由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その13(幕間狂言、西と東のフーガ 上)

2018年01月31日 | 近現代史
青木繁画 日本武尊 明治39年

メインテキスト:山本博文『格差と序列の日本史』(新潮新書平成28年)

 今回と次回は日本史のおさらいをします。天皇家と東国の関係について、気のついたことをまとめてみました。よく知られていることばかりですが、自分用メモランダムとして。
 最初に東国、と言って具体的な範囲はどこだ、ということになりそうですが、これは現在の関東甲信(越は除く)から東北地方にかけて、でいいと思います。実際の政治の動き以前の、意識を問題にしたいので。

(1)初代神武天皇が奈良の橿原宮で初代天皇に即位して以来千年以上の間、日本の中心地は畿内であった。そのまた中心部は奈良盆地で、大和と呼ばれた【その後大和王朝、つまり朝廷の支配領域が拡大するにつれて、しまいには日本全体を示す名称にもなった】。そこから西のほうは、天皇家の出身が九州であるだけに(かな?)、結構知られていたが、東国は長らく未開の、「化外の地」とされたようだ。
 古代では大王(おおきみ)と呼ばれた天皇自身は東国へ来たことはどれくらいあったろうか。「日本書紀」では第十二代景行天皇は、九州に親征して熊襲(くまそ)を討ったとされている。その後彼らが再び乱を起こすと、今度は皇子を派遣し、熊襲の首領川上のタケルを誅殺する。皇子はこの時殺した首領から「大和にはあなたのような強い方がおられたのですね(敵ながらあっぱれです)」という賛辞とともに名を送られ、以後、ヤマトタケルと呼ばれた。
 大和に凱旋した日本武尊(ヤマトタケルノミコト、「日本書紀」の表記)はただちに東征に向かうよう命令された。「こんなすぐにまた戦いに出よというのは、父君(景行天皇)は私が死ねばよいと思っておられるのでしょうか」などと叔母に愚痴をこぼしてから。これは「古事記」の記載で、「日本書紀」には書いてない。日本武尊が日本史上初の大衆的英雄になったのは、このような女々しいところも伝えられていることも大きいだろう。
 それはそうと、日本武尊は尾張(ほぼ愛知県)から相模(ほぼ静岡県)に至り、そこから海路で上總(千葉県中南部)へ行こうとすると、海が荒れて船を出せなかった。后の弟橘比売(おとたちばなひめ)が自ら海神への生贄となって水中に没したことによって海は凪ぎ、日本武尊一行は無事上總に到着することができた。後に日本武尊が弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度呟いたのが、「東」に「ひがし」以外、「あずま」という訓がついた由縁であるという。
 その後「古事記」には具体的な地名は出てこないのだが、「日本書紀」では一行は上總からさらに海路を北上し、陸奥(ほぼ福島以北)にまで至り、当地の蝦夷をことごとく平定したことになっている。
 一方、父の景行天皇は日本武尊の死後に東国を巡幸、上總にもしばらくいたとされる。これが、公式記録上、孝明天皇以前の天皇の地位にある人が、自ら足を運んだ東の限界だろうと思う。第九十七代後村上天皇は北畠顕家に伴われて奥州多賀城(現在宮城県多賀城市)へ行っているが、これは義良親王だったとき。それ以外には何かあるかな? 私が知らないだけの場合にはご教示ください。

(2)第二十一代雄略天皇は系図上日本武尊の五世孫に当たるが、支那の史書に記されたいわゆる倭の五王のうち最後の武に比定されている。「宋書」に載っている宋の順帝に出した上表文「昔より祖禰(そでい。父祖のこと。異説あり)躬(みづ)から甲冑を擐(つら)ぬき、山川を跋渉(ばっしょう)して寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」は有名である。
 これによれば、この頃(5世紀)は大王自ら日本中の戦場に出ていたのだろう。もっとも、ずっと前に、日本武尊の息子第十四代仲哀天皇の后神功皇后は、後の應神天皇をお腹に宿したまま、日本海を渡って三韓征伐(実際は新羅に勝利しただけだが、他の二国、百済と高句麗も支配下に治めた)へ行っているから、「日本中」なんて軽いもんだとも言えるんだが。それから、昭和43年埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に銘文があり、当地の豪族がワカタケル大王(雄略天皇の名)に仕えていた、と読めるところから、この天皇の実在と、王朝の勢力が関東にまで及んでいたことを証するもの、とされている。

(3)以上からも、蝦夷(えみし。倭王武の上表文中の「毛人」と同じ読みで、こっちは毛深いということでしょう)と呼ばれた人々は、大和王権によって次第に関東から東北、北海道へと逐われていったことはわかる。
 大化の改新直後の、第三十七代齊明(皇極天皇の重祚。天智・天武天皇の母)朝のとき、東北の軍事的平定事業が最も盛んであった。阿倍比羅夫は白村江の戦い(663年)の少し前に、三度(西暦658~660)にわたって蝦夷と粛慎(みしはし、又はあしはし。正体は不明)を討ち、しまいには北海道、樺太まで進攻した。
 それで終ったわけではない。早い時期に平定された九州の熊襲とは違って、蝦夷は最後まで大和朝廷に抵抗した部族だった。桓武朝で征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が、蝦夷の猛将として知られていたアテルイらを降伏させると【田村麻呂は彼らの助命を嘆願したが、京の公卿たちはそれを許さず、処刑したと伝えられる】、大規模な衝突はほぼ止んだ。大和朝廷も、秋田城(現在秋田県秋田市)や田村麻呂が建造した膽澤城(いざわじょう。現岩手県奥州市)あたりを北限として防衛するのみになった。
 もっとも平安時代でも、元慶の乱(878)、天慶の乱(938)があり、鎌倉時代には蝦夷大乱(1268)とも呼ばれる騒擾はあったから、備えは必要だった。組織としては奈良時代に鎮守府が置かれ、南の大宰府と並ぶ重要地方機関とされた。ここの長官が鎮守府将軍で、田村麻呂も任命されたことがあり、当時は武官の最高栄誉職と考えられたようだ。その本拠地は、たいていは、膽澤城より南の多賀城であり、前述したように、蝦夷の脅威など完全になくなった南北朝時代でも、南朝方の北畠親房・顕家父子が東国の拠点とするために赴き、顕家は鎮守府将軍になっている。
 一方征夷大将軍のほうは、何しろ「夷」を「征する」将軍なのだから、実際に戦闘またはその怖れがなければ用なしのはずであった。しかし源頼朝以前で一番有名な田村麻呂は、都に帰ってからも、いわば名誉の称号として拝命していたこともあり、武家全体の棟梁の呼称としては相応しいかな、と思えないこともなかった。他に征東大将軍というのもあり(役目は征夷大将軍と同じ)、木曽義仲はこれになったのだが、義仲以前でも、この官名を負って戦に負けた人もいるので、ゲンが悪いし、云々で、朝廷は征夷大将軍号を源頼朝に与えたのだった。
 さらに因みに、建武の新政時、北条高時の子北条時行が兵を挙げて鎌倉を占拠した時(中先代の乱)、足利尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の称号を願い出たが、許されず、時行追討に出発した後でやっと征東将軍職を与えられた。それもあって関係が悪くなった、というよりは、後醍醐帝と尊氏のギクシャクした関係の、一つの現われと見るべきあろう。とは言え、実体のない名誉職、いや単なる呼称であったとしても、特に天皇から与えられるものは、そんなに軽く考えてはならない、ということの証左ではある。 

(4)大宝律令(701)と養老律令(757)以来、その中の行政法である令によって、日本全土の支配が進められた。それは具体的には、全国に官僚組織を浸透させるということである。かつての豪族の支配は否定され、朝廷によって任官された四年任期の国司【守(かみ)、介(すけ)、擾(じょう)、目(さかん)の四等級があり、一人で来る時も複数の時もあった】が全国に派遣されて、地方を統治した。
 奈良朝から平安朝へと、公式には死刑もほとんど行われない平穏な時代が続き、国中が発展したろう。が、地域差は残る。少なくとも意識において、都で艶麗優美な文化が花開けば開くほど、鄙びた田舎との懸隔は大きくなったように感じられる。世界中どこでもそんなものだろうが、日本の、特に宮廷人が東に注ぐ視線には特にそれが強いようだ。必ずしも蔑む、というだけではなく、西洋のオリエンタリズムに似たある種新奇な興趣が持たれることもあったろうが、それをも含めて、東国とは、「異界」では言い過ぎでも、「外部」ではあった。このへんはもっと精緻な研究が必要なところだろうが、今は素人の強みを発揮してあっさり言っておく。
 この意識は、万葉集の巻十四が「東歌」で占められているところに一番端的に現れている。「西歌」はないのに、だ。それ以上に、これまたよく知られているように、巻二十に天平勝宝七年(755) のものとして収められている八十四首の「防人歌」は、すべて東国人によって詠まれたものである。これは大伴家持がはるばる九州まで徴兵されて来た(しかもアゴアシ自前、税の免除などの特典もなし)東国人に同情して書かせたからだ。それにつけても、北九州沿岸を警備するのに、なぜわざわざ一番遠くから呼び寄せる? という疑問が湧いてくるだろう。東北では蝦夷の脅威がまだあったというのに。【大宰府は、白村江の敗戦後、唐・新羅連合軍が進攻してくるのに備えたものだ。】これには諸説あるが、東国人は強靭であって、戦に向いている、という一般認識は確実にあったようだ。
 それに、蝦夷や大陸からの帰化人との人種混交も、他所よりは盛んだったろう。平安期に書かれた「將門記」にも、東国全体を「夷」と表現したところがあり、都人(みやこびと)から見たらそこは、「身をえう(用)なきものに思ひなし」(伊勢物語)た者が赴くのに相応しい場であった。

(5)武家の発生にはよくわからないところがある。蝦夷のうち朝廷に服属した者たちは、「俘囚」と呼ばれ、たいていは戦士になったようだ。前記元慶の乱は、俘囚が圧政に抗して反乱を起こし、秋田城を襲ったものと考えられている。
 また、白村江の戦いの結果、日本と連合して滅亡した百済からの移民が二万人以上入植した。彼らが東国に精強な武器の製造法や乗馬技術を伝えた可能性はあり(森田悌『古代東国と大和政権』新人物往来社平成4年)、これも戦闘技術の発展には大きな要素だったに違いない。
 一番外側の状況としては、律令制の根幹は、土地人民をすべて天皇に属するものとする公地公民制なのに、施行後ほとんど直ちに綻び出して、名目化したところにある。貴族や寺社はそれぞれ荘園を持ち、そこは実質的に私有地であった。
 そんな場所に、国から派遣された首長として国司がやってくる。しかし、上位の公家達は「夷」である田舎へは行きたがらない。都に居座ったまま土地からの収益だけを受け取る。明治時代の不在地主の元祖みたいなもので、これは遙任と呼ばれた。対して、遙任の代理として、を含めて、実際に任地に行く者が受領。まんざら、いやいやでもなかった。国司であればその地の徴税を含む一切の司法行政軍事実務を任されているのだから、時々監査(勘解由使)はあっても、私腹を肥やす機会はいくらもあった。これまた古今東西を問わずざらに見られる傾向であろう。
 日本の場合一番問題なのは、新旧様々な勢力が未整理のまま乱立しがちになるところ。律令前の蘇我氏、物部氏、大伴氏などの大豪族はこの時までに滅亡もしくは衰微していたが、地方の小豪族はおり、郡司として、国(国家ではなく、「武蔵国」などの国ですよ。為念)の下の行政単位である郡を統率したのはたいてい彼らだった。そこに、都で「用なき者」になった連中が入ってき、国司で来て任期が過ぎても都に帰らないで土着化する場合もあり、新たに豪族化する。彼らの財産は開墾【743年の新田墾田永年私財法で、私有がOKとなった】やら従来の土地を売買したもので、公式な警察機関(追捕使)は地方ほどあてにならないので、自分の身と財産を守るためには自前の暴力装置を用意するしかなかった。正式な官人である国司だって似たようなものだから、戦闘専門集団の需要はあったということである。
 一方の供給側はというと、特に桓武朝で、北でも南でも大規模な戦闘はほぼ終わったとみなされたので、軍縮が実施され、リストラされた兵士に、戦いが好きで得意な者が新たに加わって、武官ではない、武士が出現したのであろう。
 より重要なのは、個々の武士をまとめあげて、武士団とし、さらには国家の重要な身分層にまでした存在である。それは、天皇を祖とする源氏と平氏だった。
 すべてではない。天皇の子孫で王、江戸期からの名称だと宮家、にならなかった者はたいてい、源姓を賜って臣下に降りた。【平姓は四例。よくわからないが、源氏が多くなりすぎて、区別する必要があった時に使われたような感じだ。】最初は第五十二代嵯峨天皇の時、二十三人いた皇子のうち皇太子と四人の親王を残してあとはすべて源氏になった。一方、第五十代桓武天皇の曾孫・高望王が平高望となり、そのまた孫が平將門。
 と、いろいろある中で、源氏といえば清和源氏(第五十六代清和天皇の孫・源経基が元祖)、平氏と言えば前出桓武平氏のみが圧倒的に有力で、天下人まで出しているのは、そこに属する何人かが、個人的な武芸も武家の頭領としての統率力も際だっていたからだ。源頼光、八幡太郎義家、鎮西八郎爲朝、などは、今でもよく知られている清和源氏一統の英雄である。彼らを慕って多くの武士が集まり、いわゆる家人や郎党となった。それはわかりやすい話だが、その上で、この家臣団の凝集力として、高貴な血筋というブランドはどれくらいの力があったろうか? 正確には測りがたいが、なんの関係もなかったはずはない。ただ強いだけの者は、どうしても限界がある。もっとも、ただ家柄がいいだけの者は、限界以前に全く問題にされないのだがね。

(6)一代の叛逆児平將門の場合、まず身内同士の争いで頭角を現した。その段階では朝廷は無関心だった。
 グレーゾーンに入ったのは、武蔵国(ほぼ東京都)の新国司として興世王(おきよおう)と源経基が来てから。彼らが当地の郡司と揉めごとを起したのを、ちょっと江戸時代以降のやくざみたいな、土地の顔役となった將門が仲裁役を買って出た。その最中、郡司の兵が基経の宿を取り囲んだとかなんとかで、経基が慌てて京へ逃げ帰る事件が起きた。この人こそ頼光らのご先祖なのに、なんだかなあ、という気もするが、事の真相はよくわからない。将門には、国府の上役人への叛逆=国家への叛逆の嫌疑がかかったものの、ちょうど恩赦があったりして、うまく逃れることができた。
 踏み外しの第一歩は、常陸国(ほぼ茨城県)で、国司に逆らって、逃げて、泣きついてきた者をかばい、かえって国司を追い出したところから始まる。頼られては放っておけない、という感じのところ、いよいよヤクザの親分に似ている。しかしこれはもう、れっきとした叛乱である。
 興世王は、王というからには皇族なのだろうが、どの天皇の? と言われるとわからない、怪しい人物だが、新たに武蔵へやってきた上司の守とソリが合わず、將門のところへ転がり込んでいた。やっぱり、親分なんだなあ。この興世王の曰く、「常陸一国を取っただけでも咎められるに決まってる。それならいっそ、坂東を全部取って、様子を見ようじゃないか」。
 彼の進言を容れて、兵を動かすと、將門の威勢を恐れた関東各国の国司は、戦わずして逃げ去った。絶調期を迎えた將門は、さらに、神懸かりになった怪しい巫女が、「八幡大菩薩(應神天皇の化身とされた)の使ひ」を名乗り、「朕の位をお授けいたす」と宣告するのを聞いて、「新皇」を号し、勝手に除目(執政官を任命すること。具体的には、逃げちゃったので空いた国司の席に自分の周囲の者をつけた)を行った。これにも興世王の悪知恵が入っていたことだろうが、それにしても、自ら「皇」を名乗った人は、日本では後にも先にも唯一であろう。たぶん、皇室を排するまでのつもりはなく、狙うは関東の独立というところ、いやそれだけでも充分に凄い野心だ。
 そういうことが多少とも可能に見えたのは、武士団だけではなく、民衆の支持もあったからだろう。何しろ国司と言えば、私腹を肥やすことしか考えていないのが一般なのだから、好かれるはずはない。やっつけられていい気味だと思えたろう。
 さらにその底には、化外の民として長年差別されてきたことへの怨念もあったろうと思う。「外部」と見られた者からの視線が、「内部」を見返したのである。しかしそれが具体的な形をとるためには、桓武天皇の五世孫という肩書が力を発揮した。西の雅の中心は天皇なのに、妙な具合に働いたのである。おかげで、このとき、ある意味では現在まで続く、日本列島の東西対立が、現出してきたのだと思う。
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