由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

そろそろいじめへの本格的な対策を その1

2012年07月27日 | 教育
メインテキスト:小寺やす子文・野口よしみ絵『いじめ撃退マニュアル だれも書かなかった(学校交渉法)』(情報センター出版局平成6年)

 報道によると、文科省がいじめ対策のための新組織を設置することに決めたそうだ。これまで文科省は、いじめ事件が大きく報道されると、「通達」という紙切れを学校に配布して終わりだったのだから、この点で一歩前進としてよいだろうか。平野文科大臣は、「報告を受け、『後は現場でやってください』という受け身ではなく、実働部隊、支援チームを文科省の中に作る」(『讀賣新聞』7月23日)と言っているそうだから、思わず期待しそうになるが、果たしてどうか。
 記事には、この新組織は、「いじめに関する専門的な指導・助言を行う」ものだともある。文科省としては、これがせいぜいだろうと思えてしまう。だとすると、余計なものになる可能性が高い。
 指導・助言もけっこうだが、「命の大切さ」だの「心のケア」なんて一般論をいくら言われたってしょうがない。今必要なのは、個々のいじめ事案に対して具体的に取り組むための人員なのだ。さらに言えば、彼らは、学校や各教育委員会の、この場合の問題解決能力なんてたかが知れていることはもうはっきりしたのだから、必要があるなら、いじめ当事者(加害者と被害者双方)と直接接触して、解決を図ることができたほうがよい。それを一省中の一部署にすべて集めるなんて、できない話だろう。最低限でも、都道府県毎に「新組織」が置かれねばならない、とまず思う。
 それから、いじめの専門家、というものがこの世にいるのだろうか? いわゆる教育学の範囲では、この言葉さえ登場しない。発達心理学も同様。そんな「学」の範囲内にあることではないのである。ここを思い違いしてもらっては困る。
 我々が今緊急に取り組まねばならないいじめ問題とは、加害者と被害者がいるれっきとした刑事事件なのだ。それに関して、学校一般の解決能力が乏しいのは、実は、単純に当たり前の話でしかない。「学校のリアルに応じて その4」で書いたように、日本で支配的な教育学では、子どもは「善なるもの」とみなされている。刑事事件の被疑者のように扱うことは、表向き許されていない、どころか、そういう事態は想定されてもない。だから、教師は、その手段を与えられてもいないし、そういう場合に必要な訓練を受けてもいない。
 これまでよく出あった反論に答えよう。「でも、いじめを解決できる先生だっているんですよ」。はい、いるんでしょう。でも、百万人からいる教師の全員に出来るわけはないですよね? もしそうなら、今のような問題は起きていないんですから。
 それは教師が手抜きをしているからだ、というのが一般の見方のようである。そういう場合もあるだろう。今後の話をすすめるためにも特筆大書きしておかねばならないのだが、教師は教室内の秩序を維持する第一の責任者なのであり、どういう場合でも責任を逃れられるはずはない。それは認めたうえで、しかし教師がどんなにがんばっても、限界はもう見えている、と言っているのだ。今なお、教師を非難して溜飲を下げるだけで能事足れり、とするのは、結局いじめには直接関係ない人であって、いじめの被害者にとっては、事態が少しもよくならないとしたら、なんにもならないのだから、他の手段が考えられるべきなのである。
 「そんなことはないだろう」とおっしゃるなら、こちらからたずねよう。あなたの知人間で争いが生じたとする。あなたが仲介に入って、どんな時でも必ず解決できると言い切れますか? 言い切れる、という人でも、それができる人はそんなに多くはないことには同意していただけるんじゃないですか?
 さらに、大人同士の争いなら仕方ないが、子ども同士ならなんとかやれるだろう、とおっしゃる方。あなたは結局子どもをナメてるんです。これ以上私から申し上げられる言葉はありません。
 いや、もう一つあった。「教育」の範囲で、いじめをやめさせることが絶対不可能だとまでは申しません。でも、まさか、いじめている子を指導して、必ず、明日から、やめさせられるとまでは思わないでしょうね? ねばり強い説得が必要だ。それはどれくらいかかりますか? 1ヶ月? 半年? いくらかかろうと、やれ、それが教師の務めだろう、ということは甘受しましょう。でも、教師はいいとして、その1ヶ月だか半年の間、いじめられている子は我慢しなくちゃいけないんですか? そんな義理がどこにあります?
 要するに、不当にいじめられている子は、一刻も早く救済しなくてはならない。それがすべてに優先する。そのためには、「教育」では、少なくとも「教育」だけでは、ダメなのだ。そろそろこれぐらいは、この国に住むすべての人の共通認識にならなくちゃいけないんじゃないかなあ。

 上のことを念頭に置いた場合、いじめについて本当に役に立つ本は、管見の限りでは小寺やす子のものしかない。とうに絶版だが、アマゾンなどで古本を注文すれば手に入る。我が子がいじめにあって苦しんでいる父母の方に勧めるものとしては、これ以上はない。
 いじめにどう対処するか。これはもう戦いになる。どう戦うか? 日本は法治国家なのだから、法(的なものを含む)を使うに如くはない。そのためには、
(1)いじめの証拠になるものは、保存しておく。破られた衣服やノートなどの現物、怪我をさせられた場合には診断書、机や黒板に悪口を書かれたような場合には写真を撮っておく。言葉によるいじめの場合には、ICレコーダーに録音するのもよい。
(2)いじめに関する詳細な記録をつける。何月何日、何時頃に、どういういじめがあったか。日時は重要なポイントになるので、忘れずに。
 記録について、もっと重要な注意もある。いじめられてどんなに悔しかったか、などのウラミツラミは書かないこと。そういうのは他人にとってはただの愚痴。うるさいだけ。必要なのはただ「事実」のみ。
 要するに、裁判になっても十分に使えるものを用意しておけ、ということである。しかし小寺は、裁判にせよ、と言っているわけではない。よく知られているように、それには金も手間も膨大にかかる。これだけのものを用意して、まず交渉すべき相手は、学校の担任教師。それで埒が開かなければ学年主任。さらには教頭・校長などの管理職。さらには教育委員会、までは小寺の視野に入っている。それで、「学校交渉術」なのだ。もちろん、そこまでいってもまだダメなら、いよいよ出るところへ出るぞ、というカードを用意した上での交渉であり、そのためにも上記の二つが使える。ただ、出るところへ出ないですむなら、それにこしたことはない、とは明らかに考えられている。

 やや私事に渉るが、私はほんの少し小寺さんと議論したことがある。『いじめ撃退マニュアル』が出た年だから、もう十八年前になる。小寺さんはその二年前に出た拙著『学校はいかに語られたか』を読んでくださっていて、また私が御著に好意を持っていることを聞き及んで、夜中に電話をくれたのだ。「あなた(由紀)はもうちょっと読みやすさと、読者サービスを考えたほうがいいわね。そうすればもっと本が売れるわよ」などのアドバイスをいただき、ありがたかったのだが、一時間近く話をしているうちに、「いじめに関して、教師に何ができるか」のポイントにさしかかったところで、対立が生じた。
 私の意見は、その当時も上に述べたようなものだった。小寺さんは、「私の夫は博士です。教師にもプロの技(わざ)を見せてもらえなくちゃ困りますよ」。
 う~ん、小寺さんのご夫君が何博士なのかは存じ上げないが、ある種のいじめを解決するってのは、ある種の博士になるよりずっと難しいんですが…。
 ただ、小寺さんがこうおっしゃる気持ちもわからないではない。証拠がそろっていれば、侮辱罪、傷害罪、などで警察に訴えることはできる。しかし、相手が子どもなのでは、なまなかなことでは警察もはかばかしく動かないだろうと予想されるし、前に言ったように、裁判にするのはたいへんだ。現在大津市の事件で現にそうなっているように、加害者側の親と直接争うのも好ましくない。親ならば、子どものためにかなりのムチャクチャなことをやっても言っても、しかたないと同情される、あるいは、されるはずだという思い込みが、日本社会にあるから、泥沼のような争いが延々と続くことになりがちである。
 この点、学校を相手にしたほうがずっとすっきりしている。何しろ、教師は、いかなる反論も許されない、あるいは、許されないはずだという思い込みもある。まず、いじめが生じたということ自体が教師の手落ちだ。そのいじめに気がつかなかったとすればするで、気がついていても解決できなかったとすればするで、やっぱり重大な手落ちとして非難される。そして、どういう非難でも、正当だと見なされがちなのだ。
 敢えて言う。こんなことなら、いじめはできるだけないことにしたい、隠したい、という気持ちになるのは、平凡な人間としては無理からぬところではないだろうか。そういう同情もいっさいしてもらえない立場の者は、ひたすらいじけるしかないのではないか。そう、いじめられっ子がそうなりがちなように。このへんまで想像力を働かせてください、というのは、学校外の人には無理な注文だろうか?
 まあ、いい。小寺さんは御自身の体験から本を書いたので、学校と交渉するだけで、なんとかいじめを解消できた、そういう実績はある。校長以下の教師集団が本気になって取り組めば、かなりのことができる。再び言うが、それは否定しない。しかし、百パーセントと思ってはならない、と申し上げている。

 いじめをやめさせるために、学校はいったいどれくらいのことができるのか。教師には懲戒権はある。具体的な内容はどんなものか、文科省が出したガイドライン中最新のものとしては平成十九年の「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」があるので、ご覧いただきたい。
 体罰に関しては、従来よりはやや緩やかになり、有形力(暴力及びそれに近い行為を指す法律用語)はどんなものでも許されない、とはされないが、殴るなど、生徒に明白な肉体的な苦痛を与えるものはダメ、というのは変わらない。それ以外だと、別紙の(5)に書いてあるもの。これを見て、どう思いますか? 
 例えば、「放課後等に教室に残留させる」。いわゆる居残りですな。学生時分、これをくらった、という人は多いだろう。それで、尋ねたいのですが、先生から、「今日の放課後、教室へ残りなさい」と言われても、「塾がありますから」とかなんとか言って、あるいは、何も言わないで、帰ってしまった場合、どうなると思いますか?
 どうにもなりはしない。本当ですよ。教師にできることは、せいぜい、親に電話して、「こういうことでは困りますから、ちゃんと言われたとおりにするように、~君に言っていただけませんか」などと告げるぐらい。その時、親から、「居残りなんて、なんでさせるんですか。必要ないじゃないですか」とか、「すみません、私が言ってもあの子はききませんから」とか言われたら、もう手段はない。これは、話のうえのことではない。今の学校で実際に起こっていることなのです。これが最前から申し上げている、「学校の限界」なんです。
 関連して申し上げておく。以前にも言及した「少年犯罪データベース」などを見れば明らかなように、昔に比べて今のほうが、いじめの件数が増えたとか、手口が陰湿化している、というようなことは特にない。時代による変化は、「いじめをちゃんと解決しろ」と公然と要求する人が増えたことと、しかし特に義務教育段階の学校は、児童に対する権力はほとんどない、その認識が、直接的間接的に世間に広まり、やがて児童にも広まったところこそ、最も大きいのである。
 こんなていたらくで、いじめを必ず解決できる、なんてわけないでしょう? さればとて、実際的な権力、例えば、こんな生徒にはすぐに出席停止を命じることができるまでの権限を、教師に持たせてもいいでしょうか? 私の感じでは、それに賛成する人はそんなに多くはないようだ。それなら、残る手段は、いじめなどについては専一に取り扱うための機関を、学校外に設けることしかない。
 それについて、ヒントは夏木智からもらったのだが、その後私が考えてきた具体案を略述しよう。この機関は、捜査の権限は持たなければならない。が、もちろん警察とは違う。いじめに限定して言えば、学校だけで解決できるのと、司法に訴えるのと、その中間の役割を果たす。被害者から訴えがあり、学校だけではどうにもならないと判断されたときには、事実関係をできるだけ詳細に調べて、教育委員会へ報告する。報告を見て、必要なら、実際に処分をくだすのは、現行では教育委員会しかない。早い話が、義務教育年限中の児童生徒への処分として最高のものは、上に述べた出席停止がある(高等学校の謹慎処分だと考えてよい)が、これを申し渡せるのは、学校長ではなく(高校の謹慎処分は学校長が決定できる)教育委員会である。これについては「学校のリアルに応じて その5」で詳述した。
 つけ加えると、これも最近のニュースで、大阪府教育委員会が「いじめを繰り返す児童・生徒に対し、出席停止制度の積極適用を検討していることが19日、分かった」(『MSN産経ニュース』7月20日)というのがあった。わざわざ検討しなければならないぐらい、この適応例は、少なくとも公にされているものは、全国的に少ない。「文部科学省によると、平成22年度は、小学校での適用例はなく、中学校は51件。教師への暴力や授業妨害への適用が大半で、いじめが理由だったのは6件」。因みに、大阪府では近年一例もない。
 前述の「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」には、「いじめや暴力行為など問題行動を繰り返す児童生徒に対し、正常な教育環境を回復するため必要と認める場合には、市町村教育委員会は、出席停止制度の措置を採ることをためらわずに検討する」とあるのだが、しかし、実際に検討して、実行して、それが問題にされたら、文科省が味方してくれるかどうか、極めて怪しい。だから、ためらう教育委員会が多いとしても、文科省にはこの点では責める資格はない。
 思い切ってこれをやれば、いじめが根絶できるとまでは言わない。しかし、「いじめではなく、ただのふざけっこ」と加害者側の親が言うのが珍しくない事態では、ものものしく調べるだけでも、いかに重大な問題であるか、内外に知らせる効果はある。また、加害者側にとっても、裁判になって、マスコミに騒がれ、家族ぐるみ実名・住所・写真までネット上に公開されるような最近の「制裁」を受けるよりはまだマシだろうと考えられる。
 今まで教育委員会がなかなか出席停止処分にまで踏み切れなかったもう一つの理由は、事実関係の調査が、学校だけでは難しかったこともある。だからこそ、調査のための専門機関が必要なのである。調査対象は生徒だけではなく、問題のある教師も入る(その処分もまた、教育委員会の管轄)としたら、より広い支持を得られるのではないだろうか。
 ただし、そもそもの大前提として、こういうことがうまく運ぶためには、現行の教育委員会ではとうていダメじゃないか、何しろ、通常は月に二、三度集まるぐらいの、教育行政のお飾りである場合が大半なのだから、と、事情に通じている人ならすぐに思いつくだろう。さよう、まず、教育委員会の改革から始めなければならないので、実現までにかなりの手間だが、考えるべき値打ちはある。

 いじめがマスコミで話題になっているときに限ってもの申すのは、教師としてはむしろ謹むべきかとも思ったが、言論を出すタイミングは確かにある。微力はもとより承知の上で、一人でも多くの人に読んでもらい、考えてもらうほうがいいに決まっているのだから。
 今後は、文科省内の「新組織」の具体案が八月には出る予定らしいので、それを見て、言うべきことがあったら、申します。
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男はいらんかね

2012年07月11日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
メインワークス:平山秀幸監督「愛を乞うひと」(平成8年)
        成島出監督「八日目の蝉」(平成23年)

 母性神話は、最も強力に人類の文化を支えている要素の一つだろう。しばらく前には「子どもを産まない女の生き方」を商品化しようとする動きも多少あったような気がするが、「少子化」が一大問題とされるようになってから、それも消えた。だからといって、若い夫婦が子作りに励むようになったという明らかな証拠まではないけれど、「産まない」選択をすることは、女性にとってたいへんなプレッシャーになるとは実感されているようだ。
 これは理不尽だ、と思う女性がいても不思議ではない。人は社会の中で、「自然に」何かになったりできる者ではない。母親も、それ以前に女そのものも、生まれてから「なる」ものだ。それなのに、母親にならなかった場合には、一方的に、まるで女失格のように見られたり言われたりしてよいものなのか? あまり目立つとは言えないが、ここからくる葛藤は、フェミニズム以前から、いくつかの文学的な作品にも垣間見えている。
 ただし、文学関係で母子関係というと、すぐにかのエディプス・コンプレックスが思い浮かぶだろう。「母を犯したい」という欲望がそれほど普遍的なものかどうか、私自身は疑っているけれど、誰からであれ、「母」が性欲の対象と見られるのは、それだけでもけっこうスキャンダラスだとされがちなのはわかる。もちろん、少なくとも一度は「性」の段階を経なければ、女は母にはなれない。そしてそのことは、少なくとも子どもの目からは隠すべきものとされている。
 例えばハムレットは、かなりのマザコン男で、母が父以外の男のモノとなったことをさんざんに罵る。そして母もまた、その非難を受け入れて、後悔するようなそぶりは見せる。女が、夫の死後に再婚するのは、当時も今も一般に不道徳とはされていないにもかかわらず、母である以上、こんな「義務」までなんとなく背負わされてしまう。
 また、キリスト教で、処女のままイエスを産んだとされているマリアが崇拝の対象になってきた事実も、「母」から「性」(セックス)を引き離そうとする感情がいかに広く深く行き渡っているかを証すだろう。換言すると、母体であるユダヤ教からして非常に父性的であるキリスト教が、世界宗教へと発展していくためには、なんらかの形で母性を取り込む必要があり、そのためにマリア伝説は好都合であったのだ。
     
 もう少し別の角度から考えるために、エディプス関係から外れているはずの、母娘関係を例にしてみたい。といっても、これを主軸にした作品は、無知のせいか、あんまり思い浮かばないのだが。
 古い映画だと、たまたま同じ1960(昭和三十五)年に製作された、ヴィットリオ・デ・シーカ監督「ふたりの女」と小津安二郎監督「秋日和」ぐらいか。この二作品の母(ソフィア・ローレン/原節子)はともに寡婦で、しかも美貌であるために、男たちの欲望の対象にされる。前者はイタリアの、第二次世界大戦の敗戦前後を舞台にしているため、あからさまに、後者は小津作品なので、礼儀正しく。どちらの場合も、娘(エレオノラ・ブラウン/司葉子)はこれに対して、けっこう厳しい。母には、自分のお手本になってくれることを当然のこととして求める。自分もまた、男の欲望の対象になる身体を持っていることを自覚すれば、なおさら、そうなる。そのときの母の側の惑い。両作品はこれを主要なモチーフとして展開する。
 つまり、これまた旧来の母性神話の枠内にある。母が母性以外の意味で「女」であることには、子どもの立場からは反感が持たれる。子どもが男であっても女であっても。理不尽だ、と言ってみてもそれだけでは解消できないぐらい、その根は深いのである。
 もっと別の形のものはないのか、と思ったら、最近の日本映画にそういう作品があった。これも、女性の自由度が高まったためだろうか。

 標記の二作品には共通したプロットがある。両作の「母」とも、非難が少しも理不尽ではないような者だ。しかし、そのことの本当の意味は何か? 成長した娘が探る。この探索と発見の物語が全体の大枠を作っている。そこで映画は、現在の娘と、過去の母を交差させる形で進む。
 「愛を乞うひと」の母(原田美枝子)は暴力的で、娘(成長してからは原田が一人二役で演じる)にひどい虐待を繰り返す。なぜか? 娘はかつて父(中井貴一)の手で母から引き離され、父の死後は孤児院に預けられていた。それを、他の男と同棲だか再婚だかしていた母がわざわざ引き取った。それなのに、まるで憎んでいるとしか思えない暴行の嵐。娘はあるとき、「私が可愛いからひきとったんでしょう?」と精一杯の抗議をしてみる。母の答えは、「お前なんか産みたくなかったんだ。お前は強姦されてできた子だ」。
 後に「強姦されて」云々は嘘であると判明する。それ以外の理由として、母の口からは、「子どもが施設にいたんじゃみっともない」と漏らされることもあるが、信用できない。世間体なんかそんなに気にする女とは思えない。娘が働けるようになってからは、その給料を巻き上げるが、最初からそれが目当てで、十歳の娘を引き取ったというのも無理がある。そんなに「計画性」がある女とも思えない。
 この母もまた、その親から虐待されていたのではないか、とは父の知り合いの婦人(熊谷真実)の推測だが、父と知り合う以前の母については、描かれることも語られることもないから、これは仮定にとどまる。
 これが語られる会食の場面には、もっと重要な話がある。父と母の関係が詳しくわかるのだ。終戦直後、台湾人である父は、宿無しの母が、ゆきずりの男に強姦されたところに行き合わせて、知り合う。父はやさしく彼女を包み込み、やがて愛情が芽生えて、結婚する。しかし妊娠すると、彼女はなぜか、捨てられるのではないかと脅える。出産後まもなく父は肺病にかかり、死期が近いことを悟る。虐待はもう始まっていた。そこで前述のように、彼は幼い娘を連れて、母と別れる。
 これが重要なキーであることは、そもそも映画の冒頭に、雨の中、娘の手を引いて歩み去る父と、悪態をつき、よろめきながらそれを追いかける母の姿が置かれていることでもわかる。すると、こういう推測が成り立つ。父は、母が愛したたった一人の男だった。そして、母を捨てたたった一人の男でもあった。それ以外にはいつも、母のほうで男を捨ててきたのだ。そこからくる強い愛憎の感情を、母は忘れ形見の娘にぶつけた。
 以上はセリフで語られることは一切ない。それはこの映画の優れたところだとしてよいと思う。この推測が正しければ正しいで、間違っていれば間違っていたで、強く印象づけられるのは、人間の愛憎の手に負えない不条理さだろう。母性もまた、その例外ではあり得ない。つまり、理不尽なのは女性が置かれた立場とばかりは言えないのである。

 「八日目の蝉」は、生後四ヶ月から四歳までの四年半、誘拐犯の女に育てられた娘の話である。
 誘拐犯(永作博美)を「母」として記述すると、彼女は妻帯者の男(田中哲司)との不倫で、妊娠するが、「まだ妻とは離婚できる段階ではない」と言われ、堕胎して、それが基で子どもが産めない体になってしまう。男が離婚して彼女と結婚するわけはないことは、彼の妻(森口瑤子)が妊娠したことで確定的になる。浮気を嗅ぎつけた妻からは、「(子どもが産めない)あんたは空っぽのがらんどうよ」と罵られる。絶望にかられた「母」は、夫婦の留守宅に入り込み、残された赤ん坊を見る。一目見ればすべてあきらめられると思ったのだが、産まれる前に失われたわが子が念頭に浮かんできて、衝動的に赤ん坊をさらう。その後は、各地を転々としながら、警察に捕まるまで、自分の子として、わが子につけるつもりだった名前で呼びつつ、慈しみ育てる。
 娘は、実家にもどされてからも、最初は実の父母を「知らないおじさんとおばさん」だとしか思えず、「母」のところへもどろうとして、家出したりする。やがてそれなりに事情が飲み込めた後も、ちょっとしたときに「母」の影が滲み出てきて、実母を苛立たせる。
 これ以上の不条理はないだろう。本当は、「母」から娘を取り戻すべく奮闘する実母こそ、ヒロインとして描かれるべきだったのではないか。現に冒頭は、実母が裁判でその不条理を訴えるところから始まっている。しかし、その後の映画の半分は、「母」と娘の「愛の逃避行」の描写で占められる。そこで一番強い訴求力があるのは、憂いに満ちた永作博美の可憐な容姿だと個人的には思うが、ともかくこれを見た観客は、彼らの幸せな生活が一日でも長く続くことを願うように導かれる。不条理の上塗りである。この束の間の幸福のために実の両親が払わされた代価が、償われることはついにない。
 やがて成長した娘(井上真央)は、「母」と同様に不倫の子を孕む。そして、「逃避行」のとき出会っていた女(小池栄子)に導かれて、思い出の地を歴訪し、「母」の深い愛情を改めて見出し、自分は一人で、今お腹にいる子どもを育てることを決意する。ここで映画は終わる。母性が勝利したわけだ。それも、男を可能な限り遠ざけた形で。
 角田光代の原作小説からして、男性排除の志向があることは見やすい。何より、女だけの宗教団体らしきエンゼル・ホームなるものが登場する。映画では、逃避行の最初の場所として選ばれるのがここである。様々な理由で社会にいられなくなった女たちの駆け込み寺的な性格もあるので、イエスの箱舟を連想させるが、全体としてはジェンダーからの解放を目指しているらしい以外、よくわからない。原作では、娘が後で新聞・雑誌記事などで調べたこととして、創設から消滅までの簡単な説明はあるが、映画ではそれもない。こういった団体の全体像を描くとしたら、それだけで、小説「八日目の蝉」よりずっと分厚い本になりそうだから、しかたのないことではある。しかし、中途半端に出てくるので、未消化感は残ってしまう。
 それより、映画にはもっとずっと強烈なシーンが二つある。娘の家庭は、この出来事と、それがマスコミの好奇の目にさらされたために、離散はしないが内面的にはバラバラになり、十年以上たっても修復されない。改めて、不条理極まりない話である。娘は大学入学を期に、実母の反対を押し切って一人暮らしを始める。実父は仕事を転々としつつ、実母にはないしょで娘に小遣いを与える。最初のほうのシーンで、娘はこれを断る。「父親らしいことはしないで。似合わないから」。
 もう一つは、娘が不倫相手(劇団ひとり)に別れを告げる場面。彼も、実父と全く同じ種類の男であり、このままでは娘も「母」のような道を歩かされることははっきりしている。で、「もう会いません」と言うのだが、ここは井上真央一人のアップとなり、それを聞いた男のほうの反応は一切描かれない。愛していたはずなのに、最初から全く問題にする値打ちもなかった存在であったかのよう。これはめったにない、大胆な手法である。
 こうしてこの映画からは「父」は二重に追放される。残るのは、聖母マリアに近い純粋な母性のみ。一見「無償の愛」に見えるので、感動的だ。しかし、実際は有償であったことは、上で見た通り。

 もう一つの作品には、これほど露骨な表現はないが、やはり父の影は薄い。
 娘の旅は、直接には父の遺骨をさがすためのものだ。それがほとんどただちに、より強力な人物だった母に向き合うためのものにすり代わる。前述の私の推測が正しいとして、問題になっているのは父の存在ではなく、父の不在なのだ。娘は女だというせいもあって、どうあっても父の代わりにはなれない。母を苛立たせるものとしては、おそらくこれ以上はない。
 また、この娘・照恵には、今は高校生になる娘・深草(みぐさ・野波麻帆)がいるのだが、母子家庭である。深草の父親はどうしたのか、全然わからない(下田治美の原作では、交通事故で亡くなったことになっている)。話題になるのも一度だけ、プロポーズの模様を、のろけのように深草に告げるとき。深草の漕ぐ自転車の後に横座りで乗って、深草に抱きつきながら。このときの原田美枝子は、母・信子を演じるときとはうってかわった可愛らしさを存分に見せていて、よいのだが、話の内容は凡庸なホーム・ドラマに過ぎない。
 それはいいとしても、このとき照恵は夫を「あの人」と呼ぶ。「あの人ったらね~」という調子で。娘に父親について話すときに、「あの人」と呼ぶ母がどれくらいいるものか。いなくはないだろう。しかしここでは、照恵は、かつての夫について語るのであって、それが今現に密着している深草の父であることは、度外視されている。計算づくでそうした、というより、彼はそういうふうに扱われるのが相応しいのだ。より正確に言うと、「父」はそう扱われるのが相応しいように作られた映画なのだ。
 つまり、「愛を乞うひと」の父たちは、「八日目の蝉」のよりずっと優しく、責任感もあるのに、やっぱり根本的に問題とはされていない。
 母が性から可能な限り遠ざかるのをよしとするのは、エディプス・コンプレックスを除けば、家庭を作って維持するために都合がいいからだが、そのために最も有効なやり方は、父や息子などの男性を家庭から消去してしまうことだ。これは論理的というより、算数の問題である。家庭で、程度の差はあれ、男は居心地の悪さを味わはなければならないのは、そういうわけだったのだ。
 といって純粋な母性がよいとばかりはとうてい言えないことも、ちゃんと描き込まれている。たとえジェンダー・フリーが実現したとしても、愛憎は深く強く人を縛り続けるだろう。ここに解決はないし、解決しようなどと思ってはならない。

 末筆ですが、「愛を乞うひと」を勧めてくださったW.H.さんに、心からお礼申し上げます。

【今回もやっぱり細かいことをつけ加える。「八日目の蝉」の最初のほうに、誘拐実行直後の永作博美が、ホテルの部屋で、泣きやまない赤ん坊の前で途方に暮れるシーンがある。スキム・ミルクは受け付けない。服を脱いで、乳をやろうとするが、もちろん出ない。合間に別のシーンが挿入されるが、前後三分近く長回しで続くこのシーンをどう思うか、うまい表現か、あざとすぎるか、人によって感じ方はまちまちであろう。
 私は、悪くない、と思うほうだが、でも…これやっぱり、乳首を赤ん坊に含ませるべきじゃないか。インナーを着けたままで、乳房に赤ん坊の顔を押しつけて、「出ないわよね」ってつぶやくのって、アリですか? どうしてこうなったの? すぐ後の井上真央のベッド・シーンでは、井上の裸は背中だけを見せる。そういうもんだ、と我々は自然に思い込まされているが、それと連続した流れ? 意味が全然違うでしょ。女の乳房が露になるのは、どういうシチュエーションでもイヤらしいというのは、それこそ男目線なんだから、それへの反逆を志向したこの映画では、それもスッパリ切ってみせてほしかったです】
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