ない。あるとしたら、それはもう既に生徒全員が知っていることを、つまり改めて教える価値はないことを教えた時ぐらいであろう。
 新しいことを教え、理解させるためには、まず、教えられる側に「理解しよう」という最低限の意欲がなくてはならないのだが、それは今は言わない。教える側だけに絞って言うと、もちろん事前に十分な工夫が必要だ。事後には、全員が理解したか、その時は理解したとしても定着したか(少なくともしばらくの間は覚えているか)、確認するためには、テストをやらなければならない。
 いや、それ以前に、ただ話を聞いただけで知識が「自分のもの」になるなんてことはほとんど期待できないのだから、何度か練習問題をやらせる必要がある。授業時間だけではそこまでは十分にはできないので、宿題を出す。出した以上は、ちゃんとやったかどうか、チェックする必要がある。
 小テストも宿題ももちろん昔からあった。しかし、どうも今までのでは足りなかったのではないか。現に、中一で習ったことを中三では覚えていない生徒はたくさんいる(いや、それは、私を初めとして、大人になってから中学校の学習内容をすべて理解し、覚えている人のほうが稀なんですが……)。完璧は期し難いとしても、改善ならできるはずなので、「生徒のため」を思えば、もっとやったほうがいい。やるべきだ。ということで、宿題は、次第に増えていき、ほぼ毎回の授業ごとに出す教師も出てくる。
 30人のクラスで、1時限50分の授業を1日に4時限やり、毎回宿題を出して、それをチェックする。「生徒のため」を思えば、このチェックも、おざなりではなく、できるだけ丁寧にやらなければならない。と、したら、これだけでも、1日8時間では絶対に足りない。さらに、担任を持ったら、「連絡帳」に学校での生徒の様子をほぼ毎日書いて保護者に報告したり(中学生の保護者としての私の感想を言えば、あれば確かにありがたい)、「学級通信」をこれまたほぼ毎日出している教師もいる。時間というより、体が二つあっても足りないじゃないかなあ。
 さらに、宿題に話を戻すと、大勢(1クラスほぼ30人だから、4クラスとして120人)の中には、必ずやってこない子もいる。それはなぜか。家庭に問題があるのかも知れないし、本人に理由があるのかも知れない。それは個別に、きちんと対応すべきである。対応のためには、彼らの事情をきちんと把握しなければならない。把握のためには、生徒と個別面談をし、できれば親とも会い(生徒はたいがいいやがるけどね)、時には、家庭訪問もせねばならぬだろう。
 生徒が抱えているものが深刻であればあるほど、一回や二回の調査・対応ではほとんど何もわからず、「教育」は進まない。これはもちろん、「宿題をやらない」というようなものよりもっと重大な、いじめなどに関連しそうな、生徒の生活上の問題についてこそ、言えることである。どれほどやっても、いっこうに先が見えず、立ち竦むような思いをする教師も多い。でも、いじめなどの問題が見えたら、やらない、なんてことは言えない。それは誰も認めない。

【しかし、実際には誰にでも時間的物理的な限界は自ずとあるのだから、「いじめ」などが重大な結果を招いてから検討したら、教師が「手を抜いている」と言えるところも必ず見つかる。そこを、マスコミに叩かれるのである。】

 この状況になったら、「宿題をやってこない」ぐらいにかまっている余裕はなくなる。しかし、「それでいいんだ」とは、誰も、教師もそうでない人も、言わない。「言わせない」圧力が働く。すべての結果、真面目な教師ほど、苦しみ、ストレスを抱えることになる。
 そのうえに、いわゆる学校行事、入学式・卒業式・体育祭・文化祭・校内合唱コンクール・修学旅行・保護者会、などなどの準備と後片付けが加わる。よく話題にのぼる部活動をのぞいても、ざっとこれだけの仕事がある。毎日のように家に仕事を持ち帰る教師がいるのも、全く当然の話なのである。

 このような教師の労働の状況を改善しようとしてぶつかる壁もまた、上述の事情そのものの中にある。
 つまり、教育は無限である。どんなにやっても完璧ということはない。必ず不十分なところが残る。と、いうことは……。
 逆に言えば、手を抜いたところで、さほど致命的な事態にはならない、ということ? だって、どのみち、「不十分」なんでしょう?
 個人的に話で恐縮ながら、私が今よりたくさん学校教育について語っていたとき、よくであった批判が、「それじゃ教師は何もしなくてよいということか」「そんなんじゃ若い教師に悪影響を与えるぞ」というものだった。
 「どういうふうに教えようと、比較相対上で、できる子とできない子が出てくるのは当たり前でしかない」と、自分が言ったかどうかよく覚えていないが(笑)、そうは思っているので、問わず語らずのうちに伝わったことはあるだろう。と言うか、こんなことは、私如きが言挙げする以前に、世の中の大半が知っている。にもかかわらず、ではなくてそうであるからこそ、教師がそれを言うのは許さない、という雰囲気が、教育について語ろうとする人々の中にはある。
 言われてしまったのでは、できない子が可哀そうだ、という以上に、だいたい、そんなことを認めたら、教師は、できない子は放っておくだろう。できる子は、実は放っておいてもできるのだから、やっぱり放っておくだろう。結果、教師は通り一遍の授業以外何もしない、ということになってしまうのではないか。これが私への批判の内容であった。
 率直に認めておこう。この批判には根拠がある。論より証拠、最近はともかく、私ぐらいの年代の人に思い起こしていただきたいのだが、小中高時代、淡々としゃべるだけで板書もろくにせず、生徒が理解したかどうかなんてまるっきり度外視している先生はいなかったろうか? いや、そもそも、音声上で、何を言っているのか、ほとんど聞き取れない教師もいた。
 いやいや、そんなのはまだまだ甘い(?)。戦後も間もない頃には、こんなことがあった。授業時間になっても教師が教室へ来ない。生徒の代表が呼びに行くと、「私、今日は体調が悪いから、皆さん自習しててちょうだい」と言って、どうやら一年間ずっと体調が悪かったらしく、とうとう一度も授業をしなかった。これはさる有名人女性に聞いた、さる名門公立女子高での話である。それでも成績がついたとなると、もう犯罪と呼びたくなりますね。
 急いで付け加えておかねばならないが、この時代でも、どの時代でも、自分なりに学び、工夫して、きちんと授業をやっていた教師のほうがもちろん普通だった。しかし、そうはしなくても、それほど非難はされないほどに、昔の教師はエラかったのである。
 一番恐るべきなのは、それでも別に、社会的に、というか、この学生たちの将来に、さして大きな影響はなかったらしいところだろう。では、学校の、授業の意味は……、教師の意味は……。それでもやっぱりあるんだ、と、教師であり中学生の親でもある私は思っているが、ふと不安になる気持ちはわかる。
 そこで、こういうことがないように、文科省(旧文部省)も、保護者も、「心ある」教員も、締め付けをきつくした結果、今度はシーソーが反対側にブレ過ぎた、そういう面はある。こうなった原因の半ば以上は教員自身にある、と言われてもしかたない面もある、ということだ。
 特別に何かをやる必要はなかった。教員が、普通に文句を言われるぐらい、エラくなくなればいいのである。小中高の教師は、これまた私自身を含め、さほど優秀ではないが、真面目な小心者が多いから、実際に文句を言われる前に、言われるかも知れない、と思うだけでも十分だった。教師は、ごく一部の例外を除き、ちゃんと仕事を、つまり「教育」を、最低でも授業を、やり始めた。
 それはいい、というか当然の話であろう。が、この「仕事」をすぐに過剰なものにする要因がいくつかあった。それもすべては「教育には限りがない」に淵源がある。簡単には、上で述べた通りだが、この機会に、もっと具体的に細かく、いくつかの局面に分けて考究しよう。少々長くなるが、できればおつき合い願いたい。

 まず第一に、日本特有、ではないだろうが、日本では特に強い同調圧力、による競争。
 A先生は宿題を毎日出す。B先生は週に一度出す。C先生はほとんど出さない。この中で一番熱心な先生は誰で、一番不熱心な先生は誰でしょう? 
 それは、たった一つのことがらだけではわからない。C先生は、宿題などやる必要がないくらい、密度の高いよい授業をしていたのかも知れないから。
 まあしかし、その可能性はそう高くはない、と私も思う。A先生こそ最も熱心な教師で、C先生が一番不熱心、と学校内外の人がみなすのは、無理がない。それで、実際に文句を言われる前に、「不熱心な教師」だとみなされるのは悔しいのだから、B先生もC先生も、A先生と同じく、毎日宿題を出すようになるだろう。
 かくしてそれがその学校の「当たり前」になれば、新たに赴任してきたD先生もE先生も、同じようにせざるを得ない。授業の宿題だけではなく、クラス通信でも他の活動でも同じようになり、かなりの過剰負担であっても、「当たり前」にやらなくてはならなくなる。
 そしてまた、教師がやればやるほど、世間の期待も高まって、「もっとやってもらえるのではないか」から「やるのが当然だ」へと進化していく。つまり、最初のうちはやってもらったことに感謝するのだが、そのうちに、やってもらえないことに不満を言うようになる。そういうものなのか。そういうものなのだ。今頃気づいたこっちが間抜け、というだけの話。いや、立ち止まって反省している暇なんてない。最低でも、言い訳はできるぐらいには、やらなきゃ。

【先回りして言っておく。こういう熱心な教師は、感謝されないどころではなく、迷惑がれている場合も決して少なくない。なんせ、宿題が多すぎて、子どもが根をあげて、保護者のほうも、見て、こりゃ過剰だ、と思うことがある。教師のほうでは、自分だってかなり苦労してやっているのだから、そんなふうに思われているとは心外、という以前にあまり気づかない。こういうことも、世の中にはけっこうある。】

 今の教師は、こうした学校内外からの「当たり前」に押しまくられて、馬車馬のように走っている。大量の残業も、教育委員会や管理職教師に命じられたものではない、「自発的」としか言えない、と文科省の役人が言うのを、前出内田良の「教員の残業」では、その冷酷さを憤っている。それは当然でもあれば、ありがたいとも思うけれど、形式的にはお役人がまちがっているわけではない。

【残業を命じることができる活動は給特法で決まっている。臨時または緊急時における、校外実習などの実習、修学旅行などの学校行事、職員会議、非常災害、の4項目で、これ以外の理由で時間外勤務を命じることはできない。】

 私も、生徒会の仕事などで、半月ぐらいの間、10時過ぎまで学校にいたことはあるが、その時、校長・教頭からそう命令されたわけではない。そんなことは気にもかけなかった、と言うのが実際のところ。時間の長さより、この時、非常に気を使わねばならない仕事があったおかげで、ストレスを溜め、一週間ほど入院する羽目になったのは、我ながら一生の不覚である。これはよく取り上げられる部活動の問題に関連するので、後述する。
 管理職は、「自発的」にやるように、巧妙に教師を誘導するのだろう、と思う人もいるかも知れないが、次に述べることがあるので、それはないだろう。ただし彼らが、教師の労働条件の整備・改善など、今までほとんど頭になかったことは確かだが。これも彼らのせいとは言えない。そんな暇もなければ、そんなことを望まれているとも思えなかったのだから。

 さてしかし、特に何もしなくても大過ないので、逆に「何もしていない」の汚名を返上するために、やらなくてもいいこと、やらないほうがいいこと、までやるのは、文科省や教育委員会のほうが上かも知れない。なんせ、何かといえば「改革」を現場へ押し付けてくるのだ。
 そんなに「改革」すべきことがあるのか。それはあるだろう。何しろ、教育は無限であり、「これでいい」ということはない。どこまでも、進歩を目指していくべきものだ。この高邁な理想を維持することが、つまり文部行政の第一の目的であるらしい。現実は決して理想通りにはいかない。だからこそ、理想の追求は尽きることはない。おかげさまで、学校にハッパをかける仕事も、尽きることはない。
 具体的には、中央教育審議会、略して中教審、というのを組織し、いわゆる有識者に、教育のあるべき姿を議論させ、これをまとめて、教員たちの指針とする。そして、高校は都道府県、小中は市町村の教育委員会は、それに沿って教師を動かすべく仕事をするように求められている。
 かくして、「改革」は最終的には必ず教師の仕事を増やす。当然だろう。どんなに高邁な理想を唱えようと、文科省も教育委員会も、教師をいじる以外の権限はないのだから。

【ちょっと注記。例外はあるけれど、教育委員会とは多くは、自治体の首長に任命される名誉職と考えてよい。1、2年の任期で、最大の仕事である人事=教員の移動を扱う3月を除いて、それともう一つ、いじめ自殺などの大事件が起こった時を除いて、月に一度ぐらい会合を開くのみで、報酬もそれなり、月額一万円以下ぐらいしかもらっていない。モンスターペアレンツが教師を脅すために使う「教育委員会に言うぞ」という場合の教育委員会とは、形式上はここに属している教育委員会事務局で、その中には教師を指導する立場の指導主事という人もいて、実際的に学校を監督してる。以下では、世間一般の用法に準じて、こちらを「教育委員会」と言う。】

 思い起こせば、第一次安倍内閣(平成18~19)が中教審とは別に組織した教育再生会議の頃から、いや、その少し前あたりからか、「教員に汗をかいてもらいたい」なる言葉がよく聞かれるようになった。つまり、この頃まで、委員になる有識者のお歴々も、一般世間も、「教員は汗をかいていない=働いていない」なる認識が普通だったのだ。それというのも、「教員はエラくない」という内容のキャンペーンが政府側から始まり、それは、マスコミの助力のおかげで、全国通津浦々にまで広まった結果である。
 けっこうなことだと思う人もいるかも知れないが、ここでのタイムラグによる現状認識のズレには相当のものがある。「まじめに仕事をする」という点では、前述のように、私が学生だった時代に比べて、今の教師のほうが一般的に確実にエラくなっている。しかし、学校・教師への要求水準はより高まってしまったので、「昔の先生はエラかったが」なんて「昔はよかった節」ばかりがいつまでも流れる。
 本当は、昔の教師がエラかったのは、教師はエラいことにしておこうという世間一般の暗黙の共通了解事項があったからだ。「王様は裸だ!」と、言われてしまえば、それでおしまい。
 しかし教育の本家本元としては、それでおしまいにするわけにはいかない。それでは、自分も終わってしまうから。教師をエラくするために、大いに努めなくてはならない。しかし、そんな努力が必要だということは、今の教師はエラくない何よりの証拠ではないか。これはマズい、ますますやらなくては……。
 この悪(でしょう?)循環のおかげで、例えば教員免許更新制ができ(平成21年度より)、教師たちは十年に一度、30時間講習を受け、試験なりレポートで修了証をもらい、教育委員会へ提出せねばならなくなった。やらねば失職するのだから、これはもう仕事と言うしかない。しかし教員免許は「私的資格」だからと、費用は個人負担、講習へは年次休暇を使って、交通費も自前で、行かねばならない。つまり、実質的に仕事が増えて、給与は減った。こんな仕打ちに唯々諾々と甘んじている教師はエラいのか。「だらしない奴らだ」と嘲笑されるのがオチではないだろうか。
 関連してもう一つある。従来からの官製研修の中に、教師になった最初の年にやる初任者研修と、なってから十年目にやる十年次研修があった。後のほうは、大学から教職までストレートに進んだとすると、三十三歳になる年にやることになる。最初の教員免許更新の齢は三十五歳。講習は二年前から受けられるので、ちょうどこの二つが重なるのである。
 この状況に鑑みて、十年次研修のほうは廃止しようか、という声も少しはあった。が、今は全くない。何しろ、例えばアクティブラーニングを軌道に載せるために、研修はたくさんやらなくてはならない、というのが今の教育行政の大方針なのだ。

【アクティブラーニングとは、生徒が主体的能動的に学習に取り組む、というもので、実は、「自ら学ぶ力」として、「ゆとり教育」の中核にあった考えでもある。そのバカらしさは、当ブログでかつて夏木智が簡にして要をえた解説をしているので、そちらをみてもらいたい。】

 中教審の言うことなど、雲の上の立派なお題目であって、雲の下で生身の人間(生徒)とかかずらうのが仕事の学校とは関係ない、と言えないことはない。でも、これによって学習指導要領が改定されたら、もう無視する、なんてわけにはいかない。
 例えば「総合的な学習の時間」は時間割に組み込まれた(平成12年)。そうである以上、やることを考え出さねばならない。と言って、大した予算はつかないのだから、そうたいしたことができるわけはない。いや、けっこうまとまった金額が下りて、「研究指定校」になどなったらそれこそたいへん、ちゃんとした計画のもとにきちんと実行し、一定の成果を挙げたというストーリーの報告書を作成せねばならなくなる。この作業は「作文」と呼ばれている。しかし、机上だけですむものではない。指導主事が訪問して監視、いや、観察・助言することもあるんだし。
 この計画・実行から文書化までをやらせ、チェックするのは、主に、教頭・副校長、それに最近は主幹教諭というのもできた(私は実物を見たことはないが、いることはいるらしい)、全部まとめて中間管理職の仕事になる。研究指定校はうまく免れたとしても、上から降りてきた改革・改良案に沿ってどれくらいちゃんと仕事をしているものか、調査し、結果をまとめて報告する仕事は、近年増える一方で、これも中間管理職が中心になってやらねばならず、結果彼らの勤務時間は増える一方。もっとも、文科省の理念にどれくらいまともに取り組むか、各教育委員会によって温度差があるので、ここでの仕事量の多寡には地域差は大きい。
 ところで、ゆとり教育はさんざん批判されたのに、その特産物だった総合的な学習の時間は、週に一時間は残ってしまった(従来、小中ではほぼ週に二時間)。これは、学校というところは、一度始めたものはなかなか無くせない、ということの実例である。理由は、すぐにすっかりやめてしまったのでは、それまでの努力も、金も、すべて無駄だったとあからさまに示すことになるので、それはどうも忍びない、という、まことに日本的な心性に依るものらしい。
 現場としては、これまた迷惑な話だ。まさかもう「研究」を命じられることはないだろうが、無駄な時間とはっきりわかってしまったものを、なんとか扱わねばならないのだから。
 ただ、「ゆとり教育」にはまだしもマシな点があった。「円周率はおおむね3、と教えてもよい」と、「主体的に学ぶ」ように導く代わりに、教える知識量は、3割がた減らしてもよい、と、バーターも視野に入れていたから。おかげでこの方針は非常に評判を落として、短期間で挫折したのも、象徴的だ。教える側の手間や時間など、考慮するのは本末転倒。自然にそう感じられている。
 その後の平成20年の答申では、知識も、自ら学ぶ力も大事だ、としていることは以前に述べた。それは、どっちも身につけられるるなら、それに越したことはない。あくまで、教える側の労力を度外視すれば、だが。度外視するのが当たり前だ、というのが、今に至るまでの教育言説の大本であり、主流なのである。
 この主流は、「働き方改革」が国会で議論され、現に法律もできた現在、変わったろうか。変わったとして、どういう方向で? これが私から見ると、けっこう怪しい。それは次回に述べます。
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