由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

権力はどんな味がするか その6(Hide and seek)

2017年05月26日 | 倫理
メインテキスト:小浜逸郎『エロス身体論』(平凡社新書平成16年)


The Garden of Eden with the Fall of Man, 1615?, by Jan Brueghel the elder and Peter Paul Ruebens

 前回の記事について、小浜逸郎氏からフェイスブックのほうにコメントをいただき、何回か応答しているうちに、話題がエロス、の中でも性愛についてになった。その内容に関しては、私は、小浜氏がおっしゃることに反応して、思いついたことを勝手気ままにならべただけなので、ここで改めて取り上げるほどの値打ちはない。小浜氏のほうはけっこう面白かったそうで、その分だけはよかったと思っている。
 ただ、またしても個人的な事情ではあるのだが、小浜氏が旧著『エロス身体論』について触れられた時、私はその中身をすっかり忘れていたので、たいへん申し訳なく、また恥ずかしい思いをした。再読して、改めて言いたいことが出てきたら言います、と言い訳をして、読んだ。その結果わざわざ言わねばならぬほどの意義あることが私の貧弱な頭に浮かんだわけでもないが、日頃漠然と考え、当ブログに断続的に、漫然と書きつけていることに関連しそうなところはあった。小浜氏にはかえって迷惑かも知れないが、以下に、またしても勝手気ままにならべます。
 なお、以下では小浜氏は「著者」と表記し、他も敬称は略します。

 未読の人のために最初にお断りしておくのだが、本書は題名から邪推されるような、いわゆる一つのエロについて述べたものではない。人間は人間関係の網の目の中で否応なく「私」意識を持つようになるが、その「私」意識においてまた熾烈なまでに他者を求めずにはいられない、そのような本質を持つ。この本質を、情緒(≒エロス)と身体性をキー概念として解き明かそうとした人間論である。
 しかし私が以下で取り上げるのは、というよりはダシにして好き勝手なことを語ろうとするのは、そのうちのごく一部の、「いわゆる一つのエロ」に関わるところ、具体的には3章「性愛的身体」のみである。私のような凡夫には、そこが一番面白いという事実は、隠してもしょうがないので隠さない。
 で、そのエロとは、言うも野暮ながら、異性(とは限らないが、LGBTなどについてはここでは考察外とする)に対して抱く性的な関心のことである。男が女とヤリたいと感ずるあれだ(女のほうも男とヤリたいのだろうが、私は生まれてこのかた一度も女になったことがないので、実感としてよくわからない)。これには子孫を残すための生物の本能が(あるいはDNAの企みが)しからしめるのだ、という合理的な(か?)説明はすぐつくものの、それだけではどんな凡人の欲望をもカバーしきれない、複雑さと深さを持った問題である。
 聖書の「創世記」にある逸話はよく知られている。チリから作られた最初の人・アダムは、造物主たる神から、エデンの園にあるすべての木に生える実を思いのままに食べてよいが、知恵の木の実だけはいけない、と命じられる。しかし、蛇にそそのかさされた妻・イブにそそのかされて、この実を食べたために、夫婦とも裸でいることが恥ずかしくなり、木の葉を腰に巻いた。かくて人の祖先に知恵がついたことは神の知るところとなり、彼らは、子々孫々にわたる劫罰として、理想郷・エデンの園を逐われ、地上で、苦労しながら生きねばならなくなった。
 著者によるとこの説話は、人間が社会的な活動、すなわち最も広い意味での労働と、性愛生活との区別を学んだことを示している。なるほど、特に大勢が協力して仕事をしているときに、参加者が何人か、欲望の赴くままに勝手にセックスを始めて、持ち場を離れる、なんてことがたび重なったのでは、明らかに困る。人間には発情期がないので、なんの規制もなかったら、そういうことも起こり得るのだ。
 それは大きな要素に違いない。加えて、性器は排泄器官でもあるので、汚いし、また特に男性器は最大の急所になるので、特に直立歩行を始めてからは、むき出しにしていたのでは危ない、など、またしても「合理的な(か?)説明」は考えられはする。しかし、そんなのどーでもいい、ですよねえ。
 「隠すとは、同時にその隠された部分に特別の意味、際立った「しるし」をたがいに認めあうことである。これこそはとてもエロティックでわいせつなこと(すばらしいと同時にいやらしいこと)だ」(P.152~153)。それが問題なのだ。
 隠す、それによって強調する、こんな記号操作はたぶん人間しかやらない。その意味で、優れて人間的な、観念の領域の話である。全文化領域を覆う、とまでは言えなくても、至るところにそのヴァリエーションは見つかる。性器としてのセックスだけでなく、行為としてのセックスも隠すべきものとされ、事実隠される。いつでもどこでもやれるものではなく、しかるべき時と場所を選び、しかるべき手続きを経なければヤレない。結果、稀少性が生じるというだけでも、セックスの価値は高まる。
 そのために家庭(household)ができた、わけではないとしても、それに相応しい体制を理念型としている。著者は、人間は一人前になるまでに他に隔絶した長い期間を要する動物であるために、家族・家庭ができた、と以前から(『可能性としての家族』など)言っているし、それは全く正しいが、できあがった家庭・家族は他にも以下のような特性を持つ。【家族にもいろいろなヴァリエーションがあることはよく知られていますが、本稿では、私にとっても最も親しい、キリスト教・仏教・儒教圏に共通する一夫一婦制下での家族のみを考察の対象とします。】
(1)夫婦はセックスをしてもよいと社会的に公認された唯一のペアである。この結果、それ以外のカップルのセックスは、性規範がかなり緩んだ時と場所、例えば現代日本でさえ、いくらかは「背徳」の記号性を帯びる(だからこそより魅惑的にもなり得る)。
 さらに言うと、結婚していない、社会的には非公認のカップルでも、「彼氏・彼女」という固定した関係だと当人たちや周囲に認知されると、それ以外の異性とのセックスは非難に値することだと考えられる(「浮気」と呼ばれたりする)。(事実婚を除くと)子どもを作って育てる義務を予定しない、いいとこどりの疑似家族であっても、家族の規範意識(ある人間関係を正当とすることによって、他を不当とする)は働くのだし、働いて当然だと社会の大多数にみなされているからだろう。この規範意識はそれだけプリミティヴなのである。
(2)規範意識は家族内部で最も強く働く。おなじみのインセストタブー。法律というのは、侵犯する人間が社会に絶えず一定数存在することを前提として作られるのだが、近親姦は、事実としてどれくらいあるかはともかく、あると予想するのが既におぞましいので、通常法律で禁止されることはない。成長する過程でそれこそ自然に、心性にすり込まれ、それだけ最もプリミティヴに、人の世の秩序感覚を支えている。【家族に関しては本シリーズ「その5」で論じました。】
(3)上記いずれの場合でも、ヒトは家庭(か、それに代わる場所)で、特に性に関する規範意識・秩序感覚を学んで成長し、人間となる。
 別に、ヒトは人間となるためには、男/女の区分だけではなく、大人/子ども、また父・母・兄・姉・弟・妹などの区分のどこかに組み入れられ、その役割を引き受けることが要請される。役割とは、たとえ血縁関係という自然の事実に基づくとしても、相対的であり(ある男は両親に対して息子であり、子どもができれば父親になる。同時に、兄弟がいれば兄か弟になる)、それを場面に応じて「引き受ける」自分自身=主体が暗黙のうちに要請されている。
 場面に応じた役割・属性を引き受けて生きていくのは、家庭の外でも同じである(国民・地域住民・組織の一員、など)。役割を投げ捨てることもあるが、役割そのものを一度は理解しなければ、捨てることもできない。そのプリミティブな段階を家庭で学ぶのだ、とはそんなに簡単に言うことはできないかも知れない。しかし、そう考えていいようなところはたくさんある。
 今はそれ以上に次のことを重視したい。家庭内でも外でも、個人が人間関係上の役割を自由に変更することなどできない。しかし、役割を演じて、遊ぶことならできる。ごっこ遊び、典型的にはままごとを考えたらいい。幼い子どもたちが、ある特定の場所と時間、相互の約束で、お父さんやお母さん、息子や娘、になる。このような模倣・もどき、はそれ自体で面白いことは、アリストテレスが夙に指摘している(「詩学」)。
 なぜ面白いのか。たぶん、次のことに関連する。このような人間関係内の役割分担を「引き受ける」・「演じる」という意識を実感することで、「自由な主体」の観念が立ち上がる。
 もちろん、必ずしもままごとをやらなければならない、というわけではない。また、まず純粋な「主体」があって、それが家庭内外でなんらかの役割を引き受ける、と考えるとしたら、おそらく正確ではない。生まれたての赤ん坊は、生まれたての赤ん坊である以外のいかなる役割も引き受けられない。成長するにつれて、様々な役割を引き受けさせられる、その過程で、役割を「引き受けている」とみなし得るような「主体意識」が生じる、と言うほうが、正解に近い。
 いずれにしろ、ある「立場」を「役割」とみなし、それを「演じる」のだとみなす主体の意識は、きわめて観念的であり、人間的である。人間を考えるためには、この領域は決して外せないだろう。
 
 上記を踏まえた上で男女の性愛関係を考える。これは最も私的な領域だとされている。また、隠す・禁ずる、ことによって価値を高める、などという記号操作(明らかに意識的に行われているのは「手練手管」などと呼ばれる)がごく普通に行われる領域でもある。やっかいなことになりがちなのは当然であり、また現にしばしばやっかいなことになっている。
 ここでも、他の分野と同じく、男のほうが女より観念的だ、と考えられている。これまた女になったことがない立場からは確かなことは言えないが、たぶんそうなのだろう。著者は男女の身体性の違い、そこからくる関係性の違いから、これを説明している。それは本書を直接読んでいただくことにして、ここでは「男一般は女一般に、何を求めるか」について述べられたところを検討して、またまた勝手なことを述べよう。
 それは大別して二種ある、とされる。母性と娼婦性。それぞれについて与えられた定義を以下に掲げる。

母性→自分に深くかかわりがあって、しかも自分よりも弱いと感じられる存在を、愛する対象として保護し、包み込みたいと思う感情(P.173)

娼婦性→性的な欲望や女の美へのあこがれを抱きながらそこに倫理が入り込むのを避けたいとする男の欲求を了解しつつ、そのつど男を誘惑する力を示すおんな身体のあり方(P.178)

 少し戸惑うのは、女の側から見た記述になっているからだ。例えば、いわゆる母性本能なるものを、すべての女が生得的に持っているものかどうかはわからない。ただ、それをあってほしい・あるべき、とみなす男の期待感は、ある。そう読み替えるべきなのであろう。
 後の、「娼婦性」ほうから先に取り上げる。
 倫理という言葉が問題になるが、これはまた著者によって次のように定義されている。「人間が、他者とのあいだである行為をなしたとき、またはなそうと思ったとき、その行為を人生時間の「長さ」についての意識(これからもまだ生きていくという予期の意識)や、人間関係の広がりについての意識とのかかわりにおいて問題とする志」(P.181)。
 つまり、この場合には、女と「深い仲」になったとき生じると一般に考えられている男の「責任」のことだと思っていい。女が妊娠した場合は端的にそうだが、そうでなくても、素人さんとヤッてしまった場合には、その女の世話をする、少なくとも気にかける、ぐらいは全く当然ではないか、とみなされる。「カラダだけが目当てだったのね」と女に非難された経験のある男は、多いのではないかなあ。こりゃ、めんどくさい。
 だから娼婦性とは、そんなことをゴチャゴチャ言わずに、後先も考えずに、純粋にセックスだけを楽しませてくほしいという男の願望の投影なのである。これを実行した場合、金銭の授受が行われるのは、けっこう深い意味があると思う。セックスを中心にした男女の一夜が、その場限りのゲームであることをはっきりさせる、何よりのしるしになるからだ。
 【最近「わりきり」なる言葉を目にするようになったが、これは、女のほうも一夜限りの関係とわりきって、責任はもちろん金も関係なしでセックスを楽しもう、という意味ではないらしい。具体的には知らないが、ネット上の記事によると、出会い系で使われる「わりきり」とは、やっぱり女が金をもらって、身体的心理的に何が起ころうと、後の関係は切る、ということで、つまり売春と変わらない。男性諸君、あんまりムシのいい妄想に耽っていると、痛い目に合いますぞ。】

 さて、母性だが、こちらのほうが精神性・観念性に結びつく部分が大きいので、より突っ込んだ考察の対象にふさわしそうである。
 前出の定義で、「自分よりも弱いと感じられる存在」とあるのがまず注目される。戸惑いもまた、大部分ここから来る。母性なんだから、ある存在を「自分より弱いと感じ」るのは女であり、「存在」とは男、ということになる。
 普通逆ではないのか? 男とは、か弱い女・子どもを守るべき存在ではないのか?
 実際この定義は、最後の「包み込みたい」を除けば、父性・paternalismeのことを言っているのだとみなし得る。そしてそれはそれで、男の欲望のある面に繋がっている。
 本書では、男を惹きつける女性性には「少女性」もあるのではないかと知人から指摘され、「はっと胸を突かれる思いをした」が、その考察は後の機会にしたい、と注記されている(P.189~190)。
 著者に代わって、ではもちろんなく、私一個で、「少女性」の中身を簡単に考えると、主要なイメージは、①清純無垢、と②か弱さ、ということになろうかと思う。この二つはそのまま価値なのであって、「自分に深くかかわりがあ」るそのような存在は、男としては守らなければならない。守る者こそ、男の理想像たるヒーローだ。こう言うと、そんなの古い、と言われるかも知れないが、現在でも根強く残っており、さまざまなフィクションで活用されていることは、例示するまでもないだろう。
 同時に、①は、「隠す・禁ずる」の最も具体的な表象なので、男の欲望を刺激し、それを侵犯して汚す欲望ももたらす。ただし、そうしたからにはその責めを負わねばならない、とする感覚もあって、それがつまり前述の、ヤッてしまった男の責任だ、としても、当たらずといえどもそんなに遠くはない。
 すべてを通して、男は強くあらねばならない、という性規範が明瞭に認められる。しかし、このような規範がずっと存在し続けている事実そのものが、生身の男は弱いのだということを明かしてもいる。「弱いからこそ、強さの鎧を身につけなくてはならない」(P.176)宿命にある、それは、少しでも長く男と一緒にいた女は、みんな見抜いていることだろう。どんな英雄でも、家に帰ればただの息子か、夫なのだ。
 逆に、男はいつも、ただの息子・ただの夫、でいられる場所を求めている、とも言える。弱い男である自分をまるごと許して、包み込んでくれる場。身体としてその場所を提供すべき、とされるのが女。そんな都合のいいわけにはいかないわよ、と女のほうからは言われるだろうが、ともかく願望はある。

 ここまではいい。異論はない。著者が、男が女に母性と娼婦性の両方を求める、として、谷崎潤一郎「母を戀ふる記」を例に出しているところに、少し違和感を抱いた。
 この二つはかなり違うだろう、後者はヤラせてもらうことが最終目標になるが、前者はそんなものではおさまらない、だいたい次元が違うではないか、などと感じたのだ。母性を求める心性が、文字通りすっぽりと包み込まれること、つまり胎内回帰願望にまで至るものなら、単に体の一部のみが接合するセックスなどで解消されるはずはない、と言えるんじゃないか、と。
 だから谷崎が、夢の中で、醜く年老いた母を拒絶し、若く美しい女を母と認めるなんて、どうも不謹慎じゃないか、なんてガラにもなく感じたのだ。
 著者も、いわゆる性欲が根源的かつ第一次的なものではないとして、次のように述べている。

それは、かえって、第一次的欲求としての「個であることの不安」を乗り越える課題と、成人の生理的機能とが結合されるところに結果として成り立つ、一つの抽象的で部分的な欲求をあらわすのである。(P.151)

 胎内回帰願望は、「個であることの不安」を、「乗り越え」るのでなく、それ以前に戻ることで不安を解消しようとする、退廃的なものと言えそうである。だからダメなんだ、なんて言いたいわけではない。だいたい、言ってなくなるものではない。ただ、この事情から、こちらのほうが娼婦性よりはるかに、満たされ得ないものであることは明らかであると思う。
 ここにはまた、次のような問題も挙げられる。回答らしきものを思いつかないまま、無責任に書き留めておく。
(1)「個であることの不安」は、程度の差こそあれ、女でも感ずるだろう。ただ、成長するまでには、自分は子供を胎内に宿し、包み込むこともできる身体の持ち主であることは発見する。ここからくる、男とは全く違う心性は、どんなものか。
(2)母性が求められるのは、実際の母だけではなく、年上の女とも限らない。アンティゴネではその役割は、「妹」が背負っている。【因みに谷崎は、実際はいなかった「姉」に憧れていたことは、「母を戀ふる記」に書かれている。】これについては以前、「悲劇論ノート 第五回」で触れた。
(3)「抱く者」―「抱かれる者」の、「もどき」のヴァリエーションの一つに、マゾヒズムの支配―被支配関係があるのではないか、と最近思いついた。まあ、やっぱりただの思いつきなんですが。これについてはない頭をしぼって考えて、できれば次回述べたいです。
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