由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

SDGs教育の前に

2022年09月28日 | 教育
メインテキスト「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030」 アジェンダ(外務省仮訳、原文はなぜか現在ネット上では閲覧できない)

「勤務校でSDGs教育をやることになったんですけど」と知り合いの教師に言われた。「校長が研究指定校を引き受けてきちゃったから」と、半分愚痴のように。「SDGsって環境保護運動のことかと思っていたんですが、いくつかのネット記事を見たら、違うようですね」
 無理もない。環境省のHPにも、「17のゴールのうち、少なくとも13が直接的に環境に関連するものであり、残り4も間接的ではあるものの、環境に関連するものです」とある。しかし、多少こじつけ感がある。人間が大規模にやることなら、大なり小なり、環境に影響を与えないわけはないのだから。

 あらためて考えてみる。まずsustainable development goalsを「持続可能な開発目標」と訳すところからして少し妙だ。developmentを辞書で引けば、「発達」「発展」の意味のほうが前に出てくる。これは経済的な発展の話なのである。
 それが何より証拠に、標記アジェンダの最初には「このアジェンダは、人間、地球及び繁栄のための行動計画である」とあり、最初の目標(goal)は「あらゆる場所のあらゆる形態の貧困を終わらせる」だ。「あらゆる形態」とは、絶対的貧困と相対的貧困の両方を含む、ということ。
 絶対的貧困は世界銀行の定義では、1日1.9ドル未満(現在の円安の交換レートで280円ほど)で生活する人と定義されていて、2017年で全人口の9.2%、約7億人ほど。それ以後コロナのおかげでさらに1億5千万人ほど増加したようだ。
 その85%が南アジアとサブ・サハラアフリカ地域(スーダン+サハラ沙漠以南)の住民で占められている。日本もこれらの地域にはODAでかなりの援助はしている。しかしそれで「終わらせる」ことはできない。いや、援助にしても、元にそれだけのお金があればこそなのだから、これには経済発展が不可欠なことは誰にでもわかる。
 相対的貧困のほうは、定義自体が国によって違い、日本では厚生労働省によると可処分所得が世帯平均の半分以下を指す。2018年時点で15.8%約二千万人がこれに当るそうだ。しかしこの定義だと、所得で下位四分の一以下がそうだということだから、富裕層が増えただけでもその人数は増えてしまうし、日本全体が貧困化すれば減る。後者の場合は絶対的な貧困国への援助も少なくしなければならなくなる道理だ。
 この双方の貧困を2030年までにこのゼロにする、ということだが、一般庶民は何をしたらいいのか、見当もつかない。実は国連でも具体的な取り組みについては、既存の機関や各国に任せた形になっている。
 元教師からすると、SDGsって、なんだか文科省から降りてくる教育改革に似ているなあ、と思えてくる。「そうなったらいいな」と、誰もが言わずにはいられないような美しい文言が並んでいるが、いざそのための実行はと言うと、現場に丸投げ。失敗したときの責任もこっちに負わされる。まともにつきあってはいられない、という気分にどうしてもなってしまう。それはひとまず措いて。

 sustainableのほうが、経済発展に伴う害を除去しようということで、害の代表は、断然環境問題。そしてその中での第一のトピックスは最近では地球温暖化問題で決まり。
 これについては、SDGs以前からいろいろな方面で取り上げられていて、そのための教育実践もいくつかある。しかしこれを少し突っ込んで考えてみると、普通の教員なら教室内で取り上げるのはためらわれるような要素がすぐに見つかる。「総合的学習の時間」はまだあるので、取り上げてもいいが、その前に以下のことは頭に入れておいたほうがいい。
 SDGsではこれは7番目の目標として挙げられている。
「すべての人々の、安価かつ信頼できる持続可能な近代的エネルギーへのアクセスを確保する」
 近代的エネルギー、とは再生可能エネルギーのこと。ターゲット7の2には、「2030年までに、世界のエネルギーミックスにおける再生可能エネルギーの割合を大幅に拡大させる」とある。資源エネルギー庁によると、日本の2020年度の全電力中再エネの電源構成比は19.8%。昨年10月に閣議決定された第六次エネルギー基本計画では2030年までにこれを36~38%、つまり倍増することになっている。
 これより前にCO2など温室効果ガス排出量46%削減(2013年度比)も打ち出されている。その大前提である地球温暖化CO2犯人説にもいくつか疑問があるが、それはここでは措く。既にかなり知られている再エネの問題点を書いておく。
 電力は基本的に「蓄める」ことはできない。使うときに使う分を作るしかない。再エネとは自然の力を原動力にするということで、それが太陽光でも風でも水でも、季節により時刻により元の「力」が大きく違い、電力の安定供給を頼るのは無理。現在の技術では補助にしか使えない。
 福島の震災による原発事故(2011年)以降、太陽光発電によって作られた電力を、電力会社が固定価格で一定期間買い取るFIT制度のおかげで、全国で太陽光パネルを敷き詰めるいわゆるメガソーラー事業が展開された。需要と関係なく、つまりどれくらい売れるかには関係なく買ってもらえるのだから、これはおいしい商売だ、と見える。因みに、そのためのお金は我々一般の消費者が毎月払う電気料に上乗せされている。
 メガソーラーで原発一基分の電力を生産するためには、山手線円内の面積が必要とされる。その敷地は山の、主に斜面の木を伐採して用意する。この点では立派な環境破戒である。それで発電がうまくいかなかった場合や、災害で損傷を受けた場合のパネル群の処理は現在大きな問題になりつつある。

第14回新エネルギー発電設備事故対応・構造強度WG資料より

 それで肝腎の電力の需要を満たす役には立ったのか? 全然立たなかったとは言えないことは、前述の数値からも見て取れる。しかし、今年の六月、政府が節電を呼びかけたことは、とても十分とは言えない何よりの証拠だ。停止していた火力発電所を復活させるなどして、なんとか切り抜けたが、今後もそうだとすると、火力発電所の老朽化に伴う危険もあるが、何しろCO2削減目標から遠のく。
 そこで岸田首相は、原発推進に舵をきった。今のところは、震災後の厳しい審査基準をパスした七基の再稼働を改めて認めた、というだけだが、将来は新原発の建設まで含めた大規模な原子力発電事業の展開も発表されている。
 そうせざるを得ない。経済的な発展を続けつつ、環境にも配慮しようというなら、温室効果ガスは出さない原発に頼る以上に有効な手段は、今のところないようだから。とはいえもちろん、一度事故になったらとんでもないことになる、そのリスクはある。現に前述の七基からして、地元の合意はまだ得られていない。

 根本的に、経済発展と環境保全を含めた人間社会の安全は本当に成り立つのだろうか。私は、①人類がこれまで獲得した科学技術を放棄したことはない②科学技術によってもたらされた害悪は科学技術によって解決することは可能、の二つの理由から、今後も科学の発展に期待する者だ。
 もちろん異論はあってよい。しかし、「皆で貧乏になろう」みたいなのはどんな状態になるのか、ちゃんとした考えも覚悟もないような言論は端的にダメだと思う。
 斉藤幸平『人新世の「資本論」』(2020年)では、人間が現在の「豊かな生活」を諦めない限り、地球環境の破滅的な悪化は止められない、SDGsなどは、本当の危機から人々の目を逸らし、免罪符と安心感を与える麻薬に過ぎない、としている。これがベストセラーになったということは、社会の一定程度の共感を勝ち得たのだろう。豊かさに対する根源的な罪悪感は、どういうものか、人類になかなかに根強いものがある。しかし少なくとも私は、資本主義を超える、社会主義などのシステムが、まだ一度も成功していない現状では、予言者の煽る危機意識に基づく未来図に賛成する気にはなれない。

 もう一つ、これもSDGs以前からたびたび取り上げられているジェンダー問題がある。
 目標5「ジェンダー平等を達成し、すべての女性及び女児のエンパワーメントを行う」
 直接には、主に開発途上国での女性差別、つまり、女性には教育の機会が奪われてたり、服装や行動に強い制限がかかったり、早い年齢での強制結婚、などなどの解消を目指したものだ。先進国の人権意識からすれば、ひどい状態だと言わざるを得ないものをなくそうというのだから、文句なくいいことと言えそうだが、実行上は、宗教が絡んでいるので少々、ではなくて、かなりやっかいではあるだろう。
 一方、日本のような先進国でこれを適応しようとすると、しばしばいわゆる牛刀割鶏の様相になる。フェミニスト、の中でもツイッターで活動している通称「ツイフェミ」さんたちが、ミスコンは性的搾取だとかなんとか言っているような、及び、最近何かと話題になるLGBTQなどはこの際棚上げにするとして。

オンワードによるジェンダーフリーファッション

 このゴールに連動する形で、ジェンダー・フリー教育に取り組んでいる学校の例がTVで紹介されていたのをたまたま見たことがある。例えば、「夫は外で仕事を、妻は家事と育児をする」などの性による役割分担は差別であり、そのような偏見(pre+judice先行する判断)はなくすべきだ」とか。この偏見というか社会通念がまだ日本社会にあることは否定しない。
 これはどう思うか、と抽象的に訊かれたら、「良くないと思う」という人が、男女ともに、中でも女性の中に、多いだろうと予想される。続けて、「女性がより活躍できる社会になるほうがよいと思うか」と言われても、同じこと。因みに、私もその多数派の一人だ。抽象のレベルでは。
 しかし問題は、これによって現に不便・不自由を感じている人がどれくらいいるかなのだ。対価としてお金をもらういわゆる労働ではなく、家事・育児に従事したほうがいいと思っている女性にとっては、土台問題にならない。現在女性が家庭外で働くこと自体が白眼視されることはまずない。いわゆる家庭と仕事の両立に苦しんでいる女性ならたくさんいると思うが、それは個別具体的な家庭や職場の問題なのだから、そこで解決が図られるべきことであって、一般的な社会問題とすべきではないし、しても問題解決の役には立たない。
 社会問題とすべきなのは、しかるべき能力も意欲もあるのに、性別が理由である立場になれなかったり、なっても仕事をする上で障害が出てくる場合である。これも現代日本でなくはないだろう。しかし「女性一般が職場で不当に扱われている」と言うからには、もっと様々な要因に目を配らなければならない。
 平成になってから政府が目標として掲げてきた「202030」というのがある。2020年までに女性の管理職を30%以上にしようとする計画だが、みごとに失敗した。2019年度で管理的立場の女性従業員の割合は14.8%。このため政府は、SDGsに合わせたものかは不明だが、目標達成時期を2030年に延ばした。
 なぜこの計画が進まないのか? 個々の職場に固有の事情があるだろう。そこを敢えて一般化して、「まだまだ男性社会である企業で女性が指導力を発揮するのは難しいのだ」とよく言われる。そういうこともあるだろう。またしても、抽象のレベルでは。
 少しは具体的に、女性の中でどれくらいの人が現に管理職に就きたがっているのか、も考えた方がいい。2020年にソニー生命が行ったアンケート調査では、「管理職への打診があったら?」の設問に「受けてみたい」と回答したのは働く女性の2割未満だった。管理職になりたくない理由トップ2は、「責任が重くなるから」「ストレスが増えそうだから」。ここから言えるのは、誰もが機会がありさえすれば、社会で華々しく活躍したいと考えているわけではない、ということだ。
 僭越ながら、この気持ちはよくわかる。男性である私もそうで、出世などより自分の時間が持てるほうがありがたい、とずっと思ってきた。実際に出世しなかったのは、無能力のせいだから問題外ではあるが、能力があるからと言って、必ず出世競争に参加しなければならないものか。それは「価値の多様化」に反するのではないだろうか。少なくとも、このような意識を無視して、数値目標を掲げた「改革」がうまくいくものか、そもそもいいものなのかどうか、一度は考える必要があるのではないだろうか。

 以上のような話をかいつまんで知り合いの現職教師にしたら、「やっぱりあなたにこんなことを訊くんではなかった。そんなことを意識していたら、研究授業がやりにくくなるばっかりだから、忘れます」とは、口では言わなかったが、顔にはそう書いてあった。もっともだと思う。
コメント (4)
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